「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌相互評⑥ 岡野大嗣から加賀田優子「だるんだるん」へ

2017-06-30 15:20:03 | 短歌相互評

 

作品 加賀田優子「だるんだるん」 http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-06-03-18504.html 

評者 岡野大嗣


たんぽぽを折るのとすごいわるくちをいうのとではどっちがひどいだろう

 一読して、「たんぽぽを折るのがひどいことなのは、すごいわるくちをいうのがひどいことなのと同じ」という意味が頭に響いて、英語の比較構文みたいだな、と思った。「どっちがひどいだろう」と思案しているこの人の頭の中では「たんぽぽを折る」のと「すごいわるくちをいう」の、ひどさ、はニアリーイコールで、「どっちがひどいだろう」には、ひどいほうはやめておこう、ではなく、どっちのほうが相手に与えるダメージが大きいだろう、「≧」あるいは「≦」で少しでもひどいほうを選びたいな、という無邪気な悪意を感じる。

 

さからっているんじゃなくてみんなただもといた川に戻りたいだけ

加賀田さんの歌では、ひらがなが蠢いているようにみえるときがある。一首目では「折」、この歌では「川」と「戻」。歌をながめたとき、液晶パネルの画素欠損の部分が光ってみえるように、漢字の持つイメージが鮮やかに目に飛び込んでくる。それから漢字はとつぜん磁力をもつ。磁力をもった漢字にひらがなは砂鉄のように吸い寄せられて意味をつくりはじめる。

 

海がわのホテルの壁をぬりかえるおにいさんたち灰色の服

カメラワークが鮮やかな歌。まず海が映される。そこから左か右にパンされていって「ホテル」、の「海がわ」、の「壁」、まで来て、空間的なひろがりを感じる。次に「ぬりかえ」ている行為が映され、潮風にやられてきた壁があたらしく塗装されていく様子に、その海沿い一帯の時間のひろがりも感じられてくる。その瞬間、カメラは急にズームアップして行為の主の「おにいさんたち灰色の服」を映し出す。目いっぱいひろげられていた時空のふろしきが唐突にたたまれて、この海沿い一帯の時空はすべて「灰色の服」から生まれてきたものなんじゃないかという錯覚に陥る。「おにいさんたち」と「灰色の服」のあいだに助詞がないことは同格関係をより強調していて、この「おにいさんたち」は、特別に塀の外での作業をゆるされた囚人に思えてくる。 


運転手さんの鼻歌がとぎれないようにねむったふりをつづける

タクシーの車中だろうか。「ねむったふり」をつづける理由はふたつ考えられる。

A:運転手さんがあまりに気持ちよさそうに歌う鼻歌を、つづけさせてあげたいから

B:運転手さんの歌う鼻歌があまりに心地よくて、しばらくずっと聴いていたいから

どちらだろう。理由はどちらでも、読者が好きなほうを選べばよくて、とにかく、「ねむったふり」が続けられることで運転手さんの鼻歌は子守唄になる。タクシーという密室に甘美な時間が流れ出す。

 

無理しなくていいよ、いいよ、といいながらまたセックスをしている夢だ

「いいよ」のリフレインが耳に残る。最初と二回目で込められた意味が変わっているように感じる。最初の「いいよ」は許容、二回目の「いいよ」は、気持ちいいふりで発した「いいよ」。ねむった「ふり」がほんとうになって、「ふり」から始まった眠りの中でも「ふり」をしている。やさしい嘘をつきつづけて、この夢には出口がないような気がしてくる。

 

欲しいものリストにとくに欲しくないものがぽつぽつと混ざっている

「ぽつぽつと」が効いている。自分の知っていたはずの自分は、気づかないうちにぽつぽつと死んでいく。欲しいものリストが「欲しくないもの」で埋め尽くされる日に、自分はいったい誰なんだろう。

 

なくなった幼稚園には花のさく木ばかり残されていてまぶしい

たんぽぽを折るのとすごいわるくちをいうのを天秤にかけていた子がいたような気がする幼稚園。あいまいな自分の内に存在する「欲しいものリスト」と違って、公共に存在するものは「なくなるべき/残していいもの」が明快な基準で選別されている。

 

ドアすこしひかってたから開けるときありがとうっていってしまった

どういう状況でこの謝意は口をつくだろうか。ひかっていてくれてありがとう。自分を見失いそうになる暗やみの中でひかってくれていたら。つい言ってしまうだろうな。このドアが、出口のない夢の中でみつけたドアだとしたら、眠りからさめただけなのに何故かうれしくなっているときの気持ちに説明がつくような気がした。

 

みつ豆の缶でつくったおもちゃにはしばらく蟻がこびりついていた

洗いおとせていなかった蜜は、過去に存在した時間の痕跡。人間には認識できないレイヤーに蟻が群がりこびりつき、過去が現在に追いつこうとする。缶でつくったおもちゃのまわりにだけタイムラグが生じている。

 

くじけそうな日にきこえてきてしまう秘密兵器をだすときの音

「きく」ではなくて「きこえてきてしまう」こと。不可抗力でそうなっているのではなく、無意識に選択しているのかもしれない。それはただ「もといた川に戻りたいだけ」。くじけそうな自分を、くじけていない自分のほうへぐっとたぐりよせるために、秘密兵器をだす音を「きこえてきてしまう」ように脳みそが指令を出している。

 

だけど庭それは崩壊寸前の血だまりに似ている花と花

「崩壊寸前の」「血だまりに似ている」は共に「花と花」を修飾して、そんな異様な光景「だけど」それはまぎれもなく庭。「だけど庭」が初句に置かれているから永遠にループできる。何度もループして読むうちに、繰り返しの中で少しずつ拍をずらしながらグルーヴを生んでいくミニマルテクノのように、崩壊寸前の庭は脈打ち始める。崩壊に到るまでの時間が景色を伴って現われては消えていく。

 

首元も袖口も裾もだるんだるんだるんだるんした服をきてゆく

だるん、の執拗なリフレイン。これでもほんとうはまだ足りない。だるん、は「だるんだるん」でワンセット、「首元」にも「袖口」にも「裾」にも「だるんだるん」が必要だから。「だるんだるん」をまとった私は、どこかるんるんしているようにみえる。「首元も/袖口も裾も/だるんだるん/だるんだるんした/服をきてゆく」(5/8/6/8/7)と、初句と結句に挟まれた三つの句はそれぞれ1音ずつ字余りで、その音の間延びは生地の「だるんだるん」を思わせる。あやとりでつくったゴムの延び縮みを本物だと錯視するあの感じ。

 

暑いらしい最高気温を一度二度三度くりかえすテレビの声

「三度」まで執拗に繰り返されて、情報としての「最高気温」は意味をうしない、ただのテレビの声になる。

 

たべものを見ても退屈そうにする動物たちをながめにいこう

はじめは反応していたのかもしれない。けれど、飼いならされてきた巨大な時間の中で、いつしか餌に反応しなくなった動物たち。そこに居ることを忘れているような動物たち。毎日決まった時間にもらえる「たべもの」は、動物たちにとって、欲しくないものだらけになった「欲しいものリスト」なんじゃないか。

 

口うつしされた輪ゴムがどうしてもどうしても輪ゴムの味がする

「輪ゴムを口うつしされる」という普通じゃない状況でも、輪ゴムの味が輪ゴムの味でしかないという軽い絶望。でも裏返せば、欲しいものも欲しくないものもわからなくなった自分になったとしても、きっと輪ゴムの味だけは確かに感じられる。それは軽い希望だと思った。

 

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短歌相互評⑤ 加賀田優子から岡野大嗣「みえる、みだれる」へ

2017-06-30 01:50:36 | 短歌相互評

 

作品 岡野大嗣「みえる、みだれる」 http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-06-03-18510.html

評者 加賀田優子

 「みえる、みだれる」をよんでぼおっと思ったことは、「わたしたちってぜったい死ぬんだな」でした。
 いきなり単語が重い。暗い。ですが、この「ぜったい死ぬんだな」は、わたしにとってあかるい絶望感です。
 
 落ちてきて画面に光る雨粒をスクリーンショットに撮りかける

 いきている間、わたしたちはかならず風景のなかにいて、欧米人の会話やエスカレーターの地割れにのぞくいきもの、空を見ている正岡子規、なんかにでくわします。けれど、それらの前でほんとうにはたちどまることができません。それはスクリーンショットに撮れない雨粒とおなじところにある話です。
 ただ、風景のなかで、あ、となった瞬間がとびこんでくる。そして目や耳や鼻や、そのほかわたしたちのどこか隙間にはいりこんで、しばらくころころといっしょに動いてくれます。
 はいりこんだ場所をうまく塞ぐことができれば、しばらく、を、ずいぶんながく、にすることができて、そのとき、わたしたちはたちどまっている気分になれているということなんじゃないかと思います。

 祖父が四連続で観た、ってエピソードで足りてその映画を観れてない

 そうしてわたしたちはおわりまでえんえんと風景をみつづけるわけですが、こつさえ掴めば、くっきりはっきりみたい風景と、そうでもない風景を取捨選択できるようになる、はず、です。現実vs現実vs現実のトーナメントを組んで、勝利したものに拍手したりもできます。たぶん。

 街灯のつもりでみてた丸い月がそうとわかってからふくらんだ

 でも、膨大な量がさばさばと流れてくるので、こつもなにも、というところがあります。そういうときに視界はぶれてぶれて、みたい、みえる、というよりは、みえちゃう、ものばかりになったりしてしまう。

 みえなさとみえてなさだけみてたくて観覧車には夜にひとりで

 きっとそれはかなり危ういことです。自分でもわけのわからないものが、自分のなかにはいってくるということだから。
 それを逆に、みたいな、となったり、ガンガンたのしめはじめたら、どうなるんでしょう。
 星をみているひとの目のなかは星でいっぱいなように、みえていないものをみているときのひとの目のなかは、みえていないものでいっぱいです。
 その状態からだれかと目をあわそうとするとき、時間がかかってしまうんじゃないか。
 その間、は、ときにすごくすごく深くてながいんじゃないか。
 でも、それも、いいな、と、いまのわたしは自分のまぶたを触ったりします。

 二回目で気づく仕草のある映画みたいに一回目を生きたいよ

 最近なかよくなろうと狙っているおんなのこにこの歌を紹介したら、「一回目?一回目ってなに?」と何度もくりかえしていました。
 映画のなかのひとたちにも一回目は一回しかない。だから、映画のなかのひとたちもそんな映画を観たとき、「一回目を生きたいよ」といい、そういっている映画のひとたちの映画をみたひとたちも「「一回目を生きたいよ」」といい、そういっている映画のひとたちをみてそういっている映画のひとたちの映画をみたひとたちも「「「一回目を生きたいよ」」」といい、つまりこれは一回目、しかないひとたちが永遠につぶやき続けてしまうことばなのです。
 そんな、呪いになるのか祈りになるのかわからないバランスでふわっとひかってこの連作はおわります。
 そして、わたしは、「あ、やっぱりわたしたちってぜったいに死ぬんだな」とちょっとわらって、ベランダに出られる。さらにそこでぐっと伸びをしたり、ベランダよりむこうに出ちゃおうかな、と、なったりできる。と、いうことにつながった作品でした。

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短歌時評 第128回 短歌にとって君とは何か 吉岡太朗

2017-06-30 00:43:42 | 短歌時評

 

 

 目次

 1章:君でないひと

 2章:グリーティング・カードとイコン

 3章:四人称

 4章:濃厚な個人

 5章:共振

 6章:擬似同化

 7章:なぜ「君」と書かれるか

 8章:ゼロ人称

 9章:短歌が本質的に抱える違和感1

 10章:短歌が本質的に抱える違和感2

 

 

 1章:君でないひと

 

 

 塗り絵のように暮れてゆく冬 君でないひとの喉仏がうつくしい 大森静佳『てのひらを燃やす』

 君じゃない人と歩けば降りそそぐこれは祝福の桜じゃないな 千種創一『砂丘律』

 君でなきひとに会うにもバス停にひかり浴びつつ待たねばならぬ 染野太朗『人魚』 

 

 「君でないひと」「君じゃない人」「君でなきひと」……短歌でこのような表現を見るたびに違和感を覚えます。意味が通らないというわけでもなければ、短歌の表現としてまずいということでもないのです。むしろ短歌の表現として至極まっとうだからこそ、短歌というものが本質的に抱える違和感をあぶりだしているようなそんな感じがするのです。

 それがどんな違和感かというと、この「君」は本来ならば三人称で把握されるべきではないのかと思ってしまう、というものです。

 「君でないひと」を見ている時の私にとって「君」は第三者です。「君」は二人称ではなく三人称で呼ばれるべきではないでしょうか。

 確かにそうはならないケースは存在します。「君」に対してそれを報告している場合です。それならば一首の言葉全体が「君」に向けられているわけですから、呼称が「君」となることに何ら問題はありません。けれど一首目の大森歌はやや微妙なのですが(私は呼びかけとは思いませんが)、千種歌と染野歌は独白の可能性がかなり高い。特に千種歌の結句であるところの語尾「じゃないな」は明らかに「君」には向けられていません。

 言葉の向かう先でないにもかかわらず「君」と呼ばれるということ。これは引用した三首だけに見られるものではありません。たとえば大森の同歌集から別の歌を引いてみましょう。

 

 もみの木はきれいな棺になるということ 電飾を君と見に行く 

 

 もし「君と見に行ったね」などなら「君」に呼びかけているわけですから、「君」でいいのですが、この場合は単に事実を記述しているのみです。だから適切なのは以下ではないでしょうか。

 

 もみの木はきれいな棺になるということ 電飾をA[彼、彼女、特定の人物の呼称]と見に行く

 

 これは小説の地の文で考えると分かりやすいのではないかと思います。一人称小説で視点人物以外の登場人物が走った場合、一般的に「君は走った」とは書かずに「Aは走った」と書きます。もちろん三人称小説でもそうなります。二人称小説の主人公が走った場合は、確かに「君は走った」ですが、少なくとも現代日本では二人称小説自体が例外的と言えます。

 けれど肝心なのは適切な方がよいとは限らないということです。これまで引用した歌はすべて「A」と書かれるより「君」と書かれている方が、何となくしっくりきます。なぜでしょうか。

解答例:短歌では「君」とあったら恋人と受け取るのが半ばお約束のようになっている。だから恋人であることを示すために(冒頭に引用した三首はすべて、少なくとも染野歌以外の二首の「君」は、恋人で間違いないだろう)、「君」と書いた。人称なんてどうでもいいことではないか。

 上記の解答を間違いとは思いません。むしろそれくらいに考えて割り切ってしまう方が、いいような気がします。けれどここは敢えて少し回り道をして考えてみたいと思います。以下の議論はそもそもこんなことを考える意味が分からないという方には、全くの蛇足以外の何物でもないかも知れません。

 

 

 2章:グリーティング・カードとイコン

 

 

 前章で「君」についての違和感について述べましたが、私は「君」について、もう一つ別の違和感を持っています。それは「君って誰だよ」ということであり、もっと言うなら「君って私じゃないの」と言いたくなる思いです。

 これはむしろ前章で引いたような歌ではなく、正しく「君」に呼びかけている歌でこそ生じうる違和感です。

 

 たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか 河野裕子『森のやうに獣のやうに』

 

 これが私宛に投函された手紙の本文中にあったら、基本的には「君」=手紙の読者、すなわち私ということになります。けれど短歌ではそうならない気がする。ならない気がするが、ならなければならない気も一方でしてそれが気持ち悪い。でもやはりならないと思う。

 なぜならないと思うのか。なぜ「君」=私、「君」=読者ではないのか。

 小説家・橋本治は著作『風雅の虎の巻』で、短歌についてこんなことを書いています。

 

 短歌っていうのはグリーティング・カードですね。贈ったり贈られたりする。貴族っていう、儀式、様式の中に所属する、関係だけで人生を演じていたものが作り上げた社交芸術ですよね。だから短歌というものは、それが流通する社会がなければ成立しない。(橋本:二五八頁)

 

 橋本は古典に造詣の深い書き手で、だからここまでは古典和歌を意識した記述と取れます。古典期において短歌は本質の部分でグリーティング・カードであったということです。つまりある程度、手紙のように明確な受け手がいたということになります。

 つまり「君」=読者は、かつてはありえたし、むしろそれが中心だった、というわけです。

 さて肝心なのはこの続きです。

 

 だから、お城や御殿がなくなって、それが流通する場を失ってしまった現代短歌というものは、グリーティング・カードであることが不可能になって〝聖画(イコン)〟になるしかない。どんどん個人的な深まりだけを見せて、言葉に濃厚な意味がこめられるようなっちゃったけど、でもそのかわり、そんなに濃厚になってしまった個人とわざわざ日常的な関わりを持とうとする社会なんて、〝結社〟の他にはない。だから、作者の呪詛は作品の中で清められて聖画(イコン)になっちゃった。(橋本:二五八-二五九頁)

 

 「聖画」という語の内、シニカルなニュアンスで用いられている「聖」の部分はひとまず脇に置いておきましょう。注目したいのは「画」です。イコンは絵です。かつてカードの受け取り手だった読者は、現代においては絵画の鑑賞者に変貌を遂げたのです。

 たとえば暑中見舞いを例にとって考えます。それに切手を貼って投函した場合はグリーティング・カードとして機能しますが、額縁に入れて壁に掲示してしまえば鑑賞を目的としたアート作品となります。壁に「暑中見舞い展」とでも書いておけば、やがて客がやってくることでしょう。グリーティング・カードからイコンへの転換とは、贈ることから掲示することへの転換であると言えます(※)。

グリーティング・カードは送り手と受け手を架け渡す橋のようなもので、それを通じて送り手と受け手の間には関係性が生じます。けれどイコンの場合、送り手から伸びる橋は途中で途切れます。川に突き出した桟橋のようなものです。読者は川の向こう岸からその桟橋を眺めることしかできません。もちろんコミュニケーションを取ることはできますが、その取り方は、グリーティング・カードの場合とは全く違ったものになることでしょう。

 

※:当然のことながら、グリーティング・カード→イコンという流れをそのまま短歌史の流れとして受け取る短絡は避けられなければなりません。けれど本論ではその辺りのことは問題ではなく、短歌にはグリーティング・カード的な受容のされ方と、イコン的な受容のされ方の二通りがあるということ、そのことを確認できれば十分です。

 

 

 3章:四人称

 

 

 読者は、作品、書物の世界を、外からのぞき見ていることになる。ことばも、自分に向けられていることが実感されないで、立ち聞きに近いものとして了解される。人間の理性がこうした困難な伝達に興味をいだくようになっているらしいから、読者は一般の聴者以上の知的満足、感銘を受けることが可能になる。その興味は、表現されている事柄とは、多くの場合さほど関係がない。(外山:五六頁)

 

 この文章は『思考の整理学』などの著作で有名な英文学者、外山滋比古のエッセイ『第四人称』から引用しました。その名の通り、四人称というものの存在について言及した著作です。四人称とは何でしょう。

 

第一人称、第二人称、第三人称のコンテクストから独立した表現の受容者である。読者も第四人称であるし、話を又聞きする人もそうである。非当事者がことばの伝達にかかわる場合、すべて、第四人称的性格を帯びている。(外山:三-四頁)

 

 たとえば私が喫茶店でくつろいでいるとします。隣のテーブルに二人組がいます。Aが主な話し手で、向かい合うBに対し、その場にいないCという人物の愚痴を延々と言い続けています。私はその話にいつしか耳を傾けています。この時、Aを語り手=一人称とするなら、Bが二人称、Cが三人称で、私が四人称となるというわけです。

 イコンの鑑賞者である現代短歌の読者も、この四人称の位置にいることは間違いないでしょう。そう考えると、「君」=読者が成り立たない理由がはっきりします。読者(鑑賞者)は非当事者です。むしろ非当事者であることが保障されることによって、読者が生まれるのだと言ってもいい。

 読者の立ち位置については、日記や手紙で考えると分かりやすいと思います。日記は読まれることを前提としませんし、手紙は対象を限定して書くもので、見えない読者なるものを想定して書くものではありません。けれど第三者が日記や手紙を盗み見してしまうことは十分にありえます。もしかしたら現代短歌はそのようなものとして理解できるかも知れません。読者はけして自分には向けられていない日記や手紙を盗み読むのです。

 盗み読みする日記や手紙は面白い。けれど実際に盗み読みする機会は滅多にないし、下手をすれば犯罪にもなりかねない行為です。だから公然と盗み読みを体験できる装置として現代短歌がある。作者はあたかも読者のことなど想像もしないかのようなそぶりをして、私(日記)や君(手紙)に向けて言葉を紡ぐ。読者はそれを読んで盗み読みの欲求をみたす。作者はより強く読者の興味を引くように様々な技法を駆使し、内容を捻ったりもするが、あくまでも盗み読まれるのが目的だから、読者を意識しているそぶりは見せないようにする。

 確かに短歌にはそのような側面がある気がします。しかし読者にとっての短歌の本質はそこでしょうか。そうだとしたら自分と関係のない人物が発信するミニブログやSNSのようなものと、本質的には何ら変わりのないものになってしまうのではないでしょうか。

 

 

 4章:濃厚な個人

 

 

 先ほど「聖画」の話をした際、「聖」の部分は検討から外しました。今度はそれについて考えたいと思います。

 橋本は「濃厚になってしまった個人」と言っていますが、この「濃厚」とは何か。

小説家の保坂和志が『書きあぐねている人のための小説入門』で小説について書いているものが、実は非常に現代短歌的だと思うのでそれを引いてみたいと思います。

 

 小説とは、〝個〟が立ち上がるものだということだ。べつな言い方をすれば、社会

化されている人間のなかにある社会化されていない部分をいかに言語化するかという

ことで、その社会化されていない部分は、普段の生活ではマイナスになったり、他人

から怪訝な顔をされたりするもののことだけれど、小説には絶対に欠かせない。(保坂:一六頁)

 

 社会化という言葉が出てきましたが、すべての人間関係は社会関係と言えます。家族間であってもそこには社会性が生まれます。だから頭に浮かんだことをすべて言うようなことはありえないし、いくら関係が近くてもいや近いからこそ口に出さないようなこともある。たとえば「感情」というのがそれでしょう。そこに生じても口にすることが許されない感情、ないことにされる感情。たとえば結婚式の最中に新郎の友人のことを「ちょっといいな」と思ってもそれを口にする新婦はいないでしょう。それは社会的に捨象される、なかったことにされる感情です。

 あるいは自分独自の認知。「夕日がきれい」は共感されても「夕日に照らされたエアコンの室外機がきれい」は共感してもらえるか分からない。口に出したら変に思われるかも知れないので黙っておこうと思う。

 このように短歌が、社会性が邪魔して口に出せず、放っておけばそのまま消えてしまうようなことがらを口にするための器であるということは、それがすべてではないにせよ、かなりの程度言えるような気がします。

 「濃厚」とはつまり、社会化の段階で捨象されてしまうような感情や認知が露になっている、ということではないでしょうか(※)。

 短歌に相聞歌が多いのも説明がつきます。「君が好きです」は無暗やたらに口に出すわけにはいかず、しかるべき状況ではないと言えない言葉だからです。それは日常生活に潜在的に存在しながら、ないことにされている言葉の筆頭格です。

 

 

 5章:共振

 

 

  短歌作者は、濃厚なもの、すなわち社会化の段階で捨象されてしまうような感情や認知を書く。読者はそれを読む。どのように読むか。 先の外山の議論を踏まえるなら、それを覗き見して好奇心を満たすということになるでしょうが、恐らくそれだけではない。

 橋本の「濃厚になってしまった個人とわざわざ日常的な関わりを持とうとする社会なんて、〝結社〟の他にはない」という記述を思い出しましょう。これは短歌作者の濃厚についてのみでなく、それに関わろうとする結社の奇特さについても言及しています。ちなみに橋本の文章は八〇年代後半に書かれたものです、今の短歌社会は結社だけが主流ではないので、結社はもっと広い語で言い換えていいと思います。短歌読者で構成される社会です。なぜ彼らは奇特なのか。

 短歌読者に短歌作者が多いことを考えれば、答えは簡単に導き出されます。短歌読者もまた短歌作者同様に濃厚な個人(※)だからでしょう。だから短歌においては、濃厚な個人が濃厚な個人を読むわけです。だから「読者とは非当事者である」という定義と矛盾するようようですが、他人事でありながら他人事としては読まないのではないかと思います。読み手と書き手が距離を隔てながらも共振するような作用が起こるのではないでしょうか。 

 

 もみの木はきれいな棺になるということ 電飾を君と見に行く 大森静佳

 

 先ほど「君」を「A」に変える操作だけを行い、読解はしなかった歌ですが、少し読みます。

 クリスマスの歌だと思います。「君」は恋人でしょう。

 恋愛関係はそれ自体が祝祭的なものです。祭りのようによろこびに満ちた日々。幸福な日常の時間の背後には、しかし人生の時間が流れており、木が切り倒されて棺になるように、私たちの未来にも死が待っている。その死は本当の死でもあるでしょうし、私たちの破局というものの予感も含んでいる。

 それから「電飾」も見逃せない。木を見に行くのではなく電飾を見に行くのです。祝祭を祝祭たらしめているのは、木ではなく所詮電飾なのだ。その本質を見定める目は、諦念と表裏です。電飾が取り外されてしまえば祭りは終わるのだ。私たちの関係も……。

 それから韻律的に注目すべき点は句またがりです。これにより「きれいな棺に/なるということ」の八/七音で歌が最高潮に達したような印象があり、「電飾を君と見に行く」の八/四音をとても静かに読み流せてしまいます。楽しいデートのようなのにどこか葬式のようなムードです。

 もちろん作中主体は表向きは明るくふるまったのでしょう。恋人に「楽しいね」と聞かれれば「楽しいよ」と答えただろうし、実際楽しかったことは間違いないでしょう。けれどその楽しかった中にも死や別れの予感、諦めのようなものを感じ取ってしまった。これはとても恋人の前では口にできないことです。

 以上で読解は終わりです。ここで大事なのは、この読みが客観的に妥当かどうかということではありません。むしろ客観的に妥当かどうかが問われうるということです。なぜ妥当かどうかが問われうるかといえば、読むことが非常に個人的な行為だからです。読む際に私は私自身をある程度作中主体に投影しています。読みとは常に主観的なものなのです。

 極端なことを言うなら、読むことは私がかりそめに作中主体になることなのです。つまりイコンであるところの現代短歌においては、「君」=読者は成り立たなくても、「われ」=読者は限定的にですが成り立ちうるのです。そしてある意味、「われ」=読者は、「われ」=作者よりも強固な結びつきを持つのではないかと思うのです。書かれたものは書いたものの手を離れますが、読むものは何度もそれと出会い、読みを深めていけるのですから。

 なぜ読者は「われ」と自身を重ねることができるのか。秘密は短歌の一人称性にありそうです。

 

  ※:こう書くと、「濃厚な人とそうではない人がいて、濃厚な人が短歌をやる」という風に読めてしまいますが、これは便宜上そのように書いたまでです。人は誰もが濃厚さを抱えていきていますが、濃厚さとのかかわり方は千差万別です。完全に見て見ぬふりをして生きていける場合もあれば、それが制御できずに社会と折り合いをつけられない場合もあるでしょう。短歌はその濃厚さと付き合うための手段の一形式であると言えます。ただこの形式を選んだということは、自分自身の濃厚さを受け入れることを選んだわけです。この選択は誰もが行うものではありません。

 

 

 6章:擬似同化

 

 

 短歌というのは定型の器に入った言葉の配列ですが、ここで定型を四角い箱だと考えてみましょう。作品はその六面体の箱の内側の面に書かれています。さてその場合、作品を見るためには箱に穴をあける必要があります。箱の六面の内、一面を取り外すことにします。これで覗き穴ができました。読者が作品を眺めることができるようになりました。

 その代わり、取り外した面の裏側に何が書かれているか読者には見ることができなくなりました。覗き穴を得たと同時に、読者は作品の一部が閲覧不能になったのです。閲覧不能な部分に何が書かれているかは、他の部分から予想するしかありません。

この失われた一面には何が書かれていたか、それは作中主体、つまり短歌の「われ」です。というよりもむしろ取り外した一面だと思っていたのは、作中主体の顔だったのです。

短歌は、すべての短歌がそうではありませんが、一般的には「われ」の視点から書かれます。「われ」の視点から書くということは、「われ」についての客観的な情報が欠けるということと同義です。そして欠けている以上、読者は読む行為を通してその欠落を補おうとします。だから短歌の読みは自然と「われ」への言及に向かっていくのです。たとえば「われ」の人物像、性格や気質、その時の気分や感情、その場の状況や雰囲気などです。

 「われ」がさっきまで顔を置いていた場所に、今あるのは読者の顔です。だから探究した結果「われ」が浮かび上がってくるのは読者の位置であると言えます。短歌の一人称性とは、一人称の作中主体と四人称の読者を重ねるための仕掛けにほかならないのです。

 前章の読解において、句またがりから私は「お葬式ムード」を導き出しました。これは作中主体の心情にかかわる部分であり、「われ」についての情報であると言えます。

これは作品に書かれていた情報ではなく、私が読み取った情報です。本当はただ句またがりがあるだけです。けれど私はその句またがりに「お葬式ムード」を勝手に読み取り、その上で読み取ったことがらを、作品にあらかじめ書かれていたことであるかのように語りました。ねつ造と言われても仕方のないような行為です。けれどこの行為を通してしか短歌は読めません。

 作品を読むというのは作品から受け取った情報を、作品に投げ返す行為なのです。「作品に」は「作中主体に」とも言い換えられます。読者は「われ」を探っているのですから。つまり読者は「私が感じたこと」を「作中主体が感じたこと」として投げ返すのです。逆にいえば「さみしい」と作中に書いてあっても、読者がほんとうにそれを読んでさみしさを感じなければ、さみしさを帯びた作中主体は立ち現われません。書いてあることそのままが投げ返されるのではなく、いったん読者を経由するのです。

 投げ返しによって、作品は読者の前にあらたな姿を現します。あらたな対峙はあらたな投げ返しを生みます。投げ返した部分には読者の主観が当然のことながら張り付いています。だから投げ返しを繰り返すたびに、「われ」は読者に染まっていきます。それにより、あくまで限定的にではありますが、「われ」=読者が成り立つのです。

 短歌とは、そのような擬似同化を体験するための装置なのです(※)。

 

 

※:短歌定型の存在はこの擬似同化には欠かせない装置であると考えます。

短歌をある程度読み慣れた読者は五七五七七のリズムを内在化します。そして短歌を読む際には、そのリズムを基準として読みます。それはすなわち五七五七七の無音です。読者は韻律の面においては個々の短歌を、この五七五七七無音という標準値からの偏差として受け取ります。完全定型歌であっても、音を持つ時点で偏差が生じていると言えますし(A音はAへの、O音はOへの偏りなのです)、切れのこともあります(ちなみに標準値の韻律を切れ無しとするのか、上の句と下の句の間で切れていると考えるのかには、議論の余地があります)。

そして標準値からのずれの印象を作品の雰囲気や意味に置き換え、作品に投げ返すのです(先の「お葬式ムード」がこの一例です)。重要なのは、ずれを感受する基準であるところの標準値が、読者に内在されたものであることです。つまり短歌の読解は韻律の面においては、おのれの外にあるもの(個々の短歌作品)をおのれの内にあるもの(定型の韻律)に重ねるというところから始まるのです。このことは標準値の韻律を読者の皮膚、個々の短歌作品を衣服のように考えると分かりやすいのではないでしょうか。短歌を読むことは、服を着るようなものなのです。

 

 

 7章:なぜ「君」と書かれるか

 

 

 現代短歌の読者は四人称的につまり非当事者として短歌作品にかかわりますが、単なる窃視者ではありません。作中主体の位置から作品世界を覗くことで、作中主体と重ね合わせられ、投げ返しによって作中主体と限定的ながら同化を成します。

さてここまでくれば、1章の「君」の問題は解けているものも同然です。「君」という言葉は親愛のニュアンスを含みますが、なぜ「君」は恋人なのでしょう。実は人称の近さが理由なのではないでしょうか。

 「君」という言葉は相手が近くにいるように思わせます。これを「彼」や「彼女」や「A」と呼んでしまうと、読者は遠さのニュアンスを、心理的距離をそこに見てしまう。短歌においては、「A」と書かれた途端に読者が遠さのニュアンスを敏感にかぎつけ、「心理的距離があるから、この人物は恋人ではない」という推測を作品の方に投げ返してしまう。その結果「A」=非恋人となる。

これは「恋人」と書くことによっても起こりうることです。「恋人」という風に第三者的に呼ばれることにより、「事実上の関係としての恋人ではあるかも知れないが、今この瞬間にはさほど愛おしさの情を感じているわけではない」という風に投げ返される可能性を持ちます。

 反対に「君」と書けば、作者がどう思っていようが、「君」=愛おしさの情を感じている恋人という情報が作品に投げ返されることが多いわけです。だから恋人について書こうと思ったら相手がどの位置(人称)にいようと「君」というのは有効な戦略なわけなのです。

 

 

8章:ゼロ人称

 

 

 ところで、外山の『第四人称』にはこのような記述があります。

 

 俳句や短歌に第一人称が文字化されていることはすくないが、やはり、ゼロ人称の表現としてよい。(外山:五三頁)

 

最初この文章を見た時、私は書き誤りなのではないかと思いました。短歌を知らないからこのようなことが言えるのだと。しかしよく考えるとそうではないことが分かってきました。

 このゼロ人称とは何か。

 

 日本語では、ひとりごと、日記などに限らず、第一人称の主語のない表現がすこしも珍しくない。それは、第一人称の主語が落ちているというより、ゼロ形式の主語であると考えた方がわかりやすい。(外山:二頁)

 

 このゼロ形式の主語のことを、外山はゼロ人称と呼んでいます。 

 短歌はなぜゼロ人称なのか。答えを探ってみたところ以下の文章に見つけました。日記についての記述ですが、短歌にもそのまま当てはまると思います。

 

 日記にあらわれる第一人称は、一応は、書き手と同一人であると解されるけれども、やかましく考えると、日記を書いている〝私〟と、日記の中に出てくる〝私〟とは同一ではない。文字になった〝私〟が第一人称ならば、日記を書いている〝私〟はゼロ人称と言った別の呼び方が妥当であるように考えられる。(外山:五二頁)

 

 作中主体は一人称で、読者は四人称ですが、作者はゼロ人称なのです。

 作中主体は「君」に呼びかけたり、前述した複雑な仕掛けによって読者と同一化したりしますが、作者の次元には、作中主体も読者も存在しません。だから作者から見ると短歌の一人称性なんてものはフィクションです。短歌には作者のゼロ人称だけがあります。作者は誰とも関係を持ちません。関係を持つ相手がいるとしたら、それは言葉だけです。

 読者が作者に言及するというのは、一歩引いた目で見るということです。作中主体が生きられる場として作品を見るのではなく、「作中主体が生きられる場」として設計された場として、つまり言葉として作品を捉えた時に見えてくるのが作者です。

 作中主体=読者はありえますが、作中主体=作者もありえますが、作者=読者はけしてありえません。むしろ限定的な「作中主体=読者」の中の「作中主体≠読者」の部分、どこまで近づいてもけして縮まらない距離、絶対的な断絶、これが作者であるとさえ言えるかも知れません。作者は作品において絶対的な他者として見出されます。

「作者の意図は…」という形での理解は、純粋な感受ではなく理屈を含みます。私にはそう思えないのだが、この人にとってはそうなのだろう、というような隔たりを持ちます。

 短歌を読むという行為は、おそらく作中主体=読者と作者≠読者を行ったり来たりする経験なのだろうと思います。ですから短歌は限定的な擬似同化の装置でありつつも、擬似同化の限界点に他者を見出すための装置にもなりうるのです。

 そうなってくると、以下の文章も見逃せないものとなります。

 

 「ここへは駐車しないでください」という掲示では、第一人称も第二人称も文字ずら(原文ママ)には表われてはいないが、ゼロ人称が、第二ゼロ人称に向けて発したことばであると見ることができる。(外山:五三頁)

 

 この第二ゼロ人称が何なのか外山は特に説明していませんが、呼びかけの形式を取ったひとりごとが向けられる先という風に考えればいいと思います。「ここへは駐車しないでください」はそれを見た人に向けられているようで、向けられていません。誰かに呼びかけているようで、実は誰にも呼びかけてはいないのです。ただ形式が呼びかけである以上、便宜上、呼びかけの向かい先のようなものが必要なだけで。

 

 たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか 河野裕子

 

 この歌の「君」が読者でない理由は、2章で短歌がもはやグリーティング・カードでないことから説明しました。読者はイコンとなった短歌を覗き見る第四人称的な存在であり、作中の「われ」と同化することはあっても、「君」との同化は原則的にありえません。

 ではこの「君」とは何か。作中主体である一人称からすると、呼びかけの相手である二人称ということになりますが、作者であるゼロ人称からすると、第二ゼロ人称ということにならないでしょうか。というよりも、作者の次元から見ると「君」は本当は呼びかけの対象ではないのではないか。

 少しややこしいですが、この歌の構図を作中主体の次元から見た場合は、

 

①「1われ→(たとへば君…)→2君」

 

となるかと思います。算用数字は人称です。1が2に()内のメッセージを伝達するという構図です。これに読者を含めると、

 

②4読者→「1われ→(たとへば君…)→2君」

 

となります。1が2に()内のメッセージを伝達する構図を4が1の方向から覗いています。

作者の次元だとこうなるのではないでしょうか。

 

③「0作者→{1われ→(たとへば君…)→2君}→0言葉の向かう先」

 

つまり作中主体の行為がまるまる{}にくくられるわけです。読者の位置は同じです。

 

④4読者→「0作者→{1われ→(たとへば君…)→2君}→0言葉の向かう先」

 

となります。これがもし短歌でなければ、

 

⑤「0作者→{1われ→(たとへば君…)→2君}→0言葉の向かう先」→4読者

 

となることもあるでしょう。「ここへは駐車しないでください」はこちらになるケースでしょうか。

それはさておき、「君」という二人称に向けられているように思えた言葉は、実は誰でもない第二ゼロ人称に向けられており、だから「君」=読者は、二重に否定されます。「君」と読者との同化がありえないという理由とは別に、そもそも「君」にも向けられていない、という理由でも否定されるのです。

作者の次元から考える限りでは、「われ」は厳密には呼びかけの主体ではないし、「君」も厳密には呼びかけの対象ではない。ということは厳密には「われ」は一人称ではないし、「君」は二人称ではないということを意味します。そうなると、「われ」や「君」は、「われ」や「君」という名で呼ばれる作中人物であるということになり、つまりは三人称です。

変なたとえをしますが、短歌を一行の掌編小説だとするなら、実はそれは「われ」を一人称とした一人称小説ではなく、作者を神の視点とした三人称小説だったのです。1章や7章で見てきた三人称的に「君」が用いられるケースも、そもそもにおいて「君」は三人称なのだ、という風に考えると謎はなくなります。

 

 

9章:短歌が本質的に抱える違和感1

 

 

前章の構図ですが、厳密に考えると不正確なのではないかと思います。「1われ→(たとへば君…)→2君」という構図は、「われ」が「君」に言葉を発していることになりますが、実際にはこれは心の声のようなものなのではないでしょうか。

そう思う根拠は4章の議論です。この歌のメッセージは、日常において口にすることができないからこそ、短歌のかたちをとってはじめて口に出されたのだと思うのです。この歌の背後には、歌のメッセージの「言えなさ」があるように思います。君に対しての沈黙が。

もちろんこれは一つの読みの投げ返しに過ぎず、直接の発話を歌にした可能性もあります。けれどそうでないとした場合、構図は以下のように変形します。

 

⑥「0われ→{1われ→(たとへば君…)→2君}→0言葉の向かう先」

 

 作中主体の思いの次元と発話の次元を分けました。君に向けて直接発話している構図を想像しつつ、その発話を心の声としてどこでもない場所に向けているという構図です。

 

⑦4読者→「0作者→[0われ→{1われ→(たとへば君…)→2君}→0言葉の向かう先(作中)]→0言葉の向かう先(作外)」

 

作者の次元、読者の次元を含めるとこうなります。非常に複雑な構図です。読者が読む際、こんなややこしい構図を意識するでしょうか。

「0言葉の向かう先(作中)」と「0言葉の向かう先(作外)」は厳密には別の第二ゼロ人称です。けれどある意味似たようなものです。似たようなものをわざわざ区別するでしょうか。

「2君」と「0言葉の向かう先(作中)」もそうです。独白であっても、本当は言えていなくても、想像上は「君」に向けられた言葉なのだから言葉は同じ方向を向いています。ここも区別はしないのではないか。

そうなると構図は以下のように変形します。

 

⑧4読者→「0作者=0われ=1われ→(たとへば君…)→2君=0言葉の向かう先(作中)=0言葉の向かう先(作外)」

 

そしてこの「=」もいちいち考えないでしょう。何人称なのかいちいち考えるのも煩わしいことです。また自分の立ち位置を考えながら読む読者というのは空想的な存在に思えます。だから以下のように単純化されます。

 

⑨「われ→(たとへば君…)→君」

 

いや、それすらも考えないかも知れません。

 

⑩「たとへば君…」

 

構図など考えず、ただ言葉があるだけと考えるかも知れません。

その方が正しいような気もします。実際にはただ言葉があるのみであり、作者とか作中主体とか一人称とかゼロ人称とかそんな妄想は切り捨てて、歌の言葉それ自体に向き合った方が得るものが多いのではないか。

 1章で私はこのように書きました。「むしろ短歌の表現として至極まっとうだからこそ、短歌というものが本質的に抱える違和感をあぶりだしているようなそんな感じがする」と。この短歌というものが本質的に抱える違和感というのは、少なくとも読む際の便宜としては⑩や⑨でいいところを、わざわざ⑦のような煩雑な構図を見てしまう、ということと何か深い関係があるのではないでしょうか。

 本論冒頭の三首の内から、また大森歌を例にとって考えましょう。

 

 塗り絵のように暮れてゆく冬 君でないひとの喉仏がうつくしい 大森静佳『ての ひらを燃やす』

 

 この歌の構図は以下のようになります。

 

 ①「0われ→{1われ→「塗り絵の…」→2君}→0言葉の向かう先(作中)」

 

読者の次元と作者の次元は省きます。ここまでは河野歌と全く同様の構図です。けれど河野歌の⑧と対応させてみると異なる相貌を見せます。

 

②「0われ=1われ→「塗り絵の…」→2君≠0言葉の向かう先(作中)」

 

思いの次元では「君」が意識されていますが、発話の次元ではそれは「君」に向けられてはいないように思います。想像の上でも言葉は「君」の方を向いていません。それでいて「君」に聞かれることは意識している。だから読者が⑨のように読もうとした際にこのような構図になります。

 

③「われ→「塗り絵…」→君and言葉の向かう先」

 

言葉を「君」に向けていると同時に向けていない、という構図です。このような構図は別に不可解なものではありません。「他人を意識したひとりごと」というものも私たちはコミュニケーションの方法の一つとして行うからです。

けれどこの③の構図にとどめておけばいいものを、それをつぶさに見つめてしまうと、②が見えてきます。ここで煩雑さが露呈します。作者の次元、作中主体の発話と思いの次元、この三層にわたって構図が一貫している河野歌は各層の同一視がしやすいのに対し、ここが一貫していない大森歌は同一視が不安定になりやすいという特徴を持っています。もちろんこれは歌の優劣とは別問題です。

 

10章:短歌が本質的に抱える違和感2

 

けれど実を言うと、河野歌の方にも違和感がないわけではありません。河野歌の「2君」と「0作中主体(作中)」と「0作中主体(作外)」は大体同じようなものです。だから同一視されます。どの次元においても「君」です。そうなると現実に「君」に向けた発話に近くなります。

けれど作者の現実としてはどうであれ、読者の現実に「君」はいないわけです。読者自身が「君」なわけでもない。作中のどの次元でも「君」に向けられているのに、その「君」がどこにもいないことによって、読者の次元で虚空に向けられることになる言葉。これは「対象の不在」です。

そうなった時、立ち返るのは先に述べた、歌の言葉の「言えなさ」のことです。河野歌において実際に起こったのは、そのような発話ではなく、そのような発話の不可能性です。歌はそのように「言えなかった」ことによって形成されたのです。こちらは「メッセージの不在」です。

このように考えた場合、河野歌は、作中主体あるいは作者の次元における「メッセージの不在」を、読者の次元における「対象の不在」に仮託して表現した作品ということになります。読者は「対象の不在」を、言葉がむなしく響くさまを体感することによって、そこから作中主体あるいは作者の「言えなさ」を理解します。

様々に姿を変える歌の構図は、読者の投げ返しによって変化するものです。このように投げ返す場合に、歌は読者にどのような構図を見せるか。

 

⑪「われ→「たとへば君…」→君or言葉の向かう先」

 

これは大森歌の③に似ていますが、意味はかなり違います。「たとへば君…」が「君」に向かう場合は、「言葉の向かう先」には向かわず、言葉は発せられない(「メッセージの不在」)。反対に「言葉の向かう先」に向かう場合は、言葉は発せられるが、「君」には届かない(「対象の不在」)という構図です。この構図をつぶさに見つめると以下のような煩雑な構図が見えてきます。

 

⑫「0作者→[0われ→{1われ→(たとへば君…)→2君}→0言葉の向かう先(作中)] or[0われ→{1われ→(たとへば君…)→2君}→0言葉の向かう先(作中)]→0言葉の向かう先(作外)」

 

 こんな煩雑な読みは少しもよい読みではありません。

 だから読者はこのような読みをしないように、このような読みをしそうな部分からあえて目をそらそうと、耳をふさごうとする。メッセージの「言えなさ」を感じ取ることはしたとしても、それを構図に反映させる契機となる「対象の不在」、つまり「君」が現実の読者の次元においていないことについて気にしないふりをする。メッセージが虚空に響くむなしさをきかないでおこうとする。読みを抑圧するのです。 

抑圧された読みが、完全に消し去られることのないまま心に沈殿しているさまが作品に投げ返される。あるいは短歌の違和感とは、抑圧された読み、読まれなかった読みの投げ返しによるものなのかも知れません。

 もっともこれは私という読者における一つの事例の考察に過ぎません。どの程度普遍化可能かについては、この文章を読んだ皆さんに考えて頂けたらと思います。

 

 

引用出典

大森静佳『てのひらを燃やす』二〇一三,角川書店.

千種創一『砂丘律』二〇一五,青磁社.

染野太朗『人魚』二〇一六,角川書店.

河野裕子『森のやうに獣のやうに』一九七二,青磁社.

橋本治『風雅の虎の巻』一九八八,作品社.

外山滋比古『第四人称』二〇一〇,みすず書房.

保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』二〇〇八,中央公論新社(中公文庫).

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短歌評 短歌を見ました番外編 飯塚距離「潤潤恵」について 鈴木 一平

2017-06-23 13:57:06 | 短歌時評

 「穀物」は部屋中に散らかった本の下敷きになってしまったのか見つからず、次回に持ち越します。短歌時評の締切が近づくたびに「穀物」を探すというイベントを半年ぐらいのペースでやっていたのですが、ついに破綻してしまったので、次回までにはなんらかのかたちで調達できればと思います。

 というわけで、今回は四年ほど書きそびれていたことを書こうと思います。飯塚距離という歌人がいます。感じについては彼のブログ「パンデモーニカはぱんでもヶ丘」に公開されている連作のいくつかを見ていただければわかると思いますが、根底に現代詩の参照を感じる、言葉遊びに傾斜した語の選択が特徴的な作風です。いわゆる言語実験的な側面が強く感じられますが、ここでは彼の代表作である(と個人的におもう)「潤潤恵(うるうるえ)」という連作について考えてみたいとおもいます。掲載媒体は2013年に公開されたネットプリント誌『県南のジャベリン』で、現在は前述のブログ記事から読むことができます。『県南のジャベリン』については、公開当初の「ジンクスと都市伝説のペーパー」という奇妙な触れ込みが印象的だったのを覚えていますが、本連作は短歌と、既存の短歌を組み合わせてつくったジンクスから構成されています。「既存の短歌作品を組み合わせてつくったジンクス」とはどういうものなのか、イメージしにくいと思うので、凡例を引用してみましょう。

たくましい人間から放たれた矢が壁画の牛をまだ貫かないとき、たくさんの星を積んだ馬車が現れる、その馬車は広い額の上を通り過ぎていく(AM県・MYさん)

 紙面では斜体で記述されています。パーレン内の県名・氏名のイニシャルはそれぞれ、引用元となった短歌作品の作者名であり、上記のジンクスは次の作品からつくられていることを現します。個々に独立した作品としてあった二首の短歌が合体させられているわけです。

矢をまさに放たむとして人逞し壁画の牛はいまだも刺されず(雨宮雅子)
おびただしき星のせてゆく馬車のありあまりに広き額の上を(鳴海宥)

 注目すべきは、ジンクスとして組み合わされた二個の作品と、その結果として生み出されたジンクスのあいだの差異が、先行作品に内在する意味の一部をつよく前景化するようにあらわされている点です。一見してわかるように、ジンクスへの転写に伴い、二つの短歌に共通していた文語的な語調が噛み砕かれています。そのなかで、短歌「矢をまさに」の結びである「いまだも刺されず」が、ジンクスでは「まだ貫かないとき」と翻訳され、続く「おびただしき星」へと至る場面提示となっており、作品内に描かれた情景が、続いて引用される作品へと接続されています。つまり、ここで短歌形式と形式内部に組み込まれていた情報とが分離され、そのことによって短歌自体に内在していた意味の要素が短歌そのものの自律性から独立し、別の言語表現に転写可能なものへと改変されているわけなのですが、話はそれだけではありません。ここで行われている事態は単なる短歌の改変以上に複雑で、「作品を読み、それについて何かを知覚する」行為そのものに内在する質を、かなり鋭く提示しているのではないかとおもいます。短歌とジンクスの両者を比較しながら、そこで行われている書き換えの過程を見ていきましょう。
 まず、先に改変されている短歌「矢をまさに」とジンクス「たくましい人間~まだ貫かないとき」から見ていきます。「矢をまさに」で主題となっているのは、狩人が矢をもって牛を射止める瞬間を描いた(おそらく先史時代に制作された)壁画を観る私、つまり放たれた矢が絵のなかで牛に刺さることなく固定されたまま、気の遠くなるような時間を経て鑑賞者の目に出会ったその感慨であるといえます。作中で「私」は明示的に名指されてはいませんが、短歌形式は音数律や語配置の問題から俳句と比べて「事物」よりも「事物を認識する私」についての叙述に有利であり、かつ「私の心情」を詠むよう鍛え上げられてきた歴史を持つため、「この認識を持つ私」を強く要請するジャンルです(歴史的過程についてもうすこしいえば、「私性」の前提が作品のなかに位置づけられるべき「ある事物を認識する私」を慣習的に出現させてしまうのかもしれませんが)。前者については「57577」における「575」「77」の対が含む「57」「57」や「7」「7」の反復が、抽象的な次元で「事物+事物に対する言及」の構造をつくりやすく、翻って「言及」部分に「事物に対する私」を要請させるのではないかという話を本連載のどこかでしたとおもいます。話が迂回しましたが、「いまだも刺されず」と締めくくられる「矢をまさに」では、壁画の鑑賞体験の内側で行われた私の認識について触れているという側面が強く打ち出されているわけです。
 さて、短歌「矢をまさに」に対して、「潤潤恵」におけるジンクスはどのような語配置が行われているのでしょうか。「矢をまさに」に対応する配置の末尾である「まだ貫かないとき」に注目してみたいとおもいます。当たり前の話になりますが、短歌「矢をまさに」における「いまだも刺されず」は作品の末尾に配置され、これを以て作品が終了していますが、「まだ貫かないとき」は後半の「たくさんの星を積んだ馬車が」と接続しています。言い換えれば、「貫かない」でいる時制に額の上を通り過ぎていく「馬車」の過程が挟み込まれているわけなのですが、その結果として「いまだも刺されず」が含み持つ「私」への回帰が弱められ、「壁画」のなかで完結していた描写が壁画の外(つまり、「馬車」が位置づけられる空間)へと漏れだし、「たくましい人間」と「」がその流れに乗るかたちで、壁画の外にいる(矢を実際に「壁画の牛」に向けて放っている)かのような実在性を獲得しています。なぜかというと、「いまだも刺されず」として表現される時間は、「矢をまさに」においては壁画そのものというよりも壁画を見る私の認識に結びつけられており、壁画自体やそれを取り巻く外部の対象に干渉するものではありませんでしたが、ここで「いまだも刺されず」から「まだ貫かないとき」へと改変が行われることによって、描かれた空間内部において具体的に働く因果関係が立ち上げられ、私の個人的な感慨から現下の状況に対する叙述としてその位相が繰り上げられているからではないかとおもいます。つまり、「貫かない」でいる時間は「壁画」に描かれた瞬間ではなく現時点で進行中の過程を示す符帳として働き、「たくましい人間」の手から放たれた「矢」が、「壁画の牛」に向かって文字通り伸びていくという認識が成立するわけです。

 さて、「まだ貫かないとき」に続く「馬車」を巡る記述についても、ジンクス化にあたって元の作品で詠み込まれたイメージをどのように組み替えているのか見ていきたいと思います。元の「おびただしき星のせてゆく馬車のありあまりに広き額の上を」は、「馬車のあり」が作品の中心に配置され、前後の語は絶えず自身から「馬車」へと向かう意味の方向を背負わされているため、ひとまず「星をのせていく馬車」の解釈に読みが集中するような構成がとられています。「のせていく」という行為の進行を示す修飾が「あり」で言い留められることで、「馬車」は他の語の運動を抱え込み、翻って「」と「馬車」の関係への注目から、満天の星空の下を走る馬車のイメージが際立って知覚されます。しかし、ここで後半の「あまりに広き額の上を」をどのように読むべきなのかが問題になります。配置を変えて、「あまりに広き額の上をおびただしき星のせてゆく馬車のあり」と読めば、「」は「馬車」にかかり、「額の上に馬車がある」というイメージがあらわれます。文法的には適当な読みかもしれませんが、「馬車」にかかる修飾が重たく、倒置で表現された理由がわかります。とはいえ、「あまりにも」は「」にかかるものでもあるという可能性も捨て切れません。文法上のつながりはどうあれ、私たちは順序や文法事項に沿って必ずしも短歌をつくり、読む必要はなく、互いに切断された作品の上部・下部は並列的に処理できます(これについてはまたあとで触れます)。つまり、たとえ「」が「馬車」にのせられていく過程によって「額の上」と(文法的に)関わりうる位置を奪われていたとしても、額の上に星があるという構図を潜在的に読みうる配置があるわけです。しかし、ここは範囲を絞って、「」は「馬車」にかかるものとして読んでみたいとおもいます。
 「額の上に馬車がある」という表現は、頭部にある額を字義通にあらわすものなのでしょうか。「あまりに広き額」は、広々とした砂漠や丘のような場所を指し示しているのかもしれません。「」は文字通りの「」をあらわしている、と見ることももちろんできます。場所は高台かなにか、視点の上部にいて、視点はその馬車を下から見上げている、馬車の背景にはたくさんの星がまたたいており、その光景が「星をのせていく」と形容されているのだと、字義通りの読みでは解釈できそうです。もっといえば、視点人物がそれをどこから見ているかの補足としてではなく、実際に「馬車」が「」の上に置かれていると考えることもできます(「あまりに広き」が、馬車が乗るほどの額の広さをあらわしている、という視点です)。「馬車」と「」の関係はそれぞれの具体的なサイズや位置を欠いたままで置かれているため、一義的な解決はむずかしそうです。
 ジンクスの該当個所に進んでみます。元の短歌に対して「現れ、通り過ぎていく」流れに焦点が置かれ、音数律による場面のピックアップも取り除かれていることで、もとの短歌で打ち出されていた前半部のイメージが弱められているように感じます。代わりに、ジンクスは短歌がその下部に示していた「」の倒置を打ち消し、文の進行に沿って配置し直すことで、短歌において見られた「」の位置のゆらぎを正し、馬車が額の上に存在していることをいくぶんかクリアに提示し、かつ、「」の指し示す意味の限定を避けていることがわかります。しかし、語りと「馬車」との位置関係はついに定められず、ジンクスのあとに「」と「おでこ」を詠んだ作品(「星へのおしぼりはおでこへの星のとっこうやく 笑った 森で動けるうちに」)が置かれていることから、制作者は「」を字義通りに読み、おそらく「額の上」を馬車の通り過ぎていく地面として使用しているのではないかと考えられます(「広い」の修辞についてもおそらく、馬車がその上を通り過ぎるに足る広さを額が持つものとして使用されています)。ジンクスは短歌の不鮮明な多義性を、選び取られた解釈を通して組織化しているかのようです。
 また、ここではジンクスとして短歌を散文へと転写するにあたって、短歌形式の持っていた機能が削ぎ落とされています。短歌に限らず、定型詩は参照項となる定型との距離感に基づいて語を配置することで、その内部に単なる分節には回収できない抽象的な形式を宿らせます。くり返しになりますが、「57577」のリズムは文法に基づいた語配置と同等かそれ以上の力を持った規範として短歌作品の組織化に貢献するため、私たちは全体としては意味の通らない短歌を読む際にも、詩を読む際のそれよりはいくぶんか経済的に鑑賞体験を遂行することができます。「あまりに広き額の上を」が倒置として成立するのも、「57577」がもつリズムにおいて「575」と「77」を文構造ではなく短歌形式において関係づけることで可能になるものではないかとおもいます。この関係を通して、「おびたたしき星」は「あまりに広き額の上を」が私たちの目を上部の「おびたたしき星のせていく馬車のあり」に回帰させるよう働きます。一方でジンクスはそうした短歌形式のもつ身体を取り除き、回帰の方向を欠いた一続きに展開する読みの順序を採用しており、それに呼応するように短歌では「のあり」として「額の上」に置かれた馬車が、(「まだ貫かないとき」の契機と連携して)「現れる/通り過ぎていく」という出現と移動を指示する語によって「額の上」と関わります。しかし、短歌が「走り抜ける馬車」のイメージをまったく持たないかといえばそうではなく、むしろジンクスにおける「現れる/通り過ぎていく」の使用は、前述したように短歌で用いられた「」に対する修飾「のせていく」が「のあり」に付帯させていた移動のニュアンスを抽出し、強調することが意図されているのではないかと考えられます(と同時に、ジンクスでは「のせていく」が移動の痕跡を消去した語「積んだ」に置き換えられています)。つまり、ジンクスは自身を構成する散文形式と関係するにあたって、一方向的な読みの運動を短歌とは異なる機能として意識的に利用し、それを通して短歌作品が持っていた意味の一部をより強く押し出しているのです。

 さて、以上のようにジンクスは二つの短歌を組み合わせ、一つの文として自身を成立させるに当たって、単なる言い換えに止まらない操作を行っています。そして、それらはまったく恣意的な改変ではなく、短歌作品に内在していた意味の一部の抽出と拡張が目指されています。「矢をまさに放たむとして人逞し壁画の牛はいまだも刺されず」は、実在する人間の手から壁画に描かれた牛めがけて矢が放たれた、その瞬間について詠まれた作品であるという認識は、よくよく「矢をまさに」を読み返してみると、なるほどそのように感じられますし、むしろジンクスにおいて提示されたものこそ正しい読みなのではないかとさえおもえます。両者を比較し読んでいた執筆者(鈴木)が穏当な読みをしているという可能性は否定できません(実際のところ、執筆者はジンクスと短歌作品の比較のなかで「私の読み」を立ち上げましたが、そこでジンクスにおける記述と短歌における記述のありようの差異に驚いたのが本論の執筆のきっかけでした)。こうした「読み」の多義性を作品がはらむこと、かつそうした読みの多義性について、制作者である飯塚距離が十分に意識的であることについては指摘しておく必要があります。ブログ記事「ヴァールハイト精神城での一夜が誰かに過ぎて」で、飯塚はたとえば斎藤茂吉の歌にある「命をはれり」が「終われり」と「を張れり」の二通りに読みうることについて、次のように述べています。

 ああ、そばに「命死にゐる」の一首があるのだし、この「命をはれり」も「命終はれり」を平仮名に開いたのだな、と隣の歌を梃子にすることで河豚の命終を換算することをぎりぎりのところで許さないのは、「命をはれり」が「命を張れり」も引いて、つまり生き死にの水準から睨みをきかせてくる言葉がここで明滅を繰り返してあるからではなかっただろうか。
 見えない者たちの総意に「あかあかと一本の道」のように収斂していくまで、そしてそれが総意だともはや感じられなくなるまで眼が一首に文意を釘づけしようとするとき、表記の曖昧さや文法の不可解さといった小さな寸鉄が、その場を性急にひとつの喪へと締めくくることに抵抗をしようとするなら、たとえばこのような局面でどうして立ち止まらずにいられるだろう。

 斎藤茂吉の短歌「潮の上に怺へかねたる河豚の子は眼をあきて命をはれり」の「命をはれり」が、その近傍に位置する別の短歌「ひたぶるに河豚はふくれて水のうへありのままなる命死にゐる」の影響を受けつつ「命終われり」と読めてしまえる一方で、「命を張れり」を同時にあらわしうる。つまり、そこには「終われり」と「を張れり」という異なる読みが同居していることになります(余談になりますが、本論の執筆中、執筆者はたとえば「いまだも刺されず」を何度も「いまだ」「刺さらず」と読み違え、「まだ貫かないとき」を「いまだ」「貫かないでいるとき」と読み違えてしまったのですが(いまもいくつかを間違えているかもしれません)、こうした読み間違いがありえるということは、ここで述べられている多義性の次元は言語システムが孕む問題である以上に、テクストを読むことが単なる言語規則に基づく伝達過程にとどまらない次元、私とテクストのあいだを構成する非言語的な次元を如実に示すものであるように感じます)。飯塚はこれを単なる多義的解釈の称揚としてではなく、奇妙な迷いを巡らせながら、一方で次のように述べています。

 ひとつの読み方に固執しなければいけないというのではないし、複数の読み方の間で逡巡することは「どうとでも読める」という居直りなどとはやはりべつの歩みをもたらしてくれるだろう。だからそうではなくて、たとえばそれは無感覚に陥りそうな読みの時間の中で、もしひとつの誘いの声を言葉から聞き取れることがあったら、それに顔を向けてみることから始めたい、そんなたしかに頼りない気持ちに根差したものだったけれど。

 ここで飯塚は語配置の多義性そのものよりも、語配置が多義性を私たちに向けて発現させる(一義的に読んでいたはずの語配置に、べつの読みの可能性があることを私たちが知覚してしまう)その瞬間に注目し、そこから立ち上げられる作品の読みや制作を志向していると読めます。翻って「潤潤恵」におけるジンクスを、短歌作品がもたらす私の読みを極度に圧縮された記述として組織化し、短歌を通して与えられた私の読みを、私以外の他者(私が捉えた読みを知覚できなかった私)に向けて開示する試みであると考えることができるのではないでしょうか。
 最後になりますが、ジンクスは単なる先行作品への批評的意義だけではなく、まずもってそれ自体がひとつの制作行為であると同時に、自身の制作を根拠づける環境として「潤潤恵」に埋め込まれています。ジンクス「たくましい人間から……」の周囲に配置された短歌のいくつかを引用してみましょう。

お腹かなと思えばぬーっともしたくてお腹鳴るような農道をくだる

また心のないがいかよ うちそとあやす動物病院は太陽のちょっと下よ

星へのおしぼりはおでこの星へのとっこうやく 笑った 森で動けるうちに 

 これらの作品は、提示されたジンクスで展開された運動をもとに組み立てられた作品か、すくなくともジンクスを地に読みうる構造を持った作品です。たとえば、「お腹かな」では、「くだる」ものが具体的に何かが指し示されておりませんが、身体の上部に置かれる頭の部分である「」に対して、その下部に位置付けられる下半身の途中にある「お腹」が主題に置かれ、かつジンクス「額の上」を対角線上に据えるように「お腹」と「くだる」が使用されています。それにより、「お腹をくだす」からの発想や音韻的類似による豊かな音楽のただなかに農道をくだっていく「馬車」の存在が現れます。また、「また心のないがいかよ」は短歌とジンクスの往復によって生み出された「壁画」の「うちそと=内外」意識させつつ、壁画の内側に置かれていた「牛」がついに矢に貫かれ、「動物病院」を通して「壁画」の外に呼び出されるという物語が想起されます。そして、先ほど「」の意味を巡って引用した「星へのおしぼり」は、「」と「」の関係をマンガ的なイメージ(頭をぶつけて星が出る)のもとにあらためて読み換えたものとして、短歌「おびたたしき星」で置かれた「あまりに広き額の上を」の唐突さを補っています。
 これらの短歌を、ジンクスによって抽出された意味を土台にした制作行為として位置づける視点は有意義であるとおもいます。私において読まれた短歌の語配置(ある言葉の使用法)をもとに、言葉を配置しなおし、それを通して新たな作品を制作すること。それは私において読まれた短歌の「誘いの声」を聞き取り、そこで担われた言葉の意味をさらに新たな認識へと拡張させていくための、ひいては他者の思考を私が思考し、さらなる他者の思考へと私たちの思考を受け渡す技術としての言葉を思考するための、ひとつの具体的な方法であるといえるのかもしれません。

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短歌時評127回 中村稔『石川啄木論』と、人間について 藪内亮輔

2017-06-06 12:08:00 | 短歌時評

 

 中村稔は一九二七年生まれの詩人。私が彼の文章を知ったのは『ユリイカ』誌上であっただろうか。確か永田和宏の『近代秀歌』という近代短歌のアンソロジー本が出た直後、中村がこの本に対して徹底的な批判を載せたのであった。これは間違いだと徹底的に意義を唱えられる信念と熱さを私は生来好むが、それよりもむしろ中村の挙げている近代短歌のセンスというか、単純に言えば選歌のおもしろさに、興味を持ったのを覚えている。

 その中村が石川啄木について書いた本が出た。かなり分厚く、丁寧に啄木の生涯を追いかけている本だ。私は啄木の生涯にはあまり興味はないから、その部分は読み飛ばしてしまったのだが、むしろ私としては本書において、中村が啄木を詩人として評価、歌人として評価をする部分が面白かった。

 さて、実際に中村による啄木の詩歌の評価をみていこう。これはいろいろと具体的に説明されているのだが、私なりにまとめると次の2点に尽きる。啄木らしさ、かの時代に啄木だからなし得たことというのは、1.瑣末な日常に詩を見いだしたこと、2.十分に人生の辛酸を嘗めた者には、(啄木の)痛切さが胸をつく、という2点である。北原白秋は「詩」と「歌」を焦点とする楕円であると評されたが、これを喩として使うならば、啄木の作品世界にとって、1と2は作品の魅力を作り出すための2つの焦点であったといえる。

 

 啄木は若くして第一詩集『あこがれ』を上梓し、その類い稀なる巧みな模倣によって、天才少年詩人の名をほしいままにした。つまり、啄木はもともと技巧の人だったのである。青春期の感傷をうたった歌人、という通俗的なイメージからすると少し不思議な感もあるが、実際、「あまりにも巧みな模倣(北原白秋)」、「その態度その技巧ほとんど年少未熟の痕跡を残さず、当代名家の詩情と技巧の感化をたつぷり受けて、その亜流の間に在つても、一流とあつて二流以下とは下らぬ程度の修辞法を示してゐる(日夏耿之介)」と当時は技巧・修辞面に関してかなりの評判を集めていたようである。

 しかし中村はその評価に反駁する。実際、『あこがれ』中の「隠沼」において、啄木の詩は「希薄な内容に比して殆ど破綻を見せぬ技巧(今井泰子)」と評されているが、中村は「修辞はむしろ拙い」とする。むしろ、「泥土に似た、永遠の悲しみにつながれた人間として自己を規定した」作品として、本作品はまことに痛切であり、「これほど敗残者の痛切な嘆きによって出発した詩人」はいない、これこそが啄木のオリジナリティだったのだ、と述べる。啄木はわずか二十数歳において、想像し難いほどの辛酸を嘗めていた。すなわち、啄木の歌を鑑賞するに堪える読者とは、感傷的な青春期の青年というよりはむしろ、「人生の辛酸を嘗めてきた」「漂泊、流浪の気持ちを理解できる」成人ということになる。実際に、本書によれば、啄木が自身で書いた『一握の砂』の広告文の中で、「広く読者を中年の人々に求む」と書いているそうである。

 

 晩年の啄木は、「われこそは詩人だ、これこそが詩だ」といわんばかりの作品の中に詩は無い、瑣末な日常のなかにこそ「詩」は現れるのだ、という考えに到達していた。これは一つの思想の到達点であった。一九〇九年の「食ふべき詩」という有名な評論である。啄木は、瑣末な日常の裡において瞬間瞬間に現れては消える感情の陰翳を、巧みな無造作と巧みな言語化により「短歌」に縫い付けることに成功した。すなわち啄木は、「そのままに書く」ということの難しさを、前もって持ち合わせていた技巧と、「辛苦」を通り抜けていくときに得た何かによって、見事に乗り越えることができたようにみえる。瑣末な瞬間に脈絡も無く現れては消える感情の陰翳そのものが、自らを懸けてうたうだけの重みを持っているのだ、という思想に到達したのである。

 

いのちなき砂のかなしさよ/さらさらと/握れば指のあひだより落つ

 

 短歌の定石では、よく「悲しい」とか「寂しい」は使ったらダメ、その気持ちを別の言葉で表現するのが短歌なのだ、と言われるが、これは対症療法である。恐らく啄木にすると「そのような約束事を意識する時点で、詩人として詩を作ろうとしている」ということになるのだろう。

 

何がなしに/頭のなかに崖ありて/日毎に土のくづるるごとし

ふと深き怖れを覚え/ぢつとして/やがて静かに臍(ほぞ)をまさぐる

目の前の菓子皿などを/かりかりと嚙みてみたくなりぬ/もどかしきかな

 

 特に二首目は素晴らしい。このような怖い歌は見たことがない。歌の背後に流れている時間の緩急が、巧みである。時間の流れが「ぢつとして」のところで凍り付き、また動き出す。恐怖感と時間感覚がリンクする。

 中村は啄木のこのような感覚を、「このような神経ないし精神は正常とはいえないだろう」「狂気としか考えようがない」と考察しているが、むしろこれらの作品は、一般的に皆が持ち合わせている精神のなかの風景を、きわめて正常な感覚で切り取ってきたという風にみえる。つまり、私はこれらの歌に精神を写し取るだけの「正確さ」を感じる。そもそも、詩の世界でしばしば言われる「狂気」という評が私はよく分からない。詩歌とはぎりぎりまでわれわれが突き詰めた「正気」であり、そうでなければただのナンセンスなでたらめである、と思う。よくニコニコ動画やネット、私たちの最近(といってもここ十数年くらい?)のコミュニケーションでは、素晴らしすぎるものや人を褒める意味合いで「いかれてる」とか「バグってる」「変態」などと呼ぶことがあるから、そういうニュアンスなら納得なのだが……。中村は啄木の「食ふべき詩」を「詩人たる資格は三つある。詩人は先第一に「人」でなければならぬ。第二に「人」でなければならぬ。第三に「人」でなければならぬ。さうして実に普通人の有つてゐる凡ての者を有つてゐるところの人でなければならぬ」と引用し、重要である旨を語っているが、果たしてどこまで「普通人の有つてゐる凡ての者を有つてゐるところの人でなければならぬ」を重要としているか。啄木は確かに天才的であり、一般に比べて異常な人格であるところもあったのかもしれない。人生の痛苦、辛酸も、人一倍嘗めてきた。しかし彼が「広く読者を中年の人々に求む」と言ったとき、そこにはどこか、人間の精神の風景はもとより中村の言う「狂気」でできており、われわれは通底する「狂気」をお互いに持っているはずだ、という前提があるように感じるのだ。よって、中村が「啄木は狂気によって他の表現者と一線を画する」と主張しているならば、それは誤りであろうといえる。むしろ、人の精神はもとより狂気でできており、それを正確に無造作な形で抜き出せたのが啄木の独自性と考える。

 

 

 ***

 

 本書において中村は啄木の歌を、「痛切さ」「人間的」という点から何度も評価している。本書での口ぐせは「痛切さが胸を打つ」である。

 昨今、馬場あき子が自伝『寂しさが歌の源だから─穂村弘が聞く馬場あき子の波瀾万丈』において、短歌とはもともと「人間を、心を差し出す」ものであったのに、今ではアイディア勝負になってしまっていて、「当たり前のことを言い方によっては、「えっ、そうなんだ」と思わせるテクニックが現代の若い人たちのおもしろがり方になっている」と述べて、議論を呼んだ。というか、ひどい論争になった。

 

 そういえば、テクニックで思い出したこと。フィールズ賞を受賞した数学者の森重文という人が、面白いことを言っていたのを覚えている。記憶に頼って書くので、ニュアンスは合っていると思うのだが、違ったらごめんなさい。高校数学の受験テクニックに対して、「こんなものを覚えて何になるのか」、「ただのテクニックで本質ではない」という意見がある。しかし実際に大学で研究を始めると、受験テクニックを使う場面がしばしば出てきて驚いた、と。

 

 まあ、数学の話と文芸の話をくっつけて関連ありげに話すのもナンセンスなのかもしれないが、つまり何が言いたいかというと、啄木を語る中村も、馬場の発言を受けとる私たち読者も、そしてもちろん馬場自身もだが、「テクニック」や「人間」をあまり神格化しない方がいいんじゃないかな、ということである。たとえば、馬場の

 

夜半さめて見れば夜半さえしらじらと桜散りおりとどまらざらん(馬場あき子『雪鬼華麗』)

 

などは、私は最初「夜にも桜は止まることなく散る」という発見におののいたことを覚えている。つまり私にとっての「桜」は、この歌を読んだ一瞬から、「夜半さえしらじらと散っている」時そのものの止まらない出血のような桜へと更新されたのだ。次から桜を見ては、この認識を思い返さずにはいられない。当たり前だと思っていた世界の認識を更新することは、昔から詩歌の持っていた大きな魅力であり、欠かせないものである。しかし、この歌はアイディアの歌ではないのか?

 

車にも仰臥といふ死春の月(高野ムツオ『萬の翅』)

 

という句が話題になったことがあった。これは3月11日の大震災の日、津波のあとに残された惨状を詠んだものである。車がごろごろと転がっている。車が腹をみせている様子を、「仰臥といふ死」と表現した。この地獄のような地上を、春の月が照らしている。片山由美子は、この句は「春の月」の本意を広げた、と評した。「春の月」という言葉の持つイメージが更新される。

 

 読み方によっては、これら二作品はアイディアの優れた作品ということができる。しかし同時に、これらの作品の背後には、痛切な思いがあることも知っている。「歌林の会」HPで、馬場は次のように回顧している。

 

……宿泊した宿の中庭の桜を、夜半に起き出して眺めていた。灯火のほのかな明りの中に浮かび出た桜は、人々の寝しずまった静かな闇に佇んで、誰の目にも見られないまま、自ずからなる摂理に従って、白い花びらをはらはら、はらはらと惜しみなくこぼしつづけていた。四十九歳で職を捨てた私の感じている、惜しまずにはいられない時間の、刻々の消滅のようにも、私という存在を残して過ぎてゆく非情な時間のようにも感じられた。(歌林の会HP「さくやこの花(44)」)

 

 私自身も、理想から外れた人生の中で、何の分野でも一流になれずいつか死んでゆくことを毎晩のように思い患い、時の流れを思っているから、分かるとは言えないまでも胸は打たれる。

 しかし、それでさえ、というか、それであるからなお、掲歌はアイディアに優れた作品として評価されねばならない。夜半にさえとどまらず散り続ける桜という具体的なアイテム、アイディアによって、われわれは個別の哀惜をそこに込められる。アイディアを使わなくていいというなら、上記のエッセイのようにして自分の気持ちを好きなだけ語ればいいわけで、日記帳にでも個人的に書いてもらえれば結構なのである。作者にどんな人生や、哀惜や、悲痛さ、気持ちがあるにせよ、短歌という特殊なフィルターを通過させ、作品という形式で保存する以上は、少なからずテクニックを用いている筈である。いや、テクニックは手段であって、本当の気持ちの方が大事なのだ。人間の為にテクニックはあるのだ。などと言うものがいたら私は反吐を吐いてしまうだろう。結果の為に手段を選ぶというのは尋常であるように思われているが、むしろ手段によって結果が変化するということの方が大いにある。というか、本来は、歌人はそのことを信じているからこそ歌を続けている筈なのだ。歌という不自由な枷、手段を用いることによって、初めて自分の中から発見される気持ちがあり、考えがある。つまり、吉本隆明の言った「書くものがあるから詩は作るんじゃない」。詩歌を作るから、汲み上げられるものがある。

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