世界の詩最新事情

毎月1回原則として第3土曜日に世界の最新の詩を紹介いたします。アジア、ラテンアメリカ、中国語圏、欧米の4つに分け紹介。

イリヤ・カミンスキー(Ilya Kaminsky)―アメリカ合衆国― 佐峰 存

2017-08-09 02:34:23 | 日記
米国が揺れている。トランプ政権の元で、長年をかけて水面下で蓄積されて来た様々な地域・経済的および文化的背景の人々の相互の不信感が顕在化した。それと共に“米国的である”とはどういうことか、と疑問を呈する声も出てきた。私自身は、米国で育った者として、あえて何が“米国的”であるか決める必要もないと考えているが、“米国の詩人”としては真っ先に日本に紹介したい人物がいる。イリヤ・カミンスキー(Ilya Kaminsky)だ。
 カミンスキーは1977年にソ連・ウクライナのオデッサ市で生まれ、1994年に米国・ニューヨーク州のロチェスター市に家族と共に亡命している。米国移住後に英語で詩を書き始めた。旧ソ連圏からの亡命のみでも複雑な背景だが、加え、幼少時に聴力の大半を失っている。こうした経験が彼の詩作に少なからぬ影響を与えている。
 詩人としては米国を中心に活発に活動をしており、若手詩人の注目株として全国誌である『Poetry Magazine』のレビンソン賞をはじめ、数々の詩の賞を受賞している。社会的な活動にも積極的に取り組んでおり、全世界での詩人による朗読活動を支援する“Poets for Peace”を立ち上げている。彼自身、精力的に朗読に取り組んでおり、ソ連の詩人マリーナ・ツヴェターエワの作品を読んだりもしている。豊饒な旧ソ連圏の詩と米国の詩を繋ぐ役割を果たしている。
 このような背景を知る前から、数多くの米国詩人の作品を読み進めるにつれて、私の中でカミンスキーの詩は強く印象に残った。この場を借りて、彼の作品の特徴を主作品の原文から引用(“抽出”)し、共に読み解いていきたい。

***

 まずは未完原稿集「Deaf Republic」の冒頭の一節からカミンスキーの声を聴いてみたい。

What is silence? Something of the sky in us.
There will be evidence, there will be evidence.
Let them speak of air and its necessities. Whatever they will open, will open.

(“from Deaf Republic: 1”, Poetry Magazine, 2009, Poetry Foundation)


静寂とはなんだ? 私達の中の空のようなものだ。
証拠は残る、証拠は残る。
空気とその必要性を彼らに語らせなさい。彼らが開くものは開くのだ。

(同上、引用者訳)



 ここでは静寂と向き合う語り手と静寂そのものが、互いに存在として反応する。静寂は決して音のない状態ではない。音が外界から意識の中へと場を移した状態だ。その感覚はただただ広く、「空のようなもの(Something of the sky)」で、空と同じように高度を持ち、彼方を持つ。内面では外界と同じ強度で事物が存在する。内面で起こること、発生した音はなかったことにはならず、「証拠は残る(There will be evidence」。語り手は今この瞬間の感覚に向き合っている。自らの立ち位置を確認しているような一節だ。特徴的なのは同じ言葉の繰り返しだ。「証拠は残る」、「開く(will open)」という言葉が繰り返される。語り手は、語り手自身に、彼が語る言葉を言い聞かせているのだ。確信に満ちた言葉の選択で表現を紡ぎつつ、それを自身に言い聞かせている状態に、確実性と不確実性の間の揺らぎの感覚―すなわち存在の自覚―が込められている。同じ言葉を繰り返すことによって自覚を深めていく書き方は、カミンスキーの多くの作品に見られる一つの特徴だ。
 “Poets for Peace”活動にも見られるように、カミンスキーは社会的な意識の強い書き手で、その姿勢は作品にも表れている。上述の「Deaf Republic」も戦乱を扱った原稿集だ。上述の静寂に対する向き合い方と、作品の隅々を覆う爆撃音の後の聴覚の麻痺が掛け合わされて、感覚の奥行きを作り出している。作品「Town Watches Them Take Alfonso」では、「Deaf Republic」でも登場するDr. Alfonso Barabinskyが連行される場面を描いている。

Neighbors line up to watch him thrown on a sidewalk like a vaudeville act: Ta Da.
In so much sunlight—

how each of us
is a witness stand:

They take Alfonso
And no one stands up. Our silence stands up for us.

(“Town Watches Them Take Alfonso”, Poem-a-Day, 2017, the Academy of American Poets)


隣人達は並び、彼が寄席演芸のように歩道に投げられるのをみる。ジャジャーン!
まばゆい日光の中で―

私達ひとりひとりは
証人だ:

彼らはアルフォンソを連れて行き
誰も立ち上がろうとしない。私達の沈黙以外は。

(同上、引用者訳)



 カミンスキーの表現で特に鮮やかなのはアイロニーの折り込み方だ。「まばゆい日光の中で(In so much sunlight)」公然と連行が行われる。起こっていることは明らかに異常なことだが、世界そのものの“日常的な”佇まいの中の片隅に溶け込んでしまっていて、「隣人達(Neighbors)」の身体が反応出来ない。「私達ひとりひとりは/証人だ(how each of us is a witness stand)」。その場にいる誰しもがそう思っているだろう。語り手を含む、見守る人々の内面と身体の分離の瞬間。「誰も立ち上がろうとしない(And no one stands up)」が、それぞれの心の中では立ち上がる何かがある。その様子が「私達の沈黙(Our silence)」という言葉に明瞭に示されている。人々はアルフォンソを見捨てた訳ではない。アルフォンソを消し去ろうとしている社会の構造は彼らに対しても刃を向けている。沈黙は寧ろ力強く立ち上がっている。動かない身体から動き出す内面へと急旋回をするような切り替えにカミンスキーの力を感じる。
 日光はカミンスキーの他の作品でも数多く登場する。作品「Between Arrests」では過剰とも言えるほどに散りばめられる。ひとつの言葉の連続性と変遷に対し、カミンスキーがどう向き合っているのか、垣間見ることが出来る。

Today no one is shooting, there is just sunlight and sunlight.
A girl cuts her hair with imaginary scissors—
The scissors in sunlight, her hair in sunlight.
A boy steals a pair of cordovan boots from an arrogant man in sunlight.
To speak and to say sunlight falling inside us, sunlight.
(中略)
Body, they blame you for all things and they
seek in the body what does not live in the body.

(“Between Arrests”, lyrikline, 2013, Haus für Poesie)


今は誰も撃つものはいない、ただただ日光と日光だけ。
女の子が空想のはさみで髪を切る—
日光の中のはさみ、日光の中の彼女の髪。
日光の中で少年が傲慢な男からコードバン革のブーツを盗む。
僕たちの中に日光は注いでいるよと、日光。
(中略)
身体よ、彼らは全てのことでお前を責めるだろう、彼らは
身体の中に、身体の中には棲まないものを求めているのだ。

(同上、引用者訳)



 「日光(sunlight)」がひたすら降り注ぐ。外の世界にも、人々の内面にも。「日光」という言葉が繰り返される度に、その言葉の中に文脈が蓄積されていく。光が重なっていき、さらに強い光になる。日光の元で戦乱ではない日常が繰り広げられる。この作品でも語り手は自身に言い聞かせるように同じ言葉を重ねている。カミンスキーは宇宙的な目線を持ちながら、人間の様(さま)を描いている。太陽は人間が戦乱にまみれている“身体の時間”にも、平穏の中で想像を膨らませていける“内面の時間”にも、等しく降り注ぐ。どこまでも無情なのに、その姿に安堵を感じる私達がいる。日光を浴びながら語り手は「身体(Body)」に赦しを与える。しかし、この作品の題名を忘れてはならない。 「Between Arrests」という題は、この安息が必ずしも長くは続かないであろうことに対する警告を発している。
 カミンスキーの作品を読むとき、私はそこにエフゲニー・エフトゥシェンコの詩のような人々に対する大らかな眼差しを感じる。現在のように米国が政局的に混乱している時代に彼のような詩人がいることも重要だが、社会情勢とはまた異なる次元―言葉と人々の相互の関係性―で、彼が米国で活動をしていることは大切なのだと思う。エフトゥシェンコも晩年を含む長い期間を米国で過ごした。カミンスキーの言葉には多分に旧ソ連の詩人の水脈が流れているものの、それを開花させる土壌は米国にあり、そのような意味でも米国詩の担い手の一人として注視していきたい。
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