わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第200回 ―最果タヒ― しを読む、しとして読む 葛西 佑也

2017-09-18 15:14:55 | 詩客

 詩を読めば、日本語について、あるいはもっと大きく言語について、敏感になれるのはでないかと思っていた程に、私は鈍感であった。今が敏感なのかと言われれば、甚だ疑問ではあるけれど、詩というものに触れ始めた頃は、今よりもずっとずっと鈍感であった。それは、言葉に対してだけではなく、だけれども。もちろん今の方が遥かに鈍感で、あの時の方が敏感であったという部分もあるにはあるだろうけれども。それで、今は、詩を読むか否かよりも、「詩として読む」ということの方がはるかに重要である思っている。様々なものを詩として読んでみる。私にそんなことができるのかは別として。
 先日、小島きみ子発行の詩誌「Eumenides Ⅲ」54号で、平川綾真智がネット詩の歴史を俯瞰するような興味深い論考(これは一読をお勧めする)を書いていて、私も詩を書き始めて、最初に人目に触れる形がネットの上で、ネットでの活動が長かったものだから、昔を偲ばずにはおれなくて、まだまだ鈍感だったあの頃を思い出したのであった。そして、敏感である私に対して、羨ましい、いや、妬ましいほどに敏感であった詩人がいた。それが、「最果タヒ」だった。それから数年後からの彼女の活躍は言わずもがなであろう。彼女は、物事を「詩として見ている」のだろうと私には思える。当時は同じネット上で活動し、年齢も近しい詩を書く女の子というくらいの認識であったが、彼女の視線はどこか違っていたのかと(まあ、後付けなのかもしれないが)思えなくもない。今も昔も、やっぱり読むたびに、気づきのあるものを、私たちに提示してくれる。
 私が最果の詩の中で、忘れることのできない作品に「死なない」がある。それは、私が当時もっていた問題意識にぴたりと重なってしまったからだった。私も似たようなこと(とは言っても全く違う表出となったが)作品にしている。

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最果タヒ「死なない」 ※一部抜粋

わたしは
傘でしたが

あめふり、始まった瞬間に窓から捨てられてしまいました。そこが部屋であ
るから、かれらはかわらない日々を過ごしている。傘がないからえいえんに
迎えはない。

あめはえいえんに止まらず、そうね、火事もだから起きない。かれらはけっ
して外を見ない。暖炉があたたかい。草花をそだてていて、きちんと水をや
っている。わたしの腿がとてもいたいです、骨が折れてしまった。
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 最果は、孤独な傘の視点で詩を書きき切った。私は、自身の詩の中で、傘になりたいと願ったことがあった。私の視点でありながら、私ならざるものの視点で何らかを見つめるということは、「詩として見る」ことの第一歩のような気がしてくる。そして、あらゆるものは「死として見る」ことも。言葉の響きが似ていることは、偶然ではないように思えてくる。いや、仮に偶然であったとしても、そこに意味を作りだす想像力にこそ、詩や文化の源泉があるに違いない。

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