今回からやるやる詐欺になっていた柔道の話です。
*
広瀬武夫と言えば…何でしょう。
閉塞作戦とか、軍神とか、ロシアとか(ジェラシーからアリアズナとは言わない。笑)。
その中に柔道も含まれる。
広瀬の趣味のひとつが柔道であったことはよく知られています。
でもその実態は『知られている』というだけで、趣味だった、嘉納治五郎に愛された、海軍に柔道を導入するのに尽力したという表面に止まっていて、広瀬の柔道について真面目に調べた人はこれまでいないようです。
広瀬を調べていくのに柔道はたしかに本筋ではないので、仕方ないかと。
先に謝っておきますと、大変申し訳ないんですが私、柔道に興味がなくてルールとかも全然分かりませぬorz
どれだけ広瀬が興奮して「頑張ったんです、凄かったんです」と手紙を書いていても、「へー…(※あまり話聞いてない)」になってしまう(^^ゞ
ですので、広瀬の柔道といっても、彼がどういう柔道を取っていたか、文字通り『広瀬の柔道』ではなくて
『広瀬と柔道』、どういう関わり方をしていたのか、そこに重点を置きたいと思います。
と言っても、広瀬の柔道仲間の証言からすると、広瀬の柔道は力技だったようです。
技で以てどうこうする、と言うのでは無くて、力で押し切るような柔道だったらしい。
広瀬の親友財部彪(同期)も海軍への柔道導入に尽力したひとりですが、この彼も
湯浅竹次郎に投げられた時はなるほどと思うが、広瀬に負けた時は納得できない事があった
なんて言っている。
他にも「広瀬の柔道は痛くて辟易した」なんて証言も(笑)
柔よく剛を制す という柔道の言葉がありますがこの対になる言葉が、剛よく柔を断つ。
元は「柔よく剛を制し、剛よく柔を断つ」。
広瀬は断然後者だなと思い、題を『剛能断柔』にしてみました。
すでにサイトには載っている話です。
もしかしたら既読の方も居られるかもしれませんが、ひとつよろしこ!(言い逃げ
というか飽きたら途中で止めるかもしれないという…(笑
とりあえず3つのテーマを順次扱います。
1)広瀬の柔道開始時期
2)海軍と柔道
3)ロシアでの柔道
※
真面目に柔道関連のことを調べている人がいないと書きましたが、それがどれほどのものかといいますと…
ぶっちゃけ広瀬がいつ柔道を始めたのかも分からないという状態です。笑
とはいえ『広瀬武夫全集』の年表には以下のような記述があります。
明治16年10月
父の許しを得て上京、山縣小太郎の家に奇寓。その勧めで下谷の講道館に入門する
これは何なんだと。
実は、これには元ネタがありましてそれが『軍神広瀬中佐詳伝』。
これに上京後すぐに講道館に入門して柔道を始めたという記述がある。
『詳伝』は明治38年という広瀬の死の翌年に出た伝記で、戦前戦後を通じて広瀬の伝記/小説を書く際には必携になっている資料です。
広瀬に関してはこの本から派生している話が多い。
そのため、ここを押さえておけば、広瀬に関しては大体の情報が手に入る。
大変ありがたいんですが、『詳伝』が間違うと後も間違うという読み手泣かせな欠点もあります。
で、その『詳伝』の一節。
明治16年上京攻玉社に入学し、かたはら山縣師の許に寄寓して、日夕そが薫陶を受けて居つた。
この頃から、そろゝゝ柔道をはじめた。
然して、その端緒とでも云ふべきものは、嘉納先生の姉婿南郷氏は、師と交り善し、
そこで師よりの紹介を得て、塾生にならうと考へて、いろゝゝと願うた。
ところが、師曰く、「独り行け!」と、中佐は別に□に抗言も何んにもしない、
仰のまゝ独往邁進といふ風で、自分一人で紹介状も案内者もなく、入塾の手続などもすまし、
先生にも面謁いたし、入塾の目的将来の決心などを訪はれ、めでたくそが門下となつた。
なるほど。
山縣と交流がある南郷が嘉納治五郎の姉婿である。
そのツテを使って紹介してもらおうと。
それを師に「アホかひとりで行け(関西風)」と言われ、口答えもできずにひとりで入門しに行ったと。
それが明治16年の話であると。
山縣師、山縣小太郎は何度か紹介していますが、広瀬の父重武の盟友です。
広瀬兄弟も広瀬父も、上京した際は山縣宅に世話になっている。
山縣は若い頃に岡藩を出奔、各地を遍歴した後京都に出、中岡慎太郎の陸援隊に参加しています。
中岡に近い土佐系志士とは特に関係が深く…というか、関係が深かった志士が中岡と仲良かったんですな。田中光顕とか、主に公卿に近かった人々です。
そんな感じですのでもしかしたら坂本龍馬とも面識があったかもしれません。
戊辰戦争では中村半次郎(桐野利秋)と共に、会津の鶴ヶ城降服の際の官軍代表にもなった。
維新後は新政府に出仕しておりまして、明治9年から11年程海軍に奉職しています。
(山育ちの広瀬兄弟が海軍に行ったのは、山縣の影響大かと踏んでいます)
「嘉納先生の姉婿南郷氏」とありますが、この方、南郷茂光(もちてる)といって海軍さんなんです。
そしてこの子供が南郷次郎といって、この人も海軍さん。
さらに広瀬の柔道仲間でもあり、二代目の講道館長になっています。
なるほど、そういう関係か、納得!
そう思いまして、特段疑う話でもないし、私も初めは広瀬が柔道を始めたのは、
明治16年、上京後すぐ だったのだと思っていました。
ただこれには問題がありまして…
広瀬側から見た柔道開始時期にかかる既述って、これしかないんです。
資料批判が出来ない。まあ仕方ないかと思っていたんですが、ところが、ですよ!
嘉納治五郎について調べると、
広瀬武夫の講道館入門は明治20年11月13日 とあるんです。
まず小説でその表記を見つけまして、何やとー!と。
いくらなんでも4年は間が空き過ぎです。
取り敢えずその小説の参考文献、調べまくりました。笑
で、見ると講道館が編んだ(ここがポイント)嘉納の伝記にも同じ記述がある。
これはおかしい。絶対に元になる史料がある筈。
そしてついに見つけたのが講道館入門者名簿。
まて次号!(こら)

いつも拍手、ランクリありがとうございます。更新の励みになります!
ブログで桐野の名前を久々に書いたなー(^^
桐野とか!
名前見ると広瀬とはまた違う意味でキュンキュンします。いやマジで(笑)
というか今桐野の話考えてるから余計だよ!
この人に関しては思いっきり力一杯全力で自分の夢を詰め込みたくなる(爆笑)
なんであんなにカッコいいんだ桐野意味が分からん大好きだ(どさくさに紛れて告白)
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すご〜くうろ覚えですが、講道館の入門当初は、通いと住み込みがあったような気がしたんですが…
勿論、軍人は通いと住み込みの中間というか、特別扱いみたいなのがあったような…
痛い柔道…足払いをバンバンやるとか、体重をかけて投げるとか…だったら、鬼ですよ彼氏…
ちょっとうろ覚えですが…住み込みと言うのは講道館では無く嘉納塾(嘉納の私塾)の方ではないですかね?
流石に働いている社会人が住み込みというのは大変そう…
『取口は寧ろ手際のよい方では無く、強力で敵を無理にでも押し圧すといふ方であった』
というのが講道館の四天王富田常次郎の広瀬の柔道評です。…相手は大変そうですね(笑)
うろ覚えばかりですいません。
柔道経験者からいうと、広瀬の柔道は…
いわゆる相手にしたくない、無駄に疲れさせられる柔道みたいですね
私も広瀬に関係するところや自分の関心のあるところ以外は殆ど読み飛ばして居るので…
また関係書籍を借りる機会があったら見てみますね
先日コメントさせて頂いた丸義と申します。
正月に、浅草からブラブラ歩いて上野まで行く途中、講道館発祥の地・永昌寺にぶつかりました。
広瀬は、永昌寺へ通ってた事はないんでしょうか…?
広瀬の柔道は、力技でグイグイ押しまくる感じだったんですね!
何か、対戦相手は至る所に擦り傷が出来てそうです(特に、襟首辺り)。
そういえば、ヒジハラ様の地元が西宮なんですね!
「歴史の小旅」を少し読ませて頂いたのですが…
そのとき、六英堂に関する箇所で知りました。
(私は昨夏まで芦屋に住んでました)
えべっさん、めっちゃ身近なのに、六英堂に行かなかった事を悔やみまくってます(泣)。
中岡とか田中光顕の事も触れたいですけど、
クドくなるので、またの機会にします(^^;
長文失礼致しました。
先ほどサイトを読ませて頂き自己解決しました。
有難う御座います。勉強になりました。
講道館が永昌寺にあった時は、広瀬は講道館の存在も知らなかったと思います(笑)
そうなんです。宮っこなんです。
えべっさんはよく行く所なのですがまさかあんな所に。
限定公開されているのもネットで偶然知って色々とショックでした(^^;
お茶会などで使われているようですよ。
http://my.ameba.jp/menu.do
http://yaplog.jp/groundstlork/
http://twitr.jp/user/blockermachine4
〔或る冬の日、花園院に心惹かれる 臨川寺領地〕
http://d.hatena.ne.jp/naozari/mobile?date=20110210
〔真日本建国 伯家神道の予言 2012年のシンクロ〕
http://jinga123.blog118.fc2.com/blog-entry-34.html
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