先日、広瀬武夫と関係のあるとある海軍さんのご子孫様よりコンタクトを頂きまして、今ならその人物のお孫さまがおられるので何か聞きたい事があるかと。
ぎゃあああ!ありがとうございます!凄すぎる!
こちらからは広瀬のデータなどを作る際に生じたいくつかの疑問を既に提示させて頂いているのですが、他にもあればどうぞとの事で、その御親切に涙が出そうです…
ちょっとトレースして思い出さないと。
近代は近い時代ですね。だから近代だけど。笑。
こういうお声をかけて頂くと余計にそう思いますし、本当に驚きます。
うちの祖父はふたりとも陸軍で、海軍さんには縁も所縁もなかったので余計に。
私の場合小説で見る名前は本当に『歴史上の人物』なんですよね。動いて話す山本五十六を知っているとか、御子さんとか。びっくりする。
近代の場合は、広瀬ばかりを扱うページの存在が功を奏しているのか、○○の子孫ですが、というお声をかけて頂く事がちょくちょくあります。
メールのやり取りから教えて頂く事も非常に多くて、却って私が物知らずで恥ずかしい…
今までで一番興奮したのは広瀬の友人、同期15期のご子孫様から頂いた写真です。

日露戦争出征前、軍艦盤手で撮影された15期の集合写真。これは恐らくまだどの書籍にも載っていない筈。
見た事のない広瀬の写真、まだまだたくさんあるんだろうと思うんですよ。
戦前の書籍を見る際に一番期待しているのがこの見た事のない写真の発掘だったりします。笑。
友人の尼野源二郎と一緒に移っている写真とか、見つけた時思わず声が出ました。
これ
これも戦後の出版物には掲載されていない筈です。
というか広瀬との関係でも尼野の名前あまり出て来ないもんね。晩年の書簡関連で名前がちょこっと出て来るだけですか。
尼野は関西にゆかりがある人でして、奈良の十津川出身。
そこから大阪に養子に出て、道頓堀五座のうち弁天座を継いでいます。
明治後期〜大正期にかけての関西では有名なホテル実業家でして(当時)、そのホテルが今の中之島、現在の東洋陶磁美術館の辺りにありました。
おー!リバーサイド!
広瀬と知り合ったのは柔道が切欠ですが、講道館柔道と言うだけあって、この方も海軍に知り合いが多い。
第1次世界大戦時には青島でドイツのホテルを買収するなどもしていたようで、陸軍軍人にも繋がりがあったり。
中々顔の広い人だったようです。
また春先に紹介しました、造幣局の目の前にある泉布観に住んでいた事もあります。
そんなこんなで広瀬が大阪に来た際は尼野の所に泊っていたのかと思っていたのですが、彼は竹の屋という旅館を定宿にしていたそうです。
住所を調べてみると靭公園の近く。
なんというか…当時そんなに交通の便は良くない所だったのではないかと思うんですが…
まあ確かに道頓堀に出るよりは近いのか。
しかし当時の人は写真が好きですね。
何かある度に記念撮影をして、周囲に配っている。
広瀬にしても、日露戦争前から義姉の春江さんに「写真を○枚焼増しして、どこどこに送って下さい」という事を頼んでいる。
同じフネに載る後輩(※広瀬ファン。笑)に「写真下さい」とせがまれたり。
写真を贈ったり交換したりというのは、当時は割と一般的に行われていたようです。
そのお陰で全集や伝記や日露戦争実記で見る物以外(広瀬家から出て来たもの以外)の写真も見られるという寸法です ^^
写真でこれは凄いと思うのは、田中義一と斎藤実の伝記。
ふたりとも昭和初期の首相経験者になります。
田中は張作霖爆殺事件で昭和天皇の信任を失って辞職、斎藤は2・26事件の際青年将校に殺害された人物ですが、日露戦争の時にも名前が出てきますな。
田中は満州軍総司令部の作戦参謀として、斎藤は…あー…海軍次官か。
軍政方面だから戦争ではあまり名前は出て来ない?^^;
田中は、広瀬武夫繋がりで言うとロシア滞在時の同僚になります。
日露協商を結びたいとロシアに足を運んだ伊藤博文に「それは無理です」と言い張り、喧嘩になったという話は、このブログでも1・2度触れました。
それが災いしてか、田中はその後に帰国することになる。
広瀬とはロシアの滞在期間がほぼ同じでして、一緒にバレエダンサーにダンスを教えてもらったりもしています。
柔道で腰が固まっていて上手くいかず、女性ダンサーに竹のムチで しばかれた 叩かれたなんて話を残しているのも田中。笑。
広瀬と田中は結構気のいい仲間同士であったようですな。
斎藤の方は伝記の中に写真がぽこぽこ入っているのですが、田中の方は伝記に別冊で写真集が付いています。
伝記に織り込むのでは無くて、別冊を編集する程の写真の数(笑)
あの人やこの人から贈られた数々の写真が掲載されていてこれが面白いんだ…
でも爆笑したのは斎藤の水着姿だったりするんだな、これが。
こちらは何気ないショットが多くて、それがお気に入りだったりします。
仁川のプールにて。朝鮮総督時代ではなかろうか。見事な太鼓腹。

身長167cm、体重は一番重い時で75キロ程あったと言いますから、まーMETABO!!笑。
奥さんの話によると太り始めたのは40代からですが、若い頃は寧ろ華奢で痩せていた。
それを気にしていたんですかね。
太りたくてアメリカに駐在していた頃(20代)にビール会社と契約して毎日ビールを配達させていたんですが、下宿の大家曰く
「毎日ビール会社の馬車が停まるなんて、外聞が悪い」
それで止めたそうで。
お酒も好きだし甘いものも好きだしデスクワークがメインだし、それで太ったのではないかなあ…^^ゞ

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先日書いていたグーグルのインスタント検索、解除できました…!
私の場合自分のIDでログインしてからでないと解除できなかった。なんてメンドクサイorz グーグルはシンプルが売りだったのにねえ。
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うちのじいさんも、どっかの工場で働いてて、終戦で解散になって、現物支給の退職金をもらったとか、後で、飛行機か船の部品を作ってたと知ったとか…
物心つく前に死んだのが悔やまれます…
それにしてもこの腹…(苦笑)
もう少しちゃんと話を聞いておけばって。
私には調べる手段がほぼ本しかありませんので、話を聞く?と言われると余計に吃驚するんです。
それにしても斎藤のメタボ具合…(笑)