「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第208回 万華鏡、あるいは「生」の更新 山腰 亮介

2017年03月08日 | 詩客
 書くことのなかには読むことが含まれ、また読むことのなかに書くことは含まれる。書くとは、まだあきらかになっていなかった未知の私に出会うことであり、読むとは他者とのかかわりのなかに既知と未知を見いだしながら、それらとの感応のなかに、私自身を見いだしてゆくことである。
 瀧口修造から、アンドレ・ブルトンから、シュルレアリスムから私が学んだことは、他者との応答のなかで、私は私に出会い、私を更新してゆくことができる、ということだ。
まだ肌寒さの残る自転車での帰り道、沈丁花の香りに気がついて、その名を教えてくれる友人。飛び交う猫にあふれる絶壁の町(横浜という町はすこし外れに足を向けたとたんにまるで違う光景に出会える)。ふと路地裏を覗くと、そこだけが過去に取り残されたかのように浮かんでいる、ちいさな看板。夕暮れを飲みこむ山まで続いていく電柱、何頭もの牡鹿が角をぶつけ合ったまま硬直したかのような銀杏の樹々をたどって歩くとき、私は私のなかの既知と未知とが、せめぎあいながらも、同時に変化してゆくのがわかる。他者とはかならずしも人である必要はない。私はいたるところで、さまざまな他者と出会う。
 このように書くとき、私のなかには通り過ぎていったいくつも他者が私のなかに住んでいることを思う。私の書くものとは、たえず私と世界との往還のなかから生まれてきただろうし、これからもそうして生成されてゆくだろう。
 ブルトンが『ナジャ』の冒頭で投げかけた「私は誰か?」Qui suis-je?という問い(フランス語原文では二つの読み方ができ、「私は誰を追っているのか?」とも読むことができる。詳しくは巖谷國士訳、岩波文庫版の訳注参照)は、そのような絶え間のない、鏡合わせの応答のなかにある。
 『現代詩手帖』2017年3月号の特集「ダダ・シュルレアリスムの可能性」を読み、そこに見いだすことは、このような応答へとシュルレアリスムはたえず開かれていて、私たちを誘いかけているということだ。ブルトンは問いを投げかけながら、同時にその答えを示す人であった。だが、それはデジタルな、あるいは一問一答的なものではなく、万華鏡のように姿を変えてゆく、「痙攣的」なものなのである。
 昨年末におこなわれた座談会と朗読によるイヴェント、「サクラココレクション・アワード2016」にて入手した詩誌『くたばれソレイユ』は、タイトルが詩誌全体を結びつけながらも、ひとつの答えには回収されない問いの力をその表紙から予感した。装訂を担当する金澤一志によるものだろう、表紙にはすこし枠のゆがんだオレンジ色の円が灰色のなかに灯っていて、タイトルから太陽を連想させる。だが、どこか果実のようでもあり、染みのように浮かびあがる斑点は、月のクレーターのようにも見え、さまざまな読みを誘う。
 このような複数の読みは、タイトルからも可能だ。「くたばれソレイユ」という言葉は、太陽を否定するものであると同時に、否定によって、眩すぎる太陽の光の強さを逆説的に示しているともいえる。そのような二重性を意識しながら各詩篇を読むとき、編者である榎本櫻湖をはじめ、望月遊馬、石松佳、杉本徹、萩野なつみ、カニエ・ナハのそれぞれの詩篇が、各々タイトルの言葉に応えて執筆されているのではないか、という推測が成り立つ。あるいは、タイトルの持つ書物を束ねる力が、各々のテクストを受容する者の読みに方向性を与えていると解釈しても良いかもしれない。各詩篇に登場する「明け方」、「」、「金星」、「地球」や「天球」といった言葉たちはタイトルや装画とアナロジーを結んでゆく。
 ここでは望月の「ハムスター語録」に焦点を絞ることにしよう。この詩は、とあるハムスターの実験者が、夢想状態のなか、過去を回想してゆくものである。彼は自らの棲家の外側を感覚しながら、眠りにいたる経緯や、記憶をゆめうつつな状態で想起する。まるで彼の身体の延長であるかのように、室外の雨の様子が内側まで伝わってきている。ハムスターというちいさな生き物の見ている世界を想像するとき、その世界のスケールは相対的に大きくなる。このスケール・チェンジは、書物自体が身体の、あるいは世界の入れ子であることをより顕在化させている。童話やお伽噺がしばしば世界の入れ子として機能するのは、このスケール・チェンジの魔術が一因として挙げられるだろう。過去の記憶は、「おばあちゃんのネックレス」というオブジェのなかに圧縮され、オブジェはアナロジーによって、さまざまなイメージと出会いながら、その意味を更新してゆく。

[…]ぼくのためにペチュニアの種をくれたおばあちゃんが大切にしていたネックレスを壁にかざってしんとして眺めた、おばあちゃんは足腰が悪くてあまり動けなくなってからもぼくのためにペチュニアの種をあつめてくれていたんだ、ぼくは巣穴で踊りながらそれが最期になるような星をかきあつめたい、そうしておばあちゃんのネックレスのように星と星をつないで夜空に描きたい。おばあちゃんが星になった日にぼくの巣穴のまわりは花畑になって、もうこれですべてがさよなら、はじまりのさよならなんだよってぼくはひまわりの種をお墓のまえにたくさん捧げて泣いたんだったかな。

 涙もすでにオブジェと化し、そうしてまた別のイメージへとやがては更新されてゆくだろう。ぼくらの窓には、もういくつもの花々と予感とが満ちている。
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自由詩時評第209回 ちんすこうりなセカンドバージン詩集『女の子のためのセックス』編集記 平居 謙 

2017年03月05日 | 詩客
はじめに 
1 「堕ちること」で見える風景
2 不可視の領域を認めつつ、人へ
3 人の切なさを知っているから 
おわりに



はじめに

 この連載では、和合亮一『詩の礫』論を皮切りに、その時期その時期にもっとも気になった詩集を取り上げ論じてきた。実のところ、連載の依頼を受けた2014年秋ごろまでの数年間は、「現代詩」の世界全体にあまり魅力が感じられなくなっていて、小さな詩集評のようなものさえ書かなくなっていた。また生活のためということもあって、村上春樹や尾田栄一郎『ワンピース』についての本を、身体を売るかのようにやたらに書き飛ばし続けていた時期でもあった。だから、新しい詩集について本格的に連続的に論じるのは新鮮で楽しい作業だった。草間小鳥子・谷川俊太郎・阿賀猥・小川三郎・最果タヒ・吉田稀・大木潤子・草野理恵子らについて論じた。それぞれが極めてエキサイティングな出会いであった。
 1つだけ悔いが残るとすれば、第1回目の連載の最後に「次回は和合亮一『廃炉詩篇』を論じる」というような予告をしたにもかかわらず、それが果たせなかったことだ。実際、もう清書すればよいというところまでそれは書き上げられつつあった。しかし、いざ掲載しようという段になって、ある一人の女性の「和合亮一論」を偶然に読んだ。そして僕は驚いた。それは短い論だった。しかし、僕が一旦自分の中で完全否定した和合亮一という詩人を、長々と苦労し弁護しながら再評価しようとした『詩の礫』論を、ほんの一瞬で乗り越えていた。それは和合の致命傷を直感的な言葉で言い当てるものであった。僕はすべて諒解した。それで僕は『廃炉詩篇』論を破り捨てた。最早そんなものに構ってはいられないという気がしたのだった。その女性というのが、ちんすこうりなだった。
 彼女は詩人で、身体で感じ思想する方法の貫徹者だ。その方法によって掬い取られる世界が、常人には見えない美しいものであるということは長く信じてきたけれども、ここまで透み切ったものだとは思いもよらなかった。僕は彼女のバージン詩集『青空オナニー』を2009年に編集した。そして2016年の晩秋に新しい詩集の原稿を彼女から受けた。自分自身が編集途上の本について批評するというのは「宣伝」にも紛うので、本来は避けるべきだろう。しかし僕はそのタブーを連載の最終回に免じて犯してみたいと感じるのだ。また、よく言えば「編集」の立場からしか見えないものもあるだろう。それでセカンドバージン詩集『女の子のためのセックス』編集記をこの連載の最後に充てることにした。
 原稿を受けて一挙に読み進めて僕は彼女の成長を思った。先の『青空オナニー』の中にあるような、爽やかで軽やかな感覚はそこに消えていたが、読む者を黙らせてしまうような重みがそこにはあった。ひとが成長する中で、軽やかさを手放すことである種の余剰を体に蓄え、それが柔らかな美しさを形成してゆくのと同じような意味で、
 詩集は一回り厚みを身に纏っていた。少女の「軽やかさ」と引き換えにちんすこうりなが身に着けたもの。それは「得体の知れない自由思想」だった。
 詩集を読み通せば明確なように、彼女はその「得体の知れない自由思想」を、数多くのセックスの体験を通して手に入れてきた。しかもそれらは、ほとんどは二度と会う事のない、一度きりの出会いも含めた、世間から言えば「不埒な出会い」に分類される。だが、僕は世間のその「非難」を正当なものだと思わない。「世間」というものは、たとえば格闘家の極端なトレーニングとか、荒行を行なう修行僧のような存在に対して「なんだってあんな無茶をやるんだ」と、いつだって眉間にしわを寄せて否定する。そしてちんすこうりなが第1詩集以降貫いてきた行為は、それらと同じ領域にある。決してフツーの人が辿り着けないところ。書物からは得ることのできないもの。ひとつの生き方を貫くことで、常温からは突き抜けた絶対温度のようなものを手に入れるところまで、その沸騰は到達している。
 以下、詩集に収める予定の作品について、紹介をこころみよう。

1 「堕ちること」で見える風景

 詩集冒頭に配した「詩」という作品。暴力という言葉が読者の目を惹きつけるだろう。

わたしにとって/すべては暴力で
わたしは/すべての暴力を/受け入れる
そして/なにものも/わたしを/傷つけることはできない


バージン詩集『青空オナニー』は、既述のように爽快に放たれた恐れ知らずの宣言であった。彼女はその後、世間が仕掛けてくる反撃に対して「詩」で以て身を守ったのだ。そういう強さが、新しい詩集の中には頑として存在している。その意味で僕はこの作品を冒頭に配した。この一篇だけによってでもこのセカンド詩集『女の子のためのセックス』は人々の、特に愛を真剣に求め続ける女の子たちの記憶に残るだろう。
 彼女自身の謂いによればこの「わたし」というのは「詩」のことであって、どんな風に定義されても受け入れる詩というジャンルそのもの強さを言ったらしいのだが、それであればなおさら僕はこの詩を彼女の生きる宣言のように読む覚悟がさらに強くなる。なぜなら彼女は「自分自身が詩」だと言い放っていることになるからだ。
 続いて「バイバイ」という作品を置いた。冒頭が衝撃的だ。

お金で買われるのは気持ちいい
同じように並んだ女の子の中から/選ばれて/外へ抜け出す
シンデレラのような/高級な売春婦のような/気分で
昔から恋人だったかのように/手をつないで/風をきって歩く


 かつて援助交際が「流行」したことがあるが、ちんすこうは「お金で買われるのは気持ちいい」と堂々と宣言をする。颯爽と彼女は歩くが、その心の中のシンデレラはメルヘンの住人ではなく高級な売春婦に他ならない。「バイバイ」は可愛い幼児語「BYE BYE」にも見えるが、実のところ「売買」であり、それは性の売り買いを意味するのだ。ここで図式的に倫理や愛の不在を論じす者がいるとすれば、それは価値判断を他人任せにする卑怯者であり、「バイバイ」という詩を頭から否定してしまう読者は、芸術の何かを知らない大ばかな人だ。ちんすこうりなは次のように言い放つ。

そんな/たくさんのホテルの中の一つに/入るまでの時間が/一番好き
ホテルを出て/バイバイする時が/二番目に好き


 この感覚はおそらく、それ自体が世間と一定の距離を置くことで辛うじて存在している「詩」や芸術といった僻地の世界でなければ受け入れられないだろう。けれどもそれは開き直りとか露悪とか言ったレベルではなくて、彼女の真の信仰の姿なのだということが僕には理解できる。彼女はもう会うことのない相手、すなわち自分にとっては利害関係が存在しない相手のために、優しく祈るのである。

お互いが/同じくらい/同じ気持ちで/想いあう
もう会うことのない/一度体を重ねただけの/相手の幸せを
その瞬間/優しい気持ちで祈る//バイバイ


新約聖書には「汝の敵を愛せよ」とあるが、本当のところ人が祈ったり愛したりするのは、自分にとって大切な人のことだけに過ぎない。しかし、ちんすこうりなは、二度もう会う事のない相手のために祈る。「バイバイ」はアーメンにも似て気高い。だからこそ彼女は、常人とは異なる世界にずぶずぶと足を踏み入れてゆく。さらには、自分のことだけではなく、自分と同様の心的境遇で生きる他者に対して、包み込むような視線を送ることが彼女はできるのである。彼女は21世紀に現れたお金で買えないマリア様だ。
「いずみさん」という作品の最終部にも、そういう異なる世界へ向かいたいという呟きがある。

いずみさん円山町に行けば/あなたに会えるの
壊れたマンコをワンピースの下に剥き出して/ぽっかりあいた月を見上げて/待ってるふりをしてる
赤い口紅を塗りたくった性器で/けらけら笑って吐いてるの
/いずみさんいずみさん/わたしも千円でいい/愛がないならお金をとらなきゃ
/まばたきとまばたきの間に/わたしが沈んで/あ、/堕ちたい

(「いずみさん」最終部)


 愛は麻薬のように次々に新しい刺激を求めさせる。しかし、世間から言えば「悪いこと」と呼ばれる。彼女はそのくらいのことはよく知っていて、自分の居場所を「片隅」だと表現する。第1詩集『青空オナニー』の無条件解放感は薄れているが、僕はそういうところも、この詩集の中に見られる成長点の1つだと思う。
      
片隅

誰もいない/公園の/駐車場/月明かり/手をのばしたら/始まる/してはいけないこと
しては/いけないことを/するのが/好き/昔から/ずっと/そうやって/きたの/し続けて/きたの
だから/もっと/悪いことを/したい/もっと/悪いことを/しなければ/いけない/してやりたい
そんな/つまんないこと/忘れるために/もっと/もっと
(全文)

 ちんすこうりなとは時々詩の批評で会ったり、たまに電話で喋ったりするくらいだが、明るい声の裏側に、いつも悪戯っぽい彼女の笑顔が見え隠れしている。どんなこときでも彼女の頭の中は冒険で溢れているのだろう。自分の好きな自分でいるということ。そのことが彼女にとっての最も大切なことなんだなと僕は想像する。
 
2 不可視の領域を認めつつ、人へ
 
 前節「堕ちることで見える風景」で、彼女の見た風俗世界について覗いた。しかし彼女が見るのは「目に見える風景」だけではない。見えない領域もきっちりと描き出してくる。そこが詩だな、と思う。最も分かり易いもので言えば例えば次のような部分がそれにあてはまる。

東京、/アスファルトの下に
土が埋まってるなんて信じられない
  
(「おっぱぶ2」部分)


 ここには2つの「見えない」が複雑に絡み合っている。1つは土がアスファルトによって「見えない」こと。もう一つは、「アスファルトの下に土が埋まっているかどうかなんて、誰も考えもしない」ため、その問題自体が「見えない」ということ。けれども、詩の中の女性は

ハイヒールのかかとを/すり減らしながら/すり減らされながら/元通りになることはなくて
あられもない/かつかつという音を/ごまかしながら歩いて行く
 
(「おっぱぶ2」最終部)


 というように、アスファルトをハイヒールでかつかつ突き、「土の不在」の問題を考えることをごまかしながら通ってゆく。ごまかす、ということは、意識して目を伏せることである。詩の人物は、アルファルトの下の土を「見ない」ことに意識的である。

渋谷駅から股が割れて尿が流れる/あみだくじの一本はラブホテルへ通じる
コンクリートの下は腐っていてたまに異変に気づく/ラブホテルがひしめいて扉を開けると
部屋がひしめき102を開けるとやはりひしめいている/彼女のしたは真っピンクな嘘
本当は嘘のない世界に行きたいという嘘もう何が本当で何が嘘か考えるのやめた
銭湯上がりの爽快さで道玄坂を一気に下る!
セックスの後にラーメンを食べたいのはお腹がすく以外の理由があると思うんだ
欲望にのまれて流れついた流木が亡霊みたいに立ち並んでる

(「宮益方面は知らない」部分)


 ここでも前の詩と同じように、「コンクリートの下は腐っていて」というように、ちんすこうりなは物事の根元に眼を向けるということをする。表面が綺麗でも裏側は腐っている。彼女の目のつけどころがはっきりと分かる。見かけが恰好良い男でも中身が全くないとか、豪華な服を着ているが卑怯この上ないとか。多くの男と抱き合うことで、裏側への目線が養われたのだろうと僕は推測する。もちろん推測でしかないが。翻って後半の「セックスの後にラーメンを食べたいのはお腹がすく以外の理由がある」は、これは認識や目線のレベルを超えて、もはや謎の領域に嵌ってゆく。
 僕ならば、「セックスの後にラーメンを食べたいのはお腹がすく以外の理由がある」こと自体を詩にするだろう。詩中、「彼女」が出て来るが、そんなものさえ切るだろう。何だか、考えたこともない、不思議な世界と理論とに必死になって、奇妙な世界を目指すだろう。 突然そんな風に自分自身の詩法について考えながら、「ああ、ちんすこうりなはそうなしないのだな、そしてそれが彼女と特徴であり、特長なのだ」と改めて気づいたのだ。
 ちんすこうりなの詩の中にはたくさんの人々が登場する。風俗業に勤める女のコだったり、初めて出会ったばかりの男だったり、センセーだったりする。そして、彼女が描くのはそれらの人々との丁寧な出会いと別れなのだ。
 詩集中で僕の好きな詩に「そんな終わり」という作品がある。そういえばその中で「ていねい」という表現を彼女は使っていた。「そんな終わり」は、別れることになった男女が、お互いが貸し借りしていた漫画を「一冊一冊/ていねいに/紙袋に入れていく」だけの詩なのだが、「世の中にはそんな優しい終わりもあるのか」と心が和らぐのだ。前節で引用した「バイバイ」の終わり方にも同じ思想が現れている。

マンガ、返さなきゃ//会うたびに/貸したり/借りたりした/大量のマンガ
汚さないように/本棚の上の方に並べてある/長くそこにありすぎて/すっかり/馴染んでしまった
…(中略)…一冊一冊/ていねいに/紙袋に入れていく/おもしろかったね/お互い知っていくみたいで
//(純情な話だね//(相変わらずえろいね
       
(「そんな終わり」部分)


 詩集最初の方に配した「始まりや終わり」は、とても物悲しい作品である。大阪にある阪急東通り商店街が舞台である。酔ったサラリーマンが土下座している。酔っ払いの世界では、それほど稀な光景でもあるまい。しかし、語り手はそれを見逃さない。そして「私は/ホテル代を払い/男に体をあけわたす想像をする」。かなり突飛な連想だが、それは男が「救われるかもしれない」と思うからだ。この詩の最後は「出口が見えるまでのあいだ/少しだけいのる」とある。ここにも救済のマリアが佇んでいる。
 そのほかにも、決して忘れることのできない先輩(彼女も女性で、詩中の語り手は初めて身体の関係を持つのだ)や、ようこ、愛子ちゃん、ちひろ、いずみさんなど沢山の名前も登場する。
 ちんすこうりなは、古の幻視詩人と同様に「見えないものを見抜く力」「不可思議な領域への直感」を持ち合わせながら、主な興味は他者との関係という一点に集中している。形而上性を超えて(・・・)、人事に心を砕くのである。

3 人の切なさを知っているから
  
 どうしてちんすこうりなは、人を描くのだろうか。それは、彼女が人の切なさと淋しさ、そしてそれを基盤にした喜びを知っているからに違いないと僕は思う。それがこの詩集の収穫であって、すなわち第1詩集『青空オナニー』からの成長点なのである。
 たとえば彼女は、愛情が消えてゆく瞬間の目撃者だ。彼女は「男って/射精した瞬間愛情の一部も/流れていくらしい」という妖しげな情報を本か何かで読んで知っている。しかし、ある日それを実体験する。体験をちゃんと言葉に置き換えることができるということは、何と素晴らしいのだろう。同じような体験を持つ男女は沢山いても、その経験や印象を綴れるひとがそれほど多いとは思えないのだ。

私の頬に出した/あたたかい精液/じっと見つめたあとで/申し訳なさそうにふいてくれた
子供になったような/くすぐったい気持ち//本で読んだんだけど/男って/射精した瞬間愛情の一部も
流れていくらしいね//だから/あなたの横顔は哀しそうなのか

(「射精」)


 また、淋しさは相手だけではなく、当然自分自身のものでもある。さまざまな相手と身体の関係を持つということは、数多くのリスクを持つ可能性が大きいが、もはや自分が「本当に大切で守ってあげたい/たった一人の女の子になることはない」と直感してしまったとしたら。おそらくはそれが一番の大きな悲しみであり淋しさであり、最大のリスクに違いだいだろう。そういう危機感をユーモラスな表現の形で描き出すだけに、より一層、しんとした静まり返った気持ちにさせられてしまう。

ちんちん舐めてたら/ちんちん、好きなんだね、/とあの人は言った
本当は/好きな人のだけ、好き、と言おうとしたけど/うん、とだけ
それから/あたたかさの中でこう思ったんだ/私はもう二度と
本当に大切で守ってあげたい/たった一人の女の子になることはないんだって

(「ちんちん」全文)


 本当に切なくて涙が出そうになるが、おそらくは、数多くの男と身体を重ねつづけるとこのような思想にたどり着くのは想像に難くない。ただそれは想像であり、想像に過ぎないので、僕は一切口を挟むことができないでいる。
 その意味で彼女の体験は特殊なレベルなのだと敬意を払う。
 人の淋しさを知るということは、想像を絶するような発想の高みにまで達する場合があることを「一番幸せだったとき」の最後の部分で読者は知ることになる。大学4年生の時、タイにバックパッカーを気取って旅行した彼女はあるツアーでレイプされる。

その夜私は襲われたのだ//小屋の中は真っ暗で/誰が隣にいるのかもわからなかった
ただ/男のごつごつした手が/私の体をまさぐった/その/純粋で無邪気な性欲を
受け止めながら/嫌じゃないなと思った/息をひそめて/可愛らしいとさえ思った
…(中略)…
本当に本当に幸せだったんだよ
         
(「一番幸せだったとき」部分)


 何と言えばよいのか、淋しさを知った者の余裕とでもいうのだろうか、既に繰り返し本稿で触れた「祈る」という行為にも似た、他者への理解。レイプする男の性慾を「純粋で無邪気な性欲」と感じる感性。最後の「本当に本当に幸せだったんだよ」の「本当に本当に」というリフレインに原始の歓喜とさえ言うべきものが滲み出ているのだ。
 他者に向ける目は、詩の語り手だけが持つわけではなく、客観的に描き出される友人もまたその視線を所有している。もちろんそれは視点人物が持ち得ているからこそ抽出できるものなのだが。

AV女優になるために/東京に行ったようこは/マンコ壊れたって言って帰ってきた//笑ったら/
涙がでた//ようこは/可哀想な人に/微笑むようにするのが上手くなってた
 (冒頭部分)

 この詩集には、何ページにも渡る長い作品と、1ページで終わる短い作品が含まれている。僕は次の「ロマンチック・メモ」は短いタイプの典型でもあり、ちんすこうりなの純粋さを如実に表す良い詩だと思う。

ロマンチック・メモ

あなたの瞳に映るわたしが好き
自分の好きな自分になれるから
わたしの瞳に映るあなたもそうだといいな
  (全文)

さいごに

本詩集『女の子のためのセックス』の表題作の中で、ちんすこうりなは繰り返し自由と孤独とについての言葉を吐き出す。詩集最後に置かれた表題作の中で彼女は次のように書く。

彼女は自由
自分のためのセックスをしているから
それから孤独
自分のためのセックスをしているから


この「自由」という言葉が彼女のキーワードと見えて、作品最後でも次のように言う。

あと100回負けたら
自由になれるよ


 「100回負ける」というのは、この詩の中で男の子にダーツで負けたらセックスすることになっている、その前提で書かれている。
 本稿最初に「彼女が手に入れたのは得体の知れない自由思想」と書いた。この詩の中にはまさに「自由」という言葉が登場する。「得体の知れない」と書いたのは、常人が近づくことのできない領域でそれが実践されているからだ。恐ろしく不自由で悲しく淋しく、どうしようもない修羅場を潜った上での自由なのだ。僕も、そしておそらく多くの読者も手の届かない領域において。
 第1詩集『青空オナニー』(2009)から8年。経験を重ねて「祈り」の目線を手に入れたちんすこうりな『女の子のためのセックス』。本書の底に流れている「淋しさ」に気づく読者が一人でも多くいればいいなと願っている。
(『女の子のためのセックス』人間社×草原詩社 近刊予定)

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自由詩評 私の読んだ詩集へのゆるやかな感想、その他。 江田 浩司

2017年02月26日 | 詩客
 自由詩を読んだ感想を書いたことは今までにもあった。しかし、読めたなと思える実感があったかと言えば不安になる。そんな人間が自由詩評を書くのだから、たいしたことは書けそうにない。思ったことを自由気ままに書かせ頂こうと思う。私が取り上げた詩集の本格的な感想は、専門の詩人か、自由詩評に精通している評論家にお任せしたい。見苦しい弁解はこれくらいにして、さっそく私の周りにある詩集の中から取り上げる本を選ぶことにする。
 はじめの二冊は、山﨑修平著『ロックンロールは死んだらしいよ』(2016年10月 思潮社)と、野田かおり著『宇宙(そら)の箱』(2016年3月 澪標)である。二人に共通しているのは、未来短歌会の黒瀬珂瀾欄に所属しているということ。つまり、詩と同時に短歌も創作しているということである。しかも、二人の最初の著書が詩集であるということも共通している。また、二人の短歌と詩を比較してみたとき、短歌と詩に表現の差異が内在され、異質な表現として分離していることである。この点は、とても大事なことだと思う。短歌と詩は同じ「詩」のジャンルに所属しているが、明らかに別の詩の表現である。これは、表現の本質に関っている。
 さて、二人の詩のことだが、山﨑は独学だと思われるが、野田は高校時代に、詩人のたかとう匡子に教えを受けている。ただし、私は詩の教えを受けたことがないので、詩はどのように教わるのかあまりイメージがわかない。定型詩である短歌の場合だと、表現の具体的な指摘、語句の使い方など細かな添削指導が可能で、実際にこの二人は歌会等でそのような指導を受けているだろう。その意味でも、詩の創作と短歌の創作は、まったく異質な表現形態で、どちらかを余技として創作しているのでないならば、創作過程の原理だけを見ても、矛盾を内在しつつ実作に励んでいることになる。
 まずは、山﨑の詩から読んでみたい。

          *

 山﨑の詩の表現は、詩の言葉の連続性というか、連続性に内包されている不連続性が、まるでフラットに、無意識を装っているノイズのように聴こえてくるところがある。時には散漫に思える意味の断絶が、表現の抽象性に野性味を加えることもあり、何とも不思議な世界を構築している。表題作から、他のすべての詩篇まで、音楽に関係のある語彙や表現が頻出するが、それに倣って言えば、言葉と表現相互のインタープレイを楽しんでいるような感じで読了した。これは個々の詩篇の内部のミクロ的な言葉の関係性と、詩篇相互のマクロ的な交感による構成によって構築されているものだろうか。いや、そこまでは意識的ではないにしろ、音楽に精通している山﨑の強みが、表現のコアとして表れているようである。
 このような詩が、短歌プロパーの表現者にどのような形で届くのかは未知数だが、テクストの意味を中心に評価をくだす者には、独り善がりの表現として遇されるだろう。私は詩の表現として、けっして難解だとは思わないが、短歌表現を基準にして読もうとすると、意味の不明さが際立つことになる。これは仕方のないことで、それ自体は受け入れるしかないだろう。
 今私の手元にある「未来」誌の最新号、二〇〇七年二月号から山﨑の短歌を引用してみたい。

不器用に絡め取られた鎖から花束でしょうか手を挙げなさい
赦されて犯す日に持つフライパンあまりにも輝くものですから生きて


 九首の中から冒頭の二首を引用した。私はこの二首を、短歌としてあまり成功しているとは思わない。あるには評価する歌人がいるのかもしれないが、私にはそうは思えない。山﨑の言語感覚、才能からすれば、同じモチーフで自由詩にした方が、すぐれたテクストが創られるのではないだろうか。言葉から意味、意味から表現へと、五句三十一音の定型詩が窮屈になってしまっている。これは短歌表現の構造の問題でもある。また、山﨑が自由詩を創作していなければ意識しないことも、気になってしまうのかもしれない。
 詩集を読んだ後で短歌を読むと、どうしても自由詩の創作者としての資質が先に立ってしまう。これは、一読者である私の感想なので、他の人の意見はわからない。おそらく、自由詩の創作が先にあり、その創作の過程で短歌との出会いがあったのだろう。それが現在の短歌の師である黒瀬珂瀾の歌であったということだろうか。山﨑が今後どのような短歌を目指すのかわからないが、師の黒瀬が詩集の栞に引用している歌、「部長以下新入りバイトに至るまで名札がすこしずれているのに」や、「改札のとなりで眠ったおっちゃんに鳩は次々寄り添ってゆく」の方が、短歌の表現としてはすぐれていると思う。このような歌の世界を自由詩で表現することは可能だろうが、どれだけ余分なことが必要かを考えるだけで嫌になる。
 『ロックンロールは死んだらしいよ』には、私の好きな詩篇も詩のフレーズも多いが、もう少し音楽にこだわって書いてみると、現代音楽の楽譜をイメージするところがあった。また、表現や言葉の転調に8ビートから16ビート、また、4ビート、2ビートなど、表題作にロックがあるからと言って、8ビートが主調というわけでもなく、自在な言葉の転調が内包されている。これも、言葉のインタープレイの真骨頂だろう。
 ただし、表現相互のつながりが、昇華しきれていないところもあるように思えた。もっとも、私は自由詩について素人なので、詩の表現のよさを読み切れていないのかもしれない。次に私がうまくいっていないと思った詩句をいくつか挙げてみたい。

岩塩とモダンジャズの偶然の出会い/から夜は明けとっくに君は恋をしている
 「天使の跳躍」
ずいぶんと反抗的な優しさ八百屋のキャベツの瑞々しさ 「ぬるい春」
誰しも信じられないほどの論文の報せ教えてくれるときの陽光の眩しさ 「朝のはじまること」最後の三行の内の最終部分。(その前までのフレーズがとてもいいので、最後の表現が雑に見える。)
花を花として/声を声として伝えたあとの/残滓であり萌芽とも言える/恋愛の初期衝動である/恋愛の初期衝動以外全ての思考を停止せよ 「あまりにも音楽的な」の「踊り」の最後の特に二行。

 「スンの近くに」とか「甘い踊り」は、とても好きな詩篇で、「甘い踊り」が内包している思いに胸が熱くなった。『ロックンロールは死んだらしいよ』には、栞に黒瀬珂瀾と中尾太一のすぐれた解説があるので、これ以上の駄文は必要ないだろう。続けて、野田かおりの詩集について書いてみたいと思う。

          *

 野田かおり著『宇宙の箱』は、とても親しみやすい言葉で表現されており、難解なところはどこにもない。また、「あとがき」のある詩集であり、装丁が倉本修なので、その意味でも歌人にとっては親近感のわく詩集である。そして、師のたかとう匡子による帯文を読めば、野田の詩の世界のエッセンスが理解される。
 この詩集に収録されているのは、内面化された体験が発酵してゆくのをじっと見守り、心にふれてくる言葉をすくい取って、抒情的な詩の世界に昇華した詩である。野田は「あとがき」に、次のように書いている。

 詩集を編みながら、たくさんの過去に支えられていることに気づきます。一五歳で詩を書き始め、詩の言葉に出あえたことが、私の幸福のひとつです。 (中略) 私にとって詩を書くことは、この世界と、この世界で他者に出会いながら生きる自分を、しずかに見つめることです。広大な宇宙のなかから、清明な光を取り出すように、そして、誰かの記憶に結ばれるように、これからも詩を書いていきたいと思います。

 野田の「あとがき」を読むと、私は余計なことを書かないで、詩集がよき読者に出会うことを願えばいいのだという気持ちに包まれてゆく。野田の詩にはナイーブすぎる表現もあるが、それが野田の資質なのだろう。詩の表現による、心の処方箋を書き綴っているようでもある。それが、自己への慰藉にとどまらず、他者への通路を開いているのならば、ナイーブな表現も詩の言葉としての力を内包する。
 詩集は二つのパートに分かれている。前半の「Ⅰ」は、主に回想化された自己が、内部の他者として描かれ、過去の自分との邂逅が寓意されているところがある。また、後半の「Ⅱ」は、主に教師の目線から、外部の他者(生徒)を内在化して描いているが、その視線の先に、過去の自分の影が見え隠れしている。どちらの場合も、野田の眼差しには悲哀はあっても嫌味がない。この健全さが、野田の表現の特徴の一つだろう。
「Ⅰ」から「崖」の冒頭と最後を引用してみたい。

みどりの座席に深く座って
海をまたごうとすると
あなたのみひらいた瞳に秋の海が揺れながら近づき
まぶたを閉じると思ってもみなかった夜が来た
  (中略)
冬が来たら蜂蜜に光を宿して飲み干そう 
崖に触れ
今年はじめての雪を払い
まだ
舫(もやい)のように身体はつながっている


 姫路に生まれ、海の見える高校に通ったという野田にとって、海は親しい風景というだけではなく、同じ時間(生)をともにした存在という重みがあるのかもしれない。同じの詩の中に「青い鳥は止まるはずもなく海をわたってゆく/眠りに落ちる数秒の瞳に暗い海が揺れ」という表現がある。この詩には悲哀の中に宿る希望のようなものを感じるが、そこに野田の表現の本質が表出しているように思われる。
 次に、先の山﨑と同様に、「未来」誌の最新号、二〇〇七年二月号から野田の歌を二首引用してみたい。

書類より顔を上げればブラインドのむかうに薄く揚羽の影が
まるまると眠る仔猫を見せくれる少女はリストカットを言はず


 九首の内の冒頭の二首である。どちらも勤務先の学校での出来ごとだろう。一首目は、情景はよくわかるが、結句の終わり方に問題がある。歌としては二首目の方がいい。オーソドックスな短歌の作り方だが、二首目には、そのような短歌の性質がうまく活かされている。しかし、野田の詩と短歌を比べたとき、やはり、詩の方がすぐれているように思う。
 私は野田の詩を読んでいて、例えば次の詩句が印象に残った。「夕陽をぐるっと/バターナイフでえぐるような痛みが/帰り道にあったこと/深夜めざめてみると/みどりいろのカーテンの隙間から/もう逢えなくなった人たちの/住んでいる街の灯りが見えたこと」(「みずうみ」より)。野田の詩には、阪神淡路大震災をモチーフとした詩があるが、ここに引用した詩句もそれを背景としているのだろう。これは、はじめに書いておかなければならないことであった。野田の詩の表現には、その背後に大震災があることを……。もちろん、すべての詩の背後にということではない。しかし、大震災を素材としていない詩にも、震災の影を感じる。
 私は野田の詩を読んで思うのだが、野田はなぜ詩を書きながら、短歌の表現を求めたのだろうか。ちよっと、不思議な感じがするのである。やはり、短歌の師である黒瀬珂瀾の歌との出会いが影響しているのだろうか。短歌と詩を併行して書くことは、特別なことではない。また、表現を器用に使い分けることが問題なのでもない。短歌と詩の違いついて、どのような認識を持って、何をどう表現するのかが問題なのである。野田の今後に注目してゆきたい。

        *

 杉本真維子第三詩集『裾花』(2014年10月 思潮社)を読んで、この詩集の強い言葉の粘度がなぜか懐かしいと感じた。現代詩をはじめて読んだときの感じに、どこか触るような感覚があった。それは、具体的に誰の詩ということではなく、現代詩と言ったときに、それはこのような表現を内在しているものだろうという抽象的なものだ。私は『裾花』に続けて、第二詩集『袖口の動物』(2007年10月 思潮社)を読んでみた。両詩集の間にある言葉の質の違いについて、うまく説明できる自信はない。言葉、表現への感じ方で言えば、『袖口の動物』の方が詩との距離の取り方がスムーズになされた。詩のメタファーや寓意に直に向き合っている瞬間があった。しかし、『裾花』の詩は、メタファーや寓意の切断面を見ているような幻覚に襲われるのだった。
 奇妙な言い方になるが、『裾花』よりも『袖口の動物』の言葉の方が、私には親しく感じられたのに、『裾花』の方が、懐かしい詩集に思われたのだ。自由詩としてしかけっして生きることのない言葉、これは自由詩によって生かされている言葉ではない。そこに表現としての凄味がある。まさに、沈黙としての言葉だろう。「詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、沈黙するためのことばである」と言ったのは石原吉郎であった。私にとって『裾花』の詩は、そのような言葉として、詩であることの意味の前に立たされる。山﨑や野田は、詩と併行して短歌を創作しているが、彼らの詩には、定型詩との親和性がどこかに担保されている。だが、杉本の詩の言葉にはそれはあり得ない。『裾花』を読み、続けて『袖口の動物』を読んだときのそれが強い印象である。杉本が短歌を作ることはないだろうし、仮に作ったとしてもそれは短歌にはならない。短歌とは別の詩の表現になるのではないだろうか。
 「川原」の冒頭と最後の連を引用する。

通路、が塞がれ、身長ほどにしか、心がな
い、日のなかで恐怖の種がわれる。蛍光灯
で焼けしなないか、ソファで溺れないか、
窓で迷わないか、
わたしは、だれなのか
  (中略)
一枚のひと、ひとりの肉、と
硬貨のように数えている
ひたいの奥の整列が
炭火を燻らせ
闇のうらがわを舐めていく
穴あきの薄紙をかぶる、いやらしい文字、
から生まれてきた
(犀川の木屑にまだ、磔の痕がある)


 この詩の読点と改行は、とても計算されているが、それ以上に、杉本の詩の文体を形作る言葉のリズムが印象的である。また、そのリズムから表出される存在の不明性、不安、恐怖、グロテスクさ……。人間の生に伴う罪が、虚無を擦過した後に浮かび上がる。これは、私の勝手な感想であり、杉本の詩の本質は別のところにあるのだろう。例えば、人間存在へのあまりに強い愛情ゆえに、存在の残酷さとともに、言葉と詩に寄り添っているというように。これも私の気ままな感想にすぎないか。
 『裾花』を読んだときの懐かしさは、杉本の現存が詩を通して固有性として刻印され、表現の幻想性の前に私を立たせるからだ。そう思ったときに、私は詩の意味を求めることを断念し、むしろ、フラットに、あるがままに言葉を受け入れることにした。
 『裾花』の詩篇で、私が特に心動かされたのは、祖母の死が背景にあると思われる詩である。その中でも「一センチ」や「わたしの鬣」の内在する思いの力に打ち据えられた。

匿う水が、植木のしたに溜まっている
鈍器で殴りこんできた敵は火のなかで死んだ
洗われた傷を清潔なガーゼでおさえながら
病室で泣く人の傍らに座った
言葉よりもからだのほうが近く、
とじこめて、死後に語る、と約束をした

「一センチ」冒頭部分


祖母の灰をあつめ
たべたひとの涙にわたしは傷つき
親戚のわらいに膝をふるわせ
以後いっさいの
「声音」を捨て
墓を洗う、仕事、していた

「わたしの鬣」冒頭部分



 内容と性格が違うが、「きつね」も好きな詩である。詩の半ばに、「くちべらしの子は、今でも子ども、だったから/細雨のような白い足袋に刺され/腹部から、たいこに、踊らされていった/反り返る、股/すそに血がついて泣く」という表現がある。この詩に登場するきつねが見たもの、それは何か……。私もまた、ここに生きているのだという思いを強く持つ。
 『袖口の動物』の最初の詩、「光の塔」の冒頭も衝撃的である。

わたしは誰かのために
洗われるからだを持つ
ひたいに緑色のマジックで
数字を書きこまれ
ころされるための順番を待っていた
にんげんは言葉を持たない
 (以下略)


 この冒頭の言葉から引き込まれて、『袖口の動物』を一気に読み下した。詩が拓く異次元の言葉の世界を堪能するのに理屈はいらない。「にんげんは言葉を持たない」という言葉の恐ろしさ、沈黙が内在する有意義性が乱反射を起こしている。
 「いくつかのリズムの内壁に、跳びかかるべき距離を測っている」(「或る(声)の外出」冒頭)、「平行の臨終、その顔色を吸い/釘の子が、表面が剝げたつるつるの子が/大切な地図をぬらそうとする」(「釘の子」最後)、「つるは/無数の傷跡を残し/カーテンが何枚も風にゆれて/ 一枚の青い紙だけが/おぼえている」(「世界」最後)。『袖口の動物』には印象に残る言葉が多い。私の好きなフレーズを三箇所だけ引用したが、詩を読むことの楽しさとスリルを、今さらながらに味わっている。もちろん、詩と短歌の表現の質の違いが際立っていることを肝に銘じながらである。

          *

 作家の大庭みな子が、埴谷雄高の思い出を綴った文章「影法師が踊る」に、埴谷の次の言葉が引用されている。「文学の芯にあるものは詩だ。それがないものは文学とは呼ばない」。この言葉に大庭は胸を打たれたという。埴谷のいう「詩」は、もちろん、自由詩といった場合の「詩」とは違うが、無関係ではない。埴谷の主著である『死霊』を思えば、その「詩」の意味に、現存へのあくなき追求が内在されていることが想像されよう。だが、自由詩の「詩」を問うとき、どのような答えが用意されているのだろうか。
 蜂飼耳のエッセイに「詩について」というすぐれた詩論がある。私は『現代詩文庫 蜂飼耳詩集』(2013年7月 思潮社)に収録されたこの詩論をはじめて読んだとき、とても強い感銘を受けた。昨年の八月に開催された未来東京大会のシンポジウムに、ぜひゲストとして参加して頂きたいと思ったのも、その詩論を読んだことが影響している。蜂飼のこのエッセイには、詩が何かということの明確な解答がある。それは、蜂飼の詩の実作に基づいた答えである。私は今ここにその内容を紹介しようとは思わない。まだ、未読の方はぜひ全文を読んで頂きたい。(現代)詩の本質をこれほどわかりやすく、丁寧に解説している詩論を、私は他に知らない。
 蜂飼の最新詩集『顔をあらう水』(2015年10月 思潮社)を読んでみたい。だがその前に、それ以前の詩についての感想を書いておこうと思う。
 第一詩集『いまにもうるおっていく陣地』(1999年 紫陽社)は驚きの詩集だった。詩に登場する未知なる存在が導く表現世界が、詩の現在性のトポスに向き合わせる。詩の言葉は存在の境界を自在に往還し、人や動物、昆虫、あるいは神、そして無機物まで、言葉の内部で互いに感応して、視覚の定点を移動しながら、詩の表現の世界を形成してゆく。表現の仕掛けと思われるものが、実は蜂飼の詩の言葉の自然な発露としてまずは発せられているようである。その後、蜂飼の表現者としての固有性に導かれ、言葉のすみずみにまで詩の表現の能動性が張りめぐらされてゆく。詩が内包する言葉のリズムへの鋭利な感覚にも驚かされる。蜂飼が神話を専攻していたことが、詩の表現の端々から表出する。蜂飼耳という名前を不思議だなと思っていたことが、この詩集を読むと瞬時に解消されてゆく。その名前が詩の世界を象徴化しているように思えてくる。表題作「いまにもうるおっていく陣地」を読んで衝撃を受け、最後まで一気に読み、「アサガオ」、「高行くや」、「高菜むすびを」、「雨垂れ石を飛び越して」を読み直してみる。そう言えば、「配布の感覚」を読んだときだけはほっとした。この詩だけは、私の想像力が少し近づけたようであった。
 第二詩集『食うものは食われる夜』(2005年 思潮社)も、詩の内在しているリズムと詩の内容との融合が分かち難く、詩に登場する生き物や人物たちとの詩の言葉による不思議な交感が、蜂飼の詩人としての固有性を表出している。私には先の詩集よりも読みやすかった。巻頭の「モンゴロイドだよ」から、「鹿の女」へと読み進みながら、古代人や土器に描かれた女を想像し、「この蟹や」の古代歌謡調の韻律を楽しみ、『古事記』の神話を背景とした「三輪山」や「姉と妹」、「根の国」などの詩の世界を堪能した。
 表題作の「食うものは食われる夜」の言葉の韻律も独特で、「音たてちゃ/ いけない/ 今夜は/もの音たてちゃ/ いけない」のリフレインをはじめ、詩の言葉の韻律の只中を鮭が力強く遡上してゆく。「オセアニアルート」の母親鯨も、蜂飼固有の詩の言葉の韻律の中を泳いでいる。第一詩集『いまにもうるおっていく陣地』も、表現の内在している言葉の韻律に意識的にならざるを得なかったが、第二詩集『食うものは食われる夜』の方が、より強く詩のリズムを意識しながら読むことが多かった。では、第三詩集『隠す葉』(2007年 思潮社)はどうだろうか。
 この詩集も蜂飼ワールドが全開である。不思議な登場人物、動物、昆虫、神、異形のものたちとの交感が形作る詩の世界が、現代蜂飼神話として展開してゆく。先の二詩集よりも、長編の詩が多く、散文詩の実験的な試みもなされている。散文詩の「桃」や「太陽を持ち上げる観覧車」には、詩的な短編小説のような趣もある。長距離ランナーの孤独ではないが、休むことなく自己の詩の世界の一筋の道を走っている。
 表題作の「隠す葉」をはじめ、現存への蜂飼の眼差しが思いがけない方向から、感覚と思考を貫いてゆく。多面的な方向と角度、そして、異質な言葉の矢の数の多さに、これはとても受けとめきれないな思いながら、それでも、詩の表現に身を任せている楽しさ。やはり、この詩集も言葉の韻律の力をまざまざと感じさせる。どの詩にもそれぞれ独自の詩の世界があり、甲乙がつけ難く、それでも私の好みを言えば、「熊」とか「黙契」、「角」の言葉に寄り添いながら読んでいた。
 この詩集に限らないが、蜂飼の詩には時間の重層性が内在された詩空間が拓かれている。クロノスとカイロスの時間が錯綜する。時代も超越し現在と往還する。
 では、『顔をあらう水』はどうだろうか。この詩集には前の三冊の詩集とは明らかに違う読後感がある。詩で展開される幻想性や物語性を抑えて、表現が注意深くそぎ落とされている。この詩集の言葉の彫琢は、読者の読みのコードの側にも強く作用するように工夫され、構成されているようだ。また、書下ろしで書かれた「骨拾い」、「ある死」など、特攻隊を志願した父親の追悼詩が収録されていることも異彩を放つ。さらにそれに付随して、「戦後野原、いまここの」が寓意している詩の世界が、やはり、これまでの詩とは異質であり、「甘くて、」の内在する批評性が人間の現存に鋭く突き刺さる。いや、現存への批評性といえば他の詩篇も同様に、詩の言葉の内圧を秘めているだろう。
 これは個人的なことだが、同じく書下ろしの「備前の土」の素材となっている場所は、私の故郷にある備前市伊部の南大窯の跡であろうか、懐かしいところである。最後の収録作「懸想」の初出が、私が所属していた同人誌であることも、この詩集との距離を近づけていることに無縁ではないと思う。しかし、そのような個人的なことにはあまり意味がない。
 もちろん、『顔をあらう水』は、先の三冊の詩集と無関係な現存の世界が展開されているわけではない。だが、この詩集に表出している詩空間には、蜂飼固有の神話性を通過した後の、現在性に基づくリアリティーが表象されているようにも思われるのだ。以前の詩とは異質な詩のトポスが形成されており、そこに生み出されるリアリティーへの蜂飼の行為が、以前の詩との差異を生み出し、詩の言葉と読者との新たな関係性と距離を作り出してゆく。しかし、これは私の勝手な妄想にすぎないのだろう。次に読んだときには、まったく違った感想を持つことも予想されるのである。

※引用中および著書の丸括弧はルビ。
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自由詩評 詩人の越境 —岩尾美義、高岡修の系譜(続) 丑丸 敬史

2017年02月26日 | 詩客
(1)

  空も
  かつては溺れた
  だから
  空は
  洪水の水位の高さで
  あんなにも
  溺死を
  澄んでいる

  記憶の海が引いてゆくと
  犀の河原の空に
  一艘の船が現れる
  泥と樹木とでつくられた
  かつてのわたしたちの船である
  空の岩礁に難破したまま
  日に洗われて
  朽ちることがない

  いまになってわたしは思う
  あの船はやはり
  つくられるべきではなかった
  わたしたちもまた
  あの船に乗るべきではなかったのだと
  それを知っているから
  あの船は
  空の溺死の水位で
  いまなお
  絶えざる後悔を
  かがよわせているのだ


(2)

 筆者は俳句実作者である。現代詩に関しては、思潮社の現代詩文庫を片端から読んで気に入った詩人がいると深堀する程度の読者である(短歌に関しても同程度の読者である)。残念ながら、大半の俳人は現代詩を読まない。俳人の他詩型に対する不勉強は今に始まったことではないが、角川の月刊「俳句」に自由詩や短歌から学ぼう、的な特集が組まれることはなく、大方の俳句実作者は井の中の極小世界の住人である。ましてや、高名な俳人の中に現代詩の実作者はほぼほぼいない。俳句に慣れ親しんだ俳句脳には自由詩はあまりにもハードルが高く異世界芸術のごとくに感じるのであろう。

 日本は様々な詩型が存在しそのそれぞれに相当数の実作者を持つ詩歌の国であることに異論はなかろう。しかし、上述の俳句実作者の例にとどまらず、他の詩歌との交流は皆無に近いと言って良い。近代俳句の革命家である正岡子規がもし「俳人ヨ、現代詩ヲ大イニ読ムベシ!」と他の詩型の勉強を奨励し、自ら巧みな自由詩を成していたらば、現在の俳句シーンは大きく変わっていたであろう。

 ほぼ全ての現代詩の読み手が現代詩の書き手(実作者)に限局されており、その批評もその仲間内でなされる。創作、鑑賞、批評のその全てがその内部世界で完結していることはその芸術において不幸である。それは現代俳句にあっても同様である。句集は買うものではなく送られるものである。買っていただくものではなく、贈呈して読んでいただくものである。筆者のような俳句実作者にどのように現代詩・自由詩が読まれているのかを知ることは、自由詩の実作者にとっては無意味ではなかろう。そのための「詩客」でもある。

(3)

 本欄に「詩人の越境 — 岩尾美義、高岡修の系譜」と題して、詩人兼俳人である岩尾美義と高岡修に関して、すでに前編、中編、後編を書いた。

http://blog.goo.ne.jp/siikaryouzannpaku/e/ab8cb0acfa9bcf0c5b2750a57d432288
http://blog.goo.ne.jp/siikaryouzannpaku/e/3816feb7d1a548e02648b7bdc160dc18
http://blog.goo.ne.jp/siikaryouzannpaku/e/688fccf5cc612bdd9135ef50aadd7be3

 自由詩と短歌にも惹かれ鑑賞もするものの、それらを作ろうとするとうまくいかない。それはなぜなのか。好きだが愛されない、という片思い状態に留まっている自由詩と短歌。この牴牾しさからこの小論を書き始めたと言っても過言ではない。なぜ自分は自由詩や短歌ではなく、俳句を書き続けているのか。俳句のどうゆうところが自分は好きなのか、自分に合っているのか。

 上掲詩は高岡の詩集『犀』(2004年)の「破船」。『犀』は「犀」をキーワードに据えた異色の詩集である。この詩は、「犀の河原」から発想され紡がれた詩である。「破船」、「溺れた」、「洪水」、「溺死」、「難破」、「朽ちる」と来て「絶えざる後悔を」と繋がる。このように、一から百を紡ぐことが自由詩の本懐である。ならば、百を飲み込み一を吐き出すのが俳句であると言えよう。

(4)

  しののめの鳥類図鑑にある羽音         高岡修『透視図法』2008年
  春暁を横抱きにして殺意くる
  水の炎となる白鳥の発火点
  死界までその尾を垂らす山ざくら
  昏睡の卵一個を揺り起こす
  九月の野イデエの蛇を見失なう
  姦淫は月光に舌入れてより
  折鶴をほどき一羽の死をほどく
  部屋に鍵かけて未遂の滝となる


 <しののめの鳥類図鑑にある羽音>、<水の炎となる白鳥の発火点>、<死界までその尾を垂らす山ざくら>、<折鶴をほどき一羽の死をほどく>は、湿潤で柔らかな伝統的な和物的な詩であり、作者名を隠して提出されれば、手練れの現代俳句作家の作と思われるであろう。片や、<春暁を横抱きにして殺意くる>、<昏睡の卵一個を揺り起こす>、<九月の野イデエの蛇を見失なう>、<部屋に鍵かけて未遂の滝となる>に関しては、これが現代詩も書く人物の作であると言われて初めて納得がいくような俳句である。「殺意」、「昏睡」、「イデエ」、「未遂」という硬質な言葉を積極的に俳句に使う俳人もいるにはいるが、どこかその生煮えの言葉がいわゆる俳句の中によく混じり合わずにシチューの中に大きな芋の塊がゴロゴロしているような違和感がある。もちろん、その違和感を積極的に喜んでこのような俳句を作る向きもあろうし、俳句もいつも予定調和的なものばかりでは面白くはないし、一句集として提出されるときには、色々な俳句が鏤められていた方が楽しめる。その辺りの塩梅を高岡は知悉している。計算づくで色々な手触りの俳句を作るのである。岩尾はその初期に、現代詩の書法をそのまま俳句に持ち込んでかなり違和感のある俳句を書いたが、その後俳句の骨法を会得したためかその意味での面白さは減じて、通常俳人が書くような俳句を作るようになった。高岡は、少なくとも初期句集の段階で、俳句の骨法を知りつつ微妙な匙加減で絶妙な俳句を書くことができた。そして、そのスタイルは現在に至るまであまり変わっていない。

 我々が苦労して一編の詩を紡ぐのに、俳人ときたら季語を選んでそれに似う洒落た言葉を添えて一句完成!的なー?という、お手軽な俳句感を持っている詩人も多いのではなかろうか。一般の素人さんの作る俳句は確かにそれに違いない。しかし、それに呼応するものは一般人の書く自由詩である。自由詩を牽引する詩人と同様な気概を持つ俳人は、刻苦勉励して俳句を「彫刻」している。上記の高岡のレベルの俳句を為せる詩人がいたら、是非当方に名乗り出て欲しい。

 伸びやかに「歌う」ことを本義とする詩歌にあって、自明とも言えるその本質に真っ向対立して「歌わず」を本懐とする俳句は詩歌の鬼子である。自由詩の場合には、脳内に次々に流れ出る長大な妄想を詩篇となす。俳句は、脳内に立ち上る景色の一点をのみ乾板に転写する。俳人は、脳内にまず長大な自由詩を思い浮かべてからそれを削り込んで俳句を作るのではない。冒頭の「破船」の詩を刈り込んで剪定して<冬空の河原に溺る難破船>としてもある程度の俳句にはなるだろうが、俳句は決して自由詩の要旨、要約ではない。
 漱石と芥川の文学作品を長編小説と短編小説の違いでその優劣を論じることに意味はない。自由詩は映画であり、俳句はスナップショットである。そこに優劣はない。長距離走と短距離走の違いに例えても良い。自由詩を書くのに肺活量が必要なように、俳句には爆発力が必要である。それぞれ別の資質が必要なのである。

(5)

  きさらぎという鳥の血をまぶしめり       高岡修『蝸牛領』2010年
  春愁に呼ばれて睡い斧ひとつ
  遠く来て我が来歴を問う菫
  死体とはひとつの喩法わらび狩り
  かげろうという感情の町へゆく
  春亡ぶグラスに海を少し容れ
  空蟬に野があつまってきて濡れる
  蝶死して地の月光を吸いやまず
  愛のあと野に立ちくらむ冬の虹
  死にゆくを汀と思う冬いちご
  白鳥(スワン)白鳥(スワン)フォルテッシモの凋落よ
  冬菫わが四肢に浮く釘の跡


 続く『蝸牛領』でも高岡は絶妙な線を狙って俳句を提出してくる。例えば、<春愁に呼ばれて睡い斧ひとつ>、<空蟬に野があつまってきて濡れる>。その俳句は程よく「俳味」を持っている。この「程よい俳味」は実に難しい。現代詩人も短歌人にも多分難しかろう。勿論、そこには新しい血が盛り込まれていなければならない。例えば、<きさらぎという鳥の血をまぶしめり>はそんじょそこら俳人には書けそうもない脱帽の一句である。「きさらぎという鳥の血」、現代詩ならでは有りうるだろう比喩かもしれないが俳句ではまずは見ない。このように、俳句は現代詩から随分とまだ学ぶことがあることを高岡の俳句は教えてくれる。詩は比喩を効果的に使うが、「死体」が「ひとつの喩法」とも、「白鳥」を「フォルテッシモの凋落」とも俳人では出てこない。

  かたつむり死も卵形を始原として
  かたつむり殻透けるほど泣きじゃくる
  かたつむりジュラ紀まで空わたりたく
  かたつむり地軸の影を見失なう
  かたつむり被曝野遠くけぶらせる
  かたつむり死は双眸の水明り
  かたつむり銀河より水ぬすみ飲む
  かたつむり踏めば怒濤を踏むごとし

 
 『蝸牛領』の名の由来ともなっている「かたつむり」の一連の句。これらは一句で独立しているから、自由詩の連として読む必要はなく、読むこともできない。俳句が寄り集まって自由詩ができるわけでないように、自由詩を分解して俳句ができるわけではない。
 この連句の中では、<かたつむり踏めば怒濤を踏むごとし>が断然面白い。これは阿部青鞋の<かたつむり踏まれしのちは天の如し>のオマージュである。青鞋の方が「天の如し」としているのに対して、高岡は「怒濤を踏むごとし」としている。静と動。の対比構造を持ちつつ、青鞋の高名句を知る読者に対して、音もない静かな怒涛がその脳裏に届くように計算して高岡が狙った、とても巧妙な一句である。

 作曲家はふと降りてきたある楽想をそれに相応しいピアノ曲、もしくは交響曲に振り分ける。その一方で、作曲家がピアノ曲の依頼を受けた時には、ピアノ曲に相応しい楽想をその脳内は紡ぎ出すだろう。交響曲を作る時には交響曲に相応しい楽想をその脳内は紡ぎ出すだろう。高岡もおそらく、前者と後者の作業を作業を行って俳句と自由詩を書くのであろう。加えて、長編の詩ばかりを書けば、俳句が書きたくなり、俳句ばかりを書けば、長編の詩が書きたくなる。そのように、高岡の中で俳句と自由詩で補完、補強しあっていもしよう。しかし、それをこのレベルでそれを両立させることができる者はそうはいない。

(6)

  「世界と、その洪水の構造に関するノート」     『月光博物館』

  溺死者(わたし)のかたわらをゆっくりと流れ過ぎる一匹の犬、それは
  その犬がそれまで咥えていたであろう路上の真昼も溺死して
  いっしょに流れ過ぎているということなのだろうか

  死んだ犬に遅れてゆっくりと流れてくる一箇の窓枠、それは
  その窓枠がかつて縁取ったであろう焦げるような夕焼けも溺死して
  いっしょに流れてくるということなのだろうか

  しかし、いま、ここで最も重要なことは
  溺死者のかたわらをゆっくりと流れ過ぎる一匹の犬の眼に、あるいはまた
  死んだ犬に遅れてゆっくりと流れてくる窓枠という眼の光彩に
  あの洪水の光景がくっきりと映し出されているということだ

  そして、なお、指切りのときに切れた子供の頃の指のようにも
  この海の消失への深度を漂いつづけているもの
  いつまでも伏し目がちだった家族の団欒
  額縁の中の微笑
  無関心のあのやわらかな深部へなだらかに降りていた欠伸
  欠伸のあとにじんわりと滲んでくる涙のような命への郷愁
  饐えた空壜の内部でひそかに熟成していた歌

  そして、いま、溺死者(わたし)の全身を描くも貪欲にむさぼりながら
  数十匹の蝦がしきりにまさぐっているもの
  溺死者(わたし)の眼裏の銀河
  脳の襞の、あの乱雑でまばゆかった思想の残渣
  死の過剰が不容易な洪水の残紋
  水の内臓へつらなろうとしては悄然とはぐれつづける溺死者(わたし)の夢想の肉質

  もしどこかの岸辺へ打ち上げられる日があるのだとしても
  溺死者(わたし)が一体誰があるのか太陽でさえ判別することはできないだろう

  一千の夜と朝を数え
  (溺死へのもうひとつの伝承をたどり)
  うなだれた空が水没する刻

  本当のかなしみとは
  水の感情線に添っていつまでも溺死しているということだ

  やがて遥か彼方に夕日が墜ちて水平線が煮えたぎる
  急速に冷やされて夕日が黒く凝固する

  朝の来ない夜がくるのだ

  知っているだろうか
  ついに水がみはじめる腐爛した夢
  それが溺死者(わたし)だ


 この詩は100年前には日本に生まれ得なかったものである。現代詩なる言葉があるが、それは現代詩人たちの矜恃を示す言葉である。翻って、現代俳句なる言葉も戦後同時期に現代俳人によって生まれた言葉であるが、こちらの今日の状態は甚だ心許ない。戦後の盛り上がりの後、社会派・人間派から自然派という揺り戻しがあり、現在の俳句はまた戦後俳句の喧騒などなかったかのごとくかの静けさである。全てを飲み込んで揺るがない、という俳句文芸の恐ろしさ。
 郷愁、熟成、貪欲、思想、残渣、伝承、凝固、腐爛のような硬質な言葉は俳句では素材としては料理しにくいが、それは俳人が勝手にそう思い込んでいるだけである。俳句は箱庭ポエジーに陥っている。俳句自身が「俳句ポエジー」なる特殊なポエジーを希求するならば、自らも潰れて行くブラックホールのような先のない逼塞した文芸となることは疑うべくもない。筆者は嵯峨御流という流派の伝統生け花を習っていたが、そこには確立され揺るがない型があり、その型に落とし込んで作品を作る。現代の俳句は、まさしくその様に肖る。芸事俳句である。

 現代詩の書き手が俳句に越境してくることは、俳句にとって本当に得難い有難いことだと筆者は常々思う(ただ、俳句形式もしくはこの様な俳句環境に興味を持てず、請われても越境しようなどとは大方の詩人は思わないだろうけれど笑)。しかし、その俳句作品が異質であればあるほど、俳壇(という名の有象無象の集合体)本体は、それらに言及しないことで黙殺という形でその取り込みを拒絶するだろう。戦後70年経って感じることは、そのような俳壇の老獪さなのだ。俳句自身が悪くないとすれば、それを祀り上げている書き手にこそその元凶を求める他はない。岩尾俳句、高岡俳句に注目すること。このことこそ、俳壇覚醒の第一歩につながると言っても過言ではなく、筆者の強い望みである。

※引用中の丸括弧はルビ。
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自由詩時評第207回 どこでもドアの先―橋本篤『どこでも小径 認知症回診日録』 駒ヶ嶺 朋乎 

2017年02月25日 | 詩客
 「認知症」、それは直面するまでできるだけ避けて通りたい問題であり、そうすると遠巻きに見ることになる。遠景からは物忘れ、徘徊、食事を終えたばかりなのに嫁が食事をくれないと言うおばあちゃん、などが見えるだろうか。現時点で有病率は65歳以上の10%(厚労省「みんなのメンタルヘルス総合サイト」から)ともされ、誰しもが介護や当人として関わる問題である。物忘れ、つまり一緒に過ごした時間があっても思い出が共有できないとすると、介護者は一人で空白の時間に取り残されるのか。その日々に成長はあるのか。目的指向性を持った日常生活とはかけ離れた悲哀が感じられる。
 しかし実際近寄ってみると、実に多様で示唆に富む。“健康となんら変わりない”ということが言いたいのではなく、時に健康だと思っている日々に忍び込む不思議な出来事を、認知症のほうの日常が解き明かしてくれることがある、と思っている。日常と非日常とのあわいに詩が生まれるというのか、介護者によるすぐれた詩を最近見かける。私は診療に携わって10年目の若輩医師・詩人として、そうした詩歌から学ぶことも大きいと日々感じているが、この度は脳科学者・神経内科医の岩田誠先生に教えていただき、認知症診療に日常的にかかわる橋本篤氏の『詩集 どこでも小径 認知症回診日録』(編集工房ノア、2016年)を読んだ。ここに描かれているのは橋本医師が40年以上に渡って診療にあたってきたたくさんの出来事を匿名化して再構築したいわば“症例集”である。

あんた 中村先生の息子さんだね
お父さんにそっくりだね
お父さん元気かい?

キクさんは
しゃべりながら
自分でうなずき
じっと私をみる
私は一瞬ためらう
どう答えたらいいのだろうか

(「楽しく悲しい人物誤認」 p.71-75)


 人物誤認とは「ある人物を本人と認識することの障害で、患者は未知の人を知っている、もしくは肉親や友人など既知の人を知らないといったり別人だと主張したりする症状である」(長濱康弘「認知障害としてのカプグラ症状」Brain and Nerve 神経研究の進歩 66巻12号2014年、紙上討論 村井俊哉・長濱康弘「人物誤認は妄想か錯覚か?」より)という。これには家族と瓜二つの別人が家族に成り代わっていると確信する「カプグラ症候群」や自己の分身が同時に他所に存在すると思い込む「自己分身症候群」などが含まれる。“勘違い”の範疇を越えて対人関係の中で到底あり得ない取り違えをしている状態は、認知症の方の話をよく聞けば、ありふれた症状である。「そこの奥さん!お茶を一杯くれないか/一人の女性がお茶を差しだしてくれた/中年女性だと思ったその人は/まだ小学生で あなたのひ孫ですと宣言した」(「私の家」p.12)もこれに該当するだろう。家族さえもわからなくなる、また、人と人との違いがならされて区別がつかなくなってしまうと思うと根本的なルールが壊されてしまう恐怖を感じるかもしれない。が、実際のところ、認知症にありふれた人物誤認に関しては、この詩集に取り上げられているように、礼儀正しくほがらかで、人としてつきあって行く上で取り違えていることをやっきになって否定するような根拠もみあたらないことが多いのである。他者と私との境界線はここでかき乱されるのかどうか。こんな時、「私以外私じゃないの」(ゲスの極み乙女。)と言えるのかどうか。“こちら側”の認識は、“あちら側”(仮定)との接触で揺るがされるのか、揺るがなくていいのか。迷い出すときりがない。極めて詩的な問いである。

私は死ねない身体になりました
永遠に 生の苦しみから逃れられないのです

先生 なんとか死ねる身体にしてください

えっ?

不老長寿の願いからすれば
何とももったいない悩みではないか
(中略)
コタール症候群がこの病気である

(「不死妄想」p.65-70)


 コタール症候群、Cotardが1880年に報告した症例では「魂も神も悪魔も存在しない。生きるために食べる必要もない、自然死もできず、永久に生き続けなければならない」(古川哲雄『ヤヌスの顔 第5集』科学評論社、2004年p.274「55. Cotard症候群」より)という様相を呈していたようで、なんとも不思議な精神状態だと思う。八百比丘尼ってこんな方だったのかもしれないと思ったり。珍しいように思うが、ご高齢の方のお話をじっくり聞けば、折々触れる機会もある。Cotardの報告は「否定妄想」で自分自身だという実感がないような点がひとつキー所見だと思うが、一般に、では自分の死の感覚などというものが実感できるものなのか。むしろ程度の差こそあれ、皆、薄いコタール症候群であると言えないか。でないと死が日常的に怖くて仕方がない。“メメント・モリ(死を忘れるな)”だといって、生活を律する宗教的教義があるとしても、誰しも避けられない死というものを四六時中意識していたら精神生活がままならない。もろい我々の精神を保護する目的として、あえてこのような仕組みを脳が持つのかもしれない。

鷲尾さんだけは違った
大部屋がいいの 多床室がいいのと
個室が空いても決して移らないのだ

そんな鷲尾さんの容体が
ある日 急変した
(中略)
看護師がとんできた
鷲尾さんお部屋変わりますからね
詰所のすぐ近くだから 安心してね
(中略)
鷲尾さんはつぶやく

個室には行きたくない
一人にはなりたくない
(中略)
そんな鷲尾さんだったが
移動中のエレベーターの中で
あっという間に息を引きとったのだった
(中略)
娘夫婦はひとしきり涙を流すと
もとの大部屋の住人たちに
お付き合いの礼を言いに部屋を訪れた

その時だ 私だけではない

鷲尾さんが
娘夫婦の横に 寄り添って
大部屋仲間に深々と頭を下げている姿を
周りの者 皆が 確かに見たのだった

(「大部屋がだい好き」 p.92-96)

 この詩では、“あちら側”を経験するのがもはや認知症の患者さんではない。残された医療者たちが、亡くなったはずの鷲尾さんをたしかに見ている。親しい人、思い入れのある人を失くした時に、どれだけの人が幻視(幽霊?)を経験するのか。配偶者を失くした293人への聞き取り調査で、実に137人(46.7%)が亡くなった配偶者の幻覚(幽霊?)を経験したとする論文があることを上級医から教えてもらった(Rees WD. The Hallucinations of Widohood. British Medical Journal 4, 37-41, 1971)。“存在を感じる”という人が最も多く、声を聞いたり姿を見たりするのがそれぞれ十数%ずつあり、10人に1人が会話ができると答えたという。看護師さんとの雑談では、時に“患者様を看取った急変部屋から、今日は誰もいないはずなのにナースコールが鳴った”といった類いの怪談っぽい話が交わされるものだが、患者さんと医療者も人間同士で、残された側は患者さんが残した時間の延長に、たしかに生きている。人間双方の思い入れが、そのような形となって、生者と死者との境界をも塗り替えられる時間を経験するのかなと思う。これまた、単なる幻覚だよ、当直・夜勤が見せた疲労の形だよ、とやっきになって証明する点が見当たらない詩的瞬間である。悲しかったんだね、寄り添ってくれていたんだね、と思う。
 「どこでも小径」はあとがきによると『ドラえもん』のどこでもドアからつけたという。医療者が認知症の方との触れ合いから知ることができる私たちの知覚・世界の不思議は、通常、症例報告として医師の間でひっそりと読まれるに留まる。本質的な描写が正確でないと、興味本位に実像から逸れてしまう危険があるからだ。この詩集は極めて実際の臨床像に近い。以倉紘平氏による帯の論にあるように、「作者は、この人間の不可思議に寄り添って、どこか高貴なものを見出そうとしている」と私も思う。普段はなかなか開かれないが、認知症の方によって容易に開かれる扉、その先がどこにつながるのか、寄り添って一緒に見に行けば、とてつもなく新しい世界が広がっていたりするのである。
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