「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 ふつふつと湧き出ずるもの――岩田亨「聲の力」とは何か 添田 馨

2016-08-03 17:58:02 | 短歌時評
 現在、私の現代短歌に対する最大の関心事は、それがいかなる体勢によってこの現実世界と戦いうるのか、というドラスティックな傾きのものである――前回の論考で、私はこれといった有効な見取り図もないままに、無謀にもこんな啖呵をきった。
 現実世界と戦うという時、そこには否応なくふたつの含意が先験的に暗示されている。
 ひとつには、作品の言葉のリアリティを根拠づけるものが、作品テキストの内部にではなく、その外部すなわち広義の〝現実世界〟に根を張っているものだという暗黙の了解である。無論、そのことは作品テキストを読み込む作業を通してしか感得されないものであるが、五七五七七の定型構造の背後に不可視の散文構造(型式:フォーマット)があらかじめ組み込まれているという無意識の了解において、作品そのものの表現価値が自立的に湧き出だしている場合をいう。
 もうひとつは、さらにその不可視の散文構造そのものが、〝現実世界〟における闘争的な輪郭を鮮明にして、少なくともそれ(型式:フォーマット)を共有する短歌作品群が、明示的にある種のテーマ性を体現しているとの了解を、読む者につよく喚起する場合である。それは、狭義の〝現実世界〟における主体的な戦いの意志を、作品の先験的な根拠として意識的に抱え込んでいることを意味せずにはいない。具体的には、特定の支配権力やその政策に対する実際の政治的抗議の意思を、短歌制作のおおきな動機として駆動させているケースである。
 岩田亨の歌集『聲の力』(角川書店・2016)は、それを可能にするモメントが、文字通り、作者の発する生身の「声」の力に他ならないことを、経験的に私たちに教えているように思う。
 まずは、「議事堂周辺」を全編、以下に引用する。

  理不尽なこと多くある世にありてたった一度の意思表示せん

  群衆の声々ひびくビル街の列を離れてにぎり飯食う

  戦争を厭う人らの集まりにわれも一人となりて連なる

  ゼッケンの紐結びつつ永田町一番出口を急ぎ出でたり

  ファシズムをこばむ若者こぶしあぐハンドマイクを汗にぬらして

  議事堂を目の前にして坐り込む静かな怒り内に秘めつつ

  戦争をこばむ者らが集うとぞ君よ友連れ議事堂かこめ


(『聲の力』「議事堂周辺」全)


 これらの作品は、2015年の夏に、安倍政権がうちだした安保法制に反対する広汎な市民行動への作者自身のコミットメントの意志を、短歌作品のかたちで表明したものである。
 当時、国会議事堂周辺には、安保法制に反対する多くの学生、市民らが集まり、連日のように抗議行動を続けていた。そういう自分も週に一回の割合でそこに参加していたため、その情景はいまも瞼に焼きついている。
 簡潔な作風の歌ばかりであり、注釈はほとんど不要だろう。補足するとすれば、固有名詞で例えば「ゼッケン」とは、安保法制反対のスローガンを書いたデモ用ツールのゼッケンを指しており、また「永田町一番出口」とは国会議事堂正面にむかうための東京メトロの駅の最寄りの出口のことを指している。「ファシズムをこばむ若者」とは、SEALDsなどの学生集団のことを指していることも難なく了解できるだろう。
 ただ、まったく懸念がないわけではない。「戦争をこばむ者らが集うとぞ君よ友連れ議事堂かこめ」という最後の作品などは、意味の表明がストレートに過ぎて、定型律の求心的機能でかろうじて作品としての自立性を保っている感がしないでもない。しかし、これら七首の作品を連続的に読み込んだ読後感において、そこに背景している現実の政治状況が強固なフォーマット(型式)を提供した結果、安保法制に反対するという〝現実世界〟との戦いこそがこれら作品の存立根拠となっているさまを、これら七首は間違いなく具現している。
 現実の政治状況へのコミットメントと、文学表現としての自立性の両立――じつはこのような問題設定は、短歌にかぎらず広く文学一般において、「政治と文学」という古くて新しいテーマのもとに、繰り返し論議されてきたものだ。ことに短歌においては、五七五七七の定型律が、日本語の伝統的な音数律上の美的規範と捉えられた結果、現実に対する批判的意識をそこに反映させるのは不可能だという見解すら打ち出されたこともある。
 不毛な議論の蒸し返しを極力避けるために、問いのかたちをここで一端修正したい。すわなち、〝現実世界〟と実際に戦っているのはそもそも誰なのか、というように。
 すると、そこには一点の曇りもなく、生身の〈作者〉こそが、そうした戦いの主体であるとの自明な結論を私たちは手にすることになるだろう。 
 〝現実世界〟におけるこの主体的行動の総体のうちに短歌制作ということが位置づけられるとき、恐らくは、〝現実世界〟と本質的に戦うための必要条件がはじめて満たされるのだと考えていいだろう。
 〈作者〉――作品に先立って実存するこの最もリアルな存在を、文芸批評はこれまで主要な対象としてこなかった。なぜなら〈作者〉とは現実の一部なのであって、作品のなかの一要素でも、ましてや言葉のなかに還元できるものでもなかったからである。だが、「聲の力」は、まさにこの批評上の大問題を根底から瓦解させたのである。
 過日、私は、都内某所で開かれた岩田の朗読会に参加した際に、この見解にいたるひとつの確信に到達した。その日、決して多くはない聴衆を前に、岩田は約一時間にわたり自らの『聲の力』一冊をまるごと読み上げたのである。その朗誦は、歌集タイトル、まえがき、短歌本文をはじめ、あとがき、奥付、さらには裏表紙の紹介文にいたるまで、とにかく活字化されたすべての文字を読み上げるという徹底したものだった。
 このパフォーマンスの意味するところは、一冊の書物をまるごと音声化するというより、いわば一冊の‶声の書物〟を現実に存在させる、言い換えれば音声波動(空気の振動)として物理的に存在させるという、未知の行為の象徴性だったのではないだろうか。
 〝声の書物〟は文字で書かれたテキストではなく、いや、何で書かれたテキストですらなく、〝声〟のみで構成された書物的現象の謂いである。それは紙でできた現実の書物という物質的基盤のうえに立って、時間と空間のなかにその表出価値をもっとも純粋なかたちで解き放つものなのだ。
 本歌集より、「聲の力」の作品をすべて引用する。
 
  聲を撃つ夜(よ)の地下室の空間の響きよ無限の世界へ届け
  わが内の未知なるものが目覚めるか宙に放てる聲の力に
  詩人らが一時間余り撃つ声を聞くとき割れは目をつむりたり
  大いなる聲の波動を受けとめてわれの内なる何かが変わる
  聲のもつ力信じて生きんかなわれを導く杖としながら
  花冷えの部屋にて放つ朗唱の響きはわれの祈りにぞ似る
  わが聲の響きゆく夜(よる)の空間に美の神ミューズあらわれ出でよ

(「聲の力」全)


 そこで、改めて問う。この場合、〈作者〉とはいったい誰のことを指していうのか。
 誤解を恐れずに言えば、〈作者〉とはそこで〝声〟を発した者以外ではあり得ないだろう。あるいは〝声〟を発した者が、逆にそこへ「わが内の未知なるもの」つまり〈作者〉を呼び込むのだと言ってもいい。
 実際には、本歌集に収められた短歌作品が、つねに政治的視点をもって読者に受けとめられるとは限らない。そのように受け止められるには、作品のテキスト内のどこかに、そのことが明示されていなければならない。五七五七七の定型律自体がその役割を担うことは考えにくいとすれば、語彙の選択や喩法の表明、あるいはイメージや場面の効果的な切り取り方、さらに表記上の意図的な文法破壊などが、表現方法として強力に機能していなくてはならないだろう。
 だが、それらのことをすべて勘案したうえで、岩田はそれ以上に重要なことがあると言っているように私には聞こえる。彼は、それが「聲の力」なのだと本歌集全体を通し、一貫して表明しているのである。
 先の朗読会で、私が岩田の「」を、目を閉じて聴いていた時のことだ。2015年2月8日の、渋谷ハチ公前広場の情景が、まるでリアルタイムのように、一気に私のなかに蘇ってくるような、不思議な体験に襲われた。
 それは岩田が、歌集の以下の部分を読みあげた時だった。

  人質の殺されしこと聞きてのち心凍れりわが生日は

  かの事件暴力の連鎖のはじまりと年表上に記されるべし

  弔いの言葉の一つ言わぬ者あるを耳にし悲しみの湧く

  テロ・戦争終りなき悲劇はじまらんわれは広場に言葉失う

  追悼の人の集える広場にて冬の時間は厳かに過ぐ

  怒りもてわれは応えん報復が報復を呼ぶ冬を迎えて

  ある限りのレッテル貼らば貼らるべしわれの思いはゆるがざるもの


(「ハチ公前広場(ISによる人質殺害事件追悼集会)」全)


 IS(イスラム国)に拘束された二人の日本人、ジャーナリスト後藤健二氏と、すでに拘束されていた湯川遥菜氏の殺害の報を受けて、ハチ公前広場では追悼のための集会がもたれていた。この日、夕刻5時頃には人がたくさん集まりはじめ、手に手にサイリウムやプラカードや蝋燭などを持った人々がスタンディングをしていた。
 とりわけ印象的だったのは、それらの人々がみずから一言も言葉を発しようとしないことだった。日曜日の夕刻の渋谷駅前の雑踏にあって、四~五百名は集まっていたと思われるその集会の参加者たちが、誰もみな沈黙を守っている姿に、私もきわめて「厳か」な心情を感じずにはいられなかったのである。と同時に、彼ら人質の窮状に対して一顧だにしない日本政府と、とりわけこの危機をもたらした張本人たる安倍晋三に対する限りない怒りの感情も、この沈黙のなかに間違いなく装填されていたのだと思う。
〝声〟の発せられないときに、必ずしも〝声〟が存在していないのではない。この時も、沈黙の〝声〟はあの駅前広場を隅々まで覆い尽くしていたのである。岩田のこの連作は、自らの そうした沈黙に対して、文学言語による表現のかたちを、いわば間接的に付与した、世界との戦いの痕跡でもあるだろう。
 その痕跡が、まごうかたなき直接性として迫ってきたのが、先の朗読を通して響いてきた岩田の〝聲〟なのであった。
 改めて、問う。〝聲〟とは私たちにとって一体何であるのか?

  ふつふつと湧きくるものを戒めて歩く夜道にあら草を踏む

  ふつふつと溢れくるもの怺えつつ静けさのなか耳澄まし居り

  人間が統べられるもの出来ぬもの心の中に沸々と湧く


 恐らくそれは、自己存在の深部から「ふつふつと」溢れてくる荒々しい感情の野生性を、言葉の美にむかう委曲によって濾過し浄化して、その透きとおる上澄み部分を印刷文字に置換したうえで、さらに自身の身体の発声機構をつかい時空間における純粋な現象にまで昇華させたところの〝何か〟に相違ない。
 この〝何か〟が、仮に作者によって「美の神ミューズ」と呼ばれることがあったとしても、そこに先在する「ふつふつと」湧きあがる不如意な存在感覚の多義性こそが、短歌創造ひいては文学創造の尽きせぬ源泉であり、かつまた短歌が世界と戦うための十分条件を満たすものでもあることを、岩田亨は言外に告げようとしているのである。(了)
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