「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第199回 野村 喜和夫

2016年11月23日 | 詩客
 まず、来住野恵子『ようこそ』(思潮社)。なんと光に満ちている詩集であろうか。それは詩の内容が明るいということではない。むしろ存在の暗い奥底にまで降り立っている趣がある。だが、そこからの上昇があるのだ。そのエネルギーがおのずから放つ光、とでも言えばいいだろうか。
 来住野恵子は、西脇順三郎を読むことからその詩的歴程を始め、ロサンゼルス滞在中に、吉増剛造によって「ユリイカの新人」として見出された。この二人の大詩人の感化もあってか、彼女の想像力はごく自然に宇宙を感受しつつ、極微の自己をそこに在らしめることの眩暈を存分に生き、悲しむことができる。しかしそれだけではない。彼女独自の、何かしら宗教的な感性がその宇宙大的な空しさを貫くのである。つまり光だ。あるいは光への希求だ。ほとんど無私なまでの。「微塵なす符はゆるやかに回転し/あてどない沈黙を踊る/わたしの灰が吹き転がってゆくさき/どんな必然にもひらかれて落下するひかり一枚」──この「ひかり一枚」とは、こうして得られた詩的言語の輝きのことでもあろう。
 それにつけても、カバーに使われている北川健次のコラージュ作品が意味深い。フォンタナの絵画を思わせる白紙の亀裂から天使がひとり抜け出ようとしているが、手に抱えた石板のようなものは、亀裂の深奥からかろうじて持ち帰ったというようだ。そこに何か書かれているとしたら、それこそがこの詩集『ようこそ』という「みずみずしい神秘の傷痕」なのである。
 覚和歌子『はじまりはひとつのことば』(港の人)。詩集タイトルからは、ただちに、「はじめに言葉ありき」という新約聖書のフレーズが想起されるが、とくに関係はないようだ。というか、いたって人間的レベルでも、すべてのはじまりは言葉であり、とりわけ、一篇の詩や物語は、どこからか「ひとつのことば」という種子がやってきて、誰かに慈しみ育てられ、花を咲かせ、やがてそこからまた種子が落ちるのを待つ場のようなものである。そういう創作行為への深い信頼がこの詩集を成り立たせている。
 ただし、その誰かはあくまでも誰かであって、あまりしゃしゃり出てはならない。現代詩の多くが、モナド的な私性を強調しすぎて、みずから張りめぐらした罠に身動きできなくなっている蜘蛛さながらにも思えるとき、覚は、注意深くその私性を後退させ、かわりに、誰でもそこに入って発語できるような、透明な詩人主体になろうとする。
 その結果、すてきに開かれた詩空間が誕生した。「やがてからだは祈るために必要な/一筆書きの線になる」というようなすばらしいフレーズも見出せる。覚自身の言葉を借りれば、彼女は「宇宙のどこかにある源泉なるものからのエネルギーを地上に届ける」ことに成功しているのだ。ということは、「はじめに言葉ありき」の超越的世界ともどこかで通じ合っているのかもしれない。
 なお覚は、私が捌き手をつとめる「しずおか連詩」の参加詩人でもあり、詩集中には「ひとり連詩」の試みなどもあって、うれしいかぎり。
 大木潤子『石の花』(思潮社)。読み終えて、ミニマルな天地創造に立ち会ったような思いだ。大木潤子といえば、かつては制度化された言説を逆手にとるような、どちらかといえば饒舌な語りの魅力を放つ詩人であったと記憶する。それがうってかわって、この『石の花』では、左側のページにだけ、数行(場合によってはたった一行)の短い言葉が印字されているだけ。なんとも驚くべき変容である。詩人の実存に何があったのか。おそらくは危難のさなかで執り行われた再生の儀式の、きわめて物質的かつ象徴的なプロセスの開示がこの詩集であろうと推察される。
 はじめに光と闇の原初的な交錯があり、それを縫うように石という形象が次第に浮かび上がってくる。まさに「石を結ぶ」だが、すぐに「わたしは結ばれた石」とあって、主体と石とが重なり合う。ここがポイントであり、再生の儀式といま呼んだゆえんである。ただ、主体はひとまず不感無覚の無機物になるというのだから、むしろ死の擬装というべきか、さらに、「石の蕾/花開くとき、」と、一転また花との隠喩的な結びつきが予示されるにいたって、儀式はいっそう重層した様相を呈するかのようだ。
 このあたり、私はふと、近頃亡くなった現代フランスの大詩人イヴ・ボンヌフォワの詩作を思い出す。「深い光があらわれるためには/痛めつけられてきしむ夜の大地が必要だ」とボンヌフォワは書いたが、ここでも、「石の花」とは、死を介してますます物質性大地性と結ばれた現存の、暗い輝きを放つ光のことであろう。
 ここでしばし、ボンヌフォワ追悼を。いまでもときおりこの詩人の詩を読むことがあるが、それは日頃ふくれあがった詩への欲望、言葉やイメージの勝手な増殖や跳梁を鎮め、あるいは戒めるためだ。詩の行為にそんなエネルギーは要らないとボヌフォワは言う。むしろひとつひとつの語をみつめ、掘り下げ、そこを深くたしかに存在が住まうような場所とせよ。ボヌフォワを読み終わったあとは、もっとも意味深く冬というものを経験したような気分、とでも言ったらいいのだろうか、きづたの裂けた葉、夕陽を受けてさむざむと輝く山の中腹の家の窓ガラス、そのような、現存ということのぎりぎりシンプルな形象だけが、私のクリアされた想像力のなかに、何かかけがえのない染みのように浮かび上がって、しばらくは消えないでいるのだ。合掌。
 時評に戻って、最後は、萩野なつみ『遠葬』(思潮社)。待望の詩集である。数年前、「現代詩手帖」新人作品欄の選者を私がつとめていたときに、抜きん出て美しい詩を投稿してくる人がいた。それが萩野なつみであったが、このたび、ようやく第一詩集を上梓するにいたったのである。
 詩集は四つのパートに分かれ、それぞれに、夏からふたたびの夏への季節のめぐりがうっすらと対応している。それらを貫いて、「遠葬」「雪葬」「春葬」「夏葬」と、「葬」のつくタイトルの詩が配されているのが目につく。かと思うと、「気管をすりぬけるように/蜩が鳴いている/からだの奥で」とか、あえかでみずみずしい生命のイメージがちりばめられる。遠い生誕の秘儀はいまここに繰り返され、またひるがえって、あらかじめの死の記憶へとつづいてゆくかのようである。
 同様に、覚醒も眠りも、「骨壺」も「産道」も、はたまた「はらわた」も「彗星」も、ここに紡がれる詩の言葉の時空においては、存在の生起という本質的な出来事の、容易に反転しあう表と裏にほかならないのだ。「水門のむこうに/乱反射するまひる/遮るもののない青/もし/言葉を持たない遺書があるなら/この景をあなたにおくる」。
 とびきり時評的に言えば、ここには、詩の散文化や大衆化という今日的な波をしなやかに打ち返すように、謎の提示であるメタファーへの信頼と、改行や余白へのこまやかな配慮と、要するにまっとうな現代詩が息づいている。繰り返すが、萩野なつみの登場は長らく待ち望まれていたのである。
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