「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩評 「離」の時代――ルネ・シャールと中尾太一―― 山﨑 修平(第2回)

2016年11月27日 | 詩客
 東京・恵比寿のシス書店にて「アンドレ・ブルトン没後50年記念展」が、九月三日~十月二三日の日程で開催された。読者諸兄の中に足を運ばれた方も多いかと考える。
 ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表したのは一九二四年。二つの世界大戦に挟まれた時代であった。第一次世界大戦を辛くも「勝利」としたフランスも、人的資源の損失や、なにより国民の厭戦感情の昂まりを施政者は看過することができず、陸軍大臣マジノの提案による攻勢よりも防衛に重点が置かれた戦略への転換――マジノ線の設置など――に傾注することとなる。
 オートマティスムなどのシュルレアリスム技法における「私」の排除あるいは「私」のなかに他者性を介在させることは、「私」の不在である時代背景がいくばくかの影響を作者に与えていることは否めないだろう。

 幸福感ある日常の生を描くことが抗いとなることをシュルレアリスム期の詩集――例えば、エリュアールであったり――から感受することは多いだろう。
 ルネ・シャール全集は、吉本素子の翻訳で二〇〇二年に新装版が青土社より刊行された。

  あの歩行者たち、私は長い間彼らと一緒に進んだ。彼らは、口籠りながら
  あるいは揺れながら、彼らをいつも見えるようにしている旋風のおかげで、  
  私の前を歩きあるいはジグザグに進んでいた。彼らは港に又海に到着しよ  
  う、敵の途方もない気まぐれに身を委ねようと、あまり急ぎはしなかった。
  今日この男たちが作っていた絶望の六弦の竪琴(リラ)は、霞で一杯の庭で歌い始
  めた。ウスターシュ、献身的な男、夢想家が恐怖の瞬間にではなく、変ら  
  ぬ身体の中の遠い吐息に数えられていた、彼の真の使命を予言したことは、   
  あり得ないことではない。


 詩篇「ロダン」より引用した。登場人物を整理したい。まずは作中の「」がいる。「」は「歩行者たちである彼ら」と進んでいる。読者は「」と「彼ら」の二者を追いながらも、いつしか作中における「彼ら」を作中の「」に成り代わり読み進めるような感覚を獲得しないだろうか。シャールのこの詩における「」は「」の行動原理としての欲望を有していない。「」は、眼であり鼻であり言葉として「彼ら」の行動を描写している。カメラの役割を担っている。言うならばシャールの詩の言葉が誰にも何にも寄り掛かりはしないバランスの不安定さを感じる。この点はモーリス・ブランショによるシャールの論評に詳しい。
 シャールの詩における「」は、拡散している。他者であり多者としての「」により展開していく詩は、拡散すると同時に核となる「」を持たない「」の不在を意味しないだろうか。ここにシャールの作品における「」は、「」からの乖離、すなわち拡散していく「」という「離」をキーワードと捉えることができる。


 それでは、現代詩における「離」を中尾太一作品に読み取りたい。
 『a note of faith』は二〇一四年に思潮社より上梓された中尾の詩集である。

  これを人に読ませたいという衝動、たったそれだけのことが
  一輪の花をここに咲かせている
  それを詩集の名前×××にしようと君は提案するが
  僕はまだ、帰れない街の、囀りのない路上につっ立っている詩人の魂と一緒に
  徹底した錯誤の中で歌を歌っている
  比喩の炎上、龍の天井に見える透明なビジョン
  僕が見たのはそんなものだけだ

 
 詩篇「gardenia」より引用した。中尾作品における「私」は、「私」が範疇とし負うべき生を超えた「私」をも担保して共生しているような余韻を感じさせる。拡散し離れていった「私」が再び「私」へ収斂していった時に、他者である「私」や、時代や場所をも異なる「私」を引き連れているかのように。ここで、拡散した「私」が収斂し、「私」を超えた「私」を獲得したこのスタイルを「超私性」とここでは呼ぶことにしよう。
 すると、中尾の詩における「私」の私性を読者が接した時の感情のバロメーターを濃度で表すならば、作品中唯一の「私」(読者との契約とも言えるだろうか)として詩のなかで展開していく「私」という原則から離れた超私性の「私」を、時に希薄であり時に濃厚という矛盾した「私」として享受することになる。それはつまり、一人の話者である「私」が作品を展開していくのではなく、無数の「私」によって彩られた作品の中で、それぞれ異なる「私」を「私」という唯一の一人称を持つ「私」として読むことによって得られるからである。読者は味付けを自分に委ねられた料理に接するように読者個々人の体験や経験によって蓄積された「私」という像と、中尾作品における「私」とで対峙する。あるいは共闘する。
 拡散する「私」、「私」の不在というシャールの詩における「離」と、「私」を超えた「私」の中尾の詩における「離」は、どのような意味を持つだろうか。

 作品の「私」が作者の「私」から乖離したとしても、作品には作者の「私」が内包すると考える。たとえ、作品の設定として作者の「私」が体験しえないことを書いたとしても。それはつまり、作者の私の意識の範囲外における「私」の管轄しえない他者であり拡散した「私」でもある「私」が「私」に纏うからである。すると、「私」は「私」でもあり、「あなた」でもあり、「彼ら」でもあり「3月の空」でもある。
 シャールと中尾作品から導いた「離」の時代は、「私」からの避難であり懐疑としての運動であると考える。それは現実における「私」が「私」であることへの保証を、あるいは承認を得られ難い社会背景もあるのかもしれない。だが、むしろ「私」が「私」の束縛から離れ、自由な「私」を獲得して羽ばたく言語空間が展開していくことに恍惚を覚える、そしてその恍惚こそ「私」が手放しかけた、誰かの持っていた「私」の残滓である気がしてならない。ペシミスティックな、あるいは内省的な美しい詩の持つ抗いや葛藤に、シャールやエリュアールの幸福や喜びを同時に感じる時がある。このような時に矛盾した感情や、時に不条理な「私」や「私」を取り巻く社会は、「私」が「私」であることを持て余しながら「私」から離れていくことを厭わなくなってきているのではないか。今、そのような萌芽を観る時代が来ている、そのような勘違いを私はしたい。
 
 現代詩の定義として現代の詩であることが条件である。こう述べると言葉遊びのようだが、現代とは常に過去の蓄積のことである。こうしてパソコンのキーボードを叩いている間にも現代は過去になり現代詩は過去詩として生を永らえる。有限であり確定した事実としてやがて迎える死と、書くことによって現代から過去へと移りゆく詩と、私たちは常に過去の私たちの生を経て生を紡いでいる。一人しか存在しない「私」は拡散している。「離」の時代の私たちは夥しい量の「私」の置き場に戸惑いつつも現状をやがては愉しむのではないか。SNSに、卒業アルバムに、銀行口座に、過去の詩にいる「私」を。
 それが「前」であろうと「後」であろうと、どのような状況であろうとも私たちは、それぞれの「私」が発する声を残す。生を享けることによって示される道が仄かに明るくなることを幾度も騙されながらも信じてゆきたいと考えている。業ではあるが、おそらくはこれこそが人間だと思う。
 二回に亘りお読みくださりありがとうございました。


参考文献
 中尾太一『a note of faith』思潮社、2014年
 ルネ・シャール『ルネ・シャール全詩集』青土社、2002年
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