詩人 自由エッセー

月1回原則として第3土曜日に、隔月で二人の詩人に各6回、全12回の年間連載です。

第1回 批評がすべて、ボブ調になってしまう件―—拝啓 竹宮惠子様 駒ヶ嶺 朋乎(第1回)

2017-04-15 00:43:28 | 日記
 竹宮惠子作品に出会ったのは17歳の時だった。それより若いうちに出会わなくてよかった、と当時友人達に吹聴していたものだ。詩の専門誌に投稿したり、コミケでオフセット印刷の詩集を販売したり“本格的に”詩人として活動していると自負していたのであるが、それより若いうちに出会っていたら何らかの大きな変化が人生にもたらされ、永続的に別の人生を歩むことになっただろう、と想像し、安堵したのだった。しかしそれから23年が経った現在、17歳、やはりまだ出会うには充分に若かったなと。要するに、竹宮惠子作品は私の文筆に影響を与え続けている。
 最も大きな影響は、批評がすべて、ホルバート・メチェック調になってしまうことだ。ホルバート・メチェック氏(愛称ボブ)とは、『変奏曲』(Wikiによると1974-1985年に断続的に発表、後に増山のりえ氏原作と明かされた作品、出版社いろいろ、私が持っているのは1977年初版・朝日ソノラマ、ということは完全版ではない!残りが読みたい)に登場する新進気鋭の音楽批評家(おん年23歳)で、主人公2人の若き演奏家、作曲家達を見守り、支援し、教育し、愛する、少し大人な登場人物である。主人公の少年2人のうちのエドアルド・ソルティー(エドナン)との恋があったり、スピンオフ作品では主役になったり、リアルタイムの連載中にも愛されたんだろうなと思うのだが、この方の文章が、姿勢が、頭から離れないのだ。
 記憶のまま引用しよう。「おもしろいことに彼にはいっぺんの音楽経験もないという。すべて独学といってのけるあたりに、みるべきものがあるだろう。そのとぎすまされた音には少々ヒステリックの感が、ないでもない、が、でたらめの奏法であれだけの音を出し、その場を圧倒してしまったおそるべき力量に感銘を受けたのも事実である」(いま実家から取り寄せて、くだんの箇所を確認してみたら、実際の言い回しはもっとかっこいい。「奏法」でなく「運弓法や運指法」となっていたり。)だいたい暗唱できてしまうのだ。当時、批評は小林秀雄を読み、江藤淳を読まないと始まらないので読み、吉本隆明の仕事を素通りはできず、時代の要請だと言って柄谷行人を持ち歩いてみていた。その中にメチェック氏は満を持して登場した。いま、暗唱できるのはボブのものだけだ。カラタニが血と肉とになったかどうかはわからないが、ボブは自分の中に完全に住み着いている。
 仕事と子育てに追われる中でのシッピツ活動に際して、時短のために、シュールリアリストの方法である「自動書記」を取り入れている(所帯染みた理由にて、シュールレアル運動のリアルタイムなら即破門必至)。なので、書いている途中は無我夢中であり、書き上げて読み返すと、いつも、メチェックなのだこれが。もうボブほど若くないのに新進気鋭の、すこしとんがった、上から目線の、またボブ調になってしまった、と毎度思うのである。ボブの何が私の中にインストールされてしまったのか。それは書くことの姿勢、物事の価値は自分こそが決める、と信じている鼻持ちならない青二才ぶりではないだろうかと思う。1970年代の竹宮作品は、登場人物の名前からしてコクトー、ハイネなど詩人の名前が使われているが、リルケやケストナーの詩の引用も随所にあり、私はこれらも含めて竹宮作品の世界観が大好きだ。セリフもモノローグもしばしばきれいな韻律を持ち、そのまま詩作品である、と言わずにはいられない。寺山修司が飼い犬に「ジル」と名付けたくらいのファンを公言していたが、詩人なら熱狂してしまうだろうというのは大人になったいまもって当然だと思う。
 極めつけの影響が危惧されるのが『風と木の詩』(1976-1984年連載・小学館)のオーギュスト・ボウ(オーギュ)である。オーギュは少年時に養子となった家で義兄から虐待を受けて育った美青年で、主人公となる少年2人のうちの1人の実父で表向き養父でもあり、そして愛人でもある。虐待の傷の末に愛がどのような形でどのような時点に成立するか。すべからく性愛というものが本当はただの欲求で、時に/もしくはいつでも、暴力の側面を持つという人間存在の根底に関わる凶暴性の是非が、少女漫画の柔らかい口調で問われる。あるいは愛と性の身勝手さ、人生の手に負えない理不尽さに対して、それらを払拭すべく、信仰や芸術は、理性や美徳を投げかけることができるのか、結局できないで敗北するのか。これらのテーマは、第2章でオーギュの生育歴が語られることで、より重厚に読者諸氏に迫ってくる。
 そんなオーギュは詩人という設定なのである。当然、私の中の詩人列伝に、オーギュはファイルされている。複雑で不幸な成育環境の中でも負けずに精神の羽根を自分なりに伸ばし、長じて屈折した愛情をあまりある知性ですべて押し隠している詩人として。アルチュール・ランボー、ポール・ヴェルレーヌ、シャルル・ボードレール、ジャン・コクトー、そして、オーギュスト・ボウ。フランス詩人列伝。オーギュの肖像は、ゆったりとした肘掛け椅子に座った若い日のおかっぱ頭のものが代表であろうが、その座像は、現実のフランス詩人達に遜色のない詩人っぷりである。オーギュの見た目は竹宮惠子『少年の名はジルベール』(2016年・小学館)によると音楽家のリストをイメージしたとのことであるが、私はこの肘掛け椅子の肖像画は、若き日の澁澤龍彦に似ているなと思っている。ビブリオテカ・シブサワタツヒコ。詩人の矢川澄子が彼と結婚をしていた間に矢川によって撮影された、シブサワの美しさを存分にいまに残すあの一枚と私の中ではかぶっている。
 批評がすべてメチェック調になってしまう、気分はメチェックで書き終わるということと対比して、詩はオーギュ調にはならない、自分がオーギュだと思って書くことはないのだが、これは作中作品がない、ということが関係していると思う。詩人という設定は存在するものの、オーギュの作品は一行も出て来ない(と理解している。もしかしてオーギュのモノローグは詩なのかもしれないけれど)。モノローグに「わたしの悪の華」という一文があったと記憶しており、勝手に、オーギュの作品はシャルル・ボードレール『悪の華』風だろうなと思ってきた。アンドレ・ブルトンの『ナジャ』に出てくる舞台『気のふれた女たち』のいかがわしい校長室や同性愛の女教師たち、事件のにおいなどは、「風木」の世界の成立に影響を与えたかなと思うのだが、ダダイストやシュールレアリストよりもっと端正な作品のような気がしている。……いまこうして書いてみると、最も大きな影響は、竹宮作品の世界観と、偏愛する実際世界の文学史とが地続きだったりすることかもしれない。チューニを遥かに過ぎてもなお、詩を書き続けている自分が、ラコンブラード学院(「風木」の舞台の寄宿学校。通称“アルルの学校”)の舎監としていつまでも学校に居残っているワッツ先生(セルジュのお父さんアスランの親友)とダブったりするのである……。
敬具
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