「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第208回 万華鏡、あるいは「生」の更新 山腰 亮介

2017年03月08日 | 詩客
 書くことのなかには読むことが含まれ、また読むことのなかに書くことは含まれる。書くとは、まだあきらかになっていなかった未知の私に出会うことであり、読むとは他者とのかかわりのなかに既知と未知を見いだしながら、それらとの感応のなかに、私自身を見いだしてゆくことである。
 瀧口修造から、アンドレ・ブルトンから、シュルレアリスムから私が学んだことは、他者との応答のなかで、私は私に出会い、私を更新してゆくことができる、ということだ。
まだ肌寒さの残る自転車での帰り道、沈丁花の香りに気がついて、その名を教えてくれる友人。飛び交う猫にあふれる絶壁の町(横浜という町はすこし外れに足を向けたとたんにまるで違う光景に出会える)。ふと路地裏を覗くと、そこだけが過去に取り残されたかのように浮かんでいる、ちいさな看板。夕暮れを飲みこむ山まで続いていく電柱、何頭もの牡鹿が角をぶつけ合ったまま硬直したかのような銀杏の樹々をたどって歩くとき、私は私のなかの既知と未知とが、せめぎあいながらも、同時に変化してゆくのがわかる。他者とはかならずしも人である必要はない。私はいたるところで、さまざまな他者と出会う。
 このように書くとき、私のなかには通り過ぎていったいくつも他者が私のなかに住んでいることを思う。私の書くものとは、たえず私と世界との往還のなかから生まれてきただろうし、これからもそうして生成されてゆくだろう。
 ブルトンが『ナジャ』の冒頭で投げかけた「私は誰か?」Qui suis-je?という問い(フランス語原文では二つの読み方ができ、「私は誰を追っているのか?」とも読むことができる。詳しくは巖谷國士訳、岩波文庫版の訳注参照)は、そのような絶え間のない、鏡合わせの応答のなかにある。
 『現代詩手帖』2017年3月号の特集「ダダ・シュルレアリスムの可能性」を読み、そこに見いだすことは、このような応答へとシュルレアリスムはたえず開かれていて、私たちを誘いかけているということだ。ブルトンは問いを投げかけながら、同時にその答えを示す人であった。だが、それはデジタルな、あるいは一問一答的なものではなく、万華鏡のように姿を変えてゆく、「痙攣的」なものなのである。
 昨年末におこなわれた座談会と朗読によるイヴェント、「サクラココレクション・アワード2016」にて入手した詩誌『くたばれソレイユ』は、タイトルが詩誌全体を結びつけながらも、ひとつの答えには回収されない問いの力をその表紙から予感した。装訂を担当する金澤一志によるものだろう、表紙にはすこし枠のゆがんだオレンジ色の円が灰色のなかに灯っていて、タイトルから太陽を連想させる。だが、どこか果実のようでもあり、染みのように浮かびあがる斑点は、月のクレーターのようにも見え、さまざまな読みを誘う。
 このような複数の読みは、タイトルからも可能だ。「くたばれソレイユ」という言葉は、太陽を否定するものであると同時に、否定によって、眩すぎる太陽の光の強さを逆説的に示しているともいえる。そのような二重性を意識しながら各詩篇を読むとき、編者である榎本櫻湖をはじめ、望月遊馬、石松佳、杉本徹、萩野なつみ、カニエ・ナハのそれぞれの詩篇が、各々タイトルの言葉に応えて執筆されているのではないか、という推測が成り立つ。あるいは、タイトルの持つ書物を束ねる力が、各々のテクストを受容する者の読みに方向性を与えていると解釈しても良いかもしれない。各詩篇に登場する「明け方」、「」、「金星」、「地球」や「天球」といった言葉たちはタイトルや装画とアナロジーを結んでゆく。
 ここでは望月の「ハムスター語録」に焦点を絞ることにしよう。この詩は、とあるハムスターの実験者が、夢想状態のなか、過去を回想してゆくものである。彼は自らの棲家の外側を感覚しながら、眠りにいたる経緯や、記憶をゆめうつつな状態で想起する。まるで彼の身体の延長であるかのように、室外の雨の様子が内側まで伝わってきている。ハムスターというちいさな生き物の見ている世界を想像するとき、その世界のスケールは相対的に大きくなる。このスケール・チェンジは、書物自体が身体の、あるいは世界の入れ子であることをより顕在化させている。童話やお伽噺がしばしば世界の入れ子として機能するのは、このスケール・チェンジの魔術が一因として挙げられるだろう。過去の記憶は、「おばあちゃんのネックレス」というオブジェのなかに圧縮され、オブジェはアナロジーによって、さまざまなイメージと出会いながら、その意味を更新してゆく。

[…]ぼくのためにペチュニアの種をくれたおばあちゃんが大切にしていたネックレスを壁にかざってしんとして眺めた、おばあちゃんは足腰が悪くてあまり動けなくなってからもぼくのためにペチュニアの種をあつめてくれていたんだ、ぼくは巣穴で踊りながらそれが最期になるような星をかきあつめたい、そうしておばあちゃんのネックレスのように星と星をつないで夜空に描きたい。おばあちゃんが星になった日にぼくの巣穴のまわりは花畑になって、もうこれですべてがさよなら、はじまりのさよならなんだよってぼくはひまわりの種をお墓のまえにたくさん捧げて泣いたんだったかな。

 涙もすでにオブジェと化し、そうしてまた別のイメージへとやがては更新されてゆくだろう。ぼくらの窓には、もういくつもの花々と予感とが満ちている。
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