「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第166回 AgaY『ヤクザみたいに綺麗ね』の悦楽―反倫理ロマンチストの純愛― 平居 謙 

2015年09月22日 | 詩客
0 はじめに
1 徐々に判明する人物相関
2 私とは誰か
3 Kの正体
4 AオアB、シノザキ
5 事件と復讐
6 貫かれる「反倫理」
7 ロマンチックな結末
00 おわりに



0 はじめに

 阿賀猥、いや「AgaY」の『ヤクザみたいに綺麗ね』を読む。
「ヤクザみたいに綺麗ね」と言われても困ってしまう。ヤクザが綺麗だと思わないし、そもそも「綺麗」を「ヤクザみたいに」という語で言うのも変だ。「詩集」タイトルに「ヤクザ」という語が使われていることにも異和感がある。にもかかわらず、この作品は面白い。阿賀さんからお送りいただいたこの詩集には、手紙が添えられていた。許可を得て、その内容を紹介する。

  「阿賀さんのは詩ではない」と荒川洋治に言われております。では詩でなければ、何なんでしょうか?
  詩ではない詩もご批評いただければ楽しいことでしょう。


 荒川洋治が、阿賀のどの詩をさして批評したのか。どういう根拠でそういったのか。そのあたりのことは詳らかにしないので、それに対してはコメントのしようがない。が、この『ヤクザみたいに綺麗ね』に関しては、彼女の言うように「詩でなければ何なのか」と僕も思う。これこそが、詩じゃん。と。もっとも、そう言う以上、どこが詩なのか説明しなければならない。
 また、「普通より、ちょい、というか、かなりというか、下品で低級という意味で、おっしゃるかたもあります。あたっているかもです。なぜとなく嬉しいです。」とも彼女はファックスに書いてきた。相変わらず頼もしいガラクタ精神である。
 さて「詩ではない」かもしれないこの本はしかし、少なくとも「普通の散文」を読むような感覚で接すると、何だか意味が判らない。それはもちろん作者の意識的な戦略で、そのような代物として読者の前に放り出されているのだ。それならば、読者としてはその戦略をかいくぐって、作者の待つ高原へとにじり寄るのもまた面白いではないか。そうすると、少しずつ蕾が開くように、全体の美しい展望が見え始める。
 この詩集には4つの面白みがある。その面白みは、やはり詩の面白みだ。おおよそ次のようなものだ。
(1)読み進める中、徐々に人物相関が明らかになり、面白みが増してくる。この開かれる視界が、詩だ!
(2)登場人物たちの持つ、或いは目指す「反倫理的信念」が強烈で刺激的。この破壊精神が、詩だ!
(3)上記反倫理性にも関わらず、描かれている愛が純粋で心打たれる。この純愛が紛れもなく、詩だ!
(4)物語が短詩に絡みつく事で、短詩の複層的な魅力が開かれてくる。この巧妙な仕掛けそのものが、詩だ!
 以上の4点を核として、本稿では、作品の具体的な部分に即しながら読み進めてゆく。

1 徐々に分かってくる「人物相関」

 冒頭には「花」という一篇が置かれている。先に「少しずつ蕾が開くように、全体の美しい展望が見え始める」などと言ったのは、この「花」に引きつけられたからかもしれない。

      花
  黒地に黄色の花を散らしたシャツ、黒のスーツ、
  なんかヤクザみたいね
  ヤクザみたいに綺麗ね
        (巻頭)

 上記作品などは一般に「詩」と言っても異和感はないだろう。けれども、この詩集の工夫は、それぞれの詩に、バックグラウンドとなる情報が付されているということだ。それによって読者はより深い思い入れを持って読むことができる仕掛けとなっているのだ。
 仮に何の情報もなくこの詩を読むと、ある女性(阿賀猥が女性なので、一応そう読む人が多いだろう)が、誰か男の人に「その服、ちょっとヤクザみたいね。でも綺麗ね。」と言っている、そういうワンシーンが思い浮かぶ。それ以上のところは、読者が勝手に想像して埋めてゆくしかないのである。そしてこういう想像をすることは(これは意外なことなのだが)詩の読者は苦手な人が多いと見える。だから語り手=作者本人、と誤解して読まれてしまうことがものすごく多い。しかしもちろん常に語り手=読者であるわけではない。
 この詩集では、読者が想像しなければならない部分を、「物語」めいたものをたくさん配置することで、とても楽にしてくれている。楽なので、いろいろな想像ができる。
そももそ、人は意外に「好きに、自由にやってください」と言われると却って何もできなくなる。逆に、「この範囲内でしか想像してはいけませんよ」などと言われてしまうと、ヘソを曲げて、どんどん想像してみようという意欲が働いたりする。阿賀はこの心理にうまく付け込んでいるように僕には思われる。
 「物語」めいたものがたくさん配置されている、と言った。「物語めいた」などと言ったのは、それ自体に隙間がたくさんあって、ところどころに現れる一般的な「詩」(たとえば上記「花」)の完全なインデックスとはなっていないということだ。それだからこそ、インデックス自体も他のインデックスとしての「物語めいたもの」を希求し、結局のところ本書一冊が、読者の前に複雑な詩的混合物として立ち上がってくるのだ。
 本書を始めから順に読み進めてゆくと、「私」「彼ら」「シノザキ」、そしてややあって「K」というような人名らしきものが少しずつ登場してくるが、それらが一体どういう人物なのか、相互にどういう関係にあるのかは、少し「我慢」して読み進めないとよく分からない。長い作品には基本的には含まれているこういった「時間芸術」としての特徴が、この詩集にも強く感じられるし、作者はそれを意識的に有効に生かそうとしている。
 そういう意味で、冒頭の「花」の本当の良さがわかるのは、全編を読み返してからだろう。
 人物相関が徐々に明らかになってくるプロセスを逐一再現することは本稿の役割ではない。むしろそれは読者の特権として残されなければならないだろう。ここでは2節以下に登場人物の立場・信念・役割等を整理して示す。けれども繰り返すが、実はこれら人物の相関関係が徐々に判ってくる道のりの悦楽こそが本書の魅力の大きなひとつでもある。


2 私とは誰か

 極めて激しい生き方、波乱万丈の生、といったものを感じさせる一篇の詩が本書の前半部分に見られる。

      ダリア
  空の断崖を雪崩れ落ちてゆく
  だれかの悲鳴
  それから笑い声

  その夏、私の庭で真っ赤な大輪のダリアが開花する
     (p29)

 この物語の中心人物である「私」は一体どんな人物なのか。本書の中では視点人物がころころ変わり、「私」は時には「彼女」となり「僕の上司」と呼ばれたりする。「涙」(P15)という詩の中には「ただ涙を流した」「寂しい寂しい生きものである私」という言い方が出てくる。「私」は寂しい女なのだ。彼女は「何日かをKの部屋で暮らしたことがある」(「K」章扉詩P17)。
 「私は、ボウボウ頭をして、目を血走らせ、事業計画を息もつかせない速さで喋る」(「花瓶」P18)というような表現から、ばりばり働くキャリアウーマンのようなイメージがある。のちにKによって「彼女はビジネスエリート」(「K 2」P32)と呼ばれたりする。
 Kとの関係は最後まではっきりと読者には分からないが、「私はその揺れる街路を靴を脱いで、裸足で歩いて帰った。」(「一九九九年 夏」章扉詩 P27)のような、一種思いつめたような情熱を私は示す。「蝶 1」(P34)にも「彼女は始終不機嫌で」「途中ふいっと立ち上がって、それからそのまま帰ってしまった」とある。「彼女」はそのようなことをする感情の激しい女性である。「わが思いは炎のごとし」(「夏」P28)も同様である。 
 「一族」の章(P71~)から「私」の生まれた家は「女系家族」であり(「一族」P72)、すでに八歳でサンローランの眼鏡をかけていた(「サン・ローラン」P76)という思い出も語られる。「私」は「あとは実体験を踏むのみだった。」(同)と振り返る。実体験とは?それは「私は10人位の男と寝たい」「私は20人は欲しい」(「将来の計画」P77)等の言葉からから推しはかることができる。自由奔放な志向と思考を持った女性、それが登場人物の「私」の基本造形である。
このように読んでゆくと、「ダリア」1行目の、「空の断崖を雪崩れ落ちてゆく だれかの悲鳴」というという表現も「だれかの悲鳴  それから笑い声」というのも男と女の不安定な恋愛感情の喩とも読めるし、「庭で真っ赤な大輪のダリアが開花する」のも開放的で我儘放題の恋のやりかたとも感じさせる。
 「私」の造形はある程度作者自身と重なっているのだろうか。作者の私生活については残念ながら僕は知らないのだが、彼女の編集する数々の奇抜な本などから推し量るに、多少なりとも共通点はあるのかもしれないと思ったりする。


3 Kと私の関係性

 本書をもう少し読み進めてゆくと、あっけらかんとした表現で「私」と「K」の関係が示されることになる。具体的なシーンなど何も書かれておらず、そこにあるのはKの性器への評価に過ぎない。このような愛情表現もあるのだと感心する。 

      Kの性器
   Kの実に敏感な性器。  
  信じられないほど敏感で、かつ常に優秀である性器。
  Kはそれ以外のものに興味を持ったことがなかった。
  Kはそこに自分の未来が通じていると信じている。
  そこだけ、そこだけに。

  何ということだろう、チカンでもないのに
    (P24) 

 本書において重要な役割を占めているのは「K」だが、「K」は私と深い関係にある。「Kの手は美しい。」(「手 1」P20)「ピアニストのように美しい指。」(「手 2」P22)という言葉から、本書のタイトルにある「綺麗」もまた、Kへの賛美のように感じられる。上記「Kの性器」には「信じられないほど敏感で、かつ常に優秀である性器。」という言葉もある。
 私が「暑さで恋どころではなかった?」と尋ねると「馬鹿馬鹿しい、冗談じゃあありませんよ」と強く言う。(「一九九九年 秋」章扉詩 P31)というシーンも見られ、仲睦まじいカップルというのとは始めから違っている。私は拒絶されているのか。それとも、「貴女以外に目を向けるわけがない」というKの告白の意味も先のセリフの中にあるのか。
 先に2で見たように、Kから見て「私」はビジネスエリートなのだが、一方「僕はその落ちこぼれ」「恋人とか愛人とかいう形ではない形」「友人でさえなかった」「いつまで彼女に囚われていなければならないのか」「ひょっとして彼女は、僕を忘れたいのではないか?」(「K 2」P32)と思い悩む。私とKとは、奇妙な心理的距離感を保っている。しかし、よく考えてみれば恋愛関係の一般法則など本当は存在しないわけで、全ての恋愛心理は微妙で奇妙なものなのだろう。私とKの関係のように。


4 AオアB、シノザキ

 シノザキには、「私」は頼りっきりである。後に起こる「報復事件」の時も常に一緒である。「私」はシノザキの前では比較的素直になれるようだ。

      涙
  けれど私は、どういうこともなくて、ただ涙を流した
  とめどなく涙はあふれにあふれ……
  寂しい寂しい生きものである私はなぜとなく泣き続けた。
   (P15)

 「K」の他に、「AまたはB」と自称する奇妙な男、そして今述べた「シノザキ」という女性も重要な人物である。AまたはBは「アキアカネ」章扉詩(P39)に初登場する。私のことを「僕の上司」と呼ぶ(「フィアンセ 1」P40)。また同詩の中でKと出会っており、Kのことを彼女(私)の「フィアンセ」と考えている。Kとの会話の中で、彼女がミスを見つけたら「僕たち」は解雇されると怯える。「解雇されるのは僕たち二人 彼女は二人をほとんど判別さえしない」というセリフは、「AまたはB」が多重人格者である可能性を感じさせる。彼(ら)は、「彼女を凌駕出来る何か」を探している。(「僕達の上司」P42)。また「フィアンセ 2」(P46)には「アシスタントのAオアB」という言い方で彼の役割が判明する
 シノザキは早くに登場するが、「フィアンセ 2」(P46)まで、誰なのかわからない。「私」はKとの約束を何度か反故にしたが、一度はシノザキが現場に説明に行っている。私に敬語を使うところからすると「私」の部下なのだろう。しかし、私を常に援護する重要な役割が彼女にはある。上記「涙」の詩も、シノザキの親身にして厳しいアドバイス(具体的な内容は読者にははっきりとはしない)を受けるという作品に次いで現れている。シノザキは気の置けない人物でもあるのだ、私にとって。


5 事件と復讐

 物語は、比較的早い時点で、大きな転機を迎える。何が起こったのだろう。詳しくは何も書かれていないが「私たちの星」が「砕け散った」のだ。
       
       星々
  そして、その日、私たちの星は砕け散った。
  天空で、バリバリ音を立てて星々が砕け散る音が、谷底にいる私にまで
  聞こえた。
                       (P54)

 信頼関係が崩れた?パンチを食らい、漫画のように目の前に本当に☆が飛んだ?ともかく全てが変わってしまう事件が起こったのだ。その後「私」はKと長く会わないままに過ごす。「二〇〇一年」章の扉詩(P59)に 「最近パッタリKにあった」という詩句がある。それまで会っていないわけである。少し先に「ペンダント 1」と(P62)いう詩があるが、その中では「それは、生物としての霊性を持ち、ついにはある意味のようなものさえ、持ちはじめてしまい……」それを「うっとうしさ」として認識する私が見られる。また続く「ペンダント 2」(P62)では逆に「品格が私を圧倒し、私は、ペンダントの裏のただの留め金のようなものになってしまった」という表現がある。このペンダントは、「事件」が起こる前に、Kが私にくれたものなのだろうか。持っているだけで、辛い気持ちになる。けれどもKや、Kの指、Kの性器のことなど思いだして捨てることは出来ない。その品格の前に「私」は卑小なもののように感じられてしまう。そんな風にちょとセンチメンタルに読んでみた。
 その「事件」への「復讐」(P67)が企てられる。その詩の中では「わたしは彼らに復讐をする、と見られていた、」とあるから、復讐するは我にあり、である。さらには、「袖」章(P81~100)には、不審な車に付け回されたり、自宅に誰かが侵入したりする。「家から男が3人」「急発進する」「幻覚か?」それに対して「私」は「どういう形でもくたばらない」と敢然と戦う。「それが私だ」(「深夜」P94)。これらの争いの根底には何があったのだろうか。ヒントとしては「忘れる」(p90)の中の「あなたの発言はささいなことですから、あなたはすぐお忘れになるでしょうが、私たちはそうではありません。私たちは決して忘れません」「けれど恋 恋はそこまであやふやなものだろうか」という言葉。恋を巡る傷の付け合いというところが発端になっている、ということが断片的な情報をもとに、微かに判るという趣である。
 結局、「事件」も「復讐」も具体的な中味のわからないままに読者の目の前を通り過ぎる。音声を消して亜サスペンス映画をTV画面で眺めるかのような消化不良感がある。しかし、中味がはっきりと判らないことによって、追い詰める側追い詰められる側双方の緊張感が奇妙に物語を締め上げている。


6 貫かれる「反倫理」

次に上げる「邪悪」(P98)は、前節で触れた不審車による追尾に関する一連の物語を記した「袖」章の末尾に配置されている。 

      邪悪
  全てのものの奥に邪悪がある
  すべるように流れる表層の奥
  恐怖は白々と輝きくねりながら、のたうち、時折邪悪の実相をかいま見せる

  全ての奥の邪悪
  山なす邪悪の前で私たちは震え続ける
  魚の邪悪、小鳥の邪悪、木の葉の邪悪、あなたの邪悪、私の邪悪
  全てのものの邪悪の奥の、神の邪悪
  傲然たる神々
  その不動の邪悪
                         (P98)

 「全てのものの奥に邪悪がある」魚・小鳥・木・あなた・神。「全てのものの邪悪の奥の、神の邪悪」これこそが、この詩集のもっとも強く主張されるべきテーゼだ。汚れたもの、退廃美、反倫理、反抗。そのようなものを礼賛する詩は珍しくないし、それこそが詩の真髄だといえる。そういう意味で「ヤクザ」はタイトルに似合っている。
 もちろん表面だけでそんなこと言ってみても、紙の様にぺらぺらなのだが、本詩集のように繰り返しリアルな形で反倫理のテーゼが繰り出されると納得がゆく。その多くが、恋に絡めて出てくることが、次節7の内容にも強く関わっているのだが、いくつかの刺激的に輝く詩句をここでは指摘しておこう。

  ・不実ではないもの、非行以外の行為、そういうタグイが存
  在すると思うほど私は不誠実ではない。
(「不実? 非行?」章扉詩 全 P49) 

  ・二枚舌と裏切り。
  私はそんなものを、憎んだことはない。
  当然ではないか?
  物が言える以上は必ずごまかしを言う。
  無意識に嘘を混入させる。
(「Fステルス戦闘機」部分 P50) 

  ・道徳の欠落、道徳は欠落させなければならない
  道徳、または道徳のようなものは、微塵も介入させるべきではな
  い、仕事は、清潔を保つべきだ
  (「道徳 1」部分 P109) 

  ・―下卑ていなければならない
  いつもいつも、瞬時も、間断なく……
  ―なぜ?
  ―私たちは、下卑たイキモノだからね
(「下卑」部分 P110) 

 多くの人が、「世界の核心にある酷薄と残忍」「私たちはこれを、文明の皮で幾重にもおおい、隠そうとする」(「彼らの上司」P111)が、このような隠蔽から全く対極のところにあり、全てを晒してしまうことによって反常識・反世界、に位置づけられてしまうのがこの詩であり詩集であり作者なのだろう。この詩集には、一般的には考えられないくらいの、道徳的なものへの激しい反発、邪悪なものへの礼賛が溢れている。


7 ロマンチックな結末

 そのような反倫理を匂わせる激しい精神の詩集だが、結末は極めてロマンチックだ。Kが私のところへと帰還するのだ。

      帰還
  私は草原にいて馬に乗っている。
  すーっと乗り続けている。
  馬はゆっくりと進み、私にある快感をもたらす。
  馬の背に当たる私の尻は、その快感に緩やかに戯れながら、長い時を過ごすが、時に快感が高まり、
  馬の上で失神する。
  けれど馬は正確に歩を進め、野原を一直線に進み続ける。

  朝、こういう形でKが私へと帰還したことを知る。
              (P124)

 こういう結末にがっかりする人もいるかもしれない。ここまで言ったなら、破滅的な終わりにしてよ、と僕も少し思う。でも、このようなお決まりの枠組みがあるからこそ、ところどころに出現するフレーズの衝撃が心に残るのではないか。詩とは、敗残した思念や瞬間の間隔を弔うための手段でもある。物語自体が破滅に向かって決着した場合、反逆のフレーズは、反逆の「展開」に飲みこまれ収斂する。それによって「物語内の正統」の座を得る。しかしそれは、正しい意味においては、詩ではあり得ないのだ。
 この『ヤクザみたいに綺麗ね』は、予想だにしなかったロマンチックな結末を迎えたのだ。 


00 おわりに
 この論の終わりに。この詩集のいわば欄外に付された一篇を引いておこう。

      満開
  紺地に花ビラが処狭しと降りしいているシャツを着ていた。
  よく見ると、花弁は、なおも増え続けていた、非常な勢いで
  増え続けて……
                (末尾)

 Kへの性愛が、めくるめく渦巻いて息苦しいほどだ。こんなにも強烈な匂いを放つラブソングがかつてあっただろうか。
 ご存知の方も多いだろうが、阿賀猥の「型破り好き」は並大抵のレベルではない。しかし、表面的な奇抜さを踏み越えて、少し中に足を踏み入れてみると、実に純情で幸せな抒情が底には流れている。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 自由詩時評第165回 「記憶を... | トップ | 自由詩時評第167回 詩、その... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

詩客」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。