「詩客」短歌時評

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短歌評 短歌作品と散文構造――『坂口 弘 歌稿』を読み解く 添田馨

2015-02-05 13:47:47 | 短歌時評
 フォルム(形式)とフォーマット(型式)は似た言葉だが、意味するものの範囲はかなり違っている。私たちは、例えば短歌や俳句を、五七五七七や五七五の音配列を持つ文芸の一表現領域だと了解している。フォルムの外形からすれば当然すぎることだが、それらを言語の記述芸術という平面に置きなおしてみるとき、フォルムの拘束性は必ずしも表現意識じたいの拘束性に同致されてはいかないことに気付く。逆に、拘束されているとすれば、それはフォルムではなくフォーマットによってではないのか、という疑問が私にはあった。そこを入口にすることで本論考をはじめたい。短詩型文学における表現の自由の領域が、どこにどう広がっているのかを是非明らかにしたいという思いも、そこに由来している。
 私がここで死刑囚坂口弘の短歌作品を取りあげる理由は、その固有名が持つ社会的あるいは歴史的といってよいさまざまなバイアスと、短歌作品そのものが発している固有の表現価値が、いかなる融合(あるいは離反)の相のもとに現われているかを考察するのに、きわめて示唆に富む実作例だったからである。また、そうすることで逆に短歌作品において抽出可能な表現価値を、批評的に領域化できるのではないかとの思いもあった。
 だが、『坂口 弘 歌稿』(朝日新聞社 1993年)の世界に足を踏み入れるや否や、私は一気にその強烈な言葉の火勢に丸ごと捉えられてしまった。思わず息をのむような表現世界が、まぎれもなくそこには縷々開示されていたからである。

 社会主義敗れて淋しさびしかり資本主義に理想はありや

 わが一生牢にあるとも極刑をまぬがれたしと思う時あり

 今宵われ死囚となりてまばたきの音あざあざと床に聴きおり

 嵐去り格子に垂れる玉の水闘いし後の充足と見ゆ


 正直な読後感をいえば、私は坂口氏の短歌作品を、その作者名を離れて純粋な言語表出物として読むことがどうしてもできなかった。つまり、作品の外部にあってこれらの短歌作品を支えているさまざまな背景に関する情報を、完全に排除してこれらの作品に接することはできなかったのである。誤解しないで欲しいのは、そのことが決して坂口氏の作品の価値を毀損していると指摘したいのではない。むしろ「坂口 弘」という存在が、つまり私の記憶の中から失われて久しいその名前が、これらの短歌作品においては全体的に恢復され、私という一読者との新たな際会を果たしているまごうかたなき実感が、そこには生まれていたことを言いたいのである。私にとっては、「坂口 弘」という固有名をめぐるこうした情況すべてが、それらの短歌作品が発する、他の誰にも真似できない固有の表現価値であることは疑う余地もないことだった。
 坂口氏は言うまでもなく、1971年から1972年にかけての一連の連合赤軍による重大事件、すなわち「あさま山荘事件」と「山岳ベース事件」等で、主要な役割を果たした人物のひとりである。私はテレビ中継された山荘での銃撃戦で、彼が銃を持ち窓から顔をのぞかせた場面をよく覚えている。事件後、彼は逮捕され東京拘置所に収監された。そして1993年に死刑が確定する。
 今回、本論考が対象にした『坂口 弘 歌稿』の中で、私がまず最初に惹き寄せられたのは、山岳ベースにおける同志殺害の記憶を歌に詠んだ一連の作品群であった。

 総括は気絶したらば成し得ると撲りに撲る真摯な友を

 リンチ死を敗北死なりと偽りて堕ちゆくを知る全身に知る

 リンチせし皆が自分を総括すレモンの滓を搾るがごとく

 女らしさの総括を問い詰めて「死にたくない」と叫ばしめたり


 これらの短歌作品の出来不出来を評することは、今はすまいと思う。それよりも、これらの作品が本当に〝短歌〟なのか、あるいは短歌のように見えるけれども本当は別の何かなのかを、真剣に考えてみなければならないと思うのだ。
 まず、これらの作品は東京拘置所の独居房内で、いわば通常の生活世界を喪失させられた状況下で制作された言語作品である点がとりわけ重要である。つまりこのファクターは、これらの短歌作品にとって二義的な意味しか持たないどころではなく、むしろ作品誕生の根幹の原理となっていることを、私は指摘したいのだ。完全に孤立し無防備に投げ出された裸の意識がまず最初にあって、世界喪失すなわち根源的な〈異郷性〉のもとで、みずから志向的に選び取ったところの言語がしばしば帯びることになる身を切るような内在律――それが特にこれら一群の作品系列においては顕著であると評価するのである。
 私が坂口氏の短歌作品から最も強烈に照射されるのは、彼が収容されている拘置所という現実の非日常的環境が、比喩としてではなく実体として、文字通りそれらの作品の表現価値を絶対的に規定している与件そのものだという認識だ。このことを言い換えるなら、〈短歌〉というフォルム(形式)と〈拘置所〉というフォーマット(型式)が協働して、相互的に自らの表現価値を形成しあっているということになるだろう。つまり、これらの作品記述(詩文)は、自らの生成の条件を背後に隠した何らかの非記述構造(散文構造)に、絶対的に依拠しているのではないかという帰結がどうしても導かれてしまうのである。
 私はここで、ひとつの仮説を提示することにする。短歌作品の内在的な価値が問題とされる場合、その綜合的な評価は、詩文(作品体)の可視像と散文構造の不可視像とを共に視野にいれたうえで為される必要があるのではないか、という仮説をである。
 以上のことは、すべて『坂口 弘 歌稿』を読み解くことを通して、私が着想したことであって、果たしてこれが短歌作品一般に適合するものかどうかはまったく推測の域を出ないが、一考の余地は十分にあるテーマだという感触は寸毫も揺るがない。以前より私は、短歌や俳句などの短詩型文学は、他の文学ジャンルに比べて表現の自由度が著しく制限されているのではないかという先入観をずっと持っていた。しかし、今回の読み解き作業を通過して、それがまったく根拠のない偏見だったということが了解できたように思う。短歌作品を一度もつくったことのないまったくの門外漢による感懐にすぎないが、短詩型の表現の自由な広がりが担保されるとすれば、それは詩文(作品体)の可視像と散文構造の不可視像とのあいだに、無限の深度で潜在する何かなのではないかと、今ではそう考えるようになった次第である。

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