「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌相互評16 盛田志保子から北村早紀「クエリー」へ

2018-01-05 10:20:10 | 短歌相互評


クエリーというのはコンピューター用語で、「データベースの検索で、指定された条件を満たす情報を取り出すために行われる処理の要求。問い合わせ。」(大辞林)のことだという。つまり「質問」のようなものだろうか。パソコンでなにか情報を検索するときなど、いくつかの単語をスベースをあけながら入力することがあるが、あの文字列もクエリーというらしい。短歌が十首並んでいる形は、そのイメージとも重なる。一首一首は一見、いちいち意味を解説する必要がないような読みやすさ、意味のとりやすさである。口語短歌の素敵さ、おもしろさ、どうかすると揺れ動くあやうさ、可能性など。思いながら読んだ。

バン一羽すすめば水面をゆく跡の果てなく広がっていく二直線

「バン」という黒い水鳥の名前から始まる一首目。水の上を一羽のバンが泳いでいくという場面。二直線というのは、鳥のうしろを二方向に伸びていく水の波紋のことだろう。丁寧に情景を追っていく言葉の連なりが、「果てなく広がっていく」で少し軌道を外れる感じがして、それは結句の「二直線」の字余りで決定的になる。きれいにまとめるというよりは、「水面をゆく跡」にひっぱられてどこまでもいってしまう感じ。静かな時の流れを感じさせる一首である。

脱獄というより自転車漕いでたら急に琵琶湖に出たような自由


 「脱獄というより」という否定の出だしは、逆に「脱獄」という前提を思わせる。この強い言葉は最後まで頭から離れない。脱獄という非日常から、「自転車漕いでたら」という口語全開の日常(自分なら最初はこう書いてもあとで「自転車を漕いでいたら」に直しそう。しかしそうするとただの文章になってしまう。)、そして「琵琶湖に出たような」という非日常なのか日常なのか、よくわからないゆえに印象的な下の句へ。前の一首にバンが出てくるので、もしかしたら湖は突飛な情景ではなく日常と地続きの描写なのかもしれない。そのほうがおもしろいと思った。結句の「自由」に行きつく前に、もう自由を感じる。
あと、「脱獄というより」がどこにかかっているのか、よくわからない作りだが、わたしはすぐ下の「自転車漕いでたら」につながると読んだ。少し不安定だがおもしろさもある。そこで切れて、「急に琵琶湖に出たような自由」となるのではないかなと。ただ、「脱獄」という言葉は「自由」という言葉と対になっていて、そういう初句と結句のとりあわせがあるので、全体がなだらかにつながり、まとまって見える。読み方は人によって違うこともありそうだ。

バス代を浮かせるためにかっとばすペダル 気がついたらここにいた

 最初は「バス代を浮かせる」という目的があったはずの行動が、思いもよらない場所へ自分を連れていく。「ここ」がどこなのか、たどり着いた一点なのか、今ここという現状のことなのか、読みながら少し宙ぶらりんになり、そのあやうさがいいと思う。一字空けと全体のリズムが内容にあっている。

部屋干しがこんなに楽しいことだとはひとりの暮らしに万国旗めく

文字通り楽しい歌。「こんなに楽しいことだとは」を言ってしまっていいのか、が、短歌的には焦点かもしれないが、わたしは個人的にこういう歌い方ができるときはどんどんしたほうがいいと思う。「ひとりの暮らしに」としたところがおもしろい。「ひとり暮らしに」だと音数は合うのだが、型にはまりすぎて流れてしまう。この、ひっかかりのような言葉遣いには、手縫いのような味わいがある。ささやかな、そして大きな、よろこびの歌。

ぬばたまの君の職場の先輩が君に幹事を押し付けている

 ぬばたまの…とあるので、なににかかっているんだろう、とまずは思う。職場?職場が黒い?ブラック企業?というとことへたどり着き、あ~、と唸った。(違っていたら申し訳ないです。)しかしそう考えると、そのあとの内容の背後にある色合いも決まり、すんなりと読めるからおもしろいものだ。そんなに重い感じはなく、「君」という言葉が二度使われているがリズムがよく、「押し付けている」と軽めに流すことで、逆に臨場感のようなものがリアルに伝わって、やはり内容に合っている表現だと思った。

君の暮らし私の暮らしが交わってそのとき讃え合えたらいいな

 これも素朴な感覚をそのまま歌にしたような形の一首。ポイントは「そのとき」だと思う。「いつかは」とか「いつでも」ではない。「そのとき」なのだ。これは意外に、のんきな話ではない。「君の暮らし」と「私の暮らし」が交わる「そのとき」とは、一瞬の、もうそのあと二人の関係が続くとか終わるとか、そういうのは置いといて、まさにその瞬間のことで、やはり思うのは友情や愛情、恋愛でもいいのだけど、そういう青春の輝きのことだろう。それがこの歌では非常にまるいかたちで示されているので、青春といっても若いときの鋭いイメージだけでなく、人生の終わりくらいに訪れてもおかしくない青春の一瞬を歌っているようにも読める。二人の人間の暮らしが、どちらかのものに同化してしまうのではなく、向かい合って讃え合って立ちたい、という、誇らしい、さわやかな心が印象に残った。

「ここにある大きいつづらと小さいつづらどっちもあなたのもの」って笑う


 字余りなのがちょっともったいないような気がしたのだが、変えようがない。これでいいというような気がしてくる。つづら。あの、昔話に出てくる、例のやつである。どちらかを選ばなくてはならないと身構えているところへ、「どっちもあなたのもの」、という宣言は、あまりに想定外なのでびっくりしてしまう。しかも相手は笑っている。どっちも持って帰って~と言っているのだ。この歌の主人公は、言っているほうなのだろうか、言われているほうなのだろうか。そこがあいまいなところもおもしろい。そして実は、どっちも持ち帰らなきゃならないのが、わりと普通の人生だろうなと思う。

咎められずに工夫を重ねていけることが私の水であるのを知った

 「私の水」である。たぶん、作者には百も承知のあの「水」なのである。読む側は、まず「水?」となる。それで、ああ、「あなたの」水ね、と納得しようとする。そしてまた、「水??」となる。でも、わかる、のである。「水であるのを」というところが、ちょっと舌足らずというか、言葉尻が惜しい感じがして、かといって、「水であること」ではものすごくダメだし、やっぱりこれでいいのだろうな、と思う。

目玉焼きくずれたこともファルファッレ(ルビ・ちょうちょのパスタ)ゆですぎたことも全部うれしい

 生活のワンシーン。こういうなんでもない、ちょっとしたところをとらえた歌が素敵だと思う。人生は完璧ではない。くずれた目玉焼き、ゆですぎたファルファッレはせっかくちょうちょの形なのに。やぶれて出てきた卵の黄身のあざやかな黄色、ファルファッレの語感、ちょうちょのルビ、かたち、目に舌に踊る、やはり生きていること「全部うれしい」、そんな本音が静かに伝わる。大好きな歌。

嫌いより好きを力にすることを身につけられる予感がしてる


 その通り。明るい力。ただ、「してる」を「している」にしなくていいのかな、などと思ってしまう。でも読むと、「してる」のほうがいい。だめだろうか…。だめですかね…。と、作者でもないのにおろおろする。わたしのほうが少しだけ長く短歌とつきあっているために、足枷が増えてしまったのだろうか。けれども、どうなんだろう。「文体」という言葉を思い出す。言葉は体から出てくるものだから、「本当に歌いたいことを歌う」ことがその人の「文体」になっていくのではないだろうか。とりあえず、自由に、いろいろ言われていくなかで試行錯誤しながら、最後は自分でゆずれないものを見い出していけばいいと思う。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 短歌相互評15 北村早紀から... | トップ |   
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

短歌相互評」カテゴリの最新記事