「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩評 情報から人間へ-山田亮太『オバマ・グーグル』を中心として-     浅野 大輝

2017年04月23日 | 詩客
 今年1月、「シェルスクリプトマガジン Vol.46」(USP研究所発行)にて高橋光輝(HN:博多市)の連載「機械学習で石川啄木を蘇らせる」が最終回を迎えた。2016年5月発行の「シェルスクリプトマガジン Vol.38」で開始してから、計9回に及んだ連載だった。このなかで高橋は、石川啄木の「未完の短歌」を機械学習の力を活用して完成させるという非常に興味深い取り組みを行っている。

大跨に緣側を歩けば、 石川啄木

 啄木の「未完の短歌」は啄木の直筆ノートの最後に置かれていたものであるが、一般的な短歌の定型と照らし合わせた際には音の欠落が大きい(2句目までしかないように見える)ため、不完全な作品としてその存在が深く考察されることが少なかった。事実、現在出版されている多くの啄木歌集ではこの「未完の短歌」はないものとして扱われている。高橋は石川啄木という存在とその作品への強い関心から、この「未完の短歌」の完成を試みた。技術的な詳細は高橋の記事にぜひ当たって欲しいが、主に形態素解析[1]やN-gram言語モデル[2]の構築、マルコフ連鎖モンテカルロ法[3]、word2vec[4]、SVM[5]など機械学習の手法を用いることで、高橋は啄木の短歌を復元することに成功した。その結果得られた短歌は、次のようになったという。

大跨に緣側を歩けば、
 うしなひしをさなき心
 寄する日ながし。
 石川啄木(高橋による復元)[6]

 どうだろう。個人的には、縁側を歩く日常の何気ない所作のなかから幼い頃の心を失ってしまったという感覚を見出すのは、なんとも啄木的な気がする。何も知らなければ、普通に啄木の作品だと思ってしまうだろう。そのくらい高い完成度を持っていると、言い切っていいように感じる。少なくとも僕は、これをぱっと見せられたとき「機械学習によってコンピュータが復元した短歌」と判断できるとは、とても思えないのである。

 *

 山田亮太『オバマ・グーグル』は第8回鮎川信夫賞の最終候補作品に挙げられるなど、2016年6月に出版されてから現在に至るまで依然として強い関心を惹く詩集である[7]。

 0

私たちは知っている、誰も見たことのない、無垢の国家と、性の政治、そこにはもういない、大島渚のある風景を、私たちは撮る、メディアとしての替え歌が流離する、沸騰する、ふたつの言語で解体した風の島、アイルランドの詩魂、ロシア系の、アメリカ訛りの、私たちは数え上げる、地下室でシャンソンに身を投じるボリス・ヴィアンの個体性を、その危機の数を、(中略)

 10

白川静
藤田和日郎
中村佑介
森村泰昌
現代ピアニスト列伝
ポン・ジュノ
橋本治
田辺聖子
電子書籍を読む!
10年代の日本文化のゆくえ


山田亮太「日本文化0/10」


 言葉のうねりが非常に刺激的な一連だが、この一連を終えるとき読者は「*「ユリイカ」二〇〇〇年一月号〜二〇一〇年九月号(増刊号を含む)の目次を利用しました」という但し書に出会う。僕は、この但し書に度肝を抜かれた思いがしたのだった。
 詩集単位で読んだとき、この「日本文化0/10」は「現代詩ウィキペディアパレード」という作品の後に置かれている。「現代詩ウィキペディアパレード」も非常に挑戦的な一連で、「現代詩」を中心としたウィキペディアのページからの引用によって詩が構成されている作品である。ただ、こちらはタイトルから詩における試行がまず把握されるため、読者は最初から詩がテクストの引用によって構成されることを了解して読み進められる。それに対して「日本文化0/10」は、読み始めた時点ではいま自分が読んでいるテクストが「ユリイカ」の目次であるということはわからない。言葉に運ばれて詩の終着点に到達したとき、初めて自分を運んできた言葉の正体に気がつくのである。
 こうした後出しの衝撃とでもいえそうな手法は、詩集中では「私の町」などにも表れている。「私の町」というタイトルと緻密に描写された町の風景から、読者は詩の言葉が主体にとって既に近しい町を指していることを推測するが、「岩手県山田町/訪れたことのないこの町のすべてを/私は知りたい」という最後の3行で読者の想定は覆される。それまでの想定が突然覆った宙ぶらりんな場所で、「私は知りたい」という言葉が切実な願いとして響いている。
 表題作「オバマ・グーグル」は「現代詩ウィキペディアパレード」と同様、はじめからテクストの引用というギミックの存在を読者に把握させる詩であろう。

バラク・フセイン・オバマ・ジュニア(英語:Barack Hussein Obama Jr.、一九六一年八月四日-)は、アメリカ合衆国の政治家。第四四代大統領。・・・オバマは、アフリカ系の姓。ルオ族などで見られる・・・政党は民主党。選挙により選ばれたアメリカ史上三人目のアフリカ系上院議員(イリノイ州選出、二〇〇五年-二〇〇八年)。二〇〇八年アメリカ大統領選挙で当選後、任期を約二年残して上院議員を辞任した。・・・たった一四分間のこのスピーチには、キング牧師やケネディ大統領のスピーチを十分に研究した構成、候補者数名と大統領選挙を見越した戦略性、そして浮動票に訴える強いメッセージ性のすべてが入っていてうならされます。・・・(後略)
山田亮太「オバマ・グーグル」


 Googleで「オバマ」を検索し、その結果上位100までに表示されたウェブサイトからのテクストの引用で形作られた本作は、情報の膨れ上がる現代に対してキュレーションによる詩の生成を試みている。「現代詩手帖」2017年4月号に掲載された鮎川信夫賞選考の対談では、吉増剛造が註の番号や言葉の韻律など本詩集が持っているリズムを「運動態」「呼吸」などの言葉を使って支持しているが、僕としてはそれに強く共感を覚えた。「オバマ・グーグル」は詩集全体の3分の1程度という長さを持つ作品であるが、そのすべての文ないし文章に出典元を示す註の番号がふられているさまは、まるで細かく節をふられた聖書のようでさえある。丁寧にふられていく註番号や引用の文言の選択に人の息遣いや手の動きを感じるとしたら、そのテクストは確かに詩を形成していると言っても良いのではないか。
 一方、対談中で北川透が本作について「既成の作品概念とは異次元の試み」「これは詩的行為なのか、非詩的行為なのか」と疑問を提示しているのも、重要な観点だろう。ゼロからテクストを生成する詩に対して、「オバマ・グーグル」は既存のテクストからテクストを再構築することで詩を立ち上げようとする。その試みは情報の羅列と紙一重でもあるため、テクストを再構築する者の呼吸を詩行から逃さないように注意深くあらなければ、途端に情報の側に取り込まれてしまう危険性もあるのである。

 *

 コンピュータ自身が創作を行うことは可能である--そうした認識を持たせるようなニュースは、ここ数年で激増しているように思う。例えばオスカー・シュワルツとベンジャミン・レアードの二人は、人間の書いた詩とコンピュータの書いた詩のどちらか片方を表示し、その作者が人間かコンピュータかをジャッジする「詩のチューリング・テスト」のための「bot or not」というWebサイトを開設した。2013年から始まった彼らの試みでは、およそ65%の人間が、作者がコンピュータである詩を見抜けなかったという。また一方で、名古屋大学の研究グループは2013年よりコンピュータに小説を書かせるという研究を行い、実際に「星新一賞」に応募した。コンピュータは既にある知識から未知の知識を分類・学習し、非常に「人間的」な活動を行うことができるようになっている。本稿冒頭で挙げた高橋による機械学習のプロジェクトも、こうした文脈に位置付けられるだろう。
 コンピュータが「人間的」な詩を作るようになるとき、詩人はどう生き残っていくのか。その一つの方法が、山田が「オバマ・グーグル」で見せたキュレーション--情報に対する積極的なアプローチによる詩の展開ではないだろうか。従来非詩的とされてきた単純な情報にむしろ詩を肉薄させてみて、拭いきれないものや捨てきれないもの、手放してはならないものを改めて掴み直すこと。そこから、新たな詩と人間のあり方を模索すること。
 詩人はいま、さらなるアップデートを求められている。







---参考文献---
高橋光輝「機械学習で石川啄木を蘇らせる」(「シェルスクリプトマガジン」、Vol.38-Vol.46、USP研究所)
高橋光輝「機械学習で石川啄木の未完の短歌を完成させる」(「SunPro会誌2016」https://sunpro.io/c89/、2017年4月15日閲覧)
山田亮太『オバマ・グーグル』(思潮社、2016年)
「現代詩手帖」2017年4月号(思潮社、2017年)
中家菜津子「自由詩時評第188回 鳥瞰図、あるいは未来予想図として 山田亮太『オバマ・グーグル』を読む」(http://blog.goo.ne.jp/siikaryouzannpaku/e/7f5e35819e453c615707bfe32458d6eb、2017年4月15日閲覧)
オスカー・シュワルツ「コンピュータに詩は書けるか」(https://www.ted.com/talks/oscar_schwartz_can_a_computer_write_poetry/transcript?language=ja、2017年4月15日閲覧)

---註---
[1]大雑把に言えば、文章を意味のある単語レベルに細分化する解析手法。
[2]ある単語が出現する確率がその単語の直前のN単語によって決定すると考える言語モデル。
[3]ある時点で状態遷移が起こる確率が、現在もしくはそれより前の状態によって左右されるという性質をマルコフ性という。マルコフ連鎖モンテカルロ法は、マルコフ性が成り立つ状態遷移の遷移経路をシミュレートする手法。
[4]本当にざっくりというなら、単語をベクトル(数値の集まり)に変換する手法。
[5]サポートベクトルマシン。これも時評子にはざっくりとした説明しかできないが、すでにある2種類のデータを元に未知のデータを分類・学習するため、2種類のデータの境界面(識別面)を決定する手法。
[6]ちなみに、「シェルスクリプトマガジン」連載以前に高橋が「SunPro会誌2016」で復元した短歌は「大跨に緣側を歩けば、板軋む。/かへりけるかな--/ 道廣くなりき。」というものだった。高橋は今回の結果についても「環境や乱数によって生成される短歌が異なる可能性があるので、これが唯一の回答というわけではありません」と前置きをしていることに注意して欲しい。
[7]「詩客」自由詩時評第188回において、中家菜津子も本詩集を取り上げて論じている。こちらもぜひ参照されたい。

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自由詩時評第210回 佐峰 存

2017年04月16日 | 詩客
 今という時間を咀嚼する上で私はまずは詩を読むことにしている。言葉の海を高速度で進み、目を引く表現で止まり、ゆっくりと感じ取る。これらの表現を解きほぐしていくと、語り手のみならず読み手の私にとっても例えば実生活を通じて切実に思っている視点・情景が実のように膨らむことが多い。私の実感として、現代の私達は個々人の主観的な意識の希求と、時代の齎す生き方の間で大きな乖離が生じている時間を共有していると感じる。一昔前まで私達の身体や脳が想定して来なかった徹底的な情報化社会 ― 私達は既に禁断の実を口にしているのかも知れない。そんな時間の中で“生”はどこにあるか。まずは情景豊かな尾久守侑氏の表現を見てみたい。

 《心臓からシュレッダーに吸い込まれ、時間のない夜のなかで眠りから/目覚める。歪んだ液晶がみだりに機密を消去していく。/…/零時の鐘がなる/それからとても/しずかな時間がきて/ホットコーヒーをひとくち/飲んで誤嚥すると/シャツの袖をつかむ/青白い顔の少年が/しきりに絵本をせがみ/聞き慣れぬ物語を/朗読してどれくらい/経ったろうか/最後のページに書かれた/うらみにおもうなよ/と云う台詞をよむとき/僕の口から/みしらぬ異国の言葉がこぼれた
(「ブラック・イン・ブラック」、『国境とJK』、2016年、思潮社)



 長い一日を職場で過ごしてきた。語り手は「心臓」に負荷をかけながら命を削って働いている。際限のない労働時間に密かに蓄積され、密かに「消去」されていく「機密」は語り手の内心だ。「みだりに」という言葉に、技術と共に模られた現在の状況に対する強い違和感を読み取れる。やがて ― 周りの同僚も帰り出したのだろうか ― 語り手が自身のペースで息の出来る「しずかな時間」がやって来て、語り手の無意識が投影する「青白い顔の少年」が現れる。少年は中原中也の作品「幻影」で手を動かすピエロのように絵画的な雰囲気も醸し出しつつ、子持ちであろう語り手の感じている後ろめたさを体現する。いくら立派に働いているからといって、罪悪感がなくなる訳ではない。罪の意識は主観の真空から発生し、それ故の重みを持つ。そんな息苦しさの中で、しかし「言葉」自体は空気穴として希望を孕んでいる。それは最後の拠りどころかも知れないが、幸いなことに「みしらぬ異国」と呼べる程度に広大な領域だ。
 言葉は既にある情景を表すこともあれば、それそのものが情景の細やかな形状を整えることもある。次に取り上げる手塚敦史氏の言葉には、言葉が存在しなかったら存在し得なかったであろう、血の通った心情が流れている。

 《わたしは明日/集まる陶器の皿の上、指さきを這わせ/動物のかたちをしたものの/その中身を知ることとなるであろう/(みずたまり、みずたまり、…)/こちらが乾いていることこそが、ほかの何も映さない/光の微生物へ届けるシラブル、文字/あれは/結露のある向こう/その肩と、黒い肩ひもを露わにする
(「季節のためのエクリ(同棲)」、『1981』、2016年、ふらんす堂)



 この語り手はこれから始まる同棲生活への期待に満ちている。他人という存在は、結局は水分に溢れているのだ。語り手は自身には強い生命を感じ取っていないが、同棲相手の齎す「動物のかたちをしたもの」には明瞭な鼓動を覚えていて、それと対峙しようとする。その「中身」の「みずたまり」に全身で飛び込むこと。それには「こちらが乾いていること」が重要だ。語り手は自らを“負”として捉え切った上で、“正”である相手を肯定し切ることに存在の悦びを見出している。両者を繫ぐのは他でもない「シラブル、文字」で、言葉があるから「その肩と、黒い肩ひも」の瑞々しさに浸ることが出来る。浸透作用 ― 乾いたところに水分はやって来る。自己中心的であることが推奨さえされている現代の資本主義社会において、“他者”という存在の本来的な大切さが示されている。
 手塚氏の表現とよい意味で対照的なのが荻野なつみ氏の表現だ。

 《もうなくしたもののため/ひとはひとの水脈に添う/…/その軌跡のはるか底に/ねむるいくつものあしさき//在ることのかなしみを/くるぶしに溜めて/わたしの舌を待ついのちの/遠い水を巡る/窓のそとには/しずかに/しらじらと/金星が死んでいく
(「水脈」、『遠葬』、2016年、思潮社)



 この表現では、水分が語り手の方にある。語り手は一種の達観のもと、普遍的な「ひと」の輪郭を凝視している。静謐な、幽体離脱した視座から、ひと同士を繋いでいる「水脈」を追う。「いのち」は水に込められていて、天体規模で「死んでいく」世界に唯一の救いのように流れている。生者も死者も違わない形で有している「あしさき」 ― それは生と死の間の身体的な緩衝地帯、架け橋とも言えるだろう。対し「」は生者の湿りを体現する器官だ。語り手は生者として生も死もひっくるめ沈み続ける世界に自ら水分を与えていく、そんな気概に溢れている。
 “わたし”と“あなた”が相互に水分を与え合う関係になったとき、どのような情景が見られるだろうか。山崎修平氏の表現に一つのあり方が提示されている。

 《死んでしまったロックンロールについて僕は知らないし何故死んでしまったのかも分からないけれど指先で触れて確かにここに存在した事その温度を確かめてみたいと思っているのだ例えば昨夜の暴風雨でなぎ倒された樹木の表皮は割れて白墨を燻らせたような色をした内部は剥き出しになっている/ 指先で触れると湿った土が付着しズブズブと六ミリ程弾力がある内部へと指は進んで行く/ 君は何故か唇を確かめるように真一文字にして感情を零さないように指先を枝の内部へのばし僕の「共犯者」になる
(「ロックンロールは死んだらしいよ」、『ロックンロールは死んだらしいよ』、2016年、思潮社)



 表現は身体性に満ちている。そして身体が語られるということは、魂も語られるということだ。「ロックンロール」という魂の残した「温度」を語り手は「」と共に「指先」で確認する。比喩が生々しい。木の「剥き出しになっ」た「内部」は、どこまで語っても語り尽くせないヒトの肉体であるとも言え、そこに語り手と口を「真一文字に」した「」が“おそれ”さえ抱きながら運命共同体として踏み込んでいく。彼らが確かめようとしているロックンロールは、“愛”という肯定的な言葉のみでは回収し切れない躍動そのものであって、喪失感を漂わせつつも、「死んでしまった」どころか、大きな生に満ちている。
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自由詩時評第208回 万華鏡、あるいは「生」の更新 山腰 亮介

2017年03月08日 | 詩客
 書くことのなかには読むことが含まれ、また読むことのなかに書くことは含まれる。書くとは、まだあきらかになっていなかった未知の私に出会うことであり、読むとは他者とのかかわりのなかに既知と未知を見いだしながら、それらとの感応のなかに、私自身を見いだしてゆくことである。
 瀧口修造から、アンドレ・ブルトンから、シュルレアリスムから私が学んだことは、他者との応答のなかで、私は私に出会い、私を更新してゆくことができる、ということだ。
まだ肌寒さの残る自転車での帰り道、沈丁花の香りに気がついて、その名を教えてくれる友人。飛び交う猫にあふれる絶壁の町(横浜という町はすこし外れに足を向けたとたんにまるで違う光景に出会える)。ふと路地裏を覗くと、そこだけが過去に取り残されたかのように浮かんでいる、ちいさな看板。夕暮れを飲みこむ山まで続いていく電柱、何頭もの牡鹿が角をぶつけ合ったまま硬直したかのような銀杏の樹々をたどって歩くとき、私は私のなかの既知と未知とが、せめぎあいながらも、同時に変化してゆくのがわかる。他者とはかならずしも人である必要はない。私はいたるところで、さまざまな他者と出会う。
 このように書くとき、私のなかには通り過ぎていったいくつも他者が私のなかに住んでいることを思う。私の書くものとは、たえず私と世界との往還のなかから生まれてきただろうし、これからもそうして生成されてゆくだろう。
 ブルトンが『ナジャ』の冒頭で投げかけた「私は誰か?」Qui suis-je?という問い(フランス語原文では二つの読み方ができ、「私は誰を追っているのか?」とも読むことができる。詳しくは巖谷國士訳、岩波文庫版の訳注参照)は、そのような絶え間のない、鏡合わせの応答のなかにある。
 『現代詩手帖』2017年3月号の特集「ダダ・シュルレアリスムの可能性」を読み、そこに見いだすことは、このような応答へとシュルレアリスムはたえず開かれていて、私たちを誘いかけているということだ。ブルトンは問いを投げかけながら、同時にその答えを示す人であった。だが、それはデジタルな、あるいは一問一答的なものではなく、万華鏡のように姿を変えてゆく、「痙攣的」なものなのである。
 昨年末におこなわれた座談会と朗読によるイヴェント、「サクラココレクション・アワード2016」にて入手した詩誌『くたばれソレイユ』は、タイトルが詩誌全体を結びつけながらも、ひとつの答えには回収されない問いの力をその表紙から予感した。装訂を担当する金澤一志によるものだろう、表紙にはすこし枠のゆがんだオレンジ色の円が灰色のなかに灯っていて、タイトルから太陽を連想させる。だが、どこか果実のようでもあり、染みのように浮かびあがる斑点は、月のクレーターのようにも見え、さまざまな読みを誘う。
 このような複数の読みは、タイトルからも可能だ。「くたばれソレイユ」という言葉は、太陽を否定するものであると同時に、否定によって、眩すぎる太陽の光の強さを逆説的に示しているともいえる。そのような二重性を意識しながら各詩篇を読むとき、編者である榎本櫻湖をはじめ、望月遊馬、石松佳、杉本徹、萩野なつみ、カニエ・ナハのそれぞれの詩篇が、各々タイトルの言葉に応えて執筆されているのではないか、という推測が成り立つ。あるいは、タイトルの持つ書物を束ねる力が、各々のテクストを受容する者の読みに方向性を与えていると解釈しても良いかもしれない。各詩篇に登場する「明け方」、「」、「金星」、「地球」や「天球」といった言葉たちはタイトルや装画とアナロジーを結んでゆく。
 ここでは望月の「ハムスター語録」に焦点を絞ることにしよう。この詩は、とあるハムスターの実験者が、夢想状態のなか、過去を回想してゆくものである。彼は自らの棲家の外側を感覚しながら、眠りにいたる経緯や、記憶をゆめうつつな状態で想起する。まるで彼の身体の延長であるかのように、室外の雨の様子が内側まで伝わってきている。ハムスターというちいさな生き物の見ている世界を想像するとき、その世界のスケールは相対的に大きくなる。このスケール・チェンジは、書物自体が身体の、あるいは世界の入れ子であることをより顕在化させている。童話やお伽噺がしばしば世界の入れ子として機能するのは、このスケール・チェンジの魔術が一因として挙げられるだろう。過去の記憶は、「おばあちゃんのネックレス」というオブジェのなかに圧縮され、オブジェはアナロジーによって、さまざまなイメージと出会いながら、その意味を更新してゆく。

[…]ぼくのためにペチュニアの種をくれたおばあちゃんが大切にしていたネックレスを壁にかざってしんとして眺めた、おばあちゃんは足腰が悪くてあまり動けなくなってからもぼくのためにペチュニアの種をあつめてくれていたんだ、ぼくは巣穴で踊りながらそれが最期になるような星をかきあつめたい、そうしておばあちゃんのネックレスのように星と星をつないで夜空に描きたい。おばあちゃんが星になった日にぼくの巣穴のまわりは花畑になって、もうこれですべてがさよなら、はじまりのさよならなんだよってぼくはひまわりの種をお墓のまえにたくさん捧げて泣いたんだったかな。

 涙もすでにオブジェと化し、そうしてまた別のイメージへとやがては更新されてゆくだろう。ぼくらの窓には、もういくつもの花々と予感とが満ちている。
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自由詩時評第209回 ちんすこうりなセカンドバージン詩集『女の子のためのセックス』編集記 平居 謙 

2017年03月05日 | 詩客
はじめに 
1 「堕ちること」で見える風景
2 不可視の領域を認めつつ、人へ
3 人の切なさを知っているから 
おわりに



はじめに

 この連載では、和合亮一『詩の礫』論を皮切りに、その時期その時期にもっとも気になった詩集を取り上げ論じてきた。実のところ、連載の依頼を受けた2014年秋ごろまでの数年間は、「現代詩」の世界全体にあまり魅力が感じられなくなっていて、小さな詩集評のようなものさえ書かなくなっていた。また生活のためということもあって、村上春樹や尾田栄一郎『ワンピース』についての本を、身体を売るかのようにやたらに書き飛ばし続けていた時期でもあった。だから、新しい詩集について本格的に連続的に論じるのは新鮮で楽しい作業だった。草間小鳥子・谷川俊太郎・阿賀猥・小川三郎・最果タヒ・吉田稀・大木潤子・草野理恵子らについて論じた。それぞれが極めてエキサイティングな出会いであった。
 1つだけ悔いが残るとすれば、第1回目の連載の最後に「次回は和合亮一『廃炉詩篇』を論じる」というような予告をしたにもかかわらず、それが果たせなかったことだ。実際、もう清書すればよいというところまでそれは書き上げられつつあった。しかし、いざ掲載しようという段になって、ある一人の女性の「和合亮一論」を偶然に読んだ。そして僕は驚いた。それは短い論だった。しかし、僕が一旦自分の中で完全否定した和合亮一という詩人を、長々と苦労し弁護しながら再評価しようとした『詩の礫』論を、ほんの一瞬で乗り越えていた。それは和合の致命傷を直感的な言葉で言い当てるものであった。僕はすべて諒解した。それで僕は『廃炉詩篇』論を破り捨てた。最早そんなものに構ってはいられないという気がしたのだった。その女性というのが、ちんすこうりなだった。
 彼女は詩人で、身体で感じ思想する方法の貫徹者だ。その方法によって掬い取られる世界が、常人には見えない美しいものであるということは長く信じてきたけれども、ここまで透み切ったものだとは思いもよらなかった。僕は彼女のバージン詩集『青空オナニー』を2009年に編集した。そして2016年の晩秋に新しい詩集の原稿を彼女から受けた。自分自身が編集途上の本について批評するというのは「宣伝」にも紛うので、本来は避けるべきだろう。しかし僕はそのタブーを連載の最終回に免じて犯してみたいと感じるのだ。また、よく言えば「編集」の立場からしか見えないものもあるだろう。それでセカンドバージン詩集『女の子のためのセックス』編集記をこの連載の最後に充てることにした。
 原稿を受けて一挙に読み進めて僕は彼女の成長を思った。先の『青空オナニー』の中にあるような、爽やかで軽やかな感覚はそこに消えていたが、読む者を黙らせてしまうような重みがそこにはあった。ひとが成長する中で、軽やかさを手放すことである種の余剰を体に蓄え、それが柔らかな美しさを形成してゆくのと同じような意味で、
 詩集は一回り厚みを身に纏っていた。少女の「軽やかさ」と引き換えにちんすこうりなが身に着けたもの。それは「得体の知れない自由思想」だった。
 詩集を読み通せば明確なように、彼女はその「得体の知れない自由思想」を、数多くのセックスの体験を通して手に入れてきた。しかもそれらは、ほとんどは二度と会う事のない、一度きりの出会いも含めた、世間から言えば「不埒な出会い」に分類される。だが、僕は世間のその「非難」を正当なものだと思わない。「世間」というものは、たとえば格闘家の極端なトレーニングとか、荒行を行なう修行僧のような存在に対して「なんだってあんな無茶をやるんだ」と、いつだって眉間にしわを寄せて否定する。そしてちんすこうりなが第1詩集以降貫いてきた行為は、それらと同じ領域にある。決してフツーの人が辿り着けないところ。書物からは得ることのできないもの。ひとつの生き方を貫くことで、常温からは突き抜けた絶対温度のようなものを手に入れるところまで、その沸騰は到達している。
 以下、詩集に収める予定の作品について、紹介をこころみよう。

1 「堕ちること」で見える風景

 詩集冒頭に配した「詩」という作品。暴力という言葉が読者の目を惹きつけるだろう。

わたしにとって/すべては暴力で
わたしは/すべての暴力を/受け入れる
そして/なにものも/わたしを/傷つけることはできない


バージン詩集『青空オナニー』は、既述のように爽快に放たれた恐れ知らずの宣言であった。彼女はその後、世間が仕掛けてくる反撃に対して「詩」で以て身を守ったのだ。そういう強さが、新しい詩集の中には頑として存在している。その意味で僕はこの作品を冒頭に配した。この一篇だけによってでもこのセカンド詩集『女の子のためのセックス』は人々の、特に愛を真剣に求め続ける女の子たちの記憶に残るだろう。
 彼女自身の謂いによればこの「わたし」というのは「詩」のことであって、どんな風に定義されても受け入れる詩というジャンルそのもの強さを言ったらしいのだが、それであればなおさら僕はこの詩を彼女の生きる宣言のように読む覚悟がさらに強くなる。なぜなら彼女は「自分自身が詩」だと言い放っていることになるからだ。
 続いて「バイバイ」という作品を置いた。冒頭が衝撃的だ。

お金で買われるのは気持ちいい
同じように並んだ女の子の中から/選ばれて/外へ抜け出す
シンデレラのような/高級な売春婦のような/気分で
昔から恋人だったかのように/手をつないで/風をきって歩く


 かつて援助交際が「流行」したことがあるが、ちんすこうは「お金で買われるのは気持ちいい」と堂々と宣言をする。颯爽と彼女は歩くが、その心の中のシンデレラはメルヘンの住人ではなく高級な売春婦に他ならない。「バイバイ」は可愛い幼児語「BYE BYE」にも見えるが、実のところ「売買」であり、それは性の売り買いを意味するのだ。ここで図式的に倫理や愛の不在を論じす者がいるとすれば、それは価値判断を他人任せにする卑怯者であり、「バイバイ」という詩を頭から否定してしまう読者は、芸術の何かを知らない大ばかな人だ。ちんすこうりなは次のように言い放つ。

そんな/たくさんのホテルの中の一つに/入るまでの時間が/一番好き
ホテルを出て/バイバイする時が/二番目に好き


 この感覚はおそらく、それ自体が世間と一定の距離を置くことで辛うじて存在している「詩」や芸術といった僻地の世界でなければ受け入れられないだろう。けれどもそれは開き直りとか露悪とか言ったレベルではなくて、彼女の真の信仰の姿なのだということが僕には理解できる。彼女はもう会うことのない相手、すなわち自分にとっては利害関係が存在しない相手のために、優しく祈るのである。

お互いが/同じくらい/同じ気持ちで/想いあう
もう会うことのない/一度体を重ねただけの/相手の幸せを
その瞬間/優しい気持ちで祈る//バイバイ


新約聖書には「汝の敵を愛せよ」とあるが、本当のところ人が祈ったり愛したりするのは、自分にとって大切な人のことだけに過ぎない。しかし、ちんすこうりなは、二度もう会う事のない相手のために祈る。「バイバイ」はアーメンにも似て気高い。だからこそ彼女は、常人とは異なる世界にずぶずぶと足を踏み入れてゆく。さらには、自分のことだけではなく、自分と同様の心的境遇で生きる他者に対して、包み込むような視線を送ることが彼女はできるのである。彼女は21世紀に現れたお金で買えないマリア様だ。
「いずみさん」という作品の最終部にも、そういう異なる世界へ向かいたいという呟きがある。

いずみさん円山町に行けば/あなたに会えるの
壊れたマンコをワンピースの下に剥き出して/ぽっかりあいた月を見上げて/待ってるふりをしてる
赤い口紅を塗りたくった性器で/けらけら笑って吐いてるの
/いずみさんいずみさん/わたしも千円でいい/愛がないならお金をとらなきゃ
/まばたきとまばたきの間に/わたしが沈んで/あ、/堕ちたい

(「いずみさん」最終部)


 愛は麻薬のように次々に新しい刺激を求めさせる。しかし、世間から言えば「悪いこと」と呼ばれる。彼女はそのくらいのことはよく知っていて、自分の居場所を「片隅」だと表現する。第1詩集『青空オナニー』の無条件解放感は薄れているが、僕はそういうところも、この詩集の中に見られる成長点の1つだと思う。
      
片隅

誰もいない/公園の/駐車場/月明かり/手をのばしたら/始まる/してはいけないこと
しては/いけないことを/するのが/好き/昔から/ずっと/そうやって/きたの/し続けて/きたの
だから/もっと/悪いことを/したい/もっと/悪いことを/しなければ/いけない/してやりたい
そんな/つまんないこと/忘れるために/もっと/もっと
(全文)

 ちんすこうりなとは時々詩の批評で会ったり、たまに電話で喋ったりするくらいだが、明るい声の裏側に、いつも悪戯っぽい彼女の笑顔が見え隠れしている。どんなこときでも彼女の頭の中は冒険で溢れているのだろう。自分の好きな自分でいるということ。そのことが彼女にとっての最も大切なことなんだなと僕は想像する。
 
2 不可視の領域を認めつつ、人へ
 
 前節「堕ちることで見える風景」で、彼女の見た風俗世界について覗いた。しかし彼女が見るのは「目に見える風景」だけではない。見えない領域もきっちりと描き出してくる。そこが詩だな、と思う。最も分かり易いもので言えば例えば次のような部分がそれにあてはまる。

東京、/アスファルトの下に
土が埋まってるなんて信じられない
  
(「おっぱぶ2」部分)


 ここには2つの「見えない」が複雑に絡み合っている。1つは土がアスファルトによって「見えない」こと。もう一つは、「アスファルトの下に土が埋まっているかどうかなんて、誰も考えもしない」ため、その問題自体が「見えない」ということ。けれども、詩の中の女性は

ハイヒールのかかとを/すり減らしながら/すり減らされながら/元通りになることはなくて
あられもない/かつかつという音を/ごまかしながら歩いて行く
 
(「おっぱぶ2」最終部)


 というように、アスファルトをハイヒールでかつかつ突き、「土の不在」の問題を考えることをごまかしながら通ってゆく。ごまかす、ということは、意識して目を伏せることである。詩の人物は、アルファルトの下の土を「見ない」ことに意識的である。

渋谷駅から股が割れて尿が流れる/あみだくじの一本はラブホテルへ通じる
コンクリートの下は腐っていてたまに異変に気づく/ラブホテルがひしめいて扉を開けると
部屋がひしめき102を開けるとやはりひしめいている/彼女のしたは真っピンクな嘘
本当は嘘のない世界に行きたいという嘘もう何が本当で何が嘘か考えるのやめた
銭湯上がりの爽快さで道玄坂を一気に下る!
セックスの後にラーメンを食べたいのはお腹がすく以外の理由があると思うんだ
欲望にのまれて流れついた流木が亡霊みたいに立ち並んでる

(「宮益方面は知らない」部分)


 ここでも前の詩と同じように、「コンクリートの下は腐っていて」というように、ちんすこうりなは物事の根元に眼を向けるということをする。表面が綺麗でも裏側は腐っている。彼女の目のつけどころがはっきりと分かる。見かけが恰好良い男でも中身が全くないとか、豪華な服を着ているが卑怯この上ないとか。多くの男と抱き合うことで、裏側への目線が養われたのだろうと僕は推測する。もちろん推測でしかないが。翻って後半の「セックスの後にラーメンを食べたいのはお腹がすく以外の理由がある」は、これは認識や目線のレベルを超えて、もはや謎の領域に嵌ってゆく。
 僕ならば、「セックスの後にラーメンを食べたいのはお腹がすく以外の理由がある」こと自体を詩にするだろう。詩中、「彼女」が出て来るが、そんなものさえ切るだろう。何だか、考えたこともない、不思議な世界と理論とに必死になって、奇妙な世界を目指すだろう。 突然そんな風に自分自身の詩法について考えながら、「ああ、ちんすこうりなはそうなしないのだな、そしてそれが彼女と特徴であり、特長なのだ」と改めて気づいたのだ。
 ちんすこうりなの詩の中にはたくさんの人々が登場する。風俗業に勤める女のコだったり、初めて出会ったばかりの男だったり、センセーだったりする。そして、彼女が描くのはそれらの人々との丁寧な出会いと別れなのだ。
 詩集中で僕の好きな詩に「そんな終わり」という作品がある。そういえばその中で「ていねい」という表現を彼女は使っていた。「そんな終わり」は、別れることになった男女が、お互いが貸し借りしていた漫画を「一冊一冊/ていねいに/紙袋に入れていく」だけの詩なのだが、「世の中にはそんな優しい終わりもあるのか」と心が和らぐのだ。前節で引用した「バイバイ」の終わり方にも同じ思想が現れている。

マンガ、返さなきゃ//会うたびに/貸したり/借りたりした/大量のマンガ
汚さないように/本棚の上の方に並べてある/長くそこにありすぎて/すっかり/馴染んでしまった
…(中略)…一冊一冊/ていねいに/紙袋に入れていく/おもしろかったね/お互い知っていくみたいで
//(純情な話だね//(相変わらずえろいね
       
(「そんな終わり」部分)


 詩集最初の方に配した「始まりや終わり」は、とても物悲しい作品である。大阪にある阪急東通り商店街が舞台である。酔ったサラリーマンが土下座している。酔っ払いの世界では、それほど稀な光景でもあるまい。しかし、語り手はそれを見逃さない。そして「私は/ホテル代を払い/男に体をあけわたす想像をする」。かなり突飛な連想だが、それは男が「救われるかもしれない」と思うからだ。この詩の最後は「出口が見えるまでのあいだ/少しだけいのる」とある。ここにも救済のマリアが佇んでいる。
 そのほかにも、決して忘れることのできない先輩(彼女も女性で、詩中の語り手は初めて身体の関係を持つのだ)や、ようこ、愛子ちゃん、ちひろ、いずみさんなど沢山の名前も登場する。
 ちんすこうりなは、古の幻視詩人と同様に「見えないものを見抜く力」「不可思議な領域への直感」を持ち合わせながら、主な興味は他者との関係という一点に集中している。形而上性を超えて(・・・)、人事に心を砕くのである。

3 人の切なさを知っているから
  
 どうしてちんすこうりなは、人を描くのだろうか。それは、彼女が人の切なさと淋しさ、そしてそれを基盤にした喜びを知っているからに違いないと僕は思う。それがこの詩集の収穫であって、すなわち第1詩集『青空オナニー』からの成長点なのである。
 たとえば彼女は、愛情が消えてゆく瞬間の目撃者だ。彼女は「男って/射精した瞬間愛情の一部も/流れていくらしい」という妖しげな情報を本か何かで読んで知っている。しかし、ある日それを実体験する。体験をちゃんと言葉に置き換えることができるということは、何と素晴らしいのだろう。同じような体験を持つ男女は沢山いても、その経験や印象を綴れるひとがそれほど多いとは思えないのだ。

私の頬に出した/あたたかい精液/じっと見つめたあとで/申し訳なさそうにふいてくれた
子供になったような/くすぐったい気持ち//本で読んだんだけど/男って/射精した瞬間愛情の一部も
流れていくらしいね//だから/あなたの横顔は哀しそうなのか

(「射精」)


 また、淋しさは相手だけではなく、当然自分自身のものでもある。さまざまな相手と身体の関係を持つということは、数多くのリスクを持つ可能性が大きいが、もはや自分が「本当に大切で守ってあげたい/たった一人の女の子になることはない」と直感してしまったとしたら。おそらくはそれが一番の大きな悲しみであり淋しさであり、最大のリスクに違いだいだろう。そういう危機感をユーモラスな表現の形で描き出すだけに、より一層、しんとした静まり返った気持ちにさせられてしまう。

ちんちん舐めてたら/ちんちん、好きなんだね、/とあの人は言った
本当は/好きな人のだけ、好き、と言おうとしたけど/うん、とだけ
それから/あたたかさの中でこう思ったんだ/私はもう二度と
本当に大切で守ってあげたい/たった一人の女の子になることはないんだって

(「ちんちん」全文)


 本当に切なくて涙が出そうになるが、おそらくは、数多くの男と身体を重ねつづけるとこのような思想にたどり着くのは想像に難くない。ただそれは想像であり、想像に過ぎないので、僕は一切口を挟むことができないでいる。
 その意味で彼女の体験は特殊なレベルなのだと敬意を払う。
 人の淋しさを知るということは、想像を絶するような発想の高みにまで達する場合があることを「一番幸せだったとき」の最後の部分で読者は知ることになる。大学4年生の時、タイにバックパッカーを気取って旅行した彼女はあるツアーでレイプされる。

その夜私は襲われたのだ//小屋の中は真っ暗で/誰が隣にいるのかもわからなかった
ただ/男のごつごつした手が/私の体をまさぐった/その/純粋で無邪気な性欲を
受け止めながら/嫌じゃないなと思った/息をひそめて/可愛らしいとさえ思った
…(中略)…
本当に本当に幸せだったんだよ
         
(「一番幸せだったとき」部分)


 何と言えばよいのか、淋しさを知った者の余裕とでもいうのだろうか、既に繰り返し本稿で触れた「祈る」という行為にも似た、他者への理解。レイプする男の性慾を「純粋で無邪気な性欲」と感じる感性。最後の「本当に本当に幸せだったんだよ」の「本当に本当に」というリフレインに原始の歓喜とさえ言うべきものが滲み出ているのだ。
 他者に向ける目は、詩の語り手だけが持つわけではなく、客観的に描き出される友人もまたその視線を所有している。もちろんそれは視点人物が持ち得ているからこそ抽出できるものなのだが。

AV女優になるために/東京に行ったようこは/マンコ壊れたって言って帰ってきた//笑ったら/
涙がでた//ようこは/可哀想な人に/微笑むようにするのが上手くなってた
 (冒頭部分)

 この詩集には、何ページにも渡る長い作品と、1ページで終わる短い作品が含まれている。僕は次の「ロマンチック・メモ」は短いタイプの典型でもあり、ちんすこうりなの純粋さを如実に表す良い詩だと思う。

ロマンチック・メモ

あなたの瞳に映るわたしが好き
自分の好きな自分になれるから
わたしの瞳に映るあなたもそうだといいな
  (全文)

さいごに

本詩集『女の子のためのセックス』の表題作の中で、ちんすこうりなは繰り返し自由と孤独とについての言葉を吐き出す。詩集最後に置かれた表題作の中で彼女は次のように書く。

彼女は自由
自分のためのセックスをしているから
それから孤独
自分のためのセックスをしているから


この「自由」という言葉が彼女のキーワードと見えて、作品最後でも次のように言う。

あと100回負けたら
自由になれるよ


 「100回負ける」というのは、この詩の中で男の子にダーツで負けたらセックスすることになっている、その前提で書かれている。
 本稿最初に「彼女が手に入れたのは得体の知れない自由思想」と書いた。この詩の中にはまさに「自由」という言葉が登場する。「得体の知れない」と書いたのは、常人が近づくことのできない領域でそれが実践されているからだ。恐ろしく不自由で悲しく淋しく、どうしようもない修羅場を潜った上での自由なのだ。僕も、そしておそらく多くの読者も手の届かない領域において。
 第1詩集『青空オナニー』(2009)から8年。経験を重ねて「祈り」の目線を手に入れたちんすこうりな『女の子のためのセックス』。本書の底に流れている「淋しさ」に気づく読者が一人でも多くいればいいなと願っている。
(『女の子のためのセックス』人間社×草原詩社 近刊予定)

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自由詩評 私の読んだ詩集へのゆるやかな感想、その他。 江田 浩司

2017年02月26日 | 詩客
 自由詩を読んだ感想を書いたことは今までにもあった。しかし、読めたなと思える実感があったかと言えば不安になる。そんな人間が自由詩評を書くのだから、たいしたことは書けそうにない。思ったことを自由気ままに書かせ頂こうと思う。私が取り上げた詩集の本格的な感想は、専門の詩人か、自由詩評に精通している評論家にお任せしたい。見苦しい弁解はこれくらいにして、さっそく私の周りにある詩集の中から取り上げる本を選ぶことにする。
 はじめの二冊は、山﨑修平著『ロックンロールは死んだらしいよ』(2016年10月 思潮社)と、野田かおり著『宇宙(そら)の箱』(2016年3月 澪標)である。二人に共通しているのは、未来短歌会の黒瀬珂瀾欄に所属しているということ。つまり、詩と同時に短歌も創作しているということである。しかも、二人の最初の著書が詩集であるということも共通している。また、二人の短歌と詩を比較してみたとき、短歌と詩に表現の差異が内在され、異質な表現として分離していることである。この点は、とても大事なことだと思う。短歌と詩は同じ「詩」のジャンルに所属しているが、明らかに別の詩の表現である。これは、表現の本質に関っている。
 さて、二人の詩のことだが、山﨑は独学だと思われるが、野田は高校時代に、詩人のたかとう匡子に教えを受けている。ただし、私は詩の教えを受けたことがないので、詩はどのように教わるのかあまりイメージがわかない。定型詩である短歌の場合だと、表現の具体的な指摘、語句の使い方など細かな添削指導が可能で、実際にこの二人は歌会等でそのような指導を受けているだろう。その意味でも、詩の創作と短歌の創作は、まったく異質な表現形態で、どちらかを余技として創作しているのでないならば、創作過程の原理だけを見ても、矛盾を内在しつつ実作に励んでいることになる。
 まずは、山﨑の詩から読んでみたい。

          *

 山﨑の詩の表現は、詩の言葉の連続性というか、連続性に内包されている不連続性が、まるでフラットに、無意識を装っているノイズのように聴こえてくるところがある。時には散漫に思える意味の断絶が、表現の抽象性に野性味を加えることもあり、何とも不思議な世界を構築している。表題作から、他のすべての詩篇まで、音楽に関係のある語彙や表現が頻出するが、それに倣って言えば、言葉と表現相互のインタープレイを楽しんでいるような感じで読了した。これは個々の詩篇の内部のミクロ的な言葉の関係性と、詩篇相互のマクロ的な交感による構成によって構築されているものだろうか。いや、そこまでは意識的ではないにしろ、音楽に精通している山﨑の強みが、表現のコアとして表れているようである。
 このような詩が、短歌プロパーの表現者にどのような形で届くのかは未知数だが、テクストの意味を中心に評価をくだす者には、独り善がりの表現として遇されるだろう。私は詩の表現として、けっして難解だとは思わないが、短歌表現を基準にして読もうとすると、意味の不明さが際立つことになる。これは仕方のないことで、それ自体は受け入れるしかないだろう。
 今私の手元にある「未来」誌の最新号、二〇〇七年二月号から山﨑の短歌を引用してみたい。

不器用に絡め取られた鎖から花束でしょうか手を挙げなさい
赦されて犯す日に持つフライパンあまりにも輝くものですから生きて


 九首の中から冒頭の二首を引用した。私はこの二首を、短歌としてあまり成功しているとは思わない。あるには評価する歌人がいるのかもしれないが、私にはそうは思えない。山﨑の言語感覚、才能からすれば、同じモチーフで自由詩にした方が、すぐれたテクストが創られるのではないだろうか。言葉から意味、意味から表現へと、五句三十一音の定型詩が窮屈になってしまっている。これは短歌表現の構造の問題でもある。また、山﨑が自由詩を創作していなければ意識しないことも、気になってしまうのかもしれない。
 詩集を読んだ後で短歌を読むと、どうしても自由詩の創作者としての資質が先に立ってしまう。これは、一読者である私の感想なので、他の人の意見はわからない。おそらく、自由詩の創作が先にあり、その創作の過程で短歌との出会いがあったのだろう。それが現在の短歌の師である黒瀬珂瀾の歌であったということだろうか。山﨑が今後どのような短歌を目指すのかわからないが、師の黒瀬が詩集の栞に引用している歌、「部長以下新入りバイトに至るまで名札がすこしずれているのに」や、「改札のとなりで眠ったおっちゃんに鳩は次々寄り添ってゆく」の方が、短歌の表現としてはすぐれていると思う。このような歌の世界を自由詩で表現することは可能だろうが、どれだけ余分なことが必要かを考えるだけで嫌になる。
 『ロックンロールは死んだらしいよ』には、私の好きな詩篇も詩のフレーズも多いが、もう少し音楽にこだわって書いてみると、現代音楽の楽譜をイメージするところがあった。また、表現や言葉の転調に8ビートから16ビート、また、4ビート、2ビートなど、表題作にロックがあるからと言って、8ビートが主調というわけでもなく、自在な言葉の転調が内包されている。これも、言葉のインタープレイの真骨頂だろう。
 ただし、表現相互のつながりが、昇華しきれていないところもあるように思えた。もっとも、私は自由詩について素人なので、詩の表現のよさを読み切れていないのかもしれない。次に私がうまくいっていないと思った詩句をいくつか挙げてみたい。

岩塩とモダンジャズの偶然の出会い/から夜は明けとっくに君は恋をしている
 「天使の跳躍」
ずいぶんと反抗的な優しさ八百屋のキャベツの瑞々しさ 「ぬるい春」
誰しも信じられないほどの論文の報せ教えてくれるときの陽光の眩しさ 「朝のはじまること」最後の三行の内の最終部分。(その前までのフレーズがとてもいいので、最後の表現が雑に見える。)
花を花として/声を声として伝えたあとの/残滓であり萌芽とも言える/恋愛の初期衝動である/恋愛の初期衝動以外全ての思考を停止せよ 「あまりにも音楽的な」の「踊り」の最後の特に二行。

 「スンの近くに」とか「甘い踊り」は、とても好きな詩篇で、「甘い踊り」が内包している思いに胸が熱くなった。『ロックンロールは死んだらしいよ』には、栞に黒瀬珂瀾と中尾太一のすぐれた解説があるので、これ以上の駄文は必要ないだろう。続けて、野田かおりの詩集について書いてみたいと思う。

          *

 野田かおり著『宇宙の箱』は、とても親しみやすい言葉で表現されており、難解なところはどこにもない。また、「あとがき」のある詩集であり、装丁が倉本修なので、その意味でも歌人にとっては親近感のわく詩集である。そして、師のたかとう匡子による帯文を読めば、野田の詩の世界のエッセンスが理解される。
 この詩集に収録されているのは、内面化された体験が発酵してゆくのをじっと見守り、心にふれてくる言葉をすくい取って、抒情的な詩の世界に昇華した詩である。野田は「あとがき」に、次のように書いている。

 詩集を編みながら、たくさんの過去に支えられていることに気づきます。一五歳で詩を書き始め、詩の言葉に出あえたことが、私の幸福のひとつです。 (中略) 私にとって詩を書くことは、この世界と、この世界で他者に出会いながら生きる自分を、しずかに見つめることです。広大な宇宙のなかから、清明な光を取り出すように、そして、誰かの記憶に結ばれるように、これからも詩を書いていきたいと思います。

 野田の「あとがき」を読むと、私は余計なことを書かないで、詩集がよき読者に出会うことを願えばいいのだという気持ちに包まれてゆく。野田の詩にはナイーブすぎる表現もあるが、それが野田の資質なのだろう。詩の表現による、心の処方箋を書き綴っているようでもある。それが、自己への慰藉にとどまらず、他者への通路を開いているのならば、ナイーブな表現も詩の言葉としての力を内包する。
 詩集は二つのパートに分かれている。前半の「Ⅰ」は、主に回想化された自己が、内部の他者として描かれ、過去の自分との邂逅が寓意されているところがある。また、後半の「Ⅱ」は、主に教師の目線から、外部の他者(生徒)を内在化して描いているが、その視線の先に、過去の自分の影が見え隠れしている。どちらの場合も、野田の眼差しには悲哀はあっても嫌味がない。この健全さが、野田の表現の特徴の一つだろう。
「Ⅰ」から「崖」の冒頭と最後を引用してみたい。

みどりの座席に深く座って
海をまたごうとすると
あなたのみひらいた瞳に秋の海が揺れながら近づき
まぶたを閉じると思ってもみなかった夜が来た
  (中略)
冬が来たら蜂蜜に光を宿して飲み干そう 
崖に触れ
今年はじめての雪を払い
まだ
舫(もやい)のように身体はつながっている


 姫路に生まれ、海の見える高校に通ったという野田にとって、海は親しい風景というだけではなく、同じ時間(生)をともにした存在という重みがあるのかもしれない。同じの詩の中に「青い鳥は止まるはずもなく海をわたってゆく/眠りに落ちる数秒の瞳に暗い海が揺れ」という表現がある。この詩には悲哀の中に宿る希望のようなものを感じるが、そこに野田の表現の本質が表出しているように思われる。
 次に、先の山﨑と同様に、「未来」誌の最新号、二〇〇七年二月号から野田の歌を二首引用してみたい。

書類より顔を上げればブラインドのむかうに薄く揚羽の影が
まるまると眠る仔猫を見せくれる少女はリストカットを言はず


 九首の内の冒頭の二首である。どちらも勤務先の学校での出来ごとだろう。一首目は、情景はよくわかるが、結句の終わり方に問題がある。歌としては二首目の方がいい。オーソドックスな短歌の作り方だが、二首目には、そのような短歌の性質がうまく活かされている。しかし、野田の詩と短歌を比べたとき、やはり、詩の方がすぐれているように思う。
 私は野田の詩を読んでいて、例えば次の詩句が印象に残った。「夕陽をぐるっと/バターナイフでえぐるような痛みが/帰り道にあったこと/深夜めざめてみると/みどりいろのカーテンの隙間から/もう逢えなくなった人たちの/住んでいる街の灯りが見えたこと」(「みずうみ」より)。野田の詩には、阪神淡路大震災をモチーフとした詩があるが、ここに引用した詩句もそれを背景としているのだろう。これは、はじめに書いておかなければならないことであった。野田の詩の表現には、その背後に大震災があることを……。もちろん、すべての詩の背後にということではない。しかし、大震災を素材としていない詩にも、震災の影を感じる。
 私は野田の詩を読んで思うのだが、野田はなぜ詩を書きながら、短歌の表現を求めたのだろうか。ちよっと、不思議な感じがするのである。やはり、短歌の師である黒瀬珂瀾の歌との出会いが影響しているのだろうか。短歌と詩を併行して書くことは、特別なことではない。また、表現を器用に使い分けることが問題なのでもない。短歌と詩の違いついて、どのような認識を持って、何をどう表現するのかが問題なのである。野田の今後に注目してゆきたい。

        *

 杉本真維子第三詩集『裾花』(2014年10月 思潮社)を読んで、この詩集の強い言葉の粘度がなぜか懐かしいと感じた。現代詩をはじめて読んだときの感じに、どこか触るような感覚があった。それは、具体的に誰の詩ということではなく、現代詩と言ったときに、それはこのような表現を内在しているものだろうという抽象的なものだ。私は『裾花』に続けて、第二詩集『袖口の動物』(2007年10月 思潮社)を読んでみた。両詩集の間にある言葉の質の違いについて、うまく説明できる自信はない。言葉、表現への感じ方で言えば、『袖口の動物』の方が詩との距離の取り方がスムーズになされた。詩のメタファーや寓意に直に向き合っている瞬間があった。しかし、『裾花』の詩は、メタファーや寓意の切断面を見ているような幻覚に襲われるのだった。
 奇妙な言い方になるが、『裾花』よりも『袖口の動物』の言葉の方が、私には親しく感じられたのに、『裾花』の方が、懐かしい詩集に思われたのだ。自由詩としてしかけっして生きることのない言葉、これは自由詩によって生かされている言葉ではない。そこに表現としての凄味がある。まさに、沈黙としての言葉だろう。「詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、沈黙するためのことばである」と言ったのは石原吉郎であった。私にとって『裾花』の詩は、そのような言葉として、詩であることの意味の前に立たされる。山﨑や野田は、詩と併行して短歌を創作しているが、彼らの詩には、定型詩との親和性がどこかに担保されている。だが、杉本の詩の言葉にはそれはあり得ない。『裾花』を読み、続けて『袖口の動物』を読んだときのそれが強い印象である。杉本が短歌を作ることはないだろうし、仮に作ったとしてもそれは短歌にはならない。短歌とは別の詩の表現になるのではないだろうか。
 「川原」の冒頭と最後の連を引用する。

通路、が塞がれ、身長ほどにしか、心がな
い、日のなかで恐怖の種がわれる。蛍光灯
で焼けしなないか、ソファで溺れないか、
窓で迷わないか、
わたしは、だれなのか
  (中略)
一枚のひと、ひとりの肉、と
硬貨のように数えている
ひたいの奥の整列が
炭火を燻らせ
闇のうらがわを舐めていく
穴あきの薄紙をかぶる、いやらしい文字、
から生まれてきた
(犀川の木屑にまだ、磔の痕がある)


 この詩の読点と改行は、とても計算されているが、それ以上に、杉本の詩の文体を形作る言葉のリズムが印象的である。また、そのリズムから表出される存在の不明性、不安、恐怖、グロテスクさ……。人間の生に伴う罪が、虚無を擦過した後に浮かび上がる。これは、私の勝手な感想であり、杉本の詩の本質は別のところにあるのだろう。例えば、人間存在へのあまりに強い愛情ゆえに、存在の残酷さとともに、言葉と詩に寄り添っているというように。これも私の気ままな感想にすぎないか。
 『裾花』を読んだときの懐かしさは、杉本の現存が詩を通して固有性として刻印され、表現の幻想性の前に私を立たせるからだ。そう思ったときに、私は詩の意味を求めることを断念し、むしろ、フラットに、あるがままに言葉を受け入れることにした。
 『裾花』の詩篇で、私が特に心動かされたのは、祖母の死が背景にあると思われる詩である。その中でも「一センチ」や「わたしの鬣」の内在する思いの力に打ち据えられた。

匿う水が、植木のしたに溜まっている
鈍器で殴りこんできた敵は火のなかで死んだ
洗われた傷を清潔なガーゼでおさえながら
病室で泣く人の傍らに座った
言葉よりもからだのほうが近く、
とじこめて、死後に語る、と約束をした

「一センチ」冒頭部分


祖母の灰をあつめ
たべたひとの涙にわたしは傷つき
親戚のわらいに膝をふるわせ
以後いっさいの
「声音」を捨て
墓を洗う、仕事、していた

「わたしの鬣」冒頭部分



 内容と性格が違うが、「きつね」も好きな詩である。詩の半ばに、「くちべらしの子は、今でも子ども、だったから/細雨のような白い足袋に刺され/腹部から、たいこに、踊らされていった/反り返る、股/すそに血がついて泣く」という表現がある。この詩に登場するきつねが見たもの、それは何か……。私もまた、ここに生きているのだという思いを強く持つ。
 『袖口の動物』の最初の詩、「光の塔」の冒頭も衝撃的である。

わたしは誰かのために
洗われるからだを持つ
ひたいに緑色のマジックで
数字を書きこまれ
ころされるための順番を待っていた
にんげんは言葉を持たない
 (以下略)


 この冒頭の言葉から引き込まれて、『袖口の動物』を一気に読み下した。詩が拓く異次元の言葉の世界を堪能するのに理屈はいらない。「にんげんは言葉を持たない」という言葉の恐ろしさ、沈黙が内在する有意義性が乱反射を起こしている。
 「いくつかのリズムの内壁に、跳びかかるべき距離を測っている」(「或る(声)の外出」冒頭)、「平行の臨終、その顔色を吸い/釘の子が、表面が剝げたつるつるの子が/大切な地図をぬらそうとする」(「釘の子」最後)、「つるは/無数の傷跡を残し/カーテンが何枚も風にゆれて/ 一枚の青い紙だけが/おぼえている」(「世界」最後)。『袖口の動物』には印象に残る言葉が多い。私の好きなフレーズを三箇所だけ引用したが、詩を読むことの楽しさとスリルを、今さらながらに味わっている。もちろん、詩と短歌の表現の質の違いが際立っていることを肝に銘じながらである。

          *

 作家の大庭みな子が、埴谷雄高の思い出を綴った文章「影法師が踊る」に、埴谷の次の言葉が引用されている。「文学の芯にあるものは詩だ。それがないものは文学とは呼ばない」。この言葉に大庭は胸を打たれたという。埴谷のいう「詩」は、もちろん、自由詩といった場合の「詩」とは違うが、無関係ではない。埴谷の主著である『死霊』を思えば、その「詩」の意味に、現存へのあくなき追求が内在されていることが想像されよう。だが、自由詩の「詩」を問うとき、どのような答えが用意されているのだろうか。
 蜂飼耳のエッセイに「詩について」というすぐれた詩論がある。私は『現代詩文庫 蜂飼耳詩集』(2013年7月 思潮社)に収録されたこの詩論をはじめて読んだとき、とても強い感銘を受けた。昨年の八月に開催された未来東京大会のシンポジウムに、ぜひゲストとして参加して頂きたいと思ったのも、その詩論を読んだことが影響している。蜂飼のこのエッセイには、詩が何かということの明確な解答がある。それは、蜂飼の詩の実作に基づいた答えである。私は今ここにその内容を紹介しようとは思わない。まだ、未読の方はぜひ全文を読んで頂きたい。(現代)詩の本質をこれほどわかりやすく、丁寧に解説している詩論を、私は他に知らない。
 蜂飼の最新詩集『顔をあらう水』(2015年10月 思潮社)を読んでみたい。だがその前に、それ以前の詩についての感想を書いておこうと思う。
 第一詩集『いまにもうるおっていく陣地』(1999年 紫陽社)は驚きの詩集だった。詩に登場する未知なる存在が導く表現世界が、詩の現在性のトポスに向き合わせる。詩の言葉は存在の境界を自在に往還し、人や動物、昆虫、あるいは神、そして無機物まで、言葉の内部で互いに感応して、視覚の定点を移動しながら、詩の表現の世界を形成してゆく。表現の仕掛けと思われるものが、実は蜂飼の詩の言葉の自然な発露としてまずは発せられているようである。その後、蜂飼の表現者としての固有性に導かれ、言葉のすみずみにまで詩の表現の能動性が張りめぐらされてゆく。詩が内包する言葉のリズムへの鋭利な感覚にも驚かされる。蜂飼が神話を専攻していたことが、詩の表現の端々から表出する。蜂飼耳という名前を不思議だなと思っていたことが、この詩集を読むと瞬時に解消されてゆく。その名前が詩の世界を象徴化しているように思えてくる。表題作「いまにもうるおっていく陣地」を読んで衝撃を受け、最後まで一気に読み、「アサガオ」、「高行くや」、「高菜むすびを」、「雨垂れ石を飛び越して」を読み直してみる。そう言えば、「配布の感覚」を読んだときだけはほっとした。この詩だけは、私の想像力が少し近づけたようであった。
 第二詩集『食うものは食われる夜』(2005年 思潮社)も、詩の内在しているリズムと詩の内容との融合が分かち難く、詩に登場する生き物や人物たちとの詩の言葉による不思議な交感が、蜂飼の詩人としての固有性を表出している。私には先の詩集よりも読みやすかった。巻頭の「モンゴロイドだよ」から、「鹿の女」へと読み進みながら、古代人や土器に描かれた女を想像し、「この蟹や」の古代歌謡調の韻律を楽しみ、『古事記』の神話を背景とした「三輪山」や「姉と妹」、「根の国」などの詩の世界を堪能した。
 表題作の「食うものは食われる夜」の言葉の韻律も独特で、「音たてちゃ/ いけない/ 今夜は/もの音たてちゃ/ いけない」のリフレインをはじめ、詩の言葉の韻律の只中を鮭が力強く遡上してゆく。「オセアニアルート」の母親鯨も、蜂飼固有の詩の言葉の韻律の中を泳いでいる。第一詩集『いまにもうるおっていく陣地』も、表現の内在している言葉の韻律に意識的にならざるを得なかったが、第二詩集『食うものは食われる夜』の方が、より強く詩のリズムを意識しながら読むことが多かった。では、第三詩集『隠す葉』(2007年 思潮社)はどうだろうか。
 この詩集も蜂飼ワールドが全開である。不思議な登場人物、動物、昆虫、神、異形のものたちとの交感が形作る詩の世界が、現代蜂飼神話として展開してゆく。先の二詩集よりも、長編の詩が多く、散文詩の実験的な試みもなされている。散文詩の「桃」や「太陽を持ち上げる観覧車」には、詩的な短編小説のような趣もある。長距離ランナーの孤独ではないが、休むことなく自己の詩の世界の一筋の道を走っている。
 表題作の「隠す葉」をはじめ、現存への蜂飼の眼差しが思いがけない方向から、感覚と思考を貫いてゆく。多面的な方向と角度、そして、異質な言葉の矢の数の多さに、これはとても受けとめきれないな思いながら、それでも、詩の表現に身を任せている楽しさ。やはり、この詩集も言葉の韻律の力をまざまざと感じさせる。どの詩にもそれぞれ独自の詩の世界があり、甲乙がつけ難く、それでも私の好みを言えば、「熊」とか「黙契」、「角」の言葉に寄り添いながら読んでいた。
 この詩集に限らないが、蜂飼の詩には時間の重層性が内在された詩空間が拓かれている。クロノスとカイロスの時間が錯綜する。時代も超越し現在と往還する。
 では、『顔をあらう水』はどうだろうか。この詩集には前の三冊の詩集とは明らかに違う読後感がある。詩で展開される幻想性や物語性を抑えて、表現が注意深くそぎ落とされている。この詩集の言葉の彫琢は、読者の読みのコードの側にも強く作用するように工夫され、構成されているようだ。また、書下ろしで書かれた「骨拾い」、「ある死」など、特攻隊を志願した父親の追悼詩が収録されていることも異彩を放つ。さらにそれに付随して、「戦後野原、いまここの」が寓意している詩の世界が、やはり、これまでの詩とは異質であり、「甘くて、」の内在する批評性が人間の現存に鋭く突き刺さる。いや、現存への批評性といえば他の詩篇も同様に、詩の言葉の内圧を秘めているだろう。
 これは個人的なことだが、同じく書下ろしの「備前の土」の素材となっている場所は、私の故郷にある備前市伊部の南大窯の跡であろうか、懐かしいところである。最後の収録作「懸想」の初出が、私が所属していた同人誌であることも、この詩集との距離を近づけていることに無縁ではないと思う。しかし、そのような個人的なことにはあまり意味がない。
 もちろん、『顔をあらう水』は、先の三冊の詩集と無関係な現存の世界が展開されているわけではない。だが、この詩集に表出している詩空間には、蜂飼固有の神話性を通過した後の、現在性に基づくリアリティーが表象されているようにも思われるのだ。以前の詩とは異質な詩のトポスが形成されており、そこに生み出されるリアリティーへの蜂飼の行為が、以前の詩との差異を生み出し、詩の言葉と読者との新たな関係性と距離を作り出してゆく。しかし、これは私の勝手な妄想にすぎないのだろう。次に読んだときには、まったく違った感想を持つことも予想されるのである。

※引用中および著書の丸括弧はルビ。
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