「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌相互評⑧ 西藤定から川島結佳子「たぶん」へ

2017-08-03 00:45:41 | 短歌相互評

 

作品 川島結佳子「たぶん」  http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-07-01-18583.html

評者 西藤定

 

青春は気味悪くあり錆びついた傘差し向かう同窓会へ

女だが女装してゆく鉄黒のタイツ私の脚細く見せ

 「気味悪い」は、単なる不快ではなく未知のものへの得体のしれない不安を含む感覚だ。同窓会に参加する作中主体にとって「青春」は自分自身が歩んできた過去のはずだ。それは今でも得体のしれないものなのだ。

 二首目の「女装」は武装なのだと思わされる。ともすればマウントの取り合いになりがちな同窓会で、精一杯の防御としての装いなのかもしれない。一方で「錆びついた傘」と、装いに徹しきれない主体も表れている。

 

手すりにも掴まらず立つおばあさんの体重支えるくるぶしの骨

 先の二首目とこの四首目に共通するのは「論理の視覚化」ではないかと思う。二首目「脚細く見せ」、四首目「体重支える」は、たとえば目に見えるものの描写に徹して歌を詠もうとするなら、省略して構わない部分だ。なぜ同窓会に行くにあたって「鉄黒のタイツ」を履くのか、なぜおばあさんは「手すりにも掴まらず立」っているのか、川島さんはそれを読者に想像で補わせず、主体が頭の中で行っている論理付けをそのまま押し出してくる。

 「そこまで言うのか」とも思が、これは決して蛇足ではないだろう。これらの表現は、主体の内面の理屈付けを、むしろ目に見えるもののように描写に組み込んでいる。連作前半をつらぬく冷淡で無骨な文体(「を」の助詞抜きや言い差しの多用など)によるところもあるだろうが、まるで剝き出しの「くるぶしの骨」がそこに見えているような不思議な迫力が感じられる。

 

ドライフラワーなのか私は出会う人出会う人皆「変わらない」と言い

蜘蛛ならば巣を張る隅を陣取った私にも生ビールは注がれ

 自己卑下でシンパシーを誘いつつ、同時に発想の鮮やかさで興を誘おうというのなら、それは「自虐ネタ」だ。しかしこの六首目と七首目、見かけ上は「自虐ネタ」の型に沿っていながら、興を誘うどころか恨み言を真正面から突き付けてくるような凄みがある。「ドライフラワーなのか私は」と初句字余りで大仰に「ツッコミ」を打ち出したあと、三句目からすっと落ち着いたまじめなトーンに帰り、そして結句は字余りと言い差しで粘っこく締める。七首目も上句の「陣取った」がおそらく一番力の入るところで、そこから急に「素」に戻り、最後は字余りと言い差しで終わる。

 これらの歌も二首目、四首目と同様に、歌に流れる理屈が明晰で、読者が自由に解釈の幅を広げる余地はない。だからひとたび「突きつけられた」と感じたら、もうそれを躱す手立てがない。

 

「つまんない女だ」君と私とで笑う私のつまらなさなど

膝に痣残したままで雪みたく忘れてゆける私だ たぶん

 連作終わりに近づくと、逆にふんだんに省略を効かせた歌も表れてくる。八首目、「つまんない女だ」と言ったのは君か私か、言われたのは君か私か、文面だけから一意に定めることはできない。ただ「君」と「私」と「つまんない女」の三項が宙づりで浮かんでいて、それだけが読後に長く尾を引く。

 十首目、痣は残るのに膝をぶつけたこととその痛みは雪が溶けるように忘れてしまう、と解釈することができるが、ほかの読み方も可能だろう。「忘れてゆける」対象は同窓会での会話や、さかのぼって学生時代そのものへと広がっていく。一字空けのあと「たぶん」の音が重く響いて、痣の存在を思い出させるようだ。同窓会での会話によって、主体はどんな「痣」を付けたのだろうか。

 それでも、主体は同窓会に欠席はしなかったのだ、と最後に思った。

 

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