「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 「オーロラのお針子」/「同じ白さで雪は降りく 岡野絵里子

2014-12-05 18:53:24 | 短歌時評
 先日、二十代で活躍している作家から面白い話を聞かせてもらった。彼女が書いているライトノベルの現場では、とにかく迅速に、そして量産が要求される。その結果、彼女は家にこもりきりになってしまい、孤立感にさいなまれるようになった。気晴らしをしようにも、時間が取れない。そこで考えた結果、同業の友人とスカイプをつないだのだそうだ。要するに(ご存じない方は)テレビ電話である。画面をオフにして、音声だけを生かし、そのままお互いに仕事をする。会話をしなくても、誰かとつながっていると感じることが出来て、精神が安定したそうだ。疲れてウトウトとした時、画面の向こうから、ライバルがカチャカチャとキーボードを打って原稿を書いている音が聞こえて来て、はっと目が覚める。「そういう効用もあるんですよね」ということだった。

 藤本玲未『オーロラのお針子』(書肆侃侃房)もきらめくような二十代の書き手である。若い時は友人を作りやすかった、などと年長者が嘆くが、本当にそうだろうか。私から見ると、現代の若者の人間関係の方が遥かに複雑微妙で、維持に難しい。この歌集にも、繊細で柔らかい感性で紡がれた人とのつながりが描かれる。

 おはようが勿体なくて部活中うなずきあってああいえば冬
 黒鉛のびしびし折れる昼下りご覧あの子は蒸発するよ
 となりあう木琴みたい教室の好きと嫌いに振りまわされて
 曖昧な定規で君を測るとき「嫌いじゃない」が定点となる


  部活動の早朝練習。冬の朝の澄み渡る空気。その張りつめた美しさの中を登校して来る部員たちは、試合も近いので、挨拶する時間も惜しい。すぐ練習に入る。うなずくだけでも意志は通うけれど、仲間だけで使っている言葉をさりげなく交わして励まし合う。仲良しのグループは自分たちだけの隠語を持っているものだから。それを作者は明らかにしない。「ああいえば」というだけだ。「勿体ない」から教えないのかもしれない。
 二首目、シャープペンシルの芯をやたらに折る生徒がいる。精神の均衡の危うい様子が窺える。蒸発とは古い流行語だが(1967年)、現在ではかえって新鮮に使われているのだろうか。いずれにせよ、傍観者の立場から踏み出すことはない。なぜなら友だちではないから、親しくないから。その境界線はどこで引かれるのか。答えが三首目と四首目にある。
 木琴の鍵盤のように、教室に並ぶ生徒たち。机は同じ形の木製であること、一人一人出す個性の音色が違う点など、比喩が見事だ。楽器が並んでいるのではなく、あくまで鍵盤だと思われる。ここでの人間関係は究極、好かれるか嫌われるかという感覚的、生理的な基準によるというのである。恐ろしいことだ。誰もが容貌や服装に気を使って、必死になる理由がわかるような気がする。だが恋愛になると、好き嫌いの意味が違って来る。「嫌いじゃないんだけれど・・」の余白にあらゆる要素が入って、評価が揺れ動く。
 女子生徒が女子大生になり、社会人になっても、みずみずしい感性が失われないのは稀有のことである。そしてどうやら、批評の目も獲得しつつあるようだ。

 誰もみな悪くないのというひとも鶴の首なら折ったはずです
 ねえちょっとじっとしていて千本の仮縫いのまま生きてもいいの
 マンホールにひとりひとつのぬいぐるみ置いてこの星だいすきだった


  偽善者は嫌なものである。「私は悪気がないの、可愛い天然なの」というポーズも嫌だが、 「みんないい人だって私は信じているの、なぜなら私がいい人だもの」 という善人顔は更に不快だ。愛の千羽鶴を作っているつもりかもしれないが、それ鶴の首を千回へし折ってるだけだからな、と私も言ってみたい。
  そんな俗の頭上をファンタジーが織られて広がる。地球を去って行く者たちが、ぬいぐるみを一体ずつ置くとは可愛らしい。子どもらしい記念の儀式のようだ。前後の事情や物語の続きは読者に想像させて、着想ゆたかなファンタジーを投げかける一首。
 二首目では現実と虚構が同時に進行する。服の仮縫い中、動かないでいてよ、と言われるリアルな状況と、お姫様のドレスだろうか、千本の仮縫い線という童話のような設定と、生きることに不確定で、いわば人生の仮縫い段階にいるのだという作者の揺れがそれぞれ進んでいく。考えてみれば、あらゆる事象が同時進行しているのが世界であり、果てなく関連し合い、影響し合っているのである。一つのテーマを切り取ってくるのも表現ではあるが、その有機的な結びつきを作品にあらわせるのは、限られた才能ではないかと思われる。
 最も魅了された、とても好きな二首を挙げてみたい。

 痛みあり光合成の痕である3月7日の交換日記
 包丁を持っている春てのひらの豆腐はいつかあたたかくなり


  正直なところ、前掲歌は完全に理解できていないのだが、惹きつけられてしまう。痛み、交換日記という、おそらくは十代の初々しさに、光合成の痕という謎の要素が重なる。陽の光を浴びて成長していく生がみずみずしく、世界を肯定して希望を感じさせてくれる。二首目は大人の女性のやさしい立ち姿。てのひらに乗せた豆腐を切ることも忘れさせるほどの、一体何があったのだろうか。訪れたばかりの春が、日々少しずつ人と街をあたたかくしていく幸福感がある。

  中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』は対照的な歌集。同じく新鋭短歌シリーズ第二期の一冊だが、二十代の書き手とは異なる視点を持ち、日常に確かな立脚点を置いた誠実な言葉たちである。そこには、成長していく子どもや夫に心を傾け、自身を折りたたむように日々を送る作者の姿が読める。

 柚子知らぬ小さき子らと柚子風呂に浸かればゆるり夜が大きい
 予選落ちの子らはゆっくり下りおりまだ俯かぬ向日葵の坂
 あしたまた遊べばいいと片付けた玩具は今日と同じで違う
 表札にとんぼ止まれば照りつつもこの家の姓に影を落とせり


 子どもと家族の風景をアトランダムに選んだのだが、世界を対比で捉えた歌が並ぶ結果になった。一首目は、まだ何も知らない子どもたちの小ささが大きな夜に包まれる。予選を「落ち」、坂を俯いて下る子どもたちと陽に堂々と顔を上げる向日葵。今日と明日、同一であり異質であるという二律背反。気ままなトンボの明るい胴体と、定住し、複雑な精神生活を営む人間の翳り。
 歌集の表題作も、気がつけば、対極にあるものを量ろうとしている。

 生と死を量る二つの手のひらに同じ白さで雪は降りくる

 病人はどのくらい死の領域に入り込んでしまったのだろう。体内に残っている生命力は、と推し量っては心を痛める。看病する温かい手は、生と死の命題をつかもうとする思考の手でもある。「手のひらを展けばそこに団栗と団栗の影ひとつずつ在る」は、この歌の原型だろうか。一つの事象には、必ず影となって相反する事象が生まれる。作者は団栗一つを掌に置いたときでさえ、その影を見逃さない。父の病と看護という重いテーマを通し、生を抱きしめた時に表れる死の影、死を受け止めた時にこぼれ出す生の光を捉え得た。
 作者の本領は、やはり人々と日常との中にあるようだ。「二月尽。父に借りたる雨傘は莫迦らしいほど真面目に展(ひら)く」は、律儀な父への批判がうっすらと感じられるが、作者の意図を離れ、「真面目に展く傘」を肯定的に捉えるならば、彼女自身にも似ていると言えよう。言葉は華やかに開き、人間を守って悪天候にも自在に行動させてくれる傘でもある。その傘を真面目にひらくこと、誠実にさして歩いて行くことは、「莫迦らしいほど」素晴らしい生き方である、とこの歌集からは思われるのである。
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