「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第205回 たしかに逸脱かも―伊藤浩子『未知への逸脱のために』 駒ヶ嶺 朋乎 

2017年02月09日 | 詩客
 詩集に挟まれている解説の栞をヒントにして読むと、先入観が入ってしまって読めない場合があるので通常あまり読みたくない。伊藤浩子『未知への逸脱のために』(思潮社、2016年)ではしかし、目に入ってしまった。一瞥すると神山睦美氏が「ラカニアンたらんとしている」と、野村喜和夫氏が「掛け値なしに、驚くべき詩集」と書いてあったのでつい読んでしまった。ベンヤミンが引用されているそうで、「イエスの復活」があるようで、「原初的他者が発生する場」があるようだ。……期待が高まった。本体をパラパラめくると、ベンヤミンやデリダの引用のセンスが良い。「わたしたちが耳を傾ける様々な声のうちに、いまは黙して語らない人々の声がこだましている」(ベンヤミン)、「(主体は)騙すと同時に具体化された他者の像によって、あるいは自らの鏡像によって生命を吹き込まれます。」(ラカン)、「この死への気遣い(中略)が、自由の別名である。」(デリダ)。文章も冗談ゼロのお堅い感じで、どこにイエスの復活、待ち望んだ許しや祝祭があるのか、読み進めた。……最後まで出会えなかった。栞の誤読であった。
 栞をまとめると、野村氏によると、6行1パートずつの詩篇と、断章風の散文詩と、物語詩と3パートに分けられる。神山氏が通読後、再帰するよう促している部分は6行1パートの部分で、野村氏は真ん中の散文詩を絶賛している。人気のない物語詩から吟味したい。たしかに詩と呼べる部分があるかというとない。ショートショートくらいの短編小説かもしれない。最初の2編は事物への偏愛ならびに性への親和性と嫌悪とが村上春樹風な小説で表現されているような。その後、物語のリアリティは、つまり「世界の実在性」は、異常巻きアンモナイトみたいに不可解な複雑化を呈している。要するに背景設定が説明ないまま細かい。なぜ登場人物が、選択緘黙だったり昏睡状態だったり、切り離された後の結合双生児だったり、「孤児院」(という呼び名はいまはい)育ちだったりする必要があるのか。短編にしては設定を詰め込みすぎているかなと思う。緘黙や昏睡には“言葉を奪われた”という悲劇性があり、散文詩という饒舌さとの対比を短編の中で表現するには適すのかもしれないが、小説という時間の移動の中で最後までこのように救いがないとなると、読む方には苦しい。語り手が非常に女性的なだけに、女性性とは遠い残酷さ目についてしまった。知的であろうとする鋭利な精神が、複雑化してニッポニアニッポンの巻きのように一見あれ?という外見を呈してしまったのか。
 断章風散文詩ではラカンの、「主体」が分断され、他者として立ち現れたあとまとまる、という重要な自我の命題を巡っている部分があるのかどうか、探って行く。「あなた」や「ふたり」が出てくるが、おそらく主体の分裂・増殖なのではないかと読み進め、「あなたと出会うまで、いつもひとりだったの」という「不在」(P.56-59)が、「現前と不在」とを行き来する試みかなと思った。前半までは不思議でよかったのだが、途中で人体部分をバラバラにして瓶漬けに陳列されてしまった。この悪趣味な展開にはお手上げであった。「MOTHER MACHINE」も使用単語にえぐみがある。Motherなる存在はえぐいと言われればそれまでだが、もう少しマシーナリーの無機質さがあればよかったのになあと思う。詩の冒頭に挙げられたウィトゲンシュタインの『哲学探究』には「われわれは、機械の部品について、それがこのように動くことしかできず、それ以外の動きは為しえないかのように、語る。(中略)その部品が曲がったり、折れたり、溶けたりするといった可能性をわれわれが忘れているということなのか。」とあることから、mother machineの故障を思い遣ってしまった。母達、たまに故障するよね。
 で、結局私も、神山氏と同意見で6行分けの部分が良質であるかなと思う。ここにもこだましているのは主体の分離とその後の主体の自立ではないかと思う。

「あなた」という現象が
「わたし」というひとりの他者を映し出す鏡なら
割れたらいっしょに砕け散るわよね?
そこから出立したの、再び出会うため
岩石の一部や一滴の雨粒 あるいは
かつてひとつだった世界の失われた半身として

(「日々の痕跡」 p.8)

 何人か詰め込んでできているよりしろとしての自己が見えて、透明感がここにはある。著者には、残酷さは手放して、きれいなものを追ってもいいんじゃないかなと言いたい。知的であろうとする姿勢は残酷さより優しさと親和性があると私は思うので。
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自由詩時評第206回 「赤いものはどこにある?」 瀬崎 祐 

2017年02月06日 | 詩客
 「現代詩手帖」の1月号の特集は「現代日本詩集2017」だった。55人の作品が載っているが、その中から小池昌代「赤」を読んでみる。

 連分けなしの70行の作品で、その冒頭は、

廃村へと至る小径に
ひとすじ
なすりつけられたように塗られた赤


 こうして、この作品は”赤いもの” にまつわりつきながら動いていく。話者は、「ブラマンクは/赤の画家だと」思っていて、その赤は土と血がまざりあった色だというのだ。”土”は生きていく場であり、”血”はその場で生きていく肉体の代名詞ということなのだろう。肉体があり、それが存在する場所が与えられることが、生きることの最低不可欠の条件ではある。だから、

思えば赤 赤だけに
引きずられて生きてきたのだ


ということになる。
 赤色の地は印度ベンガルであり、赤!と呼べばその名の犬が来る。そして、

あかだ・くつわ と書かれた看板の
津島のお菓子は怖いのである
食べているうちに食べられてしまって
誰もいなくなる午後四時半

 こうして赤いものをつぎつぎに検証していく。
 このような作品のひろがり方をみていると、作品の材料になるものは作者の持ち物を越えることはないのだということをあらためて思わされる。すべての作品世界の広がりは、作者が手を広げることのできる範囲でしかない。当然のことではあるが、知らないものは描きようがない。だから、その範囲の中で作品としてどのようなものを構築できるかということになる

 それはさておき。求める”赤いもの”はどこにあるのかと思ってしまう。母の家は赤く塗られた被災予測図の中にあり、赤い袋に銭はたまらない。ついには赤壁の町に逃げていくのだ。
 作者がベンガラ格子の町並みで有名な岡山・吹屋で実際に暮らしたことがあるのか否かはどうでもよいことであるが、その町の小学校で話者(あくまでも作品の話者である)はいじめられたりもしている。そこでは”さるぼぼ”という赤い人形が吊り下げられていた。

すべてを見た その後に
押し黙って過ぎた年月がある
年月がああして赤になるまで
目も口も鼻も失ったんだ


 この”さるぼぼ”は猿の赤ん坊であり、目口鼻は描かれていない。悪霊祓いのために全身は赤い。
 作品の材料は作者の持ち物に拠っていることを上述した。赤いさるぼぼの人形は作者以前からあったわけだが、しかし作品としては、作者の持ち物になってからその赤い人形は存在しはじめる。
 引用部分のように、作者によって初めて過ぎた年月が形づくられる。そしてその年月によって初めて人形は赤くなり、初めて目口鼻も失われるのだ。このようにしてその人形は、作者によって作品に取りこまれた瞬間から初めて存在しはじめるわけだ。

まだ死なねえよ」と言いながら阪急デパートの地下で赤いお椀からの湯気を眺め、一番の悪党を祝うために赤飯も炊いている。作者の中に在るものが渦を巻いている。渦を巻きながら流れ出している。その流れはどこへ向かうのか、いや、その流れに意味はあるのだろうか。
 そしてついに最終部分、

してやったり 七里ヶ浜
じりじりと落ちる太陽
海もひとも赤くただれて
放置自転車が 長い影をひく
クラクションは鳴りっぱなしだ


探し求めて目の前の光景に戻ってきている。わたしはどこを彷徨ってきたのかと訝しくなっているに違いない。これは何のための彷徨いだったのかと訝しくなっているに違いない。
 求めていたもの、それは”赤いもの”だったのではなく、タイトル通りにこれらの赤いものが具有していた”赤”という、言葉では説明できない観念そのものだったのだろう。赤色が持つ禍々しさ、赤色が持つ不気味な生命力。そんなものと通じようという希求が作者にはあったのかもしれない。
 そう考えれば、この作品の彷徨いそのものがそんな”赤”だったかもしれないではないか。言葉では説明できないものだから、言葉を使うしかなかったのだなと思う。それが詩なのだと思う。
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自由詩時評第204回 飛び散る身体パーツの向こう側 草野理恵子詩集『黄色い木馬/レタス』と神 平居 謙 

2017年01月24日 | 詩客
はじめに
1 飛び散る身体パーツ
2 「木馬の足」というキーワード
3 断片としての形而上性
さいごに
       


はじめに

 草野理恵子の詩は、手首・右手・舌・足・頭……。身体の様々なパーツがばらばらに千切れ、引き裂かれる感覚で満ちている。読んでいて一見、荒唐無稽なフィクションのようにも思われる。しかし、表題作にも含まれる「木馬」をキーワードとして読み解いてゆく時、一つの発見がある。予め失われたもの=欠落感覚を埋めるための決意表明。これこそが詩集に溢れる身体部位飛散感覚なのだと気づく。そしてその向こう側に微かに見える信仰・永遠・天使・神等の発見が、この詩集最大の収穫である。
 本稿では、1 飛び散る身体パーツ 2 「木馬の足」というキーワード 3 断片としての形而上性 の3点に分けて、草野理恵子詩集『黄色い木馬/レタス』を解読する。


1 飛び散る身体パーツ

 草野理恵子詩集『黄色い木馬/レタス』を読む。その異常な世界に驚く。
例えば詩集冒頭には「冬/姉」という「雪深い奥地」で過ごす人々の様子を描いた作品が置かれている。略歴に「北海道室蘭市生まれ」とあったのを思い出す。おそらくは著者の懐かしい日々の記憶である。「冬 雪深い奥地では全ての家族が孤立し粗末な木の箱の中で暮らすことになる」という詩句の中にある「粗末な木の箱の中で暮らす」というのも、小さな家屋の喩なのだろうと特に気に留めずに読む。しかし、2連、3連と読み進めるにつれて、だんだんとその世界がタダモノではないことを感じ始める。それが明らかになるのは後半第5連で次のような箇所が出て来る時だ。

いくつもの木の箱を人々は雪の中から発見する
赤い下着を皮膚のように張りつけた若い女の死体は
まだ生きているようにみずみずしい
箱は永遠のように並んでいる
女だけを取り出し箱はまた置いておく
女は高い値段で売れる
    
(P10)


 この「若い女の死体」の中には同作品に現れる「お姉ちゃん」も含まれているはずだ。姉を含む女たちの死体が雪の中からたくさん発見され、高く売れる。強い社会的メッセージが含まれている気配も強く感じるが、鮮烈で残酷な事態がメッセージそのものについて考えることを強く抑える。作品としての独立世界が極め付け堅固で、実生活に還元・対照してはいけないような感覚をさえ覚える。それで僕は、二〇一五年の秋に20数年ぶりに参加した「詩と思想 作品研究会」で彼女が提出していた奇妙な作品を思い出した。それは「おじさん/入れ歯」と題された作品で、この詩集にも3番目に掲載されている。この詩は「おじさん」と呼ばれる人物のことを「」が語る形で展開してゆく。正体は明かされないが「」は「おじさん」のことが気に入っていて、いろいろなところで影響を受けているように思われる。と、このように書くと何の変哲もないように思われるのだが、その接近の仕方がどうにも尋常ではない。

おじさんの入れ歯をそっと僕の口の中に入れてみた 
それはなぜか湿っていて案外温かかった
今までまるでおじさんの口の中にあったみたいに……


 この後作品は「しゃべってみたらおじさんそっくりな声が出て僕は少し笑った」というところで結末を迎える。「」は「おじさん」の影響を受けるレベルを超えて、おじさんそっくりになってゆく。気味の悪い感覚が残る。
 草野の作品には、身体をパーツごとに描くという特徴、もっと言えば各身体パーツがばらばらに千切れ、引き裂かれる感覚で満ち溢れている。「おじさん/入れ歯」で、おじさんが入れ歯を失くしたり僕が「横断歩道の真ん中で落と」すなどというのはマシ(。。)なほうで、多くの作品では手首が死んだり、耳が持ち運ばれたり、父のペニスが売られたりととんでもない事件が当たり前のように起こっている。そのために、ところどころに見られる繊細で瑞々しい表現―たとえば「オールに見立てた細い木が震え/君の寄る辺なさのように先から雫が落ちた/それは君の髪の毛から滴った海の水を思い出させた」(「笹舟/カササギ」部分P40)―のような詩句の印象がかき消され、異常さが目につく。そして、本人はおそらくそれこそが詩だと考えている。以下その例を並べてみよう。(傍線部平居)

何かがひどく間違って人がたくさん死んだ一日の始まり/手首も死んでいた
(「朝/自動販売機」部分 P12)


今度はごみ箱の小さな穴に首が詰め込まれていた/無理矢理入れられていて顔の形が変わっていた
(同P13)


次の時は 母が父の右手を持って行った カサカサした手で撫でた/血の固まりに唾をつけて落とし 間違ったかのように母を上目使いに見た「ああ 力強い腕 添い寝をしたいくらいだわ あ ごめんね 姉さんのものよね いいって?くれるの?こんないいもの ありがとう」って//次の時は 僕が母の耳を持って行った 綿とくっついた部分を丁寧に剥がすときカサカサと小さな音をたてた 神妙な顔で「あら 素敵 ここにイヤリングをたくさんつけるわ もし首があったらネックレスも飾れるわ」
(「カサカサ/プレゼント」部分P22)


何かあると必ずオオサンショウウオに会いに行った/たわいのないことだよ/隣の女の子の右手が吹き飛んだり/おばさんが犯されたりしたことだよ       
(同p28)


詩 集初めの方から順番に拾うだけ沢山あるが、これこそが草野理恵子の世界の最大特徴であるため、煩をいとわず紹介を続けることにしよう。「オオサンショウウオ/泡ぶ」の中では「赤ん坊が引き出されて旦那さんの口が開けられて……入れられた」(p30)という事件が起こり、「皮膚売り/空き缶」では「母の耳とか父のペニス」が売られる(p36)。「指/染み」では瞼に沿って指を入れると「思いのほか痛みもなく真っ黒な瞳が転が」る(P47)。洗濯屋でアルバイトをする「ポケット/舌」では「ポケットからこぼれた舌が足元に転が」り(P48)、「沈黙の人/月」では「幾人もの僕」が「口を 鼻を 耳を 目を あるいは胸を手を足を」差し出す(P54)。「頭巾/虫」では「かつて/飛び散った子どもたちを見たことがあったね/道に 語る片足」(P57)という詩句が現れ、「休憩室/背中」には「僕は驚いて右手を落してしまった」(P62)というものがある。その他「夜/公園」の「脚が変な具合にねじれて落ちていた」(P66)や同作品の「私は両手に足を一本ずつ持つ」(P68)、「花/束」の「両腕は包むのに邪魔なので切り落とした」(P75)など、まさに枚挙にいとまがない。
 また、身体パーツが飛散しない場合でも「白鳥の骨が君に刺さった/君は抜こうとしてその指が君に刺さった」(「ライオンゴロシ/白鳥」部分P88)「まず私の腹を君の足が貫いた/私の眼球も耳朶も君の小枝が傷つけた/最後に私の胸を君の手が貫いた」(同P89)のように身体は深く傷つけられ、「頭の一部が妙に大きく膨らんでいた」(「水飴/雨」部分p24)のように、歪な形で現れるものもある。また「笹舟/カササギ」ではカササギを肩に乗せる「」が詩中に現れるが、作品の最後で「カササギが大きな声をあげ空に飛び立」つのだ(P40)。これなども、身体パーツ飛散の一つのバリュエーションととらえることができる。「エイ/背中」では、水族館のエイが人々に触られることで少しずつ傷ついてゆく。草野の作品では、人に限らず、多くの命が少しずつ磨り減ってゆく。
   
              
2 「木馬の足」というキーワード
 
 この『黄色い木馬/レタス』の中には、木馬に関する詩が2篇収められている。1つは第Ⅰ部に置かれている「木馬の足/海岸」で、もう一篇は第Ⅱ部にある詩集の表題作である。これらの2篇にはこの詩集を読み解く重要な鍵が含まれている。

海岸に打ち寄せるたくさんの木馬の足を僕は集める
燃やされる前に集めなくてはならない
背中の背負子に膝の部分から入れる
足裏は気味悪く汚れひどく醜く
深い深い暗黒をこちらに向ける
それは鯉の口のように全てを求める 

月の光が深々と影を作る
影は増え続け影は喋り続ける
僕は黄色い木馬の足を家に持ち帰るのだ
僕には幼い子どもがいたはずだ 
きっと妻もいただろう
ただ一つの手がかりの木馬の足
  
(「木馬の足/海岸」部分P32)

        
 引用部分には「たくさんの木馬の足」を「燃やされる前に集め」る「」という人物が登場する。なぜ木馬なのか、木馬の足を集めるのか、それにどのような意味があるのかは示されていない。けれどもそれは「子ども」と何らかの関わりがありそうだ。引用部分の少し前にも〈ふと子供が好きだった「きいろい木馬」の歌を思う〉という詩句がある。子どものことは「あとがき」にも書かれているので、読者としては「木馬の足/海岸」の語り手である「」と草野本人をある程度重ねて読むことは自然なことだろう。文字通り引用部分最後の「ただ一つの手がかりの木馬の足」というわけである。その「あとがき」は次のように爽やかに始まる。

 朝、目を覚ます。太陽がまぶしい。今日も一日が始まる。/私の口はちゃんと動くし、みたいものをすべて見ることができる。…中略…私には自由が降り注いでいると感じる。申し訳ないほどに。

 草野は彼女自身が「申し訳ないほどに」自由だと感じている一方で「生きるのに困難を感じている人が大勢いる」ことに思いを馳せる。「重い病、人とは違う姿かたちや行動・思考回路・価値観。他の人の生きにくさは決して決して私の悲劇にはなり得ない。」と彼女は語る。「私はその生きにくさを持った人たちにとても惹かれるのだ。すでに人生の試練を超えていき始めている気高さ、他の人にはない役割をもって生まれたと感じるのだ。そのような思いをいつも抱いている。」と彼女は書くのである。
 それに続いて、著者には息子がいること、その彼が最重度の身体障害を持っていること、生活サポートのための日々の奮闘が紹介される。

 第一詩集を出してから二年が過ぎた。その間、やはり最重度の知的障害のある息子の重なる発熱、発作、咳、痰……により、家に一週間二週間と籠ることも多い。長引くと社会から取り残されたような気持ちになる。そんな時、この「詩」という存在が、私と人を私と社会をつないでくれる。そして生きにくい人たちを身近に感じることができる。(昨日も息子が大量の水下痢をした。パジャマもパンツもシーツも布団も水下痢浸しになった。今日は朝から晴天で暑い。いいぞ。よくやった。晴れの日の前日の下痢は気持ちいい。)
 
最後の「いいぞ。よくやった。晴れの日の前日の下痢は気持ちいい。」に草野の覚悟と、この詩集世界のテンションの高さを重ね見る。
 ところで、この「きいろい木馬」という童謡を僕はしらなかったので調べてみると、それはNHK「みんなのうた」でかつて流された童謡で、以下のようなものであった。

  きいろい木馬
  作詞 しぶやしげお
  作曲 渋谷毅
  うた 奈々瀬ひとみ


きいろい木馬が空をとび/とびそこなって おちました
足が一本おれました/けむりが空へ のぼります

きいろいけむりが空をとび/やがて雲に なりました
それはきれいな雲でした/流れた遠くへきえました
きこりはぼんやり 見てました

やさしいきこりが森の木で/木馬に足を つけました
きいろいペンキもぬりました/げんきになったきいろい木馬
ぼうやをのせて はねました


足が折れた」木馬が「やさしいきこり」によって「足をつけられ」「きいろいペンキ」で修復される。「救済」と「再生」を主題とした夢のある物語がそこには流れている。ネット上では「小さいとき可哀想で泣きながら聞いていた」といった回顧も散見されるが、最終的には「ぼうやをのせて はね」るところにまで木馬は戻ってゆく。先に引用した詩集「あとがき」の続きの部分で草野自身も次のように語る。

 青い空に揺れる洗濯物の向こう、黄色い煙がたなびく。「きいろい木馬」息子はこの童謡が大好きだ。そして絵を描けとせがむ。私は足の折れた木馬を描く。新しい足をきこりは作ってくれるだろう。そして木馬は、飛びそこなったとしてもまた飛ぶのだろう。何度でも。

 つまりは、童謡「きいろい木馬」は草野を含めた多くの人にとって「飛びそこなったとしてもまた飛ぶ」ために背中を押してくれる勇気の出る歌なのである。
 ところが、草野自身の作る「木馬の詩」は、今挙げた「木馬の足/海岸」も後述する表題作「黄色い木馬/レタス」も共に重く暗い。「木馬の足/海岸」は引用の後「僕は何もかもが嫌になり背中いっぱいの木馬の足をぶちまけ」てしまい、それに続いて現れるのは「惨事の後この世に二人だけの夕食をとる灯りが見えた」という淋しい情景である。そして「今日もまた落ちた木馬が燃やされ/空の色が濃くなってゆく」という輪廻のような無限円環の中で物語は閉じる。次に繋がるという点では童謡と共通するが、草野の作品の方からは重しが置かれたような気分が伝わってくる。
 次に表題作「黄色い木馬/レタス」の全文を挙げておこう。
              
「黄色い木馬」と名づけられたレタス
の標本を見るために
私は這って窓際まで行った
木馬は壜の中ゆっくりと降りて私の近くまで来た

ケロイドのまま止まった黄色のレタスが
水に放たれ泳いでいた
円陣を組むレタスたちは
寝たままの位置から見上げられる
壜のその後ろの 
深い闇の空間を夏の間中彩っていた

星が通り過ぎる
その燃え殻は胸と背を合わせ
高い温度の冷酷を与え消えた
背中の溶ける音が続く
果てしない奈落の連続
強く目をつぶり浮遊するレタスの後を追う

不意に溶解の時を迎えた
私は起き上がることもなく
それから徐々に一つずつ溶けていった
倒れ 壁に手をついた
最後の手のひらの形がそのまま残り 
ふと塩の匂いを残した

息の音に合わせてレタスが踊り出す
ずっと昔 幼かった頃 指の先を切り
一枚一枚のレタスの間 鮮血が広がった
いや あれは私の指ではない
誰か 私よりずっと大きくて強い人の……
指 いや 腕 いや 頭部 いや……

薄黄緑に撒かれた赤い血は案外と薄く
素敵なドレスを思わせ私はそれを欲しがった
私は殴られた ひどく
あの日 誰かが大量に死んだ
目の奥に閃光を感じ
黄色い木馬を差し出したあの日


 先の「木馬の足/海岸」が、作中の「」に仮託された著者自身と、彼女の子供との過去を視野に入れているのに対して、この表題作「黄色い木馬/レタス」は、子供が生まれる遥か以前の「」のことが問題にされているように読める。「木馬の足/海岸」において「」と書かれていた語り手が、ここでは「」そのものとして出現する。「黄色い木馬」と名付けられたレタスが、あたかも(語り手ではなく)草野自身の魂であるかのように、壜の中に漂っていてしかもケロイド状に傷んでいる。レタスに触れようとした瞬間に指から鮮血が迸り「私は殴られた ひどく/あの日 誰かが大量に死んだ」。現実との対応を遮断しようという書き方がなされているため「どのような事件が実際に起こったのか」ということは想像するしかない。しかし「黄色い木馬を差し出す」という行為が引き起こした結果を悔いる気持ちが感じられる。童謡「きいろい木馬」では再生や救済の喩として現れていた「木馬」が、むしろこの詩では深い罪の意識の根源であるとさえ言える。


3 断片としての形而上性

 本稿では、第1節として著者の「グロテスクな世界」を確かめた。そして第2節で絶望的な「木馬」についても見た。ここで僕は一番大切な問を自分自身に問わなければならない。それは僕が『黄色い木馬/レタス』の何を以て〈詩集〉と考えるかということだ。収められた諸篇のどういう要素のゆえに〈詩〉足りえると見做すのかという問だ。
前節最後で〈草野の詩では「木馬」が深い罪の意識の根源であるとさえ言える。〉と書いた。罪の意識の根拠と言えば、キリスト教でいう「原罪」にも近い感覚で、思考や発想を支配する決定的な要因ともなる。実はこういう意識こそが、詩を詩たらしめていることが多い。つまりは グロテスクで絶望的な仮構世界の中、微かに現れている〈形而上性〉の故に僕は彼女を詩人とみなすのである。それは端切れのように断片的で、曇天の中に一瞬現れては消える天使の梯のごときものに過ぎない。それでもなお、その存在のゆえに詩集のすべてが一つ上の次元に吸い上げられてゆくのを見逃すことができない。
 それは繰り返すが、断片として現れている。例えば本稿第1節ではじめに引いた次の引用部分にはよく(。。)見る(。。)と(。)「永遠」という言葉が現れている。

いくつもの木の箱を人々は雪の中から発見する
赤い下着を皮膚のように張りつけた若い女の死体は
まだ生きているようにみずみずしい
箱は永遠のように並んでいる
女だけを取り出し箱はまた置いておく
女は高い値段で売れる
心優しい箱開け人は
女が握っている小さな男の子の人形をそのままにしておく
  
(「冬/姉」部分 P10)


 ここで「永遠のように」という表現は重要である。「永遠に」ではなく「永遠のように」。「永遠」が単に長い時間の形容として現れているのではなく、独立したひとつの強い概念として用いられているからだ。草野の中では「若い女の死体」が並ぶそのことがら自体が「永遠」という概念と等しいということでもある。
上 の引用に含まれる「女だけ」「女は高い値段で売れる」という詩句は僕に、つい先日読んだ韓国のある女性詩人の「小さな台所の歌」という詩の冒頭を思い出させる。

台所には
いつも酒の発酵する匂いがする
ある女の若さが磨り減る匂い
ある女の悲しみが
なべ料理を作り
ある女の愛慕が
味付けする匂い 
(文貞姫詩集『今、バラを摘め』 韓成禮訳 思潮社刊)


 ここには「ある女の若さ」が台所仕事に専念することで「磨り減る」悲しみが描かれている。草野の詩は、上記と同じ感覚をさらに観念的に描いている。草野が「女が握っている小さな男の子の人形」と書くときそれは明らかに子育ての喩である。文貞姫の詩で女だけが「料理を作」り若さを失ってゆくという状況と対応している。ただ、草野の場合、その事態を意識することで「悲しみ」に至るのではなく「永遠」を意識するのだ。「女だけ」に課せられた仕事を意識することで開かれるもの、それが草野の形而上性である。
 興味深いのは、詩に書かれる事柄が「素に近く」なると「永遠」の概念性が緩むということである。「休憩室/背中」も詩集中の他の作品同様、フィクション性が高く草野の実際の生活との対応はそれほど強いわけではない。しかし、君の「背中をさする時間」「実を言うと休みたかった」等の言葉から、咳き込む息子を介抱する草野自身の姿を想像することは難しくない。

背中をさする時間が永遠と思われた時
レースの硝子の休憩室があった
実を言うと休みたかった
右腕が自分のものではないように思えたし
君の背中もはっきりとすり減っていた

(「休憩室/背中」部分 p60)


 ここでは「永遠」が先の例に比べると比較的緩やかな形で用いられていると言える。
永遠」という言葉がある種の宗教性を感じさせるのと同様の意味で、次の引用では「信仰のように」という詩句が現れている。 

信仰のように僕は自動販売機の前に立ちお茶を買う
ゆっくり飲み干すと
手を隠すためにペットボトルをごみ箱に押しこんだ

(「朝/自動販売機」部分 P13)


 上の詩句から僕は、詩脈に関わらず「息子の世話」に疲れて近くの自動販売機の前でお茶を買い、ほっと一息つく草野の姿を想像する。そこには、例えば「疲れ果てて自動販売機の前に立つ」というような言い方の代わりに「信仰のように」という神の存在の発見が描かれるのだ。
 また、次の例では本節最初で話題に出した「」という語が現れている。横たわる君を前にして、徒労感や絶望感を持つのではなく「罪の形」を草野は意識する。

しばらくして君は横たわったまま花びらのように広がっていた
いや 腐敗した花びらだろうか
もう足首を見つけることができない
首と肩の境目から転がったものは赤い種だったのだろうか
至る所 孕んでいる体
落ちないように添えた左手は罪の形に変わった

(「水飴/雨」部分 P25)


 「ブリキの缶/天使」では「」という直接の表現はないが「善をすれば許される」という表現は、裏側から罪の意識というものの存在を強く意識させる。僕はこの部分を読むと先に引いた「あとがき」の中の「長引くと社会から取り残されたような気持ちになる。そんな時、この「詩」という存在が、私と人を私と社会をつないでくれる。」という言い方が頭に浮かんでくる。自分の好きなことを諦めれば、罪の意識は消えるのかもしれない。けれども、草野はそれを否定する。詩を書くことを止めない理由がそこに存在する。彼女がそういう強い意思を示すとき「天使の顔がゆがむ」のだ。

善をすれば許されると緑色の汚れた缶を差し出され
学生たちは何かをポケットから取り出し入れていた
画用紙についた雪は一瞬舞い月の光を思わせ落ちた
何かを終わらせ何かを始めさせるために
私は無菌を暗示させる缶を撫でると
それを握りつぶした
天使の顔がゆがんだように見えた

(「ブリキの缶/天使」部分 P72)


 「許す」立場に在る者。それはまさしく「」に他ならないが、「こびと/万華鏡」には「」が詩中にはっきりと姿を現している。

三角柱のずっと上天国に近いところからの視線
その瞳の持ち主をこびと(僕)は神だと思う
神は試練を与えるものだ
今日も明日も明後日も……
ところで僕を「こびと」と呼び始めたのは神なのだろうか
 
(「こびと/万華鏡」p101)


 この神は僕を助けてくれなどしない。無力な僕に試練を与え続けるに過ぎないのだ。その意味で神や天国や天使という言葉は現れるけれども、詩集自体がメルヘンになることはない。
 「宇宙」や「」など、それ自体とりたてて注目するほどでもない語句さえも、「」をはじめ本稿で見てきたような形而上性が断片として本詩集に現れていることを知ると、また別の意味を負うように感じられ始める。

君は時々泡を口から出した
その泡ぶくの中にぼくが反転して映っていた
ああ 宇宙が一つできた

(「オオサンショウウオ/泡ぶく」 部分 P30)


泣きすぎた彼女は目の玉を落とした
彼女は天を仰いだ
太陽が彼女を強く照らし私からは真っ黒な顔にみえた

(「兎/猿」部分 P96)


 誤解してはならないのは、形而上性がすべての詩において必要要素ではないということだ。
 ただ、この詩集を詩集たらしめているのは、グロテスクで絶望的な中に見え隠れする形而上的な要素だというひとことである。
 そしてさらにこの詩集を特徴づけているのは、今も書いたようにその形而上性が救済・再生への決定打になっていない、ということである。この詩集にあるのは、神に祈ることで物事が解決するという能天気な世界ではない。その意味で、いかに突飛であり非日常的であり奇妙な世界に見えても、実はこの詩集は究極のリアリズム詩集だ、というのが僕の一番の印象である。


おわりに

 なぜ草野の詩では手首が切れたり頭が飛んだりというような、非日常的で悲惨な世界がそこに展開されるか。最後に、この詩集を読み始めてからずっと気になっていたことを僕なりに「想像」してみたい。
 本人の意図人としてはともかくとして僕は次のように想像する。「最重度の知的障害者である息子を育てていない人」には想像がつかない大変さが草野の生活の中にはあるはずだ。それを読者に伝えるためには読者としても想像力が必要だ。けれども、読者というのはなかなかそういう想像力を持てない。あとがきに「家に一週間二週間と籠ることも多い」とある。しかし残念なことに、読者はそこで展開されている実際的なことに想像力を馳せることがむずかしく、もし想像できたとしても、感覚的にそれを実感することができないだろう。けれども手首が飛んだり、おばさんが犯されたり頭が転がっている、目玉が落ちている、というような一種非日常的なところまで一旦突き抜けた形で表現としての日常世界のありかたを崩してゆく時に「そんなことは起こらないだろう」「そんなことはあるはずがないじゃないか」というようなことが本当に感覚として伝わるのだ。このレベルで表現しない限り恐らく息子を介抱する草野の日常的な生活感覚はうまく伝わらないのではないか。
 僕自身、そのような体験が希薄なのにそういうことを言うのは哂われるかもしれないけれども、先日先日老父が1週間ばかり入院しただけでもてんてこ舞いの騒動だった。家からタクシーに乗って病院に行ってということをしばらく繰り返すだけでも、疲れの故に何かが崩れるのを感じた。人というのは限りなく弱いものだ。それなのに、息子が生まれてこの方、彼女はそういう生活の真っただ中にいるのだ。あとがきでは「家に一週間二週間と籠ることも多い」という控えめな言い方しかされていないが、限りない大変さを思う。ちなみに第1詩集『パリンプセスト』のあとがきは第2詩集のそれよりも少し詳しく息子の世話の奮闘について描かれている。子育て中の主婦が、いくら辛いと愚痴を言ってもおそらく、草野の大変さに比べれば屁の河童だろう。生活の苦労の真っただ中に居て、そこから発する言葉は極め付け力が強い。
 草野理恵子の詩は実のところ高次の社会性を含みながらも、その比喩の強烈さの故にメッセージの内実へとはたどり着けない。そしてそれは覚悟を決めるように意識的になされているという印象を受ける。「カサカサ/プレゼント」の中に「ひどく何かが欠けているというより全てに過剰だった」というフレーズがあるが、そうしなければ書けない主題というものがあるということを僕はこの詩集を読んで強く知った。
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自由詩時評第203回 「生」のアマルガム 鈴木一平『灰と家』 山腰 亮介 

2017年01月08日 | 詩客
 一冊の本のなかをいくつもの生き物たちが駆けぬけてゆく。いくつもの生き物はときに姿を変え、ときには雨のしずくに映る像のように他の生物と融和しながらも、それぞれが独立し、光の焔でいっぱいの翼をはばたかせては、それを見る人のまなざしへ、鼓膜の振動へ、手ざわりへ、香りへ、空気の乾きを感受する舌へ、そして記述へと収斂してゆく。

自重で燃える光のなかで、堆積層の交替が起きた。ちいさなゆれに目を覚ました鳥が枝のいくつかを点々と渡り、空を見上げた。これから降る雨の音にまじって、川の流れる音がする。気圏の底で滞留していた雲の背中がひび割れて、飴色の肌理が泡立った。
[…]
どこかの男の夢を見た 頭のなかで 一面の野を駆け回る 子どもを目で追いかけていた
古い小屋に向かって歩いていく 子どもの姿は横目になって しばらくすると見えなくなった
小屋のなかで湯気をたてているアイロンと 茶色いしみのいっぱいついたアイロン台
そとで
銃の音がした
でも戸惑うように戸を開けて 小屋を出ていくその人は 鈴を結んだヒルガオに 足をひっかける
結ぶ口と耳 ここは日当たりの身投げする道
音は聞かれないように市場をおりて 耳にして立ち止まる人は 蔦はう塀の隅に
彫られた ちいさな話し声だとおもった

(「Ⅰ」部分『灰と家』p.7-8[引用者註]原文はレイアウトが異なる)


人の聞こえなくなる声は
金具に映る月
水際をつなぐ、球のみずうみ
あじさいの花を着る鹿は、一滴の
輪になって、首すじに浮かぶ月の光を考える
雲の端からこぼれた日差しが、道の向こうに落ちている
道の上、雨を浮かべて、寝そべったままの姿見を
横切ろうとする、空のまん中を

踏んで、雨の一滴を、紐のように
落ちた日差しを囲むよう、
あたりの影が広がって
蹄の先が近づくにつれ、うしろの影が伸びていく
顔に浮かべて、雨が伸びていく、いま
鹿と目があった
鼻を鳴らして、暗い景色を角が
水たまりに混じろうと、ゆれた
あじさいの花に日差しを残して、雲がしずかに日を隠す

(「あじさいの花を着る鹿は/2016.9」同上、p.10[引用者註]原文は縦書き)


 詩集なのか、句集なのか、日記帖なのか。
 このような問いを宙吊りにし、鈴木一平といぬのせなか座という集団は『灰と家』(いぬのせなか座[私家版]、2016年)を編んだ。
 ここにはまるで子どもの頃に使っていた「じゆうちょう」のような感覚が息づいている。書かれる/描かれるものが統一的なものでは必ずしもなかった幼少期の自由さは、決してその時期だけの特権的なことではない。僕らはいまも手帖にめいっぱい絵を描いて、効果音や擬音、台詞、あるいはそれらの複合体を書込むこともできるし――それはマンガと呼ばれるかもしれないし、絵本のようだと云われるかもしれない――、贈られた手紙の余白にちらりとのぞく動物と目があって、顔がほころぶこともある。
そ こで問われるのは、形式の問題ではなく、それらの異なる方法がどのように連続しているのかであり、さらにそれぞれの形式が接続によってどのような相乗効果を生み出しているのかである。
 『灰と家』は詩集でありながら、同時にドキュメンタリーにもなっていて、フィクションとドキュメントという一般的には相反するものと考えられているものが一体化している。しかし、どんなドキュメントもある視点から描かれる/撮られる以上、それはある主観というフィルターを通したものとなる。
 つまり、ドキュメントで描かれ、撮られ、記録されるものは絶対的な真実ではあり得ず、複数の視点から見、語ることによって複数の真実が浮かび上がる。鈴木一平は生のドキュメントを、複数の方法(縦書き/横書きを含めたレイアウト、行分け、散文、俳句、日記)で記述しているのだ。
ドキュメント、あるいは素顔を書くという姿勢はすでに装幀からも予告されている。目次や奥付が表紙カヴァーになっているのは、書物の服とも云える、表紙を剥いだむき出しの状態――すでに金子鉄夫よる栞文でも言及されている――を晒すためである。
 この書物は、さらにいぬのせなか座の編集作業を介して成立している。
 編集者と二人三脚に本を作るということ自体はさほど珍しいことではない。だが、この詩集ではもっと積極的な他者との交接がある。三人四脚、四人五脚と複数の者が積極的に他者のエクリチュールに介入し、討議を続け、何度も言葉を更新し、鍛えてゆく。その行為と行為の摩擦は複数の形式のあいだの摩擦と重なる。
 今回、鈴木一平『灰と家』にどの程度の手が入っているのかを知るすべはない。なかには本人のものかどうかもわからない記述もある。作者たちにすら、それはもうわからないのではないだろうか。芭蕉が紀行文『奥の細道』のなかに、スタンダールが自伝『アンリ・ブリュラールの生涯』のなかに創意を組み入れたことを想起しよう。各々の事実を組みあわせ、練度をあげてゆくとき、そこで「生」は表象(レプレゼンテーション)として別の「生」へと移行する。そもそも、記述とは影のように「生」とは違うものでありながら、「生」を追うように生成変化を繰り返すものである。
このような行為を経由して、鈴木一平はその「鈴木」というアノニマスな苗字と、一平という非常にシンプルであり、平坦な意味を持ちながらも逆説的に記憶に残る名――金子鉄夫による本書の栞文の言葉がまた響いてくる――のアマルガムを体現している。
 なんという急速なフォークロアへの到達だろう。何人かの作家たち(グリム兄弟、シャルル・ペロー、イタロ・カルヴィーノや千里幸惠など)が各地に伝わる民話から物語を編纂したことはよく知られているが、長く語り継がれた物語の特徴は、作者名が不在であることだ。幾重にも語られて作者が飽和してしまった結果、逆説的に揮発してしまった、というほうが妥当かもしれない。
 僕らは多くの民話を、ある作家名を通じて受容しているのだが――もちろん、そこには彼/女らの創意があることは忘れてはならない――、そこにある魅力は長い長い時間をかけて磨かれた石のように無駄のないこと、そして淘汰されずに残る、物語自体の骨格の普遍性にあるだろう。
 『灰と家』のカヴァーをはずし、本体の表紙を見るとそこには堆石の写真があらわれる。これらの石の一つひとつのように、この詩集のなかの詩句はその急速さによって歪さを残しながらも、互いと互いが支えあうかのように、堅牢な構造体として私たちの前に屹立する。

火だるまになって転がっていく藁束が、町づたいに荒れたお城の跡まで夏の火の粉をもたらした。川の輪郭は、たえず鋼色の影を携えながらゆれていた。

おくのほそみち。十字路沿いのかすかな窪みの石を指さした、そのひとが伝えたかったものを誤解して、透明なうら通りのあるあたりを目で追った。犬はまっすぐに伸びた指さきを見た。四つ足の雲梯が、石の真向かいにある施設の庭で佇んでいる。五歳のころまでそこを通った。

石碑のさきには山があり、中腹に防空壕がある。そこで自殺した人のお化けを探しに行って、朱色に塗られた格子のひとつに、ぼくは手跡をつけて帰った。
(「Ⅰ」部分、同上、p.19)


 僕はこの時評の連載のなかで、マヤコフスキーと岩田宏に言及しながら、役者(訳者)だけではなく、僕ら自身も実生活のなかで「私」を演じていることを指摘した。それは意識的/無意識的にも日常のなかで繰り返されている営為である。
 たとえば、Twitterで誰かのつぶやいた言葉が次第に伝播して皆がつぶやくようになるように、友人たちや恋人たちのあいだでだけ伝わる言葉が互いの真似をしながら何度も口に出されるように、あるいは長く一緒に過ごした夫婦が似てくるように、私たちは自分が身を置くなにかの共同体のなかで、ゆるやかな影響を受け、自らを更新してゆく。
 十七世紀に生きた万能の人物であり、思想家、数学者、発明家とさまざまな側面を持つライプニッツが、『モナドロジー』のなかで展開したあの「モナド」のように、私たちの存在は「窓のない」存在としてそれぞれ自立していると同時に、鏡として他者を映している。そして、その接触の先端においてこそ、僕らは生を感覚する。

三月十九日、雨。見えるものを口ずさんでいた

広場に立って、そこに集まる動物や虫、草の名前に耳をこらして、口が唱える言葉のひとつひとつを拾いあつめる。名前は知っていても、どんな姿をしているのかわからないもの、雨音でかき消されたものは、爪を噛んで通りすぎていくのを待った。

西日の差すころ、雨が木立のように止んだ。水たまりに戻る道筋の輪郭が晴れ、雲と地面のあいだで細長い繭になっていた雨に、水たまりを踏んではしゃぎ回る男の子の姿を見つけた。やっと、

気がついたように像を結んだ。ここは、きみの生まれた町だとおもった。

(「Ⅲ」部分、同上、p.93)


 私たちの「生」はつねに他者との、さらには世界との接触によって、またあらたな「生」へと更新され続けるだろう。
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自由詩時評第202回 ボブ・ディランから始めて現代詩の潮流を問う 宇佐美 孝二

2016年12月18日 | 詩客
 ■まず、ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞から話そうか

 現代詩時評としては、やはり2016年ノーベル文学賞がアメリカのロックシンガー、ボブ・ディランに授与されたことを取り上げないわけにはいかないだろう。
 様々な媒体で取り上げられているボブ・ディランのノーベル文学賞受賞。久々のアメリカからの受賞(数日間連絡が不能。賞を受けるかどうか注目されたが、結局賞を受けると意志表示。しかし授賞式には欠席)。だが、果たしてディランは詩人なのか歌手なのか、あるいはその両方を兼ね備えた存在なのか。また受賞が文学的業績に値するものなのか、というところに焦点が当てられているようだ。
 世間の、「受賞が妥当か」という問題はさておき、まずノーベル文学賞なるものがどのような性質をもつものなのかを検証することが必要だろう。当賞が「世界最高レベルの賞」だという認識はすこし足りないのではないかと思うのだ。(あくまで一般的な認識にそって言えば)世界的な権威ある賞には違いないが、もうひとつ「世界に還元すべき賞」だという認識はあまり語られない。ダイナマイトを発明しそれが戦争に使われた反省の念から賞が創設されたという、ノーベルの遺志を再認識すべきではないだろうか。
 つまりこういう推理だ。今回のボブ・ディランのノーベル文学賞受賞は、シリア内戦をはじめとするアメリカをけん制する意図があったのではないか。周知のようにディランは、60年代のベトナム戦争を批判する反戦フォーク歌手として登場してきた。ノーベル文学賞委員会は、その彼の戦争批判(プロテスト)の歌をもってアメリカ自身や世界を覚醒させたいという意図があった、というと穿ちすぎだろうか。
 世界はシリア内戦から拡大した難民問題など、未だ解決できていない難問であふれている。忘れられたかもしれないが昨年(2015)のノーベル文学賞授賞者は、ジャーナリストのスべトラーナ・アレクシェービッチなのだった。彼女は、アフガニスタン紛争やチェルノブイリ惨事を通して、「ソ連崩壊後の個人」を描き出した人。生まれたウクライナ(旧ソ連領)はロシアとヨーロッパ、中東の境辺りの、地政学的にも重要な位置にある国である。アレクシェービッチは、そのウクライナに生れベラルーシに住んでいるが、ヨーロッパに亡命していた時期もあったようだ。
 ノーベル文学賞委員会は、ジャーナリストと(移り変わりはあるが)反戦ロック歌手に文学賞を与えることによって、アメリカとロシアという大国間の戦争構造を非難していると考えられなくもない。それがどれだけ有効かは別として、こういった“政治的配慮”は、これが初めてではない。1957年にノーベル文学賞を受賞したフランス領アルジェリア出身の作家アルベール・カミュの時は、1954年から始まったアルジェリア独立運動と関係しているとも言われている。1962年アルジェリア独立は、カミュにとって複雑な立場だったという・・・。(そういえば、先日観た映画『アルジェの戦い』は傑作だった!)
 さてボブ・ディランの受賞を文学関係者と音楽関係者とでは当然受け止め方が違う訳だが、それぞれの反応ぶりはどうだろう。「ミュージック・マガジン」誌は、12月号でいち早く「文学としてのボブ・ディラン」を特集した。音楽関係者は総じて、ディランの受賞に讃美の声を上げている、といった風の反応だ。和久井光司という“総合音楽家”は「ディランの歌詞が宗教的な重みをもつようになった・・・」と手放しの誉めようだ。アメリカ文学研究者の堀内正規は、「大衆音楽には見られなかったような高度な隠喩を用いたとか、ハイカルチャーの文学の影響を取り入れたとか、思いがけない語彙で韻を踏みまくるとかということは、いずれもとても興味深い問題ではあるが、必ずしも決定的な要素であるわけではない。むしろボブ・ディランが「ライク・ア・ローリング・ストーン」で“How does it feel?”とあの声で問いかけるとき、他の何語にも翻訳不可能な“feel”を、聴く者すべての脳の中に永遠に残すあのやり方は、どう考えても、言葉そのものの力の発現であるという点で、〈詩〉そのものに他ならない。」(p47)というところが妥当な評価だという気がする。  
 また、「週刊金曜日」は11月18日号で「ボブ・ディラン」を特集し、ディランの信奉者である、シンガーソングライターの友部正人と、同じく中川五郎の対談を組んでいる。中川は「文学とは紙の上の表現であって音や演奏や声とは関係ないと考えている人たちが多いんですよ。でも、古代ギリシャの吟遊詩人、ホメーロスを持ち出すまでもなく、文学の最初の形態は文字よりも声で伝えられていました。」とこれもまともな文学観とディランの評価を語っている。

■作家、詩人たち

 翻って、紙媒体で文学活動をしてきた作家、詩人の反応はどうか。ツイートされた中から拾ってみると、英作家のサルマン・ラディッシュは「オルフェウス(ギリシャ神話の吟遊詩人)からファイズ(パキスタンの詩人)まで、歌と詩は密接な関わりを持ってきた。ディランは吟遊詩人の伝統の優れた継承者だ。素晴らしい選択だ」と好意的だ。スコットランドの作家、アーヴィン・ウエルシュは「私はディランのファンだ。だがこれは、年寄りで訳の分からないことを早口にしゃべっているヒッピーたちの腐りかけの前立腺からもぎ取られた浅はかな懐古趣味の賞だ」。今さら受賞なんて笑っちゃうぜ、とノーベル文学賞そのものに異議申し立てをしているようだ。ホラー小説で知られる作家のスティーブ・キングは「ボブ・ディランがノーベル賞を受賞したことに興奮している。不道徳で悲しいこの時期に素晴らしく、かつ良いことだ」と常識的な反応ぶりだ。
 文学者とりわけ詩人たちの反応はどうだろうか。拾おうとしてみたが、あまり詩人たちの声は聞こえてこない。その中で、詩人・作家の松浦寿輝は、「文学の領域はどんどん広がるべきだし、小説や詩と限定するのは文学概念を貧しくするだけだから、広がるのはいいことだと思います」と伝え聞く。こちらは好意的だが、ほかの詩人たちはけっこう辛辣な意見もあるようだ。
 今さら述べるまでもないが、ノーベル文学賞委員会の授賞理由は「(ディランが)アメリカの輝かしい楽曲の伝統の中で新しい詩的表現を生み出してきたこと」である。つまり、ディランの詞や唄のなかの「詩=ポエジー」を評価した、ということなのだ。あるいは「伝統」と「詩的創造」の融合が評価されたということだろう。アメリカの歌、とりわけ、ジャズやフォーク、ブルース、ゴスペル、黒人霊歌にまで遡る唄の系譜が、ディランの詞のなかに詠みこまれているということか。詞のなかに含まれる俗語や隠語、あるいは彼独特の嗄れ声までが文学性に富んでいると評価されたとみていいいのだろうか。それなら他の歌い手、(生きていればだが)よく言われるジョン・レノンが受賞していてもおかしくはなかった・・・という理屈にもなる。ま、答えは風のなか・・・?

■詩の世界の潮の分け目か

 とはいうものの大きな視点で捉えれば、このボブ・ディランの文学賞受賞は詩の世界の、潮の分け目になるような予感がする。いや、潮の分け目のなかに、ボブ・ディランの文学賞が象徴的にはまり込んだ、というべきだろう。これもよく言われるように、詩とは古来、口から口へ伝えられてきた口承(口誦)文学である。「詩」は古くは「詞」であって、書き言葉文化は口誦の肉声というものを消してしまった歴史がある。ディランの受賞は、文字のなかに隠された肉声の復活をも意図していたと言うと深謀遠慮すぎるだろうか。
 詩の朗読という行為が、ここ何年かに亘って盛んに繰り返され、日本だけでなく世界中でなされている背景にはこの「肉声」というものが文字の裏に隠され、それも文学だと言う暗黙の了解があるのかもしれない。またそれは文字の原初性への復権であるともいえるし、長く続いてきた黙読文化がもたらした価値観の反転であるのかもしれない。そうした“先祖がえり”をしながら我々の文化は繰り返されてきたのだが、いままたその蘇生をすることで詩はあらたな価値を見出したのだと思いたい。
 かつて、アフリカ系の女性詩人の朗読をユーチューブで見たことがある。彼女の朗読スタイルは独特で、台本も見ず大きなジェスチャーを交えながら怒鳴るように朗読していたのが非常に印象的だった。日本人は台本を見ながら朗読することが一般的だが、外国人はパフォーマンスというか、ジェスチャーの大きい方が受けは良いようだ。
 詩が、文字文化の黙読を受け入れ発達してきたのは活字文化の影響下だ。詩人たちは、詩を書くこと、読むことで表現してきた。いままた、朗読という表現が再び脚光をあびてきたのは、詩人たちが積極的に朗読行為に参加してきたためだ。これが詩と声の融合の表れと見るべきか。詩と詞が、ディランに象徴されるように、詩と声は新たな展開・融合として流れの本流に立ち現れて来る予感がするのである。この傾向をもつ優れた詩の書き手は多いが、特に日本の詩人では伊藤比呂美あたりは名実ともに筆頭だろう。ドイツ在住の多和田葉子もやはり詩を、文字のなかに肉声を取り入れた表現を展開している一人だ。
 ディランが評価された「伝統」とは、過去から伝わり、また現在から遡及できる機能である。我々は大きな文化表現の流れのなかで、自分たちを過去・未来と繋がる表現者として認識すべきだろう。
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