詩人 自由エッセー

月1回原則として第3土曜日に、隔月で二人の詩人に各6回、全12回の年間連載です。

第6回 ほそいひかりの三々五々(第3回) 夏野 雨

2017-09-06 15:53:07 | 日記
軽トラの荷台に長く寝そべって流れるだけの星をみていた



どこにつながってしまうのかわからない電話というものに惹かれる。いまはずいぶん少なくなってしまったけれど、電話ボックスが好きで、いつか全国津々浦々の電話ボックスのある風景だけをあつめた写真集が出版されたら絶対手に入れたいと思っている。思い出すのは小石川植物園の紫陽花ゾーンにぽつんとあった電話ボックスで、ごくふつうの外見なのだけれど、あまりにも紫陽花に似合っていたので、驚いてしまった。それまでは「電話ボックスは、駅や大通り、せめて食堂の横などにあるものだ」と思い込んでいたのかもしれない。どういった経緯でそこに設置されたのか、また、今でもあるのか不明だけれど、夜は閉まってしまうその植物園の、その電話ボックスにも、やっぱり緑色のぼんやりした灯りがともる・ともったのかどうか、いまでもすこし気になっている。



百日紅炎天に満ち施餓鬼会(せがきえ)のおふだは帰る小さな箱に

お盆に入るすこし前に、お寺からおふだをもらってきて、仏壇に祀る。そこにご先祖さまがのっかって帰って来るんだよ、と、小さいとき祖母に教わった。そのおふだは、十五日の夜、川に行って燃やす。家から出るときは、子どもが、先導の小さい提灯を持つ。川に着いたら、お供えのぼたもちを置いて、花火をする。十五日は地獄の釜のフタが開くから、ご先祖さまは川づたいに海へ出て、かえってゆく、という話だった。よく考えれば、ご先祖さまはふつうは地獄にいるのか? とか、ふだん仏壇にはいないのか? とか、謎なぶぶんが多々あるのだけれど、お盆というのはそういう行事で、いつも宴会中にお坊さんがお経を上げに来たり(順番的にその時間になってしまうらしい)ようするに大人がひたすら宴会をしていたり、そういう日だった。地獄の鬼も休むのがお盆で、(すくなくとも子どもにとっては)ゆったりとした行事だ。それにしても、休みのあいだ、鬼はどこにいくんだろう。やっぱり鬼も鬼家族のところに帰るんだろうか。



真夏日にアイスキューブのように立つ星野道夫のアラスカの旅

真夏、遠くに海をみると、つめたいかんじが喉にする。目が水を飲んでいる、というふう。目が水を飲んでも、つめたいかんじがするのは喉なので、もしかしてそのときだけ舌がサッと目の裏側ぐらいまでのびているのかもしれない。



工事用扇風機の風受けながら並んで食べた大砲ラーメン



携帯電話の通話はじつは本当の声を届けているわけではない、ということを知ったとき、驚いた。それぞれの携帯電話にはコードブックなるものが仕込まれていて、話したほうの音声(波形)がまず符号化されて、とどいたほうがそのコードを読み取り、合成音声(波形)がつくられる、というわけらしい。これをハイブリッド符号化というらしい。ということはそのコードブックなるものを完全に掌握できれば、他の人の声でしゃべることができるようになるはずである。ことはそう単純にはいかないだろうけれども、写真のかんたん加工アプリみたいなかんじで、きょうは日本昔話ふう、きょうはパチンコ屋のアナウンスふう、きょうはキャプテン翼ふう、とか音声をかえられたら、たのしいかもしれないとおもう。そのまえにだれとしゃべってるのか、わからなくなりそう。

携帯のコードブックを探りつつきょうはしゃべるよ天使風味で



鹿はいつもおなじところにフンをしていく。まだいちども姿を見たことがない山の鹿が、春先に落としていくという角のことをおもう。



日が落ちた後、海岸で花火をする。地獄の釜の蓋も閉まって、ところどころでほかの知らないひとたちも、花火をしている。夏の終わり、ということが、しずかにしずかにほどけてゆく。
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