「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩評 私の読んだ詩集へのゆるやかな感想、その他。 江田 浩司

2017年02月26日 | 詩客
 自由詩を読んだ感想を書いたことは今までにもあった。しかし、読めたなと思える実感があったかと言えば不安になる。そんな人間が自由詩評を書くのだから、たいしたことは書けそうにない。思ったことを自由気ままに書かせ頂こうと思う。私が取り上げた詩集の本格的な感想は、専門の詩人か、自由詩評に精通している評論家にお任せしたい。見苦しい弁解はこれくらいにして、さっそく私の周りにある詩集の中から取り上げる本を選ぶことにする。
 はじめの二冊は、山﨑修平著『ロックンロールは死んだらしいよ』(2016年10月 思潮社)と、野田かおり著『宇宙(そら)の箱』(2016年3月 澪標)である。二人に共通しているのは、未来短歌会の黒瀬珂瀾欄に所属しているということ。つまり、詩と同時に短歌も創作しているということである。しかも、二人の最初の著書が詩集であるということも共通している。また、二人の短歌と詩を比較してみたとき、短歌と詩に表現の差異が内在され、異質な表現として分離していることである。この点は、とても大事なことだと思う。短歌と詩は同じ「詩」のジャンルに所属しているが、明らかに別の詩の表現である。これは、表現の本質に関っている。
 さて、二人の詩のことだが、山﨑は独学だと思われるが、野田は高校時代に、詩人のたかとう匡子に教えを受けている。ただし、私は詩の教えを受けたことがないので、詩はどのように教わるのかあまりイメージがわかない。定型詩である短歌の場合だと、表現の具体的な指摘、語句の使い方など細かな添削指導が可能で、実際にこの二人は歌会等でそのような指導を受けているだろう。その意味でも、詩の創作と短歌の創作は、まったく異質な表現形態で、どちらかを余技として創作しているのでないならば、創作過程の原理だけを見ても、矛盾を内在しつつ実作に励んでいることになる。
 まずは、山﨑の詩から読んでみたい。

          *

 山﨑の詩の表現は、詩の言葉の連続性というか、連続性に内包されている不連続性が、まるでフラットに、無意識を装っているノイズのように聴こえてくるところがある。時には散漫に思える意味の断絶が、表現の抽象性に野性味を加えることもあり、何とも不思議な世界を構築している。表題作から、他のすべての詩篇まで、音楽に関係のある語彙や表現が頻出するが、それに倣って言えば、言葉と表現相互のインタープレイを楽しんでいるような感じで読了した。これは個々の詩篇の内部のミクロ的な言葉の関係性と、詩篇相互のマクロ的な交感による構成によって構築されているものだろうか。いや、そこまでは意識的ではないにしろ、音楽に精通している山﨑の強みが、表現のコアとして表れているようである。
 このような詩が、短歌プロパーの表現者にどのような形で届くのかは未知数だが、テクストの意味を中心に評価をくだす者には、独り善がりの表現として遇されるだろう。私は詩の表現として、けっして難解だとは思わないが、短歌表現を基準にして読もうとすると、意味の不明さが際立つことになる。これは仕方のないことで、それ自体は受け入れるしかないだろう。
 今私の手元にある「未来」誌の最新号、二〇〇七年二月号から山﨑の短歌を引用してみたい。

不器用に絡め取られた鎖から花束でしょうか手を挙げなさい
赦されて犯す日に持つフライパンあまりにも輝くものですから生きて


 九首の中から冒頭の二首を引用した。私はこの二首を、短歌としてあまり成功しているとは思わない。あるには評価する歌人がいるのかもしれないが、私にはそうは思えない。山﨑の言語感覚、才能からすれば、同じモチーフで自由詩にした方が、すぐれたテクストが創られるのではないだろうか。言葉から意味、意味から表現へと、五句三十一音の定型詩が窮屈になってしまっている。これは短歌表現の構造の問題でもある。また、山﨑が自由詩を創作していなければ意識しないことも、気になってしまうのかもしれない。
 詩集を読んだ後で短歌を読むと、どうしても自由詩の創作者としての資質が先に立ってしまう。これは、一読者である私の感想なので、他の人の意見はわからない。おそらく、自由詩の創作が先にあり、その創作の過程で短歌との出会いがあったのだろう。それが現在の短歌の師である黒瀬珂瀾の歌であったということだろうか。山﨑が今後どのような短歌を目指すのかわからないが、師の黒瀬が詩集の栞に引用している歌、「部長以下新入りバイトに至るまで名札がすこしずれているのに」や、「改札のとなりで眠ったおっちゃんに鳩は次々寄り添ってゆく」の方が、短歌の表現としてはすぐれていると思う。このような歌の世界を自由詩で表現することは可能だろうが、どれだけ余分なことが必要かを考えるだけで嫌になる。
 『ロックンロールは死んだらしいよ』には、私の好きな詩篇も詩のフレーズも多いが、もう少し音楽にこだわって書いてみると、現代音楽の楽譜をイメージするところがあった。また、表現や言葉の転調に8ビートから16ビート、また、4ビート、2ビートなど、表題作にロックがあるからと言って、8ビートが主調というわけでもなく、自在な言葉の転調が内包されている。これも、言葉のインタープレイの真骨頂だろう。
 ただし、表現相互のつながりが、昇華しきれていないところもあるように思えた。もっとも、私は自由詩について素人なので、詩の表現のよさを読み切れていないのかもしれない。次に私がうまくいっていないと思った詩句をいくつか挙げてみたい。

岩塩とモダンジャズの偶然の出会い/から夜は明けとっくに君は恋をしている
 「天使の跳躍」
ずいぶんと反抗的な優しさ八百屋のキャベツの瑞々しさ 「ぬるい春」
誰しも信じられないほどの論文の報せ教えてくれるときの陽光の眩しさ 「朝のはじまること」最後の三行の内の最終部分。(その前までのフレーズがとてもいいので、最後の表現が雑に見える。)
花を花として/声を声として伝えたあとの/残滓であり萌芽とも言える/恋愛の初期衝動である/恋愛の初期衝動以外全ての思考を停止せよ 「あまりにも音楽的な」の「踊り」の最後の特に二行。

 「スンの近くに」とか「甘い踊り」は、とても好きな詩篇で、「甘い踊り」が内包している思いに胸が熱くなった。『ロックンロールは死んだらしいよ』には、栞に黒瀬珂瀾と中尾太一のすぐれた解説があるので、これ以上の駄文は必要ないだろう。続けて、野田かおりの詩集について書いてみたいと思う。

          *

 野田かおり著『宇宙の箱』は、とても親しみやすい言葉で表現されており、難解なところはどこにもない。また、「あとがき」のある詩集であり、装丁が倉本修なので、その意味でも歌人にとっては親近感のわく詩集である。そして、師のたかとう匡子による帯文を読めば、野田の詩の世界のエッセンスが理解される。
 この詩集に収録されているのは、内面化された体験が発酵してゆくのをじっと見守り、心にふれてくる言葉をすくい取って、抒情的な詩の世界に昇華した詩である。野田は「あとがき」に、次のように書いている。

 詩集を編みながら、たくさんの過去に支えられていることに気づきます。一五歳で詩を書き始め、詩の言葉に出あえたことが、私の幸福のひとつです。 (中略) 私にとって詩を書くことは、この世界と、この世界で他者に出会いながら生きる自分を、しずかに見つめることです。広大な宇宙のなかから、清明な光を取り出すように、そして、誰かの記憶に結ばれるように、これからも詩を書いていきたいと思います。

 野田の「あとがき」を読むと、私は余計なことを書かないで、詩集がよき読者に出会うことを願えばいいのだという気持ちに包まれてゆく。野田の詩にはナイーブすぎる表現もあるが、それが野田の資質なのだろう。詩の表現による、心の処方箋を書き綴っているようでもある。それが、自己への慰藉にとどまらず、他者への通路を開いているのならば、ナイーブな表現も詩の言葉としての力を内包する。
 詩集は二つのパートに分かれている。前半の「Ⅰ」は、主に回想化された自己が、内部の他者として描かれ、過去の自分との邂逅が寓意されているところがある。また、後半の「Ⅱ」は、主に教師の目線から、外部の他者(生徒)を内在化して描いているが、その視線の先に、過去の自分の影が見え隠れしている。どちらの場合も、野田の眼差しには悲哀はあっても嫌味がない。この健全さが、野田の表現の特徴の一つだろう。
「Ⅰ」から「崖」の冒頭と最後を引用してみたい。

みどりの座席に深く座って
海をまたごうとすると
あなたのみひらいた瞳に秋の海が揺れながら近づき
まぶたを閉じると思ってもみなかった夜が来た
  (中略)
冬が来たら蜂蜜に光を宿して飲み干そう 
崖に触れ
今年はじめての雪を払い
まだ
舫(もやい)のように身体はつながっている


 姫路に生まれ、海の見える高校に通ったという野田にとって、海は親しい風景というだけではなく、同じ時間(生)をともにした存在という重みがあるのかもしれない。同じの詩の中に「青い鳥は止まるはずもなく海をわたってゆく/眠りに落ちる数秒の瞳に暗い海が揺れ」という表現がある。この詩には悲哀の中に宿る希望のようなものを感じるが、そこに野田の表現の本質が表出しているように思われる。
 次に、先の山﨑と同様に、「未来」誌の最新号、二〇〇七年二月号から野田の歌を二首引用してみたい。

書類より顔を上げればブラインドのむかうに薄く揚羽の影が
まるまると眠る仔猫を見せくれる少女はリストカットを言はず


 九首の内の冒頭の二首である。どちらも勤務先の学校での出来ごとだろう。一首目は、情景はよくわかるが、結句の終わり方に問題がある。歌としては二首目の方がいい。オーソドックスな短歌の作り方だが、二首目には、そのような短歌の性質がうまく活かされている。しかし、野田の詩と短歌を比べたとき、やはり、詩の方がすぐれているように思う。
 私は野田の詩を読んでいて、例えば次の詩句が印象に残った。「夕陽をぐるっと/バターナイフでえぐるような痛みが/帰り道にあったこと/深夜めざめてみると/みどりいろのカーテンの隙間から/もう逢えなくなった人たちの/住んでいる街の灯りが見えたこと」(「みずうみ」より)。野田の詩には、阪神淡路大震災をモチーフとした詩があるが、ここに引用した詩句もそれを背景としているのだろう。これは、はじめに書いておかなければならないことであった。野田の詩の表現には、その背後に大震災があることを……。もちろん、すべての詩の背後にということではない。しかし、大震災を素材としていない詩にも、震災の影を感じる。
 私は野田の詩を読んで思うのだが、野田はなぜ詩を書きながら、短歌の表現を求めたのだろうか。ちよっと、不思議な感じがするのである。やはり、短歌の師である黒瀬珂瀾の歌との出会いが影響しているのだろうか。短歌と詩を併行して書くことは、特別なことではない。また、表現を器用に使い分けることが問題なのでもない。短歌と詩の違いついて、どのような認識を持って、何をどう表現するのかが問題なのである。野田の今後に注目してゆきたい。

        *

 杉本真維子第三詩集『裾花』(2014年10月 思潮社)を読んで、この詩集の強い言葉の粘度がなぜか懐かしいと感じた。現代詩をはじめて読んだときの感じに、どこか触るような感覚があった。それは、具体的に誰の詩ということではなく、現代詩と言ったときに、それはこのような表現を内在しているものだろうという抽象的なものだ。私は『裾花』に続けて、第二詩集『袖口の動物』(2007年10月 思潮社)を読んでみた。両詩集の間にある言葉の質の違いについて、うまく説明できる自信はない。言葉、表現への感じ方で言えば、『袖口の動物』の方が詩との距離の取り方がスムーズになされた。詩のメタファーや寓意に直に向き合っている瞬間があった。しかし、『裾花』の詩は、メタファーや寓意の切断面を見ているような幻覚に襲われるのだった。
 奇妙な言い方になるが、『裾花』よりも『袖口の動物』の言葉の方が、私には親しく感じられたのに、『裾花』の方が、懐かしい詩集に思われたのだ。自由詩としてしかけっして生きることのない言葉、これは自由詩によって生かされている言葉ではない。そこに表現としての凄味がある。まさに、沈黙としての言葉だろう。「詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、沈黙するためのことばである」と言ったのは石原吉郎であった。私にとって『裾花』の詩は、そのような言葉として、詩であることの意味の前に立たされる。山﨑や野田は、詩と併行して短歌を創作しているが、彼らの詩には、定型詩との親和性がどこかに担保されている。だが、杉本の詩の言葉にはそれはあり得ない。『裾花』を読み、続けて『袖口の動物』を読んだときのそれが強い印象である。杉本が短歌を作ることはないだろうし、仮に作ったとしてもそれは短歌にはならない。短歌とは別の詩の表現になるのではないだろうか。
 「川原」の冒頭と最後の連を引用する。

通路、が塞がれ、身長ほどにしか、心がな
い、日のなかで恐怖の種がわれる。蛍光灯
で焼けしなないか、ソファで溺れないか、
窓で迷わないか、
わたしは、だれなのか
  (中略)
一枚のひと、ひとりの肉、と
硬貨のように数えている
ひたいの奥の整列が
炭火を燻らせ
闇のうらがわを舐めていく
穴あきの薄紙をかぶる、いやらしい文字、
から生まれてきた
(犀川の木屑にまだ、磔の痕がある)


 この詩の読点と改行は、とても計算されているが、それ以上に、杉本の詩の文体を形作る言葉のリズムが印象的である。また、そのリズムから表出される存在の不明性、不安、恐怖、グロテスクさ……。人間の生に伴う罪が、虚無を擦過した後に浮かび上がる。これは、私の勝手な感想であり、杉本の詩の本質は別のところにあるのだろう。例えば、人間存在へのあまりに強い愛情ゆえに、存在の残酷さとともに、言葉と詩に寄り添っているというように。これも私の気ままな感想にすぎないか。
 『裾花』を読んだときの懐かしさは、杉本の現存が詩を通して固有性として刻印され、表現の幻想性の前に私を立たせるからだ。そう思ったときに、私は詩の意味を求めることを断念し、むしろ、フラットに、あるがままに言葉を受け入れることにした。
 『裾花』の詩篇で、私が特に心動かされたのは、祖母の死が背景にあると思われる詩である。その中でも「一センチ」や「わたしの鬣」の内在する思いの力に打ち据えられた。

匿う水が、植木のしたに溜まっている
鈍器で殴りこんできた敵は火のなかで死んだ
洗われた傷を清潔なガーゼでおさえながら
病室で泣く人の傍らに座った
言葉よりもからだのほうが近く、
とじこめて、死後に語る、と約束をした

「一センチ」冒頭部分


祖母の灰をあつめ
たべたひとの涙にわたしは傷つき
親戚のわらいに膝をふるわせ
以後いっさいの
「声音」を捨て
墓を洗う、仕事、していた

「わたしの鬣」冒頭部分



 内容と性格が違うが、「きつね」も好きな詩である。詩の半ばに、「くちべらしの子は、今でも子ども、だったから/細雨のような白い足袋に刺され/腹部から、たいこに、踊らされていった/反り返る、股/すそに血がついて泣く」という表現がある。この詩に登場するきつねが見たもの、それは何か……。私もまた、ここに生きているのだという思いを強く持つ。
 『袖口の動物』の最初の詩、「光の塔」の冒頭も衝撃的である。

わたしは誰かのために
洗われるからだを持つ
ひたいに緑色のマジックで
数字を書きこまれ
ころされるための順番を待っていた
にんげんは言葉を持たない
 (以下略)


 この冒頭の言葉から引き込まれて、『袖口の動物』を一気に読み下した。詩が拓く異次元の言葉の世界を堪能するのに理屈はいらない。「にんげんは言葉を持たない」という言葉の恐ろしさ、沈黙が内在する有意義性が乱反射を起こしている。
 「いくつかのリズムの内壁に、跳びかかるべき距離を測っている」(「或る(声)の外出」冒頭)、「平行の臨終、その顔色を吸い/釘の子が、表面が剝げたつるつるの子が/大切な地図をぬらそうとする」(「釘の子」最後)、「つるは/無数の傷跡を残し/カーテンが何枚も風にゆれて/ 一枚の青い紙だけが/おぼえている」(「世界」最後)。『袖口の動物』には印象に残る言葉が多い。私の好きなフレーズを三箇所だけ引用したが、詩を読むことの楽しさとスリルを、今さらながらに味わっている。もちろん、詩と短歌の表現の質の違いが際立っていることを肝に銘じながらである。

          *

 作家の大庭みな子が、埴谷雄高の思い出を綴った文章「影法師が踊る」に、埴谷の次の言葉が引用されている。「文学の芯にあるものは詩だ。それがないものは文学とは呼ばない」。この言葉に大庭は胸を打たれたという。埴谷のいう「詩」は、もちろん、自由詩といった場合の「詩」とは違うが、無関係ではない。埴谷の主著である『死霊』を思えば、その「詩」の意味に、現存へのあくなき追求が内在されていることが想像されよう。だが、自由詩の「詩」を問うとき、どのような答えが用意されているのだろうか。
 蜂飼耳のエッセイに「詩について」というすぐれた詩論がある。私は『現代詩文庫 蜂飼耳詩集』(2013年7月 思潮社)に収録されたこの詩論をはじめて読んだとき、とても強い感銘を受けた。昨年の八月に開催された未来東京大会のシンポジウムに、ぜひゲストとして参加して頂きたいと思ったのも、その詩論を読んだことが影響している。蜂飼のこのエッセイには、詩が何かということの明確な解答がある。それは、蜂飼の詩の実作に基づいた答えである。私は今ここにその内容を紹介しようとは思わない。まだ、未読の方はぜひ全文を読んで頂きたい。(現代)詩の本質をこれほどわかりやすく、丁寧に解説している詩論を、私は他に知らない。
 蜂飼の最新詩集『顔をあらう水』(2015年10月 思潮社)を読んでみたい。だがその前に、それ以前の詩についての感想を書いておこうと思う。
 第一詩集『いまにもうるおっていく陣地』(1999年 紫陽社)は驚きの詩集だった。詩に登場する未知なる存在が導く表現世界が、詩の現在性のトポスに向き合わせる。詩の言葉は存在の境界を自在に往還し、人や動物、昆虫、あるいは神、そして無機物まで、言葉の内部で互いに感応して、視覚の定点を移動しながら、詩の表現の世界を形成してゆく。表現の仕掛けと思われるものが、実は蜂飼の詩の言葉の自然な発露としてまずは発せられているようである。その後、蜂飼の表現者としての固有性に導かれ、言葉のすみずみにまで詩の表現の能動性が張りめぐらされてゆく。詩が内包する言葉のリズムへの鋭利な感覚にも驚かされる。蜂飼が神話を専攻していたことが、詩の表現の端々から表出する。蜂飼耳という名前を不思議だなと思っていたことが、この詩集を読むと瞬時に解消されてゆく。その名前が詩の世界を象徴化しているように思えてくる。表題作「いまにもうるおっていく陣地」を読んで衝撃を受け、最後まで一気に読み、「アサガオ」、「高行くや」、「高菜むすびを」、「雨垂れ石を飛び越して」を読み直してみる。そう言えば、「配布の感覚」を読んだときだけはほっとした。この詩だけは、私の想像力が少し近づけたようであった。
 第二詩集『食うものは食われる夜』(2005年 思潮社)も、詩の内在しているリズムと詩の内容との融合が分かち難く、詩に登場する生き物や人物たちとの詩の言葉による不思議な交感が、蜂飼の詩人としての固有性を表出している。私には先の詩集よりも読みやすかった。巻頭の「モンゴロイドだよ」から、「鹿の女」へと読み進みながら、古代人や土器に描かれた女を想像し、「この蟹や」の古代歌謡調の韻律を楽しみ、『古事記』の神話を背景とした「三輪山」や「姉と妹」、「根の国」などの詩の世界を堪能した。
 表題作の「食うものは食われる夜」の言葉の韻律も独特で、「音たてちゃ/ いけない/ 今夜は/もの音たてちゃ/ いけない」のリフレインをはじめ、詩の言葉の韻律の只中を鮭が力強く遡上してゆく。「オセアニアルート」の母親鯨も、蜂飼固有の詩の言葉の韻律の中を泳いでいる。第一詩集『いまにもうるおっていく陣地』も、表現の内在している言葉の韻律に意識的にならざるを得なかったが、第二詩集『食うものは食われる夜』の方が、より強く詩のリズムを意識しながら読むことが多かった。では、第三詩集『隠す葉』(2007年 思潮社)はどうだろうか。
 この詩集も蜂飼ワールドが全開である。不思議な登場人物、動物、昆虫、神、異形のものたちとの交感が形作る詩の世界が、現代蜂飼神話として展開してゆく。先の二詩集よりも、長編の詩が多く、散文詩の実験的な試みもなされている。散文詩の「桃」や「太陽を持ち上げる観覧車」には、詩的な短編小説のような趣もある。長距離ランナーの孤独ではないが、休むことなく自己の詩の世界の一筋の道を走っている。
 表題作の「隠す葉」をはじめ、現存への蜂飼の眼差しが思いがけない方向から、感覚と思考を貫いてゆく。多面的な方向と角度、そして、異質な言葉の矢の数の多さに、これはとても受けとめきれないな思いながら、それでも、詩の表現に身を任せている楽しさ。やはり、この詩集も言葉の韻律の力をまざまざと感じさせる。どの詩にもそれぞれ独自の詩の世界があり、甲乙がつけ難く、それでも私の好みを言えば、「熊」とか「黙契」、「角」の言葉に寄り添いながら読んでいた。
 この詩集に限らないが、蜂飼の詩には時間の重層性が内在された詩空間が拓かれている。クロノスとカイロスの時間が錯綜する。時代も超越し現在と往還する。
 では、『顔をあらう水』はどうだろうか。この詩集には前の三冊の詩集とは明らかに違う読後感がある。詩で展開される幻想性や物語性を抑えて、表現が注意深くそぎ落とされている。この詩集の言葉の彫琢は、読者の読みのコードの側にも強く作用するように工夫され、構成されているようだ。また、書下ろしで書かれた「骨拾い」、「ある死」など、特攻隊を志願した父親の追悼詩が収録されていることも異彩を放つ。さらにそれに付随して、「戦後野原、いまここの」が寓意している詩の世界が、やはり、これまでの詩とは異質であり、「甘くて、」の内在する批評性が人間の現存に鋭く突き刺さる。いや、現存への批評性といえば他の詩篇も同様に、詩の言葉の内圧を秘めているだろう。
 これは個人的なことだが、同じく書下ろしの「備前の土」の素材となっている場所は、私の故郷にある備前市伊部の南大窯の跡であろうか、懐かしいところである。最後の収録作「懸想」の初出が、私が所属していた同人誌であることも、この詩集との距離を近づけていることに無縁ではないと思う。しかし、そのような個人的なことにはあまり意味がない。
 もちろん、『顔をあらう水』は、先の三冊の詩集と無関係な現存の世界が展開されているわけではない。だが、この詩集に表出している詩空間には、蜂飼固有の神話性を通過した後の、現在性に基づくリアリティーが表象されているようにも思われるのだ。以前の詩とは異質な詩のトポスが形成されており、そこに生み出されるリアリティーへの蜂飼の行為が、以前の詩との差異を生み出し、詩の言葉と読者との新たな関係性と距離を作り出してゆく。しかし、これは私の勝手な妄想にすぎないのだろう。次に読んだときには、まったく違った感想を持つことも予想されるのである。

※引用中および著書の丸括弧はルビ。
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