よろこんで評を引き受けたはいいけれど、盛田さんの連作のタイトルが「短歌」と知ったとき、正直なところどうしようと思った。「短歌とはかくあるべき」といった連作だったらどうしよう。格式高い感じの……私には難しすぎる連作かもしれない……でも心配したようなことはなかった。「短歌」がどのように「わたし(わたくし)」の暮らしに寄り添い、また「わたし(わたくし)」がどのように「短歌」に寄り添いながら生きているか、という連作だと読んだ。
タイトルが「短歌」なので、どの歌も短歌と結び付けて読んでしまったが、それが適当だったかわからない。毎日短歌のことを考えているだけに自分の短歌への思いにひきつけて読んでしまいがちで、最後まで適切な距離を取れなかったように思う。
1. 少し気が楽になるから山奥の水場の如し歌を詠むこと
主体にとっては歌を詠むことが「山奥の水場」のようで、「少し気が楽になる」という。山道を奥まで進んでいったときに水場に出会って少しだけほっとするような感じなのだろうか。短歌自体ではなく、「歌を詠むこと」がそのような存在である、というのがポイントなのではないだろうかと思う。短歌をつくるという行為を通して「少し気が楽になる」というのは、実感を通してわかる。
「山奥の水場」で「少し気が楽になる」のは、なぜだろう。山奥まで来てようやく給水できるから?しかし、それならば、水を飲む(自分の中に取り込む方向性)と「短歌を詠む(自分の外に短歌が出ていく方向性)」は方向性として重ならないような気もする。自分で言っておいて何だけれど、そんな細かいことを掘り返すのがこの歌のおもしろさではない気がしてきた。
2. 唯一のなぐさめとして焦点のつねに正しい縦書きの歌
「唯一のなぐさめ」というのは何に関してだろうか。自分の暮らしにおいての唯一のなぐさめ? それとも、短歌というものに関して、「焦点がつねに正しい」ということが唯一のなぐさめなのだろうか。
なんにせよ主体は「焦点のつねに正しい縦書きの歌」の存在になぐさめられている。しかも唯一の、というほどのなぐさめである。
3. 大らかに生きたいという願望を持つわたくしに捺される印
「わたくしに捺される印」は私の願望を縛るものなのか、それとも願望に許しを与えるものなのだろうか。どっちと言い切れないようなフラットな描写がおもしろい。「大らかに生きたい」と言っているので、現段階ではあまり大らかに生きられているとは言い難い状況なのかもしれない。
4. 咳に疲れ言葉に疲れやわらかい子供の頬に触れている夜
連作を通して、主体は短歌や言葉を間に挟んで他者と交流してきたが、この歌では身体的な交流をしている。酷い咳は呼吸を滞らせるし、呼吸がままならないと思考もうまくいかなくなってくる。言葉にもそういう面があると思う。それに疲れて主体はやわらかい子供の頬に触れる。子供の頬は主体を疲れさせるものの対照に置かれている。
短歌のことを「唯一のなぐさめ」と表現した筆者が、子供の頬に触れることにはそのような表現を使わなかったことがおもしろい。疲れすぎているからか、安易に意味づけられないからか。「唯一のなぐさめ」が安易であるとは全く思わないが、子供の頬の存在に意味づけがされなかったことで、逆に特別感が際立っているように感じた。
5. 使っても傷まぬものを使うから続くのだろう歌を詠むこと
歌を詠むときにみなさんが使うのは何ですか。言葉、心、思い、願い。物ではないから使っても傷まないといえばそうなのかもしれないけど、擦り切れたり傷んだりするものの代表のような気もして、この歌を最初に読んだときはすこし考え込んでしまった。主体にとってはそうだ、ということで、そこに異議を唱えるというのもおかしいのだけど。
主体は一首前で「言葉に疲れ」ている。でもその言葉が「使っても傷まない」ものであるとしたら。私が「疲れ」ていてもお構いなしで、使っても使っても傷まないものを相手にするのはしんどかろうなあと思う。
6. 吹き荒れるうつつの風を聞きながらコップに凪ぐは歌という水
この一首では歌は水に例えられる。しかも、「吹き荒れるうつつの風」と対照的なものとしての凪いだ水である。コップの中という小さな水面に、凪ぐという比較的大きな水面を連想させるような表現が使われているのが特徴的だと感じる。
短歌をやっているというと「雅なご趣味ですね」といわれることがよくある。そのたびに微妙な気持ちになるけれど、「吹き荒れるうつつの風」とすこし距離をとっていられる手段があるというのは、確かに雅なことかもしれない。趣味かどうかは人による。
私は指摘されるまで「コップの中の嵐」という慣用句を知らなかったのだが、この歌の背景にはそれが意識されているのだろうか。辞書によると、仲間うちだけの、外部には大した影響を及ぼさないもめごとのことだという(類義語として、蝸牛角上の争いが挙げられていた)。そうなれば、コップの中の凪ぎが外部のうつつの風吹き荒れる世界には大した影響を及ぼせない、という読み方ができる。
7. 死にたいといえば軽いと諭されて書き直している三十一文字
歌に対して評をもらったのだと読んだ。歌に「死にたい」という表現を使ったが、その表現を軽いと諭されて書き直しているのではないか。死にたいと言わずに死にたいと言え(死にたいという言葉を使わずに死にたさを言え)、ということなのだろうと思う。
「諭され」るというのがいいなと思った。その諭しには、もっとよい表現が選べるはずだという、主体の作歌の力への信頼が感じられる。
8. 「探して」と「見て」が悲鳴のようにくる秋陽の中の戸棚をしめる
秋の穏やかな陽ざしのなかに、主体は悲鳴のような「探して」と「見て」を聞いている。そしてその中で戸棚をしめるのは、その声たちを締め出す行為なのだろうか。
秋陽の中「で」ではなく、秋陽のなか「の」であることが興味深い。「の」が選択されていることによって、戸棚をしめる行為をする主体よりも、戸棚が秋陽の中にあることの方にスポットが当たっているように感じた。また、「しまる」ではなく「しめる」なので、その行為には主体の明確な意識がある。
「探して」と「見て」という悲鳴のようなものは、きっと探したり見てもらえることはなくて、そのうえ戸棚もしめられてしまう。なんらかの救いになりそうだった戸棚が歌の最後にしまり、ドラマチックな印象の一首である。
9. 音楽にのせてあなたに届けたいそれはわたしの言葉ではない
ほかの歌では「わたしの言葉」についての歌が続いていた(と私は読んでいた)が、ここで語られるのは「わたしの言葉ではない」言葉についてである。短歌が私の言葉であるから、短歌以外の、たとえば歌詞(音楽にのせる言葉)などは私の言葉ではない、ということだと読んだ。
音楽にのせて届けたいのは「わたしの言葉」ではなくて、それでも特にその言葉を届けたい。あなたに捧げたい曲(歌詞)があって、それを聞かせたい、ということだろうか。
10. どのような雨風さえも吹き込まぬための蓋つき三十一文字
この「蓋」というのが何を意味することなのかが難しい。「定型」のことだろうか、と考えたが、この解釈は無理やりかもしれない。
短歌にするということは対象を短歌という形のなかに閉じ込めることであるという側面をもつ。一度短歌にしてしまったものは、外からの干渉を受けない。そういう意味では蓋つきというとらえ方ができるのかもしれない。
六首目では短歌の外の世界は「吹き荒れるうつつの風」とされていたが、ここでも雨風のある場所として表現されている。主体にとっては短歌とは、ちっぽけではあっても安全な場所だということなのだろう。