「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩評 絶景は時空を超える 浅野 大輝

2017年10月28日 | 詩客
連絡船からあてもなくおりていけば
いのちは
銀色
跳ね上がる尾ヒレのおびただしさに
感嘆する
ほふっている 輝いている
コインランドリーで、二、三〇分ねむったら
はっきりした
誕生するものすべては、全宇宙をしょっていく

岡本啓『絶景ノート』より


 いけない、と思った。これ以上進んではいけない。詩集をひらいてからまだ10ページも進んでいないのに、身体はその地からのすみやかな一時撤退を求めていた。
 良い本は読者に読書を中断させる、という個人的な実感がある。読み進めたいと願う一方で、その本の素晴らしさにいてもたってもいられなくなり、本を閉じて自分の興奮を鎮めようとするほかに何もできなくなる瞬間が来る。岡本啓『絶景ノート』は僕にとってまさにそうした、少し読み進めただけでいてもたってもいられなくなってしまう詩集だった。
 『絶景ノート』は2017年7月に思潮社から刊行された、岡本啓の第2詩集である。第1詩集『グラフィティ』以後、2015年から2017年に制作された13篇の作品を収録している。『グラフィティ』が中原中也賞とH氏賞を史上初のW受賞したのに対し、今作『絶景ノート』も萩原朔太郎賞の受賞が決定するなど、大きな話題を呼んでいる。
 装幀は岡本自身が行ったそうで、厚手で硬質な表紙と本文用紙を糸で綴じ、それを緑色の線や文字が飛び交う薄手のトレッシングペーパーが包み込むという特徴的なデザインとなっている。糸綴じで製本されているため本がぴしっと平坦にひらかれるのがとてもすがすがしく、どこかの遺跡から美しい石版を盗んできてこっそりと自分のものにしてしまったような感覚さえ受ける。
 デザインや装幀が良い本はそれだけで幸せな気持ちになれるが、『絶景ノート』は内容面でももちろん読者の期待を裏切らない。第1詩集から見られる岡本作品のすがすがしい魅力が存分に詰まっている一方で、第1詩集にはなかったタイプの表現が、作品世界をさらに拡大している。

一面のクローバー、
          巨木
             の
             化石

  ボクらは 埋められていた
 ボクらは 環をえがく
       三〇〇〇年かけて
            雲が駈けてくる

                  ポ、
    リ、
      フォニー、

  手を口にそえて大きく出すとき
                 はたとふれたコップに  びっしりついた露。

地に坐る
石でおさえたちぎれ紙に
空をもらう
草は流れつづける

三〇〇〇度目の夏へ、ボクは手ぶらできた

岡本啓「Polyphony」


 詩集の序盤「Polyphony」においては様々なモノ・位置からの発話が、視覚的な表現によって立ち上げられている。「クローバー」「巨木の化石」「ボクら」「」「」など、世界にあらわれるものたちの発する音が何重にも重なりあっていく様が、行替えや空白を駆使したタイポグラフィによって鮮やかに表現されているのである。岡本の音や声に対するこだわりは、第1詩集時点からすでに石田瑞穂によって指摘されていた[1]が、今作のような視覚的表現は第1詩集には見受けられなかった。視覚的な表現自体は決して珍しいものではないが、作者のこだわりや作品の持つモチーフとここまで合致した上での視覚的表現は稀有なものである。これまでの岡本の作品空間と、全く新しい岡本の作品空間とが混ざり合い、第2詩集の門出にあかるく響きわたっているように僕には感じられた。
 細部のモチーフや言葉を拾っていくと、空間以外の広がりを感じさせるものも多くあることに気づく。「巨木の化石」「三〇〇〇年」「三〇〇〇度目の夏」などがそれである。これらの言葉から、たとえば巨木が巨木になるまでの時間や、三〇〇〇年の間の膨大な季節の巡りが想起される。視覚的な表現によって空間が確立される一方で、言葉自体の引き寄せるイメージが時間の広がりを担保している。

なざしは、雑居ビルを3F、5Fと駈けあがり、ブラインドをあけ
屋上でひろびろとせかいを着信するま
もう一度あたしは出会うのだろうか
あなたをかすめた この歯形のつよく残ったガムとも。
緊張したまま、見おろして
呼吸する、
      ふくれあがる彼女のスカート。

(中略)

穴だらけの天板が 三〇〇〇年の果てにいくつも掘り出される
どうして、あんなに 反射スル 天板に彫ったんだろう
おがくずを耳にまぶた、、、くちびる、、、、につけて
それをつけたまま校庭の真んなかで問いかけている

ボクらは、全員、一本の巨きなクリだった?

(中略)

ぼうぜんと空っぽになった
コップ。コップに溜まるわずかなひかり
そうだ、はっきりわかるほど
かたわらのひとの腹部も、ボクの子で日ごとふくらんできて
  、ことば以前の、会話が 、ハキハキ
あがってくる はっきりわかる
死産すら、絶対の未知。   環になって、
目をこすり、耳をこすり、
巨木のまぼろしにかわり 高層ビルが成層圏まで
倍音をふきあげている

本日、五月三日、二〇一五年、朝、ボルティモア市内全域で夜間外出禁止令が解除されました。
ボクは 石を握っていた  ボクは黒人で
その石は どんな
形にもなるような やわらかな
怒りだった

岡本啓「Polyphony」


 「まなざしは、雑居ビルを3F、5Fと駈けあがり、ブラインドをあけ」などの部分に見られる、認知の動きに対する精緻な把握や、主体の立ち位置が突然ワープするような浮遊感も魅力である。たとえば雑居ビルに視線を置くとき、僕らの視線は必ずしも連続的にビルを捉えていくものではない。早く動くほど僕らの視線は階と階の間を飛ばし、離散的にビルを捉えていく。その把握の確かさにやられてしまう。また、ここで動いていたのは主体の「まなざし」だったはずなのだけど、それが「ブラインドをあけ」るイメージにぶつかったとき、突然いま語っている主体の位置はビルの内部でも外部でもないような不思議な位置に動き、次の瞬間には「屋上」にいる。その視点移動のワンダーとでもいうものが非常に危うくて心地よい。
 「Polyphony」では主体自体が「ボク」「ボクら」から「あたし」「」「クリ」「黒人」などさまざまに変化する。この主体の変化も非常に怪しい魅力を放っている。こうした変化には、時間的・空間的に離れているものたちを、たった一つのものにまとめてしまうような力があるのではないだろうか。
 時空を超えて響きあう意識は、詩集全体のテーマとなっている。

たかあく砂煙が巻きあがる
立ち眩み
これ以上、流転には耐えきれない
たしかに荷台から
痩せた男がはるか後方を見つめていた
ぼくにください

(中略)

きみは目をとじる
きみはかぐ 金属の刃先を、
ガソリンを、 鶏を炙ったいい匂いを、
きみはきく  細かなハサミを、 唸るエンジンを、 とおく
怒鳴る声
地上とはなにか

(中略)

地上とは、なんてひろい運動場なのか。

(中略)

あたり一面、波打つ夏色のライスフィールド
そこは一九七七年の一月だ
一人の父親がまだ帰宅しない
数多のひとが帰宅しない
一枚の古びた写真には、無表情な女学生  まだあどけない
でも彼女、  どうして息絶えた頭蓋に
拷問を続けているの    ここではメガネのせいで連行される

(中略)

立ちすくむ
根無しの一人のアジア人

満天には星々の震え
どこまでも広大な 人として続くことの頼りなさ

ねえ、獣も鳥も虫も 一つもおののいていないよ

              一本の髪が黙って草むらに落ちる

   不安なまたたきこそ
    未知のそよぎへ
導いてくれる

       全身の、もう二度と見つかることはない
     この震えは
       歓喜と一つも変わらなくて
    ぼくは人に痛みを残すから

地上におちた 一本の針かもしれない

(後略)


岡本啓「巡礼季節」



 詩集中最後を飾る長編「巡礼季節」は、連作的に配置された詩篇によって立ち上げられる。東南アジアでの旅というものが一つ発想の起点となっているが、そこを貫くのも時空を超えてさまざまな主体たちがつながりあう意識であろう。
 冒頭、「流転には耐えきれない」としながらも彷徨い続けるほかない人間の哀しみが語られる。悪路をゆられてさらに先に進んでいくと、小さなQ数の文字で「ナゼ歓声ハアガルノカ」と告げられ、次のシーンへ移る。目を瞑ると感じられる金属の、ガソリンの匂い。そして不意に浮かび上がる「地上とはなにか」という問い――。本作品での主体は、このようにしてさまざまなシーンを移りながら、時間的・空間的にも推移していく。そこで見出されるのは、為すすべがない漂流や、それを取り巻く世界の残酷なまでの鮮やかさである。
 長編の詩の内部に連作的な構造がある以上、それぞれのシーンの主体には微妙な差異がある。そのため、まるで数多くの主体たちがパラレルに存在しているような感覚さえ受けるように僕は思う。そこでは問いと答えが数多く生み出され、あるところでの主体の問いに、他のあるところの主体が答えを見出すこともある。時空を超えた応答のなかに、かけがえのない鮮やかさ――絶景が差し込んでくるのである。

あらわれると同時に消えかかる
ことばとか息みたいだ

岡本啓「すがた」



 『絶景ノート』に収められた岡本啓作品のうち、「すがた」については実は「詩客」Webサイト上でも閲覧することができる[2]。こちらは短めの作品ではあるが、岡本の魅力の一部を味わうことができる。まだ岡本啓を読んだことがないという方がもしいれば、ぜひ[註]に記載したリンクから飛んで「すがた」を読んでいただきたい。そしてその作品に自分の何かが響きあうなと感じたなら、ぜひ『絶景ノート』を(そして『グラフィティ』を)手にとってほしい。僕がこの詩集を読んで感じた絶景は、きっとあなたにとっても絶景であると思うから。


[註]
[1]「岡本啓『グラフィティ』によせて」所収の石田瑞穂「世界の響き」などを参照のこと。
[2]岡本啓「すがた

[参考文献]
岡本啓『絶景ノート』思潮社、2017年
岡本啓『グラフィティ』思潮社、2014年
ジャンル:
ウェブログ
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