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 もののふの 矢橋の船は速けれど 急がば回れ 瀬田の長橋
 

残心、平泉へ10

2011-06-19 | ヒストリ:平安の風

そして舞台は金沢柵へ。
金沢柵擬定地は沼柵と同様に秋田県横手市にあります。



現在は史跡公園になっていて、金沢公園、後三年の役金沢資料館、平安の風わたる公園が作られている。
このブログの平安カテゴリ(平安の風)の名前はこちらから頂きました。笑。 
辺りの風景はこんな感じ。まあ正確には平安の風わたる公園からの写真です。
柵跡はもう少し離れた金沢公園の方です。(時間がなくて行けなかった)
 
 (西沼)
 
うん…98年…(笑)
当時頂いたパンフレットによると(今も大して変わってないだろう)、金沢柵の中心は麓から91mの高さがあり、四面断崖絶壁の天然の要害。全山に多くの段丘を作り、峰毎に塹壕を掘り、シャガを植え防衛していたとのこと。
うーん…高さ91m?んん…?と思わない事もないですが、規模の大きな、かなり堅牢な城柵であったことには変わりないようです。
金沢柵跡から沼柵跡を一望できるので(写真で見たことある)、まあ結構高さもあったんじゃなかろうか。
  

 
堅固過ぎて、陸奥守源義家と藤原清衡(当時清原姓)は攻めあぐねる事になります。
 
沼柵での敗退後、彼ら連合軍は再度戦の準備を始める。
で、出陣になったのが9月です。oh…当時は太陰暦ですから今の10月中旬頃になりますか。
負けたばかりなのに何でまた冬の入り口から戦を始めようとする(笑)
まあ、分からんでもないんですよ。
この敗戦は都にも伝わっていまして、朝廷では義家の次弟、義綱の派遣が議の俎上に上っている。
朝廷は義家の清原氏の内訌への介入を、初めから『勢力拡大/扶植のための私戦』と疑っているんです。
自分の勢力拡大のために勝手に戦争に介入したと。
そう考えている中で朝廷から人間を送るという目論見は義家の支援ではなかったでしょう。
事態収束のための派遣、または内情調査だったかと思われます。
  
義家には弟が3人おりまして、次弟が義綱、その次が義光、その下が快誉。
快誉については僧籍であったという事くらいしか分からないようです。
上3人は同父母兄弟で歳も近い。義綱とは3つ、義光とは6つ違い。
それだけに仲のいい兄弟だったという話もあるのですが、まあ、その辺りはどうかなあ…子供のころはとにかく。

当時、義家は武士として大きな勢力を持って来ております。
元々義家らの武門系源氏は「摂関家の走狗」と言われていて、それまでの特権階級からすると義家の台頭はやはり面白くないし、何よりも脅威でした。 
この力を殺ごうという動きは当然ある訳で、その当て馬とされたのが弟の義綱になります。
で、この東北への赴任時、つまり義家が都にいない間に義綱が勢力を伸ばして来ている。しかも兄に協力しようという姿勢も見せない。
そういう流れがあっての義綱の抜擢と思うと、まあ…
実際には義綱の派遣は沙汰やみになるのですが、あれこれの経緯を考え、また陸奥守の残りの任期を考えて、八幡太郎には焦りがあったのかもしれませんねえ。
どうだろう。

義綱は来なかったけれど、もうひとりの弟、義光はやってきた。
源義光、新羅三郎義光と言えばピンとくる方も多いと思います。武田信玄の甲斐武田や秋田の佐竹氏の祖になっているのがこの義光。
義光は当時兵衛尉(ひょうえのじょう)でしたが、この官職を擲って苦戦している長兄を助ける為に都から出羽へと馳せ参じます。
義家は
「三郎が来てくれたなら、家衡武衡の首など掌中にあるようなものだ」
と、その心をとても喜んだ。


 
この100年程後の話、平泉からやってきた源義経が兄頼朝に兄弟の名乗りをする場面がありますが(黄瀬川の陣)、その際、頼朝はこの先祖の佳例をひいて義経の参陣を涙を流して喜んだというエピソードが残っている。
安田靭彦がこの場面を描いてますね。私とても好きなんです。安田の黄瀬川の陣。
この義光が馳せ参じた話は後三年の役を彩る有名な逸話なので、ご存じの方も多いかと思います。
「兄のために一身を顧みず」という兄弟愛を説いた美談としてもよく知られているものです。
 
義光は出羽に下向する際、朝廷に暇乞いをするも許可されず、それで自ら官を辞したと言われるのですが、
実際には暇乞いをせず、仕事をほっぽり出して出羽に下向している。それで罷免されてるんですよね^^ゞ
で、出羽に到着したのが戦の始まる前というタイムリーさに、これは不意の救援ではなかったでは?
義光がやって来るのを待って義家は9月に戦を始めたのでは?という研究者もいます。義家自身が義光に下向を打診していた可能性だってある。

それにしても義光はなんでそこまで強引に下向したかっちゅう話ですよね。
兄のためにという事だけではなかった事は確かです。
まあなんというか、京都にいても芽がでないんですよ。残念ながら。
義家と義綱がいて頭押さえられてる状態。
 
この義光は後年、自分が河内源氏の棟梁にならんが為に、
義家が次期棟梁として指名した子を暗殺し、その犯人を次兄義綱だとして冤罪にかけ結果的に一族を皆殺しにした。
美点も伝わっている人物ですが、どうもなあ。
随分野心家だったのではないですかね。
奥州への下向は、自分自身の勢力扶植のためという打算もあったと思います。 

そんなこんなでメンバーをそろえて始まったのが金沢柵攻防戦。 
 
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>まゆみさん (反転して下さい)
清衡ラバーでいらっしゃいますか!いいですよね、清衡。私はドラマ放送の5年後に原作を読んで嵌りました^^ ドラマになると関連書籍がすごいですよね。私も当時の雑誌や書籍を古書店などで沢山買い込みました(笑)創作もお読み頂いているようでありがとうございます!最近ちょっと離れていますが、ぼちぼち考えていきますので、気長にお付き合いくださいませ。コメントありがとうございましたv

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後三年の役 新羅三郎義光
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