後三年の役、金沢柵包囲網の話が続いています。
は、やっと終わりが見えてきました…
攻めるは陸奥守源義家、藤原清衡(当時清原姓)の連合軍。
金沢柵にて迎えうつは清衡の弟、清原家衡を頭とする清原一族。
力攻めで柵を陥落させる事を諦めた義家は、兵糧攻めへと戦略を転換します。
で、取り囲んだ所で

家衡の乳母(もしくは乳母子)の千任にこういう事を言われてしまった。
義家としては痛い所を突かれ、
もし千任をいけどりにしたらむものあらば、かれがために命をすてん。ちりあくたよりもかろからむ。
部下への命令は、「生捕りにせよ」、ですが…おー…怒っとるなー……
こいつは許せんと義家は怒りに打ち震える訳ですが、やがて機会が巡ってきます。
義家方らから言えば兵糧攻め、家衡方から言うと籠城戦な訳です。
籠城戦が成り立つのは援軍がある時だけだろJK…いやすいません。ハイ。
籠城戦が成り立つのは援軍がある時のみというのは常識です。(最初からそう言え)
では家衡に援軍があったのかというと、なかったんですね。
というか、兵糧攻めって日本史上ではこれが一番初めだとされているので、当時そういう思考があったかどうか。
何と言いますか…すぐ後に義光の話も出てきますが結構素朴な所があるんですよね、この時代。
でも常識的に考えてたら分かりそうだよなあ…
中立者もいたと思うのですが、清原一族は家衡方か、吉彦秀武のように義家方についている。
恐らく援軍など頼むべくもなかったかと思います。
籠城(?)している中には兵士たちの他女子供もおり、その分だけ早く食糧は減っていく。
勿論敵軍に包囲されていますので補充はできず、もうこれではどうしようもありません。
先が見えたか、ここで清衡・家衡の叔父清原武衡が投降したいという旨を副将源義光に伝えてくる。
武衡は家衡に沼柵から金沢柵に移ろうと進言した人物。
(武衡:一番左)
「申し開きをしたいので、どうか柵内に来て欲しい」
そうした旨を懇ろに申し伝えて来たのを見て、義光は柵に向かう気になった。
……。(;゜Д゜)?え?
…と思うのはきっと私だけではない筈…(笑)
そらー同じ事を八幡太郎義家も思い、
お前はアホかと。呼ばれて敵陣に向かう副将がどこにおんねんと。
捕まったらどうすんねやと。お前はアホかと。(2回目)
断固拒否。
勿論降伏も受け入れない。
まーあんな事を千任に言わせといて今更何を、という気持ちもあったかと思います。
似たような事が柵陥落後にも起こるのですが、義光は義家と比べると甘いんですよ。
義光は義家の6歳下。
年齢から考えて前九年の役には参加していないと思います。
一方の義家は父の陸奥国下向に12歳でついてきて24・5歳まで滞在し、一度はあわや戦死しかけた経験を持っている。
戦や敵に対する認識はシビアです。
義家と義光の違いは恐らく戦場における経験値の差でしょう。
武衡は義光が来られないのならせめて使いを送ってくれと頼み、遣わされた武将によしなにとりなしを頼むのですが、それも梨のつぶて。
この頃、季節は秋を過ぎ冬を迎えようとしていました。
旧暦の10月から11月ごろの話かと思います。ということは今の11〜12月頃の話。
冬ですよ。
横手の冬。豪雪地帯の冬。この戦、今年の冬1.8m降雪した地域で起こってるんです。
いやー甦ります、沼柵の惨状が。
敵と干戈を交える事もなく、冬将軍と食糧不足に敗れた戦が。
とはいえ今回は沼柵の時とは事情が違います。
金沢柵も同様に飢餓状態に追い込まれていました。
もうこれは堪らんということで、女子供らが柵から逃げ出すようになった。
非戦闘員ですから源氏方も道を開けて逃してやっていたんですが、それを知るや我も我もとなるのは当然のことで…
これを見た吉彦秀武がまたもや義家に進言します。
「皆殺しにせよ」
逃げた人間が殺されるのを見れば、柵から出て来なくなる。
そうすればそれだけ食糧の減りは早くなり、柵が干上がるのも早くなる。
ぐずぐずしてはおれません、降雪が近いのです。
それを言われてしまうとね…
吉彦の進言通り、柵から出て来た者を皆殺しにすると逃げ出す人間はいなくなった。
もうこうなると金沢柵内は地獄ですな。
義家に近侍している武士の中には、藤原資道という13歳の若者がいました。
ある夜半、資道は義家に起こされます。
そして曰く、
「資道、金沢柵は今夜陥ちるぞ。仮屋を壊して火を起こし、凍えた手を温めておくよう兵に伝えよ」
なんだろうと思いますよね、いきなりそんな事を言われても。
でも武神の言う事だから。
兵士たちは訝しがりながらも自分達が寄宿していた小屋を焼き払って暖を取り、いつでも動けるように体を温めて待機。
そうして夜明けを待っていたら、金沢柵からは最早これまでと火の手が上がった。
八幡太郎SUGEEE!(笑)
柵内からは籠城していた人々が脱出してきますが、それを手にかけ、また開いた門から殺到した義家軍が柵内にいた人間を手にかける。
『奥州後三年記』には「にぐる者は千万が一人也」とありますが、皆殺しに近い状態だったのではないでしょうか…
そんな中、家衡方の武将たちが捕まっていきます。

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