「詩客」エッセー 第2週 

毎月第2土曜日に、遠野真さんの連載エッセー全13回、藤原龍一郎さん、北大路翼のエッセーを各1回掲載いたします。

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いちばん美味しい星の食べかた 第3回  seldom(めったに~ない) 遠野 真

2016-02-28 12:23:30 | 日記
 ある日……なんていう書き出しは虚構だ。人間の心持ちは、長い時間をかけてだんだんと、じわじわと、あるいは本人も自覚できないままに固まってゆくものである。
 だんだんと、じわじわと、僕は僕の周囲にある迷惑に、そして僕自身が抱えた迷惑に、生きていればこれから出会うであろう人達を巻き込まないと心に決めたのだ。手の届く範囲のあらゆる人生の一部分に触れたり、手に入れたりするのを諦めることになるとしても、それしか責任を果たす方法がないとすれば、迷うことはない。

 で、僕はそのような考えを持った頑なで堅物で生真面目な生物なのであり、生真面目な堅物といえばその大半は、何らかの熱い感情や志向を、心の裡で飼い慣らしているものだ。
 有り体に云えばヘンタイのことである。
 たとえば笑いのツボなんかが、歳を重ねるごとに変態的になってきている気がする。もう少し詳しく言うと、昔は漫才の番組で見るようないかにも作りこまれた笑いが素直に面白かったのが、いまはより変な、より突飛な取り合わせにウケるようになっているのだ。
 以前、若い女性歌人と歌会でお会いしたとき、その人がエナジードリンク「MONSTER ENERGY ®」を飲んでいた。レッドブルと人気を二分しているアレだ。そのとき僕は、自分が望んでいなかったのに、ニヤニヤと、フフッと、笑ってしまったのだ。
 手に握られた黒い缶、その中央のでかでかとした緑色のひっかき傷のロゴ。今までの知識や経験の集積によって、僕はモンスターエナジーに対して、パリピの人たちがクラブの大音声のなか輪になって飲んでいるのがしっくりくるというイメージを無意識に抱いていたのだ。そのようなものを、うら若い文系女子が歌会の場で持っているし、飲んでいるし、しかもそのことに外界からのツッコミが一切ない。(これは僕が持つイメージの中の話であって、実際の歌人やモンスターエナジーに含むところは無いのだけれど)僕はそういう事態にどうしようもなく笑ってしまうのだ。実際上はそこまで分析してから笑うに到るわけではないので、怪訝そうな顔をされているのに、笑った原因を説明できず、余計に後味が悪くなってしまった。
 例として十分だったかはわからないが、話を進める。取り合わせの妙もそうだけれど、笑いというのは緊張と緩和によって生じるものらしい。
 思うに、変態的な笑いのツボというのは、それぞれが背負っているストレスや、孤独感やコミュニケーションの不全といったものがもたらす過緊張によって引き起こされるのではないだろうか。
 日々ツイッターを眺めていると、「そういったネタ」に出会うことがしばしばある。でも、それらのシュールで変態的なモノを楽しんでいる人達のアカウントを追ってみると、案外普通の生活者だな……という感じで、拍子抜けするのだ。
 ふつーの顔をして暮らしている人たちの変態性を暴くのがネットの仕事の一つなのだとして、濃淡の差はあるにしろ、ネット社会に365日繋がっている現代人は、だいたいが変態的なものを背負わされているか、そうでなくても隣合わせに居るのだ。本当に清潔な人たち、モンスターエナジーで笑ってしまう僕の意味不明さに純粋に引いてしまえるような人たちは、ネット社会ではマイノリティであるか、そこまで密接にネットと関わっていないか、という気がする。
 つまりこのエッセイを読む人の過半数は、持ち主の所為でモンスターエナジーが急にシュールな笑いを点火するモノと化す現象が理解できる、言わばお仲間だと信じている。お仲間の方々はこぞって僕に同情してほしい。変なツボのせいで、失礼な態度をとってしまう事件が、数えきれないほどあるのだ。
 ところで、大学の友人(彼もまたヘンタイのようである)によると、僕らの変態性はネットによって可視化されただけで、昔から同じような人たちは同じくらいの数、存在したのだという。本当なのだろうか。例えばピクシブというイラスト投稿サイト一つ見るにしても、僕はネットによってヘンタイの数は増えたし、現在進行形で増加中だと信じきっているので、増加説VS可視化説の諍いはいつも平行線を辿ってしまう。
 そんな時、僕は真実への欲求に駆られる。このままコミュニケーションの下手くそな人が増え続けて、子孫に再生産されるなら、近い将来、世界はいつかヘンタイに覆われることになるんじゃないかと。人類がみな文筆家なら、人類がみな政治家なら、とかそういう類の悍ましさではない。悍ましさに気付かれぬまま、僕らは悍ましい生き物になってゆくのだ。

 今回は、実際のところどのへんが「アレ」なのか自覚している範囲内で書いてみた。増加にしろ可視化にしろ、そういう人たちが現代の社会にたくさんいる、という体感だけは読者の誰も疑わないだろう。翻って考えれば、それだけ強い内圧や歪みが、心に生じているということだ。みんなは一体、何に対して生真面目で堅物なのだろう。労働か、恋愛か、物欲か、それとも人間でいることか。どれにしたって、簡単じゃないことは周知の事実である。

 昭和生まれの人たちが、自分たちにとっての「昔」は長閑な時代だったとか、空気が豊かだったとか、言うのだ。でも、もし僕がその時代に生を受けたなら、ヘンタイにはならない代わりに、今の自分以上の、もっとスケールの大きな寂しさにとらわれてしまったのかもしれない。平成の世の中に生まれなければ、こんなに頑なにならずに済んだのかもしれない、とも言えるけれど……とりあえず自分はヘンタイたちにうっすらと優しい、幸福な時代に生まれたということを、良しとしているのだ。

朝まだき所詮は敗者復活の具として「書く」という行為あり 中沢直人
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