「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 松山市を歩くこと、句集を読むこと 久真 八志

2017年04月23日 | 日記
 昨年の夏、妻と二人で愛媛県松山市を訪れた。別の目的地に向かう経由地として立ち寄ったのだが、時間があったので市内をぶらつくことにした。松山駅前から中心地を目指して路面電車に乗ると、車内に俳句が掲示してあった。どうやら「観光俳句ポスト」という、市内各所に置かれたポストに投句できる公募企画の入選句らしい。その入選作品は覚えていないのだが、横に掲示してある正岡子規の俳句よりはいいなと思ったので、妻に「子規はパイオニアだけどあまり面白くない。短歌と同じだ」と軽口を言ったことは覚えている。このあたりで松山市は俳句を観光資源としてアピールしている街だったことを思い出した。

 それからも美術館など公共の施設に立ち寄るたび、どこかしらに投稿俳句の掲示を見つけることができた。特に思い出深いのが大街通商店街だ。松山城にほど近いアーケード街で、地方中核都市の中心部だけあって、道幅も広く、人通りも多かった。見上げると、俳句をプリントした大きなポスターが、通路の両側の柱に数メートル間隔でぶらさがっていた。これもまた市民の俳句の掲示らしいが、「せみのぬけがら」とか「みずでっぽう」とか、雰囲気がどうも大人のものとは思われない。おそらく地元の小学生の作品なのだろうと推測した。僕の地元の商店街にも、小学生の習字作品がよく掲示されていたからだ。もっとも松山大街通商店街での掲示の規模は比較にならないほど大きい。歩いても歩いても俳句が途切れない。くわえて重複もない。商店街のWebサイトによるとアーケードの長さは483メートルもあるとのことだ。一枚の吊るし看板には裏表に異なる作品が貼ってあるので、三百句はゆうに超える計算になる。一冊の句集並である。入選句でこの数だから、実際はそれ以上の数の子どもたちが俳句に取り組んでいるのだろう。

 いつしか僕も妻も、顔をずっと上げて、店の並びではなく俳句ばかり見るようになっていた。そしてしばらく歩くうちに次の一句が目に飛び込んできた。

ソーダ水とてもきれいな字のノート

見た瞬間にこれは凄いと思い、ポスターを指さした。妻に教えるためだったが、妻も既にその作品に目が釘付けになっていた。それから二人であれはいい、そうだ、と頷きあった。すっかり覚えてしまったその句を東京に帰ってから調べてみると、作者は羽柴由依さんといい、入選当時で小学3年生、またこの作品は第50回子規顕彰小中高校生俳句大会で特選を拝したものだということがわかった。



 松山市では街のあちこちに、特に僕のような観光客が訪れるような施設には、必ずと言っていいほど俳句の掲示がある。行く先々で俳句を見かけるたび、次はどこで俳句に出くわすだろうかと考えるでもなく考えるようになる。最初は頼んでもいないのに見せられているように感じ、若干わずらわしかった。しかし量が量なので、僕が面白いと思う句もちらほら見つかるようになり、そうすると新しい俳句を読むのが楽しみになってくる。ついには、まるで宝探しのように、風景のなかに俳句を探しはじめる。最初は視界に入ってくる俳句を眺めていただけだったのに、いつのまにか積極的に俳句を探して読もうとしている自分に気づく。

 ここで句集や句誌を読んでいるときの心境について考えてみる。これらの本を読むときは、俳句を読もうと思って読み始めるものだ。しかしページをめくってもめくっても俳句が途切れない状況が続くと、次第に疲れてくる。だから大量の俳句を読むときは小まめに休憩を挟み、気分を変える必要がある。もしタイミングを逃し続ければ、ベルトコンベアーで運ばれてきた俳句がつぎつぎ胃に流し込まれているような感覚に陥ってしまう。読みたくて俳句を読んでいたはずが、いつのまにかむりやり読まされているかのように感じてしまうのだ。これは歌集を読むときでもあまり変わらないので、句集に特有の現象ではない。

 松山市内を歩くことと句集を読むこと、どちらもまとまった数の俳句を読む点は同じだが、次の俳句を読むモチベーションの推移は逆の変化をたどるのである。

 この違いには、実際に体を動かすことによって得られる五感への刺激も影響しているだろう。重たい荷物を抱えて歩き、山がちで空の高い街の風景を見て、学生たちの訛りのある言葉を直に聞いていると、肉体がここに確かにあるという感じが強烈に迫ってくる。そんなときに読む俳句は、言葉が再現する体感を鮮明にしやすいようだ。例えば「ソーダ水~」の句に惹かれたのには、当日の猛暑が一役買ったかもしれない。日なたには数秒といられない暑さの下、その時まで飲み物を買っては飲み買っては飲みしていた汗だくの僕にとって、「ソーダ水」という言葉は清涼感の単なるイメージ以上のものだった。入力された言葉、とりわけ身体感覚に関する言葉への反応の強弱は、流れる時間のなかで一定ではないのだ。その日の気候や体調や気分によって、言葉にふれたときに記憶が再現する感覚の精度は大きく左右される。僕がもっと涼しい日に訪れていたとしたら、松山市内を歩くことは別の言葉への反応を高めていただろう。あの数百という歌のなかの、また別の一句に惹かれていただろう。その時々で僕に最適な一句があるのだろう。

 対して僕が句集を読むときは、座って体をほとんど動かさず、顔も俯いたままであることが多い。ずっとその体勢でいると、どんどん自分の体が透明になっていくようで、体感描写の上辺しか感じとることができなくなっていく。これはあらゆる言葉に対する反応のレベルが同様に低く抑えられているということである。ある意味ではそのときの状況に左右されず一句一句をフェアに読んでいるとも言えるから、比較検討しながら作品を評するには望ましい状態かもしれない。しかし度を越すと全ての句が代わり映えなく無味乾燥に思えてきてしまうものだ(だから、やはり、そうなる前に休憩を挟むべきである)。

 街を挙げて日常の風景に俳句を浸透させるという取り組みは、街のいたるところに配された俳句を見つけて採取するというゲーム性のある楽しみを提供する。また、ある読者がある俳句と出会うその瞬間に有している文脈を利用し、実際に身体を動かすことが言葉に対する反応を高める効果を利用する。それによって俳句を求めて読むという能動性と感受性は高められ、さらにどちらも高い状態で維持される。街が俳句を楽しむ気持ちをうまく整えてくれる。万全の状態で出会った一句は非常に深く心に残るし、僕は長く記憶し続けるだろう。このような鑑賞体験は、俳人の記念館や句に読まれた名所旧跡といった俳句スポットを、そうと知りつつ訪れたときには得難いかもしれない。また市民参加型の同様の取り組みであっても、規模が小さくては効果も小さそうだ。松山市の提供する鑑賞体験は、その規模によってとてもユニークで魅力のあるものとなっている。


///久真 八志(くま やつし)///
1983年生まれ。
短歌同人誌「かばん」所属。
2013年「相聞の社会性―結婚を接点として」で第31回現代短歌評論賞。
2015年「鯖を買う/妻が好き」で短歌研究新人賞候補作。
短歌評論を中心に短歌、川柳、エッセイその他で活動中。
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