わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第202回 ―笹井宏之― 佐藤 真夏

2017-11-06 14:50:44 | 詩客

  あした死ぬかもしれないのにそれなのにどうして壁をのぼっているの

                                 (笹井宏之『てんとろり』より 以下すべて同)


 笹井宏之の歌は青白い。そう感じるのはなぜだろう。海や風がモチーフの歌が多いことも要因かもしれないけれど、一番は、一見するとどの歌も低体温気味というか、生きることがとても受動的に描かれていることにあると思う。

  どうしよう 記憶ばかりの平原にまっしろな魚が跳ねている

 この問いへの答えを、笹井宏之が作った世界の内側から用意するならば、「どうしようもありません」だ。笹井宏之自身のことはよく知らないが、病気のため若くして亡くなったことは知っている。笹井宏之の作品に漂う独特の青白さはそういった境遇の中で醸成された死生観の表れなのだと思う。

  生も死もゆるされている冬の日に手袋をはずしてはいけない

 ここではもう生きていくことと死ぬことのハードルの高さが同じなのだろう。「ゆるされている」という表現が示しているのは絶対的な安心にも関わらず、歌の最後は「いけない」で締めくくられる。強い抑止力だ。
 手袋をはずすことが具体的に何を意味するか私には分からない。ただ、手袋をはずしたからといってそれが即、死に直結するとは考えにくい(「靴を揃える」ならまだしも)。逆に、手袋をはずすことが生の選択として機能することも考えにくい。つまり、この歌では手袋をはずすことそのものに意味を探すのではなく、主体がこの時、手袋をはずしてはいけない理由などないにも関わらず、「はずしてはいけない」と思っていることに着目するのが大事なのだろうと思う。

 怖い話を語る時によく使う「振り返ってはいけない」という常套句がある。背後に“何か(死)”の気配を感じる時、人は怖いもの見たさで振り返りたい欲求に駆られる。“死”の正体を知りたいのである。でも振り返ったらもう戻れなくなる、そんな予感がする、だから踏み留まる。ここでの抑止力は本能(本能的な死への抵抗)である。笹井宏之の歌にも、この抑止力が働いているといえないだろうか。だからこそ、意識的な「はずさない」でも、強迫観念的な「はずせない」でもなく、「はずしてはいけない」。

 そうだとしたら、笹井宏之の歌の世界は、生きることに対して受動的な世界などではない。目の前で起きていること一つ一つに対して(とりわけ死について)、素直に本能(感覚)が反応したことをありのままに描いている、生命力に溢れた世界なのである。

  冬を越すことのできない花たちへおゆかけている おゆ あたたかい
  泣くなんて思ってなくて白菜をまるかじりするしかない朝だ
  水鳥をうみつづけてもしあわせになれないことを知っていて、産む
  もうなにも始まることのないような朝にとかげのしっぽをつかむ

 寒いところにおゆをかけ、涙を出したぶん白菜を食べ、水鳥(=流動的で形のないものの例えだろう)を産み続ける。そして、何の期待もかけていない一日においても、ふと目の前にとかげのしっぽ(=探していたものの手がかり、というような解釈をしておく)が現れたらとっさに掴んでいる……。これらは日常の中で欠乏感を埋めながら、生きている(生きていこうとしてしまっている)主体の姿に他ならない。笹井宏之の作品を通して私たち(読み手)は、死を目の前にした時のどうしようもなさ(無力さ)と同時に、人間のもつ本能的な生への欲望に触れることができる。それを踏まえて作品を眺めると、一首一首がとても鮮やかに色付いていくのではないだろうか。


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