「詩客」短歌時評

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短歌時評 第87回 電子書籍と歌集の未来 田中濯

2013-02-10 12:15:02 | 短歌時評
 2012.11.9に歌集『うづまき管だより』(光森裕樹)が刊行された。一二八首が収められた本書から、五首を選んでみる。

人前で脱ぎたることのある服となき服とありなき服を着る
冬眠のまへの眠さにゐるやうなあなたの耳をつりあげて みる
どの音がいつかのあなたをしあはせにしますか ぽん ぽこ ぽん の ぽん
静脈をしなやかな根とおもふとき背中に生やすなら葡萄の木
そよかぜがページをめくることはなくおもてのままにKindleをおく


 一首目。「人前で脱ぐ」が指しているのは、おそらく性愛の行為であろう。その日の服を選んで着るときに、服に潜んでいた個人的記憶が蘇ったのである。ここで、恋人か、あるいはかつての恋人を「人」と表現するところに光森の資質がある。他者と自己を鋭く決別させる精神のありようは、孤独と知性に裏打ちされており、不可避的にある種の「痛み」を読者に伝える。二首目は一字空けが特徴的だ。この歌集では、アルファベットやダッシュの使用あるいは詞書きの多用など、歌以外の装飾の部分が目立つ。この一字空けもその傾向の中に属する。これは私の個人的な好みではないのだが、ある種の「テイスト」を歌集に付加する試みであり、それはおそらく成功している。
 三首目は、私がこの歌集の中で最も推す歌である。本歌集は相聞のような、あるいは挽歌のような、ともかくはなにか喪われた/喪われつつあるひと(びと)への切々たる思い、もしくは、端的に「愛」がかなり抽象的に表現されており、この歌もそのひとつである。「ぽん ぽこ ぽん の ぽん」は愉快で、しかし(それゆえに?)、哀調を帯び、胸を打つ。この類のオノマトペでは、私は葛原妙子の「さんた、ま、りぁ、りぁ」を想起したものである。
 四首目は光森のベーシックな歌の力量を把握するのに適切だろう。冬虫夏草の美的な翻案のようにも思え、あるいは詩的強度としては平凡なのかもしれないが、上句の把握は美しく、また、「しなやか」を語彙の海から選び取ってくるセンスはやはり好ましい。最後の五首目は、電子書籍リーダーであるKindle(キンドル)の歌である。キンドルには当然繰るためのページは存在しないし、文章や絵・写真の画像は液晶画面に表示される。したがって、キンドルを伏せておくことはなく、常に「おもて」ということになる。紙の書籍にまつわる「古き善き感触」はここでは失われてしまったが、一見無味乾燥であるキンドルでさえ、このように美しい姿で短歌の上に姿をあらわすことができるのである。この、控えめだが、しっかりと背骨としてある光森の「反骨精神」が、本歌集でも魅力であった。

 ところで、『うづまき管だより』は他の歌集とひとつの違いがある。これは五首目とも繋がってくるのだが、それは本書がいわゆる電子書籍である、ということである。もう少し詳しくいえば、アマゾン・ドット・コム社(いわゆる「アマゾン」)が運営するアマゾン・キンドルというサービスを用いて販売されている「キンドル本」である。実態としては、自費出版である。基本的には価格は著者が決定し(本書は333円であり、これは光森が設定した価格そのものとのこと)、おおむね70%が印税となる(そこから通信料が引かれるなどのまぎれは存在する)。しかし、維持費そのものは無料。つまり、テキストをキンドルが求めるフォーマットに変換する能力さえ持っていれば、誰でも無料で歌集(電子書籍)を出版できるということになる。

 ただし、著者の光森に問い合わせたところ、私のようなコンシューマー・レベルの人間が、納得のいくかたちの電子書籍を作成するのは現状ではなかなか困難が多いようである。光森によると、電子書籍作成はホームページ作成に似ており、したがって今後「ホームページ・ビルダー」のようなソフトが出回る可能性があるが、そのようなものは「現時点でも存在しているものの使い物にならない」とのこと。私が個人的に興味深かったのは、そのようなソフトが現状では「縦書き」に対応していない場合がある、ということだった。日本語の「縦書き」表示は、これまで電子書籍の流通を日本で妨げていた最大の「文化的障壁」であった(商慣習としての「再販制度」の影響も当然大きかったが)。私は、縦書きこそは、日本語の柱であり、英語に対する最後の「防壁」である、と判断している。本「詩客」も、作品については頑固に縦書き表記を維持していることは興味深い(横書きとの併記である)。実のところ私は、例えば「文語」を維持しようとするよりも、詩歌においては「縦書き」だけは最低限絶対に守り抜くことに注力すべき段階にもはや突入していると考えている。ビジネスや公文書、教育など、新聞以外のほぼすべての文章(この文章もそうだ)が横書きになった現在、「縦書き」が意味することはとても大きなものになっている、と思う。

 やや話がそれた。ともかく、歌集の現状と未来を考えてみたい。

 この「キンドル本」の話を聞いてまずぱっと思いつくのは、歌集を価格破壊的に出版できるのではないか?ということであろうか。光森によると、販売数は本稿執筆時点で約60冊とのことである。これは自費出版の「キンドル本」としては、多いわけではないが、さりとて少ないわけでもない。しかし、光森の実力や歌壇での評価を考えると、これは明らかに少なく、もったいない、とも言える。この理由は明白で、電子書籍リーダーやスマートフォン、タブレット端末のアプリにおいて電子書籍を読む人間と、短歌を詠む/読む層が重ならないためである。短歌愛好者の年齢の中央値がかなり年配のところにあり、そもそもPCすら使用しないひとびともいまだ多いことを考えると、このギャップが埋まることは当分の間はほぼ期待できない。つまり、光森が歌人で初めて歌集をキンドルで発売したことは、経済的な利益や歌壇的な名誉を、少なくとも短期的には、求めてのことではないと判断できる。

 だとするならば、光森の求めるものはなんだろう。おそらくそこには、先駆者の誉れ、あるいは使命感、といったものが存在するだろう。今後キンドルでの自費出版本は、アメリカでの場合と同様に、爆発的に増大するだろう。そして、その本の種類の中には確実に歌集が含まれてくる。そのときに、キンドルで歌集を出すものは、まずは模範として『うづまき管だより』を参考にするか、あるいは意識するだろう。なぜなら、光森は若く実力のある歌人として、ネット上・リアル上に関わらず既に一目置かれ、認められているためである。

 また、『うづまき管だより』が黙契的に示しているものは多く、かつ重要である。例えば、繰り返しになるが、縦書きであること。「表紙」をつけてその意匠にも心を込めていること。歌集の「校正ミス」の訂正が簡便であること。一二八首と紙の歌集に比較すれば約三分の一の収録数ではあるが、実はこの数は一気に読むのにストレスがない適切な量であること。一方で紙の歌集であればこれだけ薄いとどうしてもチープ感が出てくるものだが、電子書籍の場合はそのようなネガティブな印象は生まれないことを証明したこと。などである。光森は、いわば、電子書籍の歌集のデファクトスタンダードを決定したのである。とあるフィクションの言葉を借りれば、彼は「ナプキンを取った」のである。そしてそのことは、短歌にとって幸運であった、とおそらく結論されるだろう。

 「キンドル本」歌集の最大の特徴は、価格の安さにあるのではなく、その流通性にあるのだ、と私は考えている。現状の「紙で作られた」歌集が、一般的な読者に届くことは実はほとんどない。それは、新聞に短歌を投稿している層においてですらそうであろう。言ってしまえば、本屋にそもそも歌集が置かれていないことに根本的な原因がある。しかし、「キンドル本」は、この障壁をあっという間にストレスなくクリアする。ここで見出せうるのは、短歌に親しむ層の量的な拡大の可能性であり、また、埋もれていた巨大な才能が登場するための下地である。

 ここで、少し話の角度を変えてみよう。例えば世の中には、現代歌人協会や日本歌人クラブといった団体が存在する。これら公的な団体は、短歌を普及し発展させるという使命をもっている。それを勘案した場合、例えば、著作権が切れた歌人の歌集については、これら公的な団体が積極的に電子化をはかっていくべきではないだろうか、と私は考えるものである。ひとつ例を挙げると、青空文庫には茂吉の「文章」はかなりの数が収録されているが、歌集についてはひとつもない。私はこの状況は短歌の未来に巨大な損失を招いている、と判断する。あるいは、著作権が切れていない歌人や存命の歌人であっても、手に入れがたい昔の歌集は積極的に電子化していただければ、これは読者には間違いなく恩恵となるだろう。また、歌人側・著作権者側にとっても、歌がより多くのひとびとに読まれることは喜びであろうし、それが再評価のきっかけになる可能性もある。ついでにいえば、いくばくかのお金も入ってくる。

 ひとつ問題があるとするならば、それは、われわれが日頃お世話になっている詩歌出版社の存在かもしれない。彼らは「キンドル本」によって「損をする」かもしれないからだ。しかし、『うづまき管だより』についてのこれまでの論考を読んでいただければ理解していただけるものと思うが、「キンドル本」歌集は、歌集出版における既存のビジネスモデルとほぼ競合しない。特に、紙の歌集には、本そのものを大切なひとびとに贈る、というとても大事な価値が備わっており、それはゆるぎない強固な文化である。よって、負の面よりも、各出版社が抱えている「品切れ」の歌集群を、順次電子化していった場合に開かれる新たな市場にこそ目を向けていただきたいのである。これはまた、カネの問題とは別に、短歌にとって意義のあることでもある。

 最後にあらためて書いておくが、光森による『うづまき管だより』出版はエポックメイキングな出来事であった。各総合誌におかれては、「出版された歌集」の中に本歌集をカウントしていただき、年末の年鑑に収録していただきたく思うものである。また、本稿が強調している点とは矛盾してしまうかもしれないが、この歌集がただの出版の形式によってではなく、その内実にふさわしく評価され、皆に語られることこそを強く願っている。

*本稿執筆にあたり、貴重なアドバイスをしてくださった光森裕樹氏に感謝します。
**購入先http://www.amazon.co.jp/dp/B00A40ZMEU
***なお、光森氏は第一歌集『鈴を産むひばり』のKindle書籍化も進めておられ、
先頃発刊されました。http://www.amazon.co.jp/dp/B00BAD9HK0
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