「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第212回 P1:2017.2.11〜3.20「MOTサテライト2017春 往来往来」 永方佑樹

2017年06月17日 | 詩客


 土地には記憶がある。例えば、深川。松尾芭蕉はこの地を出発点として、隅田川の水音に添い、「おくの細道」へと向かったと言う。芭蕉だけではない。エレキテルを実験した平賀源内。伊能忠敬。滝沢馬琴、etc。近年では、映画監督の小津安二郎もこの地に住まいした。
 そんな深川(清澄白河)の町を舞台に、今年の2月11日〜3月20日にかけて、「MOTサテライト 2017春 往来往来」というイベントが開催された。これは、現在改修工事中の東京都現代美術館(MOT)が、当分の間展示も企画も出来ない代わりとして、身近な清澄白河(深川)の町を舞台に、土地の魅力を地元の人々と連携して掘り起こす活動をしていこうという発想の、まずは出発点として企画されたものである。その為、参加しているのはいずれも深川に縁のある十一組のアーティストたちなのだが、それが実際、各界のそうそうたるメンバーなのだから、深川の持つ磁力というのは、芭蕉の頃からいささかも衰えてはいないらしい。
 アーティスト達は「往来往来」のテーマである、「古いものと新しいもの、人々の様々な思いや記憶の往来の舞台となってきた深川の現在・過去・未来の姿を浮かび上がらせる」という趣旨のもと、実際に土地やひとびとと関わりながら、それぞれの視点で様々な試みを見せてくれたのだが、ここは「自由詩時評」なので、それらすべてを網羅する事をせず、詩と関わりのあるものに限定し、二つの言葉の企画をご紹介させていただこうと思う。
 まず、詩人カニエ・ナハ氏が、タイポグラフィ作家の大原大次郎氏と行った「旅人ハ蛙。見えない川ノ漣」。これは、清澄白河(深川)の人が良く通う店だったり、カフェや図書館など、十七カ所に及ぶ場所を対象にカニエ氏が詩を書き下ろし、それを大原氏が「ノ漣(のれん)」にデザインして、該当の店舗に掲げる、という企画であった。
 例えば、深川商店街にある、どこか懐かしいたたずまいをした豆腐屋。「商い中です」という看板横のガラスケースの中には、「豆腐170円」「油揚げ85円」「おから100円」等々、手書きで書かれた品揃えがのぞいていて、がんもどきや厚揚げの、手づくり特有のふっくらとした見た目に、ついつい買いたくなってしまう店構えである。このイベントがあった時は2月下旬で、冬の気配がまだ厚く、日ざしはひくく白くて、豆腐屋の奥からは蛇口を閉め忘れたのか、ぽちゃん、ぽちゃん、と雫の音が絶えまなく響いていた。水音はするのに、店の人はいったいどこに行ったのか、人の気配がどこにもせず、揚げ油の良いにおいがただよい、そんな、静けさに時を足止めされたような軒さきを見遣ると、風にあおられながら二つの白い「のれん」がゆっくりと前後に揺れていた。一つは、「手づくり とうふ」と書かれた、元々掲げられていたであろう、杉原豆腐店の「のれん」。そしてもう一つが、カニエ氏が書き下ろした詩を大原氏がデザインしたという、詩の「ノ漣」である。

豆腐とは(「豆腐屋には豆腐) 真白き映画(しかつくれない」小津安二郎) 禹煥の庭(リ・ウーファン《線より》) 水から水を(「櫂の声波打って) 旅をする、白い(腸氷ル夜や涙」芭蕉) 掌に落ちて(「色付きや豆腐に落て) 飴玉の薄紅(薄紅葉」芭蕉)」※( )内はルビ

 深川の現在・過去・未来の姿を詩で描き取るにあたり、カニエ氏は地の詩文にすべてルビをふり、二列の詩を同時にまなざしの中に流してゆく事で、それぞれの文字や音、意図をたがいに反響させる手法を取った。「豆腐とは 真白き映画」には「豆腐屋には豆腐しかつくれない 小津安二郎」というルビを。「禹煥の庭」には「リ・ウーファン《線より》」を。「水から水を 旅をする」には「櫂の声波打って 腸氷ル夜や涙 芭蕉」を。そして、「白い掌に落ちて 飴玉の薄紅」という詩文には「色付きや豆腐に落て 薄紅葉 芭蕉」というルビが、それぞれふられている。最初の一節を見てみよう。本文で、カニエ氏は豆腐の色と形から映画のスクリーンを喚起し、さらにそのイメージに重力を持たせて、対応するルビでは「豆腐」という言葉を使用した小津安二郎の言葉を引き寄せている。また、最終節の「白い掌に落ちて」というのはいったい何の事かと言うと、実は現在、杉原豆腐店では、買い物客に飴玉を渡すというやさしい習慣があり、その習慣の、白い掌に落ちる薄紅色の飴玉というイメージを呼び水にして、ルビでは、松尾芭蕉の「豆腐に落て 薄紅」という句をたぐり寄せている。
「現在」の深川(杉原豆腐店)を本文で描き取り、ルビで「過去」を喚起するといった詩のつくりのわけだが、それとは逆に、ルビの「過去」に本文の「現在」が引きずられ、「今」が剥がれてゆくようにも感じ取れるところが、この手法の面白いところでもあるだろう。実際、店先では、風に吹かれていた詩の「ノ漣」と、元からある「のれん」と、二つの布地はどちらもきよいほど白くて、それらがまるで、日常の延長のような自然な仕草で、かわるがわる幾度も風に揺れていて、そうしていると、幾何学的な大原氏のデザインだとか、あるいはカニエ氏の詩語の、例えばウーファンだったり小津だったり、スクリーンや水、飴玉、芭蕉といった言葉が、こまぎれの単語となって視界の中であおられ、ゆすぶられ、からみ合っていって、ふと、ほどけた「ノ漣」の隙間から時間がくずれて、深川の記憶がふるりと垣間見えたような一瞬を味わえた瞬間が、幾度かあったのであった。
 カニエ氏と大原氏の、この素晴らしい企画の他に、「MOTサテライト 2017春 往来往来」ではもう一つ、並外れた言葉の企画があった事をぜひとも、お知らせしたい。それは、吉増剛造氏のインスタレーション企画「エクリチュールの洞窟の心の隅の染の方へ」である。
 これは、深川商店街にある二階建てのグランチェスター・ハウスを一棟使用し、吉増氏のビジュアルポエトリーやサウンドインスタレーション等を展示したもので、それらの面白さに私は、このこじんまりとした建物の中で、実に数時間も過ごしてしまった程であった。
 まず、ハウスの二階部分を先に紹介しよう。二階は空間が二部屋に分かれており、それぞれ、映画館のようなスクリーンと椅子が用意されていて、一方では、小津安次郎の映画を独自の低い視線で鑑賞しながら詩作パフォーマンスを行う吉増氏の様子をおさめた「gozo(小津)Ciné」が上映されており、もう一方の部屋では、氏が小津監督のまなざしを仮借しながら隅田川の水面を眺める「gozo(小津)水の音Ciné」が鑑賞出来るようになっていた。
 また、階段を上り下りする時にも面白い仕掛けがあって、床や階段の隅っこの方に、今回の作品の制作過程において並行して生まれたという、氏の声メモ(通称「聲ノート」)が発声されるスピーカーが置かれており、足をかける段の位置によって、通行人の耳には様々な方角から、高低をもった吉増氏の「聲ノート」が聴こえてくる、面白い趣向になっていた。
 だが何より、一階で上映されていた「エクリチュールの洞窟の心の隅の染の方へ」という映像作品は、今回MOTサテライトが目指した「現在・過去・未来を複数の視点から描く」という意図を最も感覚出来るという意味でも、私の一番のおすすめであった。
 吉増氏と言えば、芭蕉を追想する為に隅田川近くに暮らしている程なのだが、その氏が今回、「往来往来」の企画の為におこなった、深川散策の毎日に並行して思索していたのが、この作品の原テキストとして映像の中で朗読されている、芭蕉と西脇順三郎を巡るレクチャーの準備の手稿「裸のメモ」である。この「裸のメモ」、大きさはA3用紙を少し大きくした程の一枚で、そこに「染みか文字かも判じがたい」「最小のエクリチュール(書かれたもの)」がびっしりと書き込まれている。吉増氏はこの「裸のメモ」を書き終わった後、自らの内側から、自分が書いたという実感がうすまってゆくのを待ち、書き手の自覚が希薄になってゆく程の時間をあえてテキストに与える事で、単純な読み手の位置へと自らの感覚を近づける事を志向した。そうして実際、一定の時間が経って、まなざしから書き手の主観が褪せてゆき、初見のそれと等しくなる頃を見計らって再び対峙する。すると、まるで初めてテキストを目にするような驚きや戸惑いが視覚の中に現れる。そうした感覚を保ちながら、最初から最後まで、あくまで他人のまなざしのように一文字一文字を丁寧に読み進めてゆく、その視線の歩行の様子が、この「エクリチュールの洞窟の心の隅の染の方へ」なのであった。
 私はこの映像作品を見てみて、改めて、いかに人の感覚というものが揺らぎやすいものかという事、あるいは、知らず知らずに差し替えられる記憶の曖昧さだったり、そもそも、時間というものやエクリチュールというもの自体すら、考え直さずにはいられなかった。
 実際、こんな経験は無いだろうか。
 自分が子どもの頃使っていたタンスだったり書棚だったり、もう何年もずっと放っていて、一体そこに何を入れていたのだったか、さっぱり思い出せなくなった場所を、久しぶりに開けてみるとする。すると思いがけず、かつて自分が書いたらしい、とりとめのないメモや原稿が出て来る。なるほど。確かにそれは自分が書いたものかもしれない。ぼんやりとしているが、覚えはある気がする。何より、幼い自分が書いたらしき、つたない署名すらある。そうとなれば間違いなく、昔自分がこの手で書いたものに違いなかった。だが、しかし何度見てみても、まるで他人が書いたものであるかのようなそっけなさ、親しみのなさをどうしてもおぼえてしまって、感覚はもどかしく褪せたまま、いつまで経っても、どうしてもテキストになじむ事が出来ない。
 自分が書いたはずなのにその実感がないという、この得体の知れなさ。それはまさに、吉増氏が「裸のメモ」の中で主題として描いていた、「不気味なものとの不意の出会い」に違いなく、「エクリチュールの洞窟の心の隅の方へ」は、このような、まるで他人の書いたもののような驚きや戸惑いを、自らの内にあえて呼びおこす不思議、エクリチュールにとっての過去と現在の本質を私たちに提起したのであった。
 振り返ってみると、今回の「MOTサテライト 2017春 往来往来」では、常に一つの問いを不断に投げかけられていた気がした。
 まず、カニエ氏の一連の作品を見てみれば、時は何もかもを運び去っている様で、本当に過ぎ去ったものは、何も無い様に思えた。消え去ったものはいずれも必ずどこかに留まり、だからこそ追憶されるのだ、と。だが、本当にそうなのだろうか。吉増氏の作品を見ていると、もしくはやはり時の記憶というのは、運ばれてゆくうちにどうしてもほころんでしまって、ひたすら失われてゆくだけにしか過ぎないのではないかと思える。現在に持ち越されたように見えるものは、実際にはただの抜け殻でしかなく、本当に留まるものなど、何もないのではないだろうか、と。
 とはいえ、こうも思うのだ。もしくは、やはり確かに留まるものはあるのだろうか、と。ただ私たちの内がわに、それを見るまなざしや、すくい上げるだけの器用、そうしたものが失われているだけに過ぎないのではないだろうか。であれば、それらを取り戻したり、あるいは獲得出来たとすれば、失われたように見えるものたちは再び私たちの前に実感を伴い、姿を現しはしないだろうか。見るものが想起する、そのままの姿で。
 だがそれともやはり、現在という時間軸は瞬間の流謫でしかないのだろうか。一度流れていったもの、墨田川の流れも、時も、エクリチュールも、それらは決して、再び二度とは、同じ姿では現れはしないのではないだろうか。

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自由詩評 松尾真由美の散文詩 無時空 映

2017年05月19日 | 詩客
 初めて松尾真由美の演奏を聴いたのは調布図書館の開架でのことだと思う。「ま」行の並びにたまたま『現代詩文庫』が置いてあったのだろう。

やわらかな静寂をよそおう空隙にかこまれ 周辺にただ
ようつめたい吐息をたどり 希薄な修辞のさざめきをは
かり浅瀬にたたずむ渇きに気づく 猶予のない留保 孵
化と蘇生をねがいあらたな狭窄にうながされ はなたれ
た情動は予兆の雫となりすでにやさしい深淵に沈みはじ
める

(『現代詩文庫195 松尾真由美』p8)


 「やわらかな静寂」最初にこの不思議に響く動機が延髄辺りに突き刺さった。穏やかな違和感の中で「静寂」のイメージが震える。この「やわらかな静寂」を模索する私の想像力は未だ出会ったことのない体験への渇望に向かって旋回しながら落ちていった。しかし、この「静寂」は「静寂」ではなく「空隙」なのだ。「静寂」をよそおう「空隙」とは何か。言うまでもなく「空隙」は内容なき隙間であり、音が出るはずもなく「静寂」なのは当然である。そのような「空隙にかこまれ」るなら主語はその隙間に嵌っているのだろうか。そして「つめたい吐息」を吐いている生物は何なのか。人間なのか妖怪なのか。主語はその吐息をたどり、息を吐くモノへといたるのであろうか。至らないとしても「浅瀬にたたずむ渇きに気づく」ことになる。
 「かこまれ、たどり、はかり、気づく」この連用形3+終止形1というリズムは今後も変奏されながら繰り返されているかのようだ。続けて「ねがい、うながされ、雫となり、沈みはじめる」というように。

白日の脱皮につきまとう夢想をかかえ かかえた胸元で
解きえぬ鍵はきらめき きらめく高揚の泡立ちに身をま
かせ いくつもの擬態をあなたにゆだねる

(前掲p8)


 ここでも「かかえ、きらめき、まかせ、ゆだねる」というリズムは踏襲されている。
 「白日の脱皮」のあとは新たな白日が出てくるのだろうか。しかし、出てくるものは問題ではなく「脱皮につきまとう夢想」が問題なのだ。主語が「夢想」するのではなく、主語は「脱皮につきまとう夢想をかかえ」る。他者の夢想をかかえるときその夢想は胸元にどのような感触を与えるのか。それともかかえられると同時にかかえるものに同化してかかえるものがそれを可視化できるのか。他者の夢想をかかえるという未知なる体験が私を誘っている。脱皮する白日とかかえる者とあなた。この三者の物語が始まりそうだ。

一枚ずつ外皮を手渡し おだやかな抱擁はあわい回帰を
生み出し あなたの指先にからまる私の指先の祈りへと
相姦する掌の感触 手あるいは複数の手は人間の舌だっ
たのである。

(前掲p8)


 外皮を手渡すのは脱皮した白日だろうか。しかし、おだやかな抱擁はあなたと私がするようである。「祈りへと相姦する」というところは読解しにくい。ただ、指と掌と手が分析的に描かれていて、舌と舌とが絡まるように手指を絡めているというフィジカルな解釈は可能だ。
 でも、外皮を手渡す白日はどうなったのだろう。それとも「私」が脱衣しただけなのだろうか。

 上記の引用はすべて『燭花』(1999年刊)の第1歌「水の囁きは果てない物語の始まりにきらめく」からである。
 最終連である第4連でも「ともない、閉じこめ、属さず、しめす」という連用3終止1のリズムが繰り返されている。第2連ではこのパターンは採用されていないが、「かのよう」という文末が2回連続して採用され、意図的なリズム生成を覗わせる。上で引用した第3連ではリズムパターンに加え、「かかえ かかえ」、「きらめき きらめき」というよな同語反復も採用しており、ここでも意図的なリズム生成は明らかである。

だから、暗い木々の狭間を縫うように、夜のとばりの喉
元から未知と既知とが絡まりあい、地の雲に足先は覆わ
れて、広がる不安あるいは千切れた根の行方を、ひとり
で追ってゆくしかない。

(前掲p94)


 『燭花』の文体がバッハやハイドンのように何らかの形式にそった静的な構成を持っているとすると、その10年後に刊行された「不完全協和音 秘めやかな共振、もしくは招かれたあとの光度が水底をより深める」のそれは動的で流麗であり、例えてみるとラヴェルのピアノ曲のような感じだ(上記引用はその第1歌)。語法や措辞として読者に強度の想像力を要求する割合は『燭花』よりも低くなっている。そのような意味でもより強く流れを感じさせる。

雨の雫はほのめく涙を隠していて、このような雨つぶに、
枝のつやも葉のつやもあおあおと美しくきらめき、立ち
のぼるみずみずしい吐息にまみれ、暗転する絵。饐えた
ものが消されてゆく。

(前掲p100)


潤うことの憂いと空欄の華やぎとのあいだ、完了しない
選ばれたものたちに天井からうすく光が降りてきて、葉
や枝や稜線や褥、あなたや私に新しく生まれたまばゆさ
はひろがり、うっすらと神聖でこまやかな雪のよう、

(前掲p101)


 以上は第1歌の「汐の彩色、しめやかな雨にながれる鍵と戸と窓」からの引用。全体が河津聖恵の作品を前提として書かれている。

 第1歌の冒頭と最後の文の始まりは「だから」なのだが、これはワーグナー的な動機の再現効果を狙ったものなのだろうか。後半にも「だから」が一度使われているが、最初と最後の「だから」はかなり効果的である。

 筆者にとって松尾の作品は既知の日本語単語の見たことのない表情を見せてくれる貴重なプリズムである。

  琺瑯質の誰かが覗く虹の秘部   無時空映

 この句は「不完全協和音」第2歌における入沢康夫からの引用、

わたしは 旅から旅をして ここに来た
わたしの琺瑯質の眼には
たくさんの たくさんの物が映り

(前掲p105)


を見た時に受けた印象が動機となっている。

 また、「燭花」第5歌に

あやうい加熱を受けすでに足許は孵化に穿たれていたあ
つい掌が握りしめる氷のようにつめたい言葉の先端を

(同書p35)


という一節があるが、この「孵化」に反応して

  見ぬ世まで鴫の声して水の孵化

 という一句を作った。他にも

  花片の痛覚露に引き攣る光

  半睡に舌が絡まり万の腕

  繭蒼く葬列の強度を測る

  覚醒を灼く光の環枯れ葎

  虹の秘所で侵される月の愉悦

 など、松尾の語法が動機となって作った句は多い。

 一方、松尾の詩の意味を考えることは殆どない。私にとって彼女の作品は音楽なのである。特定のメロディーが気に入ってそれを愛でる場合、そのメロディーラインに意味を求める聴衆はいないだろう。ただそれが美しく快いだけで価値があるのだから。


(参考文献)
「現代詩文庫195 松尾真由美」
「燭花」
「不完全協和音」
以上、すべて思潮社。




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自由詩時評第211回 詩を二つに分けるもの――〈感性の秩序〉ということ 須永 紀子

2017年05月17日 | 詩客
 おそらく詩を書くひとの多くが気づいていると思うが、詩作品は大きく二つに分けることができるだろう。けれども、たとえばわかりやすい詩と難解な詩、観念的な詩と抽象な詩、某誌に掲載されている詩とその他、身辺に材をとった詩とそれ以外、などといってみても何かちがう。どのように説明したらよいのだろうかと考えて、明快な答えが見つからないまま今に至った。
 その「境界線」にあたるものが「この世界の感性の秩序」ということばで表現できることを、ある文章で知った。
 今年に入ってとどいた「栞」5号(2016年11月発行)に掲載されている山岸光人さんのエッセイ「詩集を読んで70年代を振りかえる・・・」のなかに見つけたのが「この世界の感性の秩序」である。
 取りあげられているのは松下育男さんと菊池千里さんの詩集。山岸さんとは同世代なので、ほぼ同じ詩集を読んでいる。松下さんの詩はわかりやすくユーモラスで、当時も今もすばらしいと思いながら、他の詩人とはちがう「遠さ」を感じてきた。こういう詩を書くことはできないだろうと思う。 なぜなのか。

 まず、山岸さんが引いている松下さんの代表作「歯止め」の全行を見てみたい。

てのひらを見て
思う

ここも
うまい具合に歯止めがきいている

指はてのひらが五本に裂けて
途中で肉の
歯止めが
きいて
いるが
この歯止めがなく
ずっと
肩のつけねまで
裂けつづけていたらと
思う

君へちからをこめることは
もうない

日々の顔をおおうことも
はげしく涙を
ぬぐう
ことも・・・

長すぎる指を
執拗に
顔に巻きつけ
ぼくは蒲団をかぶって眠る

五本のひもを両肩から
ぶらぶらさせて
ぼくたちはたそがれ時 たまらない表情で
行き交うんだと
思う

 
 ひとの心の琴線にふれる、優れた詩であると思う。当時はサリドマイドを連想させるという声もあったけれど、それはうがった見方だろう。

 この作品を収めた『肴』で松下さんは1979年にH氏賞を受賞した。山岸さんは批判も多かったと書き、稲川方人さん、瀬尾育生さん、野沢啓さんの文章を引用している。同年生まれの詩人たちが学生紛争の敗北体験を抱えて詩を模索しているなか、松下さんはそこから距離を取り、生活や仕事をモチーフに寓意的な詩を書いた。同世代の詩人たちが違和感をあらわにしたのは当然のことであっただろう。瀬尾さんの文章に「この世界の感性の秩序」ということばがあった。

 ところでこれらの詩人たち(執筆者注・松下さん、阿部恭久さん等)は、詩の表現にむかうとき、ひとつの感情をあらゆる相反するものとの関連から切りはなして作品の中に固定しようとする。作品のなかで感情は永遠の安定の相をもって固定されている。つまりひとつの作為がここにはあるのだ。切りとられた部分的な感情のなかにみずからをとじこめ、彼らは〈それぞれの場所〉におちつく。それぞれの場所におちついて彼らはやさしくなる。だが何に対してやさしいのか。切りとられた部分性をひとつの場所たらしめているものにたいして、いいかえればこの世界の感性の秩序に対してやさしいのだ。(「現代詩手帖」詩誌月評1980年4月)

 「この世界の感性の秩序に対してやさしい」とは大多数のひとが共有する感性を想定して書かれているということだろうか。詩の世界を小さく限定し、人びとの心情にストレートに響くように作られた詩である。
 現在はそのように書かれた詩も正当に評価されているし、どういうスタイルであれ、自分の詩を追求する姿勢を持ち続けているのであればよいのではないかと思うが、80年代は実作者ではない現代詩の読者も多くいて、批判や論争が活発に行われていたのだった。

 昨年、菅野覚明さんの『吉本隆明 詩人の叡智』(1914年発行・講談社学術文庫)をおもしろく読んだのだが、実はそのなかにも「感性の秩序」ということばがあった。吉本さんの著作集をひらいてみたところ、「『四季』派の本質」と題する文章のなかで使われていた。昭和のはじめには平穏な抒情詩を書いていた四季派の詩人が、十年代になって戦争詩を発表したことに対する疑問を解き明かした論考である。
 当時、軍国少年だった吉本さんが「感覚的安息所のような役割」と考えていた四季派の変節について「現実社会の秩序が機能的に批判、否定されないところでは詩を構成する感性的な秩序は現実認識の秩序と構成をおなじくする」と書かれている。国民が一丸となって戦争に突入していった時代、戦争の実体について思考することなく、日常生活の感性で書かれた四季派の作品は、詩を書く主体の脆弱さをさらすことになったのだった。

 もちろん戦時中とちがって80年代には急激な社会的変化があったわけではなく、学生紛争の残り火が燻っているという状況だった。そのなかで松下さんの詩のスタイルやテーマは一貫しているから、批判は厳しすぎるように思うが、詩の世界全体が熱い時代だったのだ。

 ここで前述した菅野覚明さんの「芸としての詩」についての文章を紹介したい。

 言語によって構築された美の秩序としての詩が「芸」と認められるためには、一般に共有された感性的な秩序――定型化された現実の受感の仕方――が予め前提とされていなければならない。「芸」は、この共有された定型的な土台を肯定することにおいて成立するのであって、土台そのものを超えたり破壊したりすることはない。

 今や「芸としての詩」をめざす詩人が次々に出現し、そうではない詩人の方が少ないかもしれない。「土台」つまり現実社会を肯定するなかで「芸」は磨かれていく。ときおり自己増殖や同工異曲と思えるような作品を発表しつづける詩人を見かけるが、「芸」の道を選んだからには「芸」を極めなければならないと思う。

 山岸さんは2005年に創刊された詩誌「生き事」に松下さんが発表した「火山」の一部も紹介している。壊れていく妻を描いた連作詩篇である。詩人の菊池千里さんと松下さん夫婦に重ねて読まないわけにはいかない。二人の家を舞台に夫である「私」が語るスタイルになっていて、ちからのこもった秀作であるが、いま読みかえすと個人的に告白を聴いているような不思議な気持ちになる。抑制されたことばで語られる衝撃的なできごと、切実な「私」の心情に心揺さぶられるけれど、やはり「一般に共有された感性的な秩序」を前提とした「芸」の詩というほかないような気がする。

 山岸光人さんの「詩集を読んで70年代を振りかえる・・・」は自身の学生時代の、詩との関わりをていねいに書いた好エッセイで、読者は松下さんの詩集や菊池さんの詩集を読まずにはいられなくなるにちがいない。
 「この世界の感性の秩序」にやさしい詩は、ともすれば一読されて終わりという運命をたどるが、切りとられた世界が濃密な時間を湛え、「芸」を極めた松下さんの詩は読み継がれていくだろう。

 格差社会が進み、価値感が多様化した現在、「この世界の感性の秩序」は見えにくくなっている。詩はどのように書いてもよく、詩の自由は認められなければならないと考える者のわたしは一人であるが、「感性の秩序」の在り方が詩の読み方のポイントに加わることになった。
 吉本さんが記したことばが継承され、50年を経てなお批評のことばとして生きていることに驚きと敬意を感じている。
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自由詩評 情報から人間へ-山田亮太『オバマ・グーグル』を中心として-     浅野 大輝

2017年04月23日 | 詩客
 今年1月、「シェルスクリプトマガジン Vol.46」(USP研究所発行)にて高橋光輝(HN:博多市)の連載「機械学習で石川啄木を蘇らせる」が最終回を迎えた。2016年5月発行の「シェルスクリプトマガジン Vol.38」で開始してから、計9回に及んだ連載だった。このなかで高橋は、石川啄木の「未完の短歌」を機械学習の力を活用して完成させるという非常に興味深い取り組みを行っている。

大跨に緣側を歩けば、 石川啄木

 啄木の「未完の短歌」は啄木の直筆ノートの最後に置かれていたものであるが、一般的な短歌の定型と照らし合わせた際には音の欠落が大きい(2句目までしかないように見える)ため、不完全な作品としてその存在が深く考察されることが少なかった。事実、現在出版されている多くの啄木歌集ではこの「未完の短歌」はないものとして扱われている。高橋は石川啄木という存在とその作品への強い関心から、この「未完の短歌」の完成を試みた。技術的な詳細は高橋の記事にぜひ当たって欲しいが、主に形態素解析[1]やN-gram言語モデル[2]の構築、マルコフ連鎖モンテカルロ法[3]、word2vec[4]、SVM[5]など機械学習の手法を用いることで、高橋は啄木の短歌を復元することに成功した。その結果得られた短歌は、次のようになったという。

大跨に緣側を歩けば、
 うしなひしをさなき心
 寄する日ながし。
 石川啄木(高橋による復元)[6]

 どうだろう。個人的には、縁側を歩く日常の何気ない所作のなかから幼い頃の心を失ってしまったという感覚を見出すのは、なんとも啄木的な気がする。何も知らなければ、普通に啄木の作品だと思ってしまうだろう。そのくらい高い完成度を持っていると、言い切っていいように感じる。少なくとも僕は、これをぱっと見せられたとき「機械学習によってコンピュータが復元した短歌」と判断できるとは、とても思えないのである。

 *

 山田亮太『オバマ・グーグル』は第8回鮎川信夫賞の最終候補作品に挙げられるなど、2016年6月に出版されてから現在に至るまで依然として強い関心を惹く詩集である[7]。

 0

私たちは知っている、誰も見たことのない、無垢の国家と、性の政治、そこにはもういない、大島渚のある風景を、私たちは撮る、メディアとしての替え歌が流離する、沸騰する、ふたつの言語で解体した風の島、アイルランドの詩魂、ロシア系の、アメリカ訛りの、私たちは数え上げる、地下室でシャンソンに身を投じるボリス・ヴィアンの個体性を、その危機の数を、(中略)

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白川静
藤田和日郎
中村佑介
森村泰昌
現代ピアニスト列伝
ポン・ジュノ
橋本治
田辺聖子
電子書籍を読む!
10年代の日本文化のゆくえ


山田亮太「日本文化0/10」


 言葉のうねりが非常に刺激的な一連だが、この一連を終えるとき読者は「*「ユリイカ」二〇〇〇年一月号〜二〇一〇年九月号(増刊号を含む)の目次を利用しました」という但し書に出会う。僕は、この但し書に度肝を抜かれた思いがしたのだった。
 詩集単位で読んだとき、この「日本文化0/10」は「現代詩ウィキペディアパレード」という作品の後に置かれている。「現代詩ウィキペディアパレード」も非常に挑戦的な一連で、「現代詩」を中心としたウィキペディアのページからの引用によって詩が構成されている作品である。ただ、こちらはタイトルから詩における試行がまず把握されるため、読者は最初から詩がテクストの引用によって構成されることを了解して読み進められる。それに対して「日本文化0/10」は、読み始めた時点ではいま自分が読んでいるテクストが「ユリイカ」の目次であるということはわからない。言葉に運ばれて詩の終着点に到達したとき、初めて自分を運んできた言葉の正体に気がつくのである。
 こうした後出しの衝撃とでもいえそうな手法は、詩集中では「私の町」などにも表れている。「私の町」というタイトルと緻密に描写された町の風景から、読者は詩の言葉が主体にとって既に近しい町を指していることを推測するが、「岩手県山田町/訪れたことのないこの町のすべてを/私は知りたい」という最後の3行で読者の想定は覆される。それまでの想定が突然覆った宙ぶらりんな場所で、「私は知りたい」という言葉が切実な願いとして響いている。
 表題作「オバマ・グーグル」は「現代詩ウィキペディアパレード」と同様、はじめからテクストの引用というギミックの存在を読者に把握させる詩であろう。

バラク・フセイン・オバマ・ジュニア(英語:Barack Hussein Obama Jr.、一九六一年八月四日-)は、アメリカ合衆国の政治家。第四四代大統領。・・・オバマは、アフリカ系の姓。ルオ族などで見られる・・・政党は民主党。選挙により選ばれたアメリカ史上三人目のアフリカ系上院議員(イリノイ州選出、二〇〇五年-二〇〇八年)。二〇〇八年アメリカ大統領選挙で当選後、任期を約二年残して上院議員を辞任した。・・・たった一四分間のこのスピーチには、キング牧師やケネディ大統領のスピーチを十分に研究した構成、候補者数名と大統領選挙を見越した戦略性、そして浮動票に訴える強いメッセージ性のすべてが入っていてうならされます。・・・(後略)
山田亮太「オバマ・グーグル」


 Googleで「オバマ」を検索し、その結果上位100までに表示されたウェブサイトからのテクストの引用で形作られた本作は、情報の膨れ上がる現代に対してキュレーションによる詩の生成を試みている。「現代詩手帖」2017年4月号に掲載された鮎川信夫賞選考の対談では、吉増剛造が註の番号や言葉の韻律など本詩集が持っているリズムを「運動態」「呼吸」などの言葉を使って支持しているが、僕としてはそれに強く共感を覚えた。「オバマ・グーグル」は詩集全体の3分の1程度という長さを持つ作品であるが、そのすべての文ないし文章に出典元を示す註の番号がふられているさまは、まるで細かく節をふられた聖書のようでさえある。丁寧にふられていく註番号や引用の文言の選択に人の息遣いや手の動きを感じるとしたら、そのテクストは確かに詩を形成していると言っても良いのではないか。
 一方、対談中で北川透が本作について「既成の作品概念とは異次元の試み」「これは詩的行為なのか、非詩的行為なのか」と疑問を提示しているのも、重要な観点だろう。ゼロからテクストを生成する詩に対して、「オバマ・グーグル」は既存のテクストからテクストを再構築することで詩を立ち上げようとする。その試みは情報の羅列と紙一重でもあるため、テクストを再構築する者の呼吸を詩行から逃さないように注意深くあらなければ、途端に情報の側に取り込まれてしまう危険性もあるのである。

 *

 コンピュータ自身が創作を行うことは可能である--そうした認識を持たせるようなニュースは、ここ数年で激増しているように思う。例えばオスカー・シュワルツとベンジャミン・レアードの二人は、人間の書いた詩とコンピュータの書いた詩のどちらか片方を表示し、その作者が人間かコンピュータかをジャッジする「詩のチューリング・テスト」のための「bot or not」というWebサイトを開設した。2013年から始まった彼らの試みでは、およそ65%の人間が、作者がコンピュータである詩を見抜けなかったという。また一方で、名古屋大学の研究グループは2013年よりコンピュータに小説を書かせるという研究を行い、実際に「星新一賞」に応募した。コンピュータは既にある知識から未知の知識を分類・学習し、非常に「人間的」な活動を行うことができるようになっている。本稿冒頭で挙げた高橋による機械学習のプロジェクトも、こうした文脈に位置付けられるだろう。
 コンピュータが「人間的」な詩を作るようになるとき、詩人はどう生き残っていくのか。その一つの方法が、山田が「オバマ・グーグル」で見せたキュレーション--情報に対する積極的なアプローチによる詩の展開ではないだろうか。従来非詩的とされてきた単純な情報にむしろ詩を肉薄させてみて、拭いきれないものや捨てきれないもの、手放してはならないものを改めて掴み直すこと。そこから、新たな詩と人間のあり方を模索すること。
 詩人はいま、さらなるアップデートを求められている。







---参考文献---
高橋光輝「機械学習で石川啄木を蘇らせる」(「シェルスクリプトマガジン」、Vol.38-Vol.46、USP研究所)
高橋光輝「機械学習で石川啄木の未完の短歌を完成させる」(「SunPro会誌2016」https://sunpro.io/c89/、2017年4月15日閲覧)
山田亮太『オバマ・グーグル』(思潮社、2016年)
「現代詩手帖」2017年4月号(思潮社、2017年)
中家菜津子「自由詩時評第188回 鳥瞰図、あるいは未来予想図として 山田亮太『オバマ・グーグル』を読む」(http://blog.goo.ne.jp/siikaryouzannpaku/e/7f5e35819e453c615707bfe32458d6eb、2017年4月15日閲覧)
オスカー・シュワルツ「コンピュータに詩は書けるか」(https://www.ted.com/talks/oscar_schwartz_can_a_computer_write_poetry/transcript?language=ja、2017年4月15日閲覧)

---註---
[1]大雑把に言えば、文章を意味のある単語レベルに細分化する解析手法。
[2]ある単語が出現する確率がその単語の直前のN単語によって決定すると考える言語モデル。
[3]ある時点で状態遷移が起こる確率が、現在もしくはそれより前の状態によって左右されるという性質をマルコフ性という。マルコフ連鎖モンテカルロ法は、マルコフ性が成り立つ状態遷移の遷移経路をシミュレートする手法。
[4]本当にざっくりというなら、単語をベクトル(数値の集まり)に変換する手法。
[5]サポートベクトルマシン。これも時評子にはざっくりとした説明しかできないが、すでにある2種類のデータを元に未知のデータを分類・学習するため、2種類のデータの境界面(識別面)を決定する手法。
[6]ちなみに、「シェルスクリプトマガジン」連載以前に高橋が「SunPro会誌2016」で復元した短歌は「大跨に緣側を歩けば、板軋む。/かへりけるかな--/ 道廣くなりき。」というものだった。高橋は今回の結果についても「環境や乱数によって生成される短歌が異なる可能性があるので、これが唯一の回答というわけではありません」と前置きをしていることに注意して欲しい。
[7]「詩客」自由詩時評第188回において、中家菜津子も本詩集を取り上げて論じている。こちらもぜひ参照されたい。

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自由詩時評第210回 佐峰 存

2017年04月16日 | 詩客
 今という時間を咀嚼する上で私はまずは詩を読むことにしている。言葉の海を高速度で進み、目を引く表現で止まり、ゆっくりと感じ取る。これらの表現を解きほぐしていくと、語り手のみならず読み手の私にとっても例えば実生活を通じて切実に思っている視点・情景が実のように膨らむことが多い。私の実感として、現代の私達は個々人の主観的な意識の希求と、時代の齎す生き方の間で大きな乖離が生じている時間を共有していると感じる。一昔前まで私達の身体や脳が想定して来なかった徹底的な情報化社会 ― 私達は既に禁断の実を口にしているのかも知れない。そんな時間の中で“生”はどこにあるか。まずは情景豊かな尾久守侑氏の表現を見てみたい。

 《心臓からシュレッダーに吸い込まれ、時間のない夜のなかで眠りから/目覚める。歪んだ液晶がみだりに機密を消去していく。/…/零時の鐘がなる/それからとても/しずかな時間がきて/ホットコーヒーをひとくち/飲んで誤嚥すると/シャツの袖をつかむ/青白い顔の少年が/しきりに絵本をせがみ/聞き慣れぬ物語を/朗読してどれくらい/経ったろうか/最後のページに書かれた/うらみにおもうなよ/と云う台詞をよむとき/僕の口から/みしらぬ異国の言葉がこぼれた
(「ブラック・イン・ブラック」、『国境とJK』、2016年、思潮社)



 長い一日を職場で過ごしてきた。語り手は「心臓」に負荷をかけながら命を削って働いている。際限のない労働時間に密かに蓄積され、密かに「消去」されていく「機密」は語り手の内心だ。「みだりに」という言葉に、技術と共に模られた現在の状況に対する強い違和感を読み取れる。やがて ― 周りの同僚も帰り出したのだろうか ― 語り手が自身のペースで息の出来る「しずかな時間」がやって来て、語り手の無意識が投影する「青白い顔の少年」が現れる。少年は中原中也の作品「幻影」で手を動かすピエロのように絵画的な雰囲気も醸し出しつつ、子持ちであろう語り手の感じている後ろめたさを体現する。いくら立派に働いているからといって、罪悪感がなくなる訳ではない。罪の意識は主観の真空から発生し、それ故の重みを持つ。そんな息苦しさの中で、しかし「言葉」自体は空気穴として希望を孕んでいる。それは最後の拠りどころかも知れないが、幸いなことに「みしらぬ異国」と呼べる程度に広大な領域だ。
 言葉は既にある情景を表すこともあれば、それそのものが情景の細やかな形状を整えることもある。次に取り上げる手塚敦史氏の言葉には、言葉が存在しなかったら存在し得なかったであろう、血の通った心情が流れている。

 《わたしは明日/集まる陶器の皿の上、指さきを這わせ/動物のかたちをしたものの/その中身を知ることとなるであろう/(みずたまり、みずたまり、…)/こちらが乾いていることこそが、ほかの何も映さない/光の微生物へ届けるシラブル、文字/あれは/結露のある向こう/その肩と、黒い肩ひもを露わにする
(「季節のためのエクリ(同棲)」、『1981』、2016年、ふらんす堂)



 この語り手はこれから始まる同棲生活への期待に満ちている。他人という存在は、結局は水分に溢れているのだ。語り手は自身には強い生命を感じ取っていないが、同棲相手の齎す「動物のかたちをしたもの」には明瞭な鼓動を覚えていて、それと対峙しようとする。その「中身」の「みずたまり」に全身で飛び込むこと。それには「こちらが乾いていること」が重要だ。語り手は自らを“負”として捉え切った上で、“正”である相手を肯定し切ることに存在の悦びを見出している。両者を繫ぐのは他でもない「シラブル、文字」で、言葉があるから「その肩と、黒い肩ひも」の瑞々しさに浸ることが出来る。浸透作用 ― 乾いたところに水分はやって来る。自己中心的であることが推奨さえされている現代の資本主義社会において、“他者”という存在の本来的な大切さが示されている。
 手塚氏の表現とよい意味で対照的なのが荻野なつみ氏の表現だ。

 《もうなくしたもののため/ひとはひとの水脈に添う/…/その軌跡のはるか底に/ねむるいくつものあしさき//在ることのかなしみを/くるぶしに溜めて/わたしの舌を待ついのちの/遠い水を巡る/窓のそとには/しずかに/しらじらと/金星が死んでいく
(「水脈」、『遠葬』、2016年、思潮社)



 この表現では、水分が語り手の方にある。語り手は一種の達観のもと、普遍的な「ひと」の輪郭を凝視している。静謐な、幽体離脱した視座から、ひと同士を繋いでいる「水脈」を追う。「いのち」は水に込められていて、天体規模で「死んでいく」世界に唯一の救いのように流れている。生者も死者も違わない形で有している「あしさき」 ― それは生と死の間の身体的な緩衝地帯、架け橋とも言えるだろう。対し「」は生者の湿りを体現する器官だ。語り手は生者として生も死もひっくるめ沈み続ける世界に自ら水分を与えていく、そんな気概に溢れている。
 “わたし”と“あなた”が相互に水分を与え合う関係になったとき、どのような情景が見られるだろうか。山崎修平氏の表現に一つのあり方が提示されている。

 《死んでしまったロックンロールについて僕は知らないし何故死んでしまったのかも分からないけれど指先で触れて確かにここに存在した事その温度を確かめてみたいと思っているのだ例えば昨夜の暴風雨でなぎ倒された樹木の表皮は割れて白墨を燻らせたような色をした内部は剥き出しになっている/ 指先で触れると湿った土が付着しズブズブと六ミリ程弾力がある内部へと指は進んで行く/ 君は何故か唇を確かめるように真一文字にして感情を零さないように指先を枝の内部へのばし僕の「共犯者」になる
(「ロックンロールは死んだらしいよ」、『ロックンロールは死んだらしいよ』、2016年、思潮社)



 表現は身体性に満ちている。そして身体が語られるということは、魂も語られるということだ。「ロックンロール」という魂の残した「温度」を語り手は「」と共に「指先」で確認する。比喩が生々しい。木の「剥き出しになっ」た「内部」は、どこまで語っても語り尽くせないヒトの肉体であるとも言え、そこに語り手と口を「真一文字に」した「」が“おそれ”さえ抱きながら運命共同体として踏み込んでいく。彼らが確かめようとしているロックンロールは、“愛”という肯定的な言葉のみでは回収し切れない躍動そのものであって、喪失感を漂わせつつも、「死んでしまった」どころか、大きな生に満ちている。
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