わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第103回 -オクタビオ・パス-佐峰存

2013-07-19 19:24:57 | 詩客

 今、私はエズラ・パウンドの『詩篇』「第二十篇」を読み返しながら、メキシコ詩人のオクタビオ・パスに思いを馳せている。日本人でありながら米国ニューヨーク州で育ち、日本語と英語の間に横たわる大きな感覚の隔たりを意識せざるを得なかった私にとって、自国の言葉からの越境を試みた詩人として、パウンドと共に特別な立ち位置を占めてきたのがパスだ。

 パウンド同様、パスも日本の詩および俳諧に強い関心を示し、日本語の言語感覚を自らの作品に取り入れた。私が彼の作風にそもそも親近感を覚えたのも、こうした要素が故かも知れない。

 パウンドとパスは決定的に異なる人生・生活を送った。私の中では、この二人は陰陽をなしている。「陰」のパウンドと「陽」のパス。パウンドは故郷・米国から疎外され、人生の大半を欧州で過ごした。パスは故郷・メキシコにて、外交官として国に従事し、国民的詩人として愛された。

 パウンドは国や職を転々としつつ、米国にて反逆罪で起訴されたり精神病を理由に病院に長年収容されたりと難儀な生活を送った。一方のパスは定職を持ち、多大な時間を日々の実務に費やした。メキシコの駐インド大使にまで上り詰め、母国によるトラテロルコでの学生虐殺に抗議し大使を辞するまで、生活力の高さをいかんなく発揮した。

 パウンドの波乱万丈な人生とは対照的なパスの規則正しい社会人人生は、その多忙さ故にパスの詩に腐葉土を与えたようだ。パス自身が語っているように、社会は本質的に詩的ではあり得ない。「そのこと」が逆説的に詩を力づける。詩はバネのように社会的な時間と秩序の中で反発し、却って生き生きとする。

 外交官としての身分はメキシコの外の世界の様々な文化や言語にパスを押し出した。1952年には東京に送られた。彼はその時の心境を作品「出口はないのか?」(原題:¿No hay salida?)で吐き出している。

 

今や 重量を失った手にて夜は怒涛の潮をおびき寄せ ひとつひとつ 幻を沖へと連れ去っていく ひとつひとつ 言葉が顔を覆っていく
昨日は今日だ 明日は今日だ 今日は全て今日だ 中心から押し寄せて 私を見る
外では 夏が乱した庭園で 狂った蝉が夜の壁を叩く 私はいるのか いないのか

 

 未知の世界に閉じ込められた、息苦しい生活は意識を鋭敏にした。パスは空気口を求め、手当り次第に日本の言葉を読み漁った。そうこうしている内に俳諧の魅力に取り憑かれた。日本ではあまり知られていないが、母国で『Renga(連歌)』や芭蕉の俳諧を紹介する『Sendas de Oku(奥の細道)』等の書籍を出すほど、日本語によって編まれた感性に関心を示した。 一つの「出口」を見つけたかのごとく。後にパスはこう発言している。
無駄な言葉を徹底的に省くこと。この気付きが日本での大きな収穫だった。

 

 パスの作品は俳諧のごとく、選び抜かれた数少ない言葉を介し情景を掴み取る。この作風が日本人の私にはすっと入って来た。

※ ※ ※

 パスの詩に最初に出会ったのは、私が高校生の時だ。当時、私はニューヨーク州ロングアイランド島の、ウォルト・ホイットマンが生まれ過ごしたハンチントンという小さな町の高校に通っていた。その名も「ウォルト・ホイットマン・ハイスクール」で、その名前にひかれたかどうかは分からないが、詩の授業に熱心な英語教師がいた(自らも詩を書き、シャロン・オールズ等の米国詩人と交流があった)。彼の紹介で私は初めてパスの作品を手に取り、新しい世界に放り込まれた。

 パスの詩は真っ白な無から始まる。メキシコの古い大地のようにだだっ広い石版の上に、言葉の石ころを置いていく。生の耳には拾い切れない衝撃音を立てながら、丁寧に置かれた石ころは互いに引き合い、太陽を浴び、煤を吐いて黒い穴となる。黒い穴からは砂埃が見える。

 

人間が 砂埃で あるならば
原野を 流れていくのは
人間どもだ》        「幻影」

 

 「幻影」(原題:Aparición)という存在はパスの作品において度々登場する。この「幻影」が指しているものは、あらゆる境界線を喪失した人間とも言える。

 生身の人間は多くの境界線を持ち、それらに規定・束縛されている。まずは「身体」。健康や加齢もあれば、そもそも同時に複数の時間・場所にいられないという瞬間性・単一性もある。それにも増して重要なのは「生死」の境界線だ。生者は、生きている(≒いつか死を受け入れなければならない)状態に自ずと放り込まれているのであって、死というものに対し無自覚・無防備ではいられない。

 「幻影」、即ちこれらの境界線を失った人間、とはどのような人間か。この問いに対しては、境界線を失った対象を扱っている以上、切れの良い明瞭な答えを散文的に出す事は難しそうだ。それならば詩を介して踏み込む事は可能か。パス自身は「物体と幻影」(原題:Objetos y Apariciones)という作品で、その姿を捉えようとする。

 

幻影どもは 世に満ちている
彼らの身体は光よりも軽く
この言葉 と共に残り 消えていく

 

 この短い連は私に「陰」の詩人・パウンドの「地下鉄の駅にて」(原題:In a Station of the Metro)を想起させる。この作品にも「幻影」(Apparition)が登場する。

 

人混みに  浮かぶ数々の顔  それは幻影
黒々と、濡れた  大枝の  はなびら

 

 パスとパウンドという、言語のみならず時代や背景も大きく異なる二人の詩人は、姿かたちこそ違え、究極的には同じ「幻影」の歩行を感じ取ったのではないかと考えている。そして、この「幻影」の察知と彼ら自身の詩作における日本的な感性への越境には双方向に強い結びつきがあるのではないか。

※ ※ ※

 パウンドの詩集を閉じると辺りが一斉に明るくなる。都内のファミレスに色が集まり、だだっ広い深夜が被さっている。私の手元にあるのはパウンドだが、平日の夜の東京を歩き回っているのは「オクタビオ・パス」だ。1952年の来日の際に出現したパスの幻影は一度も去らずに東京に潜んでいる。

 パスが住み、歩いた都内の坂道のアスファルトには未だに彼の靴底の硬さが埋まったままだ。深夜は事物から境界線を奪い、均等な密度を持った闇を生成する。パスの足の質量が私のところまで濁流のように流れ込む。感じられる。生身の身体と異なり、幻影は常に触れられるものなのだ。生きた肉の手と指を、伸ばしさえすれば。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿