「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 中澤系という熱量 竹岡 一郎

2016-03-31 23:57:07 | 短歌時評
 大阪・中崎町の葉ね文庫で中澤系の唯一の歌集「uta0001.txt」を買った。この歌集は、2004年3月刊の雁書館版と2015年4月刊の双風舎版がある。葉ね文庫には二冊ともあって、つい両方とも買ってしまった。双風舎版の方は、若干の訂正がなされていて、夭折した作者の意図により近いと聞いたので、ここでは双風舎版によることとする。
 歌集は三部構成で、「糖衣(シュガーコート)」なる題のついたⅠ部は、1998年から1999年の作、Ⅱ部は2000年から2001年の作、Ⅲ部は1997年から1998年の作、制作年からいえばⅢ、Ⅰ、Ⅱの順となる。歌集の冒頭には次の歌が置かれている。
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって      Ⅰ
 この歌については、既に色々と評がなされているが、どれもしっくり来ない処があって、私なりの考えを書きたいと以前から思っていた。最初にこの歌を見たとき、先ず思ったのは、「理解できる人はどうするのだろう」。理解できない人は下がるのなら、理解できる人は前進する、或いは跳躍するのか。つまり、理解できる人は飛び込む、または電車に対して立ちはだかるのだろうか。
 飛び込み自殺で片づけるには違和感があった。多分、理解できる人は通過する電車に何らかの形で立ち向かうのだろう。それが結果的に自殺であったとしても、電車の通過を阻むための何らかの行為を取るという事だ。
 電車とは何だろう。速い速度で以て、決められた軌道の上を飽きもせず反復して走り、大量の人間を多くの場合平等に運ぶ機械。電車或いは速度の歌は、歌集中に幾つもある。
未決囚ひとりひなかの快速にいてビールなどを呷っていたさ      Ⅰ
 護送されることも無く、一人で居るのだから、この未決囚は喩だろう。カフカの「審判」を思わせる登場人物だが、この人物の置かれている状況はひどく明るい。「呷って」いるのだから、自棄にはなっているのだろう。だが、焼酎でも日本酒でもない、アルコール濃度の薄い酒であるビールだから、大して深刻な自棄ではない。中途半端な自棄である。昼日中、速度は快適だ。仄かな酩酊。明るい、薄められた獄として快速電車は何処にも止まらないような気がして、その軌道は一直線なのだが、あまりにもいつまでも進む感がある。ならば、乗っている者の感覚として、それは同じ処を回っているのと、どこが違うだろう。
メリーゴーランドを止めるスイッチはどこですかそれともありませんか      Ⅰ
 メリーゴーランドは同じ処をぐるぐる回っているのであって、電車とは違う。それとも環状線や山手線なら、遥か高所から見れば、メリーゴーランドとさして変わらないだろうか。多分、スイッチは無いのだろう。少なくとも作者が止めたいと思う時、スイッチは見当たらない。メリーゴーランドの動きに対する焦燥またはうんざりした感じがあって、だからこそ止めるスイッチの有無を問うている。
予兆なき郊外電車の連結部床板は猫の腹を踏む如      Ⅰ
 郊外を走るのだから、のんびりしているのだ。少なくとも通勤電車のように殺人的に混んでいるわけではなかろう。その連結部は、踏むのに躊躇するほど頼りなく柔らかい。「猫の腹を踏む如」とあるが、電車の連結部床板を踏むように、体重を掛けて猫の腹を踏むような奴は、猫が死んでも良いと思って踏むのである。だから、ここで実際には、作者は連結部を踏むことなど、とても出来ない。つまり、車両から車両へ移動する事すらできない。一つの車両の中を移動できるのみである。連結部床板に体重を掛ける事がまるで人非人の行為のように思われて、その謂われない罪悪感を「猫の腹を踏む如」と言ったのか。急いでいる時に意味も無く電車の中を前へ前へと移動する事はないか。そうした処で、電車より早く移動出来る訳はないのだが、ついそうしてしまう経験はないか。それまでもが罪を伴うのであれば、もはや自発的に何処へ行けばよいのか。
 ここに「予兆」とあるのは何の予兆があって欲しいのか。吉兆という感じはしない。むしろ滅びの予兆だろうが、郊外の電車にそれがない。何とはなく幸福に自足した明るい主体として生きられる、恐らく一つの車両から出なければ。車両間の頼りない連結部を踏むことへの罪悪感。歌集中からもう一つ予兆の歌を挙げるなら、
臨界の時を待たなむ驟雨降る森にて何の予兆もあらず      Ⅰ
 これは圧倒的な滅びを待とう、見届けようとする意志だ。その滅びは雨の激しさにより、或いは雨の激しさに比して来るように思われる。森は雨音にさんざめいている。今しも何かが起ころうとするかのような、それは反撃の音か。だが、いつまで待っても変わらず、何の予兆も無い。予兆と、作者が森を去るのと、いずれが先か。(その答えは既に出ている。作者が森を去り、38歳で世を去った2009年、その二年後に臨界は、予兆というにはあまりに激しい地震と津波によってもたらされた。)
プラスチックの溶けた滴をしたたらせひとりひとりのキューピーの死よ      Ⅰ
 キューピ-は沢山死んだのだ。だから、「ひとりひとりの」と言わねば(ここに漢字を当てるなら、「一人一人」よりも「独り独り」の方がふさわしい気がする)、あっという間に只の数字になってしまう程の類型的な死である。キューピーとは類的な果てしなく取り換えの利く存在であって、だから子供たちは何の罪悪感も無く、キューピー人形を火中に放り込んで、微笑んだまま溶けてゆくそのデクノボウさを楽しみ、惨めな我が身に重ねて慰めを得る。
 七十年前は大空襲で、また原爆で、爆撃機から見れば全く類型的な存在に過ぎない人々はプラスチックではない血肉を沸き滴らせて一人一人が孤独に死んでいったが、それは戦争という津波から見ればキューピーの死と、或いは手も足ももがれた丸太が焼けるのと何ら変わりない。
罪ならば 九段下より市ヶ谷へしずしずとゆるき坂を上れり      Ⅰ
 九段下には靖国神社があり、市ヶ谷には東京裁判の舞台となった大講堂があり、自衛隊の駐屯地と基地がある。作者は死者の領域から戦後の生者の領域へと坂を上ってゆく。黄泉平坂を昇ってゆくのだ。「罪ならば」とまず罪を背負い、それから空白一字分躊躇して、傍目には重荷を重荷と感じさせない姿勢で「しずしずと」儀礼のように上るのだ。それは快速電車の速度でもなければ、郊外電車の速度でもない。個人の、生身の速度だ。
もはや戦後ではない 青い青い青いそらひくひくとゆるい痙攣     Ⅰ
 昭和31年経済白書の「もはや戦後ではない」という、神武景気真っ只中における宣言の後、同じく一字分の空白が置かれるのはやはり作者の躊躇であろう。かの宣言に訝しみ躊躇して、「青い」を三度積み重ねば我慢できぬほど、それは屈託ない上に惨たらしく更に無関心に青い空であるが、その空がひくひくと痙攣するのを見る。(もしかすると「そら」は「空」ではなく、「そら、御覧」というような呼びかけなのだろうか。その場合、ひくひくと痙攣するのは「空」ではない何か、空に似た何か他のものなのだろうか。)先の歌の、坂の「ゆるき」傾斜と同じく、電車の速度からは遂に認められぬほどの「ゆるい」痙攣だ。その痙攣を認めぬ態度こそ、戦後のアイデンティティーではなかったか。
類的な存在としてわたくしはパスケースから定期を出した      Ⅱ
 個人は電車に乗るのだ。電車の速度で認められぬ物は認められぬままに、そのように否認し続ける日常を反復して移動する為の、定期という便利さを、個人は、自らを類的な存在として提示する為に、真四角の日常の檻のようなパスケースから出すのだ。
戦術としての無垢、だよ満員の電車を群集とともに下車する      Ⅰ
 だから無垢、なんてものは信じない。無垢が「何かを疑いも無く信じている」意味というのなら只の愚昧であるし、信じている振りをしているなら集団におもねる戦術であろう。無辜なんて概念も信じない。無辜の民など存在した例がない。垢のつかない魂など存在しないなら、辜無き、罪無き者も存在しないだろう。それは集団の中で生き延びるための方便なのだ。作者もまた何事も無く群集と共に日々下車する為の戦術として無垢を使っている事を意識する、それは即ち無垢でない主体を自覚するという事だ。
牛乳のパックの口を開けたもう死んでもいいというくらい完璧に      Ⅰ
 無垢でないとは、強迫神経症的に何かを信じる振りをしていることで、そう演じ切るために、多くの者は死んでも良いとさえ思いつめ、例えば牛乳は飲めれば良いのだが、かつては空の瓶を提げて農家へ貰いに行った筈の牛乳は、今や能う限り無菌のパックに詰められ、恐るべき無駄な完璧さを夢見て開けねばならず、もうそれだけで死の終点を思うほど細心の注意を払って形作る菱形の口は、なんという幻の信心だ。「二元対立に収斂される如何なる倫理も正義も信仰しない。無垢であり、無畏であるから」となぜ誰も言い得ないのか。
「桜井君傘の下には告ぐるべき者などいない。東へ行こう」      Ⅰ
 ここに出て来る「桜井君」とは、Ⅲにおいて次の如く詠われた桜井君であろう。
したり顔する 価値を裏返すことなど簡単さねえ桜井君      Ⅲ
 桜井君は、例えば作者が「何ものにも価値など無い。価値とはいかようにでも狂信できる」と自意識のしたり顔に隠して、哭くように呻くように嘲笑うのを多分黙って聞いている。桜井君は盟友だ。作者に「東へ行こう」と誘われているからだ。傘の下に居る者達に告げる事、その事にうんざりし、作者は桜井君だけを誘う。「」に戦後の日本を見たって良い。例えば、核の傘を。要するに、システムの傘だ。西は、否、浄土がその方にあるなどとは信じない。北は、否、パウル・ツェランのように「未来の遙か北の川で網を打つ」ような癒し難い傷がある訳ではない。南は、いや、そんなに陽気には生きられない。だから、せめて夜明けの方へ行こう。希望があるわけでもないが、少なくとも朝焼けのこの世ならざる恐ろしさを常に含んでいる方角へ。
そののちの朝焼けの中日常に似た場所ばかり踏んで帰った     Ⅱ
 「そののち」とは何ののちなのか、明示されてないが、「日常に似た場所ばかり」を確かめるように踏んで帰路に選ぶのは、日常を懐かしんでいるからだろう。その後にも確かに日常があれば、懐かしむ必要はない。だから、「そののち」に、日常はもはや失われている。「その」事は夜にあったのだ。その後の朝焼けである。
それは極めて個人的な事かも知れない。或いは世界の破滅かも知れない。個人にとってはどちらでも同じことだ。取り敢えず、その事の後、日常は非日常となった。個人の日常が消えた時、その個人の見る世界もまた日常ではありえない。この歌の後に来る歌で、
ぼくたちはゆるされていた そのあとだ それに気づかずいたのも悪い      Ⅱ
この「そのあと」と、先の歌の「そののち」が重なるのだ。この歌に匂う、言い訳も何も最早空しい状況、そんな状況下に尚も許されていた「ぼくたち」、絶望的に許されていた「ぼくたち」、そんな風にとっくに崩壊したかもしれぬところに気づかずにいたのは、「ぼくたち」の悪さであって、もうそれはどうしようもない。「それ」とは何を指すのだろうか。許されていたことか、それとも許されていた後に起こったことか。恐らく、その両方だろう。
始発電車の入線を待つ朝霧に問ういつまでの執行猶予     Ⅱ
 先に挙げた「未決囚」の歌の舞台も電車だった。ここでは始発電車の入ってくるまでが執行猶予であるような印象がある。電車と審判は作者の中でどのような関係にあるのか。電車は地に沿って速度を形作るのだが、次の歌では速度は下へ向かって形作られてゆく。
落下する速度のままの三月は青 渦をなす真鴨は悲し   Ⅱ
 三月、海を思わせる青、渦をなす真鴨、その真鴨を悲しいと観る眼。この歌は2011年の大震災の十年以上前に作られたのだ。作者は何らかの外部に自分を置くことにより未来を見たのだろうか。
雨、うすきテントを叩く外部とは徹底的に外部であった      Ⅰ
 薄いテントは、まるで作者の魂の皮膚のようだ。作者はテントではなく、従ってテントの内部もまた、作者の体から見れば外部である筈だが、この場合、作者は、己が肉体の外からテントの内までをも、内部と感じている。生きとし生けるものの世界を内部と見たときに、「外部」とは何だろう。その「外部」、誰がどう見ても「徹底的に外部で」ある「外部」、多分、或る恐るべき冷徹さと客観性を持つ「外部」から雨として、世界の皮膚を叩く、それはどんな啓示だろう。
衣ずれの音遠ければ地表とも判別できぬ肉塊に触れ      Ⅰ
 衣の下には肉体があり、この衣擦れの音は、衣と皮膚の境界を認識する音か。その音が遠い、とは如実に感じられぬ、の謂いか。人間とは肉塊だ。生きていようが、死んでいようが。地表とは地の皮膚であり、人間の生存圏だ。その環境、その共同体と判別できぬ肉塊が君であり私であり、触れて、その後、触れた体は触れられた体を、地表と判別できるのか。その自信がないから、作者は詠うのだろう。そう詠いながら、一方で、触れられた君の眼差の裏で、触れた側である私は、如何なる像として結ばれているか。
手触れ得ぬ君の眼窩の裏側を思うあら煮の身を削ぎながら     Ⅰ
 例えば、鯛のあら煮の一番旨い処は、目玉の裏側だったりするわけで、其処を求めてひたすらあら煮を分解していったりする。目玉の裏側が旨いのは、観た世界が悉く其処に像を結んでいたからか。深海魚である鯛の見て来た世界がどのくらい鮮明であったかはわからないが、人間の文化はその90パーセントが視覚文化だ。その眼球を支える眼窩の更に裏側にあるのは、脳、の筈だ。それとも、眼窩の裏側には「手触れ得ぬ」空のようなものが広がっているか。それでも、「心は無常である」と理屈ではわかっていても、空(くう)と呼ぶには、あまりに癒し難い想いが、君の奥にも私の奥にも持て余すように燃えているはずで、
埋み火を抱くがごとき夜半過ぎの空(くう)より空へ移る想いよ      Ⅱ
恃むべき思惟のあまりに細ければなおも削らん血しぶくまでを      Ⅱ
 恃み甲斐の無い自らの思惟を、その細さを逆手に取るべく、血しぶくまで徹底的に尖らせてゆけば、その細さゆえに、いつか世界を深々と貫けるだろうか。その時の血しぶきは私のものだろうか、それとも貫かれた外部あるいは生きている者たちの世界あるいは君のものだろうか。
加速してゆく感触のない量の記憶地平をかすめていった     Ⅰ
 地平をかすめるのは電車か。もっと絶望的に速い乗り物か。世界を覆う網の爛熟に伴って、加速度的に増殖する情報を速度あるものに喩えているか。その状況において、自らの固有の記憶と他者の示す情報との境界は果たしてあるか。
ご破算で願いましては積み上げてきたものがすべて計量される日      Ⅰ
 審判の日、怒りの日を思わせる。死後の天秤による計量を思わせる。そこで計量されるのは、自身だけでなく、今や自身の体験と分かちがたく融け合った他者の情報であろう。私が裁かれるとき、世界もまた裁かれるのだ。
水平に切ればいいのさ地表からすこし浮かんでいるあたりをね     Ⅰ
 「地表から少し浮かんでいるあたり」という表現を、肉体に根付いていない諸々と取ることも出来よう。その「あたりを」水平に、公平に平等に死神の鎌を使う如く切れば、溢れ出すものは血肉でも叫びでもなく、自他の見分けのつかぬ情報の集積か。
ミートパイ 切り分けられたそれぞれに香る死したる者等の旨み      Ⅱ
 ミートパイの中にある肉は挽肉であって、それは最も個性無く平等に均質化された死体だ。それでこそ自在に切り分けられるし、平等に或いは何らかの価値基準によって大きくも小さくも切り分けられる。パイの中の「挽肉という死」によって大きさが決まる訳ではない。
 支障なく切り分ける為に、死とは思えぬほど均質化され薄められた肉は、あくまでもナイフを入れる者の嗜好によって切り分けられる。それでこそ現代の死であり、そうなってこそ死は香り、旨い、と鑑賞され享受される、とは、なんと皮肉な挽肉だ。「ミートパイ」の後の一字空けは恐らく「即ち」という思惟だろう。
 ここで2001年の貿易センタービルのテロにおいて、挽肉状になった犠牲者たちを思い、更にその犠牲がすぐさま巧妙に中東への空爆へ、軍産複合体の商売の旨みへと利用された事を思うも可能だ。空爆とは均一化された死の演出である。そして切り分けられるのは死だけか。勿論、生が、生を囲む環境が、あまつさえも空までもが情報として切り分けられ得るから、
うつくしく生きよ 見上げる青空を縦横無尽に走る電線     Ⅱ
 それはかつて「3番線」の歌以前の、いささか箴言的に走ったⅢ部の歌群の中で、次のように詠われた青空だ。
完全にましかく切り取ったあとさえ見えないような青空ばかり      Ⅲ
 今は空を分断する電線が見える。あのころは「うつくしく生きよ」なる声は聞こえなかった。今はその声が聞え、一字分の空白という自己確認の後、その声に従おうと思った。電線は美しいのか、それとも電線が美しさを阻害しているのか。このままで美しい生と信じたい者達には電線は美しく見えるだろう。美しい生が現在は無く未来に憧れるのなら、電線は縦横無尽に目につくだろう。
早送りの時のただなか声もなく少女悍馬のごとく上下す     Ⅱ
 この歌の前に「顔のない少女のひとりあゆみ来て葵みのりと名乗り出でたり」「カセットを入れその刹那受像機に映る青色 その青苦く」が、この歌の後には「受像機に映る裸体の少女への距離あまりにも遠し 霜月」がある。「葵みのり」をネットで検索すると1980年生まれのAV女優がヒットした。この歌が詠まれた当時は20歳くらいか。写真を見ると、顔も体も幼げな風情の子だ。「葵みのり」とはよく出来たネーミングで、「青い実り」なる意味かとも思う。男に馬乗りになっている葵みのりの映像を早送りして観た情景か。声をカットされ、有り得ない速度で上下する裸体の少女は、この世の者ではないような印象を受ける。速度を高めることにより、人間の行為はこの世に属さなくなるのか。それを「悍馬の如く」と、逞しく強いものとして詠った処に眼目がある。先に挙げた電車の歌群、その中でただ電車の速度に身を任せている者達の無力感と比べ、所作を早送りされている少女は如何に超越的か。その肉体の輪郭のぶれる有様は、電車の振動と似てはいないか。仮に電車の速度に匹敵すると仮定すれば、その速度は、無防備な少女の最も剝き出された行為に導入されるとき、人を超えた猛々しさを発するという事だ。只、この歌の前後に見られるように、この葵みのりには顔が無い、その少女の動きだす世界にはまず苦い青が一面に生じる、そして作者と少女との距離は「霜月」の如く冷たく「あまりにも遠」い。
階段を昇る少女の膝の裏、他者、他者たちはあまねく白く      Ⅱ
 少女の後に付き、階段を昇る時に目につく、かの膝の裏はエロティックであるはずだ。「他者」と二度続けるのは、一度目の他者は「少女の膝の裏」であり、二度目の他者はその膝裏を扉として遍く繋がる他者たちであり、そもそもエロティシズムとは何だろう。それを秘所への憧れと言い換えるなら、他者の魂への憧れであり、この場合は少女の魂への憧れであり、少女は他者への扉であり、他者の代表であり、その代表者が、その膝裏という秘所が白いなら、作者にとって世界の全ての他者は白く、では自らは白くないから白を認識しうるのか。他者が空白として白いなら、自らはその空白を埋めるべく、思惟にぎっしりと埋まっているのか。
たてがみのとぎれるあたり耳伏せてソヴィエトスターとおれを呼べ、とは      Ⅱ
題詠 耳」の前書きがあるから、歌会で作ったのだろう。見事な傾奇振りで、鬣のある生き物は獅子でも悍馬でも良いが、猛るものを思わせる。脳髄に収まりきれぬ思惟が猛るままに一斉に頭蓋を突き破り、生い茂ったように見える鬣、その鬣が途切れるあたりに付せられた耳は、思惟の果ての含羞か、罪の認識か、己が猛りに対する冷めた姿勢か。ソヴィエトスターとは、また傾奇切ったものだが、この当時とっくにソヴィエトは崩壊している。ソヴィエトスターはその語感から「聳えた星」を想起させる。その星は幻で、無残に潰えた理想であり、潰えた後も蜿蜒とその失敗を誤魔化し続け、ついには二万年の惨禍であるチェルノブイリを残して崩壊した。では、その星とは黙示録中の「にがよもぎ」という星なのか。「、とは」と最後に置いた瞬間、この「おれ」は作者ではなくなる。作者はソヴィエトスターから幽体離脱して、その無惨な傾奇振りを眺めている。
赤旗は上がっていない踏み切りは完全だでもどこに落ちよう      Ⅰ
 この「踏み切り」は電車の「踏切」であると同時に、作者の跳躍の前の動作としての「踏み切り」でもある。赤旗が上がっていない事、踏み切りは自分にとっては能う限り完全なフォームである事、同時に電車の踏切は完全に閉じられている事。(ここで電車の踏切が「完全だ」とは、閉じられているか開いているかだが、ここでは閉じられていると読みたい。踏切が閉じられていることにより、電車はその速度に異常を生じずに近づいて来られるからだ。)それだけの条件が揃っていて、しかし踏み切ったその先が見えない。死へ落ちたい訳ではあるまい、敢えて推し量るなら、真の「革命」へでも落ちてゆきたいのだろうが、その種の言葉たちが掲げてきた理想が悉く嘘に満ち腐臭を放ってきた事に、もはや飽き飽きしている。
絶唱と思う叫びが突然の咳で中断された、あの感じ      Ⅱ
 だからこそ、あらゆる絶唱は白々として、異物を排斥するための「」という生理現象を既にその裡に含むのだ。「、あの感じ」とは、生の、読点をどうしても含まざるを得ない、あの感じだろう。絶唱の後も、読点としての明日は来て、飯を食わねば生きられない、あの感じ、明日も電車に乗らねば飯が食えない、あの感じだ。絶唱を中断するものとは、明日を手に入れるために白線の内側に「下がる心」であり、その己が怯懦を肯うために、咳という生理現象を以って「下がらない心」を嗤う、肉塊の惨めな自己防衛でもある。ここで史記列伝に出てくるような烈女、例えば弟の死を悼むあまり、泣き死にした姉の偉大さを白々と眺めている人々の眼差しを、作者が感じていたかどうか。だが、世に絶唱というものがあると信じたくなければ、わざわざこのように詠う必要もあるまい。
意味あまた中空に浮く 花火大会に擾乱などを思えば      Ⅱ
 ここでも作者の捩れた含羞は顕れている。「擾乱に花火大会などを」思うのであれば、「意味あまた中空に浮く」のは取り敢えず納得できる。それは擾乱というものを冷酷に見ている姿勢だ。花火大会は擾乱ではない。予め安全に企画された娯楽だ。擾乱を娯楽と思う冷酷さがあれば、意味あまた中空に浮き、中空に帰すであろう。一方で、「花火大会に擾乱などを」思うのであれば、それは擾乱というアナーキズムの幻を美しい花火に託して、日常の裡に希求しているのだ。「意味」とは、花火として束の間具現し、しかしどう願おうとも花火として跡形なく消えるものか。意味が中空に浮くことへの苛立ち、その焦燥が遂に諦めに代わる事への承諾。
スローガンを叫び続ける生活が来る甘受する生活が来る      Ⅰ
 スローガンを叫ぶとは、騙されている事に対して盲目であり続ける事だ。共産主義革命と大本営発表と右上がり経済と、この三つが全く変わらない事は、90年代以降を生きてきた者なら、知らない方がおかしい。「スローガンを叫び続ける」と「スローガンを甘受する」とは実は等しいのであり、作者が何よりも拒否したかったものとはスローガンというわかりやすさか。(そのスローガンが、全体主義あるいは革命へ向かうものではなく、ささやかな日常の幸福に自足する明るい主体を称えるものであったとしても。)スローガンとは、進行する共同体という電車の騒音であるか。
わかりやすさを打ち破れ理解には甘さも柔らかさも付随しない      Ⅲ
全体を蔽いすべてのまなざしをそらすもの ことばはそのものだ      Ⅲ
ひとことですべての闇が消えるかのようなデマゴーグが流布している      Ⅲ
マニュアルのとおりに解読されているわかりやすさという物語      Ⅲ
 ⅠとⅡに比べれば、あまりにもナマで殆ど箴言に等しいこのⅢ部に90年代以降の絶望は示されているだろう。言葉が思考であるのなら、あらゆる思考が、己が業(カルマン)の範囲内を巡るものに過ぎぬゆえに、信用するに足りない事は、この時点で彼には明白だったか。
そのままの速度でよいが確実に逃げおおせよという声がする      Ⅱ
 この場合、逃げおおせよ、とは、おそらく「立ち向かう」と等しい拒絶だ。そのままの速度で良い、電車の速度にもメリーゴーランドの速度にもならぬことによって、「確実に逃げおおせよ」。だが、
いつもどこかにある中心者に見つめられながらぼくらは生きてゆく      Ⅲ
とりあえずこの場に置いた石ころを世界の中心として定義する      Ⅲ
 中心者とは何者でもない。中心とは空っぽの玉座だ。その上に石ころを置けば、すなわち石ころが中心となろう。いや、何者でもない者などこの世にもあの世にも存在しないとすれば、中心者とは特異点であるか。ブラックホールとホワイトホールの隙間なくぴったりと合わさったその一点に定義される者か。そこに全てを公平に観ている眼は、誰のものでもあり誰のものとも定義できない眼だ。
中心で焼かれる牛の脊椎の白さよゆるく海風が吹く      Ⅰ
 その中心に生贄のように焼かれる牛は作者ではないかもしれない。その牛の脊椎の白さは作者の思惟かもしれない。作者の見る白い他者たちかもしれない。何か取り換えの利かない大事なものが、取返しもつかず容赦なく焼かれてゆく。そのむごたらしい、いたたまれない白さを紛らわせるためか、軽く見なすためか、「ゆるく海風が吹く」。きっと生臭いだろう。
ぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわ      Ⅲ
 最後の「こわ」の後に続いたかもしれないものは、本当に「れてしまった」だろうか。そう信じるのも、一つの安心である。昨日の次に今日が続き今日の後に明日が続くと信じたいのと同じ安心だ。例えば、「こわい」だったかもしれない。壊れてしまったことを怖いと言うことは怖いのでそこで思考停止してしまえば怖いと言ったことにはならないがそもそも壊れてしまったのは「ぼくたち」という集団であって僕個人と言ったわけではない。この歌は、制作年順から言えばⅠ部の前に来るものだ。壊れたレコードのような、壊れた状態を反復したまま危うい安穏さを維持しているのが、ぼくたちという時代の精神であって、それを皮肉を以って詠った後、中澤系は「3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって」と詠った。壊れた状態のまま或る一定の速度で反復している現時点から、その速度を超えるために、快速電車の近づきつつある速度が導入される。更に快速電車の速度に働きかけるために「理解できない人は下がって」という、一見「立ち止まれ」または「後退せよ」という命令に思える、ぴしゃりと遮るような、うんざりして放り出す直前のような響きの台詞が導入される。その台詞を理解できる人は、下がらないなら、どうするのか。
不完全さにとどくはず耳たぶを嚙みしめようと思って止めた      Ⅲ
 噛み締めたいのは自身の耳朶だろう。それは体の構造上、初めから無理な事だが、「とどくはず」と作者は確信している。耳朶にではなく、「不完全さに」。噛み締めたいのは耳朶ではなく、本当は「不完全さを容赦なく体感する試み」だろう。それを体感する事により、不完全さを超える、つまり本当に耳朶を噛み締めることが出来るかもしれない。
世界とはあまりに高き熱量をもてみみたぶを切り落とすもの      Ⅱ
 この「世界」とは、日々電車に乗るための方便として取り敢えず安易に認識されている世界ではない。人は自分と同じ熱量の領域しか見えないものだ。世界をより見抜くためには、より熱量が要る。世界に肉薄する熱量を個人が持つことは可能か否か。その熱量に晒される事の痛み、それは歌を詠む動機でもある渇きといって良いだろうが、それを「理解できない人は下がって」、日常と思い込みたい何かを生きるが良い。だが、理解できるなら、耳朶を切り落とす新しい言語を聴け。
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって
 なぜ3番線なのだろう。3とは完全な数字、揺るぎない安定の数字だ。三位一体を、或いは三権分立を、或いは三世の毒を思っても良い。世界の構造を象徴し体現する最小の数字が3である事を考えるなら、その線を疾駆しホームを通過する電車は、恐らく誰にも止められない。ホームに佇む者にとっては乗ることの出来ない電車であり、乗客にとっては降りることの出来ない電車だ。
 そのことをホームにおいて理解した者は、下がらずに跳躍するだろうか。未決囚が、キューピー達が、真鴨に似たものたちが、顔のない少女が、次々と跳躍し、空しく血泥と化すだろうか。何人かが、何十人かが、何百人かが挽肉と積み上がった果てに、遂に肉塊の山に阻まれた電車は自らの速度に内攻され、M字型に折れ曲がり、開脚を晒すように、その秘所から擾乱を花火を奔らせ、ミートパイの焼けるに似た焦げ臭い粉塵を巻き上げる。脱線直前にホームから最後に跳躍したものは、先行した者達の血の驟雨の森に守られ、青い実りとして血泥を躍り上がり、悍馬の速度で電車の血しぶく頂きへ、聳え立つ星の思惟の臨界の只中に、「逃げおおせよ」とも聴こえる響きを以って、「うつくしく生きよ」と。かつて誰も噛み締めたことの無い、聴く者の耳たぶを切り落とす、全く新しい言語によって、朝焼けへ絶唱するだろうか。
 そんな地球最後の日を、快速電車が通過する轟音の数秒に夢見て、懐かしいと気づく。懐かしいのは、1999年にノストラダムスの大予言が見事に外れるまで、誰もが胸底で来たるべき滅びに戦きつつも安んじ、滅びの予感を舌なめずりして楽しみ、深淵から叫ぶように滅びを希んできたからではない。懐かしいのは、繰り返し繰り返し、この肉体は滅び、この魂は分裂し、世界もまた滅び分裂してきたことを、私の深奥に在る中心者、或いは特異点が見てきたからではないか。
なつかしき地球最後の日をぼくはあしたにはもう去らねばならぬ      Ⅰ
 いつも最後の日だった。滅びは今や懐かしく覚えるほど、幾たびも予言され、囁かれ戦かれ期待され希求され、今日と同じく明日も最後の日だろう。その構造が理解されなくとも、あまねく白く晒される日には、もはや告ぐべき者には告げた。中澤君、東には何が待つのだ。
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