「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩評 詩人の越境 —岩尾美義、高岡修の系譜(続) 丑丸 敬史

2017年02月26日 | 詩客
(1)

  空も
  かつては溺れた
  だから
  空は
  洪水の水位の高さで
  あんなにも
  溺死を
  澄んでいる

  記憶の海が引いてゆくと
  犀の河原の空に
  一艘の船が現れる
  泥と樹木とでつくられた
  かつてのわたしたちの船である
  空の岩礁に難破したまま
  日に洗われて
  朽ちることがない

  いまになってわたしは思う
  あの船はやはり
  つくられるべきではなかった
  わたしたちもまた
  あの船に乗るべきではなかったのだと
  それを知っているから
  あの船は
  空の溺死の水位で
  いまなお
  絶えざる後悔を
  かがよわせているのだ


(2)

 筆者は俳句実作者である。現代詩に関しては、思潮社の現代詩文庫を片端から読んで気に入った詩人がいると深堀する程度の読者である(短歌に関しても同程度の読者である)。残念ながら、大半の俳人は現代詩を読まない。俳人の他詩型に対する不勉強は今に始まったことではないが、角川の月刊「俳句」に自由詩や短歌から学ぼう、的な特集が組まれることはなく、大方の俳句実作者は井の中の極小世界の住人である。ましてや、高名な俳人の中に現代詩の実作者はほぼほぼいない。俳句に慣れ親しんだ俳句脳には自由詩はあまりにもハードルが高く異世界芸術のごとくに感じるのであろう。

 日本は様々な詩型が存在しそのそれぞれに相当数の実作者を持つ詩歌の国であることに異論はなかろう。しかし、上述の俳句実作者の例にとどまらず、他の詩歌との交流は皆無に近いと言って良い。近代俳句の革命家である正岡子規がもし「俳人ヨ、現代詩ヲ大イニ読ムベシ!」と他の詩型の勉強を奨励し、自ら巧みな自由詩を成していたらば、現在の俳句シーンは大きく変わっていたであろう。

 ほぼ全ての現代詩の読み手が現代詩の書き手(実作者)に限局されており、その批評もその仲間内でなされる。創作、鑑賞、批評のその全てがその内部世界で完結していることはその芸術において不幸である。それは現代俳句にあっても同様である。句集は買うものではなく送られるものである。買っていただくものではなく、贈呈して読んでいただくものである。筆者のような俳句実作者にどのように現代詩・自由詩が読まれているのかを知ることは、自由詩の実作者にとっては無意味ではなかろう。そのための「詩客」でもある。

(3)

 本欄に「詩人の越境 — 岩尾美義、高岡修の系譜」と題して、詩人兼俳人である岩尾美義と高岡修に関して、すでに前編、中編、後編を書いた。

http://blog.goo.ne.jp/siikaryouzannpaku/e/ab8cb0acfa9bcf0c5b2750a57d432288
http://blog.goo.ne.jp/siikaryouzannpaku/e/3816feb7d1a548e02648b7bdc160dc18
http://blog.goo.ne.jp/siikaryouzannpaku/e/688fccf5cc612bdd9135ef50aadd7be3

 自由詩と短歌にも惹かれ鑑賞もするものの、それらを作ろうとするとうまくいかない。それはなぜなのか。好きだが愛されない、という片思い状態に留まっている自由詩と短歌。この牴牾しさからこの小論を書き始めたと言っても過言ではない。なぜ自分は自由詩や短歌ではなく、俳句を書き続けているのか。俳句のどうゆうところが自分は好きなのか、自分に合っているのか。

 上掲詩は高岡の詩集『犀』(2004年)の「破船」。『犀』は「犀」をキーワードに据えた異色の詩集である。この詩は、「犀の河原」から発想され紡がれた詩である。「破船」、「溺れた」、「洪水」、「溺死」、「難破」、「朽ちる」と来て「絶えざる後悔を」と繋がる。このように、一から百を紡ぐことが自由詩の本懐である。ならば、百を飲み込み一を吐き出すのが俳句であると言えよう。

(4)

  しののめの鳥類図鑑にある羽音         高岡修『透視図法』2008年
  春暁を横抱きにして殺意くる
  水の炎となる白鳥の発火点
  死界までその尾を垂らす山ざくら
  昏睡の卵一個を揺り起こす
  九月の野イデエの蛇を見失なう
  姦淫は月光に舌入れてより
  折鶴をほどき一羽の死をほどく
  部屋に鍵かけて未遂の滝となる


 <しののめの鳥類図鑑にある羽音>、<水の炎となる白鳥の発火点>、<死界までその尾を垂らす山ざくら>、<折鶴をほどき一羽の死をほどく>は、湿潤で柔らかな伝統的な和物的な詩であり、作者名を隠して提出されれば、手練れの現代俳句作家の作と思われるであろう。片や、<春暁を横抱きにして殺意くる>、<昏睡の卵一個を揺り起こす>、<九月の野イデエの蛇を見失なう>、<部屋に鍵かけて未遂の滝となる>に関しては、これが現代詩も書く人物の作であると言われて初めて納得がいくような俳句である。「殺意」、「昏睡」、「イデエ」、「未遂」という硬質な言葉を積極的に俳句に使う俳人もいるにはいるが、どこかその生煮えの言葉がいわゆる俳句の中によく混じり合わずにシチューの中に大きな芋の塊がゴロゴロしているような違和感がある。もちろん、その違和感を積極的に喜んでこのような俳句を作る向きもあろうし、俳句もいつも予定調和的なものばかりでは面白くはないし、一句集として提出されるときには、色々な俳句が鏤められていた方が楽しめる。その辺りの塩梅を高岡は知悉している。計算づくで色々な手触りの俳句を作るのである。岩尾はその初期に、現代詩の書法をそのまま俳句に持ち込んでかなり違和感のある俳句を書いたが、その後俳句の骨法を会得したためかその意味での面白さは減じて、通常俳人が書くような俳句を作るようになった。高岡は、少なくとも初期句集の段階で、俳句の骨法を知りつつ微妙な匙加減で絶妙な俳句を書くことができた。そして、そのスタイルは現在に至るまであまり変わっていない。

 我々が苦労して一編の詩を紡ぐのに、俳人ときたら季語を選んでそれに似う洒落た言葉を添えて一句完成!的なー?という、お手軽な俳句感を持っている詩人も多いのではなかろうか。一般の素人さんの作る俳句は確かにそれに違いない。しかし、それに呼応するものは一般人の書く自由詩である。自由詩を牽引する詩人と同様な気概を持つ俳人は、刻苦勉励して俳句を「彫刻」している。上記の高岡のレベルの俳句を為せる詩人がいたら、是非当方に名乗り出て欲しい。

 伸びやかに「歌う」ことを本義とする詩歌にあって、自明とも言えるその本質に真っ向対立して「歌わず」を本懐とする俳句は詩歌の鬼子である。自由詩の場合には、脳内に次々に流れ出る長大な妄想を詩篇となす。俳句は、脳内に立ち上る景色の一点をのみ乾板に転写する。俳人は、脳内にまず長大な自由詩を思い浮かべてからそれを削り込んで俳句を作るのではない。冒頭の「破船」の詩を刈り込んで剪定して<冬空の河原に溺る難破船>としてもある程度の俳句にはなるだろうが、俳句は決して自由詩の要旨、要約ではない。
 漱石と芥川の文学作品を長編小説と短編小説の違いでその優劣を論じることに意味はない。自由詩は映画であり、俳句はスナップショットである。そこに優劣はない。長距離走と短距離走の違いに例えても良い。自由詩を書くのに肺活量が必要なように、俳句には爆発力が必要である。それぞれ別の資質が必要なのである。

(5)

  きさらぎという鳥の血をまぶしめり       高岡修『蝸牛領』2010年
  春愁に呼ばれて睡い斧ひとつ
  遠く来て我が来歴を問う菫
  死体とはひとつの喩法わらび狩り
  かげろうという感情の町へゆく
  春亡ぶグラスに海を少し容れ
  空蟬に野があつまってきて濡れる
  蝶死して地の月光を吸いやまず
  愛のあと野に立ちくらむ冬の虹
  死にゆくを汀と思う冬いちご
  白鳥(スワン)白鳥(スワン)フォルテッシモの凋落よ
  冬菫わが四肢に浮く釘の跡


 続く『蝸牛領』でも高岡は絶妙な線を狙って俳句を提出してくる。例えば、<春愁に呼ばれて睡い斧ひとつ>、<空蟬に野があつまってきて濡れる>。その俳句は程よく「俳味」を持っている。この「程よい俳味」は実に難しい。現代詩人も短歌人にも多分難しかろう。勿論、そこには新しい血が盛り込まれていなければならない。例えば、<きさらぎという鳥の血をまぶしめり>はそんじょそこら俳人には書けそうもない脱帽の一句である。「きさらぎという鳥の血」、現代詩ならでは有りうるだろう比喩かもしれないが俳句ではまずは見ない。このように、俳句は現代詩から随分とまだ学ぶことがあることを高岡の俳句は教えてくれる。詩は比喩を効果的に使うが、「死体」が「ひとつの喩法」とも、「白鳥」を「フォルテッシモの凋落」とも俳人では出てこない。

  かたつむり死も卵形を始原として
  かたつむり殻透けるほど泣きじゃくる
  かたつむりジュラ紀まで空わたりたく
  かたつむり地軸の影を見失なう
  かたつむり被曝野遠くけぶらせる
  かたつむり死は双眸の水明り
  かたつむり銀河より水ぬすみ飲む
  かたつむり踏めば怒濤を踏むごとし

 
 『蝸牛領』の名の由来ともなっている「かたつむり」の一連の句。これらは一句で独立しているから、自由詩の連として読む必要はなく、読むこともできない。俳句が寄り集まって自由詩ができるわけでないように、自由詩を分解して俳句ができるわけではない。
 この連句の中では、<かたつむり踏めば怒濤を踏むごとし>が断然面白い。これは阿部青鞋の<かたつむり踏まれしのちは天の如し>のオマージュである。青鞋の方が「天の如し」としているのに対して、高岡は「怒濤を踏むごとし」としている。静と動。の対比構造を持ちつつ、青鞋の高名句を知る読者に対して、音もない静かな怒涛がその脳裏に届くように計算して高岡が狙った、とても巧妙な一句である。

 作曲家はふと降りてきたある楽想をそれに相応しいピアノ曲、もしくは交響曲に振り分ける。その一方で、作曲家がピアノ曲の依頼を受けた時には、ピアノ曲に相応しい楽想をその脳内は紡ぎ出すだろう。交響曲を作る時には交響曲に相応しい楽想をその脳内は紡ぎ出すだろう。高岡もおそらく、前者と後者の作業を作業を行って俳句と自由詩を書くのであろう。加えて、長編の詩ばかりを書けば、俳句が書きたくなり、俳句ばかりを書けば、長編の詩が書きたくなる。そのように、高岡の中で俳句と自由詩で補完、補強しあっていもしよう。しかし、それをこのレベルでそれを両立させることができる者はそうはいない。

(6)

  「世界と、その洪水の構造に関するノート」     『月光博物館』

  溺死者(わたし)のかたわらをゆっくりと流れ過ぎる一匹の犬、それは
  その犬がそれまで咥えていたであろう路上の真昼も溺死して
  いっしょに流れ過ぎているということなのだろうか

  死んだ犬に遅れてゆっくりと流れてくる一箇の窓枠、それは
  その窓枠がかつて縁取ったであろう焦げるような夕焼けも溺死して
  いっしょに流れてくるということなのだろうか

  しかし、いま、ここで最も重要なことは
  溺死者のかたわらをゆっくりと流れ過ぎる一匹の犬の眼に、あるいはまた
  死んだ犬に遅れてゆっくりと流れてくる窓枠という眼の光彩に
  あの洪水の光景がくっきりと映し出されているということだ

  そして、なお、指切りのときに切れた子供の頃の指のようにも
  この海の消失への深度を漂いつづけているもの
  いつまでも伏し目がちだった家族の団欒
  額縁の中の微笑
  無関心のあのやわらかな深部へなだらかに降りていた欠伸
  欠伸のあとにじんわりと滲んでくる涙のような命への郷愁
  饐えた空壜の内部でひそかに熟成していた歌

  そして、いま、溺死者(わたし)の全身を描くも貪欲にむさぼりながら
  数十匹の蝦がしきりにまさぐっているもの
  溺死者(わたし)の眼裏の銀河
  脳の襞の、あの乱雑でまばゆかった思想の残渣
  死の過剰が不容易な洪水の残紋
  水の内臓へつらなろうとしては悄然とはぐれつづける溺死者(わたし)の夢想の肉質

  もしどこかの岸辺へ打ち上げられる日があるのだとしても
  溺死者(わたし)が一体誰があるのか太陽でさえ判別することはできないだろう

  一千の夜と朝を数え
  (溺死へのもうひとつの伝承をたどり)
  うなだれた空が水没する刻

  本当のかなしみとは
  水の感情線に添っていつまでも溺死しているということだ

  やがて遥か彼方に夕日が墜ちて水平線が煮えたぎる
  急速に冷やされて夕日が黒く凝固する

  朝の来ない夜がくるのだ

  知っているだろうか
  ついに水がみはじめる腐爛した夢
  それが溺死者(わたし)だ


 この詩は100年前には日本に生まれ得なかったものである。現代詩なる言葉があるが、それは現代詩人たちの矜恃を示す言葉である。翻って、現代俳句なる言葉も戦後同時期に現代俳人によって生まれた言葉であるが、こちらの今日の状態は甚だ心許ない。戦後の盛り上がりの後、社会派・人間派から自然派という揺り戻しがあり、現在の俳句はまた戦後俳句の喧騒などなかったかのごとくかの静けさである。全てを飲み込んで揺るがない、という俳句文芸の恐ろしさ。
 郷愁、熟成、貪欲、思想、残渣、伝承、凝固、腐爛のような硬質な言葉は俳句では素材としては料理しにくいが、それは俳人が勝手にそう思い込んでいるだけである。俳句は箱庭ポエジーに陥っている。俳句自身が「俳句ポエジー」なる特殊なポエジーを希求するならば、自らも潰れて行くブラックホールのような先のない逼塞した文芸となることは疑うべくもない。筆者は嵯峨御流という流派の伝統生け花を習っていたが、そこには確立され揺るがない型があり、その型に落とし込んで作品を作る。現代の俳句は、まさしくその様に肖る。芸事俳句である。

 現代詩の書き手が俳句に越境してくることは、俳句にとって本当に得難い有難いことだと筆者は常々思う(ただ、俳句形式もしくはこの様な俳句環境に興味を持てず、請われても越境しようなどとは大方の詩人は思わないだろうけれど笑)。しかし、その俳句作品が異質であればあるほど、俳壇(という名の有象無象の集合体)本体は、それらに言及しないことで黙殺という形でその取り込みを拒絶するだろう。戦後70年経って感じることは、そのような俳壇の老獪さなのだ。俳句自身が悪くないとすれば、それを祀り上げている書き手にこそその元凶を求める他はない。岩尾俳句、高岡俳句に注目すること。このことこそ、俳壇覚醒の第一歩につながると言っても過言ではなく、筆者の強い望みである。

※引用中の丸括弧はルビ。
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