「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第204回 飛び散る身体パーツの向こう側 草野理恵子詩集『黄色い木馬/レタス』と神 平居 謙 

2017年01月24日 | 詩客
はじめに
1 飛び散る身体パーツ
2 「木馬の足」というキーワード
3 断片としての形而上性
さいごに
       


はじめに

 草野理恵子の詩は、手首・右手・舌・足・頭……。身体の様々なパーツがばらばらに千切れ、引き裂かれる感覚で満ちている。読んでいて一見、荒唐無稽なフィクションのようにも思われる。しかし、表題作にも含まれる「木馬」をキーワードとして読み解いてゆく時、一つの発見がある。予め失われたもの=欠落感覚を埋めるための決意表明。これこそが詩集に溢れる身体部位飛散感覚なのだと気づく。そしてその向こう側に微かに見える信仰・永遠・天使・神等の発見が、この詩集最大の収穫である。
 本稿では、1 飛び散る身体パーツ 2 「木馬の足」というキーワード 3 断片としての形而上性 の3点に分けて、草野理恵子詩集『黄色い木馬/レタス』を解読する。


1 飛び散る身体パーツ

 草野理恵子詩集『黄色い木馬/レタス』を読む。その異常な世界に驚く。
例えば詩集冒頭には「冬/姉」という「雪深い奥地」で過ごす人々の様子を描いた作品が置かれている。略歴に「北海道室蘭市生まれ」とあったのを思い出す。おそらくは著者の懐かしい日々の記憶である。「冬 雪深い奥地では全ての家族が孤立し粗末な木の箱の中で暮らすことになる」という詩句の中にある「粗末な木の箱の中で暮らす」というのも、小さな家屋の喩なのだろうと特に気に留めずに読む。しかし、2連、3連と読み進めるにつれて、だんだんとその世界がタダモノではないことを感じ始める。それが明らかになるのは後半第5連で次のような箇所が出て来る時だ。

いくつもの木の箱を人々は雪の中から発見する
赤い下着を皮膚のように張りつけた若い女の死体は
まだ生きているようにみずみずしい
箱は永遠のように並んでいる
女だけを取り出し箱はまた置いておく
女は高い値段で売れる
    
(P10)


 この「若い女の死体」の中には同作品に現れる「お姉ちゃん」も含まれているはずだ。姉を含む女たちの死体が雪の中からたくさん発見され、高く売れる。強い社会的メッセージが含まれている気配も強く感じるが、鮮烈で残酷な事態がメッセージそのものについて考えることを強く抑える。作品としての独立世界が極め付け堅固で、実生活に還元・対照してはいけないような感覚をさえ覚える。それで僕は、二〇一五年の秋に20数年ぶりに参加した「詩と思想 作品研究会」で彼女が提出していた奇妙な作品を思い出した。それは「おじさん/入れ歯」と題された作品で、この詩集にも3番目に掲載されている。この詩は「おじさん」と呼ばれる人物のことを「」が語る形で展開してゆく。正体は明かされないが「」は「おじさん」のことが気に入っていて、いろいろなところで影響を受けているように思われる。と、このように書くと何の変哲もないように思われるのだが、その接近の仕方がどうにも尋常ではない。

おじさんの入れ歯をそっと僕の口の中に入れてみた 
それはなぜか湿っていて案外温かかった
今までまるでおじさんの口の中にあったみたいに……


 この後作品は「しゃべってみたらおじさんそっくりな声が出て僕は少し笑った」というところで結末を迎える。「」は「おじさん」の影響を受けるレベルを超えて、おじさんそっくりになってゆく。気味の悪い感覚が残る。
 草野の作品には、身体をパーツごとに描くという特徴、もっと言えば各身体パーツがばらばらに千切れ、引き裂かれる感覚で満ち溢れている。「おじさん/入れ歯」で、おじさんが入れ歯を失くしたり僕が「横断歩道の真ん中で落と」すなどというのはマシ(。。)なほうで、多くの作品では手首が死んだり、耳が持ち運ばれたり、父のペニスが売られたりととんでもない事件が当たり前のように起こっている。そのために、ところどころに見られる繊細で瑞々しい表現―たとえば「オールに見立てた細い木が震え/君の寄る辺なさのように先から雫が落ちた/それは君の髪の毛から滴った海の水を思い出させた」(「笹舟/カササギ」部分P40)―のような詩句の印象がかき消され、異常さが目につく。そして、本人はおそらくそれこそが詩だと考えている。以下その例を並べてみよう。(傍線部平居)

何かがひどく間違って人がたくさん死んだ一日の始まり/手首も死んでいた
(「朝/自動販売機」部分 P12)


今度はごみ箱の小さな穴に首が詰め込まれていた/無理矢理入れられていて顔の形が変わっていた
(同P13)


次の時は 母が父の右手を持って行った カサカサした手で撫でた/血の固まりに唾をつけて落とし 間違ったかのように母を上目使いに見た「ああ 力強い腕 添い寝をしたいくらいだわ あ ごめんね 姉さんのものよね いいって?くれるの?こんないいもの ありがとう」って//次の時は 僕が母の耳を持って行った 綿とくっついた部分を丁寧に剥がすときカサカサと小さな音をたてた 神妙な顔で「あら 素敵 ここにイヤリングをたくさんつけるわ もし首があったらネックレスも飾れるわ」
(「カサカサ/プレゼント」部分P22)


何かあると必ずオオサンショウウオに会いに行った/たわいのないことだよ/隣の女の子の右手が吹き飛んだり/おばさんが犯されたりしたことだよ       
(同p28)


詩 集初めの方から順番に拾うだけ沢山あるが、これこそが草野理恵子の世界の最大特徴であるため、煩をいとわず紹介を続けることにしよう。「オオサンショウウオ/泡ぶ」の中では「赤ん坊が引き出されて旦那さんの口が開けられて……入れられた」(p30)という事件が起こり、「皮膚売り/空き缶」では「母の耳とか父のペニス」が売られる(p36)。「指/染み」では瞼に沿って指を入れると「思いのほか痛みもなく真っ黒な瞳が転が」る(P47)。洗濯屋でアルバイトをする「ポケット/舌」では「ポケットからこぼれた舌が足元に転が」り(P48)、「沈黙の人/月」では「幾人もの僕」が「口を 鼻を 耳を 目を あるいは胸を手を足を」差し出す(P54)。「頭巾/虫」では「かつて/飛び散った子どもたちを見たことがあったね/道に 語る片足」(P57)という詩句が現れ、「休憩室/背中」には「僕は驚いて右手を落してしまった」(P62)というものがある。その他「夜/公園」の「脚が変な具合にねじれて落ちていた」(P66)や同作品の「私は両手に足を一本ずつ持つ」(P68)、「花/束」の「両腕は包むのに邪魔なので切り落とした」(P75)など、まさに枚挙にいとまがない。
 また、身体パーツが飛散しない場合でも「白鳥の骨が君に刺さった/君は抜こうとしてその指が君に刺さった」(「ライオンゴロシ/白鳥」部分P88)「まず私の腹を君の足が貫いた/私の眼球も耳朶も君の小枝が傷つけた/最後に私の胸を君の手が貫いた」(同P89)のように身体は深く傷つけられ、「頭の一部が妙に大きく膨らんでいた」(「水飴/雨」部分p24)のように、歪な形で現れるものもある。また「笹舟/カササギ」ではカササギを肩に乗せる「」が詩中に現れるが、作品の最後で「カササギが大きな声をあげ空に飛び立」つのだ(P40)。これなども、身体パーツ飛散の一つのバリュエーションととらえることができる。「エイ/背中」では、水族館のエイが人々に触られることで少しずつ傷ついてゆく。草野の作品では、人に限らず、多くの命が少しずつ磨り減ってゆく。
   
              
2 「木馬の足」というキーワード
 
 この『黄色い木馬/レタス』の中には、木馬に関する詩が2篇収められている。1つは第Ⅰ部に置かれている「木馬の足/海岸」で、もう一篇は第Ⅱ部にある詩集の表題作である。これらの2篇にはこの詩集を読み解く重要な鍵が含まれている。

海岸に打ち寄せるたくさんの木馬の足を僕は集める
燃やされる前に集めなくてはならない
背中の背負子に膝の部分から入れる
足裏は気味悪く汚れひどく醜く
深い深い暗黒をこちらに向ける
それは鯉の口のように全てを求める 

月の光が深々と影を作る
影は増え続け影は喋り続ける
僕は黄色い木馬の足を家に持ち帰るのだ
僕には幼い子どもがいたはずだ 
きっと妻もいただろう
ただ一つの手がかりの木馬の足
  
(「木馬の足/海岸」部分P32)

        
 引用部分には「たくさんの木馬の足」を「燃やされる前に集め」る「」という人物が登場する。なぜ木馬なのか、木馬の足を集めるのか、それにどのような意味があるのかは示されていない。けれどもそれは「子ども」と何らかの関わりがありそうだ。引用部分の少し前にも〈ふと子供が好きだった「きいろい木馬」の歌を思う〉という詩句がある。子どものことは「あとがき」にも書かれているので、読者としては「木馬の足/海岸」の語り手である「」と草野本人をある程度重ねて読むことは自然なことだろう。文字通り引用部分最後の「ただ一つの手がかりの木馬の足」というわけである。その「あとがき」は次のように爽やかに始まる。

 朝、目を覚ます。太陽がまぶしい。今日も一日が始まる。/私の口はちゃんと動くし、みたいものをすべて見ることができる。…中略…私には自由が降り注いでいると感じる。申し訳ないほどに。

 草野は彼女自身が「申し訳ないほどに」自由だと感じている一方で「生きるのに困難を感じている人が大勢いる」ことに思いを馳せる。「重い病、人とは違う姿かたちや行動・思考回路・価値観。他の人の生きにくさは決して決して私の悲劇にはなり得ない。」と彼女は語る。「私はその生きにくさを持った人たちにとても惹かれるのだ。すでに人生の試練を超えていき始めている気高さ、他の人にはない役割をもって生まれたと感じるのだ。そのような思いをいつも抱いている。」と彼女は書くのである。
 それに続いて、著者には息子がいること、その彼が最重度の身体障害を持っていること、生活サポートのための日々の奮闘が紹介される。

 第一詩集を出してから二年が過ぎた。その間、やはり最重度の知的障害のある息子の重なる発熱、発作、咳、痰……により、家に一週間二週間と籠ることも多い。長引くと社会から取り残されたような気持ちになる。そんな時、この「詩」という存在が、私と人を私と社会をつないでくれる。そして生きにくい人たちを身近に感じることができる。(昨日も息子が大量の水下痢をした。パジャマもパンツもシーツも布団も水下痢浸しになった。今日は朝から晴天で暑い。いいぞ。よくやった。晴れの日の前日の下痢は気持ちいい。)
 
最後の「いいぞ。よくやった。晴れの日の前日の下痢は気持ちいい。」に草野の覚悟と、この詩集世界のテンションの高さを重ね見る。
 ところで、この「きいろい木馬」という童謡を僕はしらなかったので調べてみると、それはNHK「みんなのうた」でかつて流された童謡で、以下のようなものであった。

  きいろい木馬
  作詞 しぶやしげお
  作曲 渋谷毅
  うた 奈々瀬ひとみ


きいろい木馬が空をとび/とびそこなって おちました
足が一本おれました/けむりが空へ のぼります

きいろいけむりが空をとび/やがて雲に なりました
それはきれいな雲でした/流れた遠くへきえました
きこりはぼんやり 見てました

やさしいきこりが森の木で/木馬に足を つけました
きいろいペンキもぬりました/げんきになったきいろい木馬
ぼうやをのせて はねました


足が折れた」木馬が「やさしいきこり」によって「足をつけられ」「きいろいペンキ」で修復される。「救済」と「再生」を主題とした夢のある物語がそこには流れている。ネット上では「小さいとき可哀想で泣きながら聞いていた」といった回顧も散見されるが、最終的には「ぼうやをのせて はね」るところにまで木馬は戻ってゆく。先に引用した詩集「あとがき」の続きの部分で草野自身も次のように語る。

 青い空に揺れる洗濯物の向こう、黄色い煙がたなびく。「きいろい木馬」息子はこの童謡が大好きだ。そして絵を描けとせがむ。私は足の折れた木馬を描く。新しい足をきこりは作ってくれるだろう。そして木馬は、飛びそこなったとしてもまた飛ぶのだろう。何度でも。

 つまりは、童謡「きいろい木馬」は草野を含めた多くの人にとって「飛びそこなったとしてもまた飛ぶ」ために背中を押してくれる勇気の出る歌なのである。
 ところが、草野自身の作る「木馬の詩」は、今挙げた「木馬の足/海岸」も後述する表題作「黄色い木馬/レタス」も共に重く暗い。「木馬の足/海岸」は引用の後「僕は何もかもが嫌になり背中いっぱいの木馬の足をぶちまけ」てしまい、それに続いて現れるのは「惨事の後この世に二人だけの夕食をとる灯りが見えた」という淋しい情景である。そして「今日もまた落ちた木馬が燃やされ/空の色が濃くなってゆく」という輪廻のような無限円環の中で物語は閉じる。次に繋がるという点では童謡と共通するが、草野の作品の方からは重しが置かれたような気分が伝わってくる。
 次に表題作「黄色い木馬/レタス」の全文を挙げておこう。
              
「黄色い木馬」と名づけられたレタス
の標本を見るために
私は這って窓際まで行った
木馬は壜の中ゆっくりと降りて私の近くまで来た

ケロイドのまま止まった黄色のレタスが
水に放たれ泳いでいた
円陣を組むレタスたちは
寝たままの位置から見上げられる
壜のその後ろの 
深い闇の空間を夏の間中彩っていた

星が通り過ぎる
その燃え殻は胸と背を合わせ
高い温度の冷酷を与え消えた
背中の溶ける音が続く
果てしない奈落の連続
強く目をつぶり浮遊するレタスの後を追う

不意に溶解の時を迎えた
私は起き上がることもなく
それから徐々に一つずつ溶けていった
倒れ 壁に手をついた
最後の手のひらの形がそのまま残り 
ふと塩の匂いを残した

息の音に合わせてレタスが踊り出す
ずっと昔 幼かった頃 指の先を切り
一枚一枚のレタスの間 鮮血が広がった
いや あれは私の指ではない
誰か 私よりずっと大きくて強い人の……
指 いや 腕 いや 頭部 いや……

薄黄緑に撒かれた赤い血は案外と薄く
素敵なドレスを思わせ私はそれを欲しがった
私は殴られた ひどく
あの日 誰かが大量に死んだ
目の奥に閃光を感じ
黄色い木馬を差し出したあの日


 先の「木馬の足/海岸」が、作中の「」に仮託された著者自身と、彼女の子供との過去を視野に入れているのに対して、この表題作「黄色い木馬/レタス」は、子供が生まれる遥か以前の「」のことが問題にされているように読める。「木馬の足/海岸」において「」と書かれていた語り手が、ここでは「」そのものとして出現する。「黄色い木馬」と名付けられたレタスが、あたかも(語り手ではなく)草野自身の魂であるかのように、壜の中に漂っていてしかもケロイド状に傷んでいる。レタスに触れようとした瞬間に指から鮮血が迸り「私は殴られた ひどく/あの日 誰かが大量に死んだ」。現実との対応を遮断しようという書き方がなされているため「どのような事件が実際に起こったのか」ということは想像するしかない。しかし「黄色い木馬を差し出す」という行為が引き起こした結果を悔いる気持ちが感じられる。童謡「きいろい木馬」では再生や救済の喩として現れていた「木馬」が、むしろこの詩では深い罪の意識の根源であるとさえ言える。


3 断片としての形而上性

 本稿では、第1節として著者の「グロテスクな世界」を確かめた。そして第2節で絶望的な「木馬」についても見た。ここで僕は一番大切な問を自分自身に問わなければならない。それは僕が『黄色い木馬/レタス』の何を以て〈詩集〉と考えるかということだ。収められた諸篇のどういう要素のゆえに〈詩〉足りえると見做すのかという問だ。
前節最後で〈草野の詩では「木馬」が深い罪の意識の根源であるとさえ言える。〉と書いた。罪の意識の根拠と言えば、キリスト教でいう「原罪」にも近い感覚で、思考や発想を支配する決定的な要因ともなる。実はこういう意識こそが、詩を詩たらしめていることが多い。つまりは グロテスクで絶望的な仮構世界の中、微かに現れている〈形而上性〉の故に僕は彼女を詩人とみなすのである。それは端切れのように断片的で、曇天の中に一瞬現れては消える天使の梯のごときものに過ぎない。それでもなお、その存在のゆえに詩集のすべてが一つ上の次元に吸い上げられてゆくのを見逃すことができない。
 それは繰り返すが、断片として現れている。例えば本稿第1節ではじめに引いた次の引用部分にはよく(。。)見る(。。)と(。)「永遠」という言葉が現れている。

いくつもの木の箱を人々は雪の中から発見する
赤い下着を皮膚のように張りつけた若い女の死体は
まだ生きているようにみずみずしい
箱は永遠のように並んでいる
女だけを取り出し箱はまた置いておく
女は高い値段で売れる
心優しい箱開け人は
女が握っている小さな男の子の人形をそのままにしておく
  
(「冬/姉」部分 P10)


 ここで「永遠のように」という表現は重要である。「永遠に」ではなく「永遠のように」。「永遠」が単に長い時間の形容として現れているのではなく、独立したひとつの強い概念として用いられているからだ。草野の中では「若い女の死体」が並ぶそのことがら自体が「永遠」という概念と等しいということでもある。
上 の引用に含まれる「女だけ」「女は高い値段で売れる」という詩句は僕に、つい先日読んだ韓国のある女性詩人の「小さな台所の歌」という詩の冒頭を思い出させる。

台所には
いつも酒の発酵する匂いがする
ある女の若さが磨り減る匂い
ある女の悲しみが
なべ料理を作り
ある女の愛慕が
味付けする匂い 
(文貞姫詩集『今、バラを摘め』 韓成禮訳 思潮社刊)


 ここには「ある女の若さ」が台所仕事に専念することで「磨り減る」悲しみが描かれている。草野の詩は、上記と同じ感覚をさらに観念的に描いている。草野が「女が握っている小さな男の子の人形」と書くときそれは明らかに子育ての喩である。文貞姫の詩で女だけが「料理を作」り若さを失ってゆくという状況と対応している。ただ、草野の場合、その事態を意識することで「悲しみ」に至るのではなく「永遠」を意識するのだ。「女だけ」に課せられた仕事を意識することで開かれるもの、それが草野の形而上性である。
 興味深いのは、詩に書かれる事柄が「素に近く」なると「永遠」の概念性が緩むということである。「休憩室/背中」も詩集中の他の作品同様、フィクション性が高く草野の実際の生活との対応はそれほど強いわけではない。しかし、君の「背中をさする時間」「実を言うと休みたかった」等の言葉から、咳き込む息子を介抱する草野自身の姿を想像することは難しくない。

背中をさする時間が永遠と思われた時
レースの硝子の休憩室があった
実を言うと休みたかった
右腕が自分のものではないように思えたし
君の背中もはっきりとすり減っていた

(「休憩室/背中」部分 p60)


 ここでは「永遠」が先の例に比べると比較的緩やかな形で用いられていると言える。
永遠」という言葉がある種の宗教性を感じさせるのと同様の意味で、次の引用では「信仰のように」という詩句が現れている。 

信仰のように僕は自動販売機の前に立ちお茶を買う
ゆっくり飲み干すと
手を隠すためにペットボトルをごみ箱に押しこんだ

(「朝/自動販売機」部分 P13)


 上の詩句から僕は、詩脈に関わらず「息子の世話」に疲れて近くの自動販売機の前でお茶を買い、ほっと一息つく草野の姿を想像する。そこには、例えば「疲れ果てて自動販売機の前に立つ」というような言い方の代わりに「信仰のように」という神の存在の発見が描かれるのだ。
 また、次の例では本節最初で話題に出した「」という語が現れている。横たわる君を前にして、徒労感や絶望感を持つのではなく「罪の形」を草野は意識する。

しばらくして君は横たわったまま花びらのように広がっていた
いや 腐敗した花びらだろうか
もう足首を見つけることができない
首と肩の境目から転がったものは赤い種だったのだろうか
至る所 孕んでいる体
落ちないように添えた左手は罪の形に変わった

(「水飴/雨」部分 P25)


 「ブリキの缶/天使」では「」という直接の表現はないが「善をすれば許される」という表現は、裏側から罪の意識というものの存在を強く意識させる。僕はこの部分を読むと先に引いた「あとがき」の中の「長引くと社会から取り残されたような気持ちになる。そんな時、この「詩」という存在が、私と人を私と社会をつないでくれる。」という言い方が頭に浮かんでくる。自分の好きなことを諦めれば、罪の意識は消えるのかもしれない。けれども、草野はそれを否定する。詩を書くことを止めない理由がそこに存在する。彼女がそういう強い意思を示すとき「天使の顔がゆがむ」のだ。

善をすれば許されると緑色の汚れた缶を差し出され
学生たちは何かをポケットから取り出し入れていた
画用紙についた雪は一瞬舞い月の光を思わせ落ちた
何かを終わらせ何かを始めさせるために
私は無菌を暗示させる缶を撫でると
それを握りつぶした
天使の顔がゆがんだように見えた

(「ブリキの缶/天使」部分 P72)


 「許す」立場に在る者。それはまさしく「」に他ならないが、「こびと/万華鏡」には「」が詩中にはっきりと姿を現している。

三角柱のずっと上天国に近いところからの視線
その瞳の持ち主をこびと(僕)は神だと思う
神は試練を与えるものだ
今日も明日も明後日も……
ところで僕を「こびと」と呼び始めたのは神なのだろうか
 
(「こびと/万華鏡」p101)


 この神は僕を助けてくれなどしない。無力な僕に試練を与え続けるに過ぎないのだ。その意味で神や天国や天使という言葉は現れるけれども、詩集自体がメルヘンになることはない。
 「宇宙」や「」など、それ自体とりたてて注目するほどでもない語句さえも、「」をはじめ本稿で見てきたような形而上性が断片として本詩集に現れていることを知ると、また別の意味を負うように感じられ始める。

君は時々泡を口から出した
その泡ぶくの中にぼくが反転して映っていた
ああ 宇宙が一つできた

(「オオサンショウウオ/泡ぶく」 部分 P30)


泣きすぎた彼女は目の玉を落とした
彼女は天を仰いだ
太陽が彼女を強く照らし私からは真っ黒な顔にみえた

(「兎/猿」部分 P96)


 誤解してはならないのは、形而上性がすべての詩において必要要素ではないということだ。
 ただ、この詩集を詩集たらしめているのは、グロテスクで絶望的な中に見え隠れする形而上的な要素だというひとことである。
 そしてさらにこの詩集を特徴づけているのは、今も書いたようにその形而上性が救済・再生への決定打になっていない、ということである。この詩集にあるのは、神に祈ることで物事が解決するという能天気な世界ではない。その意味で、いかに突飛であり非日常的であり奇妙な世界に見えても、実はこの詩集は究極のリアリズム詩集だ、というのが僕の一番の印象である。


おわりに

 なぜ草野の詩では手首が切れたり頭が飛んだりというような、非日常的で悲惨な世界がそこに展開されるか。最後に、この詩集を読み始めてからずっと気になっていたことを僕なりに「想像」してみたい。
 本人の意図人としてはともかくとして僕は次のように想像する。「最重度の知的障害者である息子を育てていない人」には想像がつかない大変さが草野の生活の中にはあるはずだ。それを読者に伝えるためには読者としても想像力が必要だ。けれども、読者というのはなかなかそういう想像力を持てない。あとがきに「家に一週間二週間と籠ることも多い」とある。しかし残念なことに、読者はそこで展開されている実際的なことに想像力を馳せることがむずかしく、もし想像できたとしても、感覚的にそれを実感することができないだろう。けれども手首が飛んだり、おばさんが犯されたり頭が転がっている、目玉が落ちている、というような一種非日常的なところまで一旦突き抜けた形で表現としての日常世界のありかたを崩してゆく時に「そんなことは起こらないだろう」「そんなことはあるはずがないじゃないか」というようなことが本当に感覚として伝わるのだ。このレベルで表現しない限り恐らく息子を介抱する草野の日常的な生活感覚はうまく伝わらないのではないか。
 僕自身、そのような体験が希薄なのにそういうことを言うのは哂われるかもしれないけれども、先日先日老父が1週間ばかり入院しただけでもてんてこ舞いの騒動だった。家からタクシーに乗って病院に行ってということをしばらく繰り返すだけでも、疲れの故に何かが崩れるのを感じた。人というのは限りなく弱いものだ。それなのに、息子が生まれてこの方、彼女はそういう生活の真っただ中にいるのだ。あとがきでは「家に一週間二週間と籠ることも多い」という控えめな言い方しかされていないが、限りない大変さを思う。ちなみに第1詩集『パリンプセスト』のあとがきは第2詩集のそれよりも少し詳しく息子の世話の奮闘について描かれている。子育て中の主婦が、いくら辛いと愚痴を言ってもおそらく、草野の大変さに比べれば屁の河童だろう。生活の苦労の真っただ中に居て、そこから発する言葉は極め付け力が強い。
 草野理恵子の詩は実のところ高次の社会性を含みながらも、その比喩の強烈さの故にメッセージの内実へとはたどり着けない。そしてそれは覚悟を決めるように意識的になされているという印象を受ける。「カサカサ/プレゼント」の中に「ひどく何かが欠けているというより全てに過剰だった」というフレーズがあるが、そうしなければ書けない主題というものがあるということを僕はこの詩集を読んで強く知った。
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