『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第30回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

2010-11-27 15:33:33 | 『資本論』

第30回「『資本論』を読む会」の報告(その1)


◎紅葉

 どこに行っても紅葉がまばゆいばかりです。

 しかしその華やかさの陰で、はらはらと舞落ちる病葉は何故か儚い気持ちにわれわれを誘うものです。

 枯れ葉の行く末に何らかの暗示を受けながら、しかし私たちの「『資本論』を読む会」は依然として続けていくようではあります。はらはらと事毎に参加者が減りながらも、しぶとく続けていく意義が何処にあるのか、誰も分かりません。

 残念ながら、今回も寂しい開催になりました。途中、何人かが会場を覗きに来られましたが、いずれもどうやら目指す会場を間違って訪れたようで、謝って去りました。

 というわけで、今回は〈C 一般的価値形態〉〈二 相対的価値形態と等価形態の発展関係〉をやったのですが、淡々と進み〈二〉の最後まで終えることができました。その報告を行うことにしましょう。

◎〈二〉全体の構成

 いつものように、今回学習する〈二〉の課題とその構成について、まずみて行くことにしましょう。

 〈 一 価値形態の変化した性格〉では、獲得された一般的価値形態では、相対的価値形態と等価形態がどのように変化しているかが、それぞれ個別に考察されました。相対的価値形態と等価形態のそれぞれが形態 I (単純な価値形態)、形態II(展開された価値形態)、形態III(一般的価値形態)という価値形態の発展のなかで如何に変化したかが論理的にも歴史的にも遡って考察されていました。

 そうした考察を踏まえて、この〈二〉では、相対的価値形態と等価形態という二つの価値形態が、今度は統一されて、両者の関係の発展が考察されていると言えます。

 初版付録では、すでに紹介しましたように(第28回報告参照)、この部分は〈(3) 相対的価値形態と等価形態との均斉のとれた発展関係〉と〈(4) 相対的価値形態と等価形態との対極性の発展〉という二つの項目に分けられていました。だからここでは〈相対的価値形態と等価形態との発展関係〉が、〈相対的価値形態と等価形態との均斉のとれた発展開係〉(【1】・【2】)と〈相対的価値形態と等価形態との対極性の発展〉(【3】~【7】)とに分けて考察されているわけです。

 そしてまたその考察は〈一〉の場合と同じように、形態 I 、形態II、形態IIIの順にその発展関係が考察されています。

 それでは前置きはこれぐらいにして、具体的にパラグラフをみて行くことにしましょう。今回もこれまでと同じように、まず本文を提示し、その文節ごとに(イ)、(ロ)、(ハ)……と記号を付して、それぞれを平易に書き下す形で進めることにします。

◎相対的価値形態と等価形態との均斉のとれた発展関係

 まず第1パラグラフです。

【1】〈(イ)相対的価値形態の発展の程度には等価形態の発展の程度が対応する。(ロ)しかし、これは注意を要することであるが、等価形態の発展はただ相対的価値形態の発展の表現と結果でしかないのである。〉

 (イ)相対的価値形態の発展の程度には等価形態の発展の程度が対応しています。

 (ロ)しかしこのことは十分注意すべきことですが、等価形態の発展は、相対的価値形態の発展の表現であり、その結果に過ぎません。イニシアチブは、あくまでも相対的価値形態にあり、等価形態はただ受動的にそれを受け取るに過ぎません。

 ここで特に(ロ)で述べられていることは重要であることが指摘されました。JJ富村さんは、ここで書かれていることそのものは、そんなに難しいことではなく、これまでの展開を踏まえれば、何となく分かるような気がする、と述べました。しかし、それに対して、事はそれほど簡単ではないのだとの指摘がありました。というのは前回(第29回)の報告でも、〈一〉の【8】パラグラフの解説のなかで、一般的な相対的価値形態がリンネルに一般的等価物という性格を「押しつける」という表現に関連して、次のように説明しました。

 「ここでマルクスは〈一般的等価物としての性格を押しつける〉と〈押しつける〉という表現をとっていますが、リンネルの一般的等価物としての性格はあくまでもリンネルが受動的に商品世界から押しつけられたものだとの理解が重要だということが指摘されました。というのはこの一般的等価形態が貨幣になるとその性格があたかも貨幣が生まれながらに持っているかの外観が生じ、だから諸商品の交換関係から、貨幣が生まれるという関係が逆転して、貨幣によって諸商品が流通させられるという観念が生じてくるからだということです。」

 今回は、この転倒した観念に、現実には、どれほど多くの人たちが惑わされているかということが話題になり、次のような例が紹介されました。

 例えば戦後の世界資本主義は「管理通貨体制」と言われています。あるいは「管理通貨制度の下にある」とも。つまり「通貨」が国家によって「管理」されていると捉えられているのです。もちろん、ここには「通貨」概念の混乱が背景にあります。「通貨」というのは厳密には貨幣の流通手段と支払手段との機能を合わせたものを意味します。そしてこうした意味での「通貨」を「管理」できるなどと考えるのは、貨幣についてのまさに転倒した観念の産物なのです。ところが、ブルジョア経済学者だけではなく、ほとんどのマルクス経済学者も、今日のいわゆる「不換制」の下では、「通貨」は国家によって「管理」されているのだという認識を持っています。しかし、「通貨」を概念的に捉えれば、それを「管理」するなどいうことができないことは明らかなのです。なぜなら、このパラグラフでマルクスが強調しているように、諸商品の交換という現実があって(そしてそのために諸商品がその価値を相対的な価値形態として表すという現実があって)、貨幣形態(一般的等価形態)があるのだからです。イニシアチブをとっているのは商品交換という現実です。だからもし「通貨」を「管理」しようと思うなら、商品の交換そのものを「管理」しなければならないことになるのです。そしてそれは実質上、われわれの社会的な物質代謝を「管理」するということに他なりません。しかしこんなことは現代の資本主義社会をひっくり返さない限り不可能事でしょう。ところがマルクス経済学者を自認する人たちまで、資本主義を前提したままで、「通貨」の「管理」は可能だと考え、現代の資本主義はそうした体制なのだと説明して、何の疑いも持たず、いわばそれが常識と化しているありさまなのです。

 こうした現代資本主義においては「通貨」は「管理」されていると捉えている人たちの誤りには二つの理由が考えられます。一つは先に指摘した「通貨」概念の混乱にもとづくものです。つまり「通貨」と「利子生み資本という意味での貨幣資本(moneyed Capital)」との区別が分からずにごっちゃに論じていることから来るものです(これについては第30回の「案内」でも少し述べました)。本当は「利子生み資本としての貨幣資本(moneyed Capital)」の運動なのに、それを「通貨」の運動と捉えてしまっているのです。しかし「通貨」は社会的な物質代謝に直接関連します(媒介します)が、「貨幣資本(moneyed Capital)」は社会的な再生産の外部にある信用制度の下で運動する貨幣なのです。だからこうした人為的な制度のもとでは、それは信用(特に公信用)を背景にいくらでも膨張したり縮小したり、ある程度までは恣意的に左右できるわけです。だからそれを「通貨」と捉えると、「通貨」は国家によって恣意的に「管理」されていると捉えることになってしまうわけです。

 もう一つは貨幣名を変更することを持って、「通貨」を「管理」していると錯覚していることです。これについて詳しく説明すると、あとで学習する予定の〈第3章 貨幣または商品流通〉の内容にあまりにも踏み込みすぎますので、それは割愛しますが、いずれにせよ、貨幣名は確かに時の権力者によって恣意的に決めることが可能です。しかし、それは商品の価値量を表現する等価物の使用価値量が、例えば上着を「1着」「2着」と数えたり、ラクダを「1頭」「2頭」と数えるのも、ただ社会的な慣習にもとづいているように、一般に社会的な慣習によるものだからであり、だからまた貨幣としての金の量をどのように数えるのかも(それが貨幣名を決めるということです)、その限りでは恣意的に決めることが可能だというにすぎないのです。だからこれも決して「通貨」を「管理」しているわけではないのです。現代の不換制の下においても基本的にはこの延長上にあると考えるべきなのです。

 このように『資本論』を読んでいる限りでは分かったつもりになっていても、いざ、現実の過程を説明しようとなると、結局は『資本論』が何度も強調し注意している間違った転倒した観念にとらわれている例が実に多いのだという説明でした。

 次は第2パラグラフです。

【2】〈(イ)一商品の単純な、または個別的な相対的価値形態は、他の一商品を個別的等価物にする。(ロ)相対的価値の展開された形態、すなわちすべての他の商品での一商品の価値の表現は、これらの商品にいろいろに違った種類の特殊的等価物という形態を刻印する。(ハ)最後に、ある特別な商品種類が一般的等価形態を与えられるのであるが、それは、すべての他の商品がこの商品種類を自分たちの統一的な一般的な価値形態の材料にするからである。〉

 (イ)一商品の単純な、個別的な相対的価値形態は、他の一商品を個別的等価物にします。

 (ロ)一商品の全体的な相対的価値形態は、一商品の価値を表す他のすべての商品に、それぞれ種類の違った特殊的な等価物という形態を与えます。

 (ハ)そして最後のすべての商品が共同でその価値を表す一般的な相対的価値形態は、その価値を表す材料となる商品世界から排除されたある特別な商品に一般的等価形態を与えます。

 この部分は初版付録では、次のようにより詳しい展開になっています。

 〈単純な相対的価値形態は、一商品の価値を、唯一の他の商品種類でのみ表現するのであって、この商品種類がなんであってもかまわない。だから、この商品は、それ自身の使用価値形態あるいは現物形態とは異なる価値形態しか受け取らない。この商品の等価物も、単一の等価形態しか受け取らない。発展した相対的価値形態は、一商品の価値を、他のすべての商品で表現する。だから、他のすべての商品は、多くの特殊的な等価物という形態すなわち特殊的な等価形態を、受け取るわけである。最後に、商品世界は、自分に、統一的な一般的な相対的価値形態を与えるが、そうするのは、商品世界が唯一の商品種類をのけものにし、この唯一の商品種類のうちに、他のすべての商品が自分たちの価値を共同で表現するからである。こうすることによって、こののけものにされた商品が一般的な等価物になる。すなわち、この等価形態が一般的な等価形態になるわけである。〉(江夏訳902頁)

 より詳しい説明にはなっていますが、基本的に言われていることは同じことです。ここでは単純な相対的価値形態→「個別的」な等価形態、展開された相対的価値形態→「特殊的」等価形態、一般的相対的価値形態→「一般的」等価形態、という相互の発展関係が対比された形で示されています。ここで等価形態が「個別」、「特殊」、「一般」という形で発展して、商品の価値の概念にもっと相応しい形態を獲得する過程が示されているといえるでしょう。

◎ 相対的価値形態と等価形態との対極性の発展

 次の第3パラグラフからは、相対的価値形態と等価形態との対極性の発展です。

【3】〈(イ)しかし、価値形態一般が発展するのと同じ程度で、その二つの極の対立、相対的価値形態と等価形態との対立もまた発展する。〉

 (イ)相対的価値形態と等価形態との均斉のとれた発展関係とともに、それは同時に両形態の対極性、対立の発展でもあるのです。

 このパラグラフも初版付録では詳しく展開されていますので、まずそれを紹介しておきましょう。

 〈相対的価値形態と等価形態との対極的な対立、あるいは、不可分な一対であるとともに同じく絶えず排除しあっているというと、したがって、(1)一商品は、他の商品が反対の形態になければ、一方の形態にあることができないということ、そしてまた、(2)一商品が一方の形態にあると、その商品は、この価値表現では、同時に他方の形態にもあることができないということ--価値表現の両契機のこういった対極的な対立は、価値形態一般が発展または完成するのと同じ度合いで発展し硬化する。〉(江夏訳902頁)

 ここでは〈対極的な対立〉を説明して、〈不可分な一対であるとともに同じく絶えず排除しあっているということ〉という説明が加えられ、さらにぞれぞれについて(1)(2)と説明されています。すなわち〈不可分の一対である〉ということは、〈一商品は、他の商品が反対の形態になければ、一方の形態にあることができないということ〉と説明され、〈絶えず排除しあっているということ〉については、〈一商品が一方の形態にあると、その商品は、この価値表現では、同時に他方の形態にもあることができないということ〉という説明が加えられています。そしてさらに、こうした〈対極的な対立〉の発展が、〈価値形態一般が発展または完成するのと同じ度合いで発展し硬化する〉と説明されています。つまり対立が発展するということは、その対立が硬化する度合いが発展するということだということです。つまりそれぞれ対立した極に来る商品が特定のものに固定されることが、すなわちその対極性の発展の内容であることが示唆されています。

 ヘーゲルは「対立」について次のように説明しています。

 〈本質の区別は対立であり、区別されたものは自己にたいして他者一般をではなく、自己に固有の他者を持っている。言いかえれば、一方は他方との関係のうちにのみ自己の規定を持ち、他方へ反省しているかぎりにおいてのみ自己へ反省しているのであって、他方もまたそうである。つまり、各々は他者に固有の他者である〉(『小論理学』岩波文庫、下28頁)

 また以前にも紹介したことがある『ヘーゲル論理学入門』(有斐閣新書)は、さらに分かりやすく次のように解説しています。

 〈第一に、……対立的な二つのものは、その規定性に関しては相互に排斥しあう関係にあって、たがいに自分は他方のものではないということが、そのまま直接に自分自身の規定と合致するという関係にあります。
 第二に、……人間のうちあって男性でないものといえばただちに女性を意味するように、兩極的な対立物は、たがいに、たんなる他者としてではなくて、それぞれに固有の他者としてあるのです。
 第三に、……両者は、一つのものの不可分の二側面として互いに前提しあい依存しあう関係にあります。
 このように、その規定性にかんしては相互排斥的な兩極的関係にあるものが、その存在にかんしては相互前提的な関係にあること、これが対立です。〉(70-1頁)

 つまり相対的価値形態と等価形態とは、互いに前提しあいながら、同時に相互に排斥しあっているような関係にあるということです。こうした対立的な関係が、それぞれの価値形態の発展によって、対立そのものも発展し、硬化するというわけです。そうした対極性の発展関係が、単純な価値形態(【4】)から展開した価値形態(【5】)、そして一般的価値形態(【6】・【7】)へと価値形態が発展する度合いに応じて、どのように発展しているかを考察しようというわけです。

(以下、字数制限の関係で、この項目は「その2」に続きます。)

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