「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩評 ニーチェの自由詩 無時空 映

2017年11月12日 | 詩客
 ニーチェと言えば「ニヒリズム」だが、「ニヒリズムとは何か?」という問いはなかなかめんどくさい。諸説アリだとは思うがニーチェ自身の解りやすい定義があるので本稿ではこれを前提に進めたい。

ニヒリズムとは何を意味するか - 最高の諸価値が無価値になるということ。目標が欠けている。<何ゆえに>という問いに対する答えが欠けている。」(「力への意志」(2番) 以下、(〇番)はすべて「力への意志」におけるアフォリズム等の編集番号)

 M.ハイデガーはこの部分について自著の「ニーチェ」の中で「ニヒリズムはひとつの過程であり、最高の諸価値が無価値になり、価値を喪失するという過程である。しかし、ニヒリズムの本質がこの標識だけではまだ決定されない。」(*1)

と述べている。「まだ決定されない」理由は、「価値」とは何か、「最高の諸価値」とは何か、そもそもそれは存在するのか等を検討しなければならないからだそうだが、素人が素人としてニーチェの詩を鑑賞するためにはそこまでは考える必要なないとしておく。「ニーチェのニヒリズム」とは単に悲観的な、或いは無気力な人生観ではないということが共有できればよい。
 ついでながら(37番)ではペシミズムをニヒリズムの先行形態とし、更に(22番)では積極的ニヒリズムと消極的ニヒリズムを区別する。前者は「昂揚された精神力の徴表としてのニヒリズム」と定義され、後者は「精神力の衰退と退行としての」それとなる。先に触れたペシミズムをもニーチェは分類しているがここでは触れない。

 上記を筆者として纏めると、ニーチェの(積極的)ニヒリズムとは「最高の諸価値が無価値になるということに対して、何かしら元気に解釈して生きようとする精神的態度」ということになる。そのようなニヒリズム理解を前提に次の作品を読んで頂きたい。

  「名声と永遠」4.

  存在の最高の星座よ!
  永遠の造形の刻み板よ!
  おまえがくるのか 私のところへ?
  だれひとり見なかったもの、
  おまえの その沈黙の美―、
  ふしぎではないか? それが私の目を避けて逃げないというのは!

  必然性の楯よ!
  永遠の造形の円盤よ!
  ―だが、おまえにはもちろん わかっているものね。
  おまえが永遠であるということ!
  おまえが必然であるということ!
  だから みんなが憎み、
  私だけが愛しているということは。
  私の愛は 永遠に 
  必然性によってだけ燃え立つのだ。

  必然性の楯よ!
  存在の最高の星座よ!
  ―どんな願いもとどかぬもの、
  どんな否定も汚さないもの、
  永遠の存在の肯定よ、
  永遠に私はお前の肯定者だ。
  なぜなら 私はおまえを愛するからだ おお 永遠よ!


 上記は「ニーチェ全詩集」(人文書院)P365以降からの引用。なぜこの詩を選んだかというと、1888年頃書かれたようだからだ。なぜ1888年かというとハイデガーのお勧めだからだ。彼が直接、ニーチェの詩に言及しているわけではないが、「力への意志」に編入された断片群を講義するにあたりこのように述べている。
 「その断片は、もっとも冴えた明晰さともっとも鋭い洞察の時期に書かれたものでなければならない。その時期は最後の2年、1887年と1888年である。」(*2)この言及を信じて、その時期に書かれたと思われるものから筆者の関心を引くものを選んだ。

 さて、ニーチェと言えば「神は死んだ」だが、先の「最高の諸価値が無価値にな」ることを踏まえれば、ニヒリズム宣言そのものということになろう。また、西洋圏で最高の価値とされていたキリスト教とその付帯事項が無価値になる、などというと「過程」としてのニヒリズムが歴史的過程のように思えるが、過程としてのニヒリズムは必ずしも歴史だけに適用されるものではないと思う。日常生活でも「最高の諸価値が無価値にな」ることはよくあるのではないか。例えば、学業を終えてなんらかの事業体に就業して、その組織やそれを通して「社会」に触れることによって体験する人もいるだろうし、結婚または同居を開始してパートナーとの価値観の相違を改めて認識することによって「無価値にな」るまでには至らなくても「最高の諸価値が」動揺する、或いは変更を迫られる、などということはあるだろう。

 「存在の最高の星座よ!」という引用1行目を、過程としてのニヒリズムとして「自分が超こだわっていた価値観がぶっ飛ぶことがあったとしてもそれはそれで新しい世界観が開けて最高に面白い!」
 というように解釈すると、「必然」、「永遠」、「円盤」、「肯定」、「私だけ」などという語句が超人、永劫回帰、力への意志等々のニーチェ用語と結びついて、ニーチェ自身がニヒリズムを踏まえた自身の「生の哲学」をどのように生きようとしていたのかが解るような気がする。
 このように身近なところへ引き寄せて解釈するとニーチェの学術的ありがたみが激減してしまうが、筆者としては「永劫回帰」の問題が解決できるので大変スッキリしている。筆者にとっての「永劫回帰問題」とは「キリスト教的価値観が崩壊するような歴史的事態はヒトの寿命圏内では何度も起こることではない」ということだ。そのような文明の中核にある価値観が変更するという事態は、百年単位で考えれば今後もあるだろうが、それに対して「よし、来たな!ではもう一度!」と挑めるような「超人」は「超人」がヒトである限り、意識を維持したまま輪廻転生でもしない限り無理だからだ。
 (永劫「回帰」は無理でも1回くらいはあるかも。)
 一方、「いざ一緒に暮らしてみたら価値観の相違にガーン」というような短期サイクルで考えると「永劫回帰」も「超人」も人生に対する態度の選択肢としては検討に値するものと考える。

 以上「ニーチェ哲学」的観点から鑑賞してみたが、異なる観点からも他の作品を見てみよう。
 「ニーチェ全詩集」の解説を書いている白取春彦氏は次の作品を推薦している。

  「処世術」
  平らな野原に立っていてはならぬ!
  あまりに高く登りすぎてもならぬ!
  世界が最もすばらしく見えるのは
  中庸をえた高みからである。

(同書P154)


 白取氏によると「生き続けることの味と涙を知った者にとっては、この短い詩は彫りの深い相貌に一変し、冷たい湧き水のように深く喉元へと滲みいってくるだろう」ということだ。該当する方々には味読していただきたい。

 筆者として、フツーの西洋史として綺麗だなと思ったのは次のような作品。

  「南国にて」

  (前略)
  白い海原は 眠りこみ、
  一艘の白帆が 緋に燃えて 浮かぶ。
  巌、無花果、塔と港、
  あたり一面に田園の詩、そして羊どもの鳴き声、-
  南国の無邪気さよ、ぼくを引き取ってくれ!

  ひたすらに一歩一歩 脚を運ぶーそれは人生ではない、
  それはひとを ドイツ的に そして鈍重にする。
  僕の命令で 風がぼくを 中空へ 吹き上げた。
  鳥どもといっしょに 飛ぶことを学び、-
  南国を目ざして 海原を 飛びこえた。
  (後略)

(同書P196)


 「巌、無花果、塔と港」などという部分は、視認できるものを羅列しただけのようにも思われるが、視認対象の選択やその並べ方にセンスを感じる。しかし、原文では「Fels,Feigenbaume,Turm und Hafen」となっており韻律的に特に工夫は見られない、というかFeigen以下が強弱4セット8シラブルで整っているので、行頭のFelsは岩石感を出しているのかも知れないが韻律的にはバランスが悪い。朗読の際には工夫が必要だろう。また、何故南国に「」なのかという点は気になったが、注釈によるとこの詩はシシリーで書かれたので羊が出てくるそうである。ドイツ人と日本人間での「南国」認識の相違には注意が必要だ。



なお、ニーチェの詩に関する日本語書籍は殆ど出版されていないが、一般的西洋詩としての分析報告的なものは
1.「ニーチェの抒情詩の寓意性一『 神秘の小舟』または『夜の秘密』一 」
2.「ニーチェの詩に見るヨーロッパ的刻印」
などがCiNiiで手軽に読める。
http://ci.nii.ac.jp/els/contents110007138692.pdf?id=ART0009085274

http://ci.nii.ac.jp/els/contents110000040686.pdf?id=ART0000372765



(参考文献)
*1「ニーチェII ヨーロッパのヒニリズム」 M.ハイデガー 細谷他訳 1997年平凡社 p282
*2 前掲p280
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