「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第213回 佐峰 存

2017年07月14日 | 詩客
 仕事で忙しない二週間をほぼノンストップで過ごした。手足の力が入らなくなり、意識が浮かび上がるようだ。深夜に帰宅する度に、随分久しぶりに自宅に戻って来たような心持ちになる。そのような時こそ詩集や同人誌を開きたくなる。今回は江田浩司氏と深沢レナ氏の作品を取り上げたい。
 江田氏の詩集『想像は私のフィギュールに意匠の傷をつける』は目に愉しい作品で満ちている。漢字と平仮名のバランス、そして選び抜かれた文字の流れる線が美しい。中でも作品「現存(プレセンシア)のはばたき」は短い連に言葉というもののエッセンスが凝縮されているようで鮮やかだ。

雑草の中から手を伸ばして
肥満した知識に戯れる
数多の睡魔が薄目をあける
記憶の焦げる匂いがする

(「現存(プレセンシア)のはばたき」、『想像は私のフィギュールに意匠の傷をつける』、2016年、思潮社)


 一つひとつの言葉にじっくりと向き合いたい。対峙すればするほど、情景が浮かび上がってくる。「雑草の中から手を伸ば」すという表現は不思議さに溢れている。現実の世界で雑草から手を伸ばす機会はそうそう無いだろう。しかし、言葉の世界では、読んだ瞬間にそれが腑に落ちる。言葉はやはり、外から入って来るのみならず、読み手の中から滲み出しているのだ。「肥満した知識」という表現からは、まさに私達が住む情報化社会の生々しい図体が感じられる。私にとって、江田氏の言葉はとても実感が湧きやすい。「記憶の焦げる匂い」は私もどこかで嗅いだことがあり、よく分かる。そうだ、確かに記憶は焦げる(よくよく考えると恐ろしいことだ)。私の身体の中に挟まり込んでいた幾つかの感覚が、この作品によって文字・言葉となって解放される。

歌を忘れた井戸に
発情した梯子を下ろす
這い上がってくる
光に棲む露まみれの影

(同上)


 この連も文字面が目に心地良い。意味を捉えようとすると、途端に異世界に放り出される。井戸に何者かが入っている。語り手は我を忘れてその何者かと接触をはかろうとする。「発情した梯子」という表現から場の緊迫感が伝わってくる。一体、何が「這い上がってくる」のだろう。言葉の静かな調べと、凝縮された不穏な情景の並存が印象的だ。そこには未知の世界が流れ着いた葉のような断片となって、独特の感覚と共に輝いている。

 言葉そのものの分解と再構成による共感覚的な世界を提示する詩作品と対照的なのが深沢レナ氏の作品だ。深沢氏の言葉は直接的に“世界づくり”をする。読み出した瞬間から、読み手は新しい世界に足を踏み入れたことに気付く。

ライオンやパンダの形をした
遊具は濡れているが泣いているようには見えない
雨に濡れているというよりはむしろ
水たまりではしゃいで水しぶきを浴びているみたいで

(「神経症のレッサーパンダ」、詩誌「ぷらとりあむ vol.1」2017年)



 作品「神経症のレッサーパンダ」は動物園の日常に流れる“異なる時間”を感じさせてくれる。時間が止まったような光景だ。物事に“はじまり”と“おわり”を見出す私達が一方的に時間を資源化している。せめて意識の領域、心の領域では、そんな時間に縛られなくてもよい、と作品は語りかけるようだ。

レッサーパンダの部屋の前に立った僕たちは中を覗く
ガラス越しに見えるレッサーパンダは
延々と同じところを回り続けていて
ときどき横目で僕たちのことを確認しては
速度をはやめたり
尻尾を動かしたり
でもやっぱりずっと回り続けていた
僕たちはその様子を長い間眺めていたが
もしかしたら神経症なのかも知れないね、という結論に達した
硬い雨が透明な薄いカーテンとなって
僕たちと彼を一つの空間の中に閉ざした

(同上)



 動物園の光景は動物達の、そして私達の意識で溢れている。作品に登場する動物達はまさにAmbiguityの体現者で、生きものでありながら生きものでない。前述の「遊具」と大差ない。動物園とは、それ自体が動物達の遺伝子に刻まれた原風景とずれて走る、一つの幻の世界だ。それは動物達の、そして私達の“理解に及ぶ”世界だろうか。動きようのない動物、の存在は私達の中で声を作る。何よりも注目したいのが、作品を一貫して流れる明瞭な文体だ。作品のタイトルと裏腹に、頑強な、安定感のある言葉遣いが新しい世界を読み手の目の前で確立してみせる。この書かれ方“故に”非情な環境に置かれた生きもの達の姿が手に取るように読み手に分かる。
深沢氏の作品の持ち味は何と言ってもユーモアと物語性だ。『空気猿』という散文詩も面白い。

家の周りを空気猿たちに囲まれる。二匹や三匹ではない。三、四十匹といったところか。昼食用に丸ねぎの皮を剥いている彼は気が付いていない。(中略)彼は生まれて間もなくこの場所に連れてこられ、眠っている間に壁の建設が行われた。それから約七十年間彼はこの家の中だけで生活してきた。当然外の世界の存在など知る由はない。
(「空気猿」 「プラトンとプランクトン 第三号」2016年)


 
 何気ない“散文的”な日常の中に崩壊の種が潜んでいる。まるで(詩誌のタイトルともなっている)プラトンの洞窟の住人達のように外を知らない老人が包丁で丸ねぎの皮を剥く。増殖する得体の知れない「空気猿」の存在は、私達の根源的な“おそれ”に直結している。空気猿という制御の出来ない何か。世界は人間ではなく、空気猿の天下なのだ。

空気猿は百十匹を超えている。限界値を上回った壁は今にも崩壊寸前である。そこでもし、彼が、ふと、包丁で壁に切れ込みを入れるとしたらどうなるであろうか。それらの要因が相まって家は崩れ、彼の前に世界が開かれることになるだろう。呆然と立ち尽くす、瞬間、空気猿たちが一斉に飛びかかり、彼を外へと引っ張り出す。そして大きく息を吸い、ぽむ、ぽむ、ぽむ、と膨らんで真ん丸になった猿たちの浮力で彼は宙に浮き出すのだ。
(同上)



 「ぽむ、ぽむ」という軽快な音が心の奥からはじけてくる。作品中の世界は丸ねぎのように壊れ易い。そう思った瞬間、私達が住む現実の世界も、それ以上に壊れそうな世界であることを思い出す。あっ、また壊れた。老人の手元に包丁として込められている実感は作品の外のこの世界に通じている。作中では幸い老人は丸ねぎを切り続け世界も崩壊せずに済むのだが、現実の世界の不安定さと連動して手触りを増していく次元が垣間見えた気がした。
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