「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評126回 ちゃんと荒れたい 柳本々々

2017-05-07 00:49:22 | 短歌時評

きょう、「川柳トーク 瀬戸夏子は川柳を荒らすな」というイベントが中野サンプラザであったのですが、いま、帰ってきました。できるだけ私の記憶の限りに書いてみたいと思います。

第一部では、「誘い~現代川柳を知らずに短詩型文芸は語れない」と題して、歌人の瀬戸夏子さんと川柳人の小池正博さんが対談されました。

わたしはほぼいちばん後ろの席でずっと聴いていたのですが、まず瀬戸夏子さんが話されたのが、えらさ/アナーキーのあいだの位置性の〈ゆれ〉でした。これはなにかいろんな発言を重ねるごとに、どうしても「アナーキー」から「えらさ」に揺れ動く場合があると。つまり、位置性がかたまってきてしまうと。

こうした位置性というものに瀬戸夏子さんは非常に敏感だと思うのですが、それは今回の瀬戸さんの現代川柳の見方にもあらわれていたと思います。

瀬戸さんはたとえば

  私のうしろで わたしが鳴った  定金冬二

という句をあげられ、この句のなかにおける「私/わたし」のゆれのようなもの、もうひとりの私、遊離する私、分裂する私、といった川柳独特の主体性を指摘しました。

この川柳独特の〈私の主体性の遊離〉というものが今回の瀬戸さんの提示した川柳を読む枠組みでした。

瀬戸さんが名句と感じ何度も引用している句に、

  キャラクターだから支流も本流も  石田柊馬

という句がありますが、この句も「支流」と「本流」という枝分かれしたものを「キャラクター」で統合しながら、その「キャラクター」という言い回しによって、がっちりした主体性になることを回避しています。どこか仮構された主体性なのです。こうした仮構された主体性のありかたを瀬戸さんは「わたしのかろやかさ」と表現されていました。

わたしはふだんこうした「わたしのかろやかさ」のような川柳における〈任意の主体性=こうであったかもしれないし、ああであったかもしれない私〉をとても興味深く思っているのですが、ふだん瀬戸さんがなされている仕事、〈読みの因習/慣習といったものを意識化し、そうでなかったかもしれない可能性としての読みをたちあげる〉、を思い出すと、瀬戸さんが川柳のなかにそうした任意の主体性を見出されたのはとても興味深いと思いました。

こうした瀬戸さんの読みの枠組みによって川柳の新しい読みがたちあがります。

  おれのひつぎは おれがくぎをうつ  河野春三

小池正博さんがこの句のこれまでなされてきた読みを紹介しました。「おれのひつぎはこのおれがくぎをうつんだ、おまえらはうつんじゃない、おれの人生はおれがかたをつけるんだ」というマッチョな読みです。がっちりした〈おれ〉という主体性に満たされた筋肉言説。これがこれまでなされてきた川柳内の読みです。

ただ瀬戸さんは瀬戸さんの読みの枠組みとして、さきほどの定金冬二の句の横にこの句を配置し、「私/わたし」「おれ/おれ」という主語の位相/遊離をひっぱりだしました。瀬戸さんはマッチョな言説を解体し、解体され遊離した主体の言説をひきだしたのです。

このことによって、「おれのひつぎは」と死んでいる人間が、「おれがくぎうつ」と行動を起こす時間の倒錯した言説になりました。

ただこれは奇異なわけでは決してありません。現代川柳を並べてみると、こうした時間が倒錯している言説も多々あるため、〈そうした読みの可能性〉もひっぱりだすことができます。

なにが、正しいのか。

いいえ。正しいか、間違いかが問題ではなく、今回のタイトルは「瀬戸夏子は川柳を荒らすな」でした。「川柳をどう読むか」というタイトルではありません。「瀬戸夏子」が「川柳を」どう「荒らす」か。もっと言えば、「川柳」が「瀬戸夏子」においてどう「荒」れることが《できるのか》が問われていたわけです。

そうすると〈荒れる〉ということは、それまで〈そうした読みの可能性がひっぱりだせたはず〉なのに、それをしてこなかった、しかし、ジャンルとジャンルがぶつかりあったときに、それまでジャンルが無意識下においていたものがその衝撃でひきずりだされ、そのひきずりだしてしまったものを自覚するかしないかを〈いちど〉問われることになった、そういうことを〈荒れる〉というふうに言ってもいいのではないでしょうか。

問題は、もし〈荒れる〉機会が訪れたならば、荒れるか荒れないかを選ぶことが大事なのではなく、〈ちゃんと荒れたい〉をどれだけ成立させられるか、ということなのではないか、とおもうのです。

しかし、なかなか、ひとは荒れることができない。まもってしまう。ぎょうぎをよくしてしまう。

川柳は、《断言》の文体であると、小池正博は言いました

第二部で、瀬戸夏子さんから、やぎもとは、荒れる、荒れる、と口にはするが、いったいほんとうになにを荒れているのか、どういうつもりで、荒れると口にしているのですかという質問が出ました。

やぎもとは、ほんとうは荒れていないかもしれない、荒れる、荒れる、と言いながら、またそのことばで覆いながら、荒れるとだけ口にだしながら、ずるいことをしようとしているのかもしれません、とわたしは言いました。

いいえ。荒れる、の反対は、ずるい、なのではないでしょうか。

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短歌作品相互評② 内山晶太から山木礼子「秘密」へ

2017-05-01 00:10:48 | 短歌相互評

 
 作品 山木礼子「秘密」 http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-04-08-18362.html
 評者 内山晶太


一連、そこはかとなく鬱屈した気配に満ちている。何があってそうなっているという具体的な原因があるわけではないのだが、作品が息をつめながらそこに立ち並ぶ。
  生きのこりたる一匹の泳ぎをり若草色の水揺らしつつ
 連作の、一首目の、初句が「生きのこり」であるということが、暗示的である。さらにこの一首では「若草色」というとてもあざやかな、初夏を感じさせる色彩を出しているけれども、この色彩は「水」の形容となりその途端に、息がつまる。この歌の若草色とは、澄んだ水のなかで揺れている水草ではなく、水の濁りのことを指している。こんなに閉塞した「若草色」はなかなか見られないものだろう。その水の濁りのなかに一匹だけ生きのこっている光景。濁りのなかを泳いでも泳いでも、濁りのなかである。
  母のきぐるみを着た母である 風船の根元をつまみ手渡せるとき
  飲み会へ誘つてくれてありがたう。無理です。「買ひ物」無理。「映画」無理。

 こうした作品のなかでも、閉塞はつづく。母のきぐるみを着ることではじめて母となる。主体にとっての「きぐるみ」はおそらく、「一匹」にとっての「若草色の水」に重なるもののような気がする。きぐるみの圧迫や息苦しさがあってはじめて、世間的な母子としてのかたちを得る。その手続きがまた、主体を閉塞させる。たとえば、熊のきぐるみであれば、脱ぎたいときに脱ぐことができるけれども、母のきぐるみは脱げない。たとえ母のきぐるみを脱いでも、そこから出てくるのはまた母のきぐるみを着た母なのだ。飲み会も買い物も映画も「やめとく」とかでなく「無理」。「無理」と発した言葉が、みずからの内側へ食い込んでいくように見える。
  CMの母はやさしい 撮影のあとはお茶でも飲むのだらうね
 「CMの母」は脱げる母である。閉塞とは遠いところにいながら、世間的な母というかたちを実現している「CMの母」を見る目はシニカルだ。撮影のあとにお茶を飲むのかどうか実際のところは分からないのだけれども、読者として主体に寄り添えば、CMの女優を見てそこから優雅なティータイムへと連想が波及していかざるを得ない回路にこそ、主体のありようを見るのである。
  いつだつたか思ひだせない「可愛い」と最後にわたしが褒められたのは
 「わたし」という存在がなんなのかということも、「きぐるみ」の副産物として現れる。母というものは、ひとつの役割であるけれどもそれにとどまることなく「わたし」を侵食するものでもあるだろう。母という言葉は、ひとりの人間の存在がまるごと括られ得る言葉であり、そのとき「わたし」はどこかへ行ってしまう。
  何度でも紙のボールを受けとらうわたしはおまへの最初の友だち
 これまで閉塞した状況の歌に目を向けてきたが、この歌は少し異なる。母子という関係性の罠をすり抜けようとしているように思えるのは、結句の「友だち」による部分が大きい。一人から一人へ投げられ、一人が一人から受けとる紙のボール。ひとつのボールをマンツーマンで投げたり、受けとったりしているとき、そこに不特定多数者の目は入り込んでこない。「母と子」とみなす外部者が視界から外れることで、そこには「わたしとおまへ」というミクロな関係性が立ち上がってくる。連作中の次の歌は、
  もし翅があつても飛べる空はない 網戸と窓はひらいてゐても
 とあって、また透明な閉塞感に包まれていってしまうのだが、それでも「わたしとおまへ」の関係性がすでに見出されていることが、かすかな、しかしかけがえのない救いのようにも思われてくるのである。塗り重ねられる閉塞のなかに射す一瞬の光が、連作に良い意味での複雑さをもたらし、連作全体のもつたしかな輪郭を感じさせられた。
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短歌作品相互評① 山木礼子から内山晶太「黄菊」へ  

2017-04-30 23:49:44 | 短歌相互評

作品 内山晶太「黄菊」http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-04-08-18368.htm
評者 山木礼子


しずかな冬の連作。しかし、随所に痛々しい棘が潜んでいる。真冬の指を悩ませるささくれのようだ。
  白湯を飲むこころ来たりて冬の水ぎらぎらと鍋にあたらしく注ぐ
 一首目。お茶でもコーヒーでもなく「白湯を飲むこころ」がすでに作者らしい。白湯はコンビニにも自販機にも売っていない。飲みたいなら自分で沸かすしかない。自己完結的な行為だと思う。「ぎらぎら」としたステンレスの鍋に注がれるのは、管からでてきたばかりの水道水かもしれない。
  一匹の猫を抱きつつさらに抱く硝子のごとき春寒なれば
 そういえば、猫の身体は温かかった。夏に抱けば暑苦しい毛でも、冬にはほどよい温もりであるだろう。三句目の「さらに抱く」。一匹目に次いで二匹目も抱く、と読めばなかなかに楽しく幸福そうな光景であるが、むしろこれは一匹目の「影」のような、なにか実体のない「猫」像を抱いているようなさびしい手触りがある。「さらに」という副詞が名詞的な具体の重さを負わされている感じ。
  くちびるより干からびてゆきながらゆく沼というゆるき輪郭の辺を
 冬の唇は乾く。「干からび」るとは相当なものだ。「ゆき」「ゆく」は「雪」「行く」「往く」「逝く」あたりの感覚を淡く伝えている。みずみずしさを失った口のなかはねっとりと湿り、その淵を一歩出た唇はかさかさに乾燥していること。沼の映像が二重露光のように重なっている。
  鳩の脚の寒さへ贈るくつしたの打ち棄てられて冬がふかまる
 羽毛から突きだしている素裸の脚に「くつした」を贈ろうとするのはきっと人間的なやさしさで、それを「打ち棄て」る鳩もどことなく擬人化されている。ハートフルな光景が四句目で変貌するのは、芝居めいた自虐であろう。「寒さへ贈る」のたしかな技術にも注目した。
  ごくかすかなる濃淡におし黙る曇天よこれはひるがおのにおい
  黄菊という政治家の中国にありしこと冬が来れば咲(ひら)くよ

 花にまつわる歌が二首並んでいる。もっとも、どちらも現実の花ではない。開花時期としても昼顔は夏だし、黄菊は秋だ。草木のすくない冬に、作者の頭の中だけで咲き乱れていることがせつない。
 「ひるがお」の歌は全体に緊張感が走る。「ごくかすかなる濃淡」の抽象性にはじまり、「おし黙る」が終止形か連体形か保留されたまま、「曇天よ」の前後に挿しこまれるブレス。下句は八音・八音で疾走し、においのイメージだけを残して終わってしまう。
 「黄菊」という人は調べたらたしかに実在していた。過去形なのは故人であるからだ。これ以上の冗長な情報は不要で、端正な花の名を持つ政治家という奇異な取り合わせが記憶に突き刺さる。発見の歌。
  くらきところ立ち止まり指にたしかむる紙幣といえるうつくしき紙を
 連作に置かれると、なお花の印象を引きずって見える歌。紙幣には植物の意匠が多く織り込まれている。「現金なやつ」という慣用句そのままに紙幣とは俗な代物であるが、緻密な版画でもあるとすればこれほど簡単に手に入り、うつくしいものもないだろう。暗闇で、お金を落とさなかったかとふと根拠もなく不安になる心境に、そのあわいを読む。
  おびただしき顎と翼とフラミンゴショーにむきだしのフラミンゴ見き
 とりわけ目立ってまず目に飛び込んできた。「フラミンゴショー」に負けてしまう。歌意は数えきれないフラミンゴが見えているというくらいで、「おびただしき」「むきだし」の過剰さが一首を支えている。「フラミンゴショー」の内容は謎である。まさか芸をするわけでもないだろう。けれど、ほとんど無個性なフラミンゴに視野が埋め尽くされ、たぶん激しい鳴き声を聞いている模様が、くっきりと見えてくる。
  水面に椿は落ちて水面のものとなりたる椿にしゃがむ
 花の歌に戻る。今度は現実の、冬の椿。花が落下する瞬間を追体験するような臨場感。ほんとうに落下を目撃することは難しいのかもしれないが、ならばかえって、人間ではありえない長い時間をかけて椿を眺めていたようなぜいたくさがある。まるで咲いてから散るまでずっと見つづけていたような。
 最後の歌は現代的で、清潔な眠りの歌だと思った。枕元でスマートフォンを充電するのは、違和感はないがここ十数年で浸透した習慣だろう。携帯機器というと悪の側面も強調されがちだが、ここにはむしろいつでも他人とつながれること、アラーム機能によって朝を知らせる時告げ鳥にもなるといった安心感もある。せせらぎを聴きながら眠るようなあたたかみもあろう。では、おやすみなさい。
  スマートフォンに電流の線差してねむるきらきらとねむりのそばをながれよ
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短歌時評125回 短歌はもっと黒田夏子の影響受けたらいいのにと思って書いた文章 吉岡太朗

2017-04-03 23:19:41 | 短歌時評


 先日飲みの席で「最近の短歌ぜんぜん面白くない」みたいなことを言ってしまいまして、「いつの短歌は面白いの?」と訊かれて答えなかったんですが、昔の短歌も面白くない気がする。
 きっと面白くないのは短歌の側の問題ではなく、自分の側の問題だろうと思っていたんですが、たったいま面白い短歌があるのを思い出しました。
 黒田夏子『感受体のおどり』。
刊行は2013年で、割と最近です。
 でもこれ短歌じゃないんですよね。
 世間的なカテゴライズではどうも小説に位置づけられてるようです。
 あんまり読み心地は小説っぽくないんだけど、だからといって詩とはあんまり思わなかった。
 別に定型じゃないだけで、短歌だろって思ってしまった。
 まあ短歌やってるからそう思うだけなのでしょうけれど。
 でも客観的な位置づけなんてものはまやかしで、読んだ人間の実感だけが本物なので、短歌だということにして、少し読んでみたいと思います。
(注:時評という言葉が含み持つ何らかのものへの抵抗が、このような文体を選ばせているのだと思ってください)
 男か女かときかれて,月白はどちらかと問いかえすと,月白が女なら男なのかと月白はわらった.
 『感受体のおどり』は1番から350番までの短い文章の集まりで成り立っています。これは1番の書き出しのセンテンスです。
 短歌っぽいと思います。
 どこが短歌っぽいかと言いますと、このセンテンスには枠があるように思えるからです。
 どんな枠かというと、「一つのセンテンスである」という枠で、そんな枠はどんなセンテンスにもあるので、そうなると「すべてのセンテンスは短歌だ」ということになります。
それはある意味正解なのだと思います。
 この世に短歌じゃない言葉など存在しません。
 でも私たちは決してそんなことは思いません。
 なぜかというと普通はあまり枠を意識しないからです。
 理由は次のセンテンスに進んでしまうから。
 身も蓋もないこと言ってしまうと、このセンテンスは一読よく分からないのでもう一度読んでしまうところが短歌っぽいのです。
 短歌って一番下まで読んだらまた上に返りませんか?
 きっと短歌やってるひとはうなずいてくれるはず。
 ……余談が過ぎました。
 「月白」は登場人物で、視点人物である「私」と会話をしているようなのですが、まるで「月白」と「私」は自分で雌雄を決められる生き物であるかのようです。
 そういう生き物いそうだなあ、とグーグルで調べたら「ニワトリの細胞は自分自身で性別を決める」と出てきたり、アーシュラ・K・ル=グウィンの『闇の左手』は両性具有の人が男になったり女になったりしたなあ(あれは自分では決められなかったはず)とか思ったりしました。
 けれどまあ、『感受体のおどり』というくらいだから踊りの話なのでしょう。
前頁の登場人物表のところの「踊り関係の人物」に「月白」が含まれていて「私」の師なのだと分かるようになっているし、後に続く文章を読んでいくと「男役」「女役」という言葉がちゃんと出てきます。
 その辺を踏まえてくどいくらいの意訳をすると、「今度の舞台で男役と女役のどっちをしたいのかと師匠の月白が弟子の私にきいてきたので、私は月白はどちらの役なのかと問いかえした。すると月白は「私が女役をするなら、あなたは男役をするのか?(あなたは人の意見をきいて、自分の役を決めるのか?)」と答えてわらった」となります。
 こう見るとこのセンテンスにはたくさんの省略があることが分かります。
 読者はその省略を補って読んで行かないといけない。
 省略を補うというのは空間を覗き込むことです。
 文章が生成する空間に首を突っ込んで向こうに何か見えないかな、と探す行為です。
 はじめは空間が真っ暗なのでいろんなものが見えます。
 生物の神秘とかジェンダーSFとかまやかしなんですが、あるような気がしている時点ではあるわけです。
それを「ある」とはっきり確定させてしまうと、いわゆる誤読というやつになるわけですが、確定させてしまわない限りは連想の広がりとして楽しめばよいものだと言えます。
 連想を楽しんでいる内に、だんだんと目がなれてきてうっすらと空間全体の様子がつかめてくる。
ところでこのセンテンスで一番の省略の対象になっているものは何かというと、もちろん「私」です。
 「問いかえ」しているのは「私」なのですが、前後の「月白」という語にサンドイッチされた上に、駄目押しでもう一度出てくる「月白」の「わらった」という動作に取り込まれてしまっています。
 師である「月白」によって「私」が文章空間の奥へ追いやられているかのようです。
「男か女か」と尋ねることによって、「私」に選択権を与えているようなのですが、その実与えることで「月白」が自身の寛大さを見せつけているようです。
 1番の後半には、男役と女役との数がかたよってしまえば少ないほうをすることになるが,てきとうに変化のつく番ぐみになりそうなときなら私にも男か女かをまよう自由がのこった.」というセンテンスがあります。
ここでは「自由」という語を出すことで、逆説的に「私」を取り巻く「不自由」を描出していますが、この「不自由」は書き出しのセンテンスですでに暗示されていたのでしょう。
天からふるものをしのぐどうぐが,ぜんぶひらいたのやなかばひらいたのや色がらさまざまにつるしかざられて,つぎつぎと打ちあげられては中ぞらにこごりたまってしまった花火のようといえば後年の見とりかたで,身がるげに咲きかさなるものの群れを視野いっぱいに見あげていた幼児はまだ打ちあげ花火をあおいだことがなかったし,傘というものの必要性も売り買いということのしくみもいっこうかんがえたことがなかった。
 同じく黒田夏子の『abさんご』から。
 芥川賞を取っているので、こちらの本の方が有名でしょう。
 まず面白いのが「天からふるものをしのぐどうぐ」で、これはセンテンス後半に出てくる「傘」のことを言うのでしょうが、一読分からないことが読者を立ち止まらせる。
 立ち止まって意味を考えることが、文章空間を深く覗き込むことになるわけです。
 先の省略と手法は違いますが、効果は同じです。
 その「傘」を「花火」に見立てるのですが、ここも面白くて、「後年の見とりかたで」と見立てを自ら否定する。
 記憶されたものは想起され、想起のたびに作り替えられます。
 「傘が花火のようにきれいだ」と言えば分かりやすいですが、分かりやすくしたのは後で振り返った自分であって、その時の自分ではない。
 分かりやすさとは作り替えなのです。
 それに対し黒田夏子は抵抗し、正確に描こうと努める。
 それは客観的な何かに対してではなく、自らの感覚に対する正確さです。
 「天からふるものをしのぐどうぐ」という言い方も、「傘」と分かりやすく言うことで実感と違ってしまう何かを描こうとしてのことかも知れません。
 それは「傘」という枠への抵抗であり、「傘が花火のようだ」という枠への抵抗です。
 黒田夏子のセンテンスが枠を意識させるのは、枠に対して抵抗しているからなのです。
 見ているあいだだけ,行きあわせているあいだだけ,知りびとが知りびとであった日日,それぞれにそれぞれのくらしがめぐっているのはわかっていても知りたいとかんがえたことはついぞなく,たとえば遠くへのひっこしというような小児にとって死とえらぶところのない不在になつかしいという情緒はうごいても,それは去ることによって内がわに移ってきたものへの,つまりはじぶんへの惜しみのようで,去った者の今をおもうのとはちがった.
 再び『感受体のおどり』から。
これは4番の文章にあります。
 黒田夏子中一番好きかも知れないセンテンスで、特に後半部分がすごい。
 「私」の前からいなくなった者は、「私」の内面に移り住んでくるということ。
 引っ越しでの別れの惜しみは、自分への惜しみであるということ。
 幼児期の自身の感覚を、できるだけ正確に書こうと努めた結果出てきた言葉なのでしょう。
 それはくどくて分かりにくいが、私というものの内奥に迫っている。
 短歌が「私」を書くものなら、これこそ短歌だろうと思います。

 引用
  黒田夏子『abさんご』2013年,文藝春秋.
      『感受体のおどり』2013年,文藝春秋.
(文中のルビはすべて省略としました)
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短歌評 短歌を見ました4 鈴木 一平

2017-02-26 22:03:18 | 短歌時評

『穀物 第3号』の続きです。

  フライパンの中に油を敷くけれど言ってくれ間違っているなら

 進上達也「すぐにこすれて燃えてなくなる」から。上句の提示を下句で引き受けつつ、文節を通して後者の論旨をフライパンでも油でもない場所に向ける流れは、詩でいえば改行に近い論理が働いているとおもいました。上下の構造的な分割を経由することで逆接の内容を漂白させ、残存する前行の提示を弱く脱臼することで、作中の基本的なトーンとなる生活感に迫真性を搭載させつつ、脈絡のズレが持つ切れ味を読ませます。「定期券区間の外でこれからのお金の減り方を覚悟する」や「ヌードルの麺を伸ばしてお湯をぬるくしてから本当に思い出す」などにも見られるこの構成は、いわく言いがたい生の感覚を作中に結晶化させているような印象を受けます。

   以前、名をつけたことのある嗅覚が見つかる一昨年のマフラーに

 「匂い」ではなく「嗅覚」と呼ぶニュアンスがいいとおもいます。「匂い」であれば一昨年のマフラーに残る一昨年のだれかの(私の?)匂いとして、今の私がそれを嗅ぐという意味に留まりますが、「嗅覚」として差し出されると話は変わってきます。「嗅覚」は嗅ぐ対象ではなく嗅ぐことに伴う匂いをもたらす感覚そのものであり、その意味でいまの私の嗅覚とは決定的に一致することはありえず、いまの私ではない別の何かになることの契機をもたらすからです。そのため、修辞としては想起というより過去の現前として現在の私の変更をもたらす強さがここにはあり、翻って一昨年のマフラーがもつ過去の匂いの鮮烈さを感じます。

  襟首が伸びていつかはこの部屋を出る新しい可燃ごみとして

 連作では先ほどのマフラーの後に「年末のもうすぐ捨てるセーターの行く先々で挨拶をする」が置かれ、その次に上記の作品があり、衣服を一要素に詠み込んだものが連続しますが、これらに共通して見られるのは、衣服を着古していく時間の流れに過去や未来の方向性を添えつつ、どこか諦念を含んだクリアで余韻のある叙情です。さて、この作品では衣服の劣化に「襟足の伸び」を重ね合わせて、身体に流れる時間が描かれています。これまでレイアウトの一部として対象化されていた衣服が作品の基底として、あるいはレイアウト全体の共働の結果として描かれています。つまり、衣服は作品の中で経由される要素というより、パタパタと展開していく作品の運動と分かちがたくあるわけです。身体の重ね合わせは「襟首」としての表出と同時に、こうして作品を読み解いていく過程のなかで動的に形成されるものでもあるといえるでしょう。そして、これまで着古されたものとしての衣服が詠まれていたなかで、この作品は古着にごみとしての新しさが付帯されている点も無視できません。

 濱松哲朗「〈富める人とラザロ〉の五つの異版ーーRalph Vaughan Williamsに倣つて」では、冒頭にルカ伝の引用が置かれ、その後に5つのセクション([Variant1~5]、以下番号のみ表記)に分かれた連作によって編まれていますが、分量的に他の同人よりも多く、構造的にも少々込み入ったかたちでつくりこまれているように感じます。ネガティブな生を生き続けることを余儀なくされた私と友人の死についての意識を主題とした作品が目立ち、なかでも特徴的なのは、ルカ伝で生前のラザロの生活スペースとして描かれていた「門」が、異なるセクションのなかで繰り返し詠まれている点です。個々の作品の配置から読み取れる連鎖的なイメージと、随所に挟まれる「門」のモチーフを通して、そこから立ち上げられる読みを考えてみます。

  開かるる門のかたちに漏れ出づる饗宴の灯をしばし見留む

 [1]における門ははじめ、「饗宴の灯」が漏れ出す形態として視覚に与えられています。前述したルカ伝のすぐ後にこの作品が置かれているので、おそらく「饗宴」は「富める人」の室内で行われているものであり、それを門のかたちに漏れ出る光として認識する表現主体は、門前のラザロの姿を引き写していると読むことができます。以後、このセクションは「われを捨てし母の血われに流るるを疎まれながら育てられけり」や「しぶとくも生くる命よ 貧しきは血の穢れとふ声、零されぬ」、「次々に諦め慣れてゆく頃の落葉、生まれさせられし者」など、自己の出自を巡る作品が中心に置かれることで、「貧しき人」のモチーフが個々の作品から独立したかたちで、見開き内の主題として抽出されることになります。そして、

  身の程を知れと言はれつ 門前に屈み込むつつわれの崩えなむ

 同セクション内最後の作品である「身の程」へと接続されることで、だめ押しのようにルカ伝におけるラザロと門前に屈み込む「われ」が類似するように重ねられます。つまり、[1]において形成されるのは、ルカ伝におけるラザロの具体的な肉付けの過程であると読むことができます。個々の作品において成立する認識があり、それらの認識を横切る目のなかでさらに抽象的な認識が形成されていく、といえばいいのでしょうか。この見開きにおいては、そうした認識の積み重ねがラザロと「われ」の類似において結晶化され、その土台に設置された「」が冒頭の「」と呼応することで、印象が強められています。
 しかし、[2]は「われ」ではなく知人の死についての作品から始まります。

  早朝のスマートフォンをふるはせてわれにも届く声なき報せ

  ともだちの死をともだちが告げてゐる連絡網のごときLINEは

 私たちは[1]において「われ」とラザロのあいだに見いだされる類似を元に作品を意味づけでいくことができましたが、ここでラザロが死んだように死ぬのは「われ」ではなく「ともだち」であり、「われ」は「貧しさ」を宿したままラザロと分離します。もちろん、[1]における「われ」と[2]における「われ」が同一の存在であるとは確定的ではありません。[1]の「われ」が[2]における「ともだち」である可能性さえあるわけですが、むしろ、語としては同一でありながら作品としては別のものである両者の「われ」を読むことで、両者とは分離されたかたちで「われ」と指示される存在が立ち上がると考えたほうがいいのかもしれません。「われ」は表現主体の可能なバリエーションの一つであり、一連の短歌作品の語り手でも、ましてや「書く私」として不動の地位を占める書き手でもないということです。

  閉ざされし門の手前に風絶えて(何故だ?)こんなに晩夏が似合ふ

 こうした分離の印象をそのまま引き受けるように、「閉ざされし門」はラザロと「われ」の類似ではなくそれらの分離としての側面を示す指示として現れ、同セクションは「生き残る者はラザロにあらばれば蝉の骸を避けて歩めり」「心音の耳に充つれば凡庸にいまだ死なざる身体重たし」と、生者である私を倦むような作品で閉じられます。ここで「」は私にラザロとの類似をつくりだすために用いられるのではなく、ラザロと私が異なることを示すために用いられているわけです。続く[3]で「」は一度も登場せず、[4]の末尾を待つことになりますが、[3]で繰り返し用いられるモチーフと「門」の登場の遅延を通して、前述した「分離」の機能をさらに複雑化したかたちで、[4]の「」は使用されます。[3]において描かれるのは、これまであった苦悩のうちで生き続けることへのそこはかとない執着に加えて、死への希望や死後の自分に対する意識です。「夏にふる雪にあらずも 初めから見え透いてゐし終の姿は」「死ののちを清らに残る感情のわれに暗渠のごとくありなむ」といった連鎖的な構図も無視できないものの、「せめて鏡を伏せてから死ぬ まなじりに前世のなごり浮きいづる頃」「繰り返さるる生の途上に焼かれゆくわが身よ 無理をさせてすまない」「信じてゐた(ーーそれが私の心からの抵抗であると、)伝へてください」など、死への近似は現行の生をやや超えたかたちで展開されていて、これらの作品を、生き続ける「」と死んでしまった「」の組み合わせによって生じた、「この生」に対するゆらぎや相対化の認識として読むことができます。また、このセクションで目立つ語彙としては「」(前述の「夏にふる雪にあらずも」に加えて、「ウェブ上にふりしきる雪 更新の滞りたるページかがよふ」)も挙げておく必要があるかとおもいます。

  快晴の朝の葬送耐へ切れずはじけてしまふ実柘榴の刻

 前述した「」と[2]における「蝉の骸」との時間的なギャップを与えるように、[4]において示唆されるのは、友人の死からの時間の経過です。冒頭となる上記の作品では葬送の場面が読まれ、続く作品でも「〈偲ぶ会〉と称して集ふ旧友の写真届きぬわがLINEにも」や「われの他に幾人かゐる不参加を引き算のごとく数へあげたり」、「懐かしい、と思はず打てる返信に永遠に揃はぬ〈既読〉あひなむ」など、経過の印象が強くあります。[2]で見られた「新聞のおくやみ欄の画像あり二十七とふ享年目立つ」と同じ位置に「音楽家でもないくせにこの歳でーー、つて、成りたかつたのかもしれないが」、「ああきつと空が笑つてゐたのだらう八月に死をえらびし君よ」の位置に「それぞれに語らぬ過去のあるならむ沈黙よりもおもき笑顔に」が置かれてあることからも、[2]と[4]は対の構造を強く意識してつくられています。

  陽炎の彼方に見ゆる門あれば守衛のごとく蝉の啼き立つ

 そして、[4]を結ぶ「」であるこの作品は、「手前」と指示されていた「」との対比的な遠さとして「陽炎」の彼方にあり、季節の回帰として骸ではなく鳴く「」を身にまとっています。ラザロではない「われ」から距離的に離れ、かつ時間的にも離れている「陽炎の彼方」における「」は、死者と生者のあいだの「分離」の経験それ自体との分離を描くように使用されている、と見ることができるのではないかといえます。この作品の前に配置される「富める人ならざるわれらお互ひの腫物を目守りつつ触れざりき」は、富める人ではないが、しかしラザロでもない「われ」の姿を、再度自身に搭載するかのようです(そして、「生き残る者は」とこの作品は、やはり同じ位置に置かれています)。

  閉ざされし門に凭れて夜明けとふ乏しき時をわれは恃めり

 [5]は[1]と同様に、「」を用いた作品から始められます。ここで門は[2]と同じ「閉ざされし」という修辞を受けており、そのため他の「」とは異なる類似性を二つの作品は帯び始めます。構成には知人の死に対して言及しない[1]および[3]の流れを汲みながら、[2]と[4]で展開された対の反響を「閉ざされし門」を用いて召喚し、連作の最終章を飾るかのようです。「亡失は生者の奢り 過去といふ過去を野焼にくべつつ往かむ」「運命と呼べば貧しき現実をわれは死ぬまで生き続けたし」「紅葉の季に到りてわが裡に君のいたみの色付きはじむ」など、後続する作品もどこか総括的な気配を帯びながら、次の作品に続きます。

  この門もぢきに崩れの日を迎へ境界線の分からなくなる

 ここで「」は[1]においてラザロを引き継いでいた「われ」と同様に「」の語を備えることにより、ルカ伝ではなく「われ」との類似を示し始めます。しかし、この類似は固定的な意味を引き継ぐというよりも、[1]において「貧しき人」としての性質を搭載することでラザロとの類似を示しながら、決定的にはラザロとして死ぬことのなかった分裂を跨がるように生起していた「われ」の組成のあり方を、崩れることによって引き寄せています。「」は語としての同一性を持ちながらも、その現れをそれぞれ異なるものとして現れていたので、近似の操作が行われていた「われ」を引き受け、かつ「境界線」を失うことで、「われ」と「」の重なりとして[1]から[5]までの運動をこの見開きの内側に呼び込みます。

  生き残るなら引き受けるより他なくて声なき声を身に響かしむ

 かつての得られた運動を模倣するように語を反復させ、そのつど特殊な意味を埋め込むことで、運動の媒介としての側面を語に搭載させること。かつまた、語ではなく語の使用法を反復させることで、複数の語が結晶化する地点をつくりだし、その使用法をも反復のたびに絶えず組み替えることで、以後も変容する生の内側に声なき声を反響させていく。そうした試みが、本連作にはあるのではないかとおもいます。
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