『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第50回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

2012-10-12 16:59:43 | 『資本論』

第50回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

 

 

◎第16パラグラフ

【16】〈(イ)われわれが見たように、すでに最も単純な価値表現、x量の商品A=y量の商品B においても、他の一つの物の価値の大きさがそれによって表される物は、その等価形態を、この関係から独立に社会的な自然属性として持っているかのようにみえる。(ロ)われわれはこの虚偽の外観の確立を追求した。(ハ)一般的等価形態が、ある特殊な種類の商品の現物形態に癒着した時、あるいは貨幣形態に結晶した時、この外観は完成する。(ニ)一商品は、他の諸商品がその価値をこの一商品によって全面的に表示するので、はじめて貨幣になるのだ、とは見えないで、むしろ逆に、この一商品が貨幣であるからこそ、他の諸商品はこの一商品で一般的にそれらの価値を表示するかのように見える。(ホ)媒介する運動は、運動それ自身の結果では消失して、何の痕跡も残してはいない。(ヘ)諸商品は、みずから関与することなく、自分たち自身の価値姿態が、自分たちの外に自分たちとならんで存在する一商品体として完成されているのを見いだす。(ト)金や銀というこれらの物は、地中から出てきたままで、同時に、いっさいの人間労働の直接的化身なのである。(チ)ここから、貨幣の魔術が生じる。(リ)人間の社会的生産過程における人間の単なる原子的なふるまいは、したがってまた人間の管理や人間の意識的な個人的行為から独立した彼ら自身の生産諸関係の物的姿態は、さしあたり、彼らの労働生産物が一般的に商品形態をとるという点に現れる。(ヌ)だから、貨幣物神の謎は、目に見えるようになった、人目をくらますようになった商品物神の謎にほかならない。〉

 (イ) 私たちがすでに見たように、最も単純な価値表現、x量の商品A=y量の商品B においても、他の商品の価値の大きさがそれによって表される商品の使用価値は、その等価形態を、この関係から独立に社会的な自然属性として持っているかのようにみえます。

 〈われわれが見たように〉とあるのは、第1章第3節Aの「3 等価形態」で次のように述べていたことを指しているのだと思われます。

 〈ある一つの商品、たとえばリンネルの相対的価値形態は、リンネルの価値存在を、リンネルの身体やその諸属性とはまったく違ったものとして、たとえば上着に等しいものとして表現するのだから、この表現そのものは、それが或る社会的関係を包蔵していることを暗示している。等価形態については逆である。等価形態は、ある商品体、たとえば上着が、このあるがままの姿の物が、価値を表現しており、したがって生まれながらに価値形態をもっているということ、まさにこのことによって成り立っている。いかにも、このことは、ただリンネル商品が等価物としての上着商品に関係している価値関係のなかで認められているだけである。しかし、ある物の諸属性は、その物の他の諸物にたいする関係から生ずるのではなく、むしろこのような関係のなかではただ実証されるだけなのだから、上着もまた、その等価形態を、直接的交換可能性というその属性を、重さがあるとか保温に役だつとかいう属性と同様に、生まれながらにもっているように見える。それだからこそ、等価形態の不可解さが感ぜられるのであるが、この不可解さは、この形態が完成されて貨幣となって経済学者の前に現われるとき、はじめて彼のブルジョア的に粗雑な目を驚かせるのである。そのとき、彼はなんとかして金銀の神秘的な性格を説明しようとして、金銀の代わりにもっとまぶしくないいろいろな商品を持ち出し、かつて商品等価物の役割を演じたことのあるいっさいの商品賎民の目録を繰り返しこみあげてくる満足をもって読みあげるのである。彼は、20エレのリンネル=1着の上着 というような最も単純な価値表現がすでに等価形態の謎を解かせるものだということには、気がつかないのである。〉(全集23a77-8頁)

 またこの文節には〈社会的な自然属性〉という言葉が出てきますが、これも次のように説明されていました。

 〈それでは、労働生産物が商品形態をとるとき、その謎のような性格はどこから生ずるのか? 明らかにこの形態そのものからである。いろいろな人間労働の同等性はいろいろな労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を受け取り、その継続時間による人間労働力の支出の尺度は労働生産物の価値量という形態を受け取り、最後に、生産者たちの労働の前述の社会的規定がそのなかで実証されるところの彼らの諸関係は、いろいろな労働生産物の社会的関係という形態を受け取るのである。
 だから、商品形態の秘密はただ単に次のことのうちにあるわけである。すなわち、商品形態は人間にたいして人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、これらの物の社会的な自然属性として反映させ、したがってまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係をも諸対象の彼らの外に存在する社会的関係として反映させるということである。このような置き替えによって、労働生産物は商品になり、感覚的であると同時に超感覚的である物、または社会的な物になるのである。同様に、物が視神経に与える光の印象は、視神経そのものの主観的な刺激としてではなく、目の外にある物の対象的な形態として現われる。しかし、視覚の場合には、現実に光が一つの物から、すなわち外的な対象から、別の一つの物に、すなわち目に、投ぜ備られるのである。それは、物理的な物と物とのあいだの一つの物理的な関係である。これに反して、商品形態やこの形態が現われるところの諸労働生産物の価値関係は、労働生産物の物理的な性質やそこから生ずる物的な関係とは絶対になんの関係もないのである。ここで人間にとって諸物の関係という幻影的な形態をとるものは、ただ人間自身の特定の社会的関係でしかないのである。それゆえ、その類例を見いだすためには、われわれは宗教的世界の夢幻境に逃げこまなければならない。ここでは、人間の頭の産物が、それ自身の生命を与えられてそれら自身のあいだでも人間とのあいだでも関係を結ぶ独立した姿に見える。同様に、商品世界では人間の手の生産物がそう見える。これを私は呪物崇拝と呼ぶのであるが、それは、労働生産物が商品として生産されるやいなやこれに付着するものであり、したがって商品生産と不可分なものである。〉(前掲97-8頁、下線は引用者)

 (ロ)(ハ) 私たちはこの虚偽の外観の確定を追求しました。一般的等価形態が、ある特殊な種類の商品の現物形態に癒着した時、あるいは貨幣形態に結晶した時、この外観は完成しました。

 ここでは〈われわれはこの虚偽の外観の確立を追求した〉とありますが、これは第1章第4節の次の部分を指していると考えられます。

 〈人間生活の諸形態の考察、したがってまたその科学的分析は、一般に、現実の発展とは反対の道をたどるものである。それは、あとから始まるのであり、したがって発展過程の既成の諸結果から始まるのである。労働生産物に商品という極印を押す、したがって商品流通に前提されている諸形態は、人間たちが、自分たちにはむしろすでに不変なものと考えられるこの諸形態の歴史的な性格についてではなくこの諸形態の内実について解明を与えようとする前に、すでに社会的生活の自然形態の固定性をもっているのである。このようにして、価値量の規定に導いたものは商品価格の分析にほかならなかったのであり、商品の価値性格の確定に導いたもの諸商品の共通な貨幣表現にほかならなかったのである。ところが、まさに商品世界のこの完成形態--貨幣形態--こそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである。もし私が、上着や長靴などが抽象的人間労働の一般的な具体化としてのリンネルに関係するのだ、と言うならぽ、この表現の奇異なことはすぐに感ぜられる。ところが、上着や長靴などの生産者たちがこれらの商品を一般的等価物としてのリンネルに--または金銀に、としても事柄に変おりはない--関係させるならば、彼らにとっては自分たちの私的労働の社会的総労働にたいする関係がまさにこの奇異な形態で現われるのである。
 このような諸形態こそはまさにブルジョア経済学の諸範疇をなしているのである。それらの形態こそは、この歴史的に規定された社会的生産様式の、商品生産の、生産関係についての社会的に認められた、つまり客観的な思想形態なのである。〉(前掲101-2頁)

 (ニ) 一商品は、他の諸商品がその価値をこの一商品によって全面的に表示するから、初めて貨幣になるのだ、というようには見えないで、むしろ逆に、この一商品が貨幣であるからこそ、他の諸商品はこの一商品によって一般的にそれらの価値を表示できるかのように見えるのです。

 こうした逆転して見える理由については、直前に紹介した第4節の一文が良く説明してくれていると思います。

 学習会では、こうした逆転して見える現象に囚われているのは、何も昔の人の話ではなく、今日においても同じだということになりました。というのは、今日でも、例えば日銀の追加金融緩和策と称して、「カネの垂れ流し」をしていると批判してる人もありますが、そもそも「カネを垂れ流せ」ば、景気が良くなるというのは、まさにマルクスがここで述べている逆転現象に囚われた間違った理解なのです。だからまた、それを「カネの垂れ流し」だと批判している人も、実は同じような現象に囚われている点では、同じだ、ということでもあるのです。

 これは第3章の一文ですが、同じような逆転現象について、マルクスが論じている部分を紹介しておきましょう(また『経済学批判』にも同様の指摘があります。全集13巻81-2頁参照)。

 〈貨幣の流通は、同じ過程の不断の単調な繰り返しを示している。商品はいつでも売り手の側に立ち、貨幣はいつでも購買手段として買い手の側に立っている。貨幣は商品の価格を実現することによって、購買手段として機能する。貨幣は、商品の価格を実現しながら、商品を売り手から買い手に移し、同時に自分は買い手から売り手へと遠難ざかって、また別の商品と同じ過程を繰り返す。このような貨幣運動の一面的な形態が商品の二面的な形態運動から生ずるということは、おおい隠されている。商品流通そのものの性質が反対の外観を生みだすのである。商品の第一の変態は、ただ貨幣の運動としてだけではなく、商品自身の運動としても目に見えるが、その第二の変態はただ貨幣の運動としてしか見えないのである。商品はその流通の前半で貨幣と場所を取り替える。それと同時に、商品の使用姿態は流通から脱落して消費にはいる。その場所を商品の価値姿態または貨幣仮面が占める。流通の後半を、商品はもはやそれ自身の自然の皮をつけてではなく金の皮をつけて通り抜ける。それとともに、運動の連続性はまったく貨幣の側にかかってくる。そして、商品にとっては二つの反対の過程を含む同じ運動が、貨幣の固有の運動としては、つねに同じ過程を、貨幣とそのつど別な商品との場所変換を、含んでいるのである。それゆえ、商品流通の結果、すなわち別の商品による商品の取り替えは、商品自身の形態変換によってではなく、流通手段としての貨幣の機能によって媒介されるように見え、この貨幣が、それ自体としては運動しない商品を流通させ、商品を、それが非使用価値であるところの手から、それが使用価値であるところの手へと、つねに貨幣自身の進行とは反対の方向に移して行くというように見えるのである。貨幣は、絶えず商品に代わって流通場所を占め、それにつれて自分自身の出発点から遠ざかって行きながら、商品を絶えず流通部面から遠ざけて行く。それゆえ、貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われるのである。〉(全集23a151-2頁)

 ここでマルクスが述べているように、貨幣の運動が商品の流通を引き起こしているように見えるから、だから貨幣をどんどん流通に投げ込めば(彼らはそれが可能だと考えている!)、商品がもっと流通して、すなわち商品がどんどん売れて、景気もよくなるように見えるわけです。貨幣が不足しているから、「流動性」が不足しているから、商品が売れず、景気が悪いのだと彼らには見えるわけです。

 他方、「日銀は通貨の番人たれ」と、「カネを垂れ流す」日銀に対して説教を垂れて、日銀はその本来の任務を自覚すべきだなどと論じている人もありますが、こうした主張もまったく逆転現象に囚われたまま、日銀を批判している(批判したつもりになっている)に過ぎないのです。なぜなら、日銀が実際に、通貨を管理している(出来ている)などと考えること自体が、何も理解していないことを意味するのであって、貨幣の流通は、商品の流通の結果であって、その逆ではないという本質的な関係が何も分かっていないことを物語っているからです。

 これと類似した問題は、第1章第3節の一般的価値形態のところでも論じましたので、ついでにそれも紹介しておきましょう。まず本文は次のようなものでした。

 〈相対的価値形態の発展の程度には等価形態の発展の程度が対応する。しかし、これは注意を要することであるが、等価形態の発展はただ相対的価値形態の発展の表現と結果でしかないのである〉(91頁)

 そしてこの部分の解説のなかで、次のように書いたのです(今回、紹介するにあたり一部補足しました)。

 【今回は、この転倒した観念に、現実には、どれほど多くの人たちが惑わされているかということが話題になり、次のような例が紹介されました。
 
 例えば戦後の世界資本主義は「管理通貨体制」と言われています。あるいは「管理通貨制度の下にある」とも。つまり「通貨」が国家によって「管理」されていると捉えられているのです。もちろん、ここには「通貨」概念の混乱が背景にあります。

 「通貨」というのは厳密には貨幣の流通手段と支払手段との機能を合わせたものを意味します。そしてこうした意味での「通貨」を「管理」できるなどと考えるのは、貨幣についてのまさに転倒した観念の産物なのです。ところが、ブルジョア経済学者だけではなく、ほとんどのマルクス経済学者も、今日のいわゆる「不換制」の下では、「通貨」は国家によって「管理」されているのだという認識を持っています。しかし、「通貨」を概念的に捉えれば、それを「管理」するなどいうことができないことは明らかなのです。なぜなら、このパラグラフでマルクスが強調しているように、諸商品の交換という現実があって(そしてそのために諸商品がその価値を相対的な価値形態として表すという現実があって)、貨幣形態(一般的等価形態)があるのだからです。イニシアチブをとっているのは商品交換という現実です。だからもし「通貨」を「管理」しようと思うなら、商品の交換そのものを「管理」しなければならないことになるのです。そしてそれは実質上、われわれの社会的な物質代謝を「管理」するということに他なりません。しかしこんなことは現代の資本主義社会をひっくり返さない限り不可能事でしょう。ところがマルクス経済学者を自認する人たちまで、資本主義を前提したままで、「通貨」の「管理」は可能だと考え、現代の資本主義はそうした体制なのだと説明して、何の疑いも持たず、いわばそれが常識と化しているありさまなのです。

 こうした現代資本主義においては「通貨」は「管理」されていると捉えている人たちの誤りには二つの理由が考えられます。一つは先に指摘した「通貨」概念の混乱にもとづくものです。つまり「通貨」と「利子生み資本という意味での貨幣資本(moneyed Capital)」との区別が分からずにごっちゃに論じていることから来るものです(これについては第30回の「案内」でも少し述べました)。本当は「利子生み資本としての貨幣資本(moneyed Capital)」の運動なのに、それを「通貨」の運動と捉えてしまっているのです。(補足:いわゆる「預金通貨」という概念は一般的に認められています。これは何もブルジョア経済学者だけではなく、多くのマルクス経済学者にも肯定的に取り扱われています。なかには預金通貨こそ本来の信用貨幣なのだと主張する人さえいます〔例えば山本孝則氏〕。この学習会でもしばしば取り上げてきた日本のマルクス経済学の権威と目されている大谷禎之介氏もその一人なのです。しかし、「預金」を「通貨」と捉えるというのは、まさに「通貨」概念の混乱の最たるものなのです。というのは、預金が諸支払に利用されるということは、通貨の節約になりこそすれ、それ自体が通貨であるなどということは決して無いからです。そもそも預金は貨幣信用の範疇なのです。)しかし「通貨」は社会的な物質代謝に直接関連します(媒介します)が、「貨幣資本(moneyed Capital)」は社会的な再生産の外部にある信用(貨幣信用)の下で運動する貨幣なのです。だからこうした人為的な制度のもとでは、それは信用(特に公信用)を背景にいくらでも膨張したり縮小したり、ある程度までは恣意的に左右できるわけです。だからそれを「通貨」と捉えると、「通貨」は国家によって恣意的に「管理」されていると捉えることになってしまうわけです。(追加:現在の日銀の追加金融緩和策は、日銀が市中銀行の持っている国債などを買い取り〔買いオペ〕、日銀における市中銀行の当座預金を積み増す操作のことですが、このこと自体は、ただ市中銀行の準備金の形態を変換しているだけに過ぎないのに、こうした「預金」を「通貨」と捉えるからこそ、そうした日銀の操作を「通貨の供給」と捉えたり--日銀自身もそう考えているのですが--、それを批判する側も、「通貨の垂れ流し」だ、などと批判することに〔批判したつもりに〕なってしまうわけです。)

 もう一つは貨幣名を変更することを持って、「通貨」を「管理」していると錯覚していることです。これについて詳しく説明すると、あとで学習する予定の〈第3章 貨幣または商品流通〉の内容にあまりにも踏み込みすぎますので、それは割愛しますが、いずれにせよ、貨幣名は確かに時の権力者によって恣意的に決めることが可能です。しかし、それは商品の価値量を表現する等価物の使用価値量が、例えば上着を「1着」「2着」と数えたり、ラクダを「1頭」「2頭」と数えるのも、ただ社会的な慣習にもとづいているように、一般に社会的な慣習によるものだからであり、だからまた貨幣としての金の量をどのように数えるのかも(それが貨幣名を決めるということです)、その限りでは恣意的に決めることが可能だというにすぎないのです。だからこれも決して「通貨」を「管理」しているわけではないのです。現代の不換制の下においても基本的にはこの延長上にあると考えるべきなのです。

 このように『資本論』を読んでいる限りでは分かったつもりになっていても、いざ、現実の過程を説明しようとなると、結局は『資本論』が何度も強調し注意している間違った転倒した観念にとらわれている例が実に多いのだという説明でした。】(第30回報告)

 自分では『資本論』の重要なところは理解したつもりになっている人が、実は何も理解していないということが明らかになるわけです。日頃の研鑽を怠っては、理論的迷妄に迷い込むというよい例ではないでしょうか。

 (ホ) 媒介する運動は、その運動によってもたらされた結果においては消失して、何の痕跡も残していません。

 これはある意味では、すべての現象に言いうることです。例えば、地球が火の玉から徐々に冷却して今日の姿になったということは、今日の地球を見ている限りでは分かりません。というのは、そうした歴史的な媒介された運動は、その結果である今日の地球では、すでに過去のものとして、見ることが出来ないからです。

 「第5章 労働過程と価値増殖過程」には、次の一文があります。

 〈要するに、労働過程では人間の活動が労働手段を使って一つの前もって企図された労働対象の変化をひき起こすのである。この過程は生産物では消えている。〉(前掲237頁)

 また『経済学批判要綱』には、次のような一文もあります。

 〈資本の生成成立の諸条件および諸前提が想定するのは、まさに、資本がまだ存在せず、ようやく生成しつつある、ということである。だからそれら諸条件・諸前提は、現実的資本の出現とともに、すなわち自己の現実性から出発して、自己の実現の諸条件を自ら措定する資本の出現とともに消失するのである。……それゆえ、剰余資本Ⅰの創造に先行した諸条件、言い換えれば資本の生成を表現する諸条件は、資本が前提となっている生産様式の圏域に属するのではなくて、資本生成の歴史的先行段階として資本の背後にある。それはちょう、地球が、どろどろの火と蒸気の海からその今日の形態へと移行してきたときに通過した諸過程が、完成した地球としての地球の生活の彼方にある、というのと同然である。〉(草稿集②99-100頁)

 (ヘ) 諸商品は、自らは関与せずに、自分たちの自身の価値の姿が、自分たちの外に自分たちとならんて存在する一商品体(金銀)として完成されているのを見いだすだけです。

 本来は諸商品が自ら関与して、自分たちがそれによって価値を表そうとするから、金銀は、その物的姿そのものにおいて諸商品の価値を表すものとして存在しているのに、そうした媒介過程は消え失せているために、あたかも金銀はそれ自体として、諸商品とならんで価値そのものとして存在しているかに見えるのであり、諸商品はそうした完成された貨幣としての金銀をただ眼前に見いだすだけに過ぎないわけです。

 (ト) 金や銀というこれらの物は、地中から出てきたままで、同時に、いっさいの人間労働の直接的化身なのです。

 だから金銀は、地中から出てきたままで、すでに一切の人間労働の直接的化身として、あらゆるものと直接的な交換可能性を持っており、一つの社会的な力を持ったものとして登場するわけです。

 (チ) ここから貨幣の魔術が生まれます。

 貨幣の魔術については、第3章でも色々と出てきます。その一つを紹介しておきましょう。

 〈「金はすばらしいものだ! それをもっている人は、自分が望むすべてのものの主人である。そのうえ、金によって魂を天国に行かせることさえできる。」(コロンブス『ジャマイヵからの手紙』、一五〇三年。)
 貨幣を見てもなにがそれに転化したのかはわからないのだから、あらゆるものが、商品であろうとなかろうと、貨幣に転化する。すべてのものが売れるものとなり、買えるものとなる。流通は、大きな社会的な坩堝(るつぼ)となり、いっさいのものがそこに投げこまれてはまた貨幣結晶となって出てくる。この錬金術には聖骨でさえ抵抗できないのだから、もっとこわれやすい、人々の取引外にある聖物にいたっては、なおさらである。貨幣では商品のいっさいの質的相違が消え去っているように、貨幣そのものもまた徹底的な平等派としていっさいの相違を消し去るのである(91)。しかし、貨幣はそれ自身商品であり、だれの私有物にでもなれる外的な物である。こうして、社会的な力が個人の個人的な力になるのである。それだからこそ、古代社会は貨幣をその経済的および道徳的秩序の破壊者として非難するのである。すでにその幼年期にプルトンの髪をつかんで地中から引きずりだした近代社会は、黄金の聖杯をその固有の生活原理の光り輝く化身としてたたえるのである。〉(全集23a1726頁)

 またこの引用文のなかに付けられた原注91では、次のようなシェークスピアの一節が紹介されています。

 〈(91)「黄金? 黄色い、ギラギラする、貴重な黄金じゃないか? こいつがこれっくらいありゃ、黒も白に、醜も美に、邪も正に、賎も貴に、老も若に、怯も勇に変えることができる。……神たち! なんとどうです? これがこれっくらいありゃ、神官どもだろうが、おそば仕えの御家来だろうが、みんなよそへ引っばってゆかれてしまいますぞ。まだ大丈夫という病人の頭の下から枕をひっこぬいてゆきますぞ。この黄色い奴めは、信仰を編みあげもすりゃ、ひきちぎりもする。いまわしい奴をありがたい男にもする。白癩病みをも拝ませる。盗賊にも地位や爵や膝や名誉を元老なみに与える。古後家を再縁させるのもこいつだ。……やい、うぬ、罰あたりの土くれめ、……淫売め。」(シェークスピア『アゼンスのタイモン』。〔中央公論社、坪内訳、130-132頁。〕)〉(前掲173頁)

 確かに、ただの土くれと同じ一つの鉱物でしかないのに、それに多くの人たちが、引き回され、跪き、身も心も引き裂かれ、それを得るために、何と多くの労苦を強いられていることでしょうか。本当に忌々しい土くれです。こんな単なる物質に、われわれは支配され、従属させられているわけで、原始の人たちが、自然を恐れ、自然の圧倒的な力に神を見出して、敬っているのを、決して笑うことはできないのです。最近も、最先端の高度の医療技術を研究し、それでノーベル賞までもらった学者が、さらに研究を続けるためと称して、金の必要を訴えてマラソンまでやっている現実があるではないですか。金、金、金、何をやるにも、まずこの「先立つもの」が必要だ、この現実は、何も変わっていないのです。

 (リ) 人間の社会的生産過程における人間の単なる原子的なふるまいは、だからまた人間自身の管理や彼らの意識的な個人的行為からは独立した彼ら自身の生産諸関係の物的姿態は、さしあたり、彼らの労働生産物が一般的に商品形態をとるという点に現れます。

 第1章第4節には、次のような一文がありました。

 〈だから、商品形態の秘密はただ単に次のことのうちにあるわけである。すなわち、商品形態は人間にたいして人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、これらの物の社会的な自然属性として反映させ、したがってまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係をも諸対象の彼らの外に存在する社会的関係として反映させるということである。このような置き替えによって、労働生産物は商品になり、感覚的であると同時に超感覚的である物、または社会的な物になるのである。〉(全集23a97-8頁)

 〈交換者たち自身の社会的運動が彼らにとっては諸物の運動の形態をもつのであって、彼らはこの運動を制御するのではなく、これによって制御されるのである。互いに独立に営まれながらしかも社会的分業の自然発生的な諸環として全面的に互いに依存しあう私的諸労働が、絶えずそれらの社会的に均衡のとれた限度に還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的な絶えず変動する交換割合をつうじて、それらの生産物の生産に社会的に必要な労働時間が、たとえばだれかの頭上に家が倒れてくるときの重力の法則のように、規制的な自然法則として強力的に貫かれるからである、〉(同101頁)

 (ヌ) だから、貨幣物神の謎は、目に見えるようになった、人目をくらますようになった、商品物神の謎、その発展したものに他ならないのです。

 さて、この最後の第16パラグラフは、「商品の貨幣への転化」を論じた第2章の締めくくりとして、商品の貨幣への転化とともに、商品の物神性は、貨幣の物神性へと発展したのだと論じたものになっています。これは、「商品とは何か」を論じた第1章の締めくくりとして第4節で「商品の物神的性格とその秘密」を論じたのに対応しているともいえるでしょう。

◎最後に--「『資本論』学習資料室」として

 以上で、殘念ながら、「『資本論』を読む会」の最後の報告を終わります。実際の学習会への参加者数は低調のままに終わったのですが、このブログへのアクセス数は比較的多く、この4年半ほどの間に、訪問者数は45226人、閲覧数は88516を数えました(2012年10月11日現在)。その意味では、この学習会もまんざら無駄ではなかったと自身を慰めている次第です。

 アクセス数の多さを考えた場合、学習会の閉鎖と同時にブログもすぐに閉鎖するのではなく、『資本論』の最も難解といわれる冒頭の部分を、一人でも多くの働く人たちが学び理解するために、何らかの参考になるかも知れないと考えて、当面は、ブログの名称を「『資本論』学習資料室」として、これまでの学習の成果をそのまま残しておくことにしたいと思います。今後とも、大いに利用して頂くようお願いします。

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【付属資料】

●第15パラグラフ

《初版本文》

 〈前に指摘しておいたように、一商品の等価形態は、その商品の価値量の量的な規定を含んでいない。金が貨幣であり、したがって、それがすべての他商品と直接的に交換可能である、ということは知っていても、だからといって、たとえば10ポンドの金がどれほどに値するかは、知られていない。どの商品でもそうであるように、貨幣は、自分自身の価値量を、他の諾商品で相対的にのみ表現することができる。貨幣自身の価値は、貨幣自身の生産に必要とされる労働時聞によって規定されており、この労働時間と同じだけの労働時間が凝固されているところの、他のそれぞれの商品の量のうちに、表現されている(43)。貨幣の相対的価値量のこういった確定は、貨幣の原産地において、直接の物々交換のなかで生ずる。貨幣が貨幣として交換過程にはいり込んでいるとき、この貨幣の価値はすでに与えられている。すでに17世紀の最後の数十年間には、貨幣分析の端緒がかなり進んでいるために、貨幣が商品であるということは知られていたにしても、ほんの端緒でしかなかった。困難は、貨幣が商品であるということを理解することではなく、いかにして、なぜ、なにによって、商品が貨幣であるか、ということを理解することである(44)。〉(80頁)

《フランス語版》

 〈すでに述べたように、商品の等価形態は、この商品の価値量についてなにも明らかにしていない。金が貨幣であること、すなわち、金がすべての商品と交換可能であることを知っても、そのためにたとえば10ポンドの金がどれだけに値するかは、全然わからない。貨幣もあらゆる商品と同様に、それ自身の価値量を他の商品のうちに相対的にしか表現することができない。貨幣の固有の価値は、その生産に必要な労働時間によってきめられ、同時間の労働を必要とした他のすぺての商品の分量のうちに表現される(12)。貨幣の相対的価値量をこのようにきめることは、それの生産源自体で、それの最初の交換において行なわれる。それが貨幣として流通に入りこむやいなや、その価値は与えられるのである。すでに17世紀の最後の数年には、貨幣が商品であることは充分に認められていたが、これについての分析はまだやっと緒についたばかりであった。困難は、貨幣が商品であることを理解することにあるのではなく、どのようにして、なぜ、商品が貨幣になるか、を知ることである(13)。〉(69頁)

●注48

《初版本文》

 〈(43) 「もしある人が、1ブッシェルの穀物を生産することができるのと同じ時間で、1オンスの銀をペルーの地中からロンドンに運んでくることができるならば、後者は前者の自然価格である。さて、もしある人が、もっと採掘のたやすい新鉱山のおかげで、以前1オンスの銀を手に入れたのと同じたやすさで2オンスの銀を手に入れることができれば、穀物は、その他の事情が等しければ、1ブッシェル当たり10シリングであっても、以前に5シリングであったのと同じ安さであろう。」(ウィリアム・ペティ『租税貢納論。ロンドン、1667年』、31ページ。)〉(80頁)

《フランス語版》

 〈(12) 「もしある人が、1ブッシェルの穀物を生産するために要したのと同じ時間で、ペルーの鉱山で採掘された1オンスの銀をロンドンまで届けることができれば、そのばあい、一方は他方の自然価格である。さて、もしある人が、いっそう新しくていっそう富んだ鉱山の採掘によって、以前に1オンスの銀を獲得したのと同じ容易さで、2オンスの銀を獲得でぎるならば、他の事情が等しいかぎり、穀物は1ブッシェルあたり10シリングでも、以前に5シリングであったのと同じ安さであろう。」(ウィリアム・ペティ『租税貢納論』、ロンドン、1667年、31ぺージ)。〉(69-70頁)

●注49

《初版本文》

 〈(44) ロッシャー教授はわれわれにこう教えている。「貨幣の誤った定義は、二つの主要なグループに分けることができる。それは、貨幣を商品以上と考えるものと、これ以下と考えるものとである。」 こう述べたあとで、彼は、貨幣制度にかんする諸著作の雑然とした目録を示しているが、それを見ても、貨幣理論についての現実の歴史のどんな微光さえも見いだされない。そのあとで、次の教訓が登場してくる。「なお、たいていの最近の経済学者たちが、貨幣を他の諸商品から区別する諸特性(それでは、貨幣は商品以上のものかまたは以下のもの、ということになりはしないか?)を充分には限中に置いていなかったことは、否定すべくもない。……そのかぎりでは、ガニル等々の半ば重商主義的な反動は、全く無根拠なものではない。」(ヴィルヘルム・ロッシァー『国民経済学原理、第三版、1858年』、207-210ページ。)以上--以下--充分ではない--そのかぎりでは--全く、ではない! なんという概念規定だ! しかも、このような折衷的な大学教授風のたわごとを、ロッシァー氏は控え目に、「経済学の解剖学的・生理学的方法」と命名している! といっても、貨幣は「好ましい商品」であるという一つの発見は、彼のおかげなのである。〉(80-1頁)

《フランス語版》

 〈(13) 教授ロッシャー氏は、まずわれわれにこう教える。「貨幣の誤った定義は、二つの主要群に区分することができる。すなわち、貨幣が商品以上であるとする定義と、商品以下であるとする定義とがある、次いで、彼はわれわれに、貨幣の性質にかんするきわめて雑然とした著書目録を提供するが、そういうことは、貨幣理論の真の歴史についてどんな光もあてるものではない。最後に、お説教がやってくる。彼はこう言う。「大多数の最近の経済学者が、貨幣を他の商品から区別する特殊性(いったいそれは、商品以上のものか以下のものか?) にはほとんど注意しなかったことは、否定すべくもない。……この意味では、ガニルの半重商主義的反動は、……全く無根拠なものではない」(ヴィルヘルム・ロッシャー『国民経済学の基礎』、第三版、1858年、207ページ以下)。以上--以下--余りにわずか--この意味では--全くそうでない--、言葉の概念上、なんと明晰でなんと正確なことよ! そして、ロッシャー氏が控え目に「経済学の解剖学的・生理学的方法」と命名するものは、このような雑駁な大学教授的折衷主義なのだ! それにもかかわらず、一つの発見、すなわち、貨幣が「快適な商品」であるということは、彼のおかげによるものである〉(70頁)

●第16パラグラ

《初版本文》

 〈われわれが見たように、すでに x量の商品A=y量の商品B という交換価値の最も単純な表現にあっても、他方の物の価値量がそれのうちに表わされているところの物は、自分の等価形態を、この関係にかかわりなく、社会的な自然属性として、もっているかのように見える。われわれは、この虚偽の仮象の固定化を追跡した。この虚偽の仮象は、一般的な等価形態が、ある特殊な商品種類の現物形態に癒着するやいなや、すなわち、貨幣形態に結晶するやいなや、完成されることになる。ある商品は、他の諸商品が自分たちの価値を全面的にこのある商品で表わすがゆえに初めて貨幣になる、とは見えないのであって、逆に、このある商品が貨幣であるがゆえに他の諸商品が自分たちの価値を一般的にこのある商品で表わしている、というように見える。媒介する運動は、運動自身の結果のなかに消滅して、なんの痕跡も残さない。諸商品は、なにもすることなしに、自分たち自身の価値姿態が、自分たちのそとに自分たちと並んで存在している一商品体として、完成されているのを、見いだすのである。これらの物すなわち金銀は、地の底から出てきたままで、同時に、いっさいの人間労働の直接的な化身になる。ここから貨幣の魔術が生ずる。社会的な生産過程における人々のたんに原子論的なふるまいは、したがって、彼らの制御や彼らの意識的な個人的行為にはかかわりのない、彼ら自身の生産諸関係の物的な姿は、彼らの労働諸生産物が一般的に商品形態をとるということのうちに、まず現われている。だから、貨幣物神の謎は、商品物神の謎そのものが目に見えるようになり、人目を肢惑させるにいたったもの、にほかならない。〉(81頁)

《フランス語版》

 〈すでに見たように、最も単純な価値表現である x量の商品A=y量の商品B においては、ほかの物体の価値量を表わす物体は、自己の等価形態を、この関係とはかかわりなく、自己が自然から引き出すところの社会的属性としてもっているかのように見える。われわれはこの虚偽の外観を、それが固定される瞬間まで追究した。この固定化は、一般的等価形態がもっぱら特殊な一商品に付着する、すなわち貨幣形態に結晶するやいなや、完了した。一商品は、他の諸商品が自分たちの価値をこの一商品のうちに相関的に表現するがゆえに、貨幣になるとは見えない。全く逆に、一商品が貨幣であるがゆえに、他の諸商品は自分たちの価値をこの一商品のうちに表現するように見えるのである。媒介の役を果たした運動は、それ自身が産んだ結果のうちに消え失せて、なんの痕跡も残さない。諸商品は、なんらこの運動に関与したようには現われずに、自分たち自身の価値が、自分たちとならんで自分たちの外にある一商品体のうちに表わされ、固定されているのを、見出すわけである。これらの単純な物、すなわち、地球の胎内から出てきたままでの銀と金は、ただちに、すぺての人間労働の直接の化身として姿を現わす。ここから貨幣の魔術が生まれる。〉(70頁)


 

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