「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第209回 ちんすこうりなセカンドバージン詩集『女の子のためのセックス』編集記 平居 謙 

2017年03月05日 | 詩客
はじめに 
1 「堕ちること」で見える風景
2 不可視の領域を認めつつ、人へ
3 人の切なさを知っているから 
おわりに



はじめに

 この連載では、和合亮一『詩の礫』論を皮切りに、その時期その時期にもっとも気になった詩集を取り上げ論じてきた。実のところ、連載の依頼を受けた2014年秋ごろまでの数年間は、「現代詩」の世界全体にあまり魅力が感じられなくなっていて、小さな詩集評のようなものさえ書かなくなっていた。また生活のためということもあって、村上春樹や尾田栄一郎『ワンピース』についての本を、身体を売るかのようにやたらに書き飛ばし続けていた時期でもあった。だから、新しい詩集について本格的に連続的に論じるのは新鮮で楽しい作業だった。草間小鳥子・谷川俊太郎・阿賀猥・小川三郎・最果タヒ・吉田稀・大木潤子・草野理恵子らについて論じた。それぞれが極めてエキサイティングな出会いであった。
 1つだけ悔いが残るとすれば、第1回目の連載の最後に「次回は和合亮一『廃炉詩篇』を論じる」というような予告をしたにもかかわらず、それが果たせなかったことだ。実際、もう清書すればよいというところまでそれは書き上げられつつあった。しかし、いざ掲載しようという段になって、ある一人の女性の「和合亮一論」を偶然に読んだ。そして僕は驚いた。それは短い論だった。しかし、僕が一旦自分の中で完全否定した和合亮一という詩人を、長々と苦労し弁護しながら再評価しようとした『詩の礫』論を、ほんの一瞬で乗り越えていた。それは和合の致命傷を直感的な言葉で言い当てるものであった。僕はすべて諒解した。それで僕は『廃炉詩篇』論を破り捨てた。最早そんなものに構ってはいられないという気がしたのだった。その女性というのが、ちんすこうりなだった。
 彼女は詩人で、身体で感じ思想する方法の貫徹者だ。その方法によって掬い取られる世界が、常人には見えない美しいものであるということは長く信じてきたけれども、ここまで透み切ったものだとは思いもよらなかった。僕は彼女のバージン詩集『青空オナニー』を2009年に編集した。そして2016年の晩秋に新しい詩集の原稿を彼女から受けた。自分自身が編集途上の本について批評するというのは「宣伝」にも紛うので、本来は避けるべきだろう。しかし僕はそのタブーを連載の最終回に免じて犯してみたいと感じるのだ。また、よく言えば「編集」の立場からしか見えないものもあるだろう。それでセカンドバージン詩集『女の子のためのセックス』編集記をこの連載の最後に充てることにした。
 原稿を受けて一挙に読み進めて僕は彼女の成長を思った。先の『青空オナニー』の中にあるような、爽やかで軽やかな感覚はそこに消えていたが、読む者を黙らせてしまうような重みがそこにはあった。ひとが成長する中で、軽やかさを手放すことである種の余剰を体に蓄え、それが柔らかな美しさを形成してゆくのと同じような意味で、
 詩集は一回り厚みを身に纏っていた。少女の「軽やかさ」と引き換えにちんすこうりなが身に着けたもの。それは「得体の知れない自由思想」だった。
 詩集を読み通せば明確なように、彼女はその「得体の知れない自由思想」を、数多くのセックスの体験を通して手に入れてきた。しかもそれらは、ほとんどは二度と会う事のない、一度きりの出会いも含めた、世間から言えば「不埒な出会い」に分類される。だが、僕は世間のその「非難」を正当なものだと思わない。「世間」というものは、たとえば格闘家の極端なトレーニングとか、荒行を行なう修行僧のような存在に対して「なんだってあんな無茶をやるんだ」と、いつだって眉間にしわを寄せて否定する。そしてちんすこうりなが第1詩集以降貫いてきた行為は、それらと同じ領域にある。決してフツーの人が辿り着けないところ。書物からは得ることのできないもの。ひとつの生き方を貫くことで、常温からは突き抜けた絶対温度のようなものを手に入れるところまで、その沸騰は到達している。
 以下、詩集に収める予定の作品について、紹介をこころみよう。

1 「堕ちること」で見える風景

 詩集冒頭に配した「詩」という作品。暴力という言葉が読者の目を惹きつけるだろう。

わたしにとって/すべては暴力で
わたしは/すべての暴力を/受け入れる
そして/なにものも/わたしを/傷つけることはできない


バージン詩集『青空オナニー』は、既述のように爽快に放たれた恐れ知らずの宣言であった。彼女はその後、世間が仕掛けてくる反撃に対して「詩」で以て身を守ったのだ。そういう強さが、新しい詩集の中には頑として存在している。その意味で僕はこの作品を冒頭に配した。この一篇だけによってでもこのセカンド詩集『女の子のためのセックス』は人々の、特に愛を真剣に求め続ける女の子たちの記憶に残るだろう。
 彼女自身の謂いによればこの「わたし」というのは「詩」のことであって、どんな風に定義されても受け入れる詩というジャンルそのもの強さを言ったらしいのだが、それであればなおさら僕はこの詩を彼女の生きる宣言のように読む覚悟がさらに強くなる。なぜなら彼女は「自分自身が詩」だと言い放っていることになるからだ。
 続いて「バイバイ」という作品を置いた。冒頭が衝撃的だ。

お金で買われるのは気持ちいい
同じように並んだ女の子の中から/選ばれて/外へ抜け出す
シンデレラのような/高級な売春婦のような/気分で
昔から恋人だったかのように/手をつないで/風をきって歩く


 かつて援助交際が「流行」したことがあるが、ちんすこうは「お金で買われるのは気持ちいい」と堂々と宣言をする。颯爽と彼女は歩くが、その心の中のシンデレラはメルヘンの住人ではなく高級な売春婦に他ならない。「バイバイ」は可愛い幼児語「BYE BYE」にも見えるが、実のところ「売買」であり、それは性の売り買いを意味するのだ。ここで図式的に倫理や愛の不在を論じす者がいるとすれば、それは価値判断を他人任せにする卑怯者であり、「バイバイ」という詩を頭から否定してしまう読者は、芸術の何かを知らない大ばかな人だ。ちんすこうりなは次のように言い放つ。

そんな/たくさんのホテルの中の一つに/入るまでの時間が/一番好き
ホテルを出て/バイバイする時が/二番目に好き


 この感覚はおそらく、それ自体が世間と一定の距離を置くことで辛うじて存在している「詩」や芸術といった僻地の世界でなければ受け入れられないだろう。けれどもそれは開き直りとか露悪とか言ったレベルではなくて、彼女の真の信仰の姿なのだということが僕には理解できる。彼女はもう会うことのない相手、すなわち自分にとっては利害関係が存在しない相手のために、優しく祈るのである。

お互いが/同じくらい/同じ気持ちで/想いあう
もう会うことのない/一度体を重ねただけの/相手の幸せを
その瞬間/優しい気持ちで祈る//バイバイ


新約聖書には「汝の敵を愛せよ」とあるが、本当のところ人が祈ったり愛したりするのは、自分にとって大切な人のことだけに過ぎない。しかし、ちんすこうりなは、二度もう会う事のない相手のために祈る。「バイバイ」はアーメンにも似て気高い。だからこそ彼女は、常人とは異なる世界にずぶずぶと足を踏み入れてゆく。さらには、自分のことだけではなく、自分と同様の心的境遇で生きる他者に対して、包み込むような視線を送ることが彼女はできるのである。彼女は21世紀に現れたお金で買えないマリア様だ。
「いずみさん」という作品の最終部にも、そういう異なる世界へ向かいたいという呟きがある。

いずみさん円山町に行けば/あなたに会えるの
壊れたマンコをワンピースの下に剥き出して/ぽっかりあいた月を見上げて/待ってるふりをしてる
赤い口紅を塗りたくった性器で/けらけら笑って吐いてるの
/いずみさんいずみさん/わたしも千円でいい/愛がないならお金をとらなきゃ
/まばたきとまばたきの間に/わたしが沈んで/あ、/堕ちたい

(「いずみさん」最終部)


 愛は麻薬のように次々に新しい刺激を求めさせる。しかし、世間から言えば「悪いこと」と呼ばれる。彼女はそのくらいのことはよく知っていて、自分の居場所を「片隅」だと表現する。第1詩集『青空オナニー』の無条件解放感は薄れているが、僕はそういうところも、この詩集の中に見られる成長点の1つだと思う。
      
片隅

誰もいない/公園の/駐車場/月明かり/手をのばしたら/始まる/してはいけないこと
しては/いけないことを/するのが/好き/昔から/ずっと/そうやって/きたの/し続けて/きたの
だから/もっと/悪いことを/したい/もっと/悪いことを/しなければ/いけない/してやりたい
そんな/つまんないこと/忘れるために/もっと/もっと
(全文)

 ちんすこうりなとは時々詩の批評で会ったり、たまに電話で喋ったりするくらいだが、明るい声の裏側に、いつも悪戯っぽい彼女の笑顔が見え隠れしている。どんなこときでも彼女の頭の中は冒険で溢れているのだろう。自分の好きな自分でいるということ。そのことが彼女にとっての最も大切なことなんだなと僕は想像する。
 
2 不可視の領域を認めつつ、人へ
 
 前節「堕ちることで見える風景」で、彼女の見た風俗世界について覗いた。しかし彼女が見るのは「目に見える風景」だけではない。見えない領域もきっちりと描き出してくる。そこが詩だな、と思う。最も分かり易いもので言えば例えば次のような部分がそれにあてはまる。

東京、/アスファルトの下に
土が埋まってるなんて信じられない
  
(「おっぱぶ2」部分)


 ここには2つの「見えない」が複雑に絡み合っている。1つは土がアスファルトによって「見えない」こと。もう一つは、「アスファルトの下に土が埋まっているかどうかなんて、誰も考えもしない」ため、その問題自体が「見えない」ということ。けれども、詩の中の女性は

ハイヒールのかかとを/すり減らしながら/すり減らされながら/元通りになることはなくて
あられもない/かつかつという音を/ごまかしながら歩いて行く
 
(「おっぱぶ2」最終部)


 というように、アスファルトをハイヒールでかつかつ突き、「土の不在」の問題を考えることをごまかしながら通ってゆく。ごまかす、ということは、意識して目を伏せることである。詩の人物は、アルファルトの下の土を「見ない」ことに意識的である。

渋谷駅から股が割れて尿が流れる/あみだくじの一本はラブホテルへ通じる
コンクリートの下は腐っていてたまに異変に気づく/ラブホテルがひしめいて扉を開けると
部屋がひしめき102を開けるとやはりひしめいている/彼女のしたは真っピンクな嘘
本当は嘘のない世界に行きたいという嘘もう何が本当で何が嘘か考えるのやめた
銭湯上がりの爽快さで道玄坂を一気に下る!
セックスの後にラーメンを食べたいのはお腹がすく以外の理由があると思うんだ
欲望にのまれて流れついた流木が亡霊みたいに立ち並んでる

(「宮益方面は知らない」部分)


 ここでも前の詩と同じように、「コンクリートの下は腐っていて」というように、ちんすこうりなは物事の根元に眼を向けるということをする。表面が綺麗でも裏側は腐っている。彼女の目のつけどころがはっきりと分かる。見かけが恰好良い男でも中身が全くないとか、豪華な服を着ているが卑怯この上ないとか。多くの男と抱き合うことで、裏側への目線が養われたのだろうと僕は推測する。もちろん推測でしかないが。翻って後半の「セックスの後にラーメンを食べたいのはお腹がすく以外の理由がある」は、これは認識や目線のレベルを超えて、もはや謎の領域に嵌ってゆく。
 僕ならば、「セックスの後にラーメンを食べたいのはお腹がすく以外の理由がある」こと自体を詩にするだろう。詩中、「彼女」が出て来るが、そんなものさえ切るだろう。何だか、考えたこともない、不思議な世界と理論とに必死になって、奇妙な世界を目指すだろう。 突然そんな風に自分自身の詩法について考えながら、「ああ、ちんすこうりなはそうなしないのだな、そしてそれが彼女と特徴であり、特長なのだ」と改めて気づいたのだ。
 ちんすこうりなの詩の中にはたくさんの人々が登場する。風俗業に勤める女のコだったり、初めて出会ったばかりの男だったり、センセーだったりする。そして、彼女が描くのはそれらの人々との丁寧な出会いと別れなのだ。
 詩集中で僕の好きな詩に「そんな終わり」という作品がある。そういえばその中で「ていねい」という表現を彼女は使っていた。「そんな終わり」は、別れることになった男女が、お互いが貸し借りしていた漫画を「一冊一冊/ていねいに/紙袋に入れていく」だけの詩なのだが、「世の中にはそんな優しい終わりもあるのか」と心が和らぐのだ。前節で引用した「バイバイ」の終わり方にも同じ思想が現れている。

マンガ、返さなきゃ//会うたびに/貸したり/借りたりした/大量のマンガ
汚さないように/本棚の上の方に並べてある/長くそこにありすぎて/すっかり/馴染んでしまった
…(中略)…一冊一冊/ていねいに/紙袋に入れていく/おもしろかったね/お互い知っていくみたいで
//(純情な話だね//(相変わらずえろいね
       
(「そんな終わり」部分)


 詩集最初の方に配した「始まりや終わり」は、とても物悲しい作品である。大阪にある阪急東通り商店街が舞台である。酔ったサラリーマンが土下座している。酔っ払いの世界では、それほど稀な光景でもあるまい。しかし、語り手はそれを見逃さない。そして「私は/ホテル代を払い/男に体をあけわたす想像をする」。かなり突飛な連想だが、それは男が「救われるかもしれない」と思うからだ。この詩の最後は「出口が見えるまでのあいだ/少しだけいのる」とある。ここにも救済のマリアが佇んでいる。
 そのほかにも、決して忘れることのできない先輩(彼女も女性で、詩中の語り手は初めて身体の関係を持つのだ)や、ようこ、愛子ちゃん、ちひろ、いずみさんなど沢山の名前も登場する。
 ちんすこうりなは、古の幻視詩人と同様に「見えないものを見抜く力」「不可思議な領域への直感」を持ち合わせながら、主な興味は他者との関係という一点に集中している。形而上性を超えて(・・・)、人事に心を砕くのである。

3 人の切なさを知っているから
  
 どうしてちんすこうりなは、人を描くのだろうか。それは、彼女が人の切なさと淋しさ、そしてそれを基盤にした喜びを知っているからに違いないと僕は思う。それがこの詩集の収穫であって、すなわち第1詩集『青空オナニー』からの成長点なのである。
 たとえば彼女は、愛情が消えてゆく瞬間の目撃者だ。彼女は「男って/射精した瞬間愛情の一部も/流れていくらしい」という妖しげな情報を本か何かで読んで知っている。しかし、ある日それを実体験する。体験をちゃんと言葉に置き換えることができるということは、何と素晴らしいのだろう。同じような体験を持つ男女は沢山いても、その経験や印象を綴れるひとがそれほど多いとは思えないのだ。

私の頬に出した/あたたかい精液/じっと見つめたあとで/申し訳なさそうにふいてくれた
子供になったような/くすぐったい気持ち//本で読んだんだけど/男って/射精した瞬間愛情の一部も
流れていくらしいね//だから/あなたの横顔は哀しそうなのか

(「射精」)


 また、淋しさは相手だけではなく、当然自分自身のものでもある。さまざまな相手と身体の関係を持つということは、数多くのリスクを持つ可能性が大きいが、もはや自分が「本当に大切で守ってあげたい/たった一人の女の子になることはない」と直感してしまったとしたら。おそらくはそれが一番の大きな悲しみであり淋しさであり、最大のリスクに違いだいだろう。そういう危機感をユーモラスな表現の形で描き出すだけに、より一層、しんとした静まり返った気持ちにさせられてしまう。

ちんちん舐めてたら/ちんちん、好きなんだね、/とあの人は言った
本当は/好きな人のだけ、好き、と言おうとしたけど/うん、とだけ
それから/あたたかさの中でこう思ったんだ/私はもう二度と
本当に大切で守ってあげたい/たった一人の女の子になることはないんだって

(「ちんちん」全文)


 本当に切なくて涙が出そうになるが、おそらくは、数多くの男と身体を重ねつづけるとこのような思想にたどり着くのは想像に難くない。ただそれは想像であり、想像に過ぎないので、僕は一切口を挟むことができないでいる。
 その意味で彼女の体験は特殊なレベルなのだと敬意を払う。
 人の淋しさを知るということは、想像を絶するような発想の高みにまで達する場合があることを「一番幸せだったとき」の最後の部分で読者は知ることになる。大学4年生の時、タイにバックパッカーを気取って旅行した彼女はあるツアーでレイプされる。

その夜私は襲われたのだ//小屋の中は真っ暗で/誰が隣にいるのかもわからなかった
ただ/男のごつごつした手が/私の体をまさぐった/その/純粋で無邪気な性欲を
受け止めながら/嫌じゃないなと思った/息をひそめて/可愛らしいとさえ思った
…(中略)…
本当に本当に幸せだったんだよ
         
(「一番幸せだったとき」部分)


 何と言えばよいのか、淋しさを知った者の余裕とでもいうのだろうか、既に繰り返し本稿で触れた「祈る」という行為にも似た、他者への理解。レイプする男の性慾を「純粋で無邪気な性欲」と感じる感性。最後の「本当に本当に幸せだったんだよ」の「本当に本当に」というリフレインに原始の歓喜とさえ言うべきものが滲み出ているのだ。
 他者に向ける目は、詩の語り手だけが持つわけではなく、客観的に描き出される友人もまたその視線を所有している。もちろんそれは視点人物が持ち得ているからこそ抽出できるものなのだが。

AV女優になるために/東京に行ったようこは/マンコ壊れたって言って帰ってきた//笑ったら/
涙がでた//ようこは/可哀想な人に/微笑むようにするのが上手くなってた
 (冒頭部分)

 この詩集には、何ページにも渡る長い作品と、1ページで終わる短い作品が含まれている。僕は次の「ロマンチック・メモ」は短いタイプの典型でもあり、ちんすこうりなの純粋さを如実に表す良い詩だと思う。

ロマンチック・メモ

あなたの瞳に映るわたしが好き
自分の好きな自分になれるから
わたしの瞳に映るあなたもそうだといいな
  (全文)

さいごに

本詩集『女の子のためのセックス』の表題作の中で、ちんすこうりなは繰り返し自由と孤独とについての言葉を吐き出す。詩集最後に置かれた表題作の中で彼女は次のように書く。

彼女は自由
自分のためのセックスをしているから
それから孤独
自分のためのセックスをしているから


この「自由」という言葉が彼女のキーワードと見えて、作品最後でも次のように言う。

あと100回負けたら
自由になれるよ


 「100回負ける」というのは、この詩の中で男の子にダーツで負けたらセックスすることになっている、その前提で書かれている。
 本稿最初に「彼女が手に入れたのは得体の知れない自由思想」と書いた。この詩の中にはまさに「自由」という言葉が登場する。「得体の知れない」と書いたのは、常人が近づくことのできない領域でそれが実践されているからだ。恐ろしく不自由で悲しく淋しく、どうしようもない修羅場を潜った上での自由なのだ。僕も、そしておそらく多くの読者も手の届かない領域において。
 第1詩集『青空オナニー』(2009)から8年。経験を重ねて「祈り」の目線を手に入れたちんすこうりな『女の子のためのセックス』。本書の底に流れている「淋しさ」に気づく読者が一人でも多くいればいいなと願っている。
(『女の子のためのセックス』人間社×草原詩社 近刊予定)

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