「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第203回 「生」のアマルガム 鈴木一平『灰と家』 山腰 亮介 

2017年01月08日 | 詩客
 一冊の本のなかをいくつもの生き物たちが駆けぬけてゆく。いくつもの生き物はときに姿を変え、ときには雨のしずくに映る像のように他の生物と融和しながらも、それぞれが独立し、光の焔でいっぱいの翼をはばたかせては、それを見る人のまなざしへ、鼓膜の振動へ、手ざわりへ、香りへ、空気の乾きを感受する舌へ、そして記述へと収斂してゆく。

自重で燃える光のなかで、堆積層の交替が起きた。ちいさなゆれに目を覚ました鳥が枝のいくつかを点々と渡り、空を見上げた。これから降る雨の音にまじって、川の流れる音がする。気圏の底で滞留していた雲の背中がひび割れて、飴色の肌理が泡立った。
[…]
どこかの男の夢を見た 頭のなかで 一面の野を駆け回る 子どもを目で追いかけていた
古い小屋に向かって歩いていく 子どもの姿は横目になって しばらくすると見えなくなった
小屋のなかで湯気をたてているアイロンと 茶色いしみのいっぱいついたアイロン台
そとで
銃の音がした
でも戸惑うように戸を開けて 小屋を出ていくその人は 鈴を結んだヒルガオに 足をひっかける
結ぶ口と耳 ここは日当たりの身投げする道
音は聞かれないように市場をおりて 耳にして立ち止まる人は 蔦はう塀の隅に
彫られた ちいさな話し声だとおもった

(「Ⅰ」部分『灰と家』p.7-8[引用者註]原文はレイアウトが異なる)


人の聞こえなくなる声は
金具に映る月
水際をつなぐ、球のみずうみ
あじさいの花を着る鹿は、一滴の
輪になって、首すじに浮かぶ月の光を考える
雲の端からこぼれた日差しが、道の向こうに落ちている
道の上、雨を浮かべて、寝そべったままの姿見を
横切ろうとする、空のまん中を

踏んで、雨の一滴を、紐のように
落ちた日差しを囲むよう、
あたりの影が広がって
蹄の先が近づくにつれ、うしろの影が伸びていく
顔に浮かべて、雨が伸びていく、いま
鹿と目があった
鼻を鳴らして、暗い景色を角が
水たまりに混じろうと、ゆれた
あじさいの花に日差しを残して、雲がしずかに日を隠す

(「あじさいの花を着る鹿は/2016.9」同上、p.10[引用者註]原文は縦書き)


 詩集なのか、句集なのか、日記帖なのか。
 このような問いを宙吊りにし、鈴木一平といぬのせなか座という集団は『灰と家』(いぬのせなか座[私家版]、2016年)を編んだ。
 ここにはまるで子どもの頃に使っていた「じゆうちょう」のような感覚が息づいている。書かれる/描かれるものが統一的なものでは必ずしもなかった幼少期の自由さは、決してその時期だけの特権的なことではない。僕らはいまも手帖にめいっぱい絵を描いて、効果音や擬音、台詞、あるいはそれらの複合体を書込むこともできるし――それはマンガと呼ばれるかもしれないし、絵本のようだと云われるかもしれない――、贈られた手紙の余白にちらりとのぞく動物と目があって、顔がほころぶこともある。
そ こで問われるのは、形式の問題ではなく、それらの異なる方法がどのように連続しているのかであり、さらにそれぞれの形式が接続によってどのような相乗効果を生み出しているのかである。
 『灰と家』は詩集でありながら、同時にドキュメンタリーにもなっていて、フィクションとドキュメントという一般的には相反するものと考えられているものが一体化している。しかし、どんなドキュメントもある視点から描かれる/撮られる以上、それはある主観というフィルターを通したものとなる。
 つまり、ドキュメントで描かれ、撮られ、記録されるものは絶対的な真実ではあり得ず、複数の視点から見、語ることによって複数の真実が浮かび上がる。鈴木一平は生のドキュメントを、複数の方法(縦書き/横書きを含めたレイアウト、行分け、散文、俳句、日記)で記述しているのだ。
ドキュメント、あるいは素顔を書くという姿勢はすでに装幀からも予告されている。目次や奥付が表紙カヴァーになっているのは、書物の服とも云える、表紙を剥いだむき出しの状態――すでに金子鉄夫よる栞文でも言及されている――を晒すためである。
 この書物は、さらにいぬのせなか座の編集作業を介して成立している。
 編集者と二人三脚に本を作るということ自体はさほど珍しいことではない。だが、この詩集ではもっと積極的な他者との交接がある。三人四脚、四人五脚と複数の者が積極的に他者のエクリチュールに介入し、討議を続け、何度も言葉を更新し、鍛えてゆく。その行為と行為の摩擦は複数の形式のあいだの摩擦と重なる。
 今回、鈴木一平『灰と家』にどの程度の手が入っているのかを知るすべはない。なかには本人のものかどうかもわからない記述もある。作者たちにすら、それはもうわからないのではないだろうか。芭蕉が紀行文『奥の細道』のなかに、スタンダールが自伝『アンリ・ブリュラールの生涯』のなかに創意を組み入れたことを想起しよう。各々の事実を組みあわせ、練度をあげてゆくとき、そこで「生」は表象(レプレゼンテーション)として別の「生」へと移行する。そもそも、記述とは影のように「生」とは違うものでありながら、「生」を追うように生成変化を繰り返すものである。
このような行為を経由して、鈴木一平はその「鈴木」というアノニマスな苗字と、一平という非常にシンプルであり、平坦な意味を持ちながらも逆説的に記憶に残る名――金子鉄夫による本書の栞文の言葉がまた響いてくる――のアマルガムを体現している。
 なんという急速なフォークロアへの到達だろう。何人かの作家たち(グリム兄弟、シャルル・ペロー、イタロ・カルヴィーノや千里幸惠など)が各地に伝わる民話から物語を編纂したことはよく知られているが、長く語り継がれた物語の特徴は、作者名が不在であることだ。幾重にも語られて作者が飽和してしまった結果、逆説的に揮発してしまった、というほうが妥当かもしれない。
 僕らは多くの民話を、ある作家名を通じて受容しているのだが――もちろん、そこには彼/女らの創意があることは忘れてはならない――、そこにある魅力は長い長い時間をかけて磨かれた石のように無駄のないこと、そして淘汰されずに残る、物語自体の骨格の普遍性にあるだろう。
 『灰と家』のカヴァーをはずし、本体の表紙を見るとそこには堆石の写真があらわれる。これらの石の一つひとつのように、この詩集のなかの詩句はその急速さによって歪さを残しながらも、互いと互いが支えあうかのように、堅牢な構造体として私たちの前に屹立する。

火だるまになって転がっていく藁束が、町づたいに荒れたお城の跡まで夏の火の粉をもたらした。川の輪郭は、たえず鋼色の影を携えながらゆれていた。

おくのほそみち。十字路沿いのかすかな窪みの石を指さした、そのひとが伝えたかったものを誤解して、透明なうら通りのあるあたりを目で追った。犬はまっすぐに伸びた指さきを見た。四つ足の雲梯が、石の真向かいにある施設の庭で佇んでいる。五歳のころまでそこを通った。

石碑のさきには山があり、中腹に防空壕がある。そこで自殺した人のお化けを探しに行って、朱色に塗られた格子のひとつに、ぼくは手跡をつけて帰った。
(「Ⅰ」部分、同上、p.19)


 僕はこの時評の連載のなかで、マヤコフスキーと岩田宏に言及しながら、役者(訳者)だけではなく、僕ら自身も実生活のなかで「私」を演じていることを指摘した。それは意識的/無意識的にも日常のなかで繰り返されている営為である。
 たとえば、Twitterで誰かのつぶやいた言葉が次第に伝播して皆がつぶやくようになるように、友人たちや恋人たちのあいだでだけ伝わる言葉が互いの真似をしながら何度も口に出されるように、あるいは長く一緒に過ごした夫婦が似てくるように、私たちは自分が身を置くなにかの共同体のなかで、ゆるやかな影響を受け、自らを更新してゆく。
 十七世紀に生きた万能の人物であり、思想家、数学者、発明家とさまざまな側面を持つライプニッツが、『モナドロジー』のなかで展開したあの「モナド」のように、私たちの存在は「窓のない」存在としてそれぞれ自立していると同時に、鏡として他者を映している。そして、その接触の先端においてこそ、僕らは生を感覚する。

三月十九日、雨。見えるものを口ずさんでいた

広場に立って、そこに集まる動物や虫、草の名前に耳をこらして、口が唱える言葉のひとつひとつを拾いあつめる。名前は知っていても、どんな姿をしているのかわからないもの、雨音でかき消されたものは、爪を噛んで通りすぎていくのを待った。

西日の差すころ、雨が木立のように止んだ。水たまりに戻る道筋の輪郭が晴れ、雲と地面のあいだで細長い繭になっていた雨に、水たまりを踏んではしゃぎ回る男の子の姿を見つけた。やっと、

気がついたように像を結んだ。ここは、きみの生まれた町だとおもった。

(「Ⅲ」部分、同上、p.93)


 私たちの「生」はつねに他者との、さらには世界との接触によって、またあらたな「生」へと更新され続けるだろう。
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