「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 句集を読む4 小峰慎也

2017年02月25日 | 日記
 石田波郷の句集『雨覆』を読んでいる。
 前回、「ニコライの鐘の愉しき落葉かな」という句を読んだ。のだが、6句目、「風雲の少しく遊ぶ冬至かな」を読んだら、「」という字が気になりだした。
 「風雲の少しく遊ぶ冬至かな」といったときの、これは、俳句ではよく見かける気のする、いい感じの「」だが、この「」、どう説明されるのが一般的なのだろうか。文法的な説明というか、ここでのはたらきというか。遊んでいるのが、風雲だとして、「風雲」を主格としてあらわしながら、「風雲の少しく遊ぶ」が「冬至」にもかかるという場合の、俳句でなくてもよく使われる、「が」→「の」の変化ということか。例)「本が積んである」→「本の積んである部屋」といった場合の(文法的には、主語述語を含む文が、別の名詞の修飾になるとき、「の」に変わる、というような説明でいいのか)。ただ、この句で、ほんとうにまともに「風雲の少しく遊ぶ」が「冬至」にかかっているととらえていいのかどうか、「遊ぶ」でいったん切れているとした場合、「」を選ぶ理由はなんだろう。これが、「が」であったときを想定してみると、まるで印象が違うように思える。「風雲が少しく遊ぶ冬至かな」であった場合、叙述という面が強く出てしまい、「風雲が少しく遊ぶ」も「冬至かな」もただそれだけで、二つが関係して何かになっている状態ではない。それに対して、「風雲の少しく遊ぶ冬至かな」には、「風雲」が「冬至」のほうにまるめこんでいくようなやわらかい遊びの調子が感じられる。
 そこで、「ニコライの鐘の愉しき落葉かな」を見なおしてみると、前回書いた、「ニコライの鐘の愉しき」「落葉かな」というふうに切れているとした場合、「鐘の」の「」は、「が」→「の」というパターンの、「」と思っていいのだろうか。もしこれが「が」だとしたら、「愉しき」と「落葉かな」の間で切れるのがよりはっきりし、前回、切れてない場合の可能性をあれこれ想定してみたが、その想定はほぼ無用になる。まあ、切れているととらえることが当たり前のことかもしれないのだが、「の」になっていることで、慣れない読者に「可能性」を与えてしまっている、しまっているといったら、悪いことのようにきこえるが。慣れない読者といったが、ただ、ぼくが頭が悪いだけかもしれない。頭の悪い人間に、「ニコライの鐘の愉しき落葉かな」は、なんだか違うもののように、はがゆい可能性として「ある」という感じがするのだ。それが、気持ちいいとも思える。
 まるめこんでいく、といういいかたをしたが、この「の」には、主格でありながら所有格であるような、後の語にもぐりこんで消滅したい欲求、といったら、変だろうか。切れ、かつつながっているということなのかもしれない。ただ、少し気になるのは、もし、このような「の」を使うことが、常態化していたとしたらどうなのか、ということ。たしかに、この場合、(もし「が」の可能性があるとして)「の」のほうがあきらかに面白いとは思う。しかし、常にそのことがよしとされるようなことであれば、ちょっとなあとも思う。そうではなくて、俳句は短い、というようなことが呼びよせる書き癖のようなものなのかもしれないけど。

 7句目に。
 「餓師走花八つ手などちつてなし」。「餓師走」というのは、「うえしわす」という読みかたでいいのだろうか。この語はひとつの語? それとも、「」「師走」、二つくっつけてしまったものか、または、一般的に季語としてあるものなのか。こんなやりかたあるのだな、という感じである。これも、さっきの「俳句は短い」ということに関連して出てくる、産物、ある意味での「無理の成立」だ。これがもっとことば数の多いフィールドに出たら、もちろん書くことはかまわないのだが、それを成立させるのはむずかしいのでは、と想像される。俳句の制限が、自然なかたちで無理を成立させているのだ。「餓師走」、無理やりに押し込めた、そこで屈折が出て、句の中の力点が作られる。
 「餓師走」で、時期、状況などを端的に示したあと、切れて、「花八つ手などちつてなし」と見えているもの、景色のほうに視点が切りかえられる。しかも、というのも変なつなぎだが、実際に見ている目を想定した場合、「花八つ手など」のない植物(?)を見ていることが想像されるが、いまそこで起こっているわけではないが当然そうであるところの、「ちつて」という動きを含ませている。余計な動きをさせているのだ。これは、動きでもあるし、「」るということばの含み、あるいは、いま見えているものに過去を与えることにもなっている。
 さらにいえば、「」「師走」「花八つ手など」とつながる、名詞列挙の気持ちよさは何なのだろう。それぞれに、同じくくりにできない、ことなるはたらきをする語であるが、かけはなれすぎてもいない。そして、「など」がきいている。「など」は「花八つ手」にかかって、ほかの植物を含む広がりを与えているのはそうとしても、「」「師走」「花八つ手」という連続にかかる「など」としてもはたらいている、と錯覚するようなききっぷりである。
 なにか、石田波郷という人、よく知らないが、ことばのどこで力を置いて、どこで動きをつければいいのか、いちいち、やってくれる、という感じだ。

 8句目。
 「桑括る女をみる目ながしけり」。
 これは途中で切れていないのだろうか。切れている切れてないを確定させることに執着するというのも違う気がしてきたが、意識しないというのもやはり違う気がする。この句の場合、「みる目」を「ながしけり」だととらえるとした場合、まあ普通につながっているとしていいのだろうか。流し目ということばがあるが、それを「目(を)ながす」というふうにいいかえているということか。こういいかえてみると、なにか変な感じ、「流し目」とは別の感じをあたえてくる。「流し目」といういいかただと、一つの動作を慣用的・静止的にとらえている感があるのに対し、「みる目ながしけり」では、みている目を「動かしている」、それも、普通に動作主が目を動かしているというよりは、「みる目」を一度「もの」にした上で動かしている、と感じられる。
 と、しても。これは、どうも、ことばいじりの小ざかしさも感じさせている。これ、普通のいいかたをしたら、「桑を括る女を流し目で見た」ということになるだろうか(まあそもそも解釈が間違っていて、流したのは全然違うものなのかもしれず、また、俳句の習慣で、目を流すとかいういいかたが普通にあるのかもしれないのだが)。こういうある程度普通にいった場合を想定してみると、そうとうテクニカルにやって、俳句化しているなという感じである。それ自体は別に悪いことでもないだろう。「流し目で見た」ということを「みる目を流した」として普通でない感触をつくったことに感心しもする。ただ、「みる目ながしけり」といういいかたには、ある材料を組み替えているだけ感、組み替えてこうなったからすごいだろう感、のようなものが感じられ、少し鼻につくような気がしてしまっているのだ。さっき勝手に想定した「桑を括る女を流し目で見た」というような散文的ないいかたからすると、「を」の省略(助詞の省略)がたくみであることも手伝っているかもしれない。ようするに、正解に向かいすぎている面があるということである。

 次の9句目、「冬の日を飛越す鷺の薔薇色に」も、「」が気になる句だ。
 俳句を読みなれていない人にとっては、いろいろな可能性が思い浮かぶ。普通に意味を考えたら、どういうことなんだろう。全体が、散文的につながっているとすれば、冬の日を飛び越した鷺の色が薔薇色ということになり、冬の日を「飛越す」ということをやった鷺の色「」どうしたという部分が省略されている、ということになる。が、たぶん、これは不正解なのだろう(わからないのだが)。
 それでは、やっぱり「鷺の」の「」を主格を示すものと考え、その主格が冬の日を飛び越している、「冬の日を飛越す」と「鷺の」が倒置関係になっていて、鷺が冬の日を飛び越している、それを薔薇色と表現してみた、というのはどうだろう。この場合、「」は、「飛越す」にかかる、ここの部分も変則的に倒置関係だ。しかし、これもなんとなく釈然としない。「」っていうのをなんでわざわざこう使うのか、「俳句のステージに上げるための行為」と邪推したくなる。
 もう倒置とかどこにかかっているとかほとんど考えない、読み取ろうとする力を低下させて読むことを指示されている、のだろうか。読解力を低下させたまま読めば、任意のところで、あいまいに、切れているように、思うことができる。「冬の日を飛び越す」で切ってしまえば、これは別に、鷺にかぎらない、何ものかが冬の日を飛び越した、ということが思われてくる。そうした場合、「鷺の薔薇色に」とつなげて考えることがかなりむずかしくなる。「鷺の薔薇色に」「冬の日を飛び越す」というような文として意味をとろうとするのは、文法的な説明はよくわからないが、「飛び越す」ということばにとって、なになに「」というものは組み合わせられず、組み合わせてもいいが、そのときには、文が、感じられなくなる段階にまで踏み出すことになる。このようなところまで踏み出したなら、文はほとんど生きていないといっていいが、ものすごくはがゆい気持ちを持つことができる。
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