『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(1)

2024-03-14 18:15:02 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(1)


◎序章B『資本論』の著述プランと利子・信用論(6)(大谷禎之介著『マルクスの利子生み資本論』全4巻の紹介 №10)

  第1巻の〈序章B 『資本論』の著述プランと利子・信用論〉の第6回目です。〈序章B〉の最後の大項目である〈C 『資本論』における利子と信用〉の〈(1)「資本一般」から「資本の一般的分析」へ〉で、大谷氏は「批判」体系プランから『資本論』へのマルクスの構想の変化を次のように述べています。

   〈『資本論』も,「批判」体系プランの「資本一般」も,どちらも資本に関する「一般的なもの」であるというかぎりでは同一である。しかしその「一般性」の意味は大きく変化した。「資本一般」は,「第1部 資本」のなかの,「多数資本」捨象によって得られた「一般性における資本」を対象とする,体系の最初の構成部分であって,続く「競争」(特殊性),「信用」(個別性)へと上昇していってはじめて「資本」の具体的な現象形態に辿り着くことができるものであった。したがって,「資本一般」を締めくくるべき「資本と利子」もきわめて抽象的なものにとどまらざるをえなかった。それはいわば,いまだ,現象から分離された本質の段階にとどまるものであった。「資本一般」の「一般性」は,対象を厳しく「一般的なもの」に限定するという意味でのそれであったのである。
    これにたいして『資本論』の「一般性」は,その研究,分析,叙述が,つまりその認識が一般的なものだ,という意味でのそれである。すなわち,『資本論』は「資本主義的生産の一般的研究」〔63〕,「資本の一般的分析」〔64〕,「資本主義的生産様式の内的編制のその理想的平均における叙述 」〔65〕であり,したがって特殊研究,個別的分析,動態における叙述,等々と区別されるものである。かかるものとしての『資本論』は,それ自体として資本についての一般的認識を完結しなければならない。それは「批判」体系プランの出発点たる「序説」プランに立ち戻って言えば,「ブルジョア社会の内的編制を形づくり,また基本的諸階級の基礎となっている諸範疇」の分析を一般的に完了することである。そのためには,「多数資本」捨象によって対象を限定するという方法を捨て,かつて「競争と信用」,さらに「土地所有」と「賃労働」とに予定されていた諸対象のなかから,資本主義的生産の内在的諸法則の一般的な現象諸形態,あるいは一般的なものを表わすかぎりでの具体的な諸形態をなすものを取り入れなければならなかった。ここで重要なことは,対象をきびしく「一般的なもの」に限定することではなくて,「一般的研究」として遺漏なきを期すことであった。〉(101頁、下線は大谷氏による傍点による強調箇所)

    『経済学批判』体系プランのいわゆる「6部構成」(資本・土地所有・賃労働・国家・対外商業・世界市場)の最初の「資本」の構成である「一般・特殊・個別」の最初の「資本一般」というのは、その論理的な構成から考えて、何となく分かりますが、大谷氏のいう〈『資本論』の「一般性」〉というのは、やや分かりにくい気がします。果たして、マルクスは当初のプランをどのように変えて、『資本論』として最終的に結実させたのでしょうか。『資本論』には6部構成の前半体系(資本・土地所有・賃労働)がほぼ含まれているように思えます。もっとも『資本論』そのものはやはり未完成ですし、はっきりした像を結ぶまでには完成していないという面もありますが。しかし『資本論』を読んでゆきますと、いろいろなところでマルクスは対象を制限して特殊研究や具体的なものを後のものとして残すという文言が目に入ります。しかしそれが必ずしも6部構成の後半体系(国家・対外商業・世界市場)を意味しているようには見えないものがほとんどです。
    他方で、すでに見ましたように(No.39(通算第89回)(1))、マルクスはすでに『要綱』の段階で、後に『資本論』の第1部・第2部と区別される第3部の位置づけを明確に持っていたようにも思えます。マルクスはその時点ではそれを「競争」と述べていましたが。
    『資本論』の第1部や第2部は資本主義的生産様式の内在的諸法則をそれ自体として問題にし、その限りで〈資本主義的生産様式の内的編制のその理想的平均における叙述 〉といえるものです。宇野弘蔵は「純粋資本主義」なるものを『資本論』から読み取ったのですが、その意味では第1部・第2部は、諸法則をそれ自体として論じているという意味では「純粋」なものと言えるでしょう。しかし第3部はそれに対して、その内在的な諸法則が転倒してブルジョア社会の表面に具体的に現れている諸現象を論じるものとしています(宇野はだからそこに「不純」を見るのですが)。
    もっともこうした第3部が対象とするものも、資本主義的生産様式のやはり「一般的なもの」であると言えるのかもしれません。というのは、マルクスは第5篇(章)の「5)信用。架空資本」の冒頭、〈信用制度とそれが自分のため/につくりだす,信用貨幣などのような諸用具との分析は,われわれの計画の範囲外にある。ここではただ,資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点をはっきりさせるだけでよい。そのさいわれわれはただ商業信用だけを取り扱う。この信用の発展と公信用の発展との関連は考察しないでおく〉(大谷本第2巻157-158頁)と、分析の対象を狭く限定し、それは〈資本主義的生産様式一般〉を特徴づけるものだけで十分だからだというものです(ここで「公信用」を排除しているのは後半体系の問題だからと言えなくもないです)。

    大谷氏も続けて第3部の位置づけにも次のような変化があったと述べています。

  〈3部分からなる点で旧「資本一般」と同じである『資本論』(「理論的部分」)のどの部についても,この転換の結果を各所に見ることができるが,それを最も明確に示すのは,「3。資本と利潤」から「第3部 総過程の諸形象化〔Gestaltungen〕」25)への変化である。マルクスは第3部第1稿の冒頭にこの表題を記したうえで,その直後に,この部の課題は「全体として考察された資本の過程」,すなわち生産過程と流通過程との統一「から生じてくる具体的諸形態を見つけだして叙述すること」,すなわち「資本の諸形象化」を「展開する」ことであるとした〔70〕。すなわち,「諸資本の現実的運動」そのものは範囲外であるとしても,「諸資本の現実的運動のなかで諸資本が現象するさいの具体的諸形態」を明らかにすることによって,「資本の一般的分析」を完成させ,かくして「諸資本の現実的運動」を叙述するための確固たる土台を置こうとしたのである。その結果,利子生み資本も,もはや「利潤をもたらす資本の純粋に抽象的な形態」であるがゆえに,またそうした観点でのみ論じられるのではなくて,それ自体資本の一つの特殊的形態として取り上げられ,しかもわれわれの表象に直接に与えられている,信用制度のもとでの貨幣資本という「具体的姿態」にまで,この「資本の形象化が展開」されることになったのであった。〉(101-102頁)

    ただ確かにこうした変化はあったのは事実ですが、しかしマルクスはすでに見ましたように、『要綱』の段階でも後の『資本論』の第3部として位置づけるものを明確に持っていたということも指摘しておく必要があります。
    上記の大谷氏の一文で少し気になったのは、〈「諸資本の現実的運動」そのものは範囲外であるとしても,「諸資本の現実的運動のなかで諸資本が現象するさいの具体的諸形態」を明らかにすることによって,「資本の一般的分析」を完成させ,かくして「諸資本の現実的運動」を叙述するための確固たる土台を置こうとしたのである。〉という部分です。ここで〈「諸資本の現実的運動」そのものは範囲外であるとしても〉というのは、大谷氏が追加して述べていることですが、マルクス自身は、第3部の冒頭部分ではこうしたことは述べていません。その一文については大谷氏が章末注〔70〕で紹介していますので、確認のために重引しておきましょう。

   〈〔70〕「すでにみたように,生産過程は,全体として考察すれば,生産過程と流通過程との統一である。このことは,流通過程を再生産過程として考察したさいに……詳しく論じた。この部で問題になるのは,この「統一」についてあれこれと一般的反省を行なうことではありえない。問題はむしろ,資本の過程から--それが全体として考察されたときに--生じてくる具体的諸形態を見つけだして叙述することである。{諸資本の現実的運動においては,諸資本は次のような具体的諸形態で,すなわち,それらにとっては直接的生産過程における資本の姿態〔Gestalt〕も流通過程における資本の姿態〔Gestalt〕もただ特殊的諸契機として現われるにすぎない,そのような具体的諸形態で対し合う。だから,われわれがこの部で展開する資本のもろもろの形象化〔Gestaltungen〕は,それらが社会の表面で,生産当事者たち自身の日常の意識のなかで,そして最後に,さまざまの資本の相互にたいする競争のなかで生じるときの形態に,一歩一歩近づいていくのである。}」(『資本論』第3部第1稿。MEGAII/4.2S7,〔現行版対応箇所:MEW25,S.33,〕)〉(137頁)

 少なくともここには〈「諸資本の現実的運動」そのものは範囲外である〉というような文言は見られません。むしろ第3部で対象にするのは「諸資本の現実的運動」だと述べているように思えます。この文章から、次のようなことが分かってきます。

・〈全体として考察された〉〈資本の過程から……生じてくる具体的諸形態〉=〈諸資本の現実的運動〉=〈資本のもろもろの形象化
・〈資本のもろもろの形象化〉の展開は、〈それらが社会の表面で,生産当事者たち自身の日常の意識のなかで,そして最後に,さまざまの資本の相互にたいする競争のなかで生じるときの形態に,一歩一歩近づいていく

    これはまさにマルクスが『要綱』において、〈競争の基本法則〉と述べていた内容ではないでしょうか。少なくとも大谷氏が主張している〈『資本論』の「一般性」〉においては第1部・第2部と第3部との区別が分かりにくいものになっているような気がします。
    とりあえず、今回はこれぐらいにしておきます。それでは本論に入ります。今回は「第3篇 絶対的剰余価値の生産」の最後にある「第9章 剰余価値率と剰余価値量」です。まず第9章の位置づけから見てゆきましょう。

 

第9章 剰余価値率と剰余価値量

 

◎「第9章 剰余価値率と剰余価値量」の位置づけ

    この第9章は「第3篇 絶対的剰余価値の生産」の最後に位置します。つまり「絶対的剰余価値の生産」を締めくくるとともに、「第4篇 相対的剰余価値の生産」への移行を担うものといえるでしょう。
    同じような位置づけを持っているものとして、私たちはすでに「第2章 交換過程」(商品の貨幣への転化)や「第4章 貨幣の資本への転化」を知っています。第2章が新日本新書版で15頁と短かったのですが、同じように第9章も15頁しかありません。
    以前、第2篇「貨幣の資本への転化」から第3篇「絶対的剰余価値の生産」への移行において、ここから「第1部 資本の生産過程」の本題に入るわけですが、それがどうして「絶対的剰余価値の生産」になっているのかについて、それは資本の生産過程というのは剰余価値の生産過程だからであり、剰余価値の生産には絶対的剰余価値の生産と相対的剰余価値の生産とがあること、《絶対的なものはとにかく長時間労働を強いて搾り取るか、あるいはきつい労働をやらせて搾り取るやりかたです。もう一つの相対的な搾取のやり方は、もっとスマートなやり方ですが、それは資本の生産力を高めて労働力の価値そのものを引き下げて、剰余労働を増やすやり方なのです。歴史的には最初の絶対的な搾取のやり方は資本がまだ労働力を雇い入れてそのまま使用して剰余価値を得るやり方ですが、後者の方法は資本がもっと発展して生産様式そのものを資本の生産にあったものに変革するなかで、行われるものです》と説明しました。
    そして「第8章 労働日」をそれに先行する第5章や第6章、第7章と対比して次のように説明しました。

    《だから第8章「労働日」は絶対的剰余価値の生産の本論ともいえるものでしょう。それまでの第3篇の第5章や第6章や第7章は、生産過程やそこで生み出される剰余価値の一般的な条件の考察であり、『資本論』全3部の基礎になるものでした。それに対して第8章はそれらを踏まえて、絶対的剰余価値の生産そのものを問題にするところと言えるのではないでしょうか。》

    第8章では標準労働日をめぐる資本家階級と労働者階級との闘いによって1労働日に制限が加えられ、10時間労働日とか8時間労働日が歴史的に法的に規制されたことが明らかにされました。つまり労働日を絶対的に延長して剰余価値を拡大しようとする資本の飽くなき欲望は、標準労働日の確立によって、法的・社会的限界に突き当たったのです。だから資本に残された剰余労働を拡大する方法は、今度は1労働日のうちの必要労働時間を可能な限り縮減して、剰余労働時間を拡大するしかないことになります。それが次の「第4篇 相対的剰余価値の生産」になるわけです。
   この第9章はそれへの移行を担うものです。 つまり「第3篇 絶対的剰余価値の生産」の締めくくる位置にあります。
    だからこの第9章は主に二つの部分に分かれています。前半は、表題にある「剰余価値率と剰余価値量」が問題になっています。剰余価値生産の絶対的形態では、剰余価値の増大を図るためには剰余価値率(搾取度)を引き上げ、搾取する労働者の人数を増やすしかありませんが、しかしそれには自ずから限界があることが示されます。そのあと横線を引いて、マルクスは第3篇全体のまとめをやっています。
    それでは具体的にパラグラフごとに見てゆくことにしましょう。


◎第1パラグラフ(これまでと同じように、この章でも労働力の価値は不変な量として想定される)

【1】〈(イ)これまでと同じに、この章でも労働力の価値、つまり労働日のうち労働力の再生産または維持に必要な部分は、与えられた不変な量として想定される。〉(全集第23a巻399頁)

  (イ) これまでと同じように、この章でも労働力の価値、つまり労働日のうち労働力の再生産または維持に必要な部分は、与えられた不変な量として想定されます。

   〈労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されている。……労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。言い換えれば、労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である〉と第2篇第4章第3節で述べられていました。また第8章の冒頭、〈われわれは、労働力がその価値どおりに売買されるという前提から出発した。労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、その生産に必要な労働時間によって規定される。だから、もし労働者の平均1日の生活手段の生産に6時間が必要ならば、彼は、自分の労働力を毎日生産するためには、または自分の労働力を売って受け取る価値を再生産するためには、平均して1日に6時間労働しなければならない。この場合には彼の労働日の必要部分は6時間であり、したがって、ほかの事情が変わらないかぎり、一つの与えられた量である〉とありました。
    この章でも同じように労働力の価値は、一つの与えられた量として、不変なものとして想定されるということです。絶対的剰余価値の生産では必要労働時間(そして同じことを意味しますが生産力)は一つの与えられたものとして前提して、その上で、剰余労働時間を増大させるために、1日の労働時間を絶対的に拡大しようとすることでした。だから絶対的剰余価値の生産では労働力の価値は不変な量として想定されていたのです。次の相対的剰余価値の生産では、今度は労働力の価値、よって必要労働時間(同じように生産力)そのものが可変量として捉えられることになります。
 『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

   〈われわれは、絶対的剰余価値および相対的剰余価値という二つの形態を切り離して考察したが、……この二つの形態を切り離すことによって、労賃と剰余価値との関係におけるもろもろの違いが明らかになるのである。生産力の発展が所与であれば、剰余価値はつねに絶対的剰余価値として現われるのであって、とりわけ剰余価値の変動は、ただ総労働日の変化によってのみ可能である。労働日が所与のものとして前提されれば、剰余価値の発展は、ただ相対的剰余価値の発展としてのみ、すなわち生産力の発展によってのみ可能である。〉(草稿集⑨367頁)


◎第2パラグラフ(労働力の価値が与えられれば、剰余価値率が、個々の労働者によって生産される剰余価値量を規定する。)

【2】〈(イ)このように前提すれば、剰余価値率と同時に、1人の労働者が一定の時間内に資本家に引き渡す剰余価値量も与えられている。(ロ)たとえば必要労働は1日に6時間で、それが3シリング 1ターレルの金量で表わされるとすれば、1ターレルは、1個の労働力の日価値、または1個の労働力の買い入れに前貸しされる資本価値である。(ハ)さらに、剰余価値率を100%とすれば、この1ターレルの可変資本は1ターレルの剰余価値量を生産する。(ニ)言い換えれば、労働者は1日に6時間の剰余労働量を引き渡す。〉(全集第23a巻399頁)

    このパラグラフそのものは何も難しいことはありませんが、フランス語版では全体にかなり書き換えられています。よって最初にフランス語版をまず紹介しておきましょう。

  〈1平均労働力の日価値が3シリングあるいは1エキュであって、これを再生産するために1日に6時間が必要であると想定しよう。資本家は、このような1労働力を買うために1エキュを前貸ししなければならない。この1エキュは資本家にどれだけの剰余価値をもたらすであろうか? それは剰余価値率に依存している。剰余価値率が50%であれば、剰余価値は3時間の剰余労働を代表する半エキュであろうし、100% であれば、6時間の剰余労働を代表する1エキュに上がるだろう。こうして、労働力の価値が与えられれば、剰余価値率が、個々の労働者によって生産される剰余価値量を規定する。〉(江夏・上杉訳313頁)

  (イ) このように前提しますと、剰余価値率と同時に、1人の労働者が一定の時間内に資本家に引き渡す剰余価値量も与えられています。

    必要労働時間、つまり労働力の価値が一定の与えられた量として前提されますと、剰余価値率=剰余労働時間÷必要労働時間 →剰余労働時間=必要労働時間×剰余価値率 となりますから、剰余価値率が決まってくれば、同時に剰余労働時間、すなわち一定の時間内に労働者が資本家に引き渡す剰余価値量も決まってくることになります。

  (ロ) たとえば必要労働は1日に6時間で、それが3シリング=1ターレルの金量で表わされるとしますと、1ターレルは、1個の労働力の日価値、または1個の労働力の買い入れに前貸しされる資本価値です。

    具体例を入れて考えますと、必要労働時間は1日6時間で、3シリング=1ターレルの金量で表されるとしますと、1ターレルは、1個の労働力の日価値、または1個の労働力の買い入れに前貸しされる資本価値、つまり可変資本量です。

  (ハ)(ニ) さらに、剰余価値率を100%としますと、この1ターレルの可変資本は1ターレルの剰余価値量を生産します。言い換えますと、労働者は1日に6時間の剰余労働量を引き渡すことになります。

    そして剰余価値率を100%としますと、1ターレルの可変資本は1ターレルの剰余価値を生産します。言い換えますと、労働者は1日に6時間の剰余労働量を資本家に引き渡します。


◎第3パラグラフ(可変資本の価値は、1個の労働力の平均価値に使用労働力の数を掛けたものに等しい)

【3】〈(イ)しかし、可変資本は、資本家が同時に使用するすべての労働力の総価値を表わす貨幣表現である。(ロ)だから、可変資本の価値は、1個の労働力の平均価値に使用労働力の数を掛けたものに等しい。(ハ)したがって、労働力の価値が与えられていれば、可変資本の大きさは、同時に使用される労働者の数に正比例する。(ニ)そこで、1個の労働力の日価値が1ターレルならば、毎日100個の労働力を搾取するためには100ターレルの、n個の労働力を搾取するためにはnターレルの資本を前貸ししなければならない。〉(全集第23a巻399頁)

  (イ)(ロ) しかし、可変資本は、資本家が同時に使用するすべての労働力の総価値を表わす貨幣表現です。ですから、可変資本の価値は、1個の労働力の平均価値に使用労働力の数を掛けたものに等しいことになります。

    ところで、可変資本というのは、一人の資本家が彼が雇ったすべての労働力の総価値の貨幣表現です。ですから、可変資本の価値というのは、一人の労働力の平均的な価値に、使用する労働力の数を掛けたものになります。すなわち 可変資本量=1個の労働力の平均価値×使用される労働力の数 となります。

  (ハ) だから、労働力の価値が与えられていますと、可変資本の大きさは、同時に使用される労働者の数に正比例します。

    だから想定のように、労働力の価値が与えられたものとしますと、可変資本の大きさは同時に使用される労働者の数に正比例します。上記の等式で 1個の労働力の平均価値 を不変量すれば、このことは一目瞭然です。

  (ニ) ということは、1個の労働力の日価値が1ターレルとしますと、毎日100個の労働力を搾取するためには100ターレルの、n個の労働力を搾取するためにはnターレルの資本を前貸ししなければなりません。

    具体的な数値をあてはめますと、1個の労働力の日価値が1ターレルとし、毎日100個のろ労働力を使用するとしますと、100ターレルの可変資本が必要になります。同じようにn個の労働力を搾取するためには、nターレルの資本を前貸しする必要があるということです。


◎第4パラグラフ(第一の法則:生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しい。)

【4】〈(イ)同様に、1ターレルの可変資本、すなわち1個の労働力の日価値が毎日1ターレルの剰余価値を生産するとすれば、100ターレルの可変資本は毎日100ターレルの剰余価値を、nターレルの可変資本は毎日1ターレルのn/倍の剰余価値を生産する。(ロ)したがって、生産される剰余価値の量は、1人の労働者の1労働日が引き渡す剰余価値に充用労働者数を掛けたものに等しい。(ハ)しかし、さらに、1人の労働者が生産する剰余価値量は、労働力の価値が与えられていれば、剰余価値率によって規定されているのだから、そこで次のような第一の法則が出てくる。(ニ)生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しい。(ホ)言い換えれば、それは、同じ資本家によって同時に搾取される労働力の数と1個1個の労働力の搾取度との複比によって規定されている。*
  * (ヘ)著者校閲のフランス語版では、この命題の第二の部分は次のように訳されている。(ト)「言い換えれば、まさしくそれは、1個の労働力の価値にその搾取度を掛け、さらに同じ時に充用される労働力の数を掛けたものに等しい。」〉(全集第23a巻399-400頁)

    このパラグラフもフランス語版ではやや書き換えられており、全集版にはない原注(1)も付いていますので、最初にフランス語版を紹介しておきましょう。

 〈同様に、1労働力の価格である1エキュが1エキュの日々の剰余価値を生産すれば、100エキュの可変資本は100エキュの剰余価値を生産し、nエキュの資本は 1エキュ×n の剰余価値を生産するであろう。したがって、可変資本が生産する剰余価値量は、可変資本から支払いを受ける労働者の数に個々の労働者が1日にもたらす剰余価値量を乗/じたもの、によって規定される。そして、個々の労働力の価値が知られていれば、剰余価値量は剰余価値率、換言すれば労働者の必要労働にたいする剰余労働の比率、に依存している(1)。したがって、次のような法則が得られる。可変資本によって生産される剰余価値の量は、この前貸資本の価値に剰余価値率を乗じたものに等しく、あるいは、1労働力の価値にその搾取度を乗じ、さらに、同時に使用される労働力の数を乗じたもの、に等しい。

  (1) 本文では、1平均労働力の価値が一定であるばかりでなく、1資本家に使われているすべての労働者が平均労働力にほかならないことが、依然として想定されている。生産される剰余価値が搾取される労働者の数に比例して増加せず、そのさい労働力の価値が一定ではない、という例外的なばあいもある。〉(江夏・上杉訳313-314頁)

  (イ) 同じように、1ターレルの可変資本、つまり1個の労働力の日価値が毎日1ターレルの剰余価値を生産するとしますと、100ターレルの可変資本は毎日100ターレルの剰余価値を、nターレルの可変資本は毎日1ターレルのn倍の剰余価値を生産することになります。

    1ターレルの可変資本、すなわち1個の労働力の日価値が1ターレルで、毎日1ターレルの剰余価値を生産するとしますと(つまり剰余価値率は100%)、可変資本が100ターレルであれば、毎日100ターレルの剰余価値を生産します。そして可変資本がnターレルであれば、毎日1ターレル×nの剰余価値を生産することになります。

  (ロ) ということは、生産される剰余価値の量は、1人の労働者の1労働日が引き渡す剰余価値の量に充用労働者数を掛けたものに等しいことになります。

    つまり生産される剰余価値量は、1人の労働者が1日の労働で引き渡す剰余価値の量に充用労働者数を掛けたものに等しいということです。すなわち 生産される剰余価値量=1人の労働者が1日に生産する剰余価値量×充用労働者数

  (ハ)(ニ) しかし、さらにいえることは、1人の労働者が生産する剰余価値量は、労働力の価値が与えられていますと、剰余価値率によって規定されているのですから、そこから次のような第一の法則が出てきます。すなわち生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しいということです。

    さらに言えますことは、1人の労働者が生産する剰余価値量は、労働力の価値が与えられていますと、剰余価値率によって規定されていますから、生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しいという結論が出てきます。

    第一の法則; 生産される剰余価値量=前貸しされる可変資本の量×剰余価値率

    剰余価値率=剰余労働÷必要労働=剰余価値÷可変資本 ですから上記の式の剰余価値率に剰余価値÷可変資本を挿入しますと 前貸しされる可変資本の量×剰余価値率=前貸しされる可変資本×剰余価値÷可変資本となり、=剰余価値 になります。

  (ホ) これを言い換えますと、それは、同じ資本家によって同時に搾取される労働力の数と1個1個の労働力の搾取度との複比によって規定されているということです。

    これを言い換えますと(フランス語版にもとづき)、1個の労働力の価値に剰余価値率を掛けて、さらにそれに同時に使用される労働者数をかけたものに等しいということです。

    第一の法則; 生産される剰余価値量=前貸しされる可変資本の量×剰余価値率

 に 前貸しされる可変資本の量=1個の労働力の価値×労働者数 を挿入しますと

   生産される剰余価値量=1個の労働力の価値×労働者数×剰余価値率=1個の労働力の価値×剰余価値率×労働者数

  になるということです。

    なおフランス語版の原注(1)は全集版の次の第5パラグラフの最後に書かれているものとほぼ同じです。その代わりにフランス語版では第5パラグラフのその最後の一文が抜け落ちています。つまりマルクスは第2版をフランス語版として校訂する時に、第5パラグラフの最後の部分を第4パラグラフの原注にしたということです。


◎第5パラグラフ(第一の法則の数式による表現)

【5】〈(イ)そこで、剰余価値量をMとし、1人の労働者が平均して1日に引き渡す剰余価値をmとし、1個の労働力の買い入れに毎日前貸しされる可変資本をvとし、可変資本の総額をVとし、平均労働力1個の価値をkとし、その搾取度をa'/a(剰余労働/必要労働)とし、充用労働者数をnとすれば、

    m/v×V
  M ={
       k×a'/a×n

となる。(ロ)平均労働力1個の価値が不変だということだけではなく、1人の資本家によって充用される労働者たちが平均労働者に還元されているということも、引き続き想定される。(ハ)生産される剰余価値が搾取される労働者の数に比例しては増大しないという例外の場合もあるが、その場合には労働力の価値も不変のままではない。〉(全集第23a巻400頁)

  (イ) そこで、剃余価値量をMとし、1人の労働者が平均して1日に引き渡す剰余価値をmとし、1個の労働力の買い入れに毎日前貸しされる可変資本をvとし、可変資本の総額をVとし、平均労働力1個の価値をkとし、その搾取度をa'/a(剰余労働/必要労働)とし、充用労働者数をnとしますと、

  M=m/v×V あるいは
  M=k×a'/a×n

 となります。

    M=m/v×V というのは m/v は剰余価値率のことですから、m/v×V というのは前貸しされる可変資本総額に剰余価値率をかけたもであり、それが生産される剰余価値量になるわけですから、これは第一の法則そのものです。
    M=k×a'/a×n というのは 1個の労働力の価値×搾取度(剰余価値率)×労働者数となりますから、これは第4パラグラフにある第一の法則を言い換えたものです。
    なおついでに述べておきますと、このパラグラフは初版にはありません。第2版から新たに加えられたパラグラフです。

  (ロ) ここでは平均均労働力1個の価値が不変だということだけではなくて、1人の資本家によって充用される労働者たちが平均労働者に還元されているということも、引き続き想定されてます。

    これ以下はフランス語版の第4パラグラフの原注としてあるものと同じです。
    依然として1個の平均労働力の価値は不変で、1人の資本家が使用する労働者たちは平均労働力に還元されているこということが想定されているということです。

  (ハ) 生産される剰余価値が搾取される労働者の数に比例しては増大しないという例外の場合もありますが、その場合には労働力の価値も不変のままではありません。

    ただ例外的な場合として、生産される剰余価値が搾取される労働者数に比例しない場合もあるということです。ただその場合には労働力の価値も不変なままではなく、労働者も平均労働力に還元されているとはいえず、変化していることが想定されるということです。これは例えば複雑労働などを増やす場合にはそうしたことが言えます。

   ((2)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(2)

2024-03-14 17:28:22 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(2)


◎第6パラグラフ(従業労働者数の減少は、それに比例する労働日の延長によって、埋め合わされうる)

【6】〈(イ)それゆえ、一定量の剰余価値の生産では、一方の要因の減少は他方の要因の増加によって埋め合わされることができる。(ロ)可変資本が減らされて、同時に同じ割合で剰余価値率が高くされれば、生産される剰余価値の量は不変のままである。(ハ)前に仮定したように、資本家は毎日100人の労働者を搾取するためには100ターレルを前貸しし/なければならないものとし、剰余価値率は50%だとすれば、この100ターレルの可変資本は、50ターレルの、言い換えれば 100×3労働時間 の剰余価値を生む。(ニ)剰余価値率が2倍に高められれば、すなわち労働日が6時間から9時間にではなく6時間から12時間に延長されれば、50ターレルに半減された可変資本がやはり50ターレルの、言い換えれば 50×6労働時間 の剰余価値を生む。(ホ)だから、可変資本の減額は、それに比例する労働力の搾取度の引き上げによって、または従業労働者数の減少は、それに比例する労働日の延長によって、埋め合わされうるのである。(ヘ)したがって、ある限界のなかでは、資本によってしぼり出されうる労働の供給は労働者の供給に依存しないものになる(202)。(ト)反対に、剰余価値率の減少は、それに比例して可変資本の大きさまたは従業労働者数が増大するならば、生産される剰余価値の量を変えないのである。〉(全集第23a巻400-401頁)

  (イ)(ロ) ということは、一定量の剰余価値の生産においては、一方の要因の減少は他方の要因の増加によって埋め合わされることができるということになります。可変資本が減らされても、同時に同じ割合で剰余価値率が高くされれば、生産される剰余価値の量は不変のままだからです。

    第一の法則というのは

    生産される剰余価値量(M)=前貸しされる可変資本の量(V)×剰余価値率(m/v)

   というものでした。ということはVを減らしても(雇用する労働者数を減らしても)、m/v(剰余価値率=搾取率)をそれと同じ割合で高めれば、生産される剰余価値量(M)は変わらないということになります。つまり一定の剰余価値の生産においは、一方の要因の減少は、他方の要因の増大によって補うことができるということです。

  (ハ)(ニ)(ホ) 前に仮定しましたように、資本家は毎日100人の労働者を搾取するためには100ターレルを前貸ししなければならないものとし、剰余価値率は50%だとしますと、この100ターレルの可変資本は、50ターレルの、言い換えれば 100×3労働時間=300時間が対象化された剰余価値を生みます。ここで労働日が延長されて剰余価値率が2倍に高められますと、つまり労働日が6時間の必要労働に3時間の剰余労働を足した9時間から、6時間の必要労働に6時間の剰余労働を足した12時間に延長されますと、今、例え労働者が50人に減らされて、可変資本が100ターレルから50ターレルに半減したとしましても、やはり先と同じように50ターレルの、言い換えれば 50×6労働時間=300時間の剰余労働が対象化された剰余価値を生みます。だから、可変資本の減額は、それに比例する労働力の搾取度の引き上げによって、または従業労働者数の減少は、それに比例する労働日の延長によって、埋め合わされうるのです。

    前に仮定した数値を入れて考えますと、資本家は100人の労働者を雇用するためには100ターレルを前貸ししなければなりません。いま搾取率を50%としますと、100ターレルの可変資本は50ターレルの剰余価値を生みだします。これは1人の労働者の必要労働時間が6時間ですから、50%の搾取率では剰余労働時間は3時間です。ですから50ターレルの剰余価値というのは、3時間の剰余労働時間×100人=300労働時間が対象化されたものになります。
    ここで労働時間が延長されて剰余価値率が2倍に高められたとします。つまり労働時間が9時間(必要労働6時間+剰余労働3時間)から12時間(必要労働6時間+剰余労働6時間)に延長されたとします。すると剰余労働時間が3時間から6時間に2倍になります。つまり剰余価値率が2倍になったということです。
    しかしその代わりに雇用される労働者数は半分に減らされて100人から50人になったとしますと、可変資本は100ターレルから50ターレルになります。しかし生産される剰余価値量そのものは、剰余労働時間が2倍になっていますから、50×6労働時間=300時間の剰余労働の対象化されたものになり、その前と変わりません。
    第一の法則にあてはめますと 生産される剰余価値量=前貸しされる可変資本の量(100ターレルの1/2)×2倍の剰余価値率 となりますから、生産される剰余価値量は変わらないわけです。
    つまり可変資本が減少しても(雇用される労働者数が減らされても)、それに比例する労働力の搾取度が引き上げられれば(労働日が延長されれば)、生産される剰余価値量は変わらないということです。つまり労働者数の減少は搾取率の引き上げて埋め合わせることができるということです。

  (ヘ)(ト) だから、ある限界のなかでは、資本によってしぼり出されうる労働の供給は労働者の供給に依存しないものになります。反対に、剰余価値率の減少は、それに比例して可変資本の大きさ、あるいは従業労働者数が増大するのでしたら、生産される剰余価値の量を変えないことになります。

    ということは、ある限界のなかでのことですが、資本によって絞り取られる労働量は労働者数には依存しないということです。反対に、剰余価値率の減少は、つまり労働時間の短縮は、それに比例して可変資本の大きさを増やせば、つまり雇用される労働者数が増やされるなら、生産される剰余価値量は変わらないということにもなります。


◎原注202

【原注202】〈202 (イ)この基本法則を俗流経済学の諸君は知っていないように見える。(ロ)彼ら、さかさにされたアルキメデスたちは、需要供給による労働の市場価格の規定のうちに、世界を一変させるためのではなく、世界を静止させるための支点を見つけたと思っているのである。〉(全集第23a巻401頁)

  (イ)(ロ) この基本法則を俗流経済学の諸君は知っていないように見えます。彼らは、つまりさかさにされたアルキメデスたちは、需要供給による労働の市場価格の規定のうちに、世界を一変させるためのではなく、世界を静止させるための支点を見つけたと思っているのです。

    これは〈だから、可変資本の減額は、それに比例する労働力の搾取度の引き上げによって、または従業労働者数の減少は、それに比例する労働日の延長によって、埋め合わされうるのである。したがって、ある限界のなかでは、資本によってしぼり出されうる労働の供給は労働者の供給に依存しないものになる(202)。〉という本文に付けられた原注です。

    俗流経済学についてマルクスは『61-63草稿』で次のように特徴づけています。

   労働の価値または労働時間の価格というこの表現では、価値概念は完全に消し去られているだけでなく、それと直接に/矛盾するものに転倒されている。……とはいえ、それは、生産過程の必然的な結果として生ずる表現なのである、つまり労働能力の価値の必然的な現象形態なのである。その不合理な表現は、すでに労賃という言葉自体のなかにある。そこでは労働の賃金イコール労働の価格イコール労働の価値なのである。しかし、労働者の意識のなかでも資本家の意識のなかでも同じように生きているこの没概念的な形態は、実生活において直接的に現われる形態なのであるから、それゆえこの形態こそ、俗流経済学が固執するところの形態なのである。彼らは、他のすべての諸科学から区別される経済学の独自性は次の点にあるというのである。すなわち他の諸科学が、日常の諸現象の背後にかくれている、そして日常の外観(たとえば、地球をめぐる太陽の運動のような)とたいていは矛盾する形態にある本質を暴露しようとするのにたいして、経済学の場合には、日常の諸現象を同じく日常的な諸表象のうちへたんに翻訳することをもって科学の真の事業だと言明してはばからない、と。〉(草稿集⑨350-351頁)


    つまり俗流経済学はブルジョア社会の表面に転倒して現れている諸現象をただそのままに叙述するだけなのですが、彼らは需要供給によって労働の市場価格が高くなるとブルジョア社会そのものが停止すると警告するわけです。
    ここで〈さかさにされたアルキメデスたち〉というのは、内在的な諸法則が転倒して現象しているものをそのままに叙述することを自らの経済学としている俗流経済学を揶揄しているわけです。アルキメデスは梃子の支点を見いだせば、世界を一変させうると主張したのですが、逆立ちした俗流経済学者たちはその反対に世界を制止させるための支点を労働の価格に見いだしたということです。
    エンゲルスは「『資本論』第3部への補遺」のなかで次のように述べています。

  〈彼はついにあのアルキメデスの挺子の支点を見つけたのだ。この支点からやれば彼のような一寸法師でもマルクスの堅固な巨大な建築を空中に持ち上げて粉砕することができるというのである。〉(全集第25b巻1136頁)

    なお 新日本新書版では〈彼ら、さかさにされたアルキメデスたちは、需要供給による労働の市場価格の規定のうちに、世界を一変させるためのではなく、世界を静止させるための支点を見つけたと思っているのである〉のところに次のような訳者注が付いています。

  〈アルキメデスの言とされる「我に立つべき場所を与えよ。さすれば地球を動かさん」にちなむ。数学の先人の書を解説したアレクサンドリアのパップス『著作集』、第8巻、11の10。とくに最後の「さすれば……」の句は、ギリシアの哲学者シンプリキウスによれば「さすれば地球をその地軸から持ち上げん」であるとされ、(『アリストテレス 形而上学注釈』、第4巻続、ディールス編、1110ページ)、マルクスはこの語法をここでそのまま用いている。俗流経済学のあべこべへの皮肉。〉(531頁)


◎第7パラグラフ(第二の法則;平均的な労働日の絶対的な限度は、本来いつでも24時間より短いのであって、可変資本を剰余価値率の引き上げでもって補填することの絶対的な限度、または、搾取される労働者の数を労働力の搾取度の引き上げでもって補填することの絶対的な限度、を成している)

【7】〈(イ)とはいえ、労働者の数または可変資本の大きさを剰余価値率の引き上げまたは労働日の延長によって補うということには、飛び越えることのできない限界がある。(ロ)労働力の価値がどれだけであろうと、したがって、労働者の維持に必要な労働時間が2時間であろうと10時間であろうと、1人の労働者が毎日生産することのできる総価値は、つねに、24労働時間の対象化である価値よりも小さいのであり、もし対象化された24労働時間の貨幣表現が12シリングまたは4ターレルならば、この金額よりも小さいのである。(ハ)われわれのさきの仮定によれば、労働力そのものを再生産するためには、または労働力の買い入れに前貸しされた資本価値を補填するためには、毎日6労働時間が必要であるが、この仮定のもとでは、100%の剰余価値率すなわち12時間労働日で500人の労働者を使用する500ターレルの可変資本は、毎日500ターレルの、または 6×500労働時間 の剰余価値を生産する。/(ニ)200%の剰余価値率すなわち18時間労働日で毎日100人の労働者を使用する100ターレルの資本は、たった200ターレルの、または 12×100 労働時間の剰余価値量を生産するだけである。(ホ)そして、この資本の総価値生産物、すなわち、前貸可変資本の等価・プラス・剰余価値は、けっして毎日400ターレルまたは 24×100 労働時間という額に達することはできない。(ヘ)本来つねに24時間よりも短い平均労働日の絶対的な限界は、可変資本の減少を剰余価値率の引き上げによって補うことの、または搾取される労働者数の減少を労働力の搾取度の引き上げによって補うことの、絶対的な限界をなしているのである。(ト)このわかりきった第二の法則は、後に展開される資本の傾向、すなわち資本の使用する労働者数または労働力に転換される資本の可変成分をできるだけ縮小しようとする資本の傾向、すなわちできるだけ大きな剰余価値量を生産しようとする資本のもう一つの傾向とは矛盾した傾向から生ずる多くの現象を説明するために、重要なのである。(チ)逆に、使用される労働力の量または可変資本の量がふえても、そのふえ方が剰余価値率の低下に比例していなければ、生産される剰余価値の量は減少する。〉(全集第23a巻401-402頁)
 
    このパラグラフは、フランス語版では三つのパラグラフに分けられ、全体に書き換えられています。一応、だいたい対応するフランス語版を最初に紹介しておくことにします。

  (イ)(ロ) といいましても、労働者の数または可変資本の大きさを剰余価値率の引き上げか、または労働日の延長によって補うということには、飛び越えることのできない限界があります。なぜなら、労働力の価値がどれだけであっても、だから、労働者の維持に必要な労働時間が2時間であっても10時間であっても、1人の労働者が毎日生産することのできる総価値は、つねに、24労働時間の対象化である価値よりも小さいからです。もし対象化された24労働時間の貨幣表現が12シリングかまたは4ターレルでしたら、この金額よりも小さいからです。

    まずフランス語版です。

  〈しかし、この種の相殺は一つの乗り越えがたい限界に出会う。24時間という自然日は平均労働日よりも必ず長い。だから、平均的な労働者が1時間に1/6エキュの価値を生産しても、平均労働日はけっして4エキュの日価値をもたらすことができない。4エキュの価値を生産するためには、平均労働日は24時間を必要とするからである。剰余価値については、その限界はなおいっそう狭い。〉(江夏・上杉訳315頁)

    前パラグラフで述べましたように、〈一定量の剰余価値の生産では、……可変資本の減額は、それに比例する労働力の搾取度の引き上げによって、または従業労働者数の減少は、それに比例する労働日の延長によって、埋め合わされうる〉と言いましても、それには絶対的な限界があります。
    というのも、労働力の価値、つまり必要労働時間がどれだけでありましても、労働日の延長には1日24時間という飛び越えることのできない限界があるからです。1人の労働者が対象化できるのは1日24時間よりも小さいのです。もし対象化された24労働時間の貨幣表現が12シリング=4ターレルでしたら、この金額よりも小さいわけです。

  (ハ)(ニ)(ホ) 例えば、私たちのさきの仮定によりますと、労働力そのものを再生産するためには、または労働力の買い入れに前貸しされた資本価値を補填するためには、毎日6労働時間が必要ですが、この仮定のもとでは、100%の剰余価値率すなわち12時間労働日で500人の労働者を使用する500ターレルの可変資本は、毎日500ターレルの、または 500×6労働時間 の剰余価値を生産します。いま、買い入れる労働者を5分の1の100人にして、その代わりに労働時間を延長して、200%の剰余価値率したとします。しかし18時間労働日で毎日100人の労働者を使用する100ターレルの資本は、たった200ターレルの、または 100×12労働時間 の剰余価値量を生産するだけです。そればかりか剰余価値だけではなくて、この資本の総価値生産物、すなわち、前貸可変資本の等価・プラス・剰余価値を見ても、けっして毎日400ターレルまたは 100×24労働時間 という額に達することはできないのです。

    フランス語版です。

  〈もし日々の賃金を補填するために必要な労働日部分が6時間に達するならば、自然日のうち残るのは18時間だけであって、生物学の法剥は、この18時間のうちの一部を労働力の休息のために要/求する。労働日を18時間という最高限度に延長して、この休息の最低限度として6時間を想定すれば、剰余労働は12時間にしかならず、したがって、2エキュの価値しか生産しないであろう。
  500人の労働者を100%の剰余価値率で、すなわち6時間が剰余労働に属する12時間の労働をもって、使用する500エキュの可変資本は、日々500エキュあるいは 6×500労働時間 の剰余価値を生産する。日々100人の労働者を200%の剰余価値率で、すなわち18時間の労働日をもって、使用する100エキュの可変資本は、200エキュあるいは 12×100労働時間 の剰余価値しか生産しない。その生産物は総価値で、1日平均400エキュの額あるいは 24×100労働時間 にけっして達することができない。〉(江夏・上杉訳315-316頁)

    これまでの仮定にもとづいて考えてみますと、労働力を再生産するためには、あるいは労働力の買い入れに前貸しされた資本価値を補填するためには、労働者は毎日6労働時間を対象化させなければなりません。
    いま、剰余価値率を100%、すなわち1日の労働時間を12時間としますと、500人の労働者を使用する500ターレルの可変資本は、毎日500ターレルの剰余価値を、すなわち500×6労働時間 の対象化された剰余価値を生産します。
  いま、雇用する労働者数を減らして100人にします。しかしその代わりに搾取率を2倍に、つまり労働時間を12時間から18時間に延長したとします。しかしその場合の生産される剰余価値は 100×12労働時間 、つまり100×2ターレル=200ターレルの剰余価値を生産できるだけです。
    それだけではなく、剰余価値だけではなくて、この資本の総価値生産物、つまり前貸可変資本の価値+剰余価値を見ましても、100ターレル+200ターレル=300ターレルでしかありません。だから毎日400ターレルまたは100×24労働時間 という額には達することはできないのです。

  (ヘ) 本来つねに24時間よりも短い平均労働日の絶対的な限界は、可変資本の減少を剰余価値率の引き上げによって補うことの、または搾取される労働者数の減少を労働力の搾取度の引き上げによって補うことの、絶対的な限界をなしているのです。

    フランス語版です。

  〈したがって、可変資本の減少が剰余価値率の引き上げによって、または結局同じことになるが、使用される労働者の数の削減が搾取度の上昇によって、相殺できるのは、労働日の、したがって、労働日に含まれる剰余労働の、生理的な限界内にかぎられる。〉(江夏・上杉訳316頁)

    だから本来24時間より短い労働日の絶対的な限界は、可変資本の減少を剰余価値率の引き上げによっては補うことのできない絶対的な限界なのです。あるいは言い換えますと、搾取される労働者数の減少を、労働力の搾取度の引き上げ(すなわち労働時間の延長)によって補うことの絶対的な限界をなしているのです。

  (ト) このわかりきった第二の法則は、後に展開される資本の傾向、すなわち資本の使用する労働者数または労働力に転換される資本の可変成分をできるだけ縮小しようとする資本の傾向と、できるだけ大きな剰余価値量を生産しようとする資本のもう一つの傾向とは矛盾したものであり、そこから生ずる多くの現象を説明するために、重要なのです。

    フランス語版です。

 〈全く明白なこの法則は、複雑な現象の理解にとって重要である。われわれはすでに、資本が最大限可能な剰余価値を生産しようと努力することを知っているし、後には、資本がこれと同時に、事業の規模に比較してその可変部分あるいはそれが搾取する労働者の数を最低限に削減しようと努めることを見るであろう。これらの傾向は、剰余価値量を規定する諸因数中のある一因数の減少がもはや他の因数の増大によって相殺されえなくなるやいなや、あい矛盾したものになる。〉(同上)

    これは第二の法則です。この法則は、後に展開される資本の傾向、すなわち資本の使用する労働者数を、あるいは労働力に転換する可変資本の量をできるだけ縮小しようとする資本の傾向(いわゆる省力化です)は、他方でできるだけ大きな剰余価値を生産しようとする資本のもう一つの傾向と矛盾し、そこから生じるさまざまな現象を説明するために重要なのです。

    新日本新書版では〈後に展開される資本の傾向〉の部分には次のような訳者注が付いています。

  〈本書、第23章、第2節「蓄積とそれにともなう集積との進行中における可変資本部分の相対的減少」参照〉(532頁)

    この訳者注が参照指示しているところは長いですが、その一部分を抜粋しておきましょう。

   〈資本主義体制の一般的基礎がひとたび与えられれば、蓄積の進行中には、社会的労働の生産性の発展が蓄積の最/も強力な槓杆となる点が必ず現われる。……労働の社会的生産度は、一人の労働者が与えられた時間に労働力の同じ緊張度で生産物に転化させる生産手段の相対的な量的規模に表わされる。彼が機能するために用いる生産手段の量は、彼の労働の生産性の増大につれて増大する。……だから、労働の生産性の増加は、その労働量によって動かされる生産手段量に比べての労働量の減少に、または労働過程の客体的諸要因に比べてのその主体的要因の大きさの減少に、現われるのである。〉(全集第23b巻811-812頁)

    もちろん、この参照指示は適切とは思いますが、ただマルクスがここで〈後に展開される資本の傾向、すなわち資本の使用する労働者数または労働力に転換される資本の可変成分をできるだけ縮小しようとする資本の傾向、すなわちできるだけ大きな剰余価値量を生産しようとする資本のもう一つの傾向とは矛盾した傾向から生ずる多くの現象〉という場合には、第3部で資本の有機的構成の高度化には資本の本質的な矛盾が存在すると述べていることに関連しているように思えます。生産力を高めるために、資本は大規模な工場や機械設備などに投資し、可変成分に比較して不変成分を圧倒的に増大させる傾向がありますが、しかしそれは資本にとっては剰余価値、すなわち彼らの直接の目的である利潤の増大をはかるためであるのに、その剰余価値の生み出す唯一の源泉である労働力を可能なかぎり減らそうとするわけです。だからこれはある意味では根本的な矛盾なのです。できるだけ大きな剰余価値を得ようとしながら、その剰余価値の唯一の源泉を減らすのですから。これが利潤率の傾向的低下をもたらし、資本主義的生産様式の本質的な矛盾として、周期的な恐慌として爆発してくるわけです。こうしたものを説明するのものの基礎がここで与えられているのだということではないでしょうか。

  (チ) 逆に、使用される労働力の量または可変資本の量が増えたとしましても、その増え方が剰余価値率の低下に比例していないと、生産される剰余価値の量は減少します。

    フランス語版にはこれに相当するものはありません。

    それとは逆のケース。つまり使用される労働力の量または可変資本の量が増えたとしましても、その増え方が剰余価値率の低下の割合、すなわち労働日の短縮の方が比例せず大きすぎると、生産される剰余価値の量は減ります。


◎第8パラグラフ(第三の法則;剰余価値率が与えられており労働力の価値が与えられていれば、生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の大きさに正比例する)

【8】〈(イ)第三の法則は、生産される剰余価値の量が剰余価値率と前貸可変資本量という二つの要因によって規定されているということから生ずる。(ロ)剰余価値率または労働力の搾取度が与えられており、また労働力の価値または必要労働時間の長さが与えられていれば、可変資本が大きいほど生産される価値と剰余価値との量も大きいということは、自明である。(ハ)労働日の限界が与えられており、その必要成分の限界も与えられているならば、1人の資本家が生産する価値と剰余価値との量は、明らかに、ただ彼が動かす労働量だけによって定まる。(ニ)ところが、この労働量は、与えられた仮定のもとでは、彼が搾取する労働力量または労働者数によって定まるのであり、この数はまた彼が前貸しする可変資本の大きさによって規定されている。(ホ)つまり、剰余価値率が与えられており労働力の価値が与えられていれば、生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の大きさに正比例するのである。(ヘ)ところで、人の知るように、資本家は自分の資本を二つの部分に分ける。(ト)一方の部分を彼は生産手段に投ずる。(チ)これは彼の資本の/不変部分である。(リ)他方の部分を彼は生きている労働力に転換する。(ヌ)この部分は彼の可変資本をなしている。(ル)同じ生産様式の基礎の上でも、生産部門が違えば、不変成分と可変成分とへの資本の分割は違うことがある。(ヲ)同じ生産部門のなかでも、この割合は、生産過程の技術的基礎や社会的結合が変わるにつれて変わる。(ワ)しかし、ある与えられた資本がどのように不変成分と可変成分とに分かれようとも、すなわち前者にたいする後者の比が 1:2 であろうと、1:10 であろうと、1:× であろうと、いま定立された法則はそれによっては動かされない。(カ)なぜならば、さきの分析によれば、不変資本の価値は、生産物価値のうちに再現はするが、新たに形成される価値生産物のなかにははいらないからである。(ヨ)1000人の紡績工を使用するためには、もちろん、100人を使うためよりも多くの原料や紡錘などが必要である。(タ)しかし、これらの追加される生産手段の価値は、上がることも下がることも不変のままのことも、大きいことも小さいこともあるであろうが、それがどうであろうとも、これらの生産手段を動かす労働力の価値増殖過程にはなんの影響も及ぼさないのである。(レ)だから、ここで確認された法則は次のような形をとることになる。(ソ)いろいろな資本によって生産される価値および剰余価値の量は、労働力の価値が与えられていて労働力の搾取度が等しい場合には、これらの資本の可変成分の大きさに、すなわち生きている労働力に転換される成分の大きさに、正比例する。〉(全集第23a巻402-403頁)

    このパラグラフもフランス語版では二つのパラグラフに分けられ、全面的に書き換えられています。だから今回も最初にだいたいに該当するフランス語版をまず紹介することにします。なおフランス語版には「第一の法則」「第二の法則」「第三の法則」という表現は使われていません。

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ) 第三の法則は、生産される剰余価値の量が剰余価値率と前貸可変資本量という二つの要因によって規定されているということから生じます。剰余価値率または労働力の搾取度が与えられており、また労働力の価値または必要労働時間の長さが与えられていますと、可変資本が大きいほど生産される価値と剰余価値との量も大きいということは明らかです。労働日の限界が与えられており、その必要成分の限界も与えられているのでしたら、1人の資本家が生産する価値と剰余価値との量は、明らかに、ただ彼が動かす労働量だけによって定まります。ところが、この労働量は、与えられた仮定のもとでは、彼が搾取する労働力量または労働者数によって定まるのであって、この数はまた彼が前貸しする可変資本の大きさによって規定されているのです。だから、剰余価値率が与えられていて労働力の価値が与えられていますと、生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の大きさに正比例するのです。

    まずフランス語版です。

  〈価値とは実現された労働にほかならないから、資本家の生産させる価値量がもっぱら彼の動かす労働量に依存することは、自明である。彼は同数の労働者を用いて、労働者の労働日がより長くまたはより短く延長されるのに応じて、労働量をより多くまたはより少なく動かすことができる。ところが、労働力の価値と剰余価値率とが与えられていれば、換言すれば、労働日の限界と、労働日の必要労働と剰余労働への分割とが与えられていれば、資本家の実現する剰余価値を含んでいる価値の総量は、もっぱら、彼が働かせる労働者の数によって規定され、労働者の数そのものは、彼が前/貸しする可変資本の量に依存している。
  そのばあい、生産される剰余価値の量は前貸しされる可変資本の量に正比例する。〉(江夏・上杉訳316-317頁)

    第三の法則は、第一の法則、すなわち生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しいということから直接導き出されます。つまり生産される剰余価値の量は剰余価値率と前貸可変資本量という二つの要因によって規定されているということから生じます。つまり第一の法則から剰余価値率または労働力の搾取度が与えられていて、労働力の価値または必要労働時間の長さが与えられていますと、可変資本の量は、ただ資本が使用する労働力の量(資本家が雇用する労働者数)によって与えられることになります。だから可変資本の量が大きければ大きいほど、つまり使用される労働者数が多ければ多いほど、生産される剰余価値の量もまた大きいという関係が出てきます。だから、剰余価値率が与えられていて、労働力の価値も与えられていますと、生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の大きさ(雇用される労働者数)に正比例するという第三の法則が導き出されるのです。

  (ヘ)(ト)(チ)(リ)(ヌ)(ル)(ヲ) ところで、周知のように、資本家は自分の資本を二つの部分に分けます。一方の部分を彼は生産手段に投じます。これは彼の資本の不変部分です。他方の部分を彼は生きている労働力に転換します。この部分は彼の可変資本をなしています。同じ生産様式の基礎の上でも、生産部門が違えば、不変成分と可変成分とへの資本の分割は違うことがあります。また同じ生産部門のなかでも、この割合は、生産過程の技術的基礎や社会的結合が変わるにつれて変わります。

    フランス語版です。

  〈ところで、産業部門がちがえば、総資本が可変資本と不変資本とに分割される割合は非常にちがう。同種の事業では、この分割は技術的条件と労働の社会的結合とに応じて変化する。〉(江夏・上杉訳317頁)

    ところで「第6章 不変資本と可変資本」で明らかになりましたように、資本の前貸資本は、二つの部分に分けられます。一つは生産手段(原料や機械等)の購入のために、もう一つは労働力の購入のために。生産手段は価値を生産物に移転しますがそれ自体は増殖しません。だからそれを不変資本と名付けました。価値を増殖するのは労働力に転換したもののみでした。だからそれを可変資本と名付けたのでした。
    この前貸資本が分かれる二つの部分は、生産部門が違えば、その割合、構成は当然違ってきます。また同じ生産部門でも、生産過程の技術的基礎や労働の社会的結合が変わるに連れて変わってきます。

  (ワ)(カ)(ヨ)(タ) しかし、ある与えられた資本がどのように不変成分と可変成分とに分かれていたとしても、すなわち前者にたいする後者の比が 1:2 であったとしても、1:10 であったとしても、あるいは 1:× であっても、いま定立された法則はそれによっては動かされません。というのは、これまでの分析によりますと、不変資本の価値は、生産物価値のうちに再現はしますが、新たに形成される価値生産物のなかにははいらないからです。もちろん、1000人の紡績工を使用するためには、100人を使うためよりもより多くの原料や紡錘などが必要です。しかし、これらの追加される生産手段の価値は、上がることも下がることも不変のままのことも、大きいことも小さいこともあるでしょうが、それがどうであろうと、これらの生産手段を動かす労働力の価値増殖過程にはなんの影響も及ぼさないのです。

    フランス語版です。

  〈ところが、周知のように、不変資本の価値は、生産物のうちに再現するのに対し、生産手段に付加される価値は、可変資本、すなわち前貸資本のうち労働力に変わる部分からのみ生ずる。ある与えられた資本が不変部分と可変都分とにどのように分解しても、前者と後者の比が 2:1,10:1, 等々であっても、すなわち、使用される労働力の価値に比べた生産手段の価値が増大しても減少しても不変のままであっても、それが大きくても小さくても、どうでもよいのであって、それは生産される価値量にはやはり少しも影響を及ぼさない。〉(同上)

    しかしある与えられた資本の構成がどのようであっても、すなわちその可変成分と不変成分がどのような組み合わせになっていようとも、いま定立された法則、すなわち剰余価値率が与えられており労働力の価値が与えられていれば、生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の大きさに正比例するという法則には何の影響もありません。というのは第6章の分析で明らかになりましたように、不変資本の価値は、具体的な有用労働によって移転され、生産物の価値のうちに再現はしますが、あらたに形成される価値生産物のなかには入らないからです。
    もちろん、1000人の紡績工を使用するためには、100人を使用する場合より、より多くの原料や紡錘、つまり生産手段(不変資本)が必要です。だから前貸しされる資本量も増大しなければなりませんが、しかし不変資本部分がどれだけ増大しようと、確かにそれらは生産物の価値量を大きくしますが、しかし価値生産物の大きさそのものには何の変化も無いのです。つまりそれらは労働力の価値増殖過程にはまったく何の影響も及ぼさないからです。

  (レ)(ソ) ですから、ここで確認された法則は次のような形をとることになります。すなわち、いろいろな資本によって生産される価値および剰余価値の量は、労働力の価値が与えられていて労働力の搾取度が等しい場合には、これらの資本の可変成分の大きさに、すなわち生きている労働力に転換される成分の大きさに、正比例するということです。

    フランス語版です。

  〈このばあい、前貸資本が不変部分と可変部分とに分割される割合がどうありうるにしても、上述の法則を種々の産業部門に適用すれば、次の法則に到達する。平均労働力の価値とその平均搾取度が種々の産業で同等であると仮定すれば生産される剰余価値の量は使用される資本の可変部分の大きさに正比例するすなわち労働力に変えられる資本都分に正比例するのである。〉(同上)

    ということから、第三の法則は、次のような形をとることになります。すなわち、いろいろな産業部門で生産される価値および剰余価値の量は、労働力の価値と労働力の搾取度が同じものとして与えられていますと、可変成分の大きさ(雇用される労働者数)に正比例するということです。
    言い換えますと、同じ前貸資本量であっても、その不変資本部分と可変資本部分との構成が異なれば、生産される剰余価値の量も違ってくるということです。

    ここで確認のために、もう一度、三つの法則を並べて書いておきましょう。

第一の法則:生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しい。
第二の法則;平均的な労働日の絶対的な限度は、本来いつでも24時間より短いのであって、可変資本を剰余価値率の引き上げでもって補填することの絶対的な限度、または、搾取される労働者の数を労働力の搾取度の引き上げでもって補填することの絶対的な限度、を成している
第三の法則;剰余価値率が与えられており労働力の価値が与えられていれば、生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の大きさに正比例する。

   ((3)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(3)

2024-03-14 16:53:06 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(3)


◎第9パラグラフ(第3の法則は、およそ外観にもとつく経験とは明らかに矛盾している。)

【9】〈(イ)この法則は、およそ外観にもとつく経験とは明らかに矛盾している。(ロ)だれでも知っているように、充用総資本の百分比構成を計算してみて相対的に多くの不変資本と少ない可変資本とを充用する紡績業者は、だからといって、相対的に多くの可変資本と少ない不変資本とを運転する製パン業者よりも小さい利益または剰余価値を手にいれるわけではない。(ハ)この外観上の矛盾を解決するためにはなお多くの中間項が必要なのであって、ちょうど、0/0が一つの実数を表わしうることを理解するためには、初等代数学の立場からは多くの中間項が必要であるのと同じである。(ニ)古典派経済学はこの法則を定式化したことはなかったにもかかわらず、本能的にこれに執着するのであるが、/それはこの法則が価値法則一般の一つの必然的な帰結だからである。(ホ)古典派経済学は、むりやりの抽象によって、この法則を現象の諸矛盾から救おうとしている。(ヘ)リカード学派がどのようにしてこのじゃまな石につまずいたかは、のちに(203)示されるであろう。(ト)「ほんとうは、なにもおぼえなかった〔100〕」俗流経済学は、いつものようにここでも現象の法則を無視してその外観にしがみついている。(チ)それは、スピノザとは反対に、「無知は十分な根拠になる〔101〕」と信じているのである。〉(全集第23a巻403-404頁)

  (イ)(ロ) しかし、この法則は、私たちの外観にもとつく経験とは明らかに矛盾しています。というのは、だれでも知っていますように、充用総資本の構成比をみて、相対的に多くの不変資本と少ない可変資本とを充用する紡績業者は、だからといって、相対的に多くの可変資本と少ない不変資本とを運転する製パン業者よりも小さい利益または剰余価値を手にいれるわけではないからです。

    この第3の法則、つまり剰余価値率と労働力の価値が与えられていますと、生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の大きさ(つまり雇用される労働者数の大小)に正比例するというものは、その解説の最後ところで《同じ前貸資本量であっても、その不変資本部分と可変資本部分との構成が異なれば、生産される剰余価値の量も違ってくる》と言い換えておきましたが、これは資本主義の現実とは明らかに矛盾しているのです。これをさらに言い換えますと、《資本の有機的構成が異なれば、特殊的利潤率もまた違ってくる》ということになります。ところが資本主義の現実は資本の有機的構成がどうであろうと、資本はその前貸し総資本の大きさに応じた利潤をえるのであって、利潤率としてはみな同じだというものです(一般的利潤率)。
    これは実際、経験的に考えても、大規模な紡績工場では工場建物や紡績機械など不変資本が大きく、それに比して雇用される労働者数は少ないにも関わらず、不変資本が小さく、雇用される労働者数が多い、例えば製パン業者よりも小さい利益しか挙げないかと言えば、決してそうではないからです。つまり資本主義の現実は、資本はそれを構成する不変資本と可変資本との割合がどうであれ、投下される総資本の大きさ(不変資本+可変資本)に応じて、つまり同じ割合で、利潤を得るというものだからです。総資本が大きい紡績工場主は、実際には、総資本に比して可変資本が小さいから生産する剰余価値量も小さいのに、総資本が大きいために、その可変資本に比して大きな利潤(剰余価値)を得、総資本が小さい製パン業者は、しかし割合では可変資本が大きいから剰余価値量も多く生産したとしても、総資本が小さいために、その可変資本に比して小さい利潤しか得られないのです。これが資本主義の現実なのです。マルクスは第3部第2篇「第8章 利潤率の相違」で次のように述べています。

  〈要するに、われわれは次のことを明らかにしたのである。産業部門が違えば、資本の有機的構成の相違に対応して、また前述の限界内では資本の回転期間の相違にも対応して、利潤率が違うということ。したがってまた、利潤は資本の大きさに比例し、したがって同じ大きさの資本は同じ期間には同じ大きさの利潤を生むという法則が(一般的な傾向から見て)妥当するのは、同じ剰余価値率のもとでは、ただ、諸資本の有機的構成が同じである場合――回転期間が同じであることを前提して――だけだということ。ここに述べたことは、一般にこれまでわれわれの論述の基礎だったこと、すなわち諸商品が価値どおりに売られるということを基礎として言えることである。他方、本質的でない偶然的な相殺される相違を別とすれば、産業部門の相違による平均利潤率の相違は現実には存在しないということ、そしてそれは資本主義的生産の全体制を廃止することなしには存在できないであろうということは、少しも疑う余地のないことである。だから、価値理論はここでは現実の運動と一致しないもの、生産の実際の現象と一致しないものであるかのように見え、したがってまた、およそこれらの現象を理解することは断念しなければならないかのように見えるのである。〉(全集第25a195頁)

    このようにマルクスは産業部門が異なり、だから有機的構成が違っても、平均利潤率には相違はないということは、〈資本主義的生産の全体制を廃止することなしには存在できないであろう〉と述べています。それは資本主義を前提するなら絶対的な現実としてあるのだということです。だから〈価値理論はここでは現実の運動と一致しないもの、生産の実際の現象と一致しないものであるかのように見え、したがってまた、およそこれらの現象を理解することは断念しなければならないかのように見える〉というのです。これは価値が生産価格に転化することを論じている第3部第2篇で問題にされていることですが、そうしたことを論じる前提として、ここで問題にされている第3の法則が関連しているということです。

  (ハ) しかし、この外観上の矛盾を解決するためにはさらに多くの説明が必要なのであって、ちょうど、0/0が一つの実数を表わしうることを理解するためには、初等代数学の立場からはさらに多くの数学的知識が必要なのと同じです。

    しかしマルクスはこれを〈外観上の矛盾〉と述べています。というのはそれは第3部では資本主義的生産の内在的な諸法則(価値の法則)が逆転して現れていることから生じていることだからです。だからそれらは必要な媒介項を経るなら、つまり『資本論』の第1部から第2部、そして第3部まで展開して、初めて説明可能なものになるのだということです。
    ここで〈ちょうど、0/0が一つの実数を表わしうることを理解するためには、初等代数学の立場からは多くの中間項が必要であるのと同じである〉という部分は果たしてどう理解したらよいのでしょうか。というのは、調べたところ、0/0は実数ではないという説明があるからです。例えば、AIに「0/0が実数であることを論証せよ」という質問を投げかけると〈0/0 は実数ではありません。実数は有理数と無理数の総称であり、0で割ることは定義されていません。この問題は数学的に未定義です。〉(Bing)とか〈数学的な観点から言えば、0/0は未定義です。割り算において分母がゼロである場合、通常その割り算は意味を持たず、未定義とされています。これは、0で割ることが数学的には意味を持たないためです。〉(CaatGPT)という回答が得られました。あるいはこれはAIが「初等代数学」のレベルだからかもしれませんが。
    マルクスは『61-63草稿』では「0/0」を次のように〈不合理な表現〉と述べています。

  質的には(量的には必ずしもそうでないとしても)価値としての表現であるにもかかわらず、価格は非合理的な表現にも、すなわち価値をもたない諸物象の貨幣表現にもなることができる。たとえば、誓言は価値をもつものでないにもかかわらず(経済学的に見ればここでは使用価値は問題にならない)、偽りの誓言が価格をもつことはありうる。というのは、貨幣は商品の交換価値の転化された形態にほかならず、交換価値として表示された交換価値にほかならないのではあるが、他面でそれは一定分量の商品(金、銀、あるいは金銀の代理物)なのであって、なにもかにもが、たとえば長子相続権と一皿の豆料理とが、互いに交換されうるのだからである。価格は、この点では、0/0などのよ/うな代数学における不合理な表現と同様の事情にある。〉(草稿集⑨397-3987頁)

    いずれにせよこの部分はこれ以上詮索する必要はないでしょう。
    もう一つ〈この外観上の矛盾を解決するためにはなお多くの中間項が必要なのであって〉という部分には、新日本新書版では次のような訳者注が付いています。

  〈この外観上の矛盾は、とくに本書、第3部、第2篇「利潤率の平均利潤への転化」で解決される〉(535頁)

  (ニ)(ホ)(ヘ) 古典派経済学はこの法則を定式化したことはなかったにもかかわらず、本能的にこの法則に執着するのです。それはこの法則が価値法則一般の一つの必然的な帰結だからです。古典派経済学は、むりやりの抽象によって、この法則を現象の諸矛盾から救おうとしています。リカード学派がどのようにしてこのじゃまな石につまずいたかは、のちに示されるでしょう。

    古典経済学は、この法則を定式化したことはなく、スミスの場合は外観は外観のままに、内在的な法則は内在なものとして、両方を並立させたり、あちらからこちらへと動揺していますが、リカードの場合は、内在的な法則(価値法則)を一貫させるために外観を無視しています。これについてはすでに何度か紹介しましたが、マルクスは『61-63草稿』でいろいろと書いています。すでに以前一度その一部を紹介した気がしますが、もう一度紹介しておきます(他に関連するものを付属資料に紹介しておきましたので、参照してください)。

  〈{先に見たように、A・スミスは、はじめに価値を、またこの価値の諸成分としての利潤や賃金などの関係を、正しく把握しながら、次に逆の方向に進んで、賃金と利潤と地代との価格を前提し、それらを独立に規定して、それらのものから商品の価格を構成しようとしている。こうして、この逆転の意味するところは、はじめに彼は事柄をその内的関連に従って把握し、次に、それが競争のなかで現われるとおりの転倒した形態で把握している、ということである。この両方の把握が、彼においては、素朴に交錯しており、その矛盾に彼は気づいていない。これに反して、リ力ードウは、法則をそのものとして把握するために、意識的に競争の形態を、競争の外観を、捨象している。彼が非難されるべきことは、一方では、彼の抽象がまだ十分であるにはほど遠く完全に十分ではない、ということである。したがって、たとえば彼は、商品の価値を理解する場合に、すでに早くもあらゆる種類の具体的な諸関係への考慮によって決定的な影響を受けることになっている。他方では、彼が非難されるべきことは、彼が現象形態を、直接にただちに、一般的な諸法則の証明または説明と解して、それをけっして展開していない、ということである。前者に関して言えば、彼の抽象はあまりにも不完全であり、後者に関して言えば、それは、それ自体まちがっている形式的な抽象である。}〉(草稿集⑥145頁)

    ここで〈このじゃまな石につまずいたか〉という部分は新日本新書版では〈つまずきの石〉とありますが、次のような訳者注が付いています。

  〈人間イエスの外観にもとづいて神の子キリストの真の姿を見抜けないというたとえ、旧約聖書、イザヤ書、8・14。新約聖書、ローマ、9・31-33、ペテロ第1、2・6-8〉(535頁)

  (ト)(チ) 「ほんとうは、なにもおぼえなかった」俗流経済学は、いつものようにここでも現象の法則を無視してその外観にしがみついています。それは、スピノザとは反対に、「無知は十分な根拠になる」と信じているのです。

    俗流経済学者たちはただ何時ものように、現象の背後になる法則を無視して、その外観にしがみついているだけです。『61-63草稿』ではこの問題における俗流経済学の立場について次のように述べています。

  〈俗流経済学者がやっているのは、実際には、競争にとらわれている資本家たちの奇妙な考えを外観上はもっと理論的な言葉に翻訳して、このような考えの正当性をでっちあげようと試みること以外のなにものでもないのである。〉(草稿集⑥同377頁)

    ここで〈「ほんとうは、なにもおぼえなかった〔100〕」〉という部分の注解は次のようなものです。

  〈(100) 「彼らはなにもおぼえなかったし、なにも忘れなかった」とは、1815年ブルボン王政が復活してからフランスに帰ってきた亡命貴族たちについてタレーランの言った言葉である。彼らは、自分の領地を取りもどして農民に再び封建的義務の負担を強制しようとしたのである。〉(全集第23a巻18頁)

    この部分の新日本新書版では次のような訳者注が付いています。

  〈フランス大革命後またはブルボン王政復古の亡命貴族について、政治家タレランが言ったとされる言葉。「彼らは30年このかたなにものも学ばず、なにものも忘れていない」(タレラン『失われた記録』、147ページ)から〉(535頁)
 
    また〈それは、スピノザとは反対に、「無知は十分な根拠になる〔101〕」と信じているのである〉というのは、彼らは外観にしがみついて、そうした外観をもたらしている内在的な法則をまったく省みないのですが、そうした科学的な立場を理解しないことを何か立派な経済学であるかに主張していることをこのように述べているのだと思います。

  〈「無知は十分な根拠になる〔101〕」〉という部分の全集版の注解は次のようなものです。

  〈(101) 「無知は十分な根拠になる」--スピノザはその著作『倫理学』第1部の付録のなかで、無知はけっして十分な根拠とはならないということについて述べたが、それは坊主的=神学的な自然観の代表者たちに反対して言ったのであって、彼らは「神の意志」がすべての現象の究極の原因であると主張したが、そのための彼らの唯一の論拠は、それ以外の原因はわからないということでしかなかったのである。〉(全集第23a巻18頁)

    この部分の新日本新書版の訳者注は次のようなものです。

  〈神の意志という以外に何事も説明できず、ひたすらそれを根拠に神学的立場を批判したスピノーザ『エチカ』、第1部、付録にちなむ。島中尚志訳、岩波文庫、上、82-92ページ〉(353頁)


◎原注203

【原注203】〈203 これについての詳細は『第4部』〔後の『剰余価値学説史』〕で述べる。〉(全集第23a巻404頁)

    これは〈リカード学派がどのようにしてこのじゃまな石につまずいたかは、のちに(203)示されるであろう。〉という本文に付けられた原注です。〈『第4部』〔後の『剰余価値学説史』〕〉とありますが、マルクス自身は『資本論』は第1部~第4部に分かれると考えていたのです。リカードのこの問題については草稿集⑥に詳しいです。付属資料ではその要点を少し紹介しました。抜粋ノートから最初に集めたものはもっと長かったのですが、長すぎるので半分以下に縮めました。だから〈どのようにしてこのじゃまな石につまずいたか〉を知りたいと思われる方は、草稿集を読むことをお勧めします。


◎第10パラグラフ(一社会の総資本によって毎日動かされる労働は、一つの単一労働日とみなすことができる。人口の増大が、社会的総資本による剰余価値の生産の数学的限界をなしている。)

【10】〈(イ)一社会の総資本によって毎日動かされる労働は、一つの単一労働日とみなすことができる。(ロ)たとえば、労働者の数が一百万で、労働者1人の平均労働日が10時間だとすれば、社会的労働日は一千万時間から成っていることになる。(ハ)この労働日の限界が肉体的に画されているにせよ社会的に画されているにせよ、その長さが与えられていれば、剰余価値の量は、ただ労働者数すなわち労働者人口の増加によってのみふやすことができる。(ニ)この場合には、人口の増大が、社会的総資本による剰余価値の生産の数学的限界をなしている。(ホ)逆に、人口の大きさが与えられていれば、この限界は労働日延長の可能性によって画される(204)。(ヘ)次章で示すように、この法則は、これまでに取り扱われた形態の剰余価値だけにあてはまるものである。〉(全集第23a巻404頁)

  (イ)(ロ) 一つの社会の総資本によって毎日動かされる労働は、一つの単一の労働日とみなすことができます。たとえば、労働者の数が百万人で、労働者1人の平均労働日が10時間だとしますと、社会の総労働日は千万時間から成っていることになります。

    ここでは一つの社会、あるいは一つの国における総労働日、あるいは総剰余価値の生産が問題になっています。
    一つの社会の総資本によって毎日動かされる労働は、一つの単一の労働日とみなすことができます。たとえば労働者数が100万人だと、労働者一人の平均労働日が10時間だと社会的労働日は1000万時間からなっているわけです。

  (ハ)(ニ) この労働日の限界が肉体的に画されているにせよ社会的に画されているにせよ、その長さが与えられていますと、剰余価値の量は、ただ労働者数すなわち労働者人口の増加によってのみふやすことができます。この場合には、人口の増大が、社会的総資本による剰余価値の生産の数学的限界をなしているわけです。

    この労働日の長さが決まっていますと、生産される剰余価値の量は、ただ労働者数、つまり労働者人口の増加によってのみ増やすことがきます。つまり人口の増大が、社会的総資本による生産される剰余価値総量の限界を画しているわけです。

  (ホ)(ヘ) 逆に、人口の大きさが与えられていますと、剰余価値の限界は労働日延長の可能性によって画されるのです。次章で示しますように、この法則は、これまでに取り扱われた形態の剰余価値(絶対的剰余価値)だけにあてはまるものです。

    反対に人口の大きさが与えられていますと、生産される剰余価値量は、労働日の延長が可能かどうかにかかっています。しかし、これらはこれまで取り扱ってきた形態、すなわち絶対的な剰余価値の生産にだけにあてはまるものです。次の相対的剰余価値の生産ではこうしたことは当てはまりません。


◎原注204

【原注204】〈204 「社会の労働すなわち経済的時間は、ある与えられた大きさのものであって、たとえば百万人で1日に10時間、すなわち一千万時間というようになる。……資本の増加には限界がある。この限界は、どんな与えられた時期にも、使用される経済的時間の現実の長さの範囲内にあるであろう。」(『諸国民の経済学に関する一論』、ロンドン、1821年、47、49べージ。)〉(全集第23a巻404頁)

    これは〈逆に、人口の大きさが与えられていれば、この限界は労働日延長の可能性によって画される(204)。〉という本文に付けられた原注です。
    これは匿名の著書からの引用ですが、みるとマルクスの本文とよく似た文言が見られます。この著書からは第6章の原注20でも引用されていましたが、『資本論草稿集』⑨にはこの著書からの引用が幾つか見られます。マルクスは〈著書『諸国民の経済学に関する一論』、ロンドン、1821年には二、三の非常にすぐれた独創的論点が含まれている〉(478頁)と述べて、幾つかの抜粋を行っていますが、そのなかに〈絶対的剰余労働相対的剰余価値〉とマルクス自身による表題が書かれた、今回の原注の一文が含まれる次のような引用文が抜粋されています。長くなりますが挿入されているマルクスのコメントも含めて紹介しておきましょう(下線はマルクスによる強調個所)。

  〈「労働、すなわち社会の経済的時間は、ある一定の部分であり、たとえば100万人の1日当り10時間、または1000万時間である。」(四七ページ。)
  「資本にはその増加の限界がある。この限界は、たとえ共同社会の生産諸力はまだ改善の余地があるとしても、どの一定の時期においても、使用される経済的時間の現実の長さによって、画されるであろう。社会は、労働量を拡大することによって、または労働をより効果的にすることによって、言い換えれば、人口、分業、機械、科学的知識を増加させることによって、〔生産諸力を〕増大させることができる。」(49ページ。)「もし資本が、活動中の労働によって与えられた等価物または価値しか受け取ることができないとすれば(したがって経済的時間すなわち労働日が与えられているとすれば)、もしこのことが資本の限界であり、そのときどきにおいて現存する社会状態ではそれを/乗り越えることは不可能であるとすれば、賃金に割り当てられるものが大きければ大きいほど、利潤はそれだけ小さくなる。このことは一般的原理であるが、個々の場合において生じるのではない。なぜなら、個々の場合における賃金の増加は、普通、特定の需要の結果であり、この需要は、他の諸商品およびそれらの利潤との関係で価値の増加をもたらすのがつねだからである。」(49ページ。){利潤--および剰余価値率でさえも--は、ある個別の部門では、一般的水準を超えて上昇することがありうる。とはいっても、それと同時に賃金も、この部門では一般的水準を超えて上昇するのであるが。しかし資本家が、商品にたいする需要が平均を超えるのと同じだけの賃金を支払うならば(利潤を規定する他の諸事情を別にすれば)、資本家の利潤は増えないであろう。一般に、個別の部門における一般的水準を超える賃金および利潤の騰落は、一般的関係とはなんの関係もない。}〉(草稿集⑨479-480頁)


◎第11パラグラフ(剰余価値の生産のためにはある貨幣または交換価値の一定の最小限が前提されている)

【11】〈(イ)剰余価値の生産についてのこれまでの考察から明らかなように、どんな任意の貨幣額または価値額でも資本に転化できるのではなく、この転化には、むしろ、1人の貨幣所持者または商品所持者の手にある貨幣または交換価値/の一定の最小限が前提されているのである。(ロ)可変資本の最小限は、1年じゅう毎日剰余価値の獲得のために使われる1個の労働力の費用価格である。(ハ)この労働者が彼自身の生産手段をもっていて、労働者として暮らすことに甘んずるとすれば、彼にとっては、彼の生活手段の再生産に必要な労働時間、たとえば毎日8時間の労働時間で十分であろう。(ニ)したがって、彼に必要な生産手段も8労働時間分だけでよいであろう。(ホ)これに反して、この8時間のほかにたとえば4時間の剰余労働を彼にさせる資本家は、追加生産手段を手に入れるための追加貨幣額を必要とする。(ヘ)しかし、われわれの仮定のもとでは、この資本家は、毎日取得する剰余価値で労働者と同じに暮らすことができるためにも、すなわち彼のどうしても必要な諸欲望をみたすことができるためにも、すでに2人の労働者を使用しなければならないであろう。(ト)この場合には、彼の生産の目的は単なる生活の維持で、富の増加ではないであろうが、このあとのほうのことこそが資本主義的生産では前提されているのである。(チ)彼が普通の労働者のたった2倍だけ豊かに生活し、また生産される剰余価値の半分を資本に再転化させようとすれば、彼は労働者数とともに前貸資本の最小限を8倍にふやさなければならないであろう。(リ)もちろん、彼自身が彼の労働者と同じように生産過程で直接に手をくだすこともできるが、その場合には、彼はただ資本家と労働者とのあいだの中間物、「小親方」でしかない。(ヌ)資本主義的生産のある程度の高さは、資本家が資本家として、すなわち人格化された資本として機能する全時間を、他人の労働の取得、したがってまたその監督のために、またこの労働の生産物の販売のために、使用できるということを条件とする(205)。(ル)手工業親方が資本家になることを、中世の同職組合制度は、1人の親方が使用してもよい労働者数の最大限を非常に小さく制限することによって、強圧的に阻止しようとした。(ヲ)貨幣または商品の所持者は、生産のために前貸しされる最小額が中世的最大限をはるかに越えるときに、はじめて現実に資本家になるのである。(ワ)ここでも、自然科学におけると同様に、へーゲルがその論理学のなかで明らかにしているこの法則、すなわち、単なる量的な変化がある点で質的な相違に一変するという法則の正しいことが証明されるのである(205a)。〉(全集第23a巻404-405頁)

  (イ) 剰余価値の生産についてのこれまでの考察から明らかですが、どんな任意の貨幣額または価値額でも資本に転化できるわけではありません。この転化のためには、1人の貨幣所持者または商品所持者の手にある貨幣または交換価値の一定の最小限が前提されているのです。

    剰余価値を生産し資本家になるためには、わずかの貨幣しか持っていない人でもなれるわけではありません(もっとも信用制度が発展すればこの限りではありませんが)。剰余価値を生産するためは、貨幣または交換価値の一定の最小限が前提されているのです。

  (ロ) 可変資本の最小限は、1年じゅう毎日剰余価値の獲得のために使われる1個の労働力の費用価格です。

    可変資本の最低限を考えますと、それは1年中毎日剰余価値の獲得のために使われる労働力の費用価格(賃金額)です。

  (ハ)(ニ)  もしこの労働者が自分自身の生産手段をもっていて、労働者として暮らすことに甘んずるとしますと、彼にとっては、彼の生活手段の再生産に必要な労働時間、たとえば毎日8時間の労働時間で十分でしょう。だから、彼に必要な生産手段も8労働時間分だけでよいことになります。

    もし労働者が生産手段をもっていて、ただ自分のためにだけに、自分が生活できるだけ生産するとしますと、彼は、ただ生活手段の再生産に必要な労働時間、例えば毎日8時間で十分でしょう。必要な生産手段も8労働時間分でよいことになります。(もっともこの生産手段も再生産される必要があり、そのための時間も必要ですが、なぜか、マルクスはここではそれを問うていません。)

  (ホ)(ヘ)(ト) これに反して、この8時間のほかにたとえば4時間の剰余労働を彼にさせる資本家は、追加生産手段を手に入れるための追加貨幣額を必要とします。しかし、私たちの仮定のもとでは、この資本家は、毎日取得する剰余価値で労働者と同じに暮らすことができるためにも、すなわち彼のどうしても必要な諸欲望をみたすことができるためにも、すでに2人の労働者を使用しなければならないでしょう。しかしこの場合、彼の生産の目的は単なる生活の維持で、富の増加ではないでしょうが、このあとのほう、つまり富の増加こそが資本主義的生産では前提されているのです。

    ここに資本家が登場し、労働者に4時間の剰余労働を強制するしますと、当然、資本家はその分の追加的生産手段を準備しなければなりません(もっともその時点では、剰余労働だけではなく必要労働が対象化される生産手段も資本家が準備しなければならないのですが)。ただ今の時点では、資本家は労働者と同じ程度に暮らせばよいと考えたとします。つまり彼が生活するために必要な生活手段を生産するための労働時間は8時間と仮定しますと、彼は彼の生活を維持していくためには、8時間分の剰余労働を労働者から引きだす必要があり、だから少なくとも2人の労働者を雇う必要があります(だから24時間分の生産手段を資本家は準備する必要があるわけです)。
    しかしこの場合は、資本家の目的は、ただ自分の生活を維持するだけであり、資本家の本来の目的である富の増加は見込めません。しかし資本主義的生産というのは富の増加をこそ目的にしているのです。

  (チ) 彼が資本家として普通の労働者のたった2倍だけ豊かに生活し、また生産される剰余価値の半分を資本に再転化させようとしますと、彼は労働者数とともに前貸資本の最小限を8倍にふやさなければならないでしょう。

    そこで今度は資本家は労働者より2倍だけ豊かに生活し、生産される剰余価値の半分を資本に再転化するとしますと、まず2倍の豊かな生活のために必要な生活手段の生産には16時間が必要です。さらにそれと同じだけの剰余価値を蓄積に回そうとするのですから、彼は全部で32時間の剰余労働を労働者から引きださねばならないわけです。だから32÷4=8、つまり8人の労働者を雇うために前貸し可変資本の最小限を8倍に増やす必要があります。そしてそれに応じて生産手段(不変資本)も8倍に増やす必要があるでしょう。

  (リ) もちろん、彼自身が彼の労働者と同じように生産過程で直接に手をくだすこともできますが、しかしその場合には、彼はただ資本家と労働者とのあいだの中間物、「小親方」でしかないことになります。

    これらは資本家が資本家として何の仕事もせずにただ剰余価値を引きだすだけと前提しているのですが、もちろん、資本家も自分も労働者と一緒に働く事は可能です。しかしそうたした場合は、彼はまだ資本家とはいえず、資本家と労働者との中間物、「小親方」でしかありません。これは資本主義的生産様式以前の手工業的生産の段階を意味します。

  (ヌ) 資本主義的生産のある程度の高さは、資本家が資本家として、すなわち人格化された資本として機能する全時間を、他人の労働の取得、したがってまたその監督のために、またこの労働の生産物の販売のために、使用できるということを条件としています。

    だから資本家が資本家として、つまり人格化された資本として機能するためには、資本主義的生産のある程度の高さを前提とするのです。そうすれば彼は、ただ剰余価値を労働者から引きだすために、労働者を監督・統制するとか、労働者が生産した生産物の販売のために、自分の労働力を使うことになるでしょう。

  (ル)(ヲ) 手工業親方が資本家になることを、中世の同職組合制度は、1人の親方が使用してもよい労働者数の最大限を非常に小さく制限することによって、強圧的に阻止しようとしました。貨幣または商品の所持者は、生産のために前貸しされる最小額が中世的最大限をはるかに越えるときに、はじめて現実に資本家になるのです。

    手工業親方が資本家になることを阻止するために、中世の同職組合制度は、1人の親方が使用する労働者(徒弟)の数の最大限を非常に小さく制限していました。『61-63草稿』では次のように述べています。

  〈同職組合や中世的な労働組織の側からの禁止令であって、まさに二人といないすぐれた親方といえども〔きめられた〕最大数をこえる労働者の使用を禁じられ、親方でない、ただの商人にいたってはそもそも労働者の使用自体を禁じられていたのである。〉(草稿集⑨253頁)

    だから貨幣または商品の所持者が資本家になるためには、この中世的な最小限を最大限に拡大して、それをはるかに越えるときに、初めて現実に資本家になりえたのです。

  (ワ) ここでも、自然科学におけると同じように、へーゲルがその論理学のなかで明らかにしている法則、すなわち、単なる量的な変化がある点で質的な相違に一変するという法則の正しいことが証明されているのです。

    だからここでも、自然科学とおなじように、ヘーゲルの論理学が明らかにしている法則、つまり単なる量的な変化がある点で質的な相違に一変するという法則が正しいことを証明しているのです。

    新日本新書版では〈へーゲルがその論理学のなかで明らかにしているこの法則〉という部分に次のような訳者注が付いています。

   〈マルクスが言っているのは、ヘーゲル『大論理学』、第1巻、第3編、B「限度関係の節線」の法則。なお『小論理学』、第1部、C「限度」参照。ヘーゲルによれば、「この量的要素の変化のなかに、質を変化させ、定量の特殊化的なものとして示す変化の一点が現れ、その結果、変化させられた量的関係が、一つの限度、したがって一つの新しい質、新しいあるものに転化する。……その推移は一つの飛躍……量的変化から質的変化への飛躍である」(武市健人訳『大論理学』、上巻の2、『ヘーゲル全集』6b、岩波書店、263-264ページ)。ヘーゲルはその例として、水の温度の増減がある一点に達すると、突然に、一方では水蒸気に、他方では氷に変わるなどをあげ、この一点を「節線」と呼んでいる(武市訳、同前、266ページ。松村一人訳『小論理学』、岩波文庫、上、326-329ページ)〉(539頁)

    ヘーゲルの説明としてはこの訳者注で十分だと思いますので、エンゲルスの『自然弁証法』から紹介しておきましょう。

  〈したがって自然および人間社会の歴史からこそ、弁証法の諸法則は抽出されるのである。これらの法則は、まさにこれら二つの局面での歴史的発展ならびに思考そのものの最も一般的な法則にほかならない。しかもそれらはだいたいにおいて三つの法則に帰着する。すなわち、
 量から質への転化、またその逆の転化の法則、
 対立物の相互浸透の法則、
 否定の否定の法則。
 これら三法則はすべて、ヘーゲルによって彼の観念論的な流儀にしたがってたんなる #思考# 法則として展開されている。すなわち第一の法則は『論理学』の第一部、存在論のなかにあり、第二の法則は彼の『論理学』のとりわけ最も重要な第二部、本質論の全体を占めており、最後に第三の法則は全体系の構築のための根本法則としての役割を演じている。誤謬は、これらの法則が思考法則として自然と歴史とに天下り的に押しつけられていて、自然と歴史とからみちびきだされてはいないという点にある。そしてここからあの無理にこしらえあげられ、しばしば身の毛もよだつものとなっている構成の全体が生じてきている。すなわちそこでは、世界は、好むと否とにかかわらず、ある思想体系――じつはそれ自体がやはり人間の思考のある特定の段階の産物でしかないところの、――に合致していなければならないのである。われわれがもし事柄をひっくりかえしてみるならば、すべては簡単になり、観念論的哲学ではことのほか神秘的に見えるあの弁証法の諸法則はたちどころに簡単明瞭となるのである。……〉(全集第20巻379頁)

   さらに興味のある方は付属資料を参照してください。


◎原注205

【原注205】〈205 (イ)「農業家は彼自身の労働にたよってはならない。もしそれをするならば、彼はそれで損をする、と私は言いたい。彼の仕事は、全体にたいする一般的な注意であるべきである。彼の打穀夫は監視されなければならない。そうでないと、やがて彼は打穀されないぶんだけ賃金を損するであろう。彼の草刈夫や刈入夫なども監督されなければならない。彼は絶えず彼の柵の周囲を回り歩かなければならない。彼はなにかなおざりにされてはいないか調べてみなければならない。そういうことは、もし彼が一つところに閉じこもっていれば、起きるであろう。」(〔J・アーバスノト〕『食糧の現在価格と農場規模との関連の研究。一農業家著』、ロンドン、1773年、12ページ。)(ロ)この本は非常におもしろい。(ハ)この本のなかでは、“capitalist farmer"〔資本家的農業者〕または“merchant farmer"〔商人的農業者〕という言葉で呼ばれるものの発生史を研究することができるし、生計維持を主とする“small farmer"〔小農業者〕と比べての彼の自已賛美を聞くことができる。(ニ)「資本家階級は、最初は部分的に、ついには完全に、手の労働の必要から解放される。」(『国民経済学教科書』、リチャード・ジョーンズ師著、ハートフォード、1852年、第3講、39ページ。〔大野訳『政治経済学講義』、72ページ。〕)〉(全集第23a巻406頁)

 これは〈資本主義的生産のある程度の高さは、資本家が資本家として、すなわち人格化された資本として機能する全時間を、他人の労働の取得、したがってまたその監督のために、またこの労働の生産物の販売のために、使用できるということを条件とする(205)。〉という本文に付けられた原注です。二つの著書からの引用があり、そのあいだにマルクスのコメントが入っています。とりあえず、文節ごとに検討することにしましょう。

   (イ) 「農業家は彼自身の労働にたよってはならない。もしそれをするならば、彼はそれで損をする、と私は言いたい。彼の仕事は、全体にたいする一般的な注意であるべきである。彼の打穀夫は監視されなければならない。そうでないと、やがて彼は打穀されないぶんだけ賃金を損するであろう。彼の草刈夫や刈入夫なども監督されなければならない。彼は絶えず彼の柵の周囲を回り歩かなければならない。彼はなにかなおざりにされてはいないか調べてみなければならない。そういうことは、もし彼が一つところに閉じこもっていれば、起きるであろう。」(〔J・アーバスノト〕『食糧の現在価格と農場規模との関連の研究。一農業家著』、ロンドン、1773年、12ページ。)

    これは農業家(資本家)の本来の役目は、自分も労働することではなく、全体にたいする一般的な注意や監視をすべきだと述べていることから引用されているようです。

    マルクスはJ・アーバスノトを〈大借地農業の狂信的な擁護者である。〉(全集第23b巻944頁)と述べています。これ以外にもいくつかの引用を行っています。

  (ロ)(ハ) この本は非常におもしろいです。この本のなかでは、“capitalist farmer"〔資本家的農業者〕または“merchant farmer"〔商人的農業者〕という言葉で呼ばれるものの発生史を研究することができます。また、生計維持を主とする“small farmer"〔小農業者〕と比べての彼、つまり資本家的農業者の自已賛美を聞くことができるからです。

    このアーバストの本は、資本家的農業者を擁護する主張が展開されているようです。これ以外のいくつかの原注での引用でも問題にしているものは異なりますが、同じような論旨が見られます。

   (ニ) 「資本家階級は、最初は部分的に、ついには完全に、手の労働の必要から解放される。」(『国民経済学教科書』、リチャード・ジョーンズ師著、ハートフォード、1852年、第3講、39ページ。〔大野訳『政治経済学講義』、72ページ。〕)

    ジョーンズもマルクスはいろいろなところで引用していますが(特に地代に関するものが多い)、ここでは資本家は手の労働から解放されることを指摘しているものです。

 ((4)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(4)

2024-03-14 16:09:10 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(4)


◎原注205a

【原注205a】〈205a (イ)近代化学で応用され、ロランとジェラールとによってはじめて科学的に展開された分子説は、この法則にもとづくものにほかならない。{第三版への補足。}--(ロ)化学者でない人にとってはあまり明瞭でないこの注の説明のために、次のことを一言しておく。(ハ)著者がここで言っているのは、1843年にC・ジェラールによってはじめてそう名づけられた炭水素化合物の「同族列」のことであって、それらはそれぞれ特有の代数的構造式をもっている。(ニ)たとえば、パラフィン列は CnH2n+2 であり、標準アルコール列は CaH2n+2O であり、標準脂肪酸列は CnH2nO2 である、等々。(ホ)これらの例では、分子式に CH2 を単に量的に追加することによって、そのつど一つの質的に違った物体が形成される。(ヘ)これらの重要な事実の確定におけるロランとジェラールとの関与、このマルクスによって過大評価された関与については、コップ『化学の発達』、ミュンヘン、1873年、709、716ページ、およびショルレンマー『有機化学の成立と発達』、ロンドン、1879年、54ページを参照せよ。--F・エンゲルス〉(全集第23a巻406頁)

  (イ) 近代化学で応用され、ロランとジェラールとによってはじめて科学的に展開された分子説は、この法則にもとづくものにほかなりません。

    これは〈ここでも、自然科学におけると同様に、へーゲルがその論理学のなかで明らかにしているこの法則、すなわち、単なる量的な変化がある点で質的な相違に一変するという法則の正しいことが証明されるのである(205a)。〉という本文に付けられた原注です。初版やフランス語版はこの冒頭の部分だけが原注になっています。そのあとは〈{第三版への補足。}〉とありますように、第三版の編集のときにエンゲルスによって加えられたものです。ロランとジェラールについては人名索引から紹介しておきましょう(ただしあまりにも簡単すぎるので、ウィキペディアで調べたものもつけ加えておきます)。

  ロラン,オーギュストLaurent,Auguste(1807-1853)フランスの化学者.〉(全集第23b巻91頁)〈ローランは、有機化学反応においてどのように分子が結合するかを明らかにするために、分子中の原子の構造グループに基づいた有機化学における系統的命名法を考案した。さらに、電気化学的二元論では説明が困難であった置換反応を説明するために核の説を提唱したが、エテリン説を唱えるデュマの反発を買った結果、事実上フランスの化学界から排斥された上、結核に罹って夭折した。〉
  ジェラール,シャルルーフレデリクGerhardt,Charles-Frederic(1816-1856)ブランスの化学者.〉(全集第23b巻70頁)〈1843年に相同列(同族列)の概念に基づいた分子式に基づく化合物分類を提唱した。また残余の理論にもとづくとイェンス・ベルセリウスによる原子量・分子量の決定法に問題があることを示した。これはアボガドロの仮説の妥当性を示す第一歩となった。またこの年にオーギュスト・ローランと政治活動を通じて知り合い親交を結んだ。ローランは分子式に基づく分類を化合物の性質に関する情報を何も与えていないとして批判した。その後のジェラールの研究はローランからの批評に大きく影響されている。また分子式に基づく化合物分類の発表は師であるデュマとの間にプライオリティについての争いを引き起こした。ジェラールは年長者への敬意を欠いて自分の方が優れていると主張し、また批判が容赦ないものであったため、不遇な扱いを受けることになっていく。〉

  (ロ)(ハ)(ニ)(ホ) 化学者でない人にとってはあまり明瞭でないこの注の説明のために、次のことを一言しておきます。著者がここで言っているのは、1843年にC・ジェラールによってはじめてそう名づけられた炭水素化合物の「同族列」のことです。それらはそれぞれ特有の代数的構造式をもっています。たとえば、パラフィン列は CnH2n+2 であり、標準アルコール列は CaH2n+2O であり、標準脂肪酸列は CnH2nO2 である、等々。これらの例では、分子式に CH2 を単に量的に追加することによって、そのつど一つの質的に違った物体が形成されるのです。

    この問題についてはすでに第11パラグラフの付属資料として紹介したエンゲルスの『自然弁証法』に詳しいです。関連する部分だけ引用しておきましょう。

   〈このようなことは炭素化合物の同族列、とくに比較的簡単な炭化水素の同族列ではなおいっそう適切なものとして現われてくる。正パラフィン系のうちの最低位のものはメタン CH4 である。この場合には炭素原子の四個の結合単位は四個の水素原子で飽和している。第二番目のエタン C2H6 はたがいに結合した二個の炭素原子をもち、遊んでいる六個の結合単位は六個の水素原子で飽和している。このようにして公式 CnH2n+2 にしたがって C3H8,C4H10 等々とすすみ、CH2 が付加されるごとにそのまえのものとは質的に異なる物質が形成されてゆく。この系列の最低位の三つの成員は気体であり、既知の最高位のもの、ヘキサデカン C16H34 は沸点が摂氏二七八度の固体である。パラフィン系からみちびきだされる(理論的に)公式 CnH2n+2O の第一アルコールの系列と、一塩基脂肪酸(公式 CnH2nO2 )についても事情はまったく同じである。C3H6 の量的付加がいかなる質的区別をもたらしうるかは、どうにか飲めるかたちにしたエチルアルコール C2H6O を他のアルコール類と混ぜないで飲んだ場合と、同じエチルアルコールを飲むにしても、こんどは悪名高いフーゼル油の主成分をなすアミールアルコール C5H12O を少量つけくわえておいた場合の、二つの場合の経験が教えてくれるだろう。われわれの頭は翌朝には確実に、しかも頭痛とともに、これをさとることだろう。だから酔いとその後の二日酔いとは、一方はエチルアルコールの、他方はこれにつけくわえられた C3H6 の、ともに同じく質に転化された量だとさえいえるのである。〉(全集第20巻383頁)

  (ヘ) これらの重要な事実の確定におけるロランとジェラールとの関与、このマルクスによって過大評価された関与については、コップ『化学の発達』、ミュンヘン、1873年、709、716ページ、およびショルレンマー『有機化学の成立と発達』、ロンドン、1879年、54ページを参照してください。

    ただエンゲルスはこうした有機化合物の重要な事実の確定にロランとジェラールの関与についてのマルクスの評価は〈過大評価〉だと考えているようです。エンゲルスがここで参照するようにと上げている文献については直接当たることはできません。ただ文献索引と人名索引から調べたものを掲げておきます(ウィキペディアの説明の一部も紹介しておきます)。ショルレンマーについてはマルクス・エンゲルスとも友人関係にあったということですから、全集の人名索引を調べるといろいろなところで言及されています(特に往復書簡)。エンゲルスは「カール・ショルレンマー」という表題の追悼文を『フォールヴェルツ』(1892年7月3日付)に書いています(全集第22巻317-320頁)、また先に紹介したエンゲルスの『自然弁証法』には、次のような一文もありました。

  〈しかし最後にこのヘーゲルの法則は化合物だけではなく、化学的元素そのものにたいしてもなりたつのである。われわれは今日、
  「元素の化学的性質は原子量の周期関数であること」(ロスコー=ショルレンマー『詳解化学教程三第二巻、八二三ページ)、
  したがってその質が原子量という量によって条件づけられていることを知っている。そしてこのことの検証はみごとになしとげられた。メンデレーエフが立証したように、原子量の順に配列された親縁な元素の系列中にはさまざまな空位があり、それらはその箇所になお新元素が発見されるべきことを示唆するものである。これらの未知の元素の一つで、アルミニウムにはじまる系列中でアルミニウムの次にあるところからエカアルミニウムと彼が命名した元素について、彼はその一般的な化学的性質をまえもって記述し、おおよそその比重と原子量および原子容を予言しておいた。数年後ルコック・ド・ボアボドランはこの元素を実際に発見したが、メンデレーエフが予想していたことはごくわずかのずれを除いては的中した。エカアルミニウムはガリウムとして実在のものとなった(48)(前掲書、八二八ページ)。量の質への転化についてのヘーゲルの法則の--無意識的な--適用によって、メンデレーエフは、未知の惑星、海王星の軌道の計算におけるルヴェリエの業績(49)に堂々と比肩しうるほどの科学的偉業をなしとげたのである。〉(全集第20巻384頁)

  コップ,ヘルマン『化学の発達』所収:『ドイツにおける科学史.近代』,第10巻,第3篇,ミュンヘン,1873年〉(全集第23b巻13頁)〈コップ,ヘルマン・フランツ・モーリッツ KoPP,Hermann Franz Moritz(1817-1892)ドイツの化学者.化学史に関する著述あり.〉(全集第23b巻68頁)〈彼が注目したもう1つの質問は、化合物、特に有機の沸点とその組成との関係でした。これらや他の骨の折れる研究に加えて、コップは多作の作家でした。1843年から1847年に、彼は包括的な化学の歴史を4巻で出版し、1869年から1875年に3つの補足が追加されました。最近の化学の発展は1871年から1874年に登場し、1886年に彼は古代と現代の錬金術に関する2巻の作品を出版しました。〉
  ショルレンマー,カール『有機化学の成立と発達』,ロソドン,1879年〉(全集第23b巻17頁)〈ショルレンマー,カールSchorlemmer,Car1(1834-1892)ドイツ生まれの化学者,マンチェスターの教授,ドイツ社会民主党員,マルクスとエンゲルスとの親友.〉(全集第23b巻71頁)(ウィキペディアには掲載なし)


◎第12パラグラフ(1人の貨幣所持者または商品所持者が資本家に成熟するために処分することができなければならない価値額の最小限は、資本主義的生産の発展段階が違えばそれによって違っており、また、与えられた発展段階にあっても、生産部面が違えばその部面の特殊な技術的諸条件にしたがって違っている。)

【12】〈(イ)1人の貨幣所持者または商品所持者が資本家に成熟するために処分することができなければならない価値額の最小限は、資本主義的生産の発展段階が違えばそれによって違っており、また、与えられた発展段階にあっても、生/産部面が違えばその部面の特殊な技術的諸条件にしたがって違っている。(ロ)ある種の生産部面は、すでに資本主義的生産の発端から、個々の個人の手のなかにはまだないような資本の最小限を必要とする。(ハ)このことは、コルベール時代のフランスでのように、またわれわれの時代に至るまでいくつかのドイツ諸邦で見られるように、このような私人にたいする国家の補助金の誘因となることもあれば、あるいは、ある種の産業部門や商業部門の経営について法律上の独占権をもつ会社(206)--近代的株式会社の先駆--の形成を促すこともある。〉(全集第23a巻406-407頁)

  (イ) 1人の貨幣所持者または商品所持者が資本家に成熟するために処分することができなければならない価値額の最小限は、資本主義的生産の発展段階が違えばそれによって違っていますし、また、与えられた発展段階にあっても、生産部面が違えばその部面の特殊な技術的諸条件にしたがってまた違っています。

    前パラグラフでは剰余価値の生産のためには貨幣または交換価値の一定の最小限があることが明らかにされました。つまり一人の貨幣所持者が資本家になるためには、自由に処分可能な貨幣額の最小限があるということでした。この最小限は、資本主義的生産の発展段階が異なればそれによって違ってきますし、同じ発展段階でも、先に見ましたよう、紡績業と製パン業とでは資本の構成が異なるのと同じように、生産部面が異なればそれぞれの特殊な技術的条件によって資本の最小限が違ってきます。

  (ロ)(ハ) ある種の生産部面は、すでに資本主義的生産の発端から、個々の個人の手のなかにはまだないような資本の最小限を必要とすることがあります。このことは、コルベール時代のフランスでのように、またわたしたちの時代に至るまでのいくつかのドイツ諸邦で見られましたように、このような私人にたいする国家の補助金の誘因となることもありますし、あるいは、ある種の産業部門や商業部門の経営について法律上の独占権をもつ会社--近代的株式会社の先駆--の形成を促すこともあります。

    産業部面が異なれば、必要な資本の最小限が違う一つの典型的なものとして、例えばオランダやイギリスなどの東インド会社などのように、資本主義的生産の発端から、その必要最小限が一人の私人によってまかないきれないものが必要となり、だから国家が主導し、その補助金や法的に独占権をもつ会社--近代の株式会社の先駆--の形成を促すこともあるということです。

    ここで〈コルベール時代のフランス〉とありますが、ネットでいろいと調べましたら、ジャン=パティスト・コルベール(Jean Baptiste Colbert, 1619-1683)は、ルイ14世治下のフランスの財務総監で、絶対王政の財源を支えるために、典型的な重商主義政策を実施。この次期のフランス重商主義は、彼の名をとって、コルベール主義と呼ばれることが多い、ということです。次のような説明もありました。

  〈コルベールは、先進国イギリス、オランダに対抗してフランスを貿易大国に育成し、貿易差額によって国富(金銀)を増大することを目ざし、絶対王制期の重商主義の典型とされるコルベルティスムColbertisme体系を築き上げた。彼の構想では、国際商業戦争に勝つためには、輸出向け戦略商品(とくに毛織物)を安価かつ大量に生産することが必要であった。そこで、穀物価格(食糧費)の引下げ政策によって工業生産者の工賃の低下を図り、また織物を輸出適格商品にするため綿密な工業規制règlementsを生産者に強制した。同時に、全国の都市、農村の生産者にギルド組織への加入を義務づけ、そうした工業規制の徹底化と、製品の指定輸出商への強制集中を図った。他方、王立または国王特許による特権マニュファクチュア(作業場)を各地に設けて、毛織物のほか奢侈(しゃし)品(ゴブラン織など)、ガラスなどを生産させた。こうした工業育成策を基に、徹底した保護貿易政策をとり、輸出を奨励すると同時に、輸入製品には禁止的保護関税をかけた。また、東・西インド会社、レバント会社などを設立または発展させ、海軍・海運を育成して海外経営に乗り出し、ついにオランダとの戦争(1672~1678)に突入して、フランシュ・コンテやフランドル(毛織物地帯)諸都市を獲得した。〉(日本大百科全書(ニッポニカ) の解説)

  〈近代的株式会社の先駆〉としての独占会社については本源的蓄積の部分でもマルクスは次のように触れています。

  〈植民制度は商業や航海を温室的に育成した。「独占会社」(ルター)は資本蓄積の強力な槓杆だった。〉(全集23b983頁)


◎原注206

【原注206】〈206 この種の施設をマルティーン・ルターは“Die Gesellschaft Monopolia"〔独占会社〕と呼んでいる。〉(全集第23a巻407頁)

    これは〈ある種の産業部門や商業部門の経営について法律上の独占権をもつ会社(206)〉という本文に付けられた原注です。こうした法的独占権をもつ会社のことをルターは「独占会社」と呼んでいるということです。
    新日本新書版には〈〔独占会社〕〉という部分に次のような訳者注が付いています。

  〈ルター『商取引と高利について』、ヴィッテンベルク、1524年(ヴァイマール版、第15巻、312ページ)。松田智雄・魚住昌良訳、『ルター著作集。第1集』第5巻、聖文舎、526ページ。ルターはこれらの説教で、国会の独占禁止決議にもかかわらず野放しになっている「独占商会」に激しく反対している〉(540頁)

 草稿集⑦には最後の方にルターからの長い抜粋がありますが、主に高利貸に対する批判であって、独占会社に対するものは見あたりませんでした。


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◎第13パラグラフ(ここでは、わずかばかりの要点だけを強調しておく)

【13】〈(イ)われわれは、資本家と賃金労働者との関係が生産過程の経過中に受けた諸変化の詳細には、したがってまた資本そのもののさらに進んだ諸規定にも、かかわらないことにする。(ロ)ただ、わずかばかりの要点だけをここで強調しておきたい。〉(全集第23a巻407頁)

  (イ)(ロ) わたしたちは、資本家と賃金労働者との関係が生産過程の経過中に受けた諸変化の詳細には、したがってまた資本そのもののさらに進んだ諸規定にも、かかわらないことにします。ただ、わずかばかりの要点だけをここで強調しておきます。

    このパラグラフの前には横線があり、問題がここから変わっていることを示しています(初版にはこうした横線はありません)。つまりここから第9章が第3篇から第4篇へ移行するために第3篇のまとめをやっていると考えることができます。ただこの冒頭のパラグラフそのものはフランス語版では削除されています。
    このパラグラフでは、資本家と賃労働者との関係の変化の詳細や、資本そのもののさらに進んだ諸規定については問題にせず、わずかな要点をのべるだけだという断りが述べられているだけです。つまりこれまで展開してきたものをここで繰り返す愚は避けるということでしょうか。


◎第14パラグラフ(生産過程のなかでは資本は労働にたいする指揮権にまで発展した)

【14】〈(イ)生産過程のなかでは資本は労働にたいする、すなわち活動しつつある労働力または労働者そのものにたいする指揮権にまで発展した。(ロ)人格化された資本、資本家は、労働者が自分の仕事を秩序正しく十分な強度で行なうように気をつけるのである。〉(全集第23a巻407頁)

  (イ)(ロ) 生産過程のなかでは資本は労働にたいする、すなわち活動しつつある労働力または労働者そのものにたいする指揮権にまで発展しました。人格化された資本、つまり資本家は、労働者が自分の仕事を秩序正しく十分な強度で行なうように気をつけるのです。

    それほど違いはありませんが、フランス語版の方がすっきり書かれているように思えますので、最初に紹介しておきましょう。

  〈われわれがすでに見たように、資本は労働の主人公になる。すなわち、運動中の労働力または労働者自身を、資本の法則のもとに服従させることに成功する。資本家は、労働者が自分の仕事を念入りにまた必要な強度で遂行するように監視する。〉(江夏・上杉訳320頁)

    これまでの展開で示されましたように、資本は生産過程にある労働者を管理し、指揮する役割を担う存在になりました。資本は人格化された資本として労働者から剰余労働を最大限絞り出すために、労働が秩序ただしく無駄なく十分な強度でなされているかを始終気をつけているわけです。
    絶対的剰余価値の生産では、資本はいまだ労働を形態的に包摂する(形式的に資本関係のなかに取り込んだだけ)にすぎないのですが、しかしそれでも資本は剰余労働を強制的に奪取するために労働者を指揮・監督する役割を担うようになったわけです。


◎第15パラグラフ(資本は、さらに剰余労働を強制する関係としては、以前の直接的強制労働にもとづく生産体制をも凌駕するようになる)

【15】〈(イ)資本は、さらに、労働者階級に自分の生活上の諸欲望の狭い範囲が命ずるよりも多くの労働を行なうことを強要する一つの強制関係にまで発展した。(ロ)そして、他人の勤勉の生産者として、剰余労働の汲出者および労働力の搾取者として、資本は、エネルギーと無限度と効果とにおいていっさいのそれ以前の直接的強制労働にもとつく生産体制を凌駕しているのである。〉(全集第23a巻407頁)

  (イ)(ロ) 資本は、さらに、労働者階級に自分の生活上の諸欲望の狭い範囲が命ずるよりも多くの労働を行なうことを強要する一つの強制関係にまで発展しました。そして、他人の勤勉の生産者として、剰余労働を汲み出す人、すなわち労働力の搾取者として、資本は、そのためのエネルギーと無制限とその効果とにおいて、いっさいのそれ以前の直接的強制労働にもとつく生産体制を凌駕しているのです。

    このパラグラフも最初にフランス語版を紹介しておきます。

 〈資本は、その上、労働者階級に自分の狭い範囲の必要が要求するよりも多くの労働を遂行させざるをえなくする強制的関係として、現われる。他人の活動の生産者および利用者として、労働力の搾取者および剰余労働の詐取者として、資本主義制度は、種々の強制的労働制度に直接にもとづくあらゆる従前の生産制度を、エネルギー、効果、無限の力という点で凌駕している。〉(江夏・上杉訳320頁)

    労働の形態的包摂においては、労働過程そのものは技術学的には以前のまままですが、いまではそれらは資本に従属した過程として現れます。資本は、労働者に剰余労働を強いる関係にまで発展したのです。剰余労働の搾取者として資本は、そのエネルギーと無限性において、以前の直接的強制労働にもとづく生産体制を凌駕したものになります。
  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈加えられる強制が、すなわち剰余価値、剰余生産物、あるいは剰余労働の生みだされる方法が、違った種類のものなのである。もろもろの明確な区別は、次の項目〔Abschnitt〕で、つまり蓄積を論じるときに、はじめて考察することになる。この資本のもとへの労働の形態的包摂にあって本質的なことは次の点である。/
  (1) 労働者は、自分自身の人格の、だからまた自分自身の労働能力の所有者として、この労働能力の時間極(ギ)めでの消費の売り手として、貨幣を所持する資本家に相対しているのであり、だから両者は商品所持者として、売り手と買い手として、それゆえ形式的には自由な人格として相対しているのであって、事実、両者のあいだには買い手と売り手との関係以外の関係は存在せず、この関係とは別に政治的または社会的に固定した支配・従属の関係が存在するわけではない、ということである。
  (2) これは第一の関係に含まれていることであるが--というのは、もしそうでなかったら労働者は自分の労働能力を売らなくてもいいはずだから--、彼の客体的な労働諸条件(原料、労働用具、それゆえまた労働中の生活手段も)の全部が、あるいは少なくともその一部が、彼にではなく彼の労働の買い手かつ消費者に属し、それゆえ彼自身にたいして資本として対立しているということである。これらの労働諸条件が彼にたいして他人の所有物として対立することが完全になればなるほど、形態的に資本と賃労働との関係が生じるのが、つまり資本のもとへの労働の形態的包摂が生じるのが、それだけ完全になる。〉(草稿集⑨369-370頁)


◎第16パラグラフ(資本は、さしあたりは、歴史的に与えられたままの労働の技術的諸条件をもって、労働を自分に従属させる。したがって、資本は直接には生産様式を変化させない。)

【16】〈(イ)資本は、さしあたりは、歴史的に与えられたままの労働の技術的諸条件をもって、労働を自分に従属させる。(ロ)し/たがって、資本は直接には生産様式を変化させない。(ハ)それだから、これまでに考察した形態での、労働日の単純な延長による剰余価値の生産は、生産様式そのもののどんな変化にもかかわりなく現われたのである。(ニ)それは、古風な製パン業でも近代的紡績業の場合に劣らず効果的だったのである。〉(全集第23a巻407-408頁)

  (イ)(ロ) 資本は、さしあたりは、歴史的に与えられたままの労働の技術的諸条件をもって、労働を自分に従属させます。だから、資本は直接には生産様式を変化させないのです。

    絶対的剰余価値の生産では、資本はさしあたりは歴史的にあたえられたままの労働をただ資本主義的な関係のなかに包摂し、資本に従属させるだけです。『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈絶対的剰余価値にもとづく形態を、私は資本のもとへの労働の形態的包摂と名づける。この形態は、現実の生産者たちが剰余生産物、剰余価値を提供しているが、すなわち必要労働時間を超えて労働しているが、それが自分のためではなく他人のためであるような、それ以外の生産様式と、ただ形態的に区別されるにすまない。〉(草稿集⑨369頁)
  〈この場合には、生産様式そのものにはまだ相違が生じていない。労働過程は--技術学的に見れば--以前とまったく同じように行なわれるが、ただし、今では資本に従属している労働過程として行なわれるのである。けれども、生産過程そのもののなかでは、前にも述ぺたように{これについて前述したことのすべてがここではじめてその場所に置かれることになる}、第一に、資本家による労働能力の消費が、それゆえ資本家による監視と指揮とが行なわれることによって、支配・従属の関係が発展し、第二に、労働のより大きな逮続性が発展する。〉(同370頁)

  (ハ)(ニ) だから、これまでに考察した形態での、すなわち労働日の単純な延長による剰余価値の生産は、生産様式そのもののどんな変化にもかかわりなく現われたのです。それは、古風な製パン業でも近代的紡績業の場合に劣らず効果的だったのです。

    だから「第3篇 絶対的剰余価値の生産」においては、労働日の単純な延長による剰余価値の生産が問題になり、生産様式そのものには何の変化も無いものとして前提されたのです。だからそれは近代的紡績業にも古風な製パン業においても見られるものであり、実際にも私たちはそれらを具体的に検討してきたわけです。


◎第17パラグラフ(生産過程を価値増殖過程の観点から考察すると、一つの転倒現象が生じてくる。それが資本家の意識にどのように反映するか)

【17】〈(イ)生産過程を労働過程の観点から考察すれば、労働者の生産手段にたいする関係は、資本としての生産手段にではなく、自分の合目的的な生産的活動の単なる手段および材料としての生産手段にたいする関係だった。(ロ)たとえば製革業では、彼は獣皮を自分の単なる労働対象として取り扱う。(ハ)彼が皮をなめすのは、資本家のためにするのではない。(ニ)われわれが生産過程を価値増殖過程の観点から考察するやいなやそうではなくなった。(ホ)生産手段はたちまち他人の労働を吸収するための手段に転化した。(ヘ)もはや、労働者が生産手段を使うのではなく、生産手段が労働者を使うのである。(ト)生産手段は、労働者によって彼の生産的活動の素材的要素として消費されるのではなく、労働者を生産手段自身の生活過程の酵素として消費するのであり、そして、資本の生活過程とは、自分自身を増殖する価値としての資本の運動にほかならないのである。(チ)熔鉱炉や作業用建物が夜間休止していてもはや生きている労働を吸収しないならば、それは資本家にとっては「ただの損失」(“mere loss")である。(リ)それだからこそ、熔鉱炉や作業用建物は、労働力の「夜間労働にたいする要求権」を構成するのである。(ヌ)貨幣が生産過程の対象的諸要因すなわち生産手段に転化されるというただそれだけのことによって、生産手段は他人の労働および剰余労働にたいする権原および強制力原に転化されるのである。(ル)このような、資本主義的生産に特有であってそれを特徴づけている転倒、じつに、この、死んでいる労働と生きている労働との、価値と価値創造力との関係の逆転は、資本家の意識にどのように反映するか、このことを最後になお一つの例によって示しておこう。(ヲ)1848-1850年のイギリスの工場主反逆のさいちゅうに、
  「西スコットランドの最も古くて最も名のある商社の一つで1752年以来存続し代々同じ家族によって経営さ/れているカーライル同族会社というべーズリ所在の亜麻・綿紡績業の社長」、--
この非常に賢明な紳士は、1849年4月25日の『グラスゴー・デーリ・メール』紙に『リレー制度』という題名で一つの書簡(207)を寄せたが、そのなかにはなかんずく次のような奇怪なまでに素朴な文句が混じっている。
(ワ)「そこで、労働時間を12時間から10時間に短縮することから生ずる害悪を見てみよう。……それは、工場主の期待と財産とにたいするきわめて重大な損傷と『なる』。もし彼」(すなわち彼の「使用人」)「が、これまで12時間労働していてそれが10時間に制限されるならば、彼の工場にある機械や紡錘の12個ずつがそれぞれ10個ずつに縮まるのであって(tthen every 12 machines or spindles,in his establishment,shrink to 10)、もし彼がその工場を売ろうとすればそれらは10個にしか評価されないわけで、こうして、国じゅうのどの工場の価値も6分の1ずつ減らされることになるであろう(208)。」〉(全集第23a巻408-409頁)

  (イ)(ロ)(ハ) 生産過程を労働過程の観点から考察しますと、労働者の生産手段にたいする関係は、資本としての生産手段に対してではなく、自分の合目的的な生産的活動の単なる手段および材料としての生産手段にたいする関係でした。たとえば製革業では、彼は獣皮を自分の単なる労働対象として取り扱います。彼が皮をなめすのは、資本家のためにするのではないのです。

    まずフランス語版を紹介しておきましょう。フランス語版ではこの部分はその前のパラグラフと合体されて、その途中から始まり、終わったところで改行されています。

  〈われわれが使用価値という単純な観点で生産を考察していたときには、生産手段は労働者にたいし、少しも資本という役割を演じていたのではなく、彼の生産活動の単なる手段および素材という役割を演じていたのである。たとえば鞣(ナメシ)皮業では、彼が鞣すのは皮であって資本ではない。〉(江夏・上杉訳321頁)

  「第5章 労働過程と価値増殖過程」で見ましたように、生産過程を労働過程としてみますと、労働者の生産手段に対する関係は、資本としての生産手段にたいする関係ではなく、単に合目的的な生産活動のための手段あるいは材料としての生産手段にたいする関係でした。例えば製革業では、労働者は獣皮をたんなる労働対象として取り扱います。彼が革をなめすのは、資本家のためにではないのです。

    新日本新書版では〈彼が皮をなめすのは、資本家のためにするのではない〉という部分は〈彼はなめすものは資本家の皮ではない〉(541頁)となっていて、この部分に次のような訳者注が付いています。

  〈なめし皮業者が徒弟をきたえるためにしたたか打ちのめすことを「徒弟の皮をなめす」と言ったのに由来する慣用句および学生用語の風刺の転用〉(543頁)

  (ニ)(ホ)(ヘ)(ト) しかし、わたしたちが生産過程を価値増殖過程の観点から考察するやいなやそうではなくなりました。生産手段はたちまち他人の労働を吸収するための手段に転化したのです。もはや、労働者が生産手段を使うのではなく、生産手段が労働者を使うのです。生産手段は、労働者によって彼の生産的活動の素材的要素として消費されるのではなく、労働者を生産手段自身の生活過程の酵素として消費するのです。そして、資本の生活過程とは、自分自身を増殖する価値としての資本の運動にほかならないのです。

    この部分もまずフランス語版を紹介しておくことします。

  〈われわれが剰余価値の観点で生産を考察するようになるやいなや、事態は変わった。生産手段は直ちに他人の労働の吸収手段に転化した。もはや労働者が生産手段を使うのではなく、反対に生産手段が労働者を使う。生産手段は、労働者によって彼の生産活動の素材的要素として消費されるのではなく、生産手段自身の生活に不可欠な酵母として労働者自身を消費するのであって、資本の生活は、永遠に増殖途上にある価値としての資本の運動にほかならない。〉(同上)

    ところが、生産過程を価値増殖過程の観点から見ますと、生産手段はたちまち他人の労働を吸収するための手段に転化し、労働者と生産手段の関係も逆転して、もはや労働者が生産手段を自身の道具や材料として扱うのではなく、反対に生産手段が労働者を自身の生活過程(価値を増殖する運動)のための酵素として消費するのです。主体はもはや労働者ではなく、生産手段(あるいは資本)になっています。だから資本の生産過程とは、自分自身を増殖する価値としての資本の運動になっているのです。

  (チ)(リ) 熔鉱炉や作業用建物が夜間休止していてもはや生きている労働を吸収しなくなると、それは資本家にとっては「ただの損失」(“mere loss")でしかありません。だからこそ、熔鉱炉や作業用建物は、労働力の「夜間労働にたいする要求権」を構成するのです。

    フランス語版です。

  〈夜間には休止していて、生きた労働をなんら吸収しない熔鉱炉や工場の建物は、資本家にとっては純損<a mere loss>になる。だからこそ、熔鉱炉や工揚の建物は、労働者の「夜間労働にたいする請求権、権利」を構成しているのだ。これについてこれ以上述べることは、いまのところ無用である。〉(同上)
 
    生産手段が資本の生産手段になるということは、それが常に生きた労働と接触して剰余労働を吸収しつづけなければならないということです。だからそれが制止させられるということは、資本家にとってはただの損失でしかありません。だからこそ溶鉱炉や作業用建物が夜間休止していて、生きている労働を吸収できなくなる事態を防ごうとする資本の強い欲求が生じるのです。だから溶鉱炉や作業用建物は、労働力の夜間労働にたいする要求の根拠にされるのです。

  (ヌ) 貨幣が生産過程の対象的諸要因すなわち生産手段に転化されるというただそれだけのことによって、生産手段は他人の労働および剰余労働にたいする権原および強制力原に転化されるのです。

    フランス語版では上記のように〈これについてこれ以上述べることは、いまのところ無用である〉とありますようにこうした文言は省かれています。

    こうした生産手段と労働者の逆転した関係は、ただ貨幣が資本家の手によって生産過程の対象的要因すなわち生産手段に転化されるというだけで生じてきます。それだけで生産手段は他人の労働さらに剰余労働を強制する権限あるいは強制力の源となるのです。

  (ル) このような、資本主義的生産に特有であってそれを特徴づけている転倒、じつに、この、死んでいる労働と生きている労働との、価値と価値創造力との関係の逆転は、資本家の意識にどのように反映するか、このことを最後になお一つの例によって示しておきましょう。

    フランス語版です。なお、フランス語版ではここで改行されています。

  〈こういった、資本主義的生産を特微づけている役割の転倒が、死んだ労働と生きた労働との関係の、価値と価値創造力との関係の、こうした奇妙な転倒が、資本の所有主の意識のうちにどのように反映しているかを、ただ一例によって示すことにしよう。〉(同上)

    こうした資本主義的生産に特有な物象的関係の転倒、死んでいる労働(生産手段)と生きている労働との関係の逆転、あるいは価値(生産手段)と価値創造力(労働力)との関係の逆転が、資本家の意識にどのように反映するのかの例を、最後にもう一つ示すことにしましょう。

  (ヲ)(ワ) 1848-1850年のイギリスの工場主反逆のさいちゅうに、「西スコットランドの最も古くて最も名のある商社の一つで1752年以来存続し代々同じ家族によって経営されているカーライル同族会社というべーズリ所在の亜麻・綿紡績業の社長」、--この非常に賢明な紳士は、1849年4月25日の『グラスゴー・デーリ・メール』紙に『リレー制度』という題名で一つの書簡を寄せましたが、そのなかにはなかんずく次のような奇怪なまでに素朴な文句が混じっています。
 「そこで、労働時間を12時間から10時間に短縮することから生ずる害悪を見てみよう。……それは、工場主の期待と財産とにたいするきわめて重大な損傷と『なる』。もし彼」(すなわち彼の「使用人」)「が、これまで12時間労働していてそれが10時間に制限されるならば、彼の工場にある機械や紡錘の12個ずつがそれぞれ10個ずつに縮まるのであって(tthen every 12 machines or spindles,in his establishment,shrink to 10)、もし彼がその工場を売ろうとすればそれらは10個にしか評価されないわけで、こうして、国じゅうのどの工場の価値も6分の1ずつ減らされることになるであろう。」

    フランス語版はそれほどの違いはないので紹介は略します。

  ここで〈1848-1850年のイギリスの工場主反逆〉というのは、第8章第6節の第30パラグラフで〈2年間にわたる資本の反逆は、ついに、イギリスの四つの最高裁判所の一つである財務裁判所〔Court of Exchequer〕の判決によって、仕上げを与えられた。すなわち、この裁判所は、1850年2月8日にそこに提訴された一つの事件で、工場主たちは1844年の法律の趣旨に反する行動をしたにはちがいないが、この法律そのものがこの法律を無意味にするいくつかの語句を含んでいる、と判決したのである。「この判決をもって10時間法は廃止された(167)。」それまではまだ少年や婦人労働者のリレー制度を遠慮していた一群の工場主も、今では両手でこれに抱きついた(168)。〉と書いていたもののことでしょう。
    その反逆のさいちゅうに、西スコットランドのカーライル同族会社の経営者が『リレー制度』という題名の書簡を『グラスゴー・デーリ・メール』紙に寄せたものが引用されています。
    それは労働時間が12時間から10時間に制限されると、彼の工場にある機械や紡錘まで、それまでの12個から10個に減ったものになり、国じゅうの工場の価値も同じように6分の1ずつ減らされたものとして評価されるというものです。
    つまり資本家にとっては生産手段というのは、労働を、とくに剰余労働を吸収することよってその価値を増殖する性質をもったものなのです。だからその吸収が制限されるということは、生産手段の価値そのものが減少することのように見えるわけです。資本家には生産手段は労働を吸収して増殖する性質がそれ自体に生え出ているもののように見えるわけです。物象的な関係が逆転して見えているということです。


◎原注207

【原注207】〈207 『工場監督官報告書。1849年4月30日』、59ページ。〉(全集第23a巻409頁)

    これは本文で紹介されている書簡の典拠を示すものです。つまりこの書簡そのものが『工場監督官報告書』で紹介されているということです。


◎原注208

【原注208】〈208 (イ)同前、60ページ。(ロ)工場監督官ステュアートは、彼自身スコットランド人であって、イングランドの工場監督官たちとは反対にまったく資本家的な考え方にとらわれているのであるが、自分の報告書に収録したこの書簡について、それは「リレー制度を用いている工場主のなかの或る人によって書かれたもので、特にかの制度にたいする偏見や疑念を除くことを目的とするきわめて有益な通信である」と明言している。〉(全集第23a巻409頁)

  (イ) 同前、60ページ。

    これは本文で引用されている書簡が紹介されている『工場監督官報告書』の頁数を示すものです。

  (ロ) 工場監督官ステュアートは、彼自身スコットランド人であって、イングランドの工場監督官たちとは反対にまったく資本家的な考え方にとらわれているのですが、自分の報告書に収録したこの書簡について、それは「リレー制度を用いている工場主のなかの或る人によって書かれたもので、特にかの制度にたいする偏見や疑念を除くことを目的とするきわめて有益な通信である」と明言しています。

    この『工場監督官報告書』を書いたのはスコットランドとアイルランドを管轄していたステュアートで、彼自身スコットランド人で、イングランドやヴェールズを管轄していたホーナーやハウェル、あるいはソーンダースとは違って、資本家的な考えにとらわれていたということです。

  第8章第6節の第26パラグラフでも次のように書かれていました。

  〈しかし、まもなく工場主たちの陳情の砂塵が内務大臣サー・ジョージ・グレーの頭上に降りそそぎ、その結果、彼は1848年8月5日の回状訓令のなかで、監督官たちに次のように指示した。
  「少年と婦人を10時間以上労働させるために明白にリレー制度が乱用されているのでないかぎり、一般に、この法律の文面に違反するという理由では告発しないこと。」
  そこで、工場監督官J・ステユアートは、スコットランド全域で工場日の15時間の範囲内でのいわゆる交替制度を許可し、スコットランドではやがて元どおりに交替制度が盛んになった。これに反して、イングランドの工場監督官たちは、大臣は法律停止の独裁権をもってはいない、と言明して、奴隷制擁護反徒にたいしては引き続き法律上の処置をとることをやめなかった。〉

    つまり工場監督官のうちステュアートだけが資本家の意を汲んで交替制を許可したのです。
    だから彼は工場主の書簡を高く評価し、リレー制度にたいする偏見や疑念を除くことを目的とする有益な通信だなどと述べているということです。


◎第18パラグラフ(資本家には、生産手段の価値と、自分自身を価値増殖するという生産手段の資本属性との区別がまったくぼやけている)

【18】〈(イ)この西スコットランドの先祖伝来の資本頭脳にとっては、紡錘などという生産手段の価値と、自分自身を価値増殖するという、すなわち毎日一定量の他人の無償労働を飲みこむという生産手段の資本属性との区別がまったくぼやけているのであって、そのために、このカーライル同族会社の社長は、自分の工場を売れば、自分には紡錘の価値だけではなく、そのうえに紡錘の価値増殖も支払われるのだと、すなわち、紡錘に含まれている同種の紡錘の生産に必要な労働だけではなく、紡錘の助けによって毎日ぺーズリのけなげな西スコットランド人から汲み出される/剰余労働も支払われるのだと、実際に妄想しているのであって、それだからこそ、彼は、労働日を2時間短縮すれば紡績機の12台ずつの売却価格も10台ずつのそれに縮まってしまう! と思うのである。〉(全集第23a巻409-410頁)

  (イ) この西スコットランドの先祖伝来の資本頭脳にとっては、紡錘などという生産手段の価値と、自分自身を価値増殖するという、すなわち毎日一定量の他人の無償労働を飲みこむという生産手段の資本属性との区別がまったくぼやけているのです。だから、このカーライル同族会社の社長は、自分の工場を売れば、自分には紡錘の価値だけではなくて、そのうえに紡錘の価値増殖も支払われねばならなんと考えるのです。紡錘に含まれている同種の紡錘の生産に必要な労働だけではなくて、紡錘の助けによって毎日ぺーズリのけなげな西スコットランド人から汲み出される剰余労働も支払われねばならないと、実際に妄想しているのです。だからこそ、彼は、労働日を2時間短縮すれば紡績機の12台ずつの売却価格も10台ずつのそれに縮まってしまう! と思うのです。

    このパラグラフもまずフランス語版を紹介しておくことにします。

  〈われわれの見るとおり、スコットランドのこの石頭にとっては、生産手段の価値が、自己増殖しあるいは一定量の無償労働を日々同化するという生産手段のもつ資本属性と、全く混同されている。そして、カーライル同族会社のこの社長は、工場を売却するさいには、機械の価値だけでなく、おまけに機械の価値増殖も支払われる、すなわち、機械のなかに含まれていて同類の機械の生産に必要な労働だけでなく、機械の役立ちでぺーズリの律義なスコットランド人から日々詐取されている剰余労働までも支払われる、と信ずるほどに妄想を抱いている。彼の意見によれば、それだからこそ、労働日の2時間の短縮は、彼の機械の販売価格を引き下げるであろう。機械1ダースはもはや10個の価値しかないことになろう!〉(江夏・上杉訳322頁)

    労働時間が短縮されますと、その労働を使って生産手段に投じた自身の資本価値を増殖しようと考えている資本家にとっては、生産手段の価値そのものが、それだけ収縮するように思えるのはどうしてかを明にしています。
    それは生産手段の価値と、自分自身を増殖しようとする、つまり毎日一定量の他人の労働を無償で飲み込むという生産手段の資本属性との区別がぼやけているからだというのです。
    だから資本家にとっては、自分の工場を売るなら、自分には工場や紡錘の価値だけではなくて、その資本属性をも売ることになるので、その資本属性に対しても支払を受ける必要があると考えるわけです。だからこそ、彼は労働日が2時間短縮されると紡績機の12台の販売価格が10台分に減ると考えたわけです。

(【付属資料】(1)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(5)

2024-03-14 15:36:44 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(5)


【付属資料】(1)


●第1パラグラフ

《61-63草稿》

  〈われわれは、絶対的剰余価値および相対的剰余価値という二つの形態を切り離して考察したが、同時に、この二つの形態は互いに結びついているということ、また、相対的剰余価値が発展するのとまさに時を同じくして、絶対的剰余価値が極限にまで駆り立てられるということを示した。すでに見たように、この二つの形態を切り離すことによって、労賃と剰余価値との関係におけるもろもろの違いが明らかになるのである。生産力の発展が所与であれば、剰余価値はつねに絶対的剰余価値として現われるのであって、とりわけ剰余価値の変動は、ただ総労働日の変化によってのみ可能である。労働日が所与のものとして前提されれば、剰余価値の発展は、ただ相対的剰余価値の発展としてのみ、すなわち生産力の発展によってのみ可能である。〉(草稿集⑨367頁)

《初版》

 〈これまでと同じように、この節でも、労働力の価値、したがって、労働日のうちで労働力の再生産または維持に必要な部分は与えられた不変量である、と想定する。〉(江夏訳342頁)

《フランス語版》

 〈本章でもこれまでと同じように、労働力の日価値、したがって、労働者が労働力を再生産しあるいは維持するにすぎない労働日部分は、不変量であると見なす。〉(江夏・上杉訳313頁)

《イギリス語版》 英語版では第9章は第11章になっている。

  〈(1) この章でも、これまでと同様に、労働力の価値と、その結果として労働力を再生または維持するために必要な労働日のある部分については、ある一定の大きさがすでに与えられているものとする。〉(インターネットから)


●第2パラグラフ

《初版》

 〈このように前提すれば、剰余価値率と同時に、個々の労働者が一定の時間内に資本家に引き渡す剰余価値量も与えられている。たとえば必要労働が、1日に6時間で、3シリング=1ターレルの金量で表現されているとすれば、1ターレルは、1個の労働力の日価値、すなわち、1個の労働力の買い入れた前貸しされる資本価値である。さらに、剰余価値率が100%であれば、1ターレルの可変資本は1ターレルの剰余価値量を産む、すなわち、労働者は1日に6時間の剰余価値量を引き渡すわけである。〉(江夏訳342頁)

《フランス語版》

 〈1平均労働力の日価値が3シリングあるいは1エキュであって、これを再生産するために1日に6時間が必要であると想定しよう。資本家は、このような1労働力を買うために1エキュを前貸ししなければならない。この1エキュは資本家にどれだけの剰余価値をもたらすであろうか? それは剰余価値率に依存している。剰余価値率が50%であれば、剰余価値は3時間の剰余労働を代表する半エキュであろうし、100% であれば、6時間の剰余労働を代表する1エキュに上がるだろう。こうして、労働力の価値が与えられれば、剰余価値率が、個々の労働者によって生産される剰余価値量を規定する。〉(江夏・上杉訳313頁)

《イギリス語版》

  〈(2) このことにより、個々の労働者が一定期間において資本家に供する剰余価値の率・量が、同時に与えられたものとなる。すなわち、仮に、必要労働が日6時間であり、ある一定量の黄金= 3 シリングで表されるならば、かくして、その3 シリングが、一労働力の日価値 あるいは、一労働力を購入するために前貸しした資本の価値となる。さらに、もし、剰余価値率が = 100% であるならば、この可変資本の3シリングが、3シリングの剰余価値の量を生産する。または、その労働者が、6時間に等しい剰余労働の量を資本家に1日あたりで供給する。〉(インターネットから)


●第3パラグラフ

《初版》

 〈ところが、可変資本は、資本家が特定の生産過程において同時に使用するあらゆる労働力の総価値を表わす貨幣表現である。だから、1個の労働力の日価値が1ターレルであれば、毎日100個の労働力を搾取するためには100ターレルの資本が、毎日n個の労働力を搾取するためにはnターレルの資本が、前貸しされなければならない。だから、前貸可変資本の価値は、1個の労働力の平均価値に使用労働力の数を掛けたものに等しい。したがって、労働力の価値が与えられていれば、可変資本の価値の大きさすなわち可変資本量は、わが物にされた労働力の量あるいは同時に使用される労働者のが変動するにつれて、変動することになる。〉(江夏訳342頁)

《フランス語版》

 〈可変資本は、資本家が同時に使用するすべての労働力の価値の貨幣表現である。可変資本の価値は、1労働力の平均価値に個々の労働力の数を乗じたものに等しい。したがって、可変資本の量は、使用される労働者の数に比例する。資本家が日々100労働力を搾取すれば、それは1日に100エキュに達し、n労働力を搾取すればnエキュに達する〉(江夏・上杉訳313頁)

《イギリス語版》

  〈 (3) ところで、資本家の可変資本というのは、彼が同時に雇った全労働力の総価値の貨幣表現のことである。従って、その価値は、一労働力の平均価値に、雇った労働力の数を掛けたものに等しい。であるから、与えられた労働力の価値に基づき、可変資本の大きさは、同時に雇った労働者の数によって、直接的に変わる。もし、一労働力の日価値が = 3 シリングであるならば、日100労働力を搾取するためには、300シリングの資本が前貸しされねばならない。日n労働力を搾取するためには、3シリングのn倍の資本が前貸しされねばならない。(訳者挿入 云うまでもないことではあるが、前段で示されるように、剰余価値率=100% として計算される。) 〉(インターネットから)


●第4パラグラフ

《初版》

 〈1ターレルの可変資本すなわち1個の労働力の日価値が、毎日1ターレルの剰余価値を生産すれば、100ターレ/ルの可変資本は毎日100ターレルの剰余価値を生産するし、nターレルの可変資本は毎日 1ターレル×n の剰余価値を生産する。だから、生産される剰余価値の量は、個々の労働者の労働日が引き渡す剰余価値に使用労働者の数を掛けたものに等しい。ところで、さらに、個々の労働者が生産する剰余価値の量は、労働力の価値が与えられていれば、剰余価値率によって規定されるのであるから、同じ前提のもとでは、次のような結論が出てくる。それは、与えられたある可変資本が生産する剰余価値の量は前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しい、あるいは、同時に搾取される労働力の数と1個1個の労働力の搾取度との複比によって規定される、という結論である。〉(江夏訳342-343頁)

《フランス語版》  フランス語版には全集版にはない原注(1)があるので、本文の次に紹介しておく。

 〈同様に、1労働力の価格である1エキュが1エキュの日々の剰余価値を生産すれば、100エキュの可変資本は100エキュの剰余価値を生産し、nエキュの資本は 1エキュ×n の剰余価値を生産するであろう。したがって、可変資本が生産する剰余価値量は、可変資本から支払いを受ける労働者の数に個々の労働者が1日にもたらす剰余価値量を乗/じたもの、によって規定される。そして、個々の労働力の価値が知られていれば、剰余価値量は剰余価値率、換言すれば労働者の必要労働にたいする剰余労働の比率、に依存している(1)。したがって、次のよう法則が得られる。可変資本によって生産される剰余価値の量は、この前貸資本の価値に剰余価値率を乗じたものに等しく、あるいは、1労働力の価値にその搾取度を乗じ、さらに、同時に使用される労働力の数を乗じたもの、に等しい。

  (1) 本文では、1平均労働力の価値が一定であるばかりでなく、「資本家に使われているすべての労働者が平均労働力にほかならないことが、依然として想定されている。生産される剰余価値が搾取される労働者の数に比例して増加せず、そのさい労働力の価値が一定ではない、という例外的なばあいもある。〉(江夏・上杉訳313-314頁)

《イギリス語版》

  〈(4) 同様に、もし、3シリングの可変資本、一労働力の日価値が、日3シリングの剰余価値を生産するとしたら、300シリングの可変資本は、日300シリングの剰余価値を生産する。そして、3シリングのn倍のそれは、日3シリング×n なる剰余価値を生産する。従って、生産される日剰余価値の量は、一労働者が供給する一労働日の剰余価値に、雇われた労働者の数を乗じた量と等しいものになる。しかも、さらに付け加えるならば、一労働者が生産する剰余価値の量は、労働力の価値が与えられたものならば、剰余価値率によって決まる。この法則は、次のように云える。剰余価値量は、前貸しされた可変資本の量に、剰余価値率を乗じた量となる。別の言葉で云えば、同一の資本家によって同時に搾取される労働力の数と、個々の労働力の搾取される率と、一労働力の価値、の各項目の複乗算によって求められる量となる。〉(インターネットから)


●第5パラグラフ

《初版》 初版には第5パラグラフに該当するものはない。

《フランス語版》

 〈したがって、剰余価値の量をP、個々の労働者によって日々生産される剰余価値をp、1労働者にたいする支払いのために前貸しされる可変資本をv、可変資本の総価値をV、1平均労働力の価値をf、その搾取度を t'(剰余労働)/t(必要労働)、使用される労働者の数をn、と名づければ、次のような式が得られる。

     =p/v×V
  P {
     =f×t'/t×n

  さて、ある積の諸因数の数値が同時に逆比例して変化すれば、この積の数値は変わらない。〉(江夏・上杉訳314頁)

《イギリス語版》  二つのパラグラフに分けられている。

  〈(5) 剰余価値の量を S 、個々の労働者によって日平均として供給される剰余価値を s 、1個人の労働力の購入に前貸しされた日可変資本を v 、可変資本の総計を V 、平均労働力の価値を P 、その搾取率を、(a'/a) (剰余労働 / 必要労働) 、そして雇われた労働者数を n としよう。我々は次の式を得る。

S = (s/v) × V

S = P × (a'/a) × n

  (6) 以下のことは、常に想定されている。労働力の平均価値だけではなく、資本家によって雇われる労働者も、平均的な労働者なのである。時に、搾取される労働者数に比例して生産される剰余価値が増加しないという例外的ケースもあるが、この場合では、労働力の価値が一定値に留まってはいない。( 云わずもがなではあるが、訳者注: 労働力の価値が上昇する。)〉(インターネットから)


●第6パラグラフ

《初版》

 〈だから、一定量の剰余価値の生産では、一方の要因の減少は他方の要因の増加でもって補填できるわけである。可変資本が減少し、同時に同じ割合で剰余価値率が高くなれば、生産される剰余価値の量は不変である。資本家は、前記の前提のもとでは、毎日100人の労働者を搾取するためには100ターレルを前貸ししなければならず、しかも剰余価値率が50%であるとすれば、この100ターレルの資本は、50ターレルの剰余価値、すなわち 100×3労働時間 の剰余価値を産む。剰余価値率が2倍になれば、すなわち、労働日が6時間から9時間に延長されるのではなく、6時間から12時間に延長されれば、50ターレルという半減された可変資本も、やはり50ターレルの剰余価値、すなわち 50×6労働時間 の剰余価値を産む。だから、可変資本の減少は、労働力の搾取度を右の減少に比例して引き上げれば補填できるし、または、就業労働者の数の減少は、労働日を右の減少に比例して延長すれば補填できるわけである。したがって、ある程度の限界内では、資本が搾り出しうる労働の供給は、労働者の供給に依存していない(202)。逆に、剰余価値率が減少しても、この減少に比例して可変資本の量または就業労働者の数が増せば、生産される剰余価値の量は変わらない。〉(江夏訳343頁)

《フランス語版》 フランス語版では、このパラグラフは5つのパラグラフに分けられてより詳しい説明になっている。ここでは五つのパラグラフをすべて紹介する。

 〈したがって、一定量の剰余価値の生産では、その諸因数中のある一因数の減少が他の因数の増大によって相殺されることがある。
  こんなわけで、剰余価値率の減少は、可変資本または使用される労働者の数がこれに比例して増大すれば、生産される剰余価値量に影響を及ぼすものではない。
  100人の労働者を100%の率で搾取する100エキュの可変資本は、100エキュの剰余価値を生産する。剰余/価値率を半減しても同時に可変資本を倍加すれば、剰余価値量は相変わらず同じである。
  これとは逆に、可変資本は減少するがそれに反比例して剰余価値率が増大すれば、剰余価値量は相変わらず同じである。資本家が100人の労働者に日々100エキュを支払い、これらの労働者の必要労働時間が6時間、剰余労働時間が3時間に達する、と仮定せよ。100エキュの前貸資本は50%の率で自己増殖して、50エキュあるいは 100×3労働時間=300労働時間 の剰余価値を生産する。さて今度は資本家が自分の前貸しを100エキュから50エキュに半減しても、すなわち、もはや50人の労働者しか雇い入れなくても、それと同時に剰余価値率を2倍にすることに、あるいは結局同じことになるが、剰余労働を3時間から6時間に延長することに成功すれば、彼はやはり同じ剰余価値量を獲得するであろう。50エキュ×100/100エキュ=100エキュ×50/100=50エキュ であるからだ。労働時間で計算すれば、50労働力×6労働時間=100労働力×3時間=300労働時間 が得られるのである。
  したがって、可変資本の減少が、これに比例する剰余価値率の引き上げによって相殺されることもあれば、あるいは、使用される労働者の減少が、これに比例する労働日の延長によって相殺されることもある。こうして、資本によって搾取可能な労働量は、ある程度は、労働者の数から独立したものになる(2)。〉(江夏・上杉訳314-315頁)

《イギリス語版》

  〈(7) であるゆえ、剰余価値の一定量の生産においては、一要因の減少は他の増加で補完されるであろう。もし、可変資本が減少しても、同時に、剰余価値率が同じ比率で上昇すれば、剰余価値量は、変化なく留まる。もし、我々の前段の仮定で見るとして、資本家が、日100人の労働者を搾取するために、300シリングを前貸しせねばならぬとしたら、剰余価値率が50%として、この可変資本300シリングは、剰余価値150シリング、または、100人×3 労働時間 の剰余価値を産む。もし仮に、剰余価値率が2倍、(訳者注: 100%) または、労働日の超過が6時間から9時間に代わって6時間から12時間となり、 同時に可変資本が半分に減らされた つまり150シリングになったとすれば、剰余価値は、同様にして150シリング、または50人×6労働時間の剰余価値を産む。可変資本の減少は、このように、労働力の搾取率の比例的上昇によって補完される。または、労働日の拡大に相当する雇用労働者数の減少によって補完される。ある一定の限界はあるものの、かくして、資本によって搾取される労働の供給は、労働者の供給からは独立している。*1〉(インターネットから)


●原注202

《61-63草稿》

  〈労働の価値または労働時間の価格というこの表現では、価値概念は完全に消し去られているだけでなく、それと直接に/矛盾するものに転倒されている。標準的な労働日の一部分(つまり労働能力の再生産に必要な部分)しか体現されていない価値が、労働日全体の価値として現われる。このようにして、12時間労働の価値は、12時間労働で生産される商品の価値が6シリングに等しいにもかかわらず、そうなるのももともと12時間労働が6リングを表わすからであるにもかかわらず、3シリングに等しいのである。したがって、これは、たとえば代数学における√-2と同じような不合理な表現なのである。とはいえ、それは、生産過程の必然的な結果として生ずる表現なのである、つまり労働能力の価値の必然的な現象形態なのである。その不合理な表現は、すでに労賃という言葉自体のなかにある。そこでは労働の賃金イコール労働の価格イコール労働の価値なのである。しかし、労働者の意識のなかでも資本家の意識のなかでも同じように生きているこの没概念的な形態は、実生活において直接的に現われる形態なのであるから、それゆえこの形態こそ、俗流経済学が固執するところの形態なのである。彼らは、他のすべての諸科学から区別される経済学の独自性は次の点にあるというのである。すなわち他の諸科学が、日常の諸現象の背後にか〈れている、そして日常の外観(たとえば、地球をめぐる太陽の運動のような)とたいていは矛盾する形態にある本質を暴露しようとするのにたいして、経済学の場合には、日常の諸現象を同じく日常的な諸表象のうちへたんに翻訳することをもって科学の真の事業だと言明してはばからない、と。労働能力の価値が、労働の価値として、または貨幣で表現された労働の価格としてその日常的表現(その通俗的な姿)をえて、ブルジョア社会の表面に現われるさいの、この転倒した派生的形態にあっては、支払労働と不払労働のあいだの区別は完全に消し去られている。なぜといって、労賃とはまさに労働日の支払いのことだし、それは、労働日との等価、--実際のところ--労働日の生産物との等価なのだからである。それだから、生産物に含まれている剰余価値は、実際、一つの目にみえない、神秘的な性質から説明するほかはなく、不変資本から導きだすほかはないのである。この〔労働の価格という〕表現こそが、賃労働と賦役労働のあいだの区別を成すものであり、労働者自身の思い違いを生んでいるのである。〉(草稿集⑨350-351頁)

《初版》

 〈(202) この基本的法則を、俗流経済学者の諸氏は知っていないように思える。彼らは、さかさにされたアルキメデスたちは、需婆と供給とで労働の市場価格がきまるということのうちに見いだしたものは、世界を土台から変えるための支点ではなく、世界を静止させるための支点である、と思っている。〉(江夏訳344頁)

《資本論』第3部補遺》

 〈1 価値法則と利潤率
  この二つの要因のあいだの外観上の矛盾の解決はマルクスの原文が公表されてからもそれ以前と同様にさまざまな論議をかもすであろうということは、予想されることだった。ずいぶん多くの人々が完全な奇跡を期待していた。そして、いま彼らは失望落胆している。というのは、自分たちが予期していた手品のかわりに、簡単で合理的な、散文的で平凡な、対立の調停が目の前に現われたからである。いちばん喜んで失望しているのは、いうまでもなく例のローリア閣下である。彼はついにあのアルキメデスの挺子の支点を見つけたのだ。この支点からやれば彼のような一寸法師でもマルクスの堅固な巨大な建築を空中に持ち上げて粉砕することができるというのである。彼は怒って叫ぶ。こんなものが解決だというのか? こんなものはただのごまかしではないか!〉(全集第25b巻1136頁)

《フランス語版》

 〈(2) この基本法則は俗流経済学者諸君には知られていないようであって、これら逆さにされた新アルキメデスたちは、需要供給による労働の市場価格の規定のうちに、世界を隆起させるのではなく世界を静止状態に保っておくための支点を見出した、と信じている。〉(江夏・上杉訳315頁)

《イギリス語版》 訳者の余談がながながとついているが、省略する。

  〈本文注: 1 *この初歩的な法則は、アルキメデスが逆さまになったような俗流経済学者には未知のようなもので、供給と需要で労働の市場価値を決める場合の梃子の支点を見出したと思っているらしい。その梃子の支点が、世界を動かすようなことはなく、その動きを止めるものと思っているらしい。(訳者注: この梃子の支点、剰余価値(率と量)こそ、資本主義社会を拡大し、資本主義世界を変革して行くものなのであるが、その認識を欠いている。〉(インターネットから)


●第7パラグラフ

《初版》

 〈それにもかかわらず、労働者の数または可変資本の大きさを、剰余価値率の引き上げまたは労働日の延長でもって補填するばあいには、飛び越えられない絶対的な限界がある。労働力の価値がどれだけであろうと、したがって、労働者の維持に必要な労働時間が2時間であろうと10時間であろうと、1人の労働者が毎日生産することのできる総価値は、いつでも、24労働時間の対象化である価値よりも小さいし、対象化されている24労働時間の貨幣表現が12シリングまたは4ターレルであれば、この金額よりも小さい。われわれの前記の前提によると、労働力そのものを再生産するためには、または、労働力の買い入れに前貸しされた資本価値を補填するためには、毎日6労働時間を必要とするが、この前提のもとでは、100%の剰余価値率すなわち12時間労働日で、毎日50O人の労働者を使用している50Oターレルの可変資本は、毎日、50Oターレルの剰余価値または 6×500労働時間 の剰余価値を生産することになる。200%の剰余価値率すなわち18労働時間で、毎日100人の労働者を使用している100ターレルの資本は、200ターレルの剰余価値量または 18×100労働時間〔マイスナー第2版およびフランス語版では「12×100労働時間」に訂正〕の剰余価値量しか生産しない。そしてまた、この資本の総価値生産物、すなわち、前貸資本の等価・プラス・剰余価値は、けっして、毎日4OOターレルまたは 24×100労働時間 という額に達することができない。平均的な労働日の絶対的な限度は、本来いつでも24時間より短いのであって、可変資本を剰余価値率の引き上げでもって補填することの絶対的な限度、または、搾取される労働者の数を労働力の搾取度の引き上げでもって補填することの絶対的な限度、を成しているのである。この明白な法則は、後述する資本の傾向--この傾向は、資本が使用/する労働者の数、または労働力に転換される資本の可変成分を、最小限度に縮小するものであって、できるだけ大きな剰余価値量を生産するという資本のもう一つの傾向とは矛盾している--から生ずる多くの現象を説明するためには、重要である。逆に、使用される労働力の量または可変資本の量が増大しても、剰余価値率に比べて減少の速度がおそければ、〔マイスナー第2版では「剰余価値率の減少に比例していなければ」〕生産される剰余価値の量は低下する。〉(江夏訳344-345頁)

《資本論》

 〈資本主義体制の一般的基礎がひとたび与えられれば、蓄積の進行中には、社会的労働の生産性の発展が蓄積の最/も強力な槓杆となる点が必ず現われる。……労働の社会的生産度は、一人の労働者が与えられた時間に労働力の同じ緊張度で生産物に転化させる生産手段の相対的な量的規模に表わされる。彼が機能するために用いる生産手段の量は、彼の労働の生産性の増大につれて増大する。……だから、労働の生産性の増加は、その労働量によって動かされる生産手段量に比べての労働量の減少に、または労働過程の客体的諸要因に比べてのその主体的要因の大きさの減少に、現われるのである。〉(全集第23b巻811-812頁)

《フランス語版》  フランス語版ではこのパラグラフは三つのパラグラフに分けられている。三つ一緒に紹介しておく。

 〈しかし、この種の相殺は一つの乗り越えがたい限界に出会う。24時間という自然日は平均労働日よりも必ず長い。だから、平均的な労働者が1時間に1/6エキュの価値を生産しても、平均労働日はけっして4エキュの日価値をもたらすことができない。4エキュの価値を生産するためには、平均労働日は24時間を必要とするからである。剰余価値については、その限界はなおいっそう狭い。もし日々の賃金を補填するために必要な労働日部分が6時間に達するならば、自然日のうち残るのは18時間だけであって、生物学の法剥は、この18時間のうちの一部を労働力の休息のために要/求する。労働日を18時間という最高限度に延長して、この休息の最低限度として6時間を想定すれば、剰余労働は12時間にしかならず、したがって、2エキュの価値しか生産しないであろう。
  500人の労働者を100% の剰余価値率で、すなわち6時間が剰余労働に属する12時間の労働をもって、使用する500エキュの可変資本は、日々500エキュあるいは 6×500労働時間 の剰余価値を生産する。日々100人の労働者を200%の剰余価値率で、すなわち18時間の労働日をもって、使用する100エキュの可変資本は、200エキュあるいは 12×100労働時間 の剰余価値しか生産しない。その生産物は総価値で、1日平均400エキュの額あるいは 24×100労働時間 にけっして達することができない。したがって、可変資本の減少が剰余価値率の引き上げによって、または結局同じことになるが、使用される労働者の数の削減が搾取度の上昇によって、相殺できるのは、労働日の、したがって、労働日に含まれる剰余労働の、生理的な限界内にかぎられる。
  全く明白なこの法則は、複雑な現象の理解にとって重要である。われわれはすでに、資本が最大限可能な剰余価値を生産しようと努力することを知っているし、後には、資本がこれと同時に、事業の規模に比較してその可変部分あるいはそれが搾取する労働者の数を最低限に削減しようと努めることを見るであろう。これらの傾向は、剰余価値量を規定する諸因数中のある一因数の減少がもはや他の因数の増大によって相殺されえなくなるやいなや、あい矛盾したものになる。〉(江夏・上杉訳315-316頁)

《イギリス語版》  やはり訳者余談がながながと続くが省略する。

  〈 (8) 雇用される労働者数の減少に対する補填、または前貸しされた可変資本の量に対する補填は、剰余価値率の上昇によって補填されるものではあるが、それは労働日の超過時間によるものであって、従って、それは、超えることが出来ない限界を持っている。労働力の価値がどの様なものであれ、労働者の生命維持のための必要労働時間が2時間であれ10時間であれ、労働者が生産し得る全価値は、日の始まりから日の終りまで、常に、24時間の労働によって体現される価値よりは少ない。もし12シリングが24時間の労働が実現するものの貨幣的表現であるとしたら、12シリングよりは少ない。我々の前の前提によれば、日6時間の労働時間が労働力自体の再生産に必要である、または、その労働力の購入に前貸しされた資本の価値を置き換えるものである。1,500シリングの可変資本が、500人の労働者を雇用し、剰余価値率100% 12時間労働日であれば、日剰余価値1,500シリング または6×500労働時間を生産する。300シリングの資本が日100人の労働者を雇用し、剰余価値率200% または18時間労働日であれば、単に、600シリングの剰余価値量を生産する、または、12×100労働時間のそれである。そうして、だが、全生産物の価値、前貸しされた可変資本の価値+剰余価値であるが、それは、日の始めから日の終りまでの、計1,200シリング または、24×100労働時間に届くことはあり得ない。( 剰余価値率がどうなるかを、計算すればよい。訳者のお節介ではあるが。) 平均労働日の絶対的限界- これは自然そのものにより、24時間より常に少ない- は、可変資本の減額に対してより高い剰余価値率で補填する場合に、絶対的な限界を設ける。または、搾取される労働者の減員に対してより高い搾取率で補填する場合に、絶対的な限界を設ける。(訳者注: 一番目の法則) この誰でも分かる法則は、資本の、出来得る限り雇用する労働者数をこのように少なくする性向(今後とも作用し続ける) から生じる多くの現象を解く上で非常に重要である。また、別の性向として、出来得る限りの大きな剰余価値量を求めることから、前者とは逆に、可変資本部分を労働力に変換することもある。これまでのこととは全く違って、(訳者注: 以下が二番目の法則) 雇用された労働者数、または可変資本量が増大したとしても、剰余価値率の同比の下落はないし、生産される剰余価値量の下落もありはしない。〉(インターネットから)


●第8パラグラフ

《初版》

 〈第三の法則は、生産される剰余価値の量が剰余価値率と前貸可変資本の量という二つの要因によって規定される、ということから生ずる。剰余価値率あるいは労働力の搾取度、および、労働力の価値あるいは必要労働時間の長さが、与えられていれば、可変資本が大きければ大きいほど生産される価値および剰余価値の量がいっそう大きい、ということは自明である。労働日の限界が与えられ、労働日の必要成分の限界も与えられていれば、1人の単独資本家が生産する価値および剰余価値の量は、もっぱら、この資本家が動かす労働量によってきまる、ということは明白である。ところが、この労働量は、与えられた仮定のもとでは、この資本家が搾取する労働力の量あるいは労働者の数によってきまり、この数のほうは、この資本家が前貸しする可変資本の大きさによってきめられる。だから剰余価値率が与えられ労働力の価値が与えられていれば生産される剰余価値の量は前貸可変資本の大きさに正比例する。ところが、いまや周知のように、資本家は自分の資本を二つの部分に分ける。彼は一方の部分を生産手段に支出する。これは彼の資本の不変部分である。彼は他方の部分を生きている労働力に転換する。この部分は彼の可変資本を成している。同じ生産様式の基礎上でも、生産部面がちがえば、不変成分と可変部分とへの資本の分割がちがってくる。同じ生産部面のなかでも、この割合は、生産過程の技術的基礎や社会的結合が変わるにつれて変わる。しかし、ある与えられた資本が不変成分と可変成分とにどう分かれていようとも、すなわち、前者にたいする後者の比率が1:2であろうと1:10であろうと1:xであろうと、いま定められた法則は、そのことで影響を受けることはない。とい/うのは、さきの分析によると、不変資本の価値は、なるほど生産物価値のうちに再現しても、新しく形成される価値生産物のなかにははいり込まないからである。1000人の紡績工を使うためには、もちろん、100人の紡績工を使うために必要とするよりも多くの原料や紡錘等々を必要とする。しかし、これらの追加生産手段の価値は、増加することも減少することも不変なこともあろうし、大きいことも小さいこともあるだろうが、それだからといって、これらの生産手段を動かす労働力の価値増殖過程にはなんら影響を及ぼさない。だから、ここで確認された法則は、次のような一般的形態をとる。相異なる諸資本によって生産される価値および剰余価値の量は労働力の価値が与えられていて労働力の搾取度が等しい大いさのばあいにはこれらの資本の可変成分の大きさにすなわちこれらの資本のうち生きている労働力に転換される成分の大きさに正比例する。〉(江夏訳345-346頁)

《フランス語版》  フランス語版ではこのパラグラフは二つのパラグラフに分けられている。二つ一緒に紹介しておく。

 〈価値とは実現された労働にほかならないから、資本家の生産させる価値量がもっぱら彼の動かす労働量に依存することは、自明である。彼は同数の労働者を用いて、労働者の労働日がより長くまたはより短く延長されるのに応じて、労働量をより多くまたはより少なく動かすことができる。ところが、労働力の価値と剰余価値率とが与えられていれば、換言すれば、労働日の限界と、労働日の必要労働と剰余労働への分割とが与えられていれば、資本家の実現する剰余価値を含んでいる価値の総量は、もっぱら、彼が働かせる労働者の数によって規定され、労働者の数そのものは、彼が前/貸しする可変資本の量に依存している。
  そのばあい、生産される剰余価値の量は前貸しされる可変資本の量に正比例する。ところで、産業部門がちがえば、総資本が可変資本と不変資本とに分割される割合は非常にちがう。同種の事業では、この分割は技術的条件と労働の社会的結合とに応じて変化する。ところが、周知のように、不変資本の価値は、生産物のうちに再現するのに対し、生産手段に付加される価値は、可変資本、すなわち前貸資本のうち労働力に変わる部分からのみ生ずる。ある与えられた資本が不変部分と可変都分とにどのように分解しても、前者と後者の比が 2:1,10:1, 等々であっても、すなわち、使用される労働力の価値に比べた生産手段の価値が増大しても減少しても不変のままであっても、それが大きくても小さくても、どうでもよいのであって、それは生産される価値量にはやはり少しも影響を及ぼさない。このばあい、前貸資本が不変部分と可変部分とに分割される割合がどうありうるにしても、上述の法則を種々の産業部門に適用すれば、次の法則に到達する。平均労働力の価値とその平均搾取度が種々の産業で同等であると仮定すれば生産される剰余価値の量は使用される資本の可変部分の大きさに正比例するすなわち労働力に変えられる資本都分に正比例するのである。〉(江夏・上杉訳316-317頁)

《イギリス語版》

  〈(9) 三番目となる法則 (訳者注: 一番目、二番目の法則に続くものとして) が、二つの要素、剰余価値率と前貸しされた資本の量で、生産される剰余価値の大きさが確定されることから導かれる。剰余価値率、または労働力の搾取度 と、労働力の価値、または必要労働時間 が、与えられるならば、可変資本が大きくなればなるほど、生産された価値の量も剰余価値の量も大きくなる、のは自明であろう。もし、労働日の制限が与えられるならば、また、必要労働部分の制限が与えられるならば、一資本家が生産する剰余価値量は、彼が設定した労働者の数に明確に、排他的に依存する。つまり、前に述べた条件の下では、労働力の量に依存し、または、彼が搾取する労働者の数に依存する。そして、その数そのものは、前貸しされた可変資本の量によって決まるのである。従って、与えられた剰余価値率と、与えられた労働力の価値によって、生産される剰余価値の大きさは、直接的に、前貸しされた可変資本の大きさによって変化する。さて、ここで、資本家は彼の資本を、二つの部分に分割することを思い出して欲しい。その一部分を彼は、生産手段に配置する。これは資本の不変部分である。もう一つの部分を彼は、生きた労働力に配置する。この部分は、彼の可変資本を形成する。社会的な生産様式が同じ基盤の上にあっても、資本の不変部分と可変部分との分割線は、生産部門が違えば、異なった引かれ方をする。同じ生産部門であっても、同様に異なり、技術的な条件や生産過程の社会的な構成の変化に応じてこの関係は変化する。しかし、与えられた資本が、いかなる比率で不変と可変に分割されたとしても、そして後者、可変部分の不変部分に対する比率が、なんであれ、1:2 または 1:10 または 1:x,であれ、ここに置かれた法則は何の影響も受けない。なぜなら、我々の以前の分析によれば、不変資本の価値は、生産物の価値に再現されるが、新たに生産された価値、新たに創造された価値である生産物には入り込まないからである。1000任の紡績工を雇用するためには、100人を雇用する以上の原材料、紡錘等々が勿論のこと必要となる。とはいえ、これらの追加的な労働手段の価値が上昇しようと、低下しようと、変化なく保持されようと、それが大きかろうと小さかろうと、そこに投入された労働力による剰余価値の生産過程には、何の影響も生じない。従って、前述の法則は、かくて、次のような形式をとる。異なる資本により生産される価値の大きさと剰余価値の大きさは、-- 与えられた労働力の価値とその搾取率が同じならば、-- 直接的に、これらの資本の可変部分を構成する大きさにより変化する。すなわち、生きた労働力に変換されたそれらの構成部分に応じて変化する。〉(インターネットから)

 (【付属資料】(2)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(6)

2024-03-14 15:13:14 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(6)


【付属資料】(2)


●第9パラグラフ

《61-63草稿》

  〈競争がひき起こすものは、利潤の均等化--つまり諸商品の価値平均価格への還元である。個々の資本家は、マルサス氏の言うように、自分の資本のあらゆる部分について均等な利潤を期待する--これは言い換えれば、個々の資本家が資本のあらゆる部分を(その有機的な機能を無視して)利潤の独立な源泉とみなすということ--資本のあらゆる部分が彼にはそのように現われるということ--にほかならない、それと同じように、それぞれの資本家は、資本家の階級にたいして、自分の資本を、あらゆる他の同じ大きさの資本が個々の資本家にもたらすのと同じ大きさの利潤の源泉とみなすのである。すなわち、ある特殊な生産部面のそれぞれの資本は、総生産前貸しされている総資本の部分とみなされるにすぎないのであって、それぞれの資本は、--その大きさ、その持ち分に比例して--それが総資本の一可除部分であるのに比例して、総剰余価値にたいする--不払労働または不払労働生産物の全体にたいする--その分けまえを要求するのである。こうした外観は資本家にたいして--資本家には一般にすべてのことが競争のなかで転倒して見えるのである--次のことを保証する、またそれは資本家にたいしてだけでなく、若干の、資本家に最も傾倒しているパリサイの徒や学者たちにたい/しでも次のことを保証する。すなわち、資本は労働とは独立な所得源泉だということである。というのは、実際に、それぞれの特殊な生産部面における資本の利潤は、けっして、ただ、自分で「生産する」ところの不払労働の量によってのみ規定されているのではなく、これは総利得の壷(ツボ)のなかに引き寄せられるのであって、そこから個々の資本家は総資本にたいしてもつ自分たもの持ち分に比例して取り分を引き出すのだからである。〉(草稿集⑥87-88頁)
 〈{先に見たように、A・スミスは、はじめに価値を、またこの価値の諸成分としての利潤や賃金などの関係を、正しく把握しながら、次に逆の方向に進んで、賃金と利潤と地代との価格を前提し、それらを独立に規定して、それらのものから商品の価格を構成しようとしている。こうして、この逆転の意味するところは、はじめに彼は事柄をその内的関連に従って把握し、次に、それが競争のなかで現われるとおりの転倒した形態で把握している、ということである。この両方の把握が、彼においては、素朴に交錯しており、その矛盾に彼は気づいていない。これに反して、リ力ードウは、法則をそのものとして把握するために、意識的に競争の形態を、競争の外観を、捨象している。彼が非難されるべきことは、一方では、彼の抽象がまだ十分であるにはほど遠く完全に十分ではない、ということである。したがって、たとえば彼は、商品の価値を理解する場合に、すでに早くもあらゆる種類の具体的な諸関係への考慮によって決定的な影響を受けることになっている。他方では、彼が非難されるべきことは、彼が現象形態を、直接にただちに、一般的な諸法則の証明または説明と解して、それをけっして展開していない、ということである。前者に関して言えば、彼の抽象はあまりにも不完全であり、後者に関して言えば、それは、それ自体まちがっている形式的な抽象である。}〉(同145頁)
 〈リ力ードウの場合に一面性が出てくるのは、次のようなことからである。すなわち、彼は一般にいろいろな経済的/諸範疇または諸関係が価値理論と矛盾しないことを証明しようとするのであって、逆にそれらを、それらの外観的な諸矛盾とともに、この基礎〔価値理論〕から展開することはやっていないということ、すなわち、この基礎そのものの展開を明示することはやっていない、ということである。〉(同212-213頁)
  〈経済学は、A・スミスにおいてある一定の全体にまで発展し、それが包括する領域はある程度まで確定された。だからこそ、セーは経済学を一冊の教科書のなかに浅薄に体系的にとりまとめることができたのである。スミスとリ力ードウとのあいだには、なお、生産的および不生産的労働、貨幣制度、人口論、土地所有および租税に関する細部の研究が現われるにすぎない。スミス自身は、非常に素朴に、絶えまない矛盾のなかで動揺している。一面では、彼は、経済学的諸範疇の内的関連を、すなわちブルジョア的経済体制の隠れた構造を、追求する。他面では、彼は、これとならんで、競争の諸現象のうちに外観的に与えられているとおりの関連を、したがってまた、実際にブルジョア的生産の過程にとらわれてそれに利害関係をもつ人とまったく同様な非科学的な観察者にたいして現われるとおりの関連を、併置している。この二つの把握方法--そのうちの一方は、ブルジョア的体制の内的関連のうちに、いわばその生理学のうちに、突入するものであり、他方はただ、生活過程のうちに外面的に現われるものを、それが現われ現象するとおりに、記述し、分類し、物語り、それに図式的な概念規定を与えるにすぎないものである--が、スミ/スの場合には平気で併存しているだけでなく、入り乱れ絶えず矛盾し合っているのである。彼の場合には、このことは正当であった(貨幣に関する個々の細部の研究を除いて)。なぜならば、彼の仕事は事実上二重のものだったからである。一方では、ブルジョア社会の内的生理学に突入しようと試みているが、他方では、一部にはまずブルジョア社会の外的に現われる生活形態を描き、その外的に現われる関連を叙述し、また一部には、さらにこの現象にたいして専門用語と適切な知的概念を見つけだし、したがって一部にはこの現象をまず言葉と思考過程のうちに再生産しようと試みている。一方の仕事も他方の仕事も、同じように彼の関心をひく。そして、両方がそれぞれ独立に行なわれるので、ここにはまったく矛盾する考え方が出てくる。その一方は、内的関連を多かれ少なかれ正しく言い表わすものであり、他方は、同じ正当性をもって、そしてなんらの内的関係もなしに--他方の把握方法とまったく関連なしに--、現象として現われる関連を言い表わしている。ところで、スミスの後継者たちは、彼らがスミスに反対してもっと古いすでに克服された把握方法の反動を示さないかぎりでは、自分たちの細部の研究や考察において支障なく進行することができるし、また、つねにA・スミスを自分たちの土台とみなすことができる。それは、彼らがスミスの著書の深遠な部分に結びつくにしろ、通俗的な部分に結びつくにしろ、または、つねにほとんどの場合がそうであるが、両方をごちゃまぜにするにしろ、同じことである。しかし、最後にリ力ードウがそのあいだに踏み込んで、この科学にむかつて、止まれ! と号令する。ブルジョア的体制の生理学の--その内的な有機的な関連および生活過程を把握することの--基礎、出発点は、労働時間による価値の規定である。そこからリ力ードウは出発し、いまやこの科学にたいして、そのこれまでの慣行を放棄し、次のことについて答弁するように強要する。すなわち、この科学によって展開され叙述されたその他の諸範疇--生産関係と交易関係--や諸形態が、この基礎に、出発点に、どこまで一致するかまたは矛盾するかということ、すなわち単に過程の諸現象形態を再現し再生産するにすぎない科学(したがってまたこれらの現象そのもの)が、ブルジョア社会の内的関連つまり真実の生理学の土台またはそれの出発点をなすところの基礎に、そもそもどこまで適合するかということ、すなわちこの体制の外観上の運動と真実の運/動とのあいだの矛盾はそもそもどんな事情にあるのかということについてである。したがって、これこそは、この科学にたいするリ力ードウの偉大な歴史的意義なのであり、そのためにこそ、愚かなセーは、リ力ードウに自分の足場を奪われて、次のような文句で自分のうっぷんを晴らしたのである。「すなわち、それ(この科学)を拡張するという口実で、それを無に押しやってしまった」と。この科学的功績と緊密に結びついているのは、リ力ードウが諸階級の経済的対立を--その内的関連が示すとおりに--暴露し、言い表わしているということであり、したがってまた、歴史上の闘争と発展過程との根源が、経済学のなかで理解され発見されているということである。したがって、ケアリは、のちにその箇所を見よ、リ力ードウを共産主義の父として告発するのである。「リ力ードウ氏の体系は不和の体系である。……その全体が、階級間と諸国民間との敵意を生みだす傾向をもっている。……彼の本は、土地均分論、戦争および略奪の手段によって権力を得ょうとするデマゴーグのほんとうの手引き書である。」(=・〔C・〕ケアリ『過去、現在および未来』、フィラデルフィア、1848年、74、75ページ。)〉(同233-235頁)
  〈競争ではすべてのことがまちがって現われ、転倒しているので、個々の資本家は、1、自分は商品の価格の引下げによって商品1個当たりの自分の利潤を減少させるが、しかし量の増加によってより大きな利潤をあげるのだと思いこむ。(この場合にも、やはり、利潤率がいっそう低下する場合でも充用資本の増大から利潤量の増大が生ずることが思い違いされる) 2、自分は商品1個当たりの価格を確定してから掛け算によって生産物の総価値を決めるのだと思いこむ。ところが、本来の手続きは割り算なのであって、掛け算は、ただ、第二次的に、この割り算を前提したうえで、正しいだけなのである。俗流経済学者がやっているのは、実際には、競争にとらわれている資本家たちの奇妙な考えを外観上はもっと理論的な言葉に翻訳して、このような考えの正当性をでっちあげようと試みること以外のなにものでもないのである。〉(同377頁)
  〈質的には(量的には必ずしもそうでないとしても)価値としての表現であるにもかかわらず、価格は非合理的な表現にも、すなわち価値をもたない諸物象の貨幣表現にもなることができる。たとえば、誓言は価値をもつものでないにもかかわらず(経済学的に見ればここでは使用価値は問題にならない)、偽りの誓言が価格をもつことはありうる。というのは、貨幣は商品の交換価値の転化された形態にほかならず、交換価値として表示された交換価値にほかならないのではあるが、他面でそれは一定分量の商品(金、銀、あるいは金銀の代理物)なのであって、なにもかにもが、たとえば長子相続権と一皿の豆料理とが、互いに交換されうるのだからである。価格は、この点では、0/0などのよ/うな代数学における不合理な表現と同様の事情にある。〉(草稿集⑨397-3987頁)

《初版》

 〈この法則は、外観にもとづくあらゆる経験とは明らかに矛盾している。周知のように、充用総資本の百分比を計算してみて、相対的に多くの不変資本と少ない可変資本とを充用する綿紡績業者は、だからといって、相対的に多くの可変資本と少ない不変資本とを運転する製パン業者に比べて、手に入れる利益あるいは剰余価値が小さいわけではない。この外観上の矛盾を解決するためには、なお多くの中間項が必要なのであって、このことはちょうど、0/0が一つの実数を表わしうることを理解するためには、初等代数学の立場からは多くの中間項が必要であるのと同じである。古典派経済学は、この法則をけっして定式化しなかったにもかかわらず、この法則に本能的に執着しているが、その理由は、この法則が価値法則一般の必然的な帰結であるからである。古典派経済学は、むりやりな抽象にたよって、この法則を現象との諸矛盾から救い出そうとする。リカード学派がどのようにしてこのつまずきの石につまずいたかは、あとになって(203)わかるであろう。「ほんとうはなにも学びはしなかった」俗流経済学は、いつものようにここでも、現象の法則を無視して外観にしがみついている。この経済学は、スピノザとは反対に、「無知は充分な根拠にな/る」と信じている。〉(江夏訳346-347頁)

《フランス語版》

 〈この法則は、外観にもとづくすべての経験と明らかに矛盾している。誰でも知っているように、相対的に多くの不変資本とわずかな可変資本とを使用する紡績業者は、それだからといって、相対的に多くの可変資本とわずかな不変資本とを使用する製パン業者よりも小さい利得または剰余価値を獲得するわけではない。この外観上の矛盾の解決が多くの中間項を必要とすることは、代数において0/0が一つの実数を表わしうることを理解するためには多くの中間項が必要である、のと同様である。古典派経済学は、この法測をけっして定式化しなかったとはいえ、この法則が価値の本性そのものから生じているがゆえに、この法則に本能的に執着しているのである。どのようにしてリカード学派がこのつまずきの石につまずいたかは、後に見るであろう(3)。俗流経済学はどうかといえば、それはいたるところでそうであるよ/うにここでも、現象の外観を盾にとって現象の法則を否定する。スピノザとは反対に、「無知は充分な根拠になる」と信じているのである。〉(江夏・上杉訳317-318頁)

《イギリス語版》

  〈(10) この法則は、外観を見る限りでのあらゆる経験とは、明らかに矛盾している。誰もが知っている様に、綿紡績工場主は、自分が注ぎ込んでいる資本の全部について、多くの部分を不変部分に、わずかな部分を可変部分に用いていることを知っており、だからといって、可変部分に多くを、不変部分には殆ど注ぎ込んでいない製パン工場主に較べて、少ない利益、または少ない剰余価値を懐にしていると云う分けではない。この外観的矛盾の解答のためには、多くの中間項が依然として必要なのである。丁度、初等代数の地点から見れば、0 / 0 が実際の大きさを表していることを理解するためには、多くの中間項が必要なのと同じ様なものである。この法則を未だに把握していない古典経済学ではあるが、この点に本能的に固執する。なぜかと云えば、これが価値の一般法則としての必然的帰結だからである。古典経済学は、強引なる抽象化によって、この矛盾する現象の混乱から法則を解消しようとする。リカード派が、この躓きの石を乗り越えるためにどのように嘆いたか*2 は、後に、明らかにする。(本文注: 2 *より詳細については、第4冊 剰余価値学説史で示されるであろう。) 全くのところ、「実際には何も学ばない」俗流経済学は、この点で、法則が明瞭に成り立ち、その内容を説明しているにも係わらず、いつもの様に、至るところで、その反対側にある外観に固執する。スピノザとは逆に、彼等は「無知であることが、その充分な理由である。」と信じている。〉(インターネットから)


●原注203

《初版》

 〈(203) これについての詳細は「第4部」で。〉(江夏訳347頁)

《フランス語版》

 〈(3) 第4部で。〉(江夏・上杉訳318頁)

《イギリス語版》 本文に挿入されている。


●第10パラグラフ

《初版》

 〈ある社会の総資本が毎日動かす労働は、1個の単一労働日と見なすことができる。たとえば、労働者の数が100万で、労働者1人の平均労働日が10時間であれば、社会的労働日は1000万時間から成り立っている。この労働日の限界が肉体的に画されていようと社会的に画されていようと、それの長さが与えられていれば、剰余価値の量は、労働者数すなわち労働者人口の増加によってしかふえることができない。労働者人口の増加が、このばあいには、社会的総資本による剰余価値生産の数学的限界を成している。逆に、労働者人口の大きさが与えられていれば、この限界を形成するものは、労働日の可能な延長である(204)。次章で見るように、この法則は、これまでに扱われた剰余価値形態にだけあてはまる。〉(江夏訳347頁)

《フランス語版》

 〈一社会の総資本が日々平均して動かしている労働は、ただ一つの労働日と見なすことができる。たとえば、労働者の数が100万であって平均労働日が10時間であれば、社会的労働日は1000万時間から成る。この労働日の長さが与えられておれば、その限界が肉体的にきめられていようと社会的にきめられていようと、剰余価値の量は、労働者の数すなわち労働者人口の増加によってしか増加することができない。ここでは労働者人口の増加が、社会資本による剰余価値生産の数学的限界をなす。逆に、労働者人口の大きさが与えられておれば、この限界を形成するものは労働日の延長の可能性である(4)。この法則がこれまで取り扱われてきた剰余価値の形態についてのみ有効であることは、次章でわれわれの見るところであろう。〉(江夏・上杉訳318頁)

《イギリス語版》

  〈(11) 朝になると同時に、そして夜が終わるまでの間、社会の全資本によって注ぎ込まれる労働を、一労働日の集合体とみなしてみよう。もし、そこに労働者が100万人いて、一労働者の平均労働日が10時間であるとすれば、この社会的労働日は、1,000万時間を構成する。この労働日の長さが与えられているならば、それが物理的に決められていようと、社会的に決められていようと、剰余価値の大きさは、労働者の数 すなわち 労働人口の増加によってのみ増加され得る。ここでは、人口の増大が、全社会的資本による剰余価値の生産の数学的限界を形成する。これとは逆に、人口の大きさが与えられるものであるとしたら、この限界は、労働日の可能的長さ*3 によって形成される。〉(インターネットから)


●原注204

《61-63草稿》

 〈著書『諸国民の経済学に関する一論』、ロンドン1821年には2、3の非常にすぐれた独創的論点が含まれてる。〉(草稿集⑨478頁)
  〈絶対的剰余労働相対的剰余価値
  「労働、すなわち社会の経済的時間は、ある一定の部分であり、たとえば100万人の1日当り10時間、または1000万時間である。」(四七ページ。)
  「資本にはその増加の限界がある。この限界は、たとえ共同社会の生産諸力はまだ改善の余地があるとしても、どの一定の時期においても、使用される経済的時間の現実の長さによって、画されるであろう。社会は、労働量を拡大することによって、または労働をより効果的にすることによって、言い換えれば、人口、分業、機械、科学的知識を増加させることによって、〔生産諸力を〕増大させることができる。」(49ページ。)「もし資本が、活動中の労働によって与えられた等価物または価値しか受け取ることができないとすれば(したがって経済的時間すなわち労働日が与えられているとすれば)、もしこのことが資本の限界であり、そのときどきにおいて現存する社会状態ではそれを/乗り越えることは不可能であるとすれば、賃金に割り当てられるものが大きければ大きいほど、利潤はそれだけ小さくなる。このことは一般的原理であるが、個々の場合において生じるのではない。なぜなら、個々の場合における賃金の増加は、普通、特定の需要の結果であり、この需要は、他の諸商品およびそれらの利潤との関係で価値の増加をもたらすのがつねだからである。」(49ページ。){利潤--および剰余価値率でさえも--は、ある個別の部門では、一般的水準を超えて上昇することがありうる。とはいっても、それと同時に賃金も、この部門では一般的水準を超えて上昇するのであるが。しかし資本家が、商品にたいする需要が平均を超えるのと同じだけの賃金を支払うならば(利潤を規定する他の諸事情を別にすれば)、資本家の利潤は増えないであろう。一般に、個別の部門における一般的水準を超える賃金および利潤の騰落は、一般的関係とはなんの関係もない。}〉(草稿集⑨479-480頁)

《初版》

 〈(204) 「社会の経済的時間である労働は、ある与えられた部分であって、たとえば100万人の1日につき10時間、すなわち1000万時間になる。……資本には、増加の限界がある。この限界の到達点は、どの与えられた時期においても、使用される経済的時間の現実の長さであろう。」(『国民経済学にかんする一論、ロンドン、1821年』48、49ページ。)〉(江夏訳347頁)

《フランス語版》

 〈(4) 「社会の経済的時間である労働は、一つの与えられた量、つまり、100万の人間の1日につき10時間、すなわち1000万時間である。……資本には増加の限界がある。この限界は1年のどの時期にも、使用される経済的時間の現実の長さの範囲内にあるだろう」(『国民経済学にかんする一論』、ロンドン、1821年、47、49ページ)。〉(江夏・上杉訳318頁)

《イギリス語版》

  〈(本文注:3 * 「社会の、経済的時間としての労働が与えられたものであるとしよう。例えば、100万人の日10時間 または 1,000万時間…. 資本は増加に境界線を持っている。この境界は、ある与えられた期間、雇用された経済時間の現実の延長によって獲得さる。」(「諸国の政治経済に関する一論」ロンドン 1821年 ) ) しかしながら、このことは、つまりこの法則は、ここまで取り上げて来た剰余価値の形成のためにのみ適用されているということを次章で知ることになろう。)〉(インターネットから)


●第11パラグラフ

《61-63草稿》

 〈同職組合や中世的な労働組織の側からの禁止令、であって、まさに二人といないすぐれた親方といえども〔きめられた〕最大数をこえる労働者の使用を禁じられ、親方でない、ただの商人にいたってはそもそも労働者の使用自体を禁じられていたのである。〉(草稿集⑨253頁)

《初版》

 〈剰余価値の生産にかんするこれまでの考察から明らかなように、任意の貨幣額または価値額がどれも、資本に転化できるわけではなく、この転化には、むしろ、個々の貨幣所持者または商品所持者の手中にある貨幣または交換価値の一定の最小限が、前提になっている。可変資本の最小限は、まる1年じゅう毎日剰余価値の獲得のために使われている1個の労働力の費用価格である。この労働者が、自分自身の生産手段をもっていて労働者として生活することに甘んずれば、彼にとっては、自分の生活手段の再生産に必要な労働時間たとえば毎日8時間で、充分であろう。だから、彼が必要とする生産手段も、8労働時間分だけでよいであろう。これに反して、この8時間以外にたとえば4時/間の剰余労働を彼に行なわせる資本家は、追加生産手段を調達するための追加貨幣額を必要とする。ところが、われわれの仮定では、この資本家は、毎日奪取する剰余価値で労働者と同じように暮らすことができるためには、すなわち、不可欠な必要をみたしうるためには、すでに2人の労働者を使っていなければならないであろう。このばあい、彼の生産目的は、単なる生活維持であって富の増加ではないであろうが、後者は、資本主義的生産では前提されている。彼が普通の労働者の2倍だけよい暮らしをし、しかも、生産された剰余価値の半分を資本に再転化するためには、彼は、労働者数と同時に前貸資本の最小限を、8倍にふやさなければならないだろう。もちろん、彼自身が、彼の労働者と同じように生産過程で直接に働いてもかまわないが、そのばあい、彼は、資本家と労働者との中間物、「小親方」でしかない。資本主義的生産のある程度の高さは、資本家が、資本家すなわち擬人化された資本として機能している全時間を、他人の労働の奪取したがって統御のためにも、この労働の生産物の販売のためにも、費やすことができる、ということを条件としている(205)。中世の同職組合事業は、手工業親方が資本家になることを、1人の親方が使ってもかまわない労働者数の最大限を非常に小さく制限することによって、むりやり阻止しようとした。貨幣または商品の所持者は、生産のために前貸しされる最小額が中世の最大限をはるかに越えるときに初めて、現実に資本家になるのである。ヘーゲルがその論理学のなかで発見した法則、すなわち、単なる量的な変化がある点で質的な差異に一変するという法則の正しいことが、自然科学のばあいと同様にここでも実証されている(205a)。〉(江夏訳347-348頁)

《フランス語版》

 〈いまわれわれが行なったばかりの剰余価値の生産についての考察からは、どの価値額または貨幣額も資本に転化できるわけではない、という結果が生ずる。最小限度の貨幣または交換価値が資本家の位を志願する者の手中に見出されなければ、この転化は起こりえない。可変資本の最小限度は、剰余価値の生産に1年中使用される1個の労働力の平均価格である。この1個の労働力の所有者が自分の生産手段を用意していて、労働者として生活することに満足するならば、自分の生活手段の支払いをするために必要な時間、たとえば1日に8時間労働するだけで充分であろう。彼はまた、8労働時間のための生産手段しか必要としないであろう。これに反して、この8時間以外にたとえば4時間の剰余労働を彼に行なわせる資本家は、追加の生産手段を調達するための追加の貨幣額を必要とする。われわれの与件にしたがえば、/彼が毎日ふところに入れる剰余価値をもって1人の労働者と同じように生活しうるためには、すなわち、自分の不可欠な必要をみたすためには、彼はすでに2人の労働者を使っていなければならないであろう。このばあい、彼の生産の目的はただたんに自分の生活を維持することであって、富の獲得ではないであろう。ところで、後者が、資本主義的生産の、言外に意味された目的なのだ。彼が普通の労働者よりも2倍だけよい生活をし、生産された剰余価値の半分を資本に転化するためには、彼は労働者の数と同時に前貸資本を8倍に増加しなければならないであろう。もちろん彼自身も彼の労働者と同様に作業につくこともあるが、そのばあいには彼はもはや雑種生物、資本家と労働者との中間物、「小親方」でしかない。ある程度の発展段階では、資本家は、彼が擬人化された資本として機能するあいだの全時間を、他人の労働の奪取と監督のためにもこの労働の生産物の販売のためにも使うことができる、ということが必要である(5)。中世の同職組合事業は、同職組合の頭(カシラ)である親方が使用権をもつ労働者の数を、非常に限られた最大限度に制限することによって、この親方が資本家に変わるのを妨げようと努めた。貨幣または商品の所有者は、彼が生産のために前貸しする最小額が、中世の最大限度をすでにはるかに越えたときにはじめて、現実に資本家になる。ここでも、自然科学においてと同様に、へーゲルがその論理学で証明した法則、すなわち、単なる量における変化はある程度に達すると質における差異を惹き起すという法則が、確証されている(6)。〉(江夏・上杉訳318-319頁)

《自然弁証法》(エンゲルス)

  〈したがって自然および人間社会の歴史からこそ、弁証法の諸法則は抽出されるのである。これらの法則は、まさにこれら二つの局面での歴史的発展ならびに思考そのものの最も一般的な法則にほかならない。しかもそれらはだいたいにおいて三つの法則に帰着する。すなわち、
 量から質への転化、またその逆の転化の法則、
 対立物の相互浸透の法則、
 否定の否定の法則。
 これら三法則はすべて、ヘーゲルによって彼の観念論的な流儀にしたがってたんなる #思考# 法則として展開されている。すなわち第一の法則は『論理学』の第一部、存在論のなかにあり、第二の法則は彼の『論理学』のとりわけ最も重要な第二部、本質論の全体を占めており、最後に第三の法則は全体系の構築のための根本法則としての役割を演じている。誤謬は、これらの法則が思考法則として自然と歴史とに天下り的に押しつけられていて、自然と歴史とからみちびきだされてはいないという点にある。そしてここからあの無理にこしらえあげられ、しばしば身の毛もよだつものとなっている構成の全体が生じてきている。すなわちそこでは、世界は、好むと否とにかかわらず、ある思想体系――じつはそれ自体がやはり人間の思考のある特定の段階の産物でしかないところの、――に合致していなければならないのである。われわれがもし事柄をひっくりかえしてみるならば、すべては簡単になり、観念論的哲学ではことのほか神秘的に見えるあの弁証法の諸法則はたちどころに簡単明瞭となるのである。……/
  一、量から質への転化とその逆の転化の法則。上述のわれわれの日的からすれば、この法則は次のように表現することができる。すなわち、自然のなかでは、各個の場合ごとにそれぞれ厳密に確定しているある仕方で、質的な変化はただ物質または運動(いわゆるエネルギー)の量的な加減によってのみ起こりうる、と。
 自然のなかでの質的区別はすべて化学的組成の相違にもとづくか、運動の量ないしは形態(エネルギー)の相違にもとづくか、あるいは、これはほとんどいつでもそうなのだが、これら二つのものの相違にもとづいている。だから物質あるいは運動を付加ないしは除去することなしには、つまり当該物体の量的変化なしには、その質を変化させることは不可能である。こうしてヘーゲルの神秘的な命題もこのような形式のもとではまったく合理的にみえるばかりでなく、ほとんど自明でさえある。/
  しかしながらヘーゲルによって発見されたこの自然法則が最大の勝利をおさめた領域は、化学の領域である。化学は、組成の量的な変化による物質の質的な変化にかんする科学とよぶことができる。このことはすでにヘーゲル自身も知っていた(『論理学』、全集、第三巻、四三三ページ)。まず酸素をとろう。通常の二原子のかわりに三原子が結合して一つの分子になれば、われわれは、臭気と作用とによって普通の酸素とははっきり異なる一物質、オゾンを得る。そして酸素が窒素または硫黄と結合するさいのあのさまざまな比にいたってはどうだろう! じつにそれらの比のどれからも、他のすべての物質と質的に異なる物質が一つずつ形成されてゆくのである。笑気(一酸化窒素〔亜酸化窒素〕N2O)と無水硝酸(五酸化窒素〔五酸化二窒素〕N2O5)とはなんと異なっていることだろう! 前者は常温で気体であり、後者は常温では固体結晶をした物質である。しかも組成上の区別はといえば、後者が前者より五倍多い酸素をもつというのがそのすべてである。そして両者のあいだにはなお別の三つの窒素酸化物(NO,N2O3,NO2)があって、それらはさきの二者ともおたがいどうしとも質的に異なっているのである。
 このようなことは炭素化合物の同族列、とくに比較的簡単な炭化水素の同族列ではなおいっそう適切なものとして現われてくる。正パラフィン系のうちの最低位のものはメタン CH4 である。この場合には炭素原子の四個の結合単位は四個の水素原子で飽和している。第二番目のエタン C2H6 はたがいに結合した二個の炭素原子をもち、遊んでいる六個の結合単位は六個の水素原子で飽和している。このようにして公式 CnH2n+2 にしたがって C3H8,C4H10 等々とすすみ、CH2 が付加されるごとにそのまえのものとは質的に異なる物質が形成されてゆく。この系列の最低位の三つの成員は気体であり、既知の最高位のもの、ヘキサデカン C16H34 は沸点が摂氏二七八度の固体である。パラフィン系からみちびきだされる(理論的に)公式 CnH2n+2O の第一アルコールの系列と、一塩基脂肪酸(公式 CnH2nO2 )についても事情はまったく同じである。C3H6 の量的付加がいかなる質的区別をもたらしうるかは、どうにか飲めるかたちにしたエチルアルコール C2H6O を他のアルコール類と混ぜないで飲んだ場合と、同じエチルアルコールを飲むにしても、こんどは悪名高いフーゼル油の主成分をなすアミールアルコール C5H12O を少量つけくわえておいた場合の、二つの場合の経験が教えてくれるだろう。われわれの頭は翌朝には確実に、しかも頭痛とともに、これをさとることだろう。だから酔いとその後の二日酔いとは、一方はエチルアルコールの、他方はこれにつけくわえられた C3H6 の、ともに同じく質に転化された量だとさえいえるのである。〉(全集第20巻379-383頁)

《イギリス語版》

  〈(12) これまでの、剰余価値の生産で取り上げたことからは、あらゆる貨幣総額、またはあらゆる価値が、気ままに資本に変換できるものではないということが云える。この変換がなされるためには、実のところ、ある最小限の貨幣、または、交換価値が、貨幣とか商品の個人的所有者の手の中に、予め必要条件として前提されていなければならない。最小限の可変資本とは、一単位労働力の費用価格と云うことである。1年間を通して、朝から夕まで、剰余価値の生産のために用いられる一単位労働力の価値と云うことである。もし、この労働者が彼自身の生活手段を所有している状態にあるならば、そして労働者として生きていくことに満足しているならば、彼は、彼の生活手段の再生産に必要な時間を超えて働く必要はない。例えばそれは日8時間で足りよう。彼は、他には、ただ、8労働時間に必要な生産手段を求めることだけであろう。他方、資本家は自身をしてどうするか。これらの8時間の他に、云うなれば4時間の剰余労働を、追加的な生産手段を装備するための追加的な貨幣を要求する。とはいえ、我々の仮説によれば、彼は、日々妥当な剰余価値を得た上で、一労働者と同じように、それ以上ではなく、生活して行くためには、2人の労働者を雇わねばならないであろう。すなわち、彼の必要な欲求を満足させることができるためには。この場合、彼の生産の行き着く先は、単に生活の維持であって、富の増加ではない。だが、この後者こそ資本家的生産を意味している。通常の労働者の2倍の生活を送り、それに加えて、その剰余価値の半分を資本に転換するためには、彼は、労働者の数とともに、前貸し資本の最小限度額を8倍に増額しななければならないであろう。勿論、彼は労働者の様に、自身をして働かせることはできる。直接的に生産過程に加わればよい。だがしかし、そうしたからと言って、どうなるか。ただの資本家と労働者のハイブリッド、小工場主である。資本家的生産のある段階では、資本家は全ての時間を資本家として機能するように身を捧げることができる。すなわち人格化した資本として、従って、他の労働者の管理をし、この労働の生産物の販売を管理する者として、特化するに至る。*4
  それ故、中世のギルドは、親方が資本家に変態しないように力をもって阻止することを試みた。一親方が雇用し得る労働者の数の最大限を小さく制限したのである。ただ一つ、この中世の最大限数を大きく超えて生産のために前貸しされることで、実際に、貨幣または商品の所有者が、資本家に転化するのである。ここに、自然科学のごとく、ヘーゲル ( 彼の「論理」) によって発見された法則の正しさが現われている。すなわち、単なる量的な違いが、ある一点を超えれば、質的な変化へと転じる。*5〉(インターネットから)


●原注205

《初版》

 〈(205) 「借地農業者は自分自身の労働をあてにすることはできない。もしあてにすれば、あてにしたことで損をする、と私は主張するだろう。彼の仕事は、全体にたいする一般的な注意でなければならない。彼の打穀夫は監視されていなければならない。そうでないと、彼はやがて、打穀されない穀物の分だけ賃金を損するであろう。彼の草刈り夫や刈り入れ夫なども、監視されていなければならない。彼は絶えず、自分の柵(サク)の周囲を歩き回っていなければならない。なおざりにされていないか気をつけなければならない。どこか一箇所に閉じこもっていようものなら、必ずや、なおざりにされるであろう。」(『食糧の〔現/在〕価格と農場規模との関連の研究、借地農業者著、ロンドン、1773年』、12ページ。)この本は非常に面白い。この本では、「資本家的借地農業者」または「商人的借地農業者」--はっきりそう名づけられている--の発生史を研究することができるし、また、もともと生計を維持さえすればよい「小借地農業者」に対抗的な自己賛美を、とくと聞くことができる。「資本家階級は、最初は部分的に、しまいには全面的に、手の労働の必要から解放される。」(『国民経済学にかんする講義の教科書、リチャード・ジョーンズ師著、ハートフォード、1852年』、第3講。)〉(江夏訳348-349頁)

《フランス語版》

 〈(5) 「借地農業者は自分自身の労働をあてにすることはできない。もし彼がそうすれば損をするだろう、と私は主張する。彼の職分は全体を監督することである。彼は自分の打穀夫、草刈夫、刈入夫などを監視しなければならない。彼は絶えず自分の柵を一周してなにごとも粗略にされていないかどうか注意していなければならず、もし彼がどこか1ヵ所にじっとしていれば、必ず万事が粗略にされるだろう」(『食糧の現在価格と農場規模との関連の研究、一借地農業者著』、ロンドン、1773年、12ページ)。この著者は非常に興味深い。この著書のなかでは、「資本家的借地農業者」または「商人的借地農業者」と略さずに呼ばれているとおりのものの発生を研究することができるし、また、自分の生計の気苦労しかもたない「小借地農業者」に比べての自己賛美を読みとることができる。「資本家階級は当初は部分的に、しまいには全面的に、手の労働の必要性から解放される」(『国民経済学にかんする講義教科書』リチャード・ジョーンズ師著、ハートフォード、1852年、第3講、3/9ページ)。〉(江夏・上杉訳319-320頁)

《イギリス語版》

  〈注:4 *「借地農場経営者は、彼自身の農業労働に勤しむことはできない。もし、そう彼がしたら、彼はそれによって、損をすることになる。と私なら云うであろう。彼のやるべきことは、農場すべての全般的監視でなければならない。彼の脱穀作業者は監視されねばならぬ。そうでないと、脱穀されぬままの小麦のために、直ぐに彼の賃金を失うことになろう。彼の干し草の刈り取り作業者も、その他の者も監視されねばならない。彼は、常に、農場の柵を巡らねばならない。なにものも放置されないことを見て行かねばならない。彼がもし、ある一ヶ所に留められていたなら、このようには行かない。」(J.アーバスナット 「食糧の現在価格と農場規模との関係についての一研究」ロンドン 1773年) この本は非常に興味深い。この本から、「資本家的借地農場経営者」または「商人的借地農場経営者」と系統だって呼称される者の起源を学ぶことができる。そして、生存だけしかなし得ない小農場者を踏みつけにしての自己称賛の記録を見出す。「資本家階級は最初は部分的に、そして、自分の手作業から解放されて、最終的には完璧にそのようになる。」(「諸国の政治経済についての講義教科書 聖リチャード ジョーンズ」ハートホード 1852年 第三講義 ) 〉(インターネットから)


●原注205a

《初版》

 〈(205a) 近代化学で応用され、ロランジェラールが開拓し、ヴュルツ教授がパリで初めて科学的に述べた分子説は、これ以外のどんな法則にも立脚しているものではない。〉(江夏訳349頁)

《フランス語版》

 〈(6) ロランとジェラールがはじめて科学的に展開した近代化学の分子説は、この法則を基礎にしている。〉(江夏・上杉訳320頁)

《自然弁証法》(エンゲルス)

  〈しかし最後にこのヘーゲルの法則は化合物だけではなく、化学的元素そのものにたいしてもなりたつのである。われわれは今日、
  「元素の化学的性質は原子量の周期関数であること」(ロスコー=ショルレンマー『詳解化学教程三第二巻、八二三ページ)、
  したがってその質が原子量という量によって条件づけられていることを知っている。そしてこのことの検証はみごとになしとげられた。メンデレーエフが立証したように、原子量の順に配列された親縁な元素の系列中にはさまざまな空位があり、それらはその箇所になお新元素が発見されるべきことを示唆するものである。これらの未知の元素の一つで、アルミニウムにはじまる系列中でアルミニウムの次にあるところからエカアルミニウムと彼が命名した元素について、彼はその一般的な化学的性質をまえもって記述し、おおよそその比重と原子量および原子容を予言しておいた。数年後ルコック・ド・ボアボドランはこの元素を実際に発見したが、メンデレーエフが予想していたことはごくわずかのずれを除いては的中した。エカアルミニウムはガリウムとして実在のものとなった(48)(前掲書、八二八ページ)。量の質への転化についてのヘーゲルの法則の--無意識的な--適用によって、メンデレーエフは、未知の惑星、海王星の軌道の計算におけるルヴェリエの業績(49)に堂々と比肩しうるほどの科学的偉業をなしとげたのである。〉(全集第20巻384頁)

《イギリス語版》

  〈注:5 *近代化学の分子理論が最初に科学的に系統建てられたのは、ローランとジェラールによってであり、他の法則に依拠してはいない。(第三版への追加) この理論の説明ために、化学者でない者にとっては、なかなか難しいが、我々は、1843年に、C.ジェラールによって最初にそのように命名された炭素複合物の同族系列について、命名者本人が、この時、述べていることを書き留めておこう。この系列は、この物 独特の一般的な代数的公式を持っている。すなわち、パラフィン系列ではCnH2n+2 、標準アルコールは、CnH2n+2 O 、標準脂肪酸は、CnH2nO2 、他いろいろと。ここに述べた例は、CH2という単純な形のものを量的に 分子公式に追加して行くもので、その度ごとに、質的に違った物質が形成されるのである。この重要な事実の決定に関するローランとジェラールの功績(マルクスによって過大評価されている) については、コップの「化学の発達」(ドイツ語) ミュンヘン 1873年 と、スコークマーの「有機化学の起源と発展」ロンドン1879年を見よ。--エンゲルス (マルクスからエンゲルスへの手紙1867年6月22日、MIA英文にはそれへのリンクも施されている。) (また、ヘーゲルの論理についても、同様、リンクがある。) ( 量の、質変換への可及性は、これらの化学的事項に加えて、今日的には、DNAや、脳の生化学的な解明や、コンピュータや、証券とか国債とか、中国産の鰻の蒲焼に検出された、極微量の化学物質にすら及ぶ。イトーヨーカドーの名をマラカイトグリーンから隠さしめる迄に至る。このようなどうでもいい訳者小余談的追加にも及ぶ。)〉(インターネットから)

 (【付属資料】(3)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(7)

2024-03-14 14:56:20 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(7)


【付属資料】(3)


●第12パラグラフ

《初版》

 〈個々の貨幣所持者または商品所持者が資本家として姿を現わすために自由に処理できなければならない価値額の最小限は、資本主義的生産の発展段階がちがえば変わってくるし、また、与えられた発展段階でも生産部面がちがえばその部面の特殊な技術的諸条件に応じてちがいがある。ある種の生産部面には、すでに資本主義的生産の発端でも、個々の個人の手のなかにはまだ存在していないような資本の最小限が、必要である。このことは、あるときは、コルベール時代のフランスのばあいのように、また、われわれの時代にいたるまでの多くのドイツ諸邦のばあいのように、このような私人にたいする国家の補助金を誘発するし、あるときは、ある種の産業部門および商業部門の経営について法的独占権をもつ会社(206)--近代的株式会社の先駆--の形成を誘発するのである。〉(江夏訳349頁)

《資本論》

  〈植民制度は商業や航海を温室的に育成した。「独占会社」(ルター)は資本蓄積の強力な槓杆だった。〉(全集23b983頁)

《フランス語版》

 〈貨幣または商品の所有者が、資本家に変態するために自由に処分することができなければならない価値額の最小限度は、生産の発展段階が異なるにしたがって変化する。発展段階が与えられていても、この最小限度はまた、事業が異なれば、それらの個々の技術的条件にしたがって変化する。資本主義的生産の端初でさえ、これらの事業の幾つかは、個人の手中にはまだ存在しなかった最小限度の資本をすでに必要としていた。このことは、私的事業主に与えられる国家の補助金--コルベール時代のフランスにおけるような、また、現代にいたっても多くのドイツ諸邦で実行されているような--を必要としたし、若干の工業・商業部門経営についての法的独占権をもつ会社(7)--近代的株式会社の先駆--の形成を必要としたのである。〉(江夏・上杉訳320頁)

《イギリス語版》

  〈(13) 貨幣または商品の所有者個々が、彼自身を資本家に変態させるために指揮をとるその価値総額の最小値は、資本主義的生産の発展段階によって変化する。それぞれの与えられた段階や生産局面の違いによって、彼等の特別なる条件や技術的な条件によって変化する。生産のある局面では、その最初の資本主義的生産局面であってすら、一単独の手の中では見出せないほどの最小限の資本を要求する。このことが、ある部分では、私人達への国家的補助金をして、そのきっかけを与える。コルベールの時のフランスや、多くのドイツ諸州が我々の時代を作り上げた様に。またある部分では、工業 商業のある部門での搾取のために、法的独占*6 を社会的に形成する。我々の近代の株式会社の先駆である。〉(インターネットから)


●原注206

《初版》

 〈(206) マルティン・ルターは、この種の社団を「独占会社」と名づけている。〉(江夏訳349頁)

《フランス語版》

 〈(7) 「独占会社」、これがマルティン・ルターがこの種の機関に与える名称である。〉(江夏・上杉訳320頁)

《イギリス語版》

  〈注:6 *マーティーン ルーサーは、これらの種類の会社を「独占的会社」と呼ぶ。〉(インターネットから)


●第13パラグラフ

《初版》

 〈われわれは、資本家と賃金労働者との関係が生産過程中にこうむった諸変化の詳細については触れないし、したがって、資本そのもののさらに立ち入った規定についても触れない。わずかばかりの要点だけをここで強調しておこう。〉(江夏訳349頁)

《フランス語版》  フランス語版にはこのパラグラフはない。


《イギリス語版》 イギリス語版にはこのパラグラフは省略されている。


●第14パラグラフ

《初版》

 〈生産過程のなかで、資本は労働にたいする指揮、すなわち活動しつつある労働力つまり労働そのものにたいする指揮を行なうほどまでに、発展した。擬人化された資本である資本家は、労働者が自分の仕事をきちんと、しかるべ/き強度で行なうように、監視している。〉(江夏訳349-350頁)

《フランス語版》

 〈われわれがすでに見たように、資本は労働の主人公になる。すなわち、運動中の労働力または労働者自身を、資本の法則のもとに服従させることに成功する。資本家は、労働者が自分の仕事を念入りにまた必要な強度で遂行するように監視する。〉(江夏・上杉訳320頁)

《イギリス語版》

  〈(14) 我々が見て来たように、生産過程の内部においては、資本が労働に対する命令権を要求する。すなわち、労働力または労働者そのものに対して指図する。擬人化した資本、資本家は、労働者が彼の仕事を規則正しくなすように、また適切な集中度をもってなすように、管理する。〉(インターネットから)


●第15パラグラフ

《61-63草稿》

  〈加えられる強制が、すなわち剰余価値、剰余生産物、あるいは剰余労働の生みだされる方法が、違った種類のものなのである。もろもろの明確な区別は、次の項目〔Abschnitt〕で、つまり蓄積を論じるときに、はじめて考察することになる。この資本のもとへの労働の形態的包摂にあって本質的なことは次の点である。/
  (1) 労働者は、自分自身の人格の、だからまた自分自身の労働能力の所有者として、この労働能力の時間極(ギ)めでの消費の売り手として、貨幣を所持する資本家に相対しているのであり、だから両者は商品所持者として、売り手と買い手として、それゆえ形式的には自由な人格として相対しているのであって、事実、両者のあいだには買い手と売り手との関係以外の関係は存在せず、この関係とは別に政治的または社会的に固定した支配・従属の関係が存在するわけではない、ということである。
  (2) これは第一の関係に含まれていることであるが--というのは、もしそうでなかったら労働者は自分の労働能力を売らなくてもいいはずだから--、彼の客体的な労働諸条件(原料、労働用具、それゆえまた労働中の生活手段も)の全部が、あるいは少なくともその一部が、彼にではなく彼の労働の買い手かつ消費者に属し、それゆえ彼自身にたいして資本として対立しているということである。これらの労働諸条件が彼にたいして他人の所有物として対立することが完全になればなるほど、形態的に資本と賃労働との関係が生じるのが、つまり資本のもとへの労働の形態的包摂が生じるのが、それだけ完全になる。〉(草稿集⑨369-370頁)

《初版》

 〈資本は、さらに、労働者階級自身の範囲の狭い生活欲求が命ずるよりも多くの労働をこの階扱に強制するところの強制関係にまで、発展した。そして、他人の勤勉の生産者として、剰余労働の汲み取り人および労働力の搾取者として、資本は、エネルギーの点でも限度を知らない点でも効果の点でも、直接の強制労働にもとづく過去のあらゆる生産制度を凌駕している。〉(江夏訳350頁)

《フランス語版》

 〈資本は、その上、労働者階級に自分の狭い範囲の必要が要求するよりも多くの労働を遂行させざるをえなくする強制的関係として、現われる。他人の活動の生産者および利用者として、労働力の搾取者および剰余労働の詐取者として、資本主義制度は、種々の強制的労働制度に直接にもとづくあらゆる従前の生産制度を、エネルギー、効果、無限の力という点で凌駕している。〉(江夏・上杉訳320頁)

《イギリス語版》

  〈(15) さらに資本は、強制的な関係にまでこれを発展させ、労働者自身の生活に必要と処方された狭い範囲を超えて、労働者階級にそれ以上の労働を強要する。あたかも、他人の活動の演出者のごとく、剰余労働のポンプ係、労働力の搾取者として、直接的に労働者を追い立てた、初期の全ての生産システムを超えて、その熱中、規範の無視、無謀、効率一辺倒なやり方で、これを強要する。   〉(インターネットから)


●第16パラグラフ

《61-63草稿》

   〈絶対的剰余価値にもとづく形態を、私は資本のもとへの労働の形態的包摂と名づける。この形態は、現実の生産者たちが剰余生産物、剰余価値を提供しているが、すなわち必要労働時間を超えて労働しているが、それが自分のためではなく他人のためであるような、それ以外の生産様式と、ただ形態的に区別されるにすまない。〉(草稿集⑨369頁)
  〈この場合には、生産様式そのものにはまだ相違が生じていない。労働過程は--技術学的に見れば--以前とまったく同じように行なわれるが、ただし、今では資本に従属している労働過程として行なわれるのである。けれども、生産過程そのもののなかでは、前にも述ぺたように{これについて前述したことのすべてがここではじめてその場所に置かれることになる}、第一に、資本家による労働能力の消費が、それゆえ資本家による監視と指揮とが行なわれることによって、支配・従属の関係が発展し、第二に、労働のより大きな逮続性が発展する。〉(同370頁)

《初版》  初版では全集版の第16パラグラフと第17パラグラフが一つのパラグラフになっている。ここでは全集版の第16パラグラフに該当する部分だけを紹介しておく。

 〈資本は、さしあたり、歴史上現存している与えられた技術的諸条件を用いて、労働を自分に従属させる。だから、資本は生産様式を直接に変えるものではない。だから、これまでに考察した形態での、労働日の単純な延長に依拠する剰余価値生産は、生産様式そのもののどんな変化にもかかわりなく現われていたのである。この剰余価値生産は、古風な製パン業でも、近代的綿紡績業のばあいに劣らず効果的であった。〉(江夏訳350頁)

《フランス語版》 フランス語版では、第16パラグラフと第17パラグラフは明確にわけられず、第16パラグラフの途中から第17パラグラフがはじまり、それが途中で改行されて続いている。ここではフランス語どおりにまず第16パラグラフを紹介し、第17パラグラフがはじまるところに[/全集版の第17パラグラフがはじまる]という印を入れておく。

 〈資本はまず、歴史的発展から与えられた技術的条件のもとで、労働をとらえる。それは生産様式を即座には変化させ/ない。それだから、先に考察した形態のもとでの、労働日の単純な延長による剰余価値の生産は、生産様式のどんな変化にもかかわりなく現われたのである。それは現在、原始的な工程がいまなお適用されている製パン業でも、自動式の紡績業に劣らず生きている。[/全集版の第17パラグラフがはじまる]われわれが使用価値という単純な観点で生産を考察していたとぎには、生産手段は労働者にたいし、少しも資本という役割を演じていたのではなく、彼の生産活動の単なる手段および素材という役割を演じていたのである。たとえば鞣(ナメシ)皮業では、彼が鞣すのは皮であって資本ではない。〉(江夏・上杉訳320-321頁)

《イギリス語版》

  〈(16) まず最初、資本は、歴史的に見出される技術的条件の基盤において、労働を服従させる。であるから、生産様式を直接的に変化させることはしない。剰余価値の生産は、 -- これまで我々が考察したような形式で、 -- 証明済の単純な労働日の延長によって、従って、生産様式自体のいかなる変化からも独立して行われる。だから、旧式の製パン業者においても、近代的な綿製造工場に劣らないほど活発にそれが行われる。〉(インターネットから)


●第17パラグラフ

《初版》  初版では全集版の第17パラグラフは第16パラグラフと一緒になっているが、それをここでは分割して、第17パラグラフとして紹介しておく。

 〈したがって、生産過程をたんに労働過程の観点のもとで考察すれば、労働者は、資本としての生産手段に関係したのではなく、自分の合目的な生産活動の単なる手段および材料としての生産手段に関係したのである。たとえば製革業では、この労働者は、皮を自分の単なる労働対象として扱う。別に資本家のために皮をなめすわけではない。生産過程を価値増殖過程のもとで考察すると、もはやそうではなくなる。生産手段は早速、他人の労働を吸収するための手段に転化した。もはや労働者が生産手段を使うのではなくて生産手段が労働者を使うことになる。生産手段は、労働者の生産活動の素材的要素として、この労働者の手で消費されるわけではなく、労働者を生産手段そのものの生活過程の酵素として消費するのであって、資本の生活過程とは、自分自身を増殖する価値としての資本の運動にほかならない。夜間には休止していて生きている労働を吸収しない熔鉱炉や作業用建物は、資本家にとっては「純損」(“a mere loss")になる。それだから、熔鉱炉や作業用建物は、労働力の「夜間労働にたいする請求権」を構成しているわけである。貨幣が生産過程の対象的諸要因/すなわち生産手段にたんに転化されるということだけで、生産手段が他人の労働および剰余労働にたいする権原および強制権に転化されることになる。資本主義的生産に特有であって資本主義的生産を特徴づけているこういった顛倒が、いかにも、死んでいる労働と生きている労働との関係の顛倒が、価値と価値創造力との関係の顛倒が、資本家たちの意識にどのように反映しているか、最後になお一つの例をあげて示しておこう。1848年-50年のイギリスの工場主反逆のさいちゅうに、「西スコットランドの最も古くて最も声望の高い商会の一つでペイズリーの亜麻およぴ木綿紡績工場、すなわち1752年以来存続し代々同じ家族の手で経営されているカーライル同族会社、この会社の社長」は、--このきわめて聡明な紳士は、1849年4月25日の『クラスコー・デーリー・メール』紙に、「リレー制度」と題する書簡(207)を寄せたが、この書簡には、なかんずく、次のような怪奇なほど素朴な文言がまぎれ込んでいる。「さて、労働時間を12時間から10時間に短縮することから生ずる弊害を考察してみよう。……これらの弊害は、工場主の期待と財産にたいするきわめて重大な損傷に『なる』。彼(すなわち彼の『入手』)がこれまで12時間働いていたのに、10時間に制限されれば、彼の工場の機械または紡錘の各12個が10個に縮小する(“then every 12 machines or spindles,in his establishment,shrink to 10")のであって、彼が自分の工場を売ろうとしても、それらは10個にしか評価されず、このため、全国の各工場の価値の6分の1が失われることになろう8 208)」と。〉(江夏訳350-351頁)

《フランス語版》 重複するが、第16パラグラフに組み込まれている部分から紹介しておく。

 〈われわれが使用価値という単純な観点で生産を考察していたときには、生産手段は労働者にたいし、少しも資本という役割を演じていたのではなく、彼の生産活動の単なる手段および素材という役割を演じていたのである。たとえば鞣(ナメシ)皮業では、彼が鞣すのは皮であって資本ではない。
  われわれが剰余価値の観点で生産を考察するようになるやいなや、事態は変わった。生産手段は直ちに他人の労働の吸収手段に転化した。もはや労働者が生産手段を使うのではなく、反対に生産手段が労働者を使う。生産手段は、労働者によって彼の生産活動の素材的要素として消費されるのではなく、生産手段自身の生活に不可欠な酵母として労働者自身を消費するのであって、資本の生活は、永遠に増殖途上にある価値としての資本の運動にほかならない。夜間には休止していて、生きた労働をなんら吸収しない熔鉱炉や工場の建物は、資本家にとっては純損になる。だからこそ、熔鉱炉や工揚の建物は、労働者の「夜間労働にたいする請求権、権利」を構成しているのだ。これについてこれ以上述べることは、いまのところ無用である。こういった、資本主義的生産を特微づけている役割の転倒が、死んだ労働と生きた労働との関係の、価値と価値創造力との関係の、こうした奇妙な転倒が、資本の所有主の意識のうちにどのように反映しているかを、ただ一例によって示すことにしよう。
  1848-50年のイギリスの工場主の叛乱中に、西スコットランドの最も古くて最も名望の高い社名の一つであり、ペーズリの亜麻・木綿紡績工場で1752年以来存続していて代々変わらず同じ家族によって経営されているカーライル同族会社、この会社の社長、この非凡の叡知の持ち主である紳士は、1849年4月25日の『グラスゴー・デーリー・メール』紙上に、「リレー制度」と題する書筒(8)を書き送ったが、そのなかにはなかんずく、奇怪なまでに素直な次の一章句がある。「労働時間を12時問から10時間に短縮することから生ずる弊害を考察してみよう。……これらの/弊害は工場主の特権と財産に最も重大な損害をもたらす。彼がこれまで12時間労働していた(彼の人手を労働させていた、という意味である)のに、いまでは10時間しか労働しなくなれば、たとえば彼の事業所の機械または紡錘の各12個が10個に縮まる のであって、彼が自分の工場を売ろうとしても、それらは実際には10個にしか評価されず、そのため全国の各工場はその価値の6分の1を失うであろう(9)」。〉(江夏・上杉訳321-322頁)

《イギリス語版》

  〈 (17) もし、我々が、単純な労働過程の視点から、生産過程を見るとすれば、労働者は、生産手段との関係に立っており、資本のなんやらの性質にあるのではなく、彼自身の知的な生産活動の単なる手段と材料に対して立っている。例えば、皮なめしでは、彼は皮を単純な労働対象として取り扱う。資本家の皮をなめすのではない。( 訳者注: 資本家が所有する価値としての皮のことと分かるのであるが、資本家本人の皮膚とも訳せないではない、なにしろ資本擬人の皮膚という代物だからね ) しかし、これを剰余価値の創造過程という視点から見れば、生産過程はたちまち違ったものとなる。生産手段は、たちまち、他人の労働の吸収手段に換わる。もはや労働者が生産手段を用いるのではなく、生産手段が労働者を用いる。彼の生産的活動の材料的要素として彼が消費するものではなくて、それらがそれら自身の生命過程の必要な酵素として彼(訳者挿入 労働者)を消費する。そして資本の生命過程が、絶え間なく価値拡大の活動だけを作りだす。絶え間なく自身を倍増するだけの活動を作りだす。溶鉱炉や工場が、夜何もせずに突っ立っているだけで、生きた労働を吸収しないならば、それは資本家にとっては、「ただの損失」なのである。故に、溶鉱炉や工場は、労働者たちの夜間労働を、正当なる要求とするのである。単純な、貨幣の生産過程の材料的要素への転化が、生産手段への転化が、夜間労働への要求を、他人の労働と剰余労働に対する一命題に、一権利に転化するのである。死んだ労働と生きた労働間の、価値と価値を創造する力間の関係の完全なる倒錯、資本主義的生産の特徴でありかつ特異な珍妙論が、どのようにして、資本家の意識、それ自体の鏡像となるのか、後段の一つの例が明らかにするであろう。1848年から1850年の間、英国工場主の反抗の頃、「西スコットランドの最も古く、最も尊敬される工場の一つ カーライル一族会社、ペイスレーのリネンと綿の繊維工場、1752年に創業し1世紀に及ぶ存続を誇り、4世代の同家族によって経営されてきた、その工場主」…. この「非常に知的な紳士」が手紙*7 ( 本文注: 7 *工場査察官報告書 1849年4月30日) を書いた。1849年4月25日付けグラスゴー ディリー メール紙に、「リレー システム」と題するもので、いろいろとある中で、次のような珍妙で朴訥な文章があった。「我々は今、…. 悪魔が工場の労働を10時間に制限するやもしれない…. やつらは、工場主達の将来と財産に最も重大な損害を及ぼそうとしている。もし、彼 ( 彼の「労働者」のこと ) は以前12時間働いていたが、10時間に制限されると、彼の工場では、あらゆる12の機械または紡錘が10に縮んでしまう。工場を畳まねばならなくなるに違いない。その価値はただの10になるだろう。そうなれば、この国の全ての工場の価値の1/6の部分が差し引かれることとなるであろう。」*8〉(インターネットから)


●原注207

《初版》

 〈(207) 『1849年4月30日の工場監督官報告書』、59ページ。〉(江夏訳351頁)

《フランス語版》

 〈(8) 『1849年4月30日の工場監督官報告書』、59ページ。〉(江夏・上杉訳322頁)

《イギリス語版》 本文に挿入。


●原注208

《初版》

 〈(208) 同前、60ページ。工場監督官ステュアートは、彼自身スコットランド人であって、イングランドの工場監督官とは反対に、資本家的な考え方にすっかりとらわれているが、自分の報告書に収録したこの書簡について、これは、「工場主のうちリレー制度を用いているなに者かの手で書かれ、この制度にたいする偏見と疑念を取り除くことを格別にねらっているところの、きわめて有益な通信である。」と明言している。〉(江夏訳351頁)

《フランス語版》

 〈(9) 同前、60ページ。工場監督官ステュアートは、彼自身スコットランド人であって、イングランドの工場監督官とは反対に資本家的な考え方がすっかりしみこんでいるが、彼の報告書に収録したこの書簡は、「リレー制度を使用する工場主によって書かれた最も有益な通信であり、それは主として、この制度から生じた偏見や疑念を取り除くことを目的としている」と明言している。〉(江夏・上杉訳322頁)

《イギリス語版》

  〈注:8 *前出報告書 工場査察官 スチュアートは、彼自身はスコットランド人、は、英国人工場査察官達とは逆に、全く、資本家的な思考方式に捕らわれているのであるが、彼の報告書に加えたこの手紙について、次のように明確に述べている。「これは、同じ商売に従事する工場主達に与えられたリレー方式の採用についての最も有益な内容であり、作業時間の調整による変化への疑念と云う先入観を取り除くには最も明解なものである。」〉(インターネットから)


●第18パラグラフ

《初版》

 〈西スコットランドのこの先祖伝来の資本頭脳にとっては、紡錘等々という生産手段の価値と、自分自身を価値増/するという、すなわち毎日一定量の他人の無償労働を呑み込むという、生産手段の資本属性とが、全くみさかいがつかなくなっているのであって、そのために、このカーライル同族会社の社長は、自分の工場を売れば、自分には、紡錘の価値だけでなく、おまけに紡錘の価値増殖も支払われるのだと、すなわち、紡錘のなかに含まれていて同種の紡錘の生産に必要な労働だけでなく、毎日ぺイズリーの健気な西スコットランド人から汲み出される剰余労働も支払われるのだと、じっさいに妄想しているのであって、それだからこそ、彼は、労働日を2時間短縮すれば、各12台の紡績機の売却価格が各10台の売却価格に下がってしまう! と思っているのである。〉(江夏訳351-352頁)

《フランス語版》

 〈われわれの見るとおり、スコットランドのこの石頭にとっては、生産手段の価値が、自己増殖しあるいは一定量の無償労働を日々同化するという生産手段のもつ資本属性と、全く混同されている。そして、カーライル同族会社のこの社長は、工場を売却するさいには、機械の価値だけでなく、おまけに機械の価値増殖も支払われる、すなわち、機械のなかに含まれていて同類の機械の生産に必要な労働だけでなく、機械の役立ちでぺーズリの律義なスコットランド人から日々詐取されている剰余労働までも支払われる、と信ずるほどに妄想を抱いている。彼の意見によれば、それだからこそ、労働日の2時間の短縮は、彼の機械の販売価格を引き下げるであろう。機械1ダースはもはや10個の価値しかないことになろう!〉(江夏・上杉訳322頁)

《イギリス語版》

  〈(18) この、西スコットランドのブルジョワの頭脳にとっては、「4代」もの間受け継がれ、積み上げられた資本家的品質の頭脳にとっては、生産手段の価値、紡錘等々は、それらの財産、資本としての、それら自体の価値と、日々飲み込む他人の不払い労働のある一定量、が切り離しがたく混ざり合っており、カーライル一族会社の社長は、実際のところ、もし彼が工場を売れば、彼に支払われる紡錘の価値のみではなく、それに加えて、剰余価値を追加する力も、紡錘の中に体現されている労働、そしてその種の紡錘の生産に必要な労働のみでなく、勇敢なるスコットランドのペイスレーの土地が日々の汲み出しを手助けする剰余労働もまた支払われると思っているようだ。だからこそ、彼は労働日の2時間の短縮が、12の紡績機械の売値が10 ! のそれになると思っている分けだ。〉(インターネットから)

  (第9章終わり)

 

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『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(1)

2024-02-15 20:56:23 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(1)


◎序章B『資本論』の著述プランと利子・信用論(5)(大谷禎之介著『マルクスの利子生み資本論』全4巻の紹介 №9)

  第1巻の〈序章B 『資本論』の著述プランと利子・信用論〉の第5回目です。〈B 『1861-1863年草稿』における利子と信用〉の〈(1)「資本一般」への「多数資本」の導入〉という小項目のなかで、大谷氏は〈この『1861-1863年草稿』の執筆中に,マルクスは平均利潤率の形成と価値の生産価格への転化の問題を基本的に解決したが,これを「資本一般」のなかで取り扱うことにした結果,プランに重大な変更を加えることになった。〉(93頁)と述べています。
  ここで簡単にいわゆる「プラン問題」について触れておきましょう。マルクスは『経済学批判』(1859年)の「序文」の冒頭〈私はブルジョア経済の体制をこういう順序で、すなわち、資本土地所有賃労働、そして国家対外商業世界市場という順序で考察する。〉(草稿集③203頁)と述べています。これがいわゆる「6部構成」と言われるものです。そのあとマルクスは「資本一般」をまず論じていますが、これは上記の6部構成の最初のものでしょう。しかし現行の『資本論』には地代や賃労働についても考察の対象になっており、何よりも「資本一般」では、多数の資本が捨象されていますが、現行版では当然のことながら、入っています。だから『資本論』は当初のマルクスのプランからどのような変遷を経て現在の構成になったのか、というのが、いわゆる「プラン問題」なわけです。
  大谷氏は、そのマルクスのプランが大きく変更されたのは『資本論』の草稿である『61-63草稿』においてだと論じているわけです。
 もちろんマルクスが『61-63草稿』のなかでプランを大きく変更したことは事実ですが、しかし『61-63草稿』のなかで〈マルクスは平均利潤率の形成と価値の生産価格への転化の問題を基本的に解決した〉というのにはやや疑問があります。というのは前回見ましたように、マルクスはすでに『要綱』の段階でも一般利潤率と形成と価値の生産価格への転化を論じているからです。すでに前回紹介しましたが、もう一度、そのさわりの部分だけ紹介しておきましょう。

  〈市場価格としての価格,または一般的価格。それから,一つの一般的利潤率の措定。そのさい,市場価格によって諸資本はさまざまの部門に配分される。生産費用の引き下げ,等々。要するに,ここではいっさいの規定が,資本一般〔CapitahmAllgemeinen〕におけるのとは逆となって現われる。さきには価格が労働によって規定されたが,ここでは労働が価格によって規定される,等々,等々。〉(『経済学批判要綱』。MEGAII/1.2,S.541.)〉(117頁)

  大谷氏は『61-63草稿』のなかでマルクスがプランを変更していく過程を詳細に跡づけ、その第一歩として次のように述べています。

  〈「第3章 資本と利潤」は,「批判」体系プランの「両過程の統一,資本と利潤・利子」にあたるものであるが,利潤率低下法則までで中断している。ここで注目されるのは,剰余価値の利潤への転化には,剰余価値が前貸総資本との関連で利潤という形態を受けとる「形態的転化」と,平均利潤率が成立して諸資本が生む剰余価値とそれらに帰属する利潤とが量的に異なるようになる「実体的転化」との二段階があり,後者は前者の「必然的帰結」だとされていることである〔25〕〔26〕〔27〕。そこで,「 資本一般」は 「多数資本」を捨象したものであったから,ここでは本来,「多数資本」を前提する「実体的転化」は論じえないはずであったにもかかわらず,マルクスは次のように書く。
 「この点の詳細な考察は競争の章に属する。しかしながら,明らかに一般的であること〔das entscheidend Allgemeine〕はここでもやはり説明されなければならない。」〔28〕
 すなわち,「実体的転化」に関する「明らかに一般的であること」は「資本一般」のなかでも論じる,というのである。これは,「多数資本」捨象という,「資本一般」の対象限定を放棄する第一歩であった。しかしここでもまだ,「標準価格」(=生産価格)を「詳しく研究することは競争の章に属する」〔29〕として,この点をほとんど論じていないし,超過利潤は「まったくこの考察には属さない」〔30〕としていた。〉(93-94頁)

  次はその第二歩ですが、次のように論じています。

  〈ところが,このあと「諸学説」にはいって,ロートベルトゥスの地代論とリカードウの地代論との検討のなかで平均利潤率および生産価格をめぐる諸問題に基本的に決着をつけると,さらに第二歩を進めることになった。マルクスは,「諸学説」も終わりに近いノートXVIIIに『資本論』の第1部と第3部とのプランを三つ記したが,その最初のものがまさに,「資本と利潤」のうちの「一般的利潤率の形成が取り扱われる第2章」のプラン〔31〕であって,ここではすでに有機的構成を異にする諸部門の諸資本が考察のなかに完全に取り入れられており,その4では「一般的利潤率の形成(競争)」が論じられることになっている。そのあとに書かれた「資本と利潤」のプラン〔32〕(以下,「資本と利潤」プランと呼ぶ)では,その2が「利潤の平均利潤への転化。一般的利潤率の形成。価値の生産価格への転化」であり,4には,「価値と生産価格との相違の例証」として「地代」を予定している。ここにいたって,「多数資本」捨象という対象の限定は取り払われ,かつては「競争」のなかではじめて論じられるはずであった市場価格,市場価値,生産価格などの諸範疇とそれらを成立させる競争とが,「資本一般」のなかですでに論じられることになったのである18)。〉(94頁)

  大谷氏がここで紹介しているマルクスのプランを章末注から抜粋しておきます。ただしマルクス自身は入れていない改行を入れて、分かりやすくしたものです。
  まず〈「資本と利潤」のうちの「一般的利潤率の形成が取り扱われる第2章」のプラン〔31〕〉についてです。(なお第2章というのは、現行版の第2篇に該当します。)

  〈〔31〕「{「資本と利潤」に関する第3部のうち,一般的利潤率の形成が取り扱われる第2章では,次の諸点を考察するべきである。
  1.諸資本の有機的構城の相違。これは,一部には,生産段階から生じるかぎりでの可変資本と不変資本との区別によって,機械や原料とそれらを動かす労働量との絶対的な量的比率によって制約されている。このような区別は,労働過程に関連がある。また,流通過程から生じる固定資本と流動資本との区別も考察するべきである。それは,一定の期間における価値増殖を,部面の異なるにつれて相違させる。
  2.違った資本の諸部分の価値比率の相違で,それらの資本の有機的構成から生じるのではないところの相違。こうしたことが生じるのは,価値,とくに原料の価値の相違からである。たとえ原料が二つの違った部面で等量の労働を吸収すると仮定しても,そうである。
  3.これらのいろいろな相違の結果として生じる,資本主義的生産のいろいろに違った部面における利潤率の多様性。利潤率が同じで利潤量が充用資本の大きさに比例するということは,構成などを同じくする諸資本についてのみ正しい。
  4.しかし総資本については,第1章で展開したことがあてはまる。資本主義的生産においては各資本は,総資本の断片,可除部分として措定される。一般的利潤率の形成。(競争。)
  5.価値の生産価格への転化。価値と費用価格と生産価格との相違。}
  {6.リカードウの理論をさらに取り上げるために。労賃の一般的変動が一般的利潤率に,したがって生産価格に及ぼす影響。}」(『1861-1863年草稿』。MEGAII/3.5,S.1816-1817.)〉(125頁)

  次は〈そのあとに書かれた「資本と利潤」のプラン〔32〕(以下,「資本と利潤」プランと呼ぶ)〉についてです。

  〈〔32〕「第3篇「資本と利潤」は次のように分けること。1.剰余価値の利潤への転化。
剰余価値率と区別しての利潤率。2.利潤の平均利潤への転化。一般的利潤率の形成。価値の生産価格への転化。3.利潤および生産価格に関するA.スミスおよびリカードウの学説。4.地代。(価値と生産価格との相違の例証。)5.いわゆるリカードウ地代法則の歴史。6.利潤率低下の法則。A.スミス,リカードウ,ケアリ。7.利潤に関する諸学説。シスモンディやマルサスをも「剰余価値に関する諸学説」のうちに入れるべきかどうかの問題。8.産業利潤と利子とへの利潤の分裂。商業資本。貨幣資本。9.収入とその諸源泉。生産過程と分配過程との関係に関する問題もここで取り上げること。10.資本主義的生産の総過程における貨幣の還流運動。11.俗流経済学。12.むすび。「資本と賃労働」。」(『1861-1863年草稿』。MEGAII/3.5,S.1861.)〉〉(125-126頁)

  この段階では、現行の『資本論』の構成に近づいたとはいえ、まだまだ開きがあります。今回は、とりあえず、マルクスが『61-63草稿』の段階で如何にして自身の経済学批判のプランを変更して『資本論』の叙述に近づいていったかを紹介するだけにします。

  それでは本来の問題に移りましょう。今回は「第8章 労働日」「第7節 標準労働日のための闘争  イギリスの工場立法が諸外国に起こした反応」です。これは第8章の締めくくりの節です。


第7節 標準労働日のための闘争  イギリスの工場立法が諸外国に起こした反応



◎第1パラグラフ(われわれの歴史的素描のなかで、一方では近代的産業が、他方では肉体的にも法律的にも未成年な人々の労働が主役を演じているとすれば、その場合われわれにとっては、前者はただ労働搾取の特殊な部面として、後者はただその特に適切な実例として、認められていただけである。)

【1】〈(イ)読者の記憶にあるように、労働が資本に従属することによって生産様式そのものの姿が変えられるということは/まったく別としても、剰余価値の生産または剰余労働の搾取は、資本主義的生産の独自な内容と目的とをなしている。(ロ)やはり読者の記憶するように、これまでに展開された立場では、ただ独立な、したがって法定の成年に達した労働者だけが、商品の売り手として、資本家と契約を結ぶのである。(ハ)だから、われわれの歴史的素描のなかで、一方では近代的産業が、他方では肉体的にも法律的にも未成年な人々の労働が主役を演じているとすれば、その場合われわれにとっては、前者はただ労働搾取の特殊な部面として、後者はただその特に適切な実例として、認められていただけである。(ニ)しかし、これからの叙述の展開を先回りして考えなくても、単に歴史的諸事実の関連だけからでも、次のようなことが出てくる。〉(全集第23a巻391-392頁)

  (イ) 読者の記憶にありますように、労働が資本に従属することによって生産様式そのものの姿が変えられるということはまったく別としましても、剰余価値の生産または剰余労働の搾取は、資本主義的生産の独自な内容と目的とをなしています。

  第7節には「イギリスの工場立法が諸外国に起こした反応」という副題が付いていますが、この節は第8章の締めくくりであり、まとめの性格も持っています。最初と(第3パラグラフまでは)、最後の部分(第6,7パラグラフ)ではそれが問題にされています(だから「諸外国に起こした反応」が問題になっているのは第4,5パラグラフになります)。
  まずここでは労働が資本に従属するということは、最初は形態的な包摂によって絶対的な剰余価値の生産が問題になりましたが、しかし資本主義的生産の本質は労働の実質的包摂、つまり生産様式そのものが資本主義的なものに変質させられることなのです。しかしそれらはまだ私たちは問題にしていません(それは相対的剰余価値の生産が問題になるときに問題にされます)。
  しかしこれまでの絶対的剰余価値の生産の範囲内でも十分に資本主義的生産の独自な性格として、剰余価値の生産あるいは剰余労働の搾取が資本に固有のものであることが明確になったと思います。

  (ロ) やはり読者が記憶していますように、これまでに展開された立場では、ただ独立な、したがって法定の成年に達した労働者だけが、商品の売り手として、資本家と契約を結ぶのです。

  また第2篇の「貨幣の資本への転化」や第3篇の「絶対的剰余価値の生産」のうち第5章から第7章までにおいて前提していた労働者や労働力というのは、ただ独立した法定の年齢に達した成年労働者だけを暗黙の了解事項としており、彼らが自らの労働力商品の売り手として、資本家と契約を結ぶと考えられてきました。

  (ハ) だから、これまでの私たちの歴史的素描のなかで、一方では近代的産業が、他方では肉体的にも法律的にもまだ未成年な人々の労働が主役を演じているとしますと、その場合私たちにとっては、前者はただ労働搾取の特殊な部面として、後者はただその特に適切な実例として、認められていただけです。

  だから第8章において取り上げた労働日をめぐる資本家階級と労働者階級との闘争において、一方は近代的産業のもっとも典型的な部門であった繊維産業が取り上げられ、他方では肉体的にも法律的にも未成年の労働者が主演を演じてきたのでした。
  だからこれらの歴史的素描では、労働搾取の特殊な部面と、その搾取のもっとも適切な実例として取り上げられたものといえます。

  (ニ) しかし、これからの叙述の展開を先回りして考えなくても、単に歴史的諸事実の関連だけからでも、次のようなことが出てきます。

  しかしこうした限られた歴史的素描とはいえ、こうした歴史的諸事実の関連からだけでも、次のような結論が出てきます。


◎第2パラグラフ(第一に。変化した物質的生産様式と、これに対応して変化した生産者たちの社会的諸関係とは、まず無限度な行き過ぎを生みだし、次には反対に社会的な取締りを呼び起こし、この取締りは、中休みを含めての労働日を法律によって制限し規制し一様化した。)

【2】〈(イ)第一に。(ロ)水や蒸気や機械によってまっさきに革命された諸産業で、すなわち近代的生産様式のこの最初の創造物である木綿、羊毛、亜麻、絹の紡績業と織物業とで、まず最初に、限度も容赦もない労働日の延長への資本の衝動が満たされる。(ハ)変化した物質的生産様式と、これに対応して変化した生産者たちの社会的諸関係(186)とは、まず無限度な行き過ぎを生みだし、次には反対に社会的な取締りを呼び起こし、この取締りは、中休みを含めての労働日を法律によって制限し規制し一様化する。(ニ)それゆえ、19世紀の前半にはこの取締りはただ例外立法として現われるだけである(187)。(ホ)それが新しい生産様式の最初の領域を征服し終わったときには、その間に他の多くの生産部門が本来の工場体制をとるようになっていただけではなく、製陶業やガラス工業などのような多かれ少なかれ古臭い経営様式をもつマニュファクチュアも、製パン業のような古風な手工業も、そして最後に釘製造業などのような分散的ないわゆる家内労働(188)でさえも、もうとっくに工場工業とまったく同じに資本主義的搾取のもとに陥っていたということが見いだされた。(ヘ)それゆえ、立法は、その例外法的性格をしだいに捨て去るか、または、イギリスのように立法がローマ的な決疑法的なやり方をするところでは労働が行なわれていればどんな家でも任意に工場(factory)だと宣言するか、どちらかを余儀なくされたのである(189)。〉(全集第23a巻392頁)

  (イ)(ロ) 第一に。水や蒸気や機械によってまっさきに革命された諸産業で、すなわち近代的生産様式のこの最初の創造物である木綿、羊毛、亜麻、絹の紡績業と織物業とで、まず最初に、限度も容赦もない労働日の延長への資本の衝動が満たされのです。

  ここではこれまで素描された歴史的諸事実の連関から見いだされる結論の第一が問題にされています。すなわち、まず確認できることは、イギリスの産業資本が勃興した最初の産業部門、すなわち紡績業や織物業において、もっとも容赦のない労働日の延長が行われたということです。

  (ハ)(ニ) 変化した物質的生産様式と、これに対応して変化した生産者たちの社会的諸関係とは、まず無限度な行き過ぎを生みだし、次には反対に社会的な取締りを呼び起こし、この取締りは、中休みを含めての労働日を法律によって制限し規制し一様化しました。だから、19世紀の前半にはこの取締りはただ例外立法として現われるだけでした。

  機械制大工業という物質的な生産様式の発展とともに、それに対応し規定された生産者の社会的諸関係が、そうした無限度な行き過ぎを生みだし、ついでそれに反対する労働者階級の闘いや社会的取り締まりを呼び起こしたのです。そしてその取り締まりというのが、労働日を法律によって規制することであり、標準労働日の制定だったということです。しかしこれまで19世紀の前半において歴史的に取り上げてきたものは、特定の産業部門や児童や少年等に限られており、その限りではそれらの法律も例外的な立法という性格も持っていたのでした。

  (ホ)(ヘ) それが新しい生産様式の最初の領域を征服し終わったときには、その間に他の多くの生産部門も本来の工場体制をとるようになっていただけではなくて、製陶業やガラス工業などのような多かれ少なかれ古臭い経営様式をもつマニュファクチュアも、製パン業のような古風な手工業も、そして最後に釘製造業などのような分散的ないわゆる家内労働でさえも、もうとっくに工場工業とまったく同じに資本主義的搾取のもとに陥っていたということが見いだされたのです。だから、立法は、その例外法的性格をしだいに捨て去るか、または、イギリスのように立法がローマ的な決疑法的なやり方をするところでは労働が行なわれていればどんな家でも任意に工場(factory)だと宣言するか、どちらかを余儀なくされたのです。

  しかしそうした社会的な取り締まりは、新しい生産様式がそれらの産業部門の領域を征服し終わったときには、他の多くの生産部門においても本来的な工場制度が導入されていただけではなくて、製陶業やガラス工業のような多かれ少なかれ古くさい経営様式をもつマニュファクチュアもすでに資本主義的搾取に陥っており、さらには製パン業のような古風な手工業においても、あるいは釘製造業のような分散した家内工業でさえも、やはり資本主義的搾取のもとに陥っていたのです。
  だから立法は、その例外的性格をしだいに捨て去るか、イギリスのように立法が事細かに決めなければ始まらないところでは、どんな家でも任意に工場(factory)だと宣言することによって、工場法の適用を広げる措置を取ったりしたのです。

  ここで〈ローマ的な決疑法〉という部分には、初版とフランス語版には〈〔法律問題を細かい法解釈によって決定すること〕〉という訳者注が挿入されています。また親日本新書版には、次のよう訳者注が付いています。

  〈決疑論とは、疑わしい個々の場合を規範に従って解決する方法で、とくにローマ・カトリックのイエズス会派がこれを用いた。一般には詭弁を意味する。法律では、細かい解釈または同種の場合をもとに個々の問題を解決するやり方〉(519頁)


◎原注186

【原注186】〈186 「これらの階級」(資本家と労働者)「のそれぞれの態度は、それらが置かれていた相対的な立場の結果だった。」(『工場監督官報告書。1848年10月31日』、113ページ。)〉(全集第23a巻393頁)

  これは〈変化した物質的生産様式と、これに対応して変化した生産者たちの社会的諸関係(186)〉という本文に付けられた原注です。これは監督官報告書の一文ですが、資本家と労働者のそれぞれの態度は、それらが置かれていた立場の結果だったと述べていることから、マルクスは物質的生産様式の変化が、彼らの社会的諸関係を規制し変化させるという考えを素朴に言い表していると考えたのではないでしょうか。


◎原注187

【原注187】〈187 「制限を加えられた諸業種は、蒸気力または水力による繊維製品の製造に関連するものだった。ある事業に工場監督を受けさせるためには、その事業が満たさなければならない二つの条件があった。すなわち、蒸気力または水力の使用と、特に定められた繊維の加工とである。」(『工場監督官報告書。1864年10月31日』、8ページ。)〉(全集第23a巻393頁)

  これは〈それゆえ、19世紀の前半にはこの取締りはただ例外立法として現われるだけである(187)。〉という本文に付けられた原注です。
  19世紀前半の工場法は、特定の産業部門(紡績業と織物業)に限定されたものだったということが、監督官報告書のなかでも工場監督を受け入れさせる二つの条件として、一つは蒸気力または水力の使用と、繊維の加工がそれであると述べています。つまり例外的な部門に限定されていたことが述べられています。、


◎原注188

【原注188】〈188 このいわゆる家内的工業の状態については、「児童労働調査委員会」の最近の諸報告のなかに非常に豊富な材料がある。〉(全集第23a巻393頁)

 これは〈そして最後に釘製造業などのような分散的ないわゆる家内労働(188)〉という本文に付けられた原注です。
  家内的工業の状態については、「児童労働調査委員会」の最近の報告に非常に豊富な材料があるということです。
  そこで『資本論』のそれ以外ところで見ることができないか調べてみますと、「第18章 時間賃金」の原注41に次のようなものを見つけることができました。

  〈41 たとえばイギリスの手打ち釘製造工は、労働の価格が低いために、みじめきわまる週賃金を打ち出すためにも1日に15時間労働しなければならない。「それは1日のうちの非常に多くの時間を占めていて、その時間中彼は11ペンスか1シリングを打ち出すためにひどい苦役をしなければならない。しかも、そのなかから2[1/2]ペンスないし3ペンスは道具の損耗や燃料や鉄屑の代価として引き去られるのである。」(『児童労働調査委員会。第三次報告書』、136べージ、第671号。)女は同じ労働時間でたった5シリングの週賃金しかかせげない。(同前、137ページ、第674号。)〉(全集第23b巻711頁)


◎原注189

【原注189】〈189 「前議会」(1864年)「の諸法律は……いろいろに違った習慣の行なわれている種々雑多な職業を包括していて、機械を動かすための機械力の使用は、もはや、以前のように法律用語での工場を構成するために必要な諸要素の一つではなくなっている。」(『工場監督官報告書。1864年10月31日』、8ページ。)〉(全集第23a巻393頁)

  これは〈それゆえ、立法は、その例外法的性格をしだいに捨て去るか、または、イギリスのように立法がローマ的な決疑法的なやり方をするところでは労働が行なわれていればどんな家でも任意に工場(factory)だと宣言するか、どちらかを余儀なくされたのである(189)。〉という本文に付けられた原注です。
  つまり原注187では工場監督官を受け入れさせるためは、蒸気力または水力の利用、特に定められた繊維の加工という二つの条件を必要としたが、今では諸法律は、ざったな職種を包括していて、機械を動かすための機械力の利用は必要な諸要素ではなくなっているということです。つまり工場法はそれだけ多くの職種に適用され、例外的なものではなくなったということのようです。


◎第3パラグラフ(第二に。標準労働日の創造は、長い期間にわたって資本家階級と労働者階級とのあいだに多かれ少なかれ隠然と行なわれていた内乱の産物なのである。)

【3】〈(イ)第二に。(ロ)いくつかの生産様式では労働日の規制の歴史が、また他の生産様式ではこの規制をめぐって今なお続いている闘争が、明白に示していることは、資本主義的生産のある程度の成熟段階では、個別的な労働者、自分の労働力の「自由な」売り手としての労働者は無抵抗に屈服するということである。(ハ)それゆえ、標準労働日の創造は、長い期間にわたって資本家階級と労働者階級とのあいだに多かれ少なかれ隠然と行なわれていた内乱の産物なのである。(ニ)この闘争は近代的産業の領域で開始されるのだから、それはまず近代的産業の祖国、イギリスで演ぜられる(190)。(ホ)イギリスの工場労働者は、ただ単にイギリスの労働者階級だけのではなく、近代的労働者階級一般の選手だったが、彼らの理論家もまた資本の理論にたいする最初の挑戦者だった(191)。(ヘ)それだからこそ、工場哲学者ユアも、「労働の完全な自由」のために男らしく戦った資本に向かってイギリスの労働者階級が「工場法という奴隷制度」を自分の旗じるしにしたということを、労働者階級のぬぐい去ることのできない汚辱として非難するのである(192)。〉(全集第23a巻393頁)

  (イ)(ロ) 第二に。いくつかの生産部門では労働日の規制の歴史が、また他の生産部門ではこの規制をめぐって今なお続いている闘争が、明白に示していますことは、資本主義的生産のある程度の成熟段階では、個別的な労働者、自分の労働力の「自由な」売り手としての労働者は無抵抗に屈服するということです。

  まずフランス語版を紹介しておきます。

  〈第二には、幾つかの生産部門では労働日の規制の歴史が、また、ほかの部門ではこの規制についていまなお続いている闘争が、明白に証明するところによると、孤立した労働者、自分の労働力の「自由な」売り手としての労働者は、資本主義的生産がある段階に達するやいなや、できるだけ抵抗するということもなしに屈服するのである。〉(江夏・上杉訳308頁)

  初版や全集版で〈生産様式〉とあるものは、フランス語版では〈生産部門〉に訂正されており、これの方が適切であることは確かです。
  要するにこれまでの歴史的素描からも分かりますが、いくつかの生産部門やいまなお闘争が続いている生産部門では、資本主義的生産の発展がある程度の成熟段階になると、孤立した労働者は、労働力の「自由な」売り手としてはまったく無力のままに資本に屈伏するということです。

  (ハ) だから、標準労働日の創造は、長い期間にわたって資本家階級と労働者階級とのあいだに多かれ少なかれ隠然と行なわれていた内乱の産物なのです。

  フランス語版です。

  〈したがって、標準労働日の設定は、資本家階級と労働者階級とのあいだの長期で執拗な、また多かれ少なかれ隠蔽された内乱の結果である。〉(同上)

  だから労働日を制限するための標準労働日の設定は、孤立した労働者ではなく団結した労働者階級の、資本家階級とのあいだにおける長期で粘り強い闘い、また多かれ少なかれ隠された内乱の結果なのです。

  (ニ) この闘争は近代的産業の領域で開始されるのですから、それはまず近代的産業の祖国、イギリスで演ぜられました。

  フランス語版です。

  〈この闘争は、近代的産業の領域で開始されたのであるから、それは、この産業の祖国にほかならないイギリスで、まず宣言されざるをえなかった(158)。〉(同上) 

  この労働者階級と資本家階級との闘争は、近代産業の発展とともに開始されたのですから、この産業が始まったイギリスにおいて、まず宣戦布告されたのです。

  (ホ)(ヘ) イギリスの工場労働者は、ただ単にイギリスの労働者階級だけのではなく、近代的労働者階級一般の選手だったのですが、彼らの理論家もまた資本の理論にたいする最初の挑戦者だったのです。だからこそ、工場哲学者ユアも、「労働の完全な自由」のために男らしく戦った資本に向かってイギリスの労働者階級が「工場法という奴隷制度」を自分の旗じるしにしたということを、労働者階級のぬぐい去ることのできない汚辱として非難するのです。

  フランス語版です。

  〈イギリスの工場労働者は近代的労働者階級の最初の選手であったし、彼らの理論家は資本の理論を攻撃した最初の選手であった(159)。したがって、工場哲学者のドクター・ユアは、資本が「労働の完全な/自由(150)」のために男らしく闘ったのに反し、「工場法という奴隷制度」を自分たちの旗に書き記したのは、イギリスの労働者階級にとってぬぐいがたい恥辱である、と言明している。〉(江夏・上杉訳308-309頁)

  このようにイギリスの工場労働者は、近代的労働者階級の最初の階級闘争を担った選手でした。彼らの理論家も資本の理論を攻撃した最初の選手だったのです。
  こういうわけで、資本の肩を持つ工場哲学者のユアは、資本は労働を自由に搾取するために男らしく闘ったのに、労働者は「工場法」という法律に依存して闘ったのはぬぐいがたい恥辱だなどと言明しているのです。

  マルクスはユアについて〈工場制度の破廉恥な弁護者としてイギリスにおいてすら悪名の高いあのユア〉(全集⑨208頁)などと述べています。また次のようにも述べています。

  ユアのような工場制度の弁護者にかぎって、つまり労働のこうした徹底的な没個性化、兵営化、軍隊的紀律、機械への隷属、打鐘による統制、酷使者による監督、精神的および肉体的活動のあらゆる発達の〔可能性の〕徹底的破壊などの弁護者にかぎって、ほんのわずかでも国家が干渉すると、個人の自由の侵害だ、労働の自由な活動の侵害だ、とわめくのである!「過度労働および強制労働。」(エンゲルス、151ページ〔『全集』、第2巻、347ページ〕。)「もしも自由意思による生産的活動が、われわれの知っている最高の喜びであるとすれば、強制労働こそ、最も残酷で、最も屈辱的な苦痛である。」(同上書、149ページ〔「全集』、第2巻、346ページ〕。)〉(草稿集⑨211頁)

  ((2)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(2)

2024-02-15 20:35:16 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(2)


◎原注190

【原注190】〈190 大陸的自由主義の天国ベルギーも、この運動のなんの痕跡も示してはいない。この国の炭坑や鉱山においてさえ、あらゆる年齢層の男女の労働者が、どれだけの時間でもどんな時にも完全な「自由」をもって消費される。そこでの従業人員各/1000人について733人は男、88人は女、135人は16歳未満の少年、44人は16歳未満の少女である。熔鉱炉などでは1000人について男668人、女149人、16歳未満の少年98人、少女85人である。なおそのうえに、成熟および未成熟の労働力の恐ろしい搾取にひきかえ、1日平均、男は2シリング8ぺンス、女は1シリング8ペンス、少年は1シリング2ペンス半という低い労賃である。だが、そのかわりに、ベルギーでは1863年には1850年に比べて石炭や鉄などの輸出の量も価値もほぼ2倍になった。〉(全集第23a巻393-394頁)

  これは〈この闘争は近代的産業の領域で開始されるのだから、それはまず近代的産業の祖国、イギリスで演ぜられる(190)。〉という本文に付けられた原注です。
  標準労働日を確立するための労働者階級と資本家階級との闘争は、近代産業の発祥の地であるイギリスで開始されたが、それに対して、この原注では、ベルギーを例に挙げて、イギリス以外ではそうした階級闘争の痕跡はなかったと述べています。ではベルギーでは、資本の労働に対する搾取はなかったのかというとそうではなくて、マルクスは具体的に炭鉱や鉱山におけるあらゆる年齢層の男女の労働者が働いていたが、彼らは資本によって「自由」に搾取されるまままだったと述べています。
  ベルギーにおける労働者の構成とその低賃金の状態が具体的に詳しく紹介されていますが、にもかかわらず労働者は資本の思いのままに〈どれだけの時間でもどんな時にも完全な「自由」をもって消費され〉たというのです。だからそのおかげでベルギーでは石炭や鉄などの輸出の量も価値もほぼ2倍になったということです。


◎原注191

【原注191】〈191 (イ)今世紀の最初の10年が過ぎてからまもなく、ロバート・オーエンが労働日の制限の必要を単に理論的に主張しただけでなく、10時間労働日をニュー・ラナークの自分の工場で実際に採用したときには、それは共産主義のユートピアとして冷笑された。(ロ)ちょうど彼の「生産的労働と児童教育との結合」が冷笑され、彼の創設した労働者の協同組合事業が冷笑されたのと同じように、である。(ハ)今日では、第一のユートピアは工場法であり、第二のユートピアはすべての「工場法」のなかに公式の慣用句として現われており、そして、第三のユートピアはすでに反動的なごまかしの仮面として役だってさえいるのである。〉(全集第23a巻394頁)

  これは〈イギリスの工場労働者は、ただ単にイギリスの労働者階級だけのではなく、近代的労働者階級一般の選手だったが、彼らの理論家もまた資本の理論にたいする最初の挑戦者だった(191)。〉という本文に付けられた原注です。
  ここでは労働者階級の理論家としてロバート・オーエンが取り上げられています。文節に分けて検討しておきましょう。

  (イ)(ロ) 今世紀の最初の10年が過ぎてからまもなく、ロバート・オーエンが労働日の制限の必要を単に理論的に主張しただけでなく、10時間労働日をニュー・ラナークの自分の工場で実際に採用したときには、それは共産主義のユートピアとして冷笑されました。ちょうど彼の「生産的労働と児童教育との結合」が冷笑され、彼の創設した労働者の協同組合事業が冷笑されたのと同じように、です。

  オーウエンが労働者の、とくに子どもの健康を保障する法律を求めて請願を行ったのは1817年でした。当時、彼はニュー・ラナークの工場主であり、実際に自分の工場で10時間労働日を採用したのです。それは共産主義のユートピアとして冷笑されましたが、それは彼の「生産的労働と児童教育の結合」の主張や彼の創設した労働者の協同組合事業が冷笑されたのと同じだったということです。
  エンゲルスは『状態』において次のように述べています。

  〈工場制度の破壊的な作用は、すでにはやくから一般的な注意をひきはじめた。1802年の徒弟法については、すでにわれわれは述べた。その後、1817年ごろ、のちのイギリス社会主義の建設者で、当時ニュー・ラナーク(スコットランド)の工場主であったロバート・オーエンが、請願書と回顧録をつうじて、労働者、とくに子供の健康にたいする法的保証の必要を、行政当局にたいして説ぎはじめた。故R・ピール卿やそのほかの博愛家たちがオーエンに味方し、あいついで1819年、1825年および1831年の工場法を獲得したが、そのうち、はじめの二つの工場法はまったく守られず、最後の工場法はただ部分的に守られたにすぎなかった。サー・J・C・ホブハウスの提案にもとつくこの1831年の法律は、どんな木綿工場でも、21歳以下の人々を夜間、すなわち夜の7時半から朝の5時半までのあいだに働かせてはならず、またあらゆる工場で、18歳未満の若い者を最高毎日12時間、土曜日には9時間以上働かせてはならない、ということをきめた。しかし労働者は、首を覚悟しなければ自分の雇い主の意に反する証言をすることはできなかったので、この法律はほとんど役にたたなかった。労働者がわりと不穏なうごきを見せた大都市では、とにかくおもだった工場主たちが申し合わせて、この法律にしたがうことになったが、ここでさえも、農村の工場主と同じように、まったくこの法律に無関心な工場主がたくさんいた。そうこうするうちに、労働者たちのあいだで、10時間法案、すなわち18歳未満のすべての者を10時間よりも長く働かせることを禁止する法律にたいする要求がおこった。〉((全集第2巻402頁)

  また『歴史』ではオーエンの業績について次のように述べています。

  〈オーウェンは、ロバート・ピール卿のように、みずからの工場を規制するために議会の制定法を要求することはしないで、全般的な適用のための先例として、かれの工場の取りきめや規則を提案した。かれは、児童労働と労働時間を短縮するための各種の実験を試みた。そして、その結果を、かれは、「ピール委員会」で証言した。かれは、10歳未満の児童を雇用していないこと、および全労働時間は食事のためにさかれる1時間15分をふくむ12時間である、と証言した。かれは、以前には14時間労働をさせていたが、次第にそれを短縮した。かれは、労働時間を一層短縮することを希望した。そして、そうすることによって、製造業者たちが、国内取引においても、外国貿易においても、不利な立場に立たされるであろうとは考えなかった。こうした労働時間制限は、「老若を問わず、労働者たちの健康の少なからぬ改善、育ちゆく世代の教育の大いに注目すべき改善、および国の救貧税の多大の軽減」という結果をもたらすにちがいない、とかれは確信した。かれに雇用されている人びとの「全般的な健康と気力」にみられる大きな改善は、すでに採用された諸改革の結果として生じていた。かれは、「どんな規則的な労働にでも、10歳未満の児童を雇用することが必要である」とは考えなかった。かれは、教育こそが十分に必要であると考えた。「定職がないことで、かれらが悪い習慣を身につけるという恐れはなかったのか」と質問されたとき、かれは、「わたくし自身の経験では、まったくその反対で、かれらの習慣は、その教育の程度に比例してよくなったのがわかったといわなければならない」と答えた。そして10歳から12歳の児童は、半日工としてだけ雇用してもよい、とかれは考えていた。〉(21頁)

  (ハ)  しかし今日では、第一のユートピアは工場法として実現しており、第二のユートピアはすべての「工場法」のなかに公式の慣用句として現われています。そして、第三のユートピアはすでに反動的なごまかしの仮面として役だってさえいるのです。

  ユートピアとして冷笑されたオーエンの主張し実践したものは、今では実現していると述べています。一つは児童労働の労働時間の制限については工場法として実現し、第二のユートピア、つまり「生産的労働と児童教育の結合」はすべての「工場法」のなかに公式の慣用句として現れているということです。そして第三のユートピア、つまり労働者のための協同組合事業については、〈反動的なごまかしの仮面として役だってさえいる〉というのです。この最後の部分はいま一つ具体的になにを指しているのか分かりません。エンゲルスはオーエンの協同組合工場や協同組合売店について次のように述べています。

  〈ロバート・オーエンは、協同組合工場や協同組合売店の父ではあるが、前にも述べたように、この孤立的な変革要素の意義について彼の追随者たちが抱いたような幻想はけっして抱いていなかったのであって、実際に彼のいろいろな試みにおいて工場制度から出発しただけではなく、理論的にもそれを社会革命の出発点だとしていた。〉(全集第23a654頁)

  また『歴史』は、1819年の法案はオーエンの法案を拡張したものだと次のように述べています。

〈結局、1819年に通過したその法律は、オーウェンの草案をきわめて大幅に水増ししたもの/であった。かれの法案は、10歳未満の児童の就労を禁止し、洗礼の記録その他から年齢証明を義務づけることによって、このことを保証するものとされていた。同法は、わずかに年齢制限を9歳と定めたにすぎなかった。オーウェンの法案は、18歳未満のすべての人びとの労働時間を、食事時間を除いて1日に10時間30分に制限するものとされたが、同法は、16歳未満の全員について、食事時間を除いて1日に12時間以上働かせることを禁止した。ナーウェンの法案は、有給で資格のある監督官の任命を規定していたが、同法は、従来どおり、このことに関しては治安判事の意向に委ねた。それは、過去16年間の経験から非実用的であることが証明された制度であったにもかかわらずである。同法はまた、綿工場のみに適用された。一方、オーウェンの法案は、20人もしくはそれ以上の人びとが雇用されているすべての綿、毛織物、亜麻、その他の工場をふくむものであった。同法の真に重要な一条項は、9歳未満の児童労働を禁止することにあった。オーウェンは、この最低年齢を12歳まで引き上げることを希望していたが、10歳という線までは譲歩した。そうであるのに、さらに9歳まで引き下げられたのであった。このことは、不十分なものではあったにせよ、一つの原則の確認ということであった。それは多分、その他のいかなる時期よりもこの時期において一層必要とされていた。〉(23-24頁)

  最後に『資本論辞典』のオーエンの項目の概要を紹介しておきましょう。

  オーエン Robert Owen (1771-1858)イギリスの空想的社会主義者・協同組合主義の創始者.…….‘人間は環境の産物である'というフランスの唯物論的啓蒙主義を信奉し,当時のイギリス産業革命の上昇期にみられた労働者の困窮・堕落をなくすため,この信念から種々の案をつくり実施した.その試みは,すでに1790年来マンチェスターの紡績工場支配人として成功をおさめたが,1800年から1825年にわたってスコットランドのニュー・ラナークの大紡績工場の共同所有者および管理人として同じ方法でいっそラの好成績をあげ全欧州に名声を博した.そこでは,労働者の生活改善.その幼少年子弟の教育に成果をあげ.世界最初の幼稚園や職工の日用品を販売する工場共済店舗を創設した.しかも工場の株主には多大の利益が配当された.このオーエンのやり方は,‘純然たる事務的方法,いわば商人的打算の結果でき上がったもの'(エンゲルス)であり,専門的知識をもった実際的な博愛主義であった.この実践の上に立って,最初の著書《A New View of Society》(1813)が出版された.この博愛主義から共産主義への1820年来の移行は,彼の生涯における転換点となった.彼は.社会改良の道をふさぐ大きな障碍は.私有財産と宗教と現在の婚姻形式だと考えた.……彼は. 1819年の工場における婦人および児童労働の制限にかんする最初の法律の通過のため. 5年間の努力をしているが. 1821年来一方では協同組合(消費組合および生産組合)を提唱Lて,Co-operative Congressを結成し(1831-35).他方では,労働時間を単位とする労働貨幣によって労働生産物を交換する国民衡平労働交換所(National Equitable Labour Exchange)を創設した(1831-34)。そして労働組合の連合に努カし全国労働組合連合(The Grand National Connsolidated Trades' Union) を成立させ(1833-34).第1回大会の議長となった.……エンゲルスは'イギリスにおいて労働者の利益のために行なわれたいっさいの社会運/動.いっさいの現実の進歩は.すべてオーエンの名前に結びついている'と評価しているが.彼は,ただ‘よく指導された労働'のみが富の源泉であると考え,暴力を否定し労働階級独自の政治的運動にたいしてはつねに否定的立場に立った.そのためオーエン主義はイギリスのチャーテイズムおよび協同運動の主流とはなりえなかった.しかし彼は.サン-シモン、フリエとともに空想的社会主義者としてマルクス、エンゲルスによって高く評価されている。……
  マルクスは,……(オーエンが)労働日制限の必要を理論的に主張し,現実にニュー・ラナークの彼の工場で実施したことを指摘し,それが当時,彼の‘生産的労働と児童の教育との結合'および協同組合と同様に,共産主義的空想として物笑いされたこと,しかし今日では第一の空想は工場法となり,第二の空想は工場法中の公けの辞句としてあらわれ,第三の空想はむしろすでに反動的欺瞞の仮面として,役立っていることを指摘している。このうち‘生産的労働と児童の教育との結合'については,それが工場制度から発生したことがオーエンの研究によって明白であることが指摘されている。そしてマルクスは,個々の工場主が工場法制定にたいして大したことはできないとはいえ,オーエンを見ることによっていかに個々の人物が活動的でありうるかが.十分証明されると評価している。彼の共産主義については,それが経済学的,論戦的に登場ずるかぎりでは, リカードの価値および剰余価値に立脚しているとした。彼の〈労働貨幣〉については,商品生産の基礎の上で,労働時間を直接に代表するものとして労働貨幣を考えたジョン・グレイの浅薄な空想論とは対立的に,オーエンは,商品生産とは正反対に対立する生産形態における直接に社会化された労働を前提としていること,それゆえ彼の労働貨幣は,共同生産物にたいする生産者の個人的分担と個人的請求権を確認するにすぎないものであって,彼はけっして労働貨幣によって商品生産の必然的諸条件を回避しようとしているものではないとしている。……〉(478-478頁)


◎原注192

【原注192】〈192 ユア(フランス訳)『工場哲学』、パリ、1836年、第2巻、39、40、67、77ぺージ、その他。〉(全集第23a巻394頁)

  これは〈それだからこそ、工場哲学者ユアも、「労働の完全な自由」のために男らしく戦った資本に向かってイギリスの労働者階級が「工場法という奴隷制度」を自分の旗じるしにしたということを、労働者階級のぬぐい去ることのできない汚辱として非難するのである(192)。〉という本文に付けられた原注です。
  ユアの上記の主張の典拠として、『工場哲学』の参照箇所を示すものです。

  『61-63草稿』から関連する部分を紹介しておきましょう。

  〈{ユアは、国家の側からの労働日の規制である、12あるいは10時間法等々が、まったく労働者の「反逆」のせいで、彼らの組合(彼は攻撃的に「結社」と呼ぶ)のせいで存在するようになったことを認める。「(1818年ごろの紡績工組合の)これらの騒動や抗議の結果、工場の労働時間を規制するサー・ロバト・ピールの法案が1818年に通過した。同様な反抗の風潮がひきつづき現われ、1825年には第二の法案が、1831年にはサー・J・C・ホブハウスの名を冠した第三の法案が通過した。」(第二巻、19ページ。)}
  {「紡績工組合は、白人奴隷とか、キャラコの王冠をいただく黄金神の祭壇に毎年捧げられる児童の生賛とかいったおとぎ話ふうの絵を描いてみせることで、彼らのいいなりになる連中を育成することに完全に成功した。」(第二巻、39、40ページ。)}〉(草稿集⑨272頁)


◎第4パラグラフ(フランスにおける労働時間の規制)

【4】〈(イ)フランスはイギリスのあとからゆっくりびっこを引いてくる。(ロ)12時間法の誕生(193)のためには2月革命が必要だったが、この法律もそのイギリス製の原物に比べればずっと欠陥の多いものである。(ハ)それにもかかわらず、フランスの革命的な方法もその特有の長所を示している。(ニ)それはすべての作業場と工場とに無差別に同じ労働日制限を一挙に課してしまうのであるが、これに比べて、イギリスの立法は、ときにはこの点、ときにはあの点で、やむをえず事態の圧力に屈服するものであって、どうしても新しい裁判上の紛糾を生みやすいのである(194)。(ホ)他方、フランスの法律は、イギリスではただ児童や未成年者や婦人の名で戦い取られただけで近ごろやっと一般的な権利として要求されているもの(195)を、原則として宣言しているのである。〉(全集第23a巻394頁)

  (イ)(ロ) フランスはイギリスのあとからゆっくりびっこを引いてきます。12時間法の誕生のためには2月革命が必要でしたが、この法律もそのイギリス製の原物に比べますとずっと欠陥の多いものです。

  このパラグラフから第7節の副題「イギリスの工場立法が諸外国に起こした反応」が問題になり、まずフランスが取り上げられています。
  フランスの工場法の成立はイギリスに比べて遅く、しかも不完全なものだったということです。工場監督官のレッドグレイヴによれば、フランスでは1848年以前には工場における労働日を制限するための法律は存在しないも同然だったということです。次のように述べています。

  〈フランスで労働を規制している法律には二つのものがある。一つは、指定されたある種の諸労働における児童の労働と教育とにかかわるもので、1841年に制定された。もう一つは、あらゆる種類の労働における成人の労働時間を制限するもので、1848年に制定された。〉(草稿集④349頁)

  しかしこの1841年の法律は〈系統的な監察についての規定を含んでいないために〉(同355頁)、実際には効力のないものに終わったということです。
  もう一つの1848年に制定されたものは、2月革命の革命政府、国民会議によって制定されたものです。

  〈1848年3月2日に臨時政府は一つの法令を布告した。それによれば、工場ばかりでなくすべての製造所や作業場においても、児童ばかりでなく成人労働者についても、労働時間がパリでは10時間に、各県では11時間に制限さ/れた。〉(草稿集④349-350頁)

  しかしこれらも〈政府の執効な命令にもかかわらず、この法令は執行されえなかった。〉(同350頁)とも述べています。

  (ハ)(ニ)(ホ) それにもかかわらず、フランスの革命的な方法もその特有の長所を示しています。それはすべての作業場と工場とに無差別に同じ労働日制限を一挙に課してしまうのですが、これに比べて、イギリスの立法は、ときにはこの点、ときにはあの点で、やむをえず事態の圧力に屈服するものであって、どうしても新しい裁判上の紛糾を生みやすいのでした。他方、フランスの法律は、イギリスではただ児童や未成年者や婦人の名で戦い取られただけで近ごろやっと一般的な権利として要求されているものを、原則として宣言しているのです。

  しかしフランスの労働時間を制限する法律は、問題点はあったとしても、革命政府によって行われたという特有の長所を持っていたということです。イギリスの工場法は、最初は紡績業や織物業など繊維産業に限定して、しかも児童や少年、婦人労働者に限ったものでしたが、フランスの法律は、すべての作業場と工場とに無差別に同じ労働日の制限を一緒に課してしまうというものだったということです。
  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈国民議会はこの法律を、1848年9月8日の法律によって次のように修正した、--「工場(マニュファクチュア)および製造所(ワーク)における労働者の1日の労働は12時間を越えてはならない。政府は、作業の性質または装置の性質が必要とする場合には、この法令の適用を除外する旨を宣告する権能を有する」。1851年5月17日の布告によって、政府はこの除外例を指定した。まず第一に、1848年9月8日の法律が適用されないさまざまの部門が規定されている。そしてさらに、次のような制限が加えられた、--「1日の終りにおける機械類の掃除。原動機、ボイラー、機械類、建物の故障によって必要となった作業。以下の事例においては労働の延長が許される。--染色場、漂白場、綿捺染場における反物の洗浄および伸張について、1/日の終りに1時間。砂糖工場、精練所、化学工場では2時間。染色場、捺染場、仕上げ工場では、工場主が選定して知事が認可した年間120日は2時間」。{工場監督官A・レッドグレイヴは、『工場監督官報告書。1855年10月31日にいたる半年間』の80ページで、フランスにおけるこの法律の実施について次のように述べている、--「若干の工場主が私に請け合ったところによれば、彼らが労働日を延長する許可を利用したいと思ったときには、労働者たちは、あるときに労働日が延長されればほかのときにいつもの時間数が短縮されることになるだろう、という理由で反対した。……また、彼らが1日12時間を越える労働に反対したのは、とくに、この時間を規定した法律が、共和国の立法のうち彼らに残された唯一の善事だからである」。〉(350-351頁)


◎原注193

【原注193】〈193 『1855年のパリ国際統計会議』の報告書には、なかんずく次のように言われている。「工場や作業場での1日の労働の継続時間を12時間に制限するフランスの法律は、この労働を一定の固定した時間」(時限)「の範囲内に局限しないで、/ただ児童労働について午前5時から晩の9時までの時限が規定されているだけである。そこで、一部の工場主は、このわざわいをはらんだ沈黙が彼らに与える権利を利用して、おそらく日曜だけを除いて毎日中断なしに労働させるのである。そのために彼らは2組に分けた労働者を使用し、どちらの組も12時間より長く仕事場で過ごすことはないが、工場の作業は昼も夜も続けられる。法律は守られているが、人道のほうはどうだろうか?」「夜間労働が人体に及ぼす破壊的影響」のほかに、「同じうす暗い仕事場で男女が夜間いっしょに働くことの不幸な影響」も強調されている。〉(全集第23a巻394-395頁)

  これは〈12時間法の誕生(193)のためには2月革命が必要だった〉という本文に付けられた原注です。
  これはパリ国際統計会議の報告書から12時間法の内容について紹介しています。それによれば、労働時間を12時間に規定しているものの、それが一定の固定した範囲内に局限したものではないので、工場主たちは労働者を2組に分けて、交替して使い、中断無く昼も夜も労働させたということのようです。ただ児童労働については午前5時から晩の9時までに限定されていたということです。だから24時間中断なく労働させるということは、確かに法律には違反していないが、人道上は問題があるのだというのです。というのは夜間労働が人体に及ぼす影響もあるし、薄暗い仕事場で男女が夜間に働くにことによる「不幸な影響」もあるというわけです。


◎原注194

【原注194】〈194 「たとえば私の管区では、同じ工場建物のなかで、同じ工場主が、『漂白工場および染色工場法』のもとでは漂白業者および染色業者であり、『捺染工場法』のもとでは捺染業者であり、『工場法」のもとでは仕上げ業者である。」(『工場監督官報告書。一八六一年一〇月三1日』、二〇ページにあるべーカー氏の報告。) これらの法律のいろいろに違った規定とそこから生ずる混乱とを列挙してから、ベーカー氏は次のように言っている。「もし工場所有者が法律を回避しようと思えば、これらの三つの法律の実施を確保することがどんなに困難にならざるをえないかは、これによってわかるであろう。」〔同前、二一べージ。〕だが、これによって弁護士諸君に保証されているものは、訴訟である。〉(全集第23a巻395頁)

  これは〈それはすべての作業場と工場とに無差別に同じ労働日制限を一挙に課してしまうのであるが、これに比べて、イギリスの立法は、ときにはこの点、ときにはあの点で、やむをえず事態の圧力に屈服するものであって、どうしても新しい裁判上の紛糾を生みやすいのである(194)。〉という本文に付けられた原注です。
  ここでは工場監督官のベーカーの報告が紹介されています。それによれば同じ工場主が「漂白工場および染色工場法」のもとでは、漂白業者や染色業者になり、「捺染工場法」のもとでは捺染業者になり、「工場法」のもとでは仕上げ業者になることになり、同じ人物がさまざまな規定を受けることによる混乱を指摘しているということです。そしてさまざまな法律が補足的にあちこちに立てられたために、それを回避する方法も多様になり、そのたびに裁判をやらなければならなくなるということのようです。


◎原注195

【原注195】〈195 そこで、ついに工場監督官たちも思い切って次のように言うのである。「このような反対し(労働時間の法的制限にたいする資本の)「は、労働の権利という大原則の前に屈しなければならない。……たとえ疲労がまだ問題にならなくても、自分の労働者の労働にたいする雇い主の権利が停止されて労働者の時間が労働者自身のものになるような時点があるのである。」(『工場監督官報告書。1862年10月31日』、54ページ。)〉(全集第23a巻395頁)

  これは〈他方、フランスの法律は、イギリスではただ児童や未成年者や婦人の名で戦い取られただけで近ごろやっと一般的な権利として要求されているもの(195)を、原則として宣言しているのである。〉どいう本文に付けられた原注です。
  これはフランスでは最初から原則として一般的に権利として要求されているものが、イギリスではようやく最近になって一般的な原則として要求されるようになったということの例として、工場監督官報告書の一文が紹介されています。要するに「労働の権利という大原則」を掲げて、労働者の労働に対する雇主の権利が停止されて、労働者の時間が労働者自身のものになるような時点があるのだ、と主張していることのようです。


◎第5パラグラフ(北アメリカ合衆国の8時間労働日の運動)

【5】〈(イ)北アメリカ合衆国では、奴隷制度が共和国の一部をかたわにしていたあいだは、独立な労働運動はすべて麻痺状態にあった。(ロ)黒い皮の労働が焼き印を押されているところでは、白い皮の労働が解放されるわけがない。(ハ)しかし、奴隷制度の死からは、たちまち一つの新しく若返った生命が発芽した。(ニ)南北戦争の第一の成果は、機関車という1歩7マイルの長靴で大西洋から太平洋までを、ニュー・イングランドからカリフォルニアまでを、またにかける8時間運動だった。(ホ)ボルティモアの全国労働者大会〔95〕(1866年8月16日) は次のように宣言する。/
(ヘ)「この国の労働を資本主義的奴隷制度から解放するために必要な現下最大の急務は、アメリカ連邦のすべての州で標準労働日を8時間とする法律の制定である。われわれは、この輝かしい成果に到達ずるまで、われわれの全力を尽くすことを決意した(196)。」
  (ト)それと同時に(1866年9月初め)ジュネーヴの「国際労働者大会」〔第一インタナショナルの大会〕は、ロンドンの総務委員会の提案にもとづいて、次のように決議した。(チ)「われわれは労働日の制限を、それなしには他のいっさいの解放への努力が挫折するよりほかはない一つの予備条件として宣言する。……われわれは8労働時間を労働日の法定限度として提案する。〔96〕」〉(全集第23a巻395-396頁)

  (イ)(ロ) 北アメリカ合衆国では、奴隷制度が共和国の一部をかたわにしていたあいだは、独立な労働運動はすべて麻痺状態にありました。黒い皮の労働が焼き印を押されているところでは、白い皮の労働が解放されるわけがないのです。

  アメリカの労働者階級の闘いは、アメリカの南北戦争によって南部の奴隷解放が実現して初めて、その発展が可能になったということが強調されています。それがやや文学的な表現によって述べられています。
  マルクスの合衆国大統領リンカンに宛てた書簡からも紹介しておきましょう(全文は付属資料に)。

  〈北部における真の政治的権力者である労働者たちは、奴隷制が彼ら自身の共和国をげがすのを許していたあいだは、また彼らが、自分の同意なしに主人に所有されたり売られたりしていた黒人にくらべて、みずから自分を売り、みずから自己の主人を選ぶことが白人労働者の最高の特権であると得意になっていたあいだは--彼らは真の労働の自由を獲得することもできなかったし、あるいは、ヨーロッパの兄弟たちの解放闘争を援助することもできなかったのであります。〉(全集第16巻17頁)

  (ハ)(ニ) しかし、奴隷制度の死からは、たちまち一つの新しく若返った生命が発芽しました。南北戦争の第一の成果は、機関車という1歩7マイルの長靴で大西洋から太平洋までを、ニュー・イングランドからカリフォルニアまでを、またにかける8時間運動でした。

  しかし南北戦争が北軍の勝利に終わり、奴隷制度の廃止が決まると同時に、アメリカの労働運動は息を吹き返し、その成果は東から西へとアメリカ大陸を横断する鉄道のように進展した8時間労働運動だったというのです。
  全集第16巻の注解138を紹介しておきます。

  〈注解(138)--アメリカ合衆国では、内戦以後、法律による8時間労働日の制定を要求する運動が強まった。全国にわたって、8時間労働日獲得闘争のための8時間労働連盟(Eight-Hour Leagues)が結成された。全国労働同盟がこの運動に参加した。同盟は、1866年8月ボルティモアでひらかれた全国大会で、8時間労働日の要求は資本主義的奴隷制から労働を解放するための必要な前提である、と声明した。〉(第16巻637頁)

  また〈1歩7マイルの長靴〉という部分には新日本新書版では次のような訳者注が付いています。

  〈イギリスの童話『一寸法師』に出てくる人食い鬼が履く、1またぎで7リーグ(約21マイル)進める長靴にちなむ〉(524頁)

  (ホ)(ヘ)ボルティモアの全国労働者大会(1866年8月16日) は次のように宣言します。「この国の労働を資本主義的奴隷制度から解放するために必要な現下最大の急務は、アメリカ連邦のすべての標準労働日を8時間とする法律の制定である。われわれは、この輝かしい成果に到達ずるまで、われわれの全力を尽くすことを決意した。」

  アメリカの8時間労働運動を牽引した全国労働同盟は1866年にボルティモアの大会で創立されましたが、その宣言のなかで、アメリカの労働者を資本主義的奴隷制度から解放するためには、8時間を標準労働日とする法律の制定であるとしたのです。
  全集版には〈ボルティモアの全国労働者大会〔95〕〉には注釈95が付いています。それは次のようなものです。

  〈(95) ボルティモァの全アメリカ労働者大会は1866年8月20日から25日まで開かれた。大会には労働組合に結集した6万人以上の労働者を代表する60名の代議員が出席した。大会は次のような諸問題を討議した。すなわち、8時間労働日の法定、労働者の政治活動、協同組合、すべての労働者の労働組合への結集、およびその他の諸問題である。さらに労働者階級の政治組織である全国労働同盟(ナシロナル・レーバー・ユニオン)の設立が決議された。〉(全集第23a巻17頁)

  また全集第16巻の注解205も紹介しておきます。

 〈注解(205)--アメリカ合衆国の全国労働同盟(National Labor Union)は、1866年8月にボルティモアの大会で創立された。アメリカの労働運動のすぐれた代表者であるW・H・シルヴィスがこの創立に積極的に参加した。全国労働同盟は、当初から国際労働者協会を支持した。1867年8月の全国労働同盟シカゴ大会では、トレヴェリックが国際労働者協会の定例大会への代議員に選出されたが、彼はローザンヌ大会に出席しなかった。全国労働同盟の一代議員キャメロンが、1869年にインタナショナルのバーゼル大/会の終わりの数回の会議に参加した。1870年8月、シンシナティでひらかれた全国労働同盟の大会は、国際労働者協会の原則にたいする同意を宣言し、協会への加入の意向を表明した決議を採択した。しかしこの決定は実行されなかった。〉(第16巻652-653頁)

  さらに新日本新書版にも同じ部分に次のような訳者注が付いています。

  〈恒久的全国組織の結成、8時間労働日の法定、未組織労働者の組織加盟、協同組合問題等を議題として、6万余名を擁する59の組織によって、8月20-25日に開かれた大会。マルクスは、1866年10月9日のクーゲルマン宛の手紙でこの大会を高く評価した(邦訳『全集』、第31巻、441頁)。なおマルクスは、これを「労働者総会(1866年8月16日)」と誤記した。〉(524頁)

  ついでですから、マルクスのクーゲルマン宛の手紙も見ておきましょう。

  〈私はジュネーヴの第1回大会について非常に懸念していました。しかし、大会は全体として私の予想以上にうまくいきました。フランス、イギリスおよびアメリカでの影響は思いがけないものでした。私は行くことができず、また行こうとも思いませんでしたが、ロンドンの代議員たちの綱領(『個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示』--引用者)を書いてやりました。私はわざとそれを、労働者の直接的な相互理解と協力が可能であり、階級闘争と労働者を階級に組織することの欲求に直接に栄養と刺激とを与えるような項目に限定しました。……(中略)……
  同時にボルティモアでひらかれたアメリカの労働者大会は私に非常な喜びをもたらしました(545)。資本にたいする闘争の組織化がここでのスローガンでした。そして不思議なことに、私がジュネーヴのために提出した要求の大部分が、労働者の正しい本能からそこでもまた提出されたのです。/
  わが中央評議会(ここで私はそれに大いに参加しました)が生命をふきこんだ当地の改革運動は、いまや巨大な抵抗しがたい規模にひろがりました。私はいつも舞台裏にいましたが、運動が軌道にのってからは、もうそれ以上これにかかわらないことにしています。
  あなたのK・マルクス〉(全集第31巻、441-442頁)。
  〈注解545--ボルティモアの労働者大会(1866年8月20-25日)には、59の労働組合と、8時間労働日のための闘争を行った他の多数の団体が代議員を派遣した。この大会では、とりわけ次の問題が論ぜられた。すなわち、8時間労働日の法律による実施およびすべての労働者の労働組合への加盟である。大会は、全国労働同盟(National Labor Union)の設立を決議した。〉(全集31巻610頁)

  (ト)(チ) それと同時に(1866年9月初め)ジュネーヴの「国際労働者大会」〔第一インタナショナルの大会〕は、ロンドンの総務委員会の提案にもとづいて、次のように決議しました。「われわれは労働日の制限を、それなしには他のいっさいの解放への努力が挫折するよりほかはない一つの予備条件として宣言する。……われわれは8労働時間を労働日の法定限度として提案する。」

  アメリカの全国労働同盟の創立と同時に、ジュネーヴの第一インターナショナルの大会では、労働日の制限を、何より重要であることを宣言し、8時間労働日の制定を提案したということです。
  全集版には〈「われわれは労働日の制限を、それなしには他のいっさいの解放への努力が挫折するよりほかはない一つの予備条件として宣言する。……われわれは8労働時間を労働日の法定限度として提案する。〔96〕」〉と注解96が付いていますが、それは次のようなものです。

 〈(96) ここで引用された国際労働者協会ジュネーヴ大会の決議は、カール・マルクスの執筆した『個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示』にもとづいて採択された。(本全集、第16巻、190-199(原)ぺージを見よ。)〉(全集第23a巻17-18頁)

  というわけで、マルクスが起草した《個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示》(『ジ・インタナショナル・クリア』1867年2月20日および3月13日付第6/7号および第8/9/10号)の「労働日の制限」の項目を紹介しておきます。

 〈3 労働日の制限

  労働日の制限は、それなしには、いっそうすすんだ改善や解放の試みがすべて失敗に終わらざるをえない先決条件である。
  それは、労働者階級、すなわち各国民中の多数者の健康と体力を回復するためにも、またこの労働者階級に、知的発達をとげ、社交や社会的・政治的活動にたずさわる可能性を保障するためにも、ぜひとも必要である。
  われわれは労働日の法定の限度として8時間労働を提案する。このような制限は、アメリカ合衆国の労働者が全国の労働者が全国的に要求している(138)ものであって、本大会の決議はそれを全世界の労働者階級の共通の綱領とするであろう。
  工場法についての経験がまだ比較的に日のあさい大陸の会員の参考としてつけくわえて言えば、この8労働時間が1日のうちのどの刻限内におこなわれるべきかを決めておかなければ、法律によるどんな制限も役にはたたず、資本によってふみにじられてしまうであろう。この刻限の長さは、8労働時間に食事のための休憩時間を加えたもので決定されなければならない。たとえば食事のためのさまざま/な休止時間の合計が1時間だとすれば、法定の就業刻限の長さは9時間とし、たとえぽ午前7時から午後4時までとか、午前8時から午後5時までとかと決めるべきである。夜間労働は、法律に明示された事業または事業部門で、例外としてのみ許可するようにすべきである。方向としては、夜間労働の完全な廃止をめざさなければならない。
  本項は、男女の成人だけについてのものである。ただ、婦人については、夜間労働いっさい厳重に禁止されなければならないし、また両性関係の礼儀を傷つけたり、婦人の身体に有毒な作用やその他の有害な影響を及ぼすような作業も、いっさい厳重に禁止されなけれぽならない。ここで成人というのは、18歳以上のすべての者をさす。〉(全集第16巻191-192頁)

  ((3)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(3)

2024-02-15 20:11:49 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(3)


◎原注196

【原注196】〈196 「われわれダンカークの労働者は次のことを宣言する。現在の制度のもとで要求される労働時間はあまりにも長すぎ、労働者のために休息や進歩のための時間を少しも残さず、むしろ、奴隷制度よりもわずかばかりましな隷属状態(“a condition of servitude but little better than siavery")に労働者を抑えつけるものである。それゆえ、1労働日は8時間で十分であり、また法律によって十分と認められなければならないということ、われわれは、強力な槓杆(テコ)である新聞に援助を求め……そして、この援助を拒むすべてのものを労働の改革と労働者の権利との敵とみなすということが決議されるのである。」(1866年、ニューヨーク州ダンカークにおける労働者の決議。)〉(全集第23a巻396頁)

  これは1866年8月のボルティモアの全国労働者大会の宣言の最後に付けられた原注です。ニューヨーク州ダンカークにおける労働者の決議が引用されています。8時間労働日の法律による制定を求め、新聞に協力を求めるという内容の決議になっています。全国労働同盟の創立大会の決議では、〈この国の労働を資本主義的奴隷制度から解放するために必要な現下最大の急務は、アメリカ連邦のすべての州で標準労働日を8時間とする法律の制定である。〉とありましたから、〈ニューヨーク州ダンカーク〉でも同様の決議が行われていることが紹介されていると考えられます。


◎第6パラグラフ(大西洋の両岸で生産関係そのものから本能的に成長した労働運動)

【6】〈(イ)こうして、大西洋の両岸で生産関係そのものから本能的に成長した労働運動は、イギリスの工場監督官R・J・サーンダーズの次のような陳述を裏書きするのである。
(ロ)「社会の改良へのさらに進んだ諸方策は、もしあらかじめ労働日が制限されて、規定されたその限度が厳格に強制されるのでなければ、けっして成功への見込みをもって遂行されることはできないのである。(197)」〉(全集第23a巻396頁)

  (イ)(ロ) こうして、大西洋の両岸で生産関係そのものから本能的に成長した労働運動は、イギリスの工場監督官R・J・サーンダーズの次のような陳述を裏書きするのです。「社会の改良へのさらに進んだ諸方策は、もしあらかじめ労働日が制限されて、規定されたその限度が厳格に強制されるのでなければ、けっして成功への見込みをもって遂行されることはできないのである。」

  ヨーロッパ、特にイギリスの10時間労働運動と北アメリカの8時間労働運動という大西洋の両岸で発達した労働運動は、ともに労働時間の制限を掲げているという点で、工場監督官サーンダースの次のような陳述を裏書きしているということです。それは、社会改良へのさらに進んだ方策のためには、あらかじめ労働日が制限されていて、厳格に強制されるのでなければ、決して成功への見込みはないというものです。

  『賃金・価格・利潤』から紹介しておきます。

 労働日の制限についていえば、ほかのどの国でもそうだが、イギリスでも、法律の介入によらないでそれが決まったことは一度もなかった。その介入も、労働者がたえず外部から圧力をくわえなかったらけっしてなされはしなかったであろう。だがいずれにしても、その成果は、労働者と資本家とのあいだの私的な取決めで得られるはずのものではなかった。このように全般的な政治活動が必要であったということこそ、たんなる経済行動のうえでは資本のほうが強いことを立証するものである。〉(全集第19巻150頁)


◎原注197

【原注197】〈197 『工場監督官報告書。1848年10月31日』、112ページ。〉(全集第23a巻396頁)

  これは本文で引用されている工場監督官サーンダースの陳述の典拠を示すものです。


◎第7パラグラフ(労働者たちは団結して、階級として、資本との自由意志的契約によって自分たちと同族とを死と奴隷状態とに売り渡すことを妨げる一つの国法を、超強力な社会的障害物を、強要しなければならない)

【7】〈(イ)われわれの労働者は生産過程にはいったときとは違った様子でそこから出てくるということを、認めざるをえな/いであろう。(ロ)市場では彼は「労働力」という商品の所持者として他の商品所持者たちに相対していた。(ハ)つまり、商品所持者にたいする商品所持者としてである。(ニ)彼が自分の労働力を資本家に売ったときの契約は、彼が自由に自分自身を処分できるということを、いわば白紙の上に墨くろぐろと証明した。(ホ)取引がすんだあとで発見されるのは、彼が少しも「自由な当事者」ではなかったということであり、自分の労働力を売ることが彼の自由である時間は彼がそれを売ることを強制されている時間だということ(198)であり、じっさい彼の吸血鬼は「まだ搾取される一片の肉、一筋の腱、一滴の血でもあるあいだは(199)」手放さないということである。(ヘ)彼らを悩ました蛇〔97〕にたいする「防衛」のために、労働者たちは団結しなければならない。(ト)そして、彼らは階級として、彼ら自身が資本との自由意志的契約によって自分たちと同族とを死と奴隷状態とに売り渡すことを妨げる一つの国法を、超強力な社会的障害物を、強要しなければならない(200)。(チ)「売り渡すことのできない人権」のはでな目録に代わって、法律によって制限された労働日というじみな大憲章〔98〕が現われて、それは「ついに、労働者が売り渡す時間はいつ終わるのか、また、彼自身のものである時間はいつ始まるのか、を明らかにする(201)」のである。(リ)なんと変わりはてたことだろう!〔Quantum mutatusab illo!〔99〕〉(全集第23a巻頁396-397)

  (イ) わたしたちの労働者は生産過程にはいったときとは違った様子でそこから出てくるということを、認めざるをえないでしょう。

  まずフランス語版を最初に紹介しておくことにします。

  〈われわれの労働者は生産の暑い室(ムロ)に入ったときとはちがった様子でそこから出てくる、ということを認めないわけにはいかない。〉(江夏・上杉訳311頁)

  以前、第2篇第4章「貨幣の資本への転化」の最後の一文は次のようなものでした。

  〈この、単純な流通または商品交換の部面から、卑俗な自由貿易論者は彼の見解や概念を取ってくるのであり、また資本と賃労働との社会についての彼の判断の基準を取ってくるのであるが、いまこの部面を去るにあたって、われわれの登場人物たちの顔つきは、見受けるところ、すでにいくらか変わっている。さっきの貨幣所持者は資本家として先に立ち、労働力所持者は彼の労働者としてあとについて行く。一方は意味ありげにほくそえみながら、せわしげに、他方はおずおずと渋りがちに、まるで自分の皮を売ってしまってもはや革になめされるよりほかにはなんの望みもない人のように。〉(全集第23a巻231頁)

  こうして労働者は生産過程に入っていったわけですが、そこではすでに見たように苛酷な搾取の現実が待ち受けていました。そして今度はそこから出てくるときはまた違った様子でそこから出てくるのだというのです。

  (ロ)(ハ)(ニ) 市場では彼は「労働力」という商品の所持者として他の商品所持者たちに相対していました。つまり、商品所持者にたいする商品所持者としてです。彼が自分の労働力を資本家に売ったときの契約は、彼が自由に自分自身を処分できるということを、いわば白紙の上に墨くろぐろと証明していたのです。

   まずフランス語版です。

  〈彼は市場では、別の商品の所有者に対する「労働力」商品の所有者として、商人にたいする商人として、現われた。彼が自分の労働力を売ったさいの契約は、売り手と買い手双方の自由意志のあいだの合意から生じているように思われた。〉(同前) 

  この市場では労働者は労働力の所持者としてどうだったかも、やはり第2篇第4章で次のように述べられていました。

  〈労働力の売買が、その限界のなかで行なわれる流通または商品交換の部面は、じっさい、天賦の人権のほんとうの楽園だった。ここで支配しているのは、ただ、自由、平等、所有、そしてベンサムである。自由! なぜならば、ある一つの商品たとえば労働力の買い手も売り手も、ただ彼らの自由な意志によって規定されているだけだから。彼らは、自由な、法的に対等な人として契約する。契約は、彼らの意志がそれにおいて一つの共通な法的表現を与えられる最終結果である。平等! なぜならば、彼らは、ただ商品所持者として互いに関係し合い、等価物と等価物とを交換するのだから。所有! なぜならば、どちらもただ自分のものを処分するだけだから。ベンサム! なぜならば、両者のどちらにとっても、かかわるところはただ自分のことだけだから。彼らをいっしょにして一つの/関係のなかに置くただ一つの力は、彼らの自利の、彼らの個別的利益の、彼らの私的利害の力だけである。そして、このように各人がただ自分のことだけを考え、だれも他人のことは考えないからこそ、みなが、事物の予定調和の結果として、またはまったく抜けめのない摂理のおかげで、ただ彼らの相互の利益の、公益の、全体の利益の、事業をなしとげるのである。〉(全集第23a巻230-231頁)

  つまり労働者は自身の労働力商品の所持者として資本家に相対し、商品交換の法則にもとづいて契約を交わしたのでした。だからそれは売り手と買い手の双方の自由意志の合意にもとづくものであったかに思われたのです。

  〈いわば白紙の上に墨くろぐろと〉という部分に新日本新書版には次のような訳者注が付いています。

  〈ゲーテ『ファウスト』、第1部、「書斎(第2)」の学生の言葉。手塚訳、中公文庫、第1部、137ページ〉(527頁)

  (ホ) 取引がすんだあとで発見されるのは、彼が少しも「自由な当事者」ではなかったということであり、自分の労働力を売ることが彼の自由である時間は、実は彼がそれを売ることを強制されている時間だということなのです。そしてじっさい彼の吸血鬼は「まだ搾取される一片の肉、一筋の腱、一滴の血でもあるあいだは」手放さないということが分かったのです。

  フランス語版です

  〈取引がいったん完了すると、彼がけっして「自由な当事者」でなかったということ、彼が自分の労働力を売ることを許されている時間は、彼がそれを売ることを強制されている時間であるということ(166)、実際には、彼を吸う吸血鬼は、「搾取すべぎ一片の肉、一筋の腱、一滴の血が彼に残っているかぎり(167)」、けっして彼を手放さないということ、が発見される。〉(同前)

  しかし労働者は彼の労働力を売り渡してしまうと、彼が決して自由な当事者ではなかったことに気づきます。彼が自由意志で労働力を売り渡したと思われたのは、実は彼にはそれ以外の選択肢がなく、ただ自分の労働力を売る以外に彼が生きていく手段がなかったからだからです。つまり彼は自由意志で売ったつもりが、そうではなく売ることを強制される関係のなかに彼がすでに置かれていたということなのです。そして実際には販売された労働力は、彼自身の生身の中に存在するわけですから、彼自身が資本によって一片の肉、一筋の腱や、一滴の血までもが搾取され搾り取られる運命にあるということなのです。

  (ヘ)(ト) 彼らを悩ました蛇にたいする「防衛」のために、労働者たちは団結しなければなりません。そして、彼らは階級として、彼ら自身が資本との自由意志的契約によって自分たちと同族とを死と奴隷状態とに売り渡すことを妨げる一つの国法を、超強力な社会的障害物を、強要しなければならないのです。

  〈労働者たちは、「自分たちの責苦の蛇(168)」にたいして身を守るためには、結集しなければならず、また、彼らやその子孫が「自由契約」によって奴隷状態や死にいたるまで資本に売り渡されることを阻止するような乗り越せない柵、すなわち社会的障害物を、強力な集団的努力によって、階級の圧力によって、うち建てなければならない(169)。〉(同前)

  だからこうした運命にある労働者は彼らを悩ます蛇から自身の身を守るためには、労働者たちは団結しなければならないのです。個々ばらばらでは資本の支配に抵抗するすべはありません。彼らは階級として、彼ら自身が資本との関係のなかで、自分たちの同族の死とその子孫が奴隷状態に陥らないように、社会的障害物を、集団的な努力によって、階級の圧力によって、勝ち取らなければなりせん。

  〈彼らを悩ました蛇〔97〕〉の注解97は次のようなものです。

  〈(97) 彼らを悩ました蛇--ハインリヒ・ハイネの時事詩『ハインリヒ』のなかの言葉の言い変え。〔岩波文庫版、番匠谷訳『ハイネ新詩集』、273ぺージ。〕〉(全集第23a巻18頁)

  フランス語版では上記のように次のような原注168が付いています。

  〈(168) ハインリヒ・ハイネの言葉。〉(江夏・上杉訳312頁)

  新日本新書版には次のような訳者注が付いています。

  〈旧約聖書、民数記、21・4-9の物語から。なおハインリヒ・ハイネ『新詩集』、時事詩、第9「ハインリヒ」の末尾の句参照。井上正蔵訳、『ハイネ全詩集』Ⅱ、角川書店、399ページ。番匠谷英一訳、岩波文庫、273ページ。〉(527頁)

  (チ)(リ) 「売り渡すことのできない人権」のはでな目録に代わって、法律によって制限された労働日というじみな大憲章が現われて、それは「ついに、労働者が売り渡す時間はいつ終わるのか、また、彼自身のものである時間はいつ始まるのか、を明らかにする」のです。しかしなんと変わりはてたことでしょうか!

  〈こうして、「人権」の華麗な目録が一つの慎み深い「大憲章」にとってかわられるが、この「大憲章」は、労働日を法定し、「労働者の売る時間がいつ終わって労働者に属する時間がいつ始まるかを、ついに明瞭に示す(170)」のである。なんと変わりはてたことだろう!〉(同上)

  それは法律によって労働日を制限することです。10時間労働日や8時間労働日の法定によって、労働者は労働力を売り渡す時間は何時終わり、何時から彼自身の時間が始まるのかを明らかにすべきなのです。
  売り渡すことのできない人権という派手な目録に代わって、売り渡す労働力を法的に制限するじみな憲章を、すなわち労働日の制限という憲章を打ち立て、労働者が売り渡す時間は何時に終わり、何時から自分の時間が始まるのかを明瞭に示す必要があるのです。しかしそれにしても、対等な商品所持者として自由意志で結んだ契約だったにも関わらず、法的保護を必要としなければならないとは、何と変わりはたてことでしょうか。

  〈「売り渡すことのできない人権」〉には新日本新書版には次のような訳者注が付いています。

  〈1776年のヴァージニアの「権利章典」ほかに由来する用語〉(527頁)

  全集版に付いている〈大憲章〔98〕〉の注解98は次のようなものです。

  〈(98) 自由の大憲章(Magna Charta Libertatum)--騎士階級と都市とに支持されて立ち上がった大封建諸侯、王臣貴族、教会諸侯たちがイギリス国王ジョン1世(欠地王) に強要した文書。1215年6月15日に署名された憲章は特に大封建諸侯のために国王の権利を制限し、また騎士階級や都市にたいするいくつかの譲歩を含んでいた。人口の主要部分である農奴には憲章はなんの権利も与えなかった。
  マルクスがここで言っているのは、イギリスの労働者階級が長い執拗な闘争で獲得した労働日制限のための諸法律のことである。〉(同前)

  新日本新書版にも次のような訳者注が付いています。

  〈イギリスの封建貴族が都市商人を見方にして王権を制限した1215年の文書。ここでは、労働日制限の諸法律をさす〉(527頁)

  〈なんと変わりはてたことだろう!〔Quantum mutatusab illo!〔99〕〉の注解99は次のようなものです。

  〈(99) なんと変わり果てたことだろう(Quanturm mutatua ab itto)--ウェルギリウスの叙事詩『アイネーイス』、第2書、詩節274の句。〔河出書房版『世界交学全集』、古典篇、ギリシア・ローマ文学篇、樋口・藤井訳、227ページ。〕〉(全集第23a巻18頁)

  新日本新書版にも次のような訳者注が付いています。

  〈ウェルギリウス『アエネイス』、第2巻、274行。泉井久之助訳、岩波文庫、上、98ページ〉(527頁)

  この最後の一文は、フランス語版ではわざわざ下線を引いて強調されていますが、イギリス語版は、この部分を次のように訳しています。

  〈なんと偉大なる変化がここに始まったことか ! * ( ラテン語 ローマの詩人 ウェルギリウス )〉

  これだと労働日を法的に制限するということを偉大な変化として受け止め、それが始まったのだという理解になります。果たしてこうした理解がよいのかどうかは判断の分かれるところです。ただこのパラグラフそのものは〈われわれの労働者は生産過程にはいったときとは違った様子でそこから出てくるということを、認めざるをえないであろう〉という一文で始まっています。つまり生産過程に入るために、労働者は労働力という商品の所持者として、資本と対等に、自由な意志によって契約を結んだのですが、しかしその生産過程では過酷な搾取が待っていて、労働者階級としての団結によって、それを抑止し法的に制限する法律を粘り強い闘いによって勝ち取る必要があったわけです。そのことが何と変わり果てたことか、と述べているように思えるのですが、正直に言ってよく分かりません。あるいはイギリス語版の理解が正しいとして、労働者は生産過程に入るときには、労働力という商品の所持者として資本と個別に契約を結ぶのですが、しかし生産過程における過酷な搾取に抗するためには、階級として団結して、それを抑止する法的制限を勝ち取らねばならないということから、労働者階級の階級としての団結と闘争が開始されるのだということで、〈なんと偉大なる変化がここに始まったことか ! 〉と締めくくっていると考えられなくもないです。


◎原注198

【原注198】〈198 「そのうえ、これらのやり方」(たとえば1848-1850年の資本の術策)「は、あのようにしばしばなされた主張が誤りであることの争う余地のない証拠を提供した。その主張というのは、労働者には保護は必要でなく、彼らは自分の所有する唯一の財産、すなわち自分の手の労働と自分の額の汗との自由な処分権をもっている所持者だと考えられてよいということである。」(『工場監督官報告書。1850年4月30日』、45ページ。)「もしそう呼んでもよいならば自由な労働は、自由な国においてさえ、それを保護するための法律の力強い腕を必要とする。」(『工場監督官報告書。1864年10月31日』、34ページ。)「……食事をとったりとらなかったりで1日に14時間労働するのを許すこと、それは強制するのと同じことであるが……」(『工場監督官報告書。1863年4月30日』、40ページ。)〉(全集第23a巻397頁)

 これは〈取引がすんだあとで発見されるのは、彼が少しも「自由な当事者」ではなかったということであり、自分の労働力を売ることが彼の自由である時間は彼がそれを売ることを強制されている時間だということ(198)であり〉という本文に付けられた原注です。
  ここでは工場監督官報告書から三つの引用がなされていますが、すべて本文の一文を根拠づけるものになっています。
  例えば〈取引がすんだあとで発見されるのは、彼が少しも「自由な当事者」ではなかった〉という一文については、〈労働者には保護は必要でなく、彼らは自分の所有する唯一の財産、すなわち自分の手の労働と自分の額の汗との自由な処分権をもっている所持者だ〉という〈あのようにしばしばなされた主張が誤りであることの争う余地のない証拠を提供した〉と述べていることに該当します。
  また〈自分の労働力を売ることが彼の自由である時間は彼がそれを売ることを強制されている時間だ〉ということについても、〈食事をとったりとらなかったりで1日に14時間労働するのを許すこと、それは強制するのと同じこと〉だと述べ、〈自由な労働は、自由な国においてさえ、それを保護するための法律の力強い腕を必要とする〉という一文に該当するのではないでしょうか。


◎原注199

【原注199】〈199 フリードリヒ・エンゲルス『イギリスの10時間労働法案』、所収、『新ライン新聞。政治経済評論』、1850年4月号、5ページ。〔本全集、第7巻、233(原) ぺージを見よ。〕〉(全集第23a巻398頁)

  これは〈じっさい彼の吸血鬼は「まだ搾取される一片の肉、一筋の腱、一滴の血でもあるあいだは(199)」手放さないということである〉という本文の引用文に付けられた原注で、その出展を示すものです。エンゲルスの『イギリスの10時間労働法案』については、以前(№39の)原注167の付属資料にその全文を掲げておきましたが、ここでは引用文と関連する前後の文章を紹介しておきましょう(赤字が関連する部分)。

  〈人々は、大工業の出現にともなって、工場主による、まったく新しい、限りなく破廉恥な労働者階級の搾取が生じたことを知っている。新しい機械は、成年男子の労働を過剰なものとした。そして、その監視のため、成年男子よりも、はるかにこの仕事に適し、しかも、いっそう安価に雇いうる婦人と児童を必要とした。工業における搾取は、したがって、ただちに労働者家族全体をとらえ、これを工場にとじこめた。婦人や児童は、極度に疲労しきって倒れるまで、日夜を分かたず働かねばならなかった。貧民労役所に収容された貧児たちは、児童にたいする需要の増大にともなって、完全な商品となった。4歳、いな3歳から、これらの児童は、ひとまとめにして、徒弟契約という形式で、いちばん高い値をつける工場主にせりおとされていった。当時の児童や婦人にたいする恥知らずの残忍な搾取、筋肉や腱の一片まで、血の最後の一滴まで、しぼりあげずにはやまない搾取にたいする思い出は、現在なおイギリスの旧世代の労働者たちのあいだにまざまざと生きている。背骨が曲がったり、手足を切断して片輪になったりして、この思い出を身にとどめているものも少なくない。しかし、そのような搾取のなごりとして、だれもかれもが、完全に身体をこわしている。アメリカのいちばんみじめな栽植農場の奴隷の運命でも、当時のイギリスの労働者のそれとくらべれば、なおすぼらしい。〉(全集第7巻239頁)


◎原注200

【原注200】〈200 10時間法案は、その適用を受ける産業部門では「労働者を完全な退廃から救い、彼らの肉体状態を保護してきた」。(『工場監督官報告書。1859年10月31日』、47ページ。)「資本」(工場における)「は、従業労働者の健康や道徳を害することなしに或る限られた時間よりも長く機械の運転をつづけることはけっしてできない。しかも、労働者たちは自分たち自身を保護することのできる立場には置かれていないのである。」(同前、8ぺージ。)〉(全集第23a巻398頁)

  これは〈そして、彼らは階級として、彼ら自身が資本との自由意志的契約によって自分たちと同族とを死と奴隷状態とに売り渡すことを妨げる一つの国法を、超強力な社会的障害物を、強要しなければならない(200)。〉という本文に付けられた原注です。
  すべて工場監督官報告書からの抜粋だけですが、10時間労働日の法律が、その適用を受ける産業部門では、労働者の頽廃を防ぎ、肉体の状態を保護してきたことや、法律のために、資本は労働者の健康や道徳を害するような長い時間、機械を動かすことができないようになったこと、それは法律によって可能になったのであって、労働者自身にはそうしたことを求める立場には置かれていないのだと述べています。
  なおこの〈『工場監督官報告書。1859年10月31日』〉というのはレナド・ホーナーの最後の報告書になるのだそうです。1860年1月11日付けのマルクスからエンゲルスへの書簡には、〈レナード・ホーナーは職を退いた。彼の最後の短い報告書には痛烈な皮肉がいっぱいだ。この退職にはマンチェスターの工場主たちが関係していたのではないかどうか、君が明らかにしてくれることはできないだろうか?〉(全集30巻7頁)と書かれています。
  『61-63草稿』から労働時間を制限することの意義を述べているところを紹介しておきましょう。

  労働時間の自然的限界を狂暴に踏み越えるのは、ただ資本の恥知らずで傍若無人な無節制であり、--そのさい、労働は、生産諸力の発展とともに、内密のうちに濃度を高め緊張を強めるのであるが、これが、資本主義的生産にもとづく社会にさえ、標準労働日を確固とした限界に強力によって制限することを余儀なくさせた(もちろんそのさいの主動力は、労働者階級自身の反杭である)ものなのである。この制限が最初に現われたのは、資本主義的生産がその組野な時代、根棒の時代をぬけて、みずからに固有の物質的土台をつくったすぐあとのことであった。労働時間のこの強制的制限にたいして、資本は労働をより強く濃縮することをもって応じたが、それはそれでまた、一定点までくると、ふたたび絶対的な労働時間の短縮をまねいた。延長に強度でとって替わるこの傾向は、生産の比較的高い発展段側階ではじめて現われる。この代替は、社会的進歩の一定の条件である。そうして、労働者にも自由な時間が生み出される。だから、ある一定の労働における強度は他の方向での活動、すなわち労働にたいして反対に休息として現われうる、休息の機能をはたしうる活動の可能性を廃棄するのではない。〔労働日の短縮の〕⑤この過程が、イギリスの労働者階級の肉体的、道徳的、知的な改善に及ぼした非常な好影響--〔これについては〕統計が立証している--は、ここから生まれるのである。
  ⑤〔注解〕 マルクスがこうした評価に到達したのは、イギリスの工場監督官の半年ごとの報告〔の研究〕によってである。とくに、『工場監督官報告書……1859年10月31日にいたる半年間」、ロンドン、1860年、47-48および52ページを見よ。--[カール・マルクス]「国際労働者協会創立宣言および暫定規約』(1864年9月28日、セント・マーティンズ・ホール、ロンドン、ロ/ング・エイカーで開催された公開集会で創立)ロンドン、1864年(『創立宣言--』、『マルクス・エンゲルス全集』、第16巻、所収)をも見よ。〉(草稿集⑨32-33頁)

  なおこの注解⑤で言及されている〈「国際労働者協会創立宣言および暫定規約』〉については、第7パラグラフの付属資料に掲載しています。


◎原注201

【原注201】〈201 「もっと大きい利益は、労働者自身の時間と彼の雇い主の時間との区別がついに明らかにされたということである。今では労働者は、彼の売った時間がいつ終わったか、そして彼自身の時間がいつ始まるか、を知っている。そして、これについて確かな知識をもつことによって、彼自身の時間を彼自身の目的のためにあらかじめ割り当てておくことができるようになる。」(同前、52ぺージ。)「彼らを彼ら自身の時間の主人とすることによって」(諸種の工場法は)「ある精神的なエネルギーを彼らに与え、このエネルギーは、ついには彼らが政治的権力を握ることになるように彼らを導いている。」(同前、47ページ。)露骨でない皮肉と非常に用心深い表現とで、工場監督官たちは、現在の10時間法が資本家をも単なる資本の化身としての彼に自然にそなわる残忍性からいくらかは解放して多少の「教養」のための時間を彼に与えたということをほのめかしている。以前は「雇い主は金銭のため以外には少しも時間をもっていなかったし、労働者は労働のため以外には少しも時間をもっていなかった。」(同前、48ページ。)〉(全集第23a巻頁)

  これは〈「売り渡すことのできない人権」のはでな目録に代わって、法律によって制限された労働日というじみな大憲章〔98〕が現われて、それは「ついに、労働者が売り渡す時間はいつ終わるのか、また、彼自身のものである時間はいつ始まるのか、を明らかにする(201)」のである。〉という本文に付けられた原注です。

  これも工場監督官報告書からの抜粋のあと、マルクスによって、〈露骨でない皮肉と非常に用心深い表現とで、工場監督官たちは、現在の10時間法が資本家をも単なる資本の化身としての彼に自然にそなわる残忍性からいくらかは解放して多少の「教養」のための時間を彼に与えたということをほのめかしている〉と述べています。つまり10時間法は労働者に恩恵を与えたのは当然ですが、そればかりではなく、資本家側にとっても彼らの残忍性から彼ら自身をいくから解放して、多少の教養を身につける時間を与えたのだというのです。それが〈以前は「雇い主は金銭のため以外には少しも時間をもっていなかったし、労働者は労働のため以外には少しも時間をもっていなかった。」〉という報告書の一文だということです。
  ところでここで〈同前〉とあるのは原注200で引用されていた〈『工場監督官報告書。1859年10月31日』〉のことです。今回引用されているものと関連しているものを『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

 〈工場諸法は、「かつての長時間労働者たちの早老を終わらせた。それらは、労働者たちを彼ら自身の時間の主人とすることによって彼らにある精神的エネルギーを与えたのであって、このエネルギーは彼らを、最終的には政治権力を握ることに向けつつある」(『工場監督官報告書。185/9年1O月31にいたる半年間』、ロンドン、1860年、47ページ)。
 「①もっと大きい利益は、労働者自身の時間と彼の雇主の時間とが、ついにはっきりと区別されたことである。労働者はいまでは彼の売る時間聞はいつ終わっているのか、また彼自身の時間はいつ始まるのかということを知っている。そしてこのことをまえもって確実に知ることによって、彼自身の時間を彼自身の諸目的のためにまえもって予定しておくことができるようになる!」(同前、52ページ。)このことは、標準日の制定に関連してきわめて重要である。〉(草稿集④356頁

  (【付属資料】(1)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(4)

2024-02-15 18:38:39 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(4)


【付属資料】(1)


●第1パラグラフ

《初版》

 〈読者が記憶しているように、労働が資本に従属していることから生じうる生産様式そのもののあらゆる変形はさしおいて、剰余価値の生産あるいは剰余労働の抽出が、資本主義的生産の独自な内容と目的になっている。読者が記憶しているように、これまでに述べられた立場からすれば、独立した、したがって法定の成年に達した労働者だけが、商品の売り手として、資本家と契約を結ぶのである。だから、われわれの歴史的なスケッチのなかで、一方では近代的産業が主役を演じ、他方では肉体的にも法的にも未成年者である労働が主役を演じているとすれば、われわれにとつては、前者は労働搾取の特殊な部面としてのみ意義をもち、後者はこの労働搾取の特に適切な実例としてのみ意義をもっていたわけである。とはいうものの、これから行なう説明を前もって考慮しなくとも、歴史的諸事実の単なる関連からは次のような結論が出てくる。〉(江夏訳335頁)

《フランス語版》

 〈読者が記憶しているように、労働が資本に従属していることから生ずる生産様式のあらゆる変化はさしおいて、資本主義的生産の特有な目的、すなわち真の目標は、剰余価値の生産すなわち剰余労働の強奪である。これまで展開してきた観点では、独立の、法律上親権を解除された労働者だけが、商品の所有者として資本家と契約を結びうることも、読者の記憶にある。われわれは歴史的なスケッチのなかで、一方では近代的産業に、他方では児童の労働や肉体上も法律上も未成年である者の労働に、重要な役割を与えたとしても、なおかつこの産業はわれわれにとっては労働搾取の特殊な領域でしかなかったし、この労働は労働搾取の特殊な実例でしかなかった。しかし、これからの展開の先回りをしないでも、事実の単なる説明から次のことが結論される。〉(江夏・上杉訳307頁)

《イギリス語版》

  〈(1) 労働の、資本への、隷属を生じるであろう生産様式の様々な変化を別にすれば、剰余価値の生産、または剰余労働の摘出は、資本主義的生産の特別なる終端であり目的である、絶総計であり本質である。読者はこのことを忘れることはないであろう。読者には、我々が今まで読んで来たところでは、ただ独立した労働者にのみ触れており、であるから、その労働者のみが、彼自身をして、商品の販売者として資本家との折衝に入る資格を有する。ということを思い出して貰いたい。従って、もし、我々がスケッチしてきた歴史において、一方で近代製造業が、他方で肉体的にも法的にも未熟な労働者が重要な役割を演じているとしたら、前者は我々にとっては単なる特別の部門であり、後者は、単に労働搾取の特別かつ衝撃的な事例ということである。とはいえ、我々の考察の進展の成り行きの予想は別として、我々の前にある歴史的な事実の単なる関連として、次の事に触れておく。〉(インターネットから)


●第2パラグラフ

《初版》

 〈第一に。水や蒸気や機械によって最初に変革が行なわれた諸産業では、すなわち、綿、羊毛、亜麻、絹の紡績業と織物業のような近代的生産様式の最初の創造物では、無制限で容赦のない労働日の延長を求める資本の衝動が、まず/最初にみたされる。変化した物質的生産様式と、これに対応して変化した生産者たちの社会的諸関係(186)とは、まず、無制限な行き過ぎを産み出し、次にはこれと反対に、社会的な取締りを呼び起こし、この取締りは、中休みつきの労働日を法的に制限し、調節し、画一にする。だから、19世紀の前半には、この取締りはたんに例外立法としてのみ現われる(187)。この取締りが新しい生産様式の最初の領域を征服しおえたときには、その間に、他の多くの生産部門が本来の工場体制に踏み入っていただけでなく、製陶業やガラス工業等々のような多少とも時代おくれの経営様式をもつマニュファクチュアも、製パン業のような古風な手工業も、そして最後に、釘製造業等々のようなあちこちに分散していたいわゆる家内労働(188)さえも、もうとっくに、工場と全く同じように、資本主義的搾取の手におちいっていたことが、わかった。だから、立法は、例外的な性格をしだいに捨て去らざるをえないか、さもなければ、イギリスのばあいのようにこの立法がローマ的な決疑論〔法律問題を細かい法解釈によって決定すること〕的なふるまいをするところでは、労働が行なわれているどんな家でも、任意に工場(factory)だと宣言されざるをえなかった(189)。〉(江夏訳335-336頁)

《フランス語版》

 〈第一に、水、蒸気、機械によって変革された諸産業において、すなわち、木綿、羊毛、亜麻、絹の紡績業のような近代的生産様式の最初の創造物において、労働日をひっきりなしに情容赦なく延長しようとする資本の性向が、まず満足させられる。物質的生産様式の変化と、これに対応する社会的生産関係の変化(154)とは、かの法外な違反の第一の原因であり、この違反は次いで、釣り合いをとるために、社会的干渉--今度はこの干渉のほうが労働日をその法定の休息時間とともに画一的に制限し規制することになる--を要求する。したがって、この干渉は、19世紀前半のあいだは例外的立法としてしか現われない(155)。この干渉が新しい生産様式の最初の領域を征服してしまったときには、その間に他の多くの生産部門が厳密な意味での工場体制のなかに入っていたばかりでなく、さらになお、ガラス工業、製陶業などのよ/うな多かれ少なかれ時代遅れの経営様式をもったマニュファクチュア、製パン業のような古風な手工業、そして最後に、釘工の労働のようなあちこちに分散した家内労働(156)さえもが、工場そのものと全く同じょうに、資本主義的搾取の領域のなかに陥っていたのが、見出されたのである。したがって、立法は、その例外的な性格をだんだんと抹消するか、または、イギリスにおけるように、ローマ的決疑論〔法律問題を細かい法解釈によって決定すること〕にしたがって、労働が行なわれるどんな家屋も工場<factory>であると便宜上言明するか、そのどちらかを余儀なくされたのである(157)。〉(江夏・上杉訳307-308頁)

《イギリス語版》

  〈(2) 第一 資本家の、無制限かつやりたい放題の労働日の拡大を希求する激情は、水力、蒸気力 そして機械類によって最も早くから大変革が起こった製造業部門で、最初に満足を得た。すなわち、近代生産様式の最初の型というべき綿、羊毛、亜麻、そして絹の紡績業と織物業である。生産の物質的様式の変化、そしてそれに呼応する生産者達*の社会的諸関連の変化が、あらゆる諸関連を超えて、まず最初の特別なる拡張として出現した。そして、これに拮抗するもの、社会的要請としての規制が呼び出される。すなわち、法的な制限、規則、そして労働日とそこに含まれる休息の斉一化である。とはいえ、この規制は、19世紀前半では単に、例外的な規則*として現われる。
  この新たなる生産様式の初期的な領域が法の支配下に置かれる頃には、様相は一変、同じ工場システムを採用する他の多くの生産各部門ばかりでなく、なんとも古臭い方式で製造業、例えば製陶業、ガラス製造や、昔のまんまの手工業、例えば製パン業、さらに、いわゆる家族的業種と呼ばれる、釘製造業ですら、*完全に、資本家的搾取下と同様な状況に、彼等の工場そのものが落ち込んで久しいのであった。従って、規則は、次第に例外的性格を捨てることを余儀なくされるか、または英国では、かってのローマの詭弁家達のやり方に習って、仕事がなされる建物としての家を工場*と宣言することを余儀なくされた。〉(インターネットから)


●原注186

《初版》

 〈(186)「これらの階級(資本家と労働者)のそれぞれの態度は、それぞれの階級がおかれていた相対的な立場の結果であった。」(『1848年10月31日の工場監督官報告書』、112ページ。)〉(江夏訳336頁)

《フランス語版》

 〈(154) 「これらの階級(資本家と労働者) のそれぞれの行為は、これらの階級が置かれていた相対的地位の結果であった」(『1848年10月31日の工場監督官報告書』、112ページ)。〉(江夏・上杉訳308頁)

《イギリス語版》

  〈本文注151: *これらの各階級 ( 資本家達と労働者達 ) の行動は、それぞれが置かれた関係における相対的関係の結果から引き起こされる。」(工場査察官報告書 1848年10月31日)〉(インターネットから)


●原注187

《初版》

 〈(187) 「制限を加えられている諸業種は、繊維製品を蒸気力または水力を用いて製造することと関連があった。ある業種に工場検査を受けさせるためには、この業種がみたさなければならない二つの条件があった。すなわち、蒸気力または水力の使用、および、特定の繊維の加工である。」(『1864年10月31日の工場監督官報告書』、8ページ。)〉(江夏訳336頁)

《フランス語版》

 〈(155) 「ある工業が監督に従うべきものになってそこで労働が制限されうるためには、二つの条件が必要である。そこで水力または蒸気力が用いられることと、そこである独特な織物が製造されることとが、必要である」(『1864年10月31日の工場監督官報告書』、8ページ)。〉(江夏・上杉訳308頁)

《イギリス語版》

  〈本文注152: *規則の下に置かれる雇用者は、蒸気力または水力の助けによって行われる織物製造業に関係する者である。雇用者がその対象者であると見なされるべき者であるかどうかは、二つの条件が存在する。すなわち、流れまたは水力を利用し、かつある特殊な繊維の製造業に属すると。(工場査察官報告書 1864年10月31日)〉(インターネットから)


●原注188

《初版》

 〈(188) こういったいわゆる家内工業の状態については、『児童労働調査委員会』の最近の諸報告中に、非常に曲帯以官闘な材料が掲載されている。〉(江夏訳336頁)

《フランス語版》

 〈(156) この種の工業の状態については、「児童労働調査委員会」の最近の報告書のなかに非常に多数の情報が掲載されている。〉(江夏・上杉訳308頁)

《イギリス語版》

  〈本文注153: *いわゆる家族的製造業の状況については、極めて価値のある材料が、最近の、児童の雇用に関する委員会 の報告書に見出される。〉(インターネットから)


●原注189

《初版》

 〈(189) 「前議会(1864年)の諸法律には、……習慣が非常にちがっている種々雑多な職業が含まれていて、機械を動かすための機械力の使用は、もはや、以前そうであったように、法律用語での工場を構成するために必要な諸要素の一つではない。」(『1864年10月31日の工場取督官報告書』、8ページ。)〉(江夏訳336頁)

《フランス語版》

 〈(157) 「前議会(1864年)の諸法律は、方式の非常にちがった多数の事業を包括しており、機械を運転するための蒸気の使用は、もはや以前のように、法律上工場と呼ばれるものを構成するために必要な諸要素の一つではない」(『1864年10月31日の工場監督官報告書』、8ページ)。〉(江夏・上杉訳308頁)

《イギリス語版》

  〈本文注154: *「前委員会の法(1864) ...習慣の大きく異なる様々な職業を包含し、かつ機械類の作動を生み出す機械的な力の利用は、以前は法的な字句「工場」を構成するものであったが、もはや必要なる要素ではない。」(工場査察官報告書 1864年10月31日)〉(インターネットから)


●第3パラグラフ

《初版》

 〈第二に。幾つかの生産様式〔フランス語版では「生産部門」に訂正〕では労働日の規制の歴史が、また、他の生産様式ではこの規制をめぐっていまもなお続いている闘争が、明白に示しているように、資本主義的生産のある程度の成熟段階では、孤立した労働者は、自分の労働力の「自由な」売り手としての労働者は、無抵抗に屈服している。だから、標準労働日の創設は、資本家階級と労働者階級とのあいだの、長たらしく統く多かれ少なかれ隠蔽された内乱の、産物である。この闘争は、近代的産業の周囲で開始されるものであるから、この産業の祖国であるイギリスで、最初に抽出じられる(190)。イギリスの工場労働者たちは、たんにイギリスの労働者階級の選手であるばかりでなく近代的労働者階級一般の選手でもあったが、それと同じに、彼らの理論家も資本の論理に最初に挑戦したのであった(191)。だから、工場哲学者ユアは、「労働の完全な自由」のために男らしく戦った資本にたいして、イギリスの労働者階級が、「工場法という奴隷制度」を自分の旗じるしにしたのは、この階級のねぐい去ることのできない恥辱である、と非難だかしている(192)。〉(江夏訳337頁)

《フランス語版》

 〈第二には、幾つかの生産部門では労働日の規制の歴史が、また、ほかの部門ではこの規制についていまなお続いている闘争が、明白に証明するところによると、孤立した労働者、自分の労働力の「自由な」売り手としての労働者は、資本主義的生産がある段階に達するやいなや、できるだけ抵抗するということもなしに屈服するのである。したがって、標準労働日の設定は、資本家階級と労働者階級とのあいだの長期で執拗な、また多かれ少なかれ隠蔽された内乱の結果である。この闘争は、近代的産業の領域で開始されたのであるから、それは、この産業の祖国にほかならないイギリスで、まず宣言されざるをえなかった(158)。イギリスの工場労働者は近代的労働者階級の最初の選手であったし、彼らの理論家は資本の理論を攻撃した最初の選手であった(159)。したがって、工場哲学者のドクター・ユアは、資本が「労働の完全な/自由(150)」のために男らしく闘ったのに反し、「工場法という奴隷制度」を自分たちの旗に書き記したのは、イギリスの労働者階級にとってぬぐいがたい恥辱である、と言明している。〉(江夏・上杉訳308-309頁)

《イギリス語版》

  〈(3) 第二 ある生産部門の労働日の規制の歴史は、そしてこの規制に係る他の部門で依然として続く闘争は、孤立させられた労働者、彼の労働力の「自由」なる売り手、かってある時点で資本主義的生産が獲得した者が、何の抵抗の力もなく、屈伏したことを結果的に証明する。従って、標準的労働日の創設は、資本家階級と労働者階級間の、どの程度隠されたものかは別として、長い市民戦争の産物である。この競技は近代工業という競技場で始まるのであるから、その最初の開始地は、工業の故郷- 英国*である。
  英国の工業労働者達は、英国のと云うだけでなく、近代労働者階級一般のチャンピオンであった。彼等の理論家達は、資本の理論に対して最初の鞭*を振り降ろした。〉(インターネットから)


●原注190

《初版》

 〈(190) 大陸的自由主義の天国であるベルギーも、この運動の痕跡をなんら示していない。この国の炭坑や鉱山においてさえ、あらゆる年齢の男女の労働者は、どれだけの時間でもどんな時刻でも、完全に「自由」に消費されている。そこでの従業員各1000人のうち、733人が男、88人が女、135人が16歳未満の少年、44人が16歳未満の少女である。熔鉱炉等々では、各1000人のうち、668人が男、149人が女、98人が16歳未満の少年、85人が16歳未満の少女である。さて、なおその上に、成熟した労働力や未成熟の労働力の法外な搾取にたいして支払われるのは、1日平均、男が2シリング8ペンス、女が1シリング8ペンス、少年が1シリング2[1/2]ペンス、という低い労賃である。ところが、その代わりに、ベルギーでは、1863年には、1850年に比べて、石炭や鉄等々の輸出の量も価値も、ほぼ2倍になった。〉(江夏訳337頁)

《フランス語版》

 〈(158) 大陸の自由主義のかの天国であるベルギーは、この運鋤の痕跡を少しも示し  ていない。この国の炭鉱や金属鉱山でさえ、あらゆる年齢の男女労働者が、なんらの時間制限もなく完全な「自由」をもって消費されている。従業員1000人のうち、男733人、女88人、16歳未満の少年135人、16歳未満の少女44人である。熔鉱炉でも、やはり1000人のうち、男668人、女149人、16歳未満の少年98人、16歳未満の少女85人である。さらに付言すると、成熟または未成熟の労働力の莫大な搾取と比較すれば、賃金はさほど高くない。賃金は1日平均、男では2シリング8ペンス、女では1シリング8ペンス、少年では1シリング2[1/2]ペンスである。したがって、ベルギーは1863年には、1850年に比べて石炭や鉄などの輸出の量と価値をほとんど倍加した〉(江夏・上杉訳309頁)

《イギリス語版》

  〈本文注155: * ベルギー 大陸の自由主義者の楽園は、この運動の痕跡を何ら残していない。炭鉱や金属鉱山の男女及びあらゆる年令の労働者達でさえ、いかなる期間、いかなる時間の長さであれ、完全なる「自由特権」を以て消費されていた。毎1,000人の雇用者のうち、男子733人、女性88人、少年135人、16歳未満の少女44。溶鉱炉他では、毎1,000人の雇用者のうち、男子668人、女性149人、少年98人、16歳未満の少女85人である。これに加えて、熟練・非熟練労働力の莫大なる搾取の結果として、低賃金である。成年男子は平均日支払額 2シリング8ペンス、女性は1シリング8ペンス、少年は1シリング2 1/2ペンス。その結果として、ベルギーの自由主義者らは、1863年、1850年に較べて、約2倍の量と価値の石炭、鉄等々の輸出を得た。〉(インターネットから)


●原注191

《イギリスにおける労働者階級の状態》

 〈工場制度の破壊的な作用は、すでにはやくから一般的な注意をひきはじめた。1802年の徒弟法については、すでにわれわれは述べた。その後、1817年ごろ、のちのイギリス社会主義の建設者で、当時ニュー・ラナーク(スコットランド)の工場主であったロバート・オーエンが、請願書と回顧録をつうじて、労働者、とくに子供の健康にたいする法的保証の必要を、行政当局にたいして説ぎはじめた。故R・ピール卿やそのほかの博愛家たちがオーエンに味方し、あいついで1819年、1825年および1831年の工場法を獲得したが、そのうち、はじめの二つの工場法はまったく守られず、最後の工場法はただ部分的に守られたにすぎなかった。サー・J・C・ホブハウスの提案にもとつくこの1831年の法律は、どんな木綿工場でも、21歳以下の人々を夜間、すなわち夜の7時半から朝の5時半までのあいだに働かせてはならず、またあらゆる工場で、18歳未満の若い者を最高毎日12時間、土曜日には9時間以上働かせてはならない、ということをきめた。しかし労働者は、首を覚悟しなければ自分の雇い主の意に反する証言をすることはできなかったので、この法律はほとんど役にたたなかった。労働者がわりと不穏なうごきを見せた大都市では、とにかくおもだった工場主たちが申し合わせて、この法律にしたがうことになったが、ここでさえも、農村の工場主と同じように、まったくこの法律に無関心な工場主がたくさんいた。そうこうするうちに、労働者たちのあいだで、10時間法案、すなわち18歳未満のすべての者を10時間よりも長く働かせることを禁止する法律にたいする要求がおこった。労働団体は、この要望を扇動によって促進し、工場で働く人たちの一般的な要望にしてしまった。当時マイクル・サドラーによってひきいられていたトーリ党の人道派は、この計画をとりあげて議会に提出した。サドラーは、工場制度を調査する議会委員会の任命の承認をえた。そしてこの委員会は、1832年の会/期にその報告を提出した。この報告は決定的に党派的であり、工場制度のまったくの反対者の手によって、党派的な目的のために書かれたものであった。サドラーは、自分の高貴な情熱にかられて、極度にかたよった、極度に不当な主張をおこなった。彼は、その質問のしかたからして証人を誘導し、たしかに真実はふくんでいるが、しかし、逆立ちした、かたよったかたちで真実をふくんでいる答弁をつりだした。工場主たちは、自分たちをまるで化け物のようにえがいた報告を見てびっくりし、こんどは自分たちからすすんで公式の調査をこうた。工場主たちは、いまとなっては、もっと正難報告だけしか自分たちの役にたてることができないことを知っていた。彼らは、自分たちと仲がよく、工業の制限に反対する主義をもっていた生粋のブルジョアであるウィッグ党が、政権の座を締めていることをよく知っていた。工場主たちは、まさしく生粋の自由主義的なブルジョアだけから構成される委員会を手に入れた。この委員会の報告が、私がこれまでしばしば引用したものなの燈ある. この報告は、サドラー報告よりもいくらか真実に近くなっているが、真実からそれている点は、サドラー報告とは反対の面にある。この報告は、どのページでも工場主にたいする同情、サドラー報告にたいする不信、独立の労働者と10時間法案の支持者とにたいする嫌悪の情を示している。この報告は、どこにも労働者が人間らしい生活をし、労働者にふさわしい活動をし、労働者にふさわしい意見をもつ権利を認めていない。この報告は、労働者が10時間法案を問題とするさいに、子供のことだけでなく自分自身のことも考えているのだ、といって労働者を非難している。この報告は、扇動する労働者をデマゴーグだとか、悪意のあるやつだとか、よこしまなやつ、などとよんでいる。つまりこの報告は、ブルジョアジーの味方をしているのだ--それでもなおこの報告は、工場主たちの汚れを、あらいおとすことはできなかった。それでもなお、この報告そのものの告白によって、非常に多くの卑劣な行為が工場主たちの責任とされたので、この報告によってさえ、10時間法案運動や、工場主にたいする労働者の憎悪や、サドラー委員会が工場主にたいしてあたえた冷酷きわまる名称も、完全に正当なものとなってしまうのである。ただちがうところといえば、サドラー報告が、公然かつ露骨な野蛮行為という点で工場主を非難しているのに反し、いまやこれらの野蛮行為が、たいてい文明と人道という仮面のもとでおこなわれていた、ということが明らかになったことくらいである。それでも、ランカシァを調査した医者の委員であるホーキンズ博士は、はやくもその報告の最初の第1行に、自分から10時間法案に断固賛成である旨/を明らかにしている! また委員マキントシュは、労働者を、自分たちの雇い主の利益に反して証言させることが非常に困難であるばかりでなく、さらに工場主たちも--そうでなくても、すでに労働者のあいだの騒ぎによって、いっそう大幅な譲歩を労働者にしなければならなくなっているのに--委員の視察にそなえて準備をし、工場を掃除したり、機械の運転速度を減らしたりすることなどを、かなりしばしばおこなったので、彼の報告はありのままの真実はふくんでいない、と自分で言明している。とくにランカシァにおいては、工場主たちは、作業室の監督を「労働者」といつわって委員のまえにつれだし、彼らに工場主の情けぶかいことや、労働の健全な作用や、10時間法案にたいして労働者が無関心であり、それどころか嫌悪さえしていることを証言させる、という策略をもちいた。しかしこの監督は、もはやほんとうの労働者ではけっしてない。彼らは、わりと高い賃金をいただいてブルジョアジーへの御奉公にあがり、資本家の利益になるように労働者とたたかう自分の階級からの逃亡者である。彼らの利益はすなわちブルジョアジーの利益である。また、だからこそ彼らは、工場主自身より以上に労働者から非常に憎まれている。それにもかかわらずこの報告は、製造業ブルジョアジーが自分の雇用労働者にたいしてふるまう恥辱このうえもない傍若無人さと、工業的搾取制度の全汚名とを、そのありのままの非人間的な姿で示すには、まったく十分である。この報告のなかで、一方には過度労働による病気や不具の長ったらしい記録が、他方には工場主の冷たくて打算的な国民経済学が、対置されているのをみること以上にしゃくにさわることはない。この国民経済学において、工場主は、もし自分が年々しかじかの人数の子供を不具にすることがもはやゆるされないとすれば、自分はもとより、自分といっしょにイギリス全体も破滅しなければならない、ということを数字によって証明しようとしているのである--私がついさきほど引用したユーア氏の厚顔無恥なことばは、もしもそれがあまりにも滑稽至極なものでなかったならば、もっとしゃくにさわったことであろう。
  この報告の結果が、1833年の工場法であった。この法律は、9歳以下の子供の労働を禁止し(製糸工場を除く)、9歳ないし13歳の子供の労働時問を週48時間または1日最高9時間に、14歳ないし18歳の年少者の労働時間を週69時間または1日最高12時間に制限し、食事のための休み時間を最低1時間半と規定し、18歳以下のすべての者の夜間労働をもう一度禁止した。同時に、毎日2時間の強制就学が14歳以下のすべての子供にたいして実施され、工場主は、もしも工場医の年齢証明書か、ある/いは教師の出席証明書を持たない子供を雇用すれば、処罰されることが明らかにされた。そのかわり工場主は、教師に支払うために、毎週1ペニーを子供の賃金から控除することをゆるされた。そのほか、工場医と監督官が任命された。彼らは随時工場に立ち入り、労働者を宣誓させて訊問することをゆるされ、治安裁判所へ告発することによって法律をまもらせなければならなかった。これこそユーア博士が、あのようにめちゃくちゃにののしる法律なのだ!
  この法律の結果、ことに監督官の任命の結果、労働時間は平均12時間ないし13時間に短縮され、子供はさしつかえのないかぎり大人とかえられた。それとともに、いくつかのもっともひどい病気は、ほとんど消滅してしまった。不具は、非常に虚弱な体質の場合にしか生じなくなり、労働の作用は、それほどはっきりとはあらわれなくなった。それにもかかわらずわれわれは、工場報告のなかに、つぎのような証言をふんだんにもっている。すなわち、わりとかるい病気である足関節のはれ物、脚・腰および脊椎の脆弱と疹痛、静脈瘤性の血管、下部四肢の潰瘍、一般的な虚弱、とくに下腹部の虚弱、吐き気、はげしい食欲と交替におこる食欲の欠乏、消化不良、憂うつ症、それに工場の塵埃や汚れた空気からおこる胸部疾患等々、これらすべての病気が、J・C・ホブハゥス卿の法律の規定にしたがって--すなわち12時間ないし最高13時間働く工場においても、またこのように働く個人の場合でもおこった、といった証言である。グラスゴーおよびマンチェスターからの報告を、ここではとくに参照すべきである。これらの病気は、1833年の法律のあとでもあとをたたず、今日にいたるまで労働者階級の健康を害しつづけている。ひとはブルジョアジーの野蛮な利欲心にたいして、偽善的な、文明化された形式をよそおわせることに尽力したし、また工場主たちにたいしては、法律の力によって、あまりにはなはだしい破廉恥な行為はできないようにしたが、それだけいっそう多く、彼らのいつわりの博愛を得意になって見せびらかすうわべの理由を、あたえることに尽力したのである--これがすべてであった。たとえいま新しい工場調査委員会が発足したとしても、そこに見いだすのは、ほとんどあいもかわらぬ昔のままの姿であろう。一時のまにあわせにつくられた就学義務についていえば、政府は、それと同時にりっぱな学校をつくる配慮をしなかったので、この就学義務もまったく成果をあげずじまいのかたちである。工場主たちは、仕事もできなくなった老朽労働者を先生に任命し、彼らの子供たちを毎日2時間ずつよこして、それで法律の字句にはしたがったことにしていた--子供たちはなに一つまなばなかった。そして、自分たちの職務といえ/ば、工場法をまもらせることだけにかぎられている工場監督官の報告でさえも、上述の害悪がいまなお必然的に存続している、と結論することができる資料を、十分に提供している。監督官ホーナーおよびソーンダーズは、1843年10月および12月のその報告のなかで、子供の労働をかならずしも必要としない労働部門とか、あるいはそうでもしなければ失業する大人を子供のかわりにおきかえることのできるような労働部門では、多くの工場主たちは、14時間ないし16時間、またはそれ以上も働かせている、と述べている。これらの工場主のもとには、ことに、法律の制限年齢をやっとすぎたばかりの若い連中がたくさんいる。そのほかの工場主たちは、法律を公然とおかし、休憩時間を短縮し、ゆるされた時間以上に子供たちを働かせ、告発されるがままにまかせておく。なぜなら、罰金をかけられたところで、違反によってえられる利益にくらべると、はるかに少なくてすむからである。事業がことのほかうまくいっている現在では、とくにこうした違反をやりたい誘惑を、工場主たちはつよく感じているのだ。〉(全集第2巻402-416頁)

《61-63草稿》

   〈1817年に、労働者の、とくに子どもの健康を保障する法律の制定を求めてオウエン(当時、ニューラナークの工場主だった)の請願が行なわれた。1818年、1825年および1825年の法律のうちはじめの二つの工場法はまったく守られず、最後の工場法はただ部分的に守られたにすぎなかった。この1831年の法律(サー・J・C・ホブハウス〔の提案にもとづく〕)は、どんな木綿工場でも、21歳未満の人々を夜間に、すなわち晩の7時半から朝の5時半までのあいだに働かせてはならず、またあらゆる工場で、18歳未満の人々を最高毎日12時間以上、土曜日には9時間以上働かせてはならないことをきめた。(同上書、208ページ〔『全集』、第2巻、391ページ〕。)〉(⑨212頁)

《初版》

 〈(191) ロバート・オーウェンが、今世紀の最初の10年が過ぎてからまもなくして、労働日の制限が必要であることを理論的に主張したばかりでなく、10時間労働日をニュー・ラナークの自分の工場でじっさいに採用したとき、このことは、共産主畿的ユートピアだと嘲笑された。ちょうど、彼の「生産労働と児童教育との結合」が嘲笑され、彼の産んだ労働者の協同組/合事業が嘲笑されたのと同じように。今日では、第一のユートピアは工場法であり、第二のユートピアはすべての「工場法」のなかに公の常套句として現われており、第三のユートピアはすでに、反動的欺瞞の仮面として役立ってさえいる。〉(江夏訳337-338頁)

《資本論》

  〈322 ロバート・オーエンは、協同組合工場や協同組合売店の父ではあるが、前にも述べたように、この孤立的な変革要素の意義について彼の追随者たちが抱いたような幻想はけっして抱いていなかったのであって、実際に彼のいろいろな試みにおいて工場制度から出発しただけではなく、理論的にもそれを社会革命の出発点だとしていた。ライデン大学の経済学の教授フィセリング氏もそのようなことを予感しているとみえて、つまらない俗流経済学を最もそれにふさわしい形で講述している彼の『実際経済学提要』(1860-1862年) のなかで、熱烈に大工業に反対して手工業経営のために弁じている。--(第四版へ。互いに矛盾する工場法と工場法拡張法と作業場法とによってイギリスの立法がひき起こした「新しい裁判上の紛糾」(264ページ〔本巻、318(原)ページを見よ〕)はついに堪えられないほどひどくなったので、1878年の工場および作業場法〔Factory and Workshop Act〕において、関係立法全体の単一法典化ができあがった。このイギリスの現行産業法典を詳しく批評することは、ここではもちろんできない。それゆえ、ここでは以下の覚え書だけで満足することにしたい。この法律は次のものを包括している。(1)繊維工場。ここではほとんどすべてが元のままである。10歳以上の児童に許される労働時間は、毎日5[1/2]時間、または6時間ならば土曜は休みになる。少年と婦人は5日間は10時間で、土曜は最高6[1/2]時間である。--(2)非繊維工場。ここではいろいろな規定が従来よりは(1) の規定に近くなっているが、まだ資本家に有利な例外がいくつも残されてあり、それが内務大臣の特別許可によってさらに拡張されうる場合も多い。--(3)作業場。その定義は以前の法律のなかのものとだいたい同じである。児童、少年工または婦人がそこで従業するかぎりでは、作業場は/非繊維工場とほぼ同等に取り扱われるが、細目ではやはり緩和されている点がある。--(4)児童や少年工を使用せず、18歳以上の男女の人員だけを使用する作業場。この部類にはさらに多くの緩和が適用される。--(5)家庭作業場。この場合には家族成員だけが家族の住居で従業する。いっそう弾力性のあるいろいろな規定があり、また同時に、監督官は、大臣または判事の特別許可がないかぎり、同時に住居として利用されてはいない場所にしか立ち入ることができないという制限があり、そして最後に家庭内で営まれる麦わら細工業、レース編み業、手袋製造業の無条件放任がある。そのあらゆる欠陥にもかかわらず、今なおこの法律は、1877年3月23日のスイス連邦工場法と並んで、この対象に関する抜群の最良の法律である。この法律を今述べたスイス連邦の法律と比較することは、特に興味のあることである。というのは、この比較は立法上の二つの方法の--イギリス的な、「歴史的な」、臨機応変的な方法と、大陸的な、フランス革命の伝統の上に築かれた、より一般化的な方法との--長所と短所とを非常にはっきりさせるからである。残念なことには、イギリスのこの法典は、作業場への適用に関するかぎり、大部分は今なお死丈である。--監督官の数が足りないために。--F ・エンゲルス}〉(全集第23a654-655頁)

《フランス語版》

 〈(951) ロパート・オーエンが、今世紀の最初の10年を経た直後に、労働日の制限の必要性を理論的に主張したばかりでなく、さらになお、ニュー・ラナークの自分の工場で10時間労働日を実際に設定したとき、この革新は共産主義的ユートピアとして嘲笑された。人は、彼の「生産労働と児童教育との結合」を、また、彼がまっさきに産み出した労働者の協同組合を茶化した。今日では、これらのユートピアのうち最初のものは国家の法律になり、二番目のものはすぺての工場法のなかに公式の常套句として現われており、三番目のものは反動的な術策を蔽い隠すための仮面として役立つまでにいたっている。〉(江夏・上杉訳309頁)

《イギリス語版》

  〈本文注156: * ロバート オーエンは、1810年になって直ぐ、理論として、(1)労働日の制限の必要性を主張しただけではなく、(2)実際に、彼のニュー ラナークの工場に日10時間を導入したのである。(3)そしてまた当時、共産主義者のユートピアのようなものと笑われたが、彼の云うところは「生産的労働と児童教育との調和と、労働者達の協働的社会」だが、彼によって最初に叫ばれて知られる所となった。( ここに括弧付きの数字 (1)-(3)を訳者の都合で挿入した。以下の文面との対応を明確にするためである。) 今日、(1)最初のユートピアは、工場法である。(2)二番目となるのは、全工場法の公式的な字句として、(3)三番目は反動的な企ての隠れ蓑としてすでに使われている。以来、工場の哲学者 ユアは、資本に対して、「工場法と言う名の奴隷制度を」なる文字 ( 訳者注: 実際は「工場法を守れ」というスローガンをユアが書くとこうなるのであろう) を旗に書き込んで、男らしく「完全なる労働の自由」のために突き進んだ英国の労働者階級を、神に向かってはとても云えないような言葉で罵る*のである。〉(インターネットから)

  (付属資料(2)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(5)

2024-02-15 18:21:58 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(5)


【付属資料】(2)

 

●原注192

《61-63草稿》

  〈{ユアは、国家の側からの労働日の規制である、12あるいは10時間法等々が、まったく労働者の「反逆」のせいで、彼らの組合(彼は攻撃的に「結社」と呼ぶ)のせいで存在するようになったことを認める。「(1818年ごろの紡績工組合の)これらの騒動や抗議の結果、工場の労働時間を規制するサー・ロバト・ピールの法案が1818年に通過した。同様な反抗の風潮がひきつづき現われ、1825年には第二の法案が、1831年にはサー・J・C・ホブハウスの名を冠した第三の法案が通過した。」(第二巻、19ページ。)}
  {「紡績工組合は、白人奴隷とか、キャラコの王冠をいただく黄金神の祭壇に毎年捧げられる児童の生賛とかいったおとぎ話ふうの絵を描いてみせることで、彼らのいいなりになる連中を育成することに完全に成功した。」(第二巻、39、40ページ。)}〉(草稿集⑨272頁)

《初版》

 〈(192) ユア(フランス語訳)『工場哲学、パリ、1836年』、第2巻、39、40、67、77ページ等々。〉(江夏訳338頁)

《フランス語版》

 〈(160) ユア、フランス語訳『工場哲学』、パリ、1836年、第2巻、39、40、67、77ページなど。〉(江夏・上杉訳309頁)

《イギリス語版》

  〈(本文注157: *ユア 「フランス語訳 製造業者達の哲学」パリ 1836年 第2巻)〉(インターネットから)


●第4パラグラフ

《61-63草稿》

   〈「フランスでは、1848年以前には工場における労働日を制限するための法律は存在しないも同然であった。工場(原動機または持続的火力を用いている、工場(ファクトリ)、製造所(ワーク)、作業場(ワークショップ)、および、20人以上の労働者を就業させているすべての施設)における児童労働を制限するための1841年3月22日の法律(この法律の基礎となったのは、ウィリアム4世治下第3年および第4年法律第103号である)は死文のままであり、今日にいたるまでノール県でしか実際に施行されていない。ちなみにこの法律によれば、13歳未満の児童を、「緊急の修理の仕事の場合、または水車の停止のさい」には、夜(午後9時から午前5時までのあいだ)でも使うことができ、13歳以上の児童を、「彼らの労働が不可欠であるならば」夜どおしでも使うことができるのである。〉(草稿集④348頁)
  〈②〔注解〕レッドグレイヴの原文では次のようになっている。--
  「フランスで労働を規制している法律には二つのものがある。一つは、指定されたある種の諸労働における児童の労働と教育とにかかわるもので、1841年に制定された。もう一つは、あらゆる種類の労働における成人の労働時間を制限するもので、1848年に制定された。
  第一の法律は多くの討論と熟慮とののちに承認されたが、わが国の法令であるウィリアム4世治下第3年および第4年法律第103号の諸条項にもとづいていた。この問題は諸県にあるさまざまの商工会議所に回付された。そしてけっきょく法律は、工場における労働時間の制限にたいして主張された各地方の異論にこれをできるかぎり一致させるようなかたちで承認されたのである。
  その諸条項の大要は次のとおりである。--
    1841年3月21日の法律
  児童の労働は次のところにおいては規制されるべきである。--
  原動機または持続的火力を用いている、工場、製造所、作業場、および21人以上の労働者を就業させているすべての施設。
  児童の労働は次のように規制されるべきである。--
  『8歳未満の児宣を使用してはならない。
  8歳以上12歳未満の児童は、1回の休憩時間をはさむ8時間を越えて使用してはならない。
  12歳以上16歳未満の児童は、少なくとも2回の休憩時間をはさむ12時間を越えて使用してはならない。
  16歳未満の児童の労働時間は、午前5時から午後9時までのあいだになければならない。
  児童の年齢は、戸籍吏によって無料で発行される証明書によって証明されなければならない。
  夜間とは、午後9時から午前5時までのあいだと宣言される。
  13歳未満の児童は、緊急の修理の仕事の場合、または水車の停止のさいを除いて、夜間に使用してはならない。また夜間における2時間の労働は、昼間における3時間の労働と見なされる。』」〉(④349頁)

  〈①1848年3月2日に臨時政府は一つの法令を布告した。それによれば、工場ばかりでなくすべての製造所や作業場においても、児童ばかりでなく成人労働者についても、労働時間がパリでは10時間に、各県では11時間に制限さ/れた。臨時政府は、標準労働日がパリでは11時間、各県では12時間であるという誤った前提に立っていたのである。だが、--「多数の紡績工場で、労働は14-15時間続き、労働者、とりわけ児童の健康と風紀とを大きく害していた。いなもっと長時間でさえあった」(〔ジエローム-アドルフ・〕ブランキ氏著『1848年におけるフランスの労働者階級について』)。
  ①〔注解〕レッドグレイヴの原文では次のようになっている。--
  「……3月2日に彼らは次のように布告した。--
  『1日の労働は1時間縮小されねばならない。したがって、それが現在11時間から成っているパリではそれは10時間に短縮され、それがこれまで12時間から成っていた各県ではそれは11時間に短縮される。』
  政府の執効な命令にもかかわらず、この法令は執行されえなかった。人民の政府が人民のための立法を発議するときに、この政府は、通常の労働時間がパリでは11時間、各県では12時間であるという誤った仮定にもとづいていたが、これに反してそれらはこうした制限をはるかに越えていたのであって*、人民は、労働日の長さが実際には3、4、5時間も短縮されるのに、こんなに突然の変化、しかもこんなに広範囲な性格をもつ変化が当面の賃銀に影響を与えることはないものと期待したのであった。しかしこの法律は、パリをも各県をも満足させず、雇主をも労働者をも満足させなかった。パリでは1日10時間、各県については11時間と規定したその不公平は……。
  *『多数の紡績工場で、労働は14時間または15時間続き、労働者、とりわけ児童の健康と風紀とを大きく害していた。いな、もし私がよく知らされていたならば、もっと長時間でさえあったろう。』--『1848年におけるフランスの労働者階級について』、ブランキ氏著。」
  ①国民議会はこの法律を、1848年9月8日の法律によって次のように修正した、--「工場(マニュファクチュア)および製造所(ワーク)における労働者の1日の労働は12時間を越えてはならない。政府は、作業の性質または装置の性質が必要とする場合には、この法令の適用を除外する旨を宣告する権能を有する」。1851年5月17日の布告によって、政府はこの除外例を指定した。まず第一に、1848年9月8日の法律が適用されないさまざまの部門が規定されている。そしてさらに、次のような制限が加えられた、--「1日の終りにおける機械類の掃除。原動機、ボイラー、機械類、建物の故障によって必要となった作業。以下の事例においては労働の延長が許される。--染色場、漂白場、綿捺染場における反物の洗浄および伸張について、1/日の終りに1時間。砂糖工場、精練所、化学工場では2時間。染色場、捺染場、仕上げ工場では、工場主が選定して知事が認可した年間120日は2時間」。{工場監督官A・レッドグレイヴは、『工場監督官報告書。1855年10月31日にいたる半年間』の80ページで、フランスにおけるこの法律の実施について次のように述べている、--「若干の工場主が私に請け合ったところによれば、彼らが労働日を延長する許可を利用したいと思ったときには、労働者たちは、あるときに労働日が延長されればほかのときにいつもの時間数が短縮されることになるだろう、という理由で反対した。……また、彼らが1日12時間を越える労働に反対したのは、とくに、この時間を規定した法律が、共和国の立法のうち彼らに残された唯一の善事だからである」。
  ①〔注解〕レッドグレイヴの原文では次のようになっている。--
  「……そして、工業中心地においてそれから生じている悲惨な諸影響は、国民議会に、1848年9月8日、次の法律を制定させることになったが、この法律は、申し分のないものとして一般に受け入れられた。--
  『工場および製造所における労働者の1日の労働は121時間を越えてはならない。
  政府は、作業の性質または装置の性質が必要とする場合には、この法令の適用を除外する旨を宣言する権能を有する。』
  政府は、このようにしてそれに与えられた権限を行使して、1851年5月17日、許可されるべき除外例を次のように布告した。--
  『以下の職種は1848年9月8日の法律による規制には含まれない……。』」
  「労働日の延長は労働者の選択にまかされている。……それが相互に同意されている場合には、……(12時間を越える)1時間あたりの賃率は一般に彼らの通常の賃銀よりも高い」(同前、80ページ)。A・レッドグレイヴは81ページで述べている、--過度労働とそれに結びついた肉体的衰弱および精神的退廃の結果、「ルアンとリールの労働人口は……斃(タオ)れきて」、「増加がわずか」になった。また、「イギリスでは『工場障害者(クリツブルズ)』の名で呼ばれる犠牲者を出しているような種類の不具に、多くの人々が苦しめられている」(同前、81ページ)。)(④349-351頁)
  〈「児童労働調査委員会はこの数年、報告書を公刊し、多くの無法な行為を明るみに出したが、そうした行為はいまだに続いており、しかもそれらのなかには、工場や捺染場がこれまでに罪に関われたどの行為よりもはるかにひどいものがある。……議会にたいして責任を負っていて自分たちの処置を半年ごとに報告する義務を守る有給の公務員による、組織化された監察体制がなかったならば、法律はすぐに効力がないものとなるであろう。このことは、1833年の工場法に先だつすべての工場法が効果がなかったことによって証明されており、また今日フランスで--1841年の工場法が系統的な監察についての規定を含んでいないために--そうなっているとおりである」(『工場監督官報告書。1858年10月31日にいたる半年間』、10ページ)。〉(④355頁)

《初版》

 〈フランスが、イギリスのあとから、のろのろとびっこを引いてやってくる。フランスは、12時間法(193)の誕生のために2月革命を必要としたが、この法律は、イギリスの母法に比べればはるかに欠陥が多い。それにもかかわらず、フランスの革命的な方法にも、特有な長所が示されている。この方法は、すべての作業場と工場とに無差別に、同じ労働日制限一挙に課しているのに、イギリスの立法のほうは、あるときはこの点あるときはあの点で、四囲の事情の圧迫にいやいやながら屈服していて、新しい法律上の紛糾を孵化する方向に進んでいる(194)。他方、フランスの法律のほうは、イギリスでは児童や未成年者や婦人の名においてのみ戦い取られ、近ごろやっと一般的な権利として要求されているもの(194)を、原則の名において宣言しているのである。〉(江夏訳338頁)

《フランス語版》

 〈フランスはイギリスの後についてゆっくりと進んでいる。12時間法(161)を産み出すために、フランスは2月革命(1848年) を必要とするが、この法律は、そのイギリスの母法よりもはるかに欠陥が多い。それにもかかわらず、フランスの革命的方法にもその特有な利点がある。それは、すべての作業場とすべての工場とに、無差別に同じ労働日制限を一挙に負わせるのに対し、イギリスの立法は、あるときはこの点、あるときはあの点で、いやいやながら諸事情の圧迫に屈しながら、法律上の異議という一巣の雛全体を孵化させるのに最良の手段をいつもとっている(162)。他方、フランスの法律は、イギリスでは児童や未成年者や婦人の名においてのみ闘いとられ、やっと最近一般的な権利として要求されたものを(163)、原則の名において宣言しているのである。〉(江夏・上杉訳309頁)

《イギリス語版》

  〈(4) フランスは、英国の後をゆっくりとびっこを引きながら歩く。12時間法を世にもたらすためには二月革命が必要であった。だが、この12時間法*は、英国の原形に較べれば、より不完全なものである。
  とはいえ、フランスの革命的な方式は、特別なる前進も獲得している。労働日に係る同じ制限を、作業場であろうと工場であろうと区別することなく全てに対して命じている。一方の英国法では、状況の圧力に不承不承屈している。今回はこの点で、その次はあの点でと。そして、展望もなく、途方にくれる矛盾の絡まりあう条項*だらけに堕する。
  英国では、単に、児童たち、年少者たち、女性たちで勝利を得たのみであり、僅かに最近になって、最初の一般的権利として勝利したに過ぎない。一方フランス法は、原理*そのものを宣言する。〉(インターネットから)


●原注193

《初版》

 〈(193)『1855年のパリ国際統計会議』の報告書には、なかんずくこう書かれている。「工場や作業場での1日の労働時間を12時間に制限しているフランスの法律は、この労働を、一定の固定した時間(時限)の範囲内に制限しないで、児童労働にかぎって午前5時から晩の9時までの時限を規定している。だから、一部の工場主たちは、この不運な沈黙が与えてくれる権利を利用して、おそらく日曜日を除いて毎日、間断なく労働させているのである。このために、工場主たちは、2組に分けた労働者--どちらの組も仕事場で12時間以上時を過ごすことはない--を使っているが、工場の作業のほうは、昼も夜も続けられている。法律は守られているが、人道も守られているであろうか?」「夜間労働が人体に及ぼす破壊的な影響」は別にしても、「うす暗い同じ仕事場で男女が夜間一緒に働いていることのゆゆしい影響」も、強調されている。〉(江夏訳338頁)

《フランス語版》

 〈(161) 1855年にパリで催された国際統計会議の報告では、なかんずく次のように述べられている。「工場や作業場での毎日の労/働時間を12時間に制限するフランスの法律は、この労働が履行されるぺき特定の時刻をきめていない。ただ児童の労働についてだけ、朝の5時から晩の9時までの時間が規定されている。したがって、工場主たちは、この不吉な沈黙が自分たちに与えてくれる権利を利用して、おそらく日曜日を除いて、毎日中断なく労働させるのである。彼らはそのために2組の別々の労働者を使うのであって、そのどの組も作業場で12時間以上を過ごすことはないが、事業所では作業が昼夜続いている。法律は守られているが、人道も同じく守られているか?」。この報告では、夜間労働が人体に及ぼす破壊的な影響のほかに、照明のひどく悪い同じ仕事場で男女が夜間一緒にいることの不吉な影響も、浮き彫りにされている。〉(江夏・上杉訳309-310頁)

《イギリス語版》

  〈本文注158: * パリにある国際統計会議の報告書 1855年 には、次の様に書かれている。「工場と作業場での日労働の長さを12時間に制限するフランスの法は、この労働の時間を明確な不動の時間としては限定していない。ただ児童労働については、朝5時から夕9時の間と明記されている。であるから、工場主のある者らは、日曜日を除いては、できる限り、日が始まろうと、終わろうと、休みもなしに、自分らの作業を自分らの好きなように継続できるという、この致命的な沈黙で示されている権利を利用する。この目的のために、彼等は、2組の異なる労働者の班を利用する。班はいずれもその作業場には1回では12時間を超えないが、作業は昼も夜も続く。法は納得されたが、人間性は納得されたか?」さらに、「人体にとっての、夜間労働の破壊的な影響」に触れ、さらにまた、「夜、男女が、同じように暗い照明の中でごったに置かれることの致命的な影響」にも触れている。〉(インターネットから)


●原注194

《初版》

 〈(194) 「たとえば私の管区では、同じ工場建物のなかで、同じ工場主が、『漂白工場および染色工場法』のもとでは漂白業者および染色業者であり、『捺染工場法』のもとでは捺染業者であり、『工場法』のもとでは仕上げ業者である、云々。」(『1861年10月31日の工場監督官報告書』、20ページ中のレッドグレープ氏の報告。)これらの法律のいろいろな規定と、そ/こから生ずるごたごたとを列挙したあとで、ベーカー氏はこう言う。「工場所有者が法網をくぐろうとすれば、これらの三つの国会制定法の施行を確保することがどれほど困難にならざるをえないか、ということがわかる。」ところが、このことによって弁護士諸氏に確保されているものが、訴訟なのである。〉(江夏訳338-339頁)

《フランス語版》

 〈(162) 「たとえば、私の管区では、同じ工場主が同じ事業所内で漂白業者および染色業者であり、そのかぎりで漂白業および染色業を規制する法律の適用を受け、さらに捺染業者でもあり、そのかぎりで『捺染工場法』の適用を受け、最後に仕上業者<finisher>でもあって、そのかぎりで『工場法』の適用を受けている……」(『1861年10月31日の工場監督官報告書』、20ページ中のべーカー氏の報告)。べーカー氏は、これらの法律の種々の条項をあげてそこから生ずるややこしさを浮き彫りにした後で、こうつけ加える。「工場主が法網をくぐろうとすれば、これら三つの国会制定法の実施を確保することがどんなに困難にならざるをえないか、ということがわかる」。だが、このことによって法律家諸君に保証されているものは、訴訟である。〉(江夏・上杉訳310頁)

《イギリス語版》

  〈本文注159: * 「例えば、私の地区の一人の居住者は、同じ宅地内で、漂白と染色工場法下にある漂白業者であり、同時に染色業者でもある。また捺染工場法下の捺染業者であり、工場法下の仕上げ業者である。」(工場査察官報告書 1861年10月31日におけるベイカー氏の報告) これらのいろいろと異なる対応を列挙したのち、これらに起因する複雑な状況について、ベイカー氏は、「であるから、居住者が、法を逃れる道を選ぶことになれば、これらの3つの議会法の執行を確保するにはかなりの困難性が避けられないということになるであろう。」結果として、法律家がこれに対して自信を持って云えることは、法衣を持ち出すことのみである。〉(インターネットから)


●原注195

《初版》

 〈(195) そこで、工場監督官は、おしまいにはあえてこう言う。「これらの異議(労働時間の法的制限にたいする資本の)は、労働者の権利という大前提の前に周すべきものである。……たとい疲労が問題にならなくても、労働者の労働にたいする雇主の権利が停止して労働者の時間が労働者自身のものになるような時点が、あるものだ。」(『1862年10月31日の工場監督官報告書』、54ページ。)〉(江夏訳339頁)

《フランス語版》

 〈(163) ついに工場監督官は、勇気を振って言う。「これらの異議(労働時問の法的制限にたいする資本の)は、労働の権利の大原則の前に屈服すべきである。……自分の労働者の労働にたいする雇主の権利が停止して労働者が自分自身を再びわがものにする、そういった一つの時点がある」(『1862年10月31日の工場監督官報告書』、54ページ)。〉(江夏・上杉訳310頁)

《イギリス語版》

  〈本文注160: * 工場査察官も、最後には敢えて、このように云っている。「これらの異議申し立て ( 資本家の、労働日の法的な制限に係る異議申し立て) は、労働の権利という大きな原理の前には屈伏せざるを得ない…. そこに、資本家の労働者に対する権利を停止する時が来る。そして労働者の時間が彼自身のものとなる。仮に、そこになんの疲労も無いとしても、勿論のことである。(工場査察官報告書 1862年10月31日)〉(インターネットから)


●第5パラグラフ

《アメリカ合衆国大統領エーブラハム・リンカンへ》(1865年1月7日)

  〈拝啓
  私たちは、あなたが大多数で再選されたことについて、アメリカ人民にお祝いを述べます。奴隷所有者の権力にたいする抵抗ということが、あなたの最初の選挙の控えめのスローガンであったとすると、奴隷制に死を、があなたの再選の勝利に輝く標語です。
  アメリカの巨大な闘争の当初から、ヨーロッパの労働者たちは、彼らの階級の運命が星条旗に託されていることを、本能的に感じていました。あの凄惨をきわめた大叙事詩のはじまりとなった諸准州をめぐる闘争は、広漠たる処女地を、移住民の労働と結ばせるか、それとも奴隷監督の足下にけがさせるか、を決定すべきものではなかったでしょうか?
  30万の奴隷所有者の寡頭支配が、世界の歴史上にはじめて、武装反乱の旗印に奴隷制ということばを書くことをあえてしたとき、まだ1世紀もたたぬ昔に一つの偉大な民主共和国の思想がはじめて生まれた土地、そこから最初の人権宣言(13)が発せられ、18世紀のヨーロッパの革命に最初の衝激があたえられたほかならぬその土地で、その同じ土地で反革命が系統的な徹底さをもって、「旧憲法の成立の時期に支配していた思想」を廃棄する、と得意になって吹聴し、「奴隷制こそ有益な制度であり」、それどころか、「労働と資本の関係」という大問題の唯一の解決策であると主張し、そして人間を所有する権利を「新しい建物の礎石(16)」と厚顔にも宣言したとき、そのときただちにヨーロッパの労働者階級は、南部連合派の郷紳(17)にたいする上流階級の狂熱的な支持によって不吉な警告をうけるよりもなお早く、奴隷所有者の反乱が、労働にたいする所有の全般的な神聖十字軍への早鐘をうちならすものであり、労働する人々にとっては、未来にたいする彼らの希望のほかに、彼らが過去にかちえたものまでが、大西洋の彼岸でのこの巨大な闘争において危うくされているのだということを理解しました。だからこそ彼らはいたるところで、綿業恐慌が彼/らにおわせた困苦を辛抱つよく耐えしのび(18)、彼らの目上の人々がしつこく迫った奴隷制支持の干渉にたいして熱狂的に反対し、またヨーロッパの大部分の地域からこのよき事業のために彼らの応分の血税を払ったのであります。
  北部における真の政治的権力者である労働者たちは、奴隷制が彼ら自身の共和国をげがすのを許していたあいだは、また彼らが、自分の同意なしに主人に所有されたり売られたりしていた黒人にくらべて、みずから自分を売り、みずから自己の主人を選ぶことが白人労働者の最高の特権であると得意になっていたあいだは--彼らは真の労働の自由を獲得することもできなかったし、あるいは、ヨーロッパの兄弟たちの解放闘争を援助することもできなかったのであります。しかし、進歩にたいするこの障害は、内戦の血の海によって押し流されてしまいました。
  ヨーロッパの労働者は、アメリカの独立戦争が、中間階級〔ブルジョアジー〕の権力を伸張する新しい時代をひらいたように、アメリカの奴隷制反対戦争が労働者階級の権力を伸張する新しい時代をひらくであろうと確信しています。彼らは労働者階級の誠実な息子、エーブラハム・リンカンが、鎖につながれた種族を救出し、社会的世界を改造する比類のない闘争をつうじて、祖国をみちびいていく運命をになったことこそ、来たるべき時代の予兆であると考えています。
  国際労働者協会中央評議会を代表して署名(署名は略)〉(全集第16巻16-17頁)

《個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示》(『ジ・インタナショナル・クリア』1867年2月20日および3月13日付第6/7号および第8/9/10号)

  〈3 労働日の制限

  労働日の制限は、それなしには、いっそうすすんだ改善や解放の試みがすべて失敗に終わらざるをえない先決条件である。
  それは、労働者階級、すなわち各国民中の多数者の健康と体力を回復するためにも、またこの労働者階級に、知的発達をとげ、社交や社会的・政治的活動にたずさわる可能性を保障するためにも、ぜひとも必要である。
  われわれは労働日の法定の限度として8時間労働を提案する。このような制限は、アメリカ合衆国の労働者が全国の労働者が全国的に要求している(138)ものであって、本大会の決議はそれを全世界の労働者階級の共通の綱領とするであろう。
  工場法についての経験がまだ比較的に日のあさい大陸の会員の参考としてつけくわえて言えば、この8労働時間が1日のうちのどの刻限内におこなわれるべきかを決めておかなければ、法律によるどんな制限も役にはたたず、資本によってふみにじられてしまうであろう。この刻限の長さは、8労働時間に食事のための休憩時間を加えたもので決定されなければならない。たとえば食事のためのさまざま/な休止時間の合計が1時間だとすれば、法定の就業刻限の長さは9時間とし、たとえぽ午前7時から午後4時までとか、午前8時から午後5時までとかと決めるべきである。夜間労働は、法律に明示された事業または事業部門で、例外としてのみ許可するようにすべきである。方向としては、夜間労働の完全な廃止をめざさなければならない。
  本項は、男女の成人だけについてのものである。ただ、婦人については、夜間労働いっさい厳重に禁止されなければならないし、また両性関係の礼儀を傷つけたり、婦人の身体に有毒な作用やその他の有害な影響を及ぼすような作業も、いっさい厳重に禁止されなけれぽならない。ここで成人というのは、18歳以上のすべての者をさす。〉(全集第16巻191-192頁)
  〈注解(138)--アメリカ合衆国では、内戦以後、法律による8時間労働日の制定を要求する運動が強まった。全国にわたって、8時間労働日獲得闘争のための8時間労働連盟(Eight-Hour Leagues)が結成された。全国労働同盟がこの運動に参加した。同盟は、1866年8月ボルティモアでひらかれた全国大会で、8時間労働日の要求は資本主義的奴隷制から労働を解放するための必要な前提である、と声明した。〉(第16巻637頁)

《初版》

 〈アメリカ合衆国では、奴隷制度がこの共和国の一部を不具にしていたあいだは、独立した労働者運動はすべて麻癖状態にあった。黒人の労働が汚辱を加えられているところでは、白人の労働が解放されるはずがない。だが、奴隷制度の死からは、たちまち、新しく若返った生命が発芽した。南北戦争の第一の成果は、機関車という1歩7マイルの長靴で、大西洋から太平洋まで、ニューイングランドからカリフォルニアまでを闊歩する、8時間運動であった。ボルチモアの全国労働者大会(1866年8月16日) はこう声明している。「この国の労働を資本主義的奴隷制度から解放するための、現在における第一級の大必要事は、アメリカ連邦の州で標準労働日を8時間とする法律を、制定することである。われわれは、この輝かしい成果に到達するまで、全力を尽くすことを決意した(196)」。それと同時に(1866年9月初め)、ジュネーブの「国際労働者大会」は、ロンドンの総務委員会の提案にもとづいて、こう決議した。「労働日の制限は、この制限を欠いては解放を求める他のいっさいの努力が挫折せざるをえない一つの前提条件である、とわれわれは声明する。……われわれは、8労働時間が労働日の法的限度である、と提案する。」〉(江夏訳339頁)

《国際労働者協会総評議会の第4回年次報告》(1868年9月6日から13日にブリュッセルでひらかれたインタナショナル第3回大会のために)から

 〈総評議会は、合衆国の全国労働同盟と不断の連絡をたもっている。アメリカの同盟は、1867年8月にひらかれた同盟の前回の大会で、本年のブリュッセル大会に代表を派遣することを決議したが、時間の不足のため、この決定の実行に必要な措置をとることを怠った(205)。
  北アメリカの労働者階級の潜在的な力は、連邦政府の官営事業場で8時間労働日が法律によって実施されたことや、連邦加盟の8つないし9つの州で一般的な8時間労働法が公布されたことによって明らかである。にもかかわらず、/目下アメリカの労働者階級は、たとえばニューヨークで、8時間労働法の実施をその力に及ぶあらゆる手段をもちいて妨げようとしている反抗的な資本にたいして、必死の闘争をおこなっている。この事実は、最も有利な政治的条件のもとでさえ、労働者階級がなんであろうと重大な成果をおさめることは、彼らの勢力をきたえ集中する組織の成熟度にかかっているということを、証明している。〉(全集第16巻320-321頁)
  〈注解(205)--アメリカ合衆国の全国労働同盟(National Labor Union)は、1866年8月にボルティモアの大会で創立された。アメリカの労働運動のすぐれた代表者であるW・H・シルヴィスがこの創立に積極的に参加した。全国労働同盟は、当初から国際労働者協会を支持した。1867年8月の全国労働同盟シカゴ大会では、トレヴェリックが国際労働者協会の定例大会への代議員に選出されたが、彼はローザンヌ大会に出席しなかった。全国労働同盟の一代議員キャメロンが、1869年にインタナショナルのバーゼル大/会の終わりの数回の会議に参加した。1870年8月、シンシナティでひらかれた全国労働同盟の大会は、国際労働者協会の原則にたいする同意を宣言し、協会への加入の意向を表明した決議を採択した。しかしこの決定は実行されなかった。
  全国労働同盟の指導部は、その後まもなく、ユートピア的な通貨改革の計画に没頭した。これは、銀行制度の廃止と、国家による低利信用の供与とを目標とするものであった。1870-1871年に労働組合が全国労働同盟から脱退し、1872年には同盟は実際上存在することをやめた。〉(第16巻652-653頁)

《アメリカ合衆国全国労働同盟への呼びかけ(205)(ロンドン、1869年5月12日)

 〈仲間の労働者諸君!
  わが協会の創立綱領のなかで、われわれは言明した。
--「大西洋の彼岸に奴隷制を永久化しひろめることを目的とするいまわしい十字軍に、西ヨーロッパがまっしぐらにとびこまずにすんだのは、支配階級の賢明さのおかげではなくて、イギリスの労働者階級が支配階級の犯罪的な愚行に英雄的に抵抗したおかげであった。」いまや戦争を防止するために諸君が立ち上がる番がきた。この戦争が起こるならば、その最も明白な結果は、上げ潮に向かっている労働者階級の運動が、大西洋の両側で、無期限に後退を余儀なくさせられるということであろう。
  アメリカ合衆国をイギリスとの戦争に追い込もうと必死/になっているヨーロッパ列強があることは、いまさら諸君にいうまでもない。貿易統計をひと目眺めさえすれば、ロシアの原料品輸出--そしてロシアにはこれ以外に輸出するものはないのであるが--が急速にアメリカとの競争に敗退しはじめていたときに、内戦が突如として形勢を逆転したのだということが見てとれる。アメリカの鋤を剣に変えることは、諸君の共和党の政治家が賢くも心を許した助言者に選んだあの専制国家を、まさにいま迫りくる破産から救いだす道なのである。だが、あれこれの政府の特殊的利益は別としても、急速に成長しつつあるわれわれの国際的協力を共倒れの戦争に転化することは、われわれの共通の抑圧者たちの一般的利益ではないだろうか?
  リンカン氏の大統領再選にあたってわれわれが送った祝辞のなかで、われわれは、アメリカの独立戦争が中間階級〔ブルジョアジー〕の進歩にとって重大な意義をもったのと同様に、アメリカの内戦は労働者階級の進歩にとって重大な意義をもつことになるだろうというわれわれの確信を表明した。じじつ、反奴隷制戦争の勝利の終結は、労働者階級の歴史に新しい時代をきりひらいたのである。合衆国自体のなかでも、この日以来、諸君の古い政党とその職業的政治家から憎悪の目でみられる独立した労働者階級の運動が誕生したのであった。この運動は、結実を見るためには、平和な年月を必要としている。それを破壊するためには、合衆国とイギリスのあいだの戦争が必要とされている。
  内戦の第二の明白な結果は、もちろん、アメリカの労働者の地位の悪化であった。ヨーロッパと同様、合衆国においても、国債の悪夢のような重荷は手から手へと転嫁されて、結局は労働者階級の肩におちついたのである。諸君の政治家のひとりの言うところでは、日用必需品の価格は1860年以来78%上昇したが、一方、不熟練労働者の賃金は50%、熟練労働者のそれは60%上がったにすぎない。この政治家は不満を述べていう。
  「極貧状態はいまやアメリカでは人口より急速に増大する。」
  そのうえ、労働者階級の苦難は、金融貴族、成上り貴族、そして戦争の甘い汁を吸った同様の害虫どもの新奇な贅沢とあざやかな対照をなしている。しかしそれにもかかわらず、内戦は、奴隷を解放し、その結果として諸君自身の階級の運動に精神的刺激をあたえたがゆえに、これらのことを償ってあまりあるものであった。第二の戦争は、崇高な目的や偉大な社会的必要によって清められる戦争ではなく、古い世界の型にしたがった戦争であり、それは奴隷の鎖を断つかわりに、自由な労働者のた/めの鎖を鍛えることになるであろう。そのあとに残される悲惨の堆積は、常備軍の無慈悲な剣によって労働者階級をその勇敢で正しい望みから引き離すための動機と手段とを、諸君の資本家たちにあたえることになるだろう。
  だから、労働者階級が、もはや卑屈な従者としてではなく、みずからの責任を意識した俳優、自称主人たちが戦争を叫ぶときに平和を命じることのできる独立した俳優として、いまやついに歴史の舞台を堂々と歩んでいることを世界に示すという光栄ある任務が、まさに諸君の肩にかかっているのである。
   国際労働者協会総評議会の名において(以下、略)〉(全集第16巻頁)
  〈注解(245)--全国労働同盟にあてた総評議会の呼びかけは、1869年春にイギリスとアメリカ合衆国とのあいだに戦争の危険が生まれたことに関連して、マルクスが起草し、5月11日の総評議会で読み上げられたものである。〉(全集第16巻662頁)

《フランス語版》

 〈アメリカ合衆国では、奴隷制度が共和国の一部の土地を汚していたあいだは、労働者の側での独立しようとする気持はすべて麻痺したままであった。黒人の労働が汚名をきせられ屈辱を受けているところでは、白人の労働は解放されるはずがない。だが、奴隷制度の死はただちに新しい生命を孵化させた。南北戦争の第一の果実は8時間運動であって、この運動は機関車という1歩7里の長靴で、大西洋から太平洋までを、ニュー・イングランドからカリフォルニアまでを、駆けまわった。ボルティモアの全国労働者大会(1866年8月16日) は次のように宣言した。「この国の労働を資本主義的奴隷制度から解放するための、現在の第一かつ最大の要求は、アメリカ連邦全州において労働日は8時間で構成されるべきだという法律を発布することである。われわれは、この光栄あ.る成果が達成されるまで全力を尽すことを決意した(164)」。同時に(1866年9月の初めに)、ジェネーヴの国際労働者大会は、ロンドンの総務委員会の提案に/もとづいて同じような決議をした。「労働日の制限は、それなしには解放を目ざすいっさいの努力が挫折せざるをえない前提条件である、とわれわれは宣言する。われわれは8時間を労働日の法定限度として提案する」。〉(江夏・上杉訳310-311頁)

《イギリス語版》

  〈(5) 北アメリカ合衆国では、共和国の一部が奴隷制度で汚れているかぎりでは、あらゆる独立した労働者の運動は、麻痺させられていた。黒き烙印が白い皮膚にあるかぎり、労働は、自分を解放することは出来ない。しかし、奴隷制度の死以後、新たな生命が直ちに開花した。市民戦争の最初の果実は、8時間運動である。この運動は、大西洋から太平洋まで、ニューイングラインドからカリフォルニアまで、一足3マイル×7倍という民謡に登場するあの深靴を実現した機関車で一気に走った。ボルチモアで開かれた労働者一般会議 ( 1866年8月16日) は、次のように宣言した。
  (6) 「現在やらなければならないことの第一で名誉ある事は、この国の労働を資本主義的奴隷制度から解放することである、そのためには、アメリカ連邦全州において、標準労働日を8時間とする法を議会で制定することである。我々は、我々の全力を以て、光栄ある結果が達成されるまで、これを前進させることを決意する。」*
  (7) 同じ頃、ジュネーブの国際労働者協会の会議は、ロンドンの一般評議会の提案を受けて、次のように決議した。「労働日の制限は、それなくば、以後の改善や解放の推進が流産させられかねない前提条件である…. 会議は、8時間を労働日の法的制限として建議する。」〉(インターネットから)

 (付属資料(3)に続く。)

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『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(6)

2024-02-15 18:05:43 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(6)


【付属資料】(3)


●原注196

《初版》

 〈(196) 「われわれダンカークの労働者はこう声明する。現在の制度のもとで要求されている労働時間は、長すぎるし、労働者に休息や進歩のための時間を少しものこさず、むしろ、奴隷制度よりもわずかばかりましな隷属状態(“a condition of/ servitude but little better than siavery") に労働者を押さえつけている、と。だから、次のことを決議する。8時間が1労働日としては充分であるし法律上も充分である、と認められるべきだということ、われわれは、強力な挺子である新聞に援助を求め、……そして、この援助を拒む者をすべて、労働の改革と労働者の権利とにたいする敵と見なすということ。」(1886年のニューヨーク州ダンカークにおける労働者の決議、1866年。)〉(江夏訳339-340頁)

《フランス語版》

 〈(164) 「われわれダンカークの労働者は宣言する。現制度のもとで要求されている労働時間の長さは過大であって、休息し勉学するための時間を残すどころか、奴隷制度より余りましでもない隷属状態<a condition of servitude but little better than siavery>に労働者を陥れている。それゆえ、われわれは、8時間が1労働日として充分であり、法律上も充分であると認められるべきこと、われわれはかの強力な挺子である新聞に援助をもとめること、……また、われわれは、この援助を拒否するであろう者をことごとく、労働の改革と労働者の権利との敵とみなすこと、を決議する」(1866年、ニューヨーク州ダンカーク労働者の決議)。〉(江夏・上杉訳311頁)

《イギリス語版》

  〈本文注161: * 「我々、ダンカークの労働者は、現在のシステムが課している労働時間の長さが、長すぎ、休息と教育のための時間が、労働者にはほとんど残されておらず、労働者を苦役に陥しめており、奴隷制度となんら変わらない状態にあると断言する。これが、何故我々が8時間の労働日で充分と決めたのかの理由である。また、充分であると法的にも承認されねばならない。何故我々が我々の助けとして力強き梃子、新聞記者を呼んだのかの理由である。…. そして、我々へのこのような助力を拒む者らを、労働改革と労働者の諸権利の獲得に対する敵と考えるかの理由である。」( ダンカークの労働者達の決議文 ニューヨーク州 1866年)〉(インターネットから)


●第6パラグラフ

《賃金・価格・利潤》

 〈労働日の制限についていえば、ほかのどの国でもそうだが、イギリスでも、法律の介入によらないでそれが決まったことは一度もなかった。その介入も、労働者がたえず外部から圧力をくわえなかったらけっしてなされはしなかったであろう。だがいずれにしても、その成果は、労働者と資本家とのあいだの私的な取決めで得られるはずのものではなかった。このように全般的な政治活動が必要であったということこそ、たんなる経済行動のうえでは資本のほうが強いことを立証するものである。〉(全集第19巻150頁)

《初版》

 〈こうして、大西洋の両岸で生産諸関係そのものから本能的に成長した労働者運動は、イギリスの工場監督官R・J・サーンダーズの次の陳述を確証している。「社会改良のためのさらにつつ込んだ方策は、あらかじめ労働日が制限されて、規定されたその限度が厳格に強制されなければ、けっして、成功を見込んで遂行できるものではない(197)。」〉(江夏訳340頁)

《フランス語版》

 〈こうして、大西洋の両岸で生産関係そのものから自然発生的に生まれた労働者階級の運動は、イギリスの工場監督官R・J・サーンダーズの次の言葉を裏書きしている。「労働日がまず制限され、この規定された限度が厳格に強制的に遵守されなければ、なんらかの成功の望みをもって社会の改革に向かって一歩前進することは不可能である(165)」。〉(江夏・上杉訳311頁)

《イギリス語版》

  〈(8) この様に、大西洋の両側で労働者階級の運動が、生産の状況自体の中から、本能的に成長した。英国工場査察官 R.J. サンダースの次の言葉が、それを認めている。
 (9) 「社会の改革へと向かう更なるステップは、労働時間が制限されること、その規定が厳格に執行されることが、なんらあり得ないということでは、永久に遂行され得ない。」*( 本文注: 162 :*工場査察官報告書 1848年10月)〉(インターネットから)


●原注197

《初版》

 〈(197) 『1848年10月31日の工場監管官報告書』、112ページ。〉(江夏訳340頁)

《フランス語版》

 〈(165) 『1848年10月31日の工場監督官報告書』、112ページ。〉(江夏・上杉訳311頁)

《イギリス語版》 本文に挿入。


●第7パラグラフ

《国際労働者協会創立宣言》(マルクス)1864年9月28日から

  〈イギリスの労働者階級は、30年にわたって最も驚嘆すべきねばりつよさでたたかったのち、土地貴族と貨幣貴族のあいだの一時的な分裂を利用して、10時間法案を通過させることに成功した。このことが工場労働者にもたらした巨大な肉体的・精神的・知的な利益は、工場監督官の報告書に半年ごとに記録されて、いまでは各方面の承認するところとなっている。大陸の大多数の政府も、多少修正した形態でイギリスの工場法を受け入れなければならなかったし、イギリス議会そのものが、工場法の施行範囲を年々拡大しなければならなくなっている。しかし、この労働者の/ための方策の驚くべき成功には、その実際的な意義以外に、この成功の意義をさらに高める別の要因があった。これまで中間階級は、ユア博士、シーニア教授、その他同様の賢人たちのような、彼らの最も悪名高い学術機関の口をつうじて、労働時間をすこしでも法律で制限すれば、イギリス工業の弔鐘を鳴らす結果とならざるをえないこと、この工業は、吸血鬼さながらに、生血を、おまけに子供の生血までも吸わずには生きてゆけないということを予言し、好きなだけそれを論証してきた。その昔、子供殺しはモロクの宗教の秘儀となっていたが、しかしその実施は、若干のきわめて荘厳な儀式の場合に限られていて、たぶん年1回をこえなかった。そのうえ、モロクは、貧民の子供だけをえり好みするようなことはなかった。労働時間の法律的制限をめぐるこの闘争は、貧欲をおびえさせた以外に、じつに、中間階級の経済学である需要供給の法則の盲目的な支配と、労働者階級の経済学である社会的先見によって管理される社会的生産とのあいだの偉大な抗争に影響を及ぼすものであったから、なおさら激しくたたかわれた。こういうわけで、10時間法案は、大きな実践的成功であるだけにとどまらなかった。それは、原理の勝利でもあった。中間階級の経済学があからさまに労働者階級の経済学に屈服したのは、これが最初であった。〉(全集第16巻8-9頁)

《国際労働者協会暫定規約》マルクス(1864年9月28日発表)

  〈労働者階級の解放は、労働者階級自身の手でたたかいとられなければならないこと、労働者階級解放のための闘争は、階級特権と独占をめざす闘争ではなく、平等の権利と義務のため、またあらゆる階級支配の廃止のための闘争を意味すること、
  労働手段すなわち生活源泉の独占者への労働する人間の経済的な隷属が、あらゆる形態の奴隷制、あらゆる社会的悲惨、精神的退廃、政治的従属の根底にあること、
  したがって、労働者階級の経済的解放が大目的であり、あらゆる政治運動は手段としてこの目的に従属すべきものであること、
  これまでこの大目的のためにはらわれた努力はすべて、それぞれの国のさまざまな労働部門のあいだに連帯がなく、またさまざまな国々の労働者階級のあいだに兄弟的同盟のきずながなかったために失敗したこと、
  労働の解放は、地方的な問題でも一国的な問題でもなく、近代社会が存在しているあらゆる国々にわたる社会問題であり、その解決は、最も先進的な国々の実践的および理論的な協力にかかっていること、
  現在ヨーロッパの最も工業的な国々にみられる労働者階級の運動の復活は、新しい期待を生みだすとともに、古い誤りをくりかえさないようにという厳粛な警告をあたえるものであり、いまなおばらばらな運動をただちに結合するよう要請していること、
  以上の理由にもとついて、--
  1864年9月28日、ロンドン、セント・マーティンズ・ホールでひらかれた公開集会の決議によって権限をあたえられた委員会のメンバーである下名の者は、国際労働者協会の創立のために必要な措置をとった。
  われわれは宣言する。本国際協会ならびに本協会に加盟するすべての団体および個人は、真理、正義、道徳を、皮膚の色や信条や民族の別にかかわりなく、彼ら相互のあいだの、また万人にたいする彼らの行動の基準と認める。
  われわれは、自分自身のためだけでなく、各自の義務を.果たしているすべての人のために人および市民の権利を要求するのが、人たるものの義務である、と考える。義務を/伴わない権利はなく、権利を伴わない義務もない。
  この精神にたってわれわれは、次の国際労働者協会の暫定規約を起草した。
  第一条  本協会は、同一の目的、すなわち労働者階級の保護、進歩および完全な解放をめざしているさまざまな国々の労働者諸団体の連絡と協力を媒介する中心として創立された。
  第二条  協会の名称は「国際労働者協会」とする。
  第三条  1865年に、国際協会に加盟した労働者諸団体の代表をもって構成される一般労働老大会をベルギーで開催するものとする。大会は、労働者階級の共通の志望をヨーロッパにむかって宣明し、国際協会の規約を最終的に決定し、協会の活動の成功のために必要な方策を審議し、協会の中央評議会を任命すべきものとする。一般大会は年1回開催するものとする。
  第四条  中央評議会の所在地はロンドンとする。中央評議会は、国際協会に代表される諸国に所属する労働者をもって構成するものとする。中央評議会は、議長、会計、書記長、各国担当通信書記など、業務処理に必要な役員を互選するものとする。
  第五条  一般大会は、その年次会議において、中央評議会の1年間の活動について公式の報告をうけるものとする。中央評議会は、毎年大会によって任命されるが、みずから評議員を追加する権限をもつものとする。緊急の場合には、中央評議会は、所定の年次期日以前に一般大会を招集することができる。
  第六条  中央評議会は、さまざまな協力的協会のあいだの国際的仲介機関となって、各国の労働者にたえず他のすべての国々における自階級の運動の事情を知らせ、ヨーロッパのさまざまな国の社会状態の調査を共通の指導のもとに同時におこなわせ、一団体で提起されたものでも、一般的な関心のある問題はすべての団体の討議にかけ、また、たとえば国際紛争の場合のように、実際的な措置を即座にとる必要が生じたときには、加盟各団体が同時に一様の行動をとりうるようにはからうものとする。中央評議会は、適当と思われるときにはいつでも、提案のイニシアチブをとり、さまざまな全国的または地方的団体にそれを提示するものとする。
  第七条  各国の労働運動は一致団結の力によらなければ成功を確保することはできず、他方ではまた、国際中央評議会の有用性は、中央評議会と交渉をもつ相手が少数の労働者協会全国中央部であるか、それとも、多数のばらばらな地方的小団体であるかによって、大部分決定されざるをえないのであるから、国際協会の会員は、各自の国のばら/ばらな労働者諸団体を、全国的な中央機関に代表される全国的団体に結合するために、最大の努力をはらうべきである。ただし、この条項の適用が、各国で施行されている特別法に左右されるのは自明のことであり、また、法律上の障害を別にしても、いかなる独立の地方的団体も、ロンドンの中央評議会と直接に通信してさしつかえないのは、いうまでもない。
  第八条  第1回大会が開催されるまでは、1864年9月28日に選出された委員会が暫定中央評議会として行動し、さまざまな全国的労働者協会との連絡をはかり、連合王国内で会員を獲得し、一般大会の招集を準備する措置をとり、大会に提出されるべき主要な問題について、さまざまな全国的および地方的団体と協議するであろう。
  第九条  国際協会の各会員は、一国から他国へ住所を移す場合、労働者協会会員の兄弟的援助をうける。
  第十条  国際協会に加盟する労働者諸団体は、兄弟的協力の永遠のきずなで結ばれるとともに、その既存の組織をそのまま維持する。〉(全集第16巻12-14頁)

《初版》

 〈わが労働者は、生産過程にはいったときとはちがった様子でそこから出てくる、ということを認めなければならない。市場では、彼は、他の商品所持者には、「労働力」という商品の所持者として、つまり商品所持者にたいする商品所持者として、相対していた。彼が自分の労働力を資本家に売ったときの契約は、売り手と買い手との自由意志によって申し合わされた産物であるかのように見える。取引が終わったあとで発見されるのは、彼が「けっして自由な当事者ではなかった」ということであり、労働力を売ることが彼の自由である時間は、彼がそれを売ることを強制されている時間だということ(198)であり、じっさい、彼の吸血鬼は、「搾取すべき一片の筋肉、一筋の腱、一滴の血でもあるかぎりは(199)」彼を手放さない、ということである。労働者たちは、自分たちを苦しめる蛇にたいして身を「防衛」するために結集すべきであるし、階級として、国法を、すなわち、資本との自由意志にもとづく契約でもって自分たちや自分たちの世代を死と奴隷状態にいたらせるまで売り渡していることを自分たち自身の手でやめさせるような、強大な社会的障害物(200)を、強要すべきである。「譲渡できない人権」のはでな目録の代わりに、法的に制限された労働日という地味な大憲章が登場し、この大憲章は、「労働者が売り渡す時間がいつ終わるか、また、労働者自身のものである時間がいつ始まるか、をとうとう明らかにしている(201)。」なんと変わり果てたことだろう!〉(江夏訳340-341頁)

《フランス語版》  フランス語版版では最後の部分は別のパラグラフにされ、二つのパラグラフに分けられている。ここでは一緒に掲載。

 〈われわれの労働者は生産の暑い室(ムロ)に入ったときとはちがった様子でそこから出てくる、ということを認めないわけにはいかない。彼は市場では、別の商品の所有者に対する「労働力」商品の所有者として、商人にたいする商人として、現われた。彼が自分の労働力を売ったさいの契約は、売り手と買い手双方の自由意志のあいだの合意から生じているように思われた。取引がいったん完了すると、彼がけっして「自由な当事者」でなかったということ、彼が自分の労働力を売ることを許されている時間は、彼がそれを売ることを強制されている時間であるということ(166)、実際には、彼を吸う吸血鬼は、「搾取すべぎ一片の肉、一筋の腱、一滴の血が彼に残っているかぎり(167)」、けっして彼を手放さないということ、が発見される。労働者たちは、「自分たちの責苦の蛇(168)」にたいして身を守るためには、結集しなければならず、また、彼らやその子孫が「自由契約」によって奴隷状態や死にいたるまで資本に売り渡されることを阻止するような乗り越せない柵、すなわち社会的障害物を、強力な集団的努力によって、階級の圧力によって、うち建てなければならない(169)。
  こうして、「人権」の華麗な目録が一つの慎み深い「大憲章」にとってかわられるが、この「大憲章」は、労働日を法定し、「労働者の売る時間がいつ終わって労働者に属する時間がいつ始まるかを、ついに明瞭に示す(170)」のである。なんと変わりはてたことだろう!〉(江夏・上杉訳311頁)

《イギリス語版》

  〈(10) 我が労働者達が、生産過程に入った時とは違った者としてそこから出て来た と云うことを、ここで、認識せねばならない。市場では、「労働力」商品の持ち主として、他の商品の持ち主達と互いに対面して立っていた。売買する者 対 売買する者として。契約によって、彼の労働力をその資本家に売るということが、言うなれば、白黒明解、彼自身を自由に処分することであると、明らかになった。取引が完結してみれば、彼はなんら「自由な取引業者」ではないことを見出す。彼が自由に彼の労働力を売る時は、なんと彼がそれを売らねばならないと、強要されていた時なのである。*」
  「事実、その時、搾取の余地が、その筋肉、神経、一滴の血に至るも、そこにある限り、吸血鬼は、彼をして離しはしないであろう。」*(本文注164: *フリードリッヒ エンゲルス の著書 「イギリスの10時間法案」)
  労働者達に「激しい苦痛をもたらす悪魔のごとき蛇」に対抗する 「保護」のために、労働者達は、彼等の頭を一つにせねばならない。そして、階級としても。法の議会通過を推進するためにも。我が労働者の売り処分を防ぐであろう社会的な固い防塁が法なのだから。各自が個々に資本と交渉することでは、自分達も自分達の家族も奴隷制度とその死に至らしめる売り処分で終わる。*
  大げさな「手離すことができない人間の権利」の大きな目録に代わって、飾りも何にもない労働日の法的制限というマグナカルタがそこにやって来た。実に、それが、いつ労働者の売りが終了するかを明確にし、いつ彼の時間が始まるかを明確にする。」なんと偉大なる変化がここに始まったことか ! * ( ラテン語 ローマの詩人 ウェルギリウス )〉(インターネットから)


●原注198

《初版》

 〈(198) 「その上、これらのやり方(たとえば1848-50年の資本の術策)は、あれほどしばしば提示された主張が誤りであることの争う余地のない証拠を、提供してくれた。その主張というのは、労働者たちはなんらの保護も必要でなく、彼らは、自分たちが所有する唯一の財産、すなわち自分たちの手の労働と自分たちの額の汗とを、処分する点で自由な当事者であると見なされてかまわない、という主張である。」(『1850年4月30日の工場監督官報告書』、45ページ)。「そう呼ぶことが許される自由な労働とは、自由な国においてさえ、こういった労働を保護すべき法律という力強い腕を必要とするものである。」(『1864年10月31日の工場監督官報告書』、34ページ。)「……食事つきまたは食事ぬきで1日に14時間、労働するのを許すことこのことは強制するのと同じことである、云々。」(『1863年4月30日の工場監督官報告書』、40ページ。)〉(江夏訳341頁)

《フランス語版》

 〈(166) 「これらのやり方(たとえば、1848年から1850年までの資本の術策)は、労働者たちは保護を必要とせず、自分たちがもっている唯一の財産、すなわち自分たちの手の労働と自分たちの額の汗とを自由に処分する点では自由な当事者と見なされてよい、という非常にしばしば行なわれた主張が、虚偽であることを、争う余地なく証拠だてた」(『1850年4月30日の工場監督官報告書』、45ページ)。「そう呼んでもよいなら自由な労働は、自由な国でさえ、これを保護するための法律の強力な腕を必要とする」(『1864年10月31日の工場監督官報告善』、34ぺージ)。「食事つきまたは食事ぬきで1日に14時間労働するのを許すことは、それを強制するのと同じことである……」(『1863年4月30日の工場監督官報告書』、40ページ)。〉(江夏・上杉訳312頁)

《イギリス語版》

  〈本文注163: *「そもそもの、その取引の数々 (1848年から1850年にかけての、資本の策動というべきもの) が、労働者達は保護を必要とはしていない、それどころか彼等が所有する彼等自身の唯一の財産- 彼等の手の労働そして彼等の額の汗 の処分については、自由な商売人と考えるべきと、何回となく繰り返し前提として叫ばれてきた主張の欺瞞性に、論争の余地がない証拠を、なによりもはっきりと提供したのである。」( 工場査察官報告書 1850年4月30日) 「自由な労働 ( もしその通りなら、そうも云えるかもしれないが) は、自由な国においてすら、それを保護するための法の強い腕を要求する。」( 工場査察官報告書 1864年10月31日) 「食事時間があろうとなかろうと、日14時間働かせることは、…. それを許容することは、強制労働となんら変わらない。等々」( 工場査察官報告書 1863年4月30日)〉(インターネットから)


●原注199

《イギリスの10時間労働法》 (エンゲルス)

 〈人々は、大工業の出現にともなって、工場主による、まったく新しい、限りなく破廉恥な労働者階級の搾取が生じたことを知っている。新しい機械は、成年男子の労働を過剰なものとした。そして、その監視のため、成年男子よりも、はるかにこの仕事に適し、しかも、いっそう安価に雇いうる婦人と児童を必要とした。工業における搾取は、したがって、ただちに労働者家族全体をとらえ、これを工場にとじこめた。婦人や児童は、極度に疲労しきって倒れるまで、日夜を分かたず働かねばならなかった。貧民労役所に収容された貧児たちは、児童にたいする需要の増大にともなって、完全な商品となった。4歳、いな3歳から、これらの児童は、ひとまとめにして、徒弟契約という形式で、いちばん高い値をつける工場主にせりおとされていった。当時の児童や婦人にたいする恥知らずの残忍な搾取、筋肉や腱の一片まで、血の最後の一滴まで、しぼりあげずにはやまない搾取にたいする思い出は、現在なおイギリスの旧世代の労働者たちのあいだにまざまざと生きている。背骨が曲がったり、手足を切断して片輪になったりして、この思い出を身にとどめているものも少なくない。しかし、そのような搾取のなごりとして、だれもかれもが、完全に身体をこわしている。アメリカのいちばんみじめな栽植農場の奴隷の運命でも、当時のイギリスの労働者のそれとくらべれば、なおすぼらしい。〉(全集第7巻239頁)

《初版》

 〈(199) フリードリッヒ・エンゲルス、前掲書〔『イギリスの10時間労働法案』〕、5ページ。〉(江夏訳341頁)

《フランス語版》 フランス語版には初版や全集版にはない原注168があるので一緒に紹介しておく。

 〈(167) フリードリヒ・エンゲルス『イギリスの10時間法案』(『新ライン新聞』、1850年4月号に所収、5ページ)。
      (168) ハインリヒ・ハイネの言葉。〉(江夏・上杉訳312頁)

《イギリス語版》  本文に挿入。


●原注200

《61-63草稿》

  〈労働時間の自然的限界を狂暴に踏み越えるのは、ただ資本の恥知らずで傍若無人な無節制であり、--そのさい、労働は、生産諸力の発展とともに、内密のうちに濃度を高め緊張を強めるのであるが、これが、資本主義的生産にもとづく社会にさえ、標準労働日を確固とした限界に強力によって制限することを余儀なくさせた(もちろんそのさいの主動力は、労働者階級自身の反杭である)ものなのである。この制限が最初に現われたのは、資本主義的生産がその組野な時代、根棒の時代をぬけて、みずからに固有の物質的土台をつくったすぐあとのことであった。労働時間のこの強制的制限にたいして、資本は労働をより強く濃縮することをもって応じたが、それはそれでまた、一定点までくると、ふたたび絶対的な労働時間の短縮をまねいた。延長に強度でとって替わるこの傾向は、生産の比較的高い発展段側階ではじめて現われる。この代替は、社会的進歩の一定の条件である。そうして、労働者にも自由な時間が生み出される。だから、ある一定の労働における強度は他の方向での活動、すなわち労働にたいして反対に休息として現われうる、休息の機能をはたしうる活動の可能性を廃棄するのではない。〔労働日の短縮の〕⑤この過程が、イギリスの労働者階級の肉体的、道徳的、知的な改善に及ぼした非常な好影響--〔これについては〕統計が立証している--は、ここから生まれるのである。
  ⑤〔注解〕 マルクスがこうした評価に到達したのは、イギリスの工場監督官の半年ごとの報告〔の研究〕によってである。とくに、『工場監督官報告書……1859年10月31日にいたる半年間」、ロンドン、1860年、47-48および52ページを見よ。--[カール・マルクス]「国際労働者協会創立宣言および暫定規約』(1864年9月28日、セント・マーティンズ・ホール、ロンドン、ロ/ング・エイカーで開催された公開集会で創立)ロンドン、1864年(『創立宣言--』、『マルクス・エンゲルス全集』、第16巻、所収)をも見よ。〉(草稿集⑨32-33頁)

《初版》

 〈(200) 10時間法案は、それが適用されている産業諸部門では、「労働者を全面的な衰退から救い、彼らの肉体状態を保護してきた。」(『1859年10月31日の工場監督官報告書』、47-52ページ。)「資本(工場における)は、就業労働者たちの健康や道徳をそこなわずには、あるかぎられた時限を越えて機械の運転を続けることができない。しかも労働者たちは自分たち自身を保護する状態におかれていない。」(同上、8ページ。)〉(江夏訳341頁)

《フランス語版》

 〈(169) 10時間法案は、それが適用される産業部門では、「労働者たちを全面的な退化から救い、彼らの肉体状態にかんするあらゆるものを保護した」(『1859年10月31日の工場監督官報告書』、47ページ)。「資本(工場における) は、労働者の健康と徳性を侵すことなしにはけっしてきまった時間以上に機械の運転を続けることができず、しかも労働者はけっして自分自身を保護することができない」(同上、8ページ)。〉(江夏・上杉訳312頁)

《イギリス語版》

  〈本文注165: *10時間法は、その法律の適用下に入った製造業の各部門において、「過去の長時間労働をする労働者達の早すぎる老衰を終結した。」( 工場査察官報告書 1859年10月31日) 資本は、(工場においては) 雇用者の健康やモラルに障害を与えることが無い様にするため、また彼等を、彼等自身を保護できない状態に置くことが無いようにするため、制限時間を超えて、機械類を運転し続けることが金輪際出来ない。」( 同上)〉(インターネットから)


●原注201

《61-63草稿》

 〈工場諸法は、「かつての長時間労働者たちの早老を終わらせた。それらは、労働者たちを彼ら自身の時間の主人とすることによって彼らにある精神的エネルギーを与えたのであって、このエネルギーは彼らを、最終的には政治権力を握ることに向けつつある」(『工場監督官報告書。185/9年1O月31にいたる半年間』、ロンドン、1860年、47ページ)。〉(草稿集④355-356頁)
 〈「もっと大きい利益は、労働者自身の時間と彼の雇主の時間とが、ついにはっきりと区別されたことである。労働者はいまでは彼の売る時間聞はいつ終わっているのか、また彼自身の時間はいつ始まるのかということを知っている。そしてこのことをまえもって確実に知ることによって、彼自身の時間を彼自身の諸目的のためにまえもって予定しておくことができるようになる!」(『工場監督官報告書。1859年1O月31にいたる半年間』、ロンドン、1860年、52ページ。)このことは、標準日の制定に関連してきわめて重要である。〉(草稿集④356頁)

《初版》

 〈(201) 「もっと大きな利益は、労働者自身の時間と彼の雇主の時間との区別がとうとう明らかにされたということである。労働者は、いまでは、自分の売った時間がいつ終わるかまた自分自身の時間がいつ始まるか、を知っており、そして、このことについての確実な予備知識をもっているので、自分自身の目的のための自分自身の時間を、あらかじめきめておくことができる。」(同前、52ページ。)「それら(工場法)は、労働者たちを彼ら自身の時間の主人公とすることによって、彼らに精神的なエネルギーを与え、このエネルギーが彼らを導いて政治権力を握らせるようになることもある。」(同上、47ページ。)工場監督官たちは、皮肉を抑え、非常に用心深い表現を用いて、現在の10時間法が、資本家をも、資本の単なる化身としての彼の本性的な野蛮性からある程度解放して、彼にある程度の「教養」のための時間を与えてくれた、とほのめかしている。以前は、「雇主は、金銭のため以外にはまるっきり時間をもっていなかったし、雇われ者は、労働のため以外にはまるっきり時/間をもっていなかった。」(同上、48ページ。)〉(江夏訳341-342頁)

《フランス語版》 フランス語版ではこの注は全集版のパラグラフが分割された第8パラグラフに付けられている。

 〈(170) 「さらにいっそう大きな恩恵は、労働者自身の時間と彼の雇主の時間とのあいだの区別が、ついに明瞭にきめられたことである。いまでは労働者は、自分の売った時間がいつ終わり自分に属する時間がいつ始まるかを知っている。そして、これを知ることによって自分自身の時間を自分の意図と計画にしたがって、あらかじめ手配することができるようになる」(同前、52ページ)。「労働者たちを彼ら自身の時間の主人公に仕立てることによって、工場立法は彼らに精神的なエネルギーを与えたが、このエネルギーは彼らをいつかは政治権力の掌握に導くであろう」(同前、47ページ)。工場監督官は、控え目な皮肉と非常に慎重な用語を用いて、現行の10時間法は資本家にとって利点がないわけではなかった、と仄(ホノ)めかしている。それは、資本家が単なる資本の擬人化にほかならなかったことから生じた、かの生来の残忍性から、資本家をある程度解放し、彼自身の教養のための幾らかの余暇を彼に与えた。以前には、「雇主は金銭のためにしか時間をもたず、奉公人は労働のためにしか時間をもっていなかった」(同前、48ページ)。〉(江夏・上杉訳頁)

《イギリス語版》 イギリス語版には訳者の長い余談があるが省略する。

  〈本文注166: *「さらなる特典の一つは、労働者自身の時間と、彼の雇用主の時間とを、明瞭に区別したことである。労働者は、今では、彼の売り時間がいつ終わったか、そして彼自身の時間がいつ始まるかを知っている。このことの確かな予知を有することで、彼自身の目的のために彼自身の時間を予め準備することができる。」(フリードリッヒ エンゲルス の著書 p52)「このことをして、彼等自身の時間の主人とすることで、( 諸工場法は) 彼等に意欲のエネルギーを与え、その意欲こそが、彼等を結果として、政治的な力を持つ事へと導いたのである。(同上 p47) 強烈なる皮肉と際立つ適切なる言葉で、工場査察官達は、こう云う。現実の法が、また、資本家からある種の野獣性を取り除き、単なる資本家への道に向かわせたと。そして、彼に少しばかり「文化」のための時間を与えたと。「以前は、工場主は金の事以外の時間を持たず、その使用人は労働以外の時間を持たなかった。」(同上 p48)〉(インターネットから)


  (第7節終わり)

 

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『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(1)

2024-01-19 02:34:04 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(1)


◎序章B『資本論』の著述プランと利子・信用論(4)(大谷禎之介著『マルクスの利子生み資本論』全4巻の紹介 №8)

  第1巻の〈序章B 『資本論』の著述プランと利子・信用論〉の第4回目です。〈A 「経済学批判」体系プランにおける利子と信用〉の〈(3)「経済学批判」体系プランにおける信用〉という小項目のなかで、大谷氏は〈「批判」体系プランでの「競争」から「信用」への移行も,まさに,「資本が自己を一般的資本として措定しようと努める」必然性によって行なわれる〉(91頁)と述べ、『1861-1863年草稿』『要綱』から抜粋して紹介しています。そのうちの『要綱』の一文を章末注〔19〕として掲げていますが、それを今回は検討しておきます。

  〈競争には,価値と剰余価値とについて立てられた基本法則とは区別して展開される基本法則がある。それは,価値が,それに含まれている労働またはそれが生産されている労働時間によってではなく,それが生産されうる労働時間,すなわち再生産に必要な労働時間によって規定されている,という法則である。最初の法則が覆されたかのようにみえるにもかかわらず,実はこのことによってはじめて,個々の資本が資本一般〔Capital überhaupt〕の諸条件のなかに置かれる。だが,資本それ自体の運動によって規定されたものとしての必要労働時間は,こうしてはじめて措定されているのである。これが競争の基本法則である。需要,供給,価格(生産費用)が,それに続く形態規定である。市場価格としての価格,または一般的価格。それから,一つの一般的利潤率の措定。そのさい,市場価格によって諸資本はさまざまの部門に配分される。生産費用の引き下げ,等々。要するに,ここではいっさいの規定が,資本一般〔CapitahmAllgemeinen〕におけるのとは逆となって現われる。さきには価格が労働によって規定されたが,ここでは労働が価格によって規定される,等々,等々。まさに個別諸資本の相互間の作用こそ,それらが資本として振る舞わなければならないようにさせるのであり,個別的諸資本の外見的には独立した作用と個別的諸資本の無秩序な衝突こそが,それらの一般的法則の措定なのである。市場は,ここで,さらに別の意義をうけとる。諸資本の個別的資本としての相互間の作用は,こうしてまさに,諸資本の一般的資本としての措定となり,また個別諸資本の外見的独立性と自立的存続との止揚となる。この止揚がさらに著しく生じるのは,信用においてである。そしてこの止揚の行き着く,だが同時に,資本にふさわしい形態にある資本の終局的措定でもある窮極の形態は,株式資本である。」(『経済学批判要綱』。MEGAII/1.2,S.541.)〉(117頁)

  なかなか難しく一筋縄では行きませんが、分かる限りで解読してみましょう。例によって細かく分けて見ていくことにします。
  (1)〈競争には,価値と剰余価値とについて立てられた基本法則とは区別して展開される基本法則がある。それは,価値が,それに含まれている労働またはそれが生産されている労働時間によってではなく,それが生産されうる労働時間,すなわち再生産に必要な労働時間によって規定されている,という法則である。
  ここで〈競争には〉とありますが、要するに『資本論』で言えば第1部、第2部では〈価値と剰余価値とについて立てられた基本法則〉にもとづいてその全体が論じられています。それに対して第3部ではそれとは〈区別して展開される基本法則がある〉というのです。
  〈価値が,それに含まれている労働またはそれが生産されている労働時間によって〉規定されるというのは第1部、第2部での話です。しかし第3部では〈それが生産されうる労働時間,すなわち再生産に必要な労働時間によって規定されている〉というのです。
  これは一体どういうことでしょうか。これは社会全体の総需要にもとづいて社会的な総労働がそれぞれの生産力に応じて配分され、そうして初めて社会的な必要労働時間が決まってくるということです。私たちが第1部で知った、ある特定の個別の商品の生産に必要な社会的な労働時間というものではなくて、第3部では、ある特定の商品種類の生産に必要な社会的な労働時間によって規定されて商品の価値が決まってくるのです。それがその商品の市場価値なのです。市場価値は、単に個別商品の価値の平均からなるだけではなくて、その商品種類が社会的な需要を満たすに必要な社会的労働時間の配分も加味されたものになるのです。だからある特定の商品が社会の需要よりも多く生産されてしまった場合、その市場価値はその商品生産部門の平均的な価値ではなくて、平均よりも少ない労働時間で生産された価値が市場価値として規制することになり、それ以上の労働時間が支出された個別的商品は価値以下の評価しか受けず売れないことになります。こうして需要と供給との一致が計られるのです。つまり社会的必要労働時間と言ってもその特定の商品の生産に社会が許す労働時間が規制的な要素として入ってきたものを意味するということです。
  (2)〈最初の法則が覆されたかのようにみえるにもかかわらず,実はこのことによってはじめて,個々の資本が資本一般〔Capital überhaupt〕の諸条件のなかに置かれる。
  このように第3部では第1部・第2部で展開された資本主義的生産の内在的な諸法則が諸資本の競争によって逆転して現れてきます。しかしそれによってこそ個別の諸資本が資本一般の諸条件のなかに置かれるのだと述べています。これはどういうことかいうと、第1部・第2部の内在的諸法則もそれが貫徹するのは現実には諸資本の競争によって生じる偶然的諸現象のなかにおいてであって、つまり第3部での逆転した諸形象化された現象的諸運動を通して、その中に均衡的に貫いていくものとしてそれらの諸法則はあるのだということです。
  (3)〈だが,資本それ自体の運動によって規定されたものとしての必要労働時間は,こうしてはじめて措定されているのである。これが競争の基本法則である。
  私たちが第1部で知った価値の大きさを規定する社会的必要労働時間は、ある特定の商品の生産に社会的に平均的に必要な労働時間というものでした。しかし第3部では規定される社会的必要労働時間というのは、ある特定の商品の生産に社会全体の総労働のなかで、その商品種類に配分される労働時間ということでもあるわけです。こうしたことは実は市場にある商品の価値の大きさについて、すでに第1部第3章のなかでも次のように述べられていました。

  〈最後に、市場にあるリレネルは、どの一片もただ社会的に必要な労働時間だけを含んでいるものとしよう。それにもかかわらず、これらのリンネル片の総計は、余分に支出された労働時間を含んでいることがありうる。もし市場の胃袋がリンネルの総量を1エレ当たり2シリングという正常な価格で吸収できないならば、それは、社会の総労働時間の大きすぎる一部分がリンネル織物業の形で支出されたということを証明している。結果は、それぞれのリンネル織職が自分の個人的生産物に社会的必要労働時間よりも多くの時間を支出したのと同じことである。ここでは、死なばもろとも、というわけである。市場にあるすべてのリンネルが一つの取引品目としかみなされず、どの一片もその可除部分としかみなされない。そして、実際にどの1エレの価値も、ただ、同種の人間労働の社会的に規定された同じ量が物質化されたものでしかないのである。〉(全集第23a巻142頁) 

  ここではマルクスは第3部で出てくる市場価値について実際には語っているのです。そして以上が〈競争の基本法則〉だと述べています。
  (4)〈需要,供給,価格(生産費用)が,それに続く形態規定である。市場価格としての価格,または一般的価格。それから,一つの一般的利潤率の措定。そのさい,市場価格によって諸資本はさまざまの部門に配分される。生産費用の引き下げ,等々。要するに,ここではいっさいの規定が,資本一般〔CapitahmAllgemeinen〕におけるのとは逆となって現われる。
   第3部においては、諸資本が利潤を唯一の規定的目的とも動機ともして互いに競争するなかで一般的利潤率が形成されます。その一般的利潤率によって措定されるのが、生産価格なのです。生産価格は価値(市場価値)から乖離したものとして現れます。生産価格を中心に変動する市場価格にもとづいて、諸資本は社会的に配分されるのです。だからここでは価値法則は転倒して現れてきます。需要・供給もその限りでは使用価値が問題になりますが、しかしそれは生産価格を一つの均衡条件として変動するわけですから、それは価値法則からの偏倚を生じざるをえないのです。それが〈要するに,ここではいっさいの規定が,資本一般〔CapitahmAllgemeinen〕におけるのとは逆となって現われる〉ということの意味です。〈資本一般〔CapitahmAllgemeinen〕〉というのはここでは第1部・第2部と考えて良いでしょう。それが第3部では〈逆となって現われる〉のです。
  (5)〈さきには価格が労働によって規定されたが,ここでは労働が価格によって規定される,等々,等々。
  これは商品の価値(価格)は第1部・第2部では、労働によって規定されるものとして現れますが、第3部では商品の価値は労働(賃金)や利潤や利子・地代によって構成されるものとして現れるということをいわんとしていると思います。以前にも紹介したことがありますが、草稿集⑥の一節を紹介しておきましょう。

  〈A・スミスは、はじめに価値を、またこの価値の諸成分としての利潤や賃金などの関係を、正しく把握しながら、次に逆の方向に進んで、賃金と利潤と地代との価格を前提し、それらを独立に規定して、それらのものから商品の価格を構成しようとしている。こうして、この逆転の意味するところは、はじめに彼は事柄をその内的関連に従って把握し、次に、それが競争のなかで現われるとおりの転倒した形態で把握している、ということである。〉(草稿集⑥145頁)

  (6)〈まさに個別諸資本の相互間の作用こそ,それらが資本として振る舞わなければならないようにさせるのであり,個別的諸資本の外見的には独立した作用と個別的諸資本の無秩序な衝突こそが,それらの一般的法則の措定なのである。市場は,ここで,さらに別の意義をうけとる。
  例えば、さまざまな個別資本がその費用価格(資本が利潤の獲得を目的に支出した貨幣額)の大きさに応じて同じだけの利潤を得るというのは資本主義的生産の絶対的現実なのだということです。〈本質的でない偶然的な相殺される相違を別とすれば、産業部門の相違による平均利潤率の相違は現実には存在しないということ、そしてそれは資本主義的生産の全体制を廃止することなしには存在できないであろうということは、少しも疑う余地のないことである〉(全集第25巻195頁)とマルクス述べています。それは諸資本の相互作用のなかで、それらが資本として振る舞わなければならない条件なのです。個別資本の無秩序な衝突のなかに、それらの資本主義的生産の一般的な法則が自己を貫くわけです。
  (7)〈諸資本の個別的資本としての相互間の作用は,こうしてまさに,諸資本の一般的資本としての措定となり,また個別諸資本の外見的独立性と自立的存続との止揚となる。この止揚がさらに著しく生じるのは,信用においてである。そしてこの止揚の行き着く,だが同時に,資本にふさわしい形態にある資本の終局的措定でもある窮極の形態は,株式資本である。
  諸資本の相互間の作用は、諸資本の一般的資本としての措定になる、というのは資本の一般的な法則に諸資本は従わねばならないということでしょう。そしてそれは個別諸資本が外見的にはそれぞれ独立しているかに見えますが、それは資本一般の共同体のなかにあるとういことでもあります。そしてこうした資本の共同資本としての存在が信用でであり、利子生み資本はまさにそうした諸資本の共同資本として存在しているわけです。そうした資本にふさわしい形態がすなわち株式資本だとも述べています。株式資本において、資本の終極の形態を得るのであって、それは次の新しい生産様式への過渡形態でもあるわけです。
  今回は難しい『要綱』一文を拙いながら解読してみましたが、しかし驚くべきことは、この『要綱』の段階で、すでにマルクスは『資本論』第3部の位置づけをハッキリと持っていたということです。

  それでは本題に入ります。今回は前回の続き、「第8章 労働日」「第6節 標準労働日のための闘争 法律による労働時間の強制的制限 1833-1864年のイギリスの工場立法」の後半部分(第19-37パラグラフ)です。


第6節 標準労働日のための闘争  法律による労働時間の強制的制限  1833-1864年のイギリスの工場立法



◎第19パラグラフ(その後に起きたことを理解するためには、次のことをおぼえておかなければならない。)

【19】〈(イ)その後に起きたことを理解するためには、次のことをおぼえておかなければならない。(ロ)すなわち、1833年、1844年、1847年の工場法は、そのうちの一つが他のものを修正しないかぎり、三つとも効力をもっているということ、これらの法律のどの一つも18歳以上の男子労働者の労働日を制限していないということ、また、1833年以来、朝の5時半から晩の8時半までの15時間が法定の「日」であるということはずっと変わらず、この範囲内で少年と婦人との最初は12時間の労働、のちには10時間の労働が、定められた諸条件のもとで行なわれることになっていたということ、これである。〉(全集第23a巻375頁)

  (イ)(ロ) その後に起きたことを理解するためには、次のことをおぼえておかなければなりません。すなわち、1833年、1844年、1847年の工場法は、そのうちの一つが他のものを修正しないかぎり、三つとも効力をもっているということです。これらの法律のどの一つも18歳以上の男子労働者の労働日を制限していません。また、1833年以来、朝の5時半から晩の8時半までの15時間が法定の「日」であるということもずっと変わらずです。つまり、この範囲内で少年と婦人との労働時間は、最初は12時間の労働、のちには10時間の労働に定められたということです。これらのことが分かっていければならないのです。

  より分かりやすい、イギリス語版をまず紹介しておきましょう。

  〈(30) 以下のことを理解するためには、1833年、1844年、1847年の各工場法を想起する必要がある。後者が前者を改正していない点がある限りは、いずれの法も、有効であり、18歳以上の男子の労働日の制限もその一つで改正されていない。 1833年以来 朝5時半から夕方8時半の15時間が、法的な「労働日」として残存している。そして、この制限内で、当初は12時間の、そして最終的には10時間となる年少者と女性の労働時間制限が所定の条件によって実行されるべきものとなったのだが、以下のことを把握するには、このことを改めて想起しておく必要がある。〉(インターネットから)

  先のパラグラフでは〈工場主諸氏は遠慮する必要はなかった。彼らは、単に10時間法にたいしてだけではなく、1833年以来労働力の「自由な」搾取をいくらかでも制限しようとした立法の全体にたいして、公然の反逆を起こした〉と述べましたが、その資本家たちの反逆を具体的に見ていくためには、以下のことが頭に入っていなければなりません。
  (1)1833年、1844年、1847年のそれぞれの工場法は、そのうちの一つが他のものを修正しない限り、三つとも効力を持っていたということ。すなわち1844年法は1833年法を部分的に追加・修正したものであり、1847年法も同じような性格を持っています。だから追加・修正されていない部分については1833年法や1844年法がそのまま効力を持っていたということです。
  (2)これらの法律のどれも18歳以上の成人の男子労働者の労働日を制限していないということ。
  (3)1833年法で定められた、労働日、すなわち朝5時半から晩の8時半までの15時間が法定の「労働日」であるということ。
  (4)この法定の「労働日」の範囲内で、これまでの工場法は少年と婦人の労働日の限度を、最初は12時間、のちには10時間に定めたということです。
  以上のことをまず頭に入れておきましょう。

  〈また、1833年以来、朝の5時半から晩の8時半までの15時間が法定の「日」であるということ〉という部分は初版では〈また、1833年以来、朝の6時半から晩の9時半までの15時間が、相変わらず、法定の「昼間」である〉となっています。フランス語版は現行版と同じです。

  同じような問題点を指摘している『歴史』から引用しておきましょう。

 〈だが、わたくしたちの知るところによれば、はやくも1847年に、いく人かの製造業主のあいだで、法律の網をくぐる計画を企て、1日10時間以上機械を操業しつづける気配がみられたことについて、監督官は非難をこめて指摘している。この脱法行為は、つぎの三つの理由によって、比較的たやすいことであった。第一に、1833年、1844年、1847年の工場法は、どれも他の法律を修正しないかぎり、そのいずれも実効性をもっていたこと、第二に、これら三つの法律のどれも、18歳以上の大人の男子労働者の労働時間を制限しなかったこと、そうして、第三に、1833年以降、年少者と婦人の法定労働時間は12時間から10時間に短縮されたけれども、それに対応して、法定労働日の長さは短縮されず、依然として午前5時30分から午後8時30分までのままであった、という事実があったからである。〉(101頁)


◎第20パラグラフ(工場主たちの反逆はまず一部の少年と婦人労働者を解雇し、代わりに成年男子労働者に夜間労働を復活させることから始まった)

【20】〈(イ)工場主たちは、あちこちで、自分たちの使用する少年と婦人労働者との一部分を、ときには半数を、解雇しはじめ、その代わりに、ほとんどなくなっていた夜間労働を成年男子労働者のあいだに復活させた。(ロ)彼らは叫んだ、10時間法はこれ以外に選ぶべき道を残さないのだ! と(147)。〉(全集第23a巻375頁)

  (イ)(ロ) 工場主たちは、あちこちで、自分たちの使用する少年と婦人労働者との一部分を、ときには半数を、解雇しはじめ、その代わりに、ほとんどなくなっていた夜間労働を成年男子労働者のあいだに復活させました。彼らは叫びました。10時間法の下ではこれ以外に選ぶべき道がないのだ! と。

  工場主たちの反逆は、まず少年と婦人労働者の一部を、あるいは半数にも及ぶ人員を解雇し、その代わりに、成年男子労働者のあいだに、それまではほとんどなくなっていた夜間労働を復活させたことでした。彼らは10時間労働法のもとではこれ以外の代対策を残していないのだと言いました。


◎原注147

【原注147】〈147 『工場監督官報告書。1848年10月31日』、132、134ページ。〉(全集第23a巻375頁)

  これは〈彼らは叫んだ、10時間法はこれ以外に選ぶべき道を残さないのだ! と(147)。〉という本文に付けられた原注です。ただ参照頁数が二つのページになっていますので、この原注は第20パラグラフ全体に対するものと考えた方がよいかもしれません。すなわち少年と婦人労働者を解雇し、それに代わって成年男子労働者に夜間労働を復活させたという部分も『監督官報告書』(132ページ)にもとづいたものなのかも知れません。これは実際に報告書を見なければ分からないでしょう。


◎第21パラグラフ(次の工場主たちの反逆は、食事のための法定の休み時間に向けられた)

【21】〈(イ)第二の一歩は、食事のための法定の休み時間に関連していた。(ロ)工場監督官たちの言うところを聞いてみよう。/
(ハ)「労働時間が10時間に制限されてからは、工場主たちは、まだ実際には彼らの意見を徹底的に実行してはいないとはいえ、次のように主張している。たとえば朝9時から晩7時まで作業する場合、彼らは、朝の9時以前に食事のために1時間、また晩の7時以後に半時間、つまり1時間半を食事のために与えることによって、法律の規定は十分守れるのだ、と。彼らがいま昼食のために半時間かまる1時間を許している場合もいくつかあるが、しかし同時に彼らは、10時間労働日の経過中には1時間半のどんな部分もあけてやる義務はまったくない、と頑強に主張している(148)。」
  (ニ)つまり工場主諸氏の主張したところでは、1844年の法律の食事時間に関する精密をきわめた諸規定が労働者たちに与えたものは、ただ、工場にはいる前と工場から出たあとで、つまり自宅で飲食することの許可だけなのだ! (ホ)そして、労働者たちが朝の9時前に昼食をとるのが、なぜいけないのか? (ヘ)ところが、刑事裁判所は次のように判決した。(ト)すなわち、定められた食事時間は
  「実際の労働日のうち休み時間に与えられなければならず、また、朝の9時から晩の7時までつづけて10時間、中断なしに労働させることは違法である(149)」と。〉(全集第23a巻375-376頁)

  (イ)(ロ)(ハ) 彼らの第二の攻撃は、食事のための法定の休み時間に向けられました。工場監督官たちの言うところを聞いてみましょう。
  「労働時間が10時間に制限されてからは、工場主たちは、まだ実際には彼らの意見を徹底的に実行してはいないとはいえ、次のように主張している。たとえば朝9時から晩7時まで作業する場合、彼らは、朝の9時以前に食事のために1時間、また晩の7時以後に半時間、つまり1時間半を食事のために与えることによって、法律の規定は十分守れるのだ、と。彼らがいま昼食のために半時間かまる1時間を許している場合もいくつかあるが、しかし同時に彼らは、10時間労働日の経過中には1時間半のどんな部分もあけてやる義務はまったくない、と頑強に主張している。」

  1844年の工場法における食事のための休憩時間の規定は〈食事のための1時間半は、すべての被保護労働者に1日のうちの同じ時に与えられ、少なくとも1時間は午後3時以前に与えられなければならない。児童または少年は、食事のための少なくとも半時間の中休みなしには、午後1時以前に5時間より長く働かされてはならない。児童、少年、または婦人は、食事時間中は、なんらかの労働過程の行なわれている作業室内にとどまっていてはならない、等々。〉(第11パラグラフ)というものでした。
  ところが工場監督官たちの報告によれば、工場主たちは朝9時から晩7時までの10時間労働をする労働者に対して、食事時間は仕事が始まる9時前に1時間、晩の7時以後に半時間、
合計1時間半を与えればよいのだというのです。ということは労働者は朝9時前に食べた後は夜の7時以降までまったく食事も休憩もなしにまるまる10時間ぶっとおしで働かなければならないことになります。しかしそれでも十分に工場法の規定に違反していないし、十分に法律を守っているのだと彼らはいうのです。

  (ニ)(ホ) つまり工場主諸氏の主張したところでは、1844年の法律の食事時間に関する精密をきわめた諸規定が労働者たちに与えたものは、ただ、工場にはいる前と工場から出たあとで、つまり自宅で飲食することの許可だけなのだ! というのです。そして、労働者たちが朝の9時前に昼食をとるのが、なぜいけないのか? と言います。

  だから工場主たちの主張では、1844年の法律が与えている食事時間の規定というのは、工場に入る前にと工場を出たあとで、自宅で飲食する許可を与えたものだというのです。つまり朝の9時前に昼食を摂るのがどうしていけないのか、というわけです。しかしこれでは昼食とはいえないでしょう。

  (ヘ)(ト) しかし、こうした工場主たちの主張に対して、刑事裁判所は次のように判決しました。すなわち、定められた食事時間というのは
  「実際の労働日のうち休み時間に与えられなければならず、また、朝の9時から晩の7時までつづけて10時間、中断なしに労働させることは違法である」と。

  しかしこうした工場主たちのむちゃくちゃな主張に対しては、刑事裁判所(イギリス語版は〈王室法律顧問〉、新日本新書版は〈勅撰弁護士たち〉は、法律で定められた食事時間というのは、実際の労働日のうち休み時間に与えられるべきであり、朝の9時から晩の7時まで休み無しに働かせるのは違法であると判定しました。この限りでは工場主たちの反逆も一歩後退です。


◎原注148

【原注148】〈148 『工場監督官報告書。1848年4月30日』、47ページ.。〉(全集第23a巻376頁)

  これは最初に引用されている〈工場監督官たちの言うところ〉の典拠を示すものです。


◎原注149

【原注149】〈149 『工場監督官報告書。1848年10月31日』、130ページ。〉(全集第23a巻376頁)

  これは最後に〈刑事裁判所は次のように判決した〉として引用されているものの典拠を示すものです。


◎第22パラグラフ(次に資本は1844年法の文面に合致した形での反撃を開始した)

【22】〈(イ)これらの愉快な示威運動ののちに、資本は、1844年の法律の文面に合致するような、つまり合法的な手段によって、その反逆を開始した。〉(全集第23a巻376頁)

  (イ) これらの愉快な示威運動ののちに、資本は、1844年の法律の文面に合致するような、つまり合法的な手段によって、その反逆を開始しました。

  まあ、これらはご愛嬌というもので、愉快な示威運動ですが、次に資本は、1844年法の法文に合致した形で、その限りでは合法的な手段によって、反逆を開始したのでした。


◎第23パラグラフ(工場主たちは1844年法には12時以降の児童の労働については何も規定がないことを逆手にとって反逆を開始した)

【23】〈(イ)たしかに、1844年の法律は、昼の12時以前に働かされた8歳から13歳までの児童を再び午後1時以後に働かせることを禁止した。(ロ)しかし、それは、労働時間が昼の12時かまたはそれ以後に始まる児童の6時間半の労働をまったく規制しなかった! (ハ)それゆえ、8歳の児童は、昼の12時に労働を始めれば、12時から1時まで1/時間、午後2時から4時まで2時間、そして5時から晩の8時半まで3時間半、合計して法定の6時間半働かせることができた! (ニ)あるいはまた、もっとうまくやることもできた。(ホ)児童の使用を晩の8時半までの成年男子労働者の労働に合わせるためには、工場主は午後2時までは彼らになにも仕事を与えなければよいのであって、そうすれば晩の8時半まで中断なしに彼らを工場にとどめておくことができた!
(ヘ)「そして、今では明瞭に認められることであるが、近ごろは、自分たちの機械を10時間よりも長く動かしておきたいという工場主たちの熱望の結果、8歳から13歳までの男女の児童を、少年や婦人がみな工場から出てしまったあとで、ただ成年男子だけといっしょに晩の8時半まで働かせるという慣習がイングランドに忍び込んだのである(150)。」
(ト)労働者と工場監督官は、衛生上と道徳上との二つの理由から抗議した。(チ)だが、資本は答えた。
(リ)「自分の罰は自分で引き受けらあね。手前はお裁判(サバキ)を、
  いやさ、証文どおりの違背金をお願いしているんでございます〔90〕。」〉(全集第23a巻376-377頁)

  (イ)(ロ)(ハ) たしかに、1844年の法律は、昼の12時以前に働かされた8歳から13歳までの児童を再び午後1時以後に働かせることを禁止しています。しかし、それは、労働時間が昼の12時かまたはそれ以後に始まる児童の6時間半の労働をまったく規制していません。 だから、8歳の児童は、昼の12時に労働を始めれば、12時から1時まで1時間、午後2時から4時まで2時間、そして5時から晩の8時半までの3時間半、合計すれば法定の6時間半働かせることができるというのです。

  最初にフランス語版を見てみることします。

  〈1844年の法律は、正午以前に就業した8歳ないし13歳の児童を午後1時以後に再び使うことを、確かに禁止した。だが、それは、正午またはそれ以後に就業した児童の6時間半の労働を少しも規制しなかった。したがって、8歳の児童は正午以後1時まで、次いで2時から4時まで、最後に5時から8時半まで、合計して6時間半適法に使うことができた! 〉(江夏・上杉訳294頁)

  1844年法の児童の労働については第11パラグラフで次のように説明されていました。

  〈不正な「リレー制度」の乱用を除くために、この法律はなかでも次のような重要な細則を設けた。
  「児童および少年の労働日は、だれか或る1人の児童または少年が朝工場で労働を始める時刻を起点として、計算されなければならない。」
したがって、たとえばAは朝8時に、Bは10時に労働を始める場合にも、やはりBの労働日もAのそれと同じ時刻に終わらなければならない。……午前の労働を12時以前に始める児童は、午後1時以後再び使用されてはならない。つまり、午後の組は午前の組とは別な児童から成っていなければならない。〉

  つまり昼の12時以前に働かされた児童は、午後1時以降再び使用されてはならないとされています。しかし12時かまたはそれ以後にはじまる児童の労働についてはまったく何の規定もしていません。
  だから昼の12時に労働をはじめた児童を、1時まで使い、そのあと午後2時から4時まで2時間使い、さらに午後5時から晩の8時半まで3時間半働かせても、合計すれば法定の6時間半働かせただけだから違法ではないことになるというわけです。

   (ニ)(ホ) あるいはまた、もっとうまくやることもできました。児童の使用を晩の8時半までの成年男子労働者の労働に合わせるためには、工場主は午後2時までは彼らになにも仕事を与えなければよいのであって、そうすれば晩の8時半まで中断なしに彼らを工場にとどめておくことができたのです。

  フランス語版です。

  〈なおいっそううまいことがある。児童の労働を晩の8時半までの成年男子労働者の労働に一致させるためには、工場主が午後2時以前には児童に仕事をなにも与えないで午後2時以降8時半まで中断なく工場内に留めて置けば充分であった。〉(同)

  さらにもっとうまくやることもできました。成年男子労働者の労働に合わせるために(児童や少年の労働は成年男子労働者の労働を補佐するものが多いですから)、工場主たちは児童の使用を午後2時までは何もさせず、2時から8時半までの6時間半を働かせば、法律に違反することなく、使えるというわけです。

   (ヘ) 「そして、今では明瞭に認められることであるが、近ごろは、自分たちの機械を10時間よりも長く動かしておきたいという工場主たちの熱望の結果、8歳から13歳までの男女の児童を、少年や婦人がみな工場から出てしまったあとで、ただ成年男子だけといっしょに晩の8時半まで働かせるという慣習がイングランドに忍び込んだのである。」

  これは引用だけですが、フランス語版はちょっと違うところがあるので紹介しておきましょう。

  〈「今日はっきりと認められていることだが、工場主たちの貧欲と、10時間以上機械を運転させようとする彼らの切望との結果、8歳ないし13歳の男女の児童を、青少年や婦人の退出後に成年男子だけと一緒に晩の8時半まで労働させる慣習が、イングランドに忍びこんだのである(117)」。〉(同)

  これは工場監督官報告書からの引用ですが、工場主たちは、機械を10時間以上動かしておきたいために、成年男子労働者を午前5時半から晩の8時半まで15時間の範囲内で働かせ、その補助として少年や婦人労働者を午前5時半から午後2時以降まで10時間使った後、今度はそれに代わって児童を2時から晩の8時半まで6時間半使うというやり方をやりだしたというのです。

   (ト)(チ)(リ) これに対しては、労働者と工場監督官は、衛生上と道徳上との二つの理由から抗議しました。しかし、資本は次のように答えました。
  「自分の罰は自分で引き受けらあね。手前はお裁判(サバキ)を、
  いやさ、証文どおりの違背金をお願いしているんでございます。」

  フランス語版です。

  〈労働者と工場監督官は、道徳と衛生の名において抗議した。だが、資本はシャイロックのようにこう考える。「罪はこの身で引き受けるまで! 手前の望みはお裁判(サバキ)、証文通りの違背金をお願い申しておるんでございます」〔シェイクスピア『ヴェニスの商人』、中野好夫訳、岩波文庫版、137-138ページ、より引用〕。〉(同)

  こうした工場主たちのやり方に対して、労働者と工場監督官は、衛生上と道徳上という二つの理由で抗議しましたが、工場主たちは、自分は正当なやり方をやっているのだ、それでも違反だというなら、出るところに出てもよいと開き直ったのです。

  最後の引用文には全集版には注解90が付いていますが、それは次のようなものです。

  〈(90) シェークスピア『ヴェニスの商人』、第4幕、第1場。〔岩波丈庫版、中野訳、189ページ。〕〉(17頁)

  初版とは同じものを訳者注として引用文のあとに紹介しています。新日本新書版には次のような訳者注が付いています。

  〈シェイクスピア『ヴェニスの商人』、第4幕、第1場でのシャイロックのせりふ。小田島訳、『シェイクスピア全集』Ⅳ、白水社、240ページ。中野訳、岩波文庫、137-138ページ。〉(497頁)

  イギリス語版にはかなり長い訳者注が次のように付いています。

  (38) 労働者達と、工場査察官達は、衛生上及び道徳上の理由から抗議したが、資本はこう答えた。
 (39) 「私の判断でやったこと!法が正しく行われますように。私の判断のようにご判断を。」(訳者注: このセリフは、シェークスピアのベニスの商人から。ユダヤ商人シャイロックが、裁判官ポーシャに、アントーニオへの慈悲を拒否して彼の胸の肉一ポンドを求めて云うセリフ。「慈悲とか正義とかのご高説はいい加減にしてもらいたい。私は法を要求しているんだ。私の債務証券に記された彼への罰則とその決済を要求しているんだ。」この後のセリフも次の文節で登場するが、その後ポーシャの「きっかり」肉一ポンドでなければならない、「血を一滴たりとも」流してはならない、キリスト教徒の血を一滴でも流したら、法によりあなたの土地と財産は、ベニスの国庫のものとなるぞ、と、どんでん返しの場面へと続く。)〉(インターネットから)


◎原注150

【原注150】〈150 『工場監督官報告書。1848年10月31日』、142ページ。〉(全集第23a巻377頁)

  これは本文で引用されている引用文の典拠を示すものです。


  ((2)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(2)

2024-01-19 02:00:54 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(2)


◎第24パラグラフ(次に資本は1844年法が児童の午後の労働については何の規定もしていないことに目をつけた)

【24】〈(イ)じっさい、1850年7月26日の下院に提出された統計によれば、あらゆる抗議にもかかわらず、1850年7月15日には275の工場で3742人の児童がこの「慣習」に従わされていた(151)。(ロ)それでもまだ足りなかった! (ハ)資本の山猫のような目が発見したのは、1844年の法律は午前の5時間労働は少なくとも30分の元気回復のための中休みなしには許さないが、午後の労働についてはその種のことはなにも規定していないということだった。(ニ)そこで、資本は、8歳の労働児童を2時から晩の8時半まで絶えまなくこき使うだけでばなく腹までへらさせるという楽しみを要求し、その要求を押し通したのである!
(ホ)「そうそう、その胸でございますよ、/
  ちゃんと証文に書いてある。(152)〔90〕〉(全集第23a巻頁)

  (イ) じっさい、1850年7月26日の下院に提出された統計によりますと、あらゆる抗議にもかかわらず、1850年7月15日には275の工場で3742人の児童がこの「慣習」に従わされていたのです。

  実際、労働者や監督官の抗議にもかかわらず、少年や婦人労働者と児童の労働とを組み合わせて利用するやり方は、1850年7月26日に下院に提出された統計によりますと、同年7月15日には275の工場で3742人の児童がこうした「慣習」に従わされていたというのです。

  (ロ)(ハ)(ニ) それでもまだ足りなかったのです! 資本の山猫のような目が発見したのは、1844年の法律は午前の5時間労働は少なくとも30分の元気回復のための中休みなしには許さないが、午後の労働についてはその種のことはなにも規定していないということでした。そこで、資本は、8歳の労働児童を2時から晩の8時半まで絶えまなくこき使うだけではなく腹までへらさせるという楽しみを要求し、その要求を押し通したのです!

  さらに工場主たちの鋭い目は1844年法の次のような欠陥を見つけました。すなわち同法では〈児童または少年は、食事のための少なくとも半時間の中休みなしには、午後1時以前に5時間より長く働かされてはならない〉(第11パラグラフ)という規定がありましたが、しかし午後1時以後の労働については何の規定もないことに彼らは目をつけたのです。だから資本家たちは8歳の児童を午後2時から晩の8時半まで、食事のための半時間の休憩もまったく与えることなくこき使ったのです。

  (ホ) 「そうそう、その胸でございますよ、/
  ちゃんと証文に書いてある。(152)〔90〕

  つまりこれも法律にもとづいてそのとおりにやっているのだ、というのが彼らの主張なのです。

  注解90は次のようなものです。

  〈(90) シェークスピア『ヴェニスの商人』、第4幕、第1場。〔岩波丈庫版、中野訳、189ページ。〕〉(17頁)

  ここでもイギリス語版のその部分を紹介しておきましょう。

  (41) 「はい、彼の心臓。債務証券にそう記されております。」(訳者注: シェークスピアのベニスの商人。裁判官ポーシャが、アントーニオへ胸をはだけよ、と命じたのに応じて、シャイロックが、文字通り、心臓直近の、と書いてあります、と続けるところ。「秤はあるか?」「用意しております。」)〉(インターネットから)


◎原注151

【原注151】〈151 『工場監督官報告書。1850年10月31日』、5、6ぺージ。〉(全集第23a巻378頁)

  これは〈じっさい、1850年7月26日の下院に提出された統計によれば、あらゆる抗議にもかかわらず、1850年7月15日には275の工場で3742人の児童がこの「慣習」に従わされていた(151)。〉という本文に付けられた原注です。これらの紹介されている統計数値の典拠を示すものです。


◎原注152

【原注152】〈152 (イ)資本の天性は、資本が未発展な諸形態にあっても、発展した諸形態にあっても、変わりはない。(ロ)アメリカの南北戦争が起きる少し前に奴隷所者の勢力がニュー・メキシコ准州に押しつけた法律書のなかでは、労働者は、資本家が彼の労働力を買った以上は、「彼の(資本家の)貨幣である」と言っている。(“The labourer is his(the scapitalist's)money")(ハ)同じ見解はローマの貴族のあいだでも行われた。(ニ)彼らが平民債務者に前貸しした貨幣は、債務者の生活手段をとおして、債務者の血と肉とに化した。(ホ)だから、この「肉と血」は「彼らの貨幣」でった。(ヘ)それだからこそ、シャイロック的な十銅表の法律! (ト)貴族である債権者たちがときおりティベル河の対岸で債務者の肉を煮て祝宴を張ったというランゲの仮説〔92〕は、キリストの聖晩餐についてのダウマーの仮説〔93〕といっしょに、そのままにしておこう。〉(全集第23a巻378頁)

   (イ)(ロ) 資本の天性は、資本が未発展な諸形態にあっても、発展した諸形態にあっても、変わりません。アメリカの南北戦争が起きる少し前に奴隷所者の勢力がニュー・メキシコ准州に押しつけた法律書のなかでは、労働者は、資本家が彼の労働力を買った以上は、「彼の(資本家の)貨幣である」と言っています。(“The labourer is his(the scapitalist's)money")

  これはパラグラフの最後に引用されているシェイクスピアの引用文につけられた原注です。

  シャイロックは、債務は債務者がもし弁済できないなら、自分の身体で弁済せよと弁済額に応じた身体の肉を要求したのですが、このあたりは『経済学批判』の貨幣の支払手段としての機能を説明しているところでも、マルクスは論じています。

  〈買い手の側では、貨幣は交換価値としては実際に譲渡されないのに、商品の使用価値で実際に実現される。まえには価値章標が貨幣を象徴的に代理したのに、ここでは買い手自身が貨幣を象徴的に代理する。だがまえには、価値章標の一般的象徴性が国家の保証と強制通用力とをよびおこしたように、いまは買い手の人格的象徴性が商品所有者間の法律的強制力ある私的契約をよびおこすのである。〉(全集第13巻118頁)

  つまり買い手は自分自身が貨幣を代理するわけですから、もし彼が貨幣の支払ができないなら、自身の身体で払うことになるわけです。だから次のようにも言われています。

  〈売り手と買い手は、債権者と債務者になる。商品所有者は、まえに蓄蔵貨幣の保管者として三枚目の役を演じたのに、こんどは彼は、自分ではなくその隣人を一定の貨幣額の定在と考え、自分ではなくこの隣人を交換価値の殉教者にするので、恐ろしいものとなる。彼は信心家(グロイビゲ)から債権者(グロイビガー)となり、宗教から法学に転落する。
  「証文どおりに願います!」〔23〕
 〔"I stay here on my bond!"〕〉(同119頁)
 〈注解(23) 「証文どおりにねがいましょう!」(I stay here on my bond!) --シェークスピアの喜劇『ヴェニスの商人』、第四幕第一場、シャイロックのことば。〉(同660頁)

  ここでは〈資本の天性は、資本が未発展な諸形態にあっても、発展した諸形態にあっても、変わりはない〉と述べています。高利資本も現代の銀行資本も破産した債務者に対しては、その身体で支払うことを要求するわけです。
  南北戦争がおきる少し前に奴隷所有者たちが押しつけたニューメキシコ准州の法律書では、労働者は、資本家が労働力を買った限りは、それは「彼の(資本家の)貨幣である」と書いているということです。つまり資本家が買った労働者は資本家の貨幣だということは、資本家はそこに自己増殖する価値額しか見ていないということでしょう。それが資本の本性だということです。

  新日本新書版には、〈労働者は、資本家がその労働力を買った以上は、「その人の(資本家の)貨幣である」〉という部分には次のような訳者注が付いています。

  〈この奴隷所有者たちの観念は、旧約聖書、出エジプト記、21・20-21(人が杖で男女の奴隷を打ってそれが死ぬなら罰せられるが、「しかし、彼がもし1日か、ふつか生き延びるならば、その人は罰せられない。奴隷は彼の金子だからである」)を手本にした〉(498頁)

  (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト) 同じ見解はローマの貴族のあいだでも行われていました。彼らが平民債務者に前貸しした貨幣は、債務者の生活手段をとおして、債務者の血と肉とに化したのだから、この「肉と血」は「彼らの貨幣」でした。だからこそ、シャイロック的な十銅表の法律になるのです! 貴族である債権者たちがときおりティベル河の対岸で債務者の肉を煮て祝宴を張ったというランゲの仮説〔92〕は、キリストの聖晩餐についてのダウマーの仮説〔93〕といっしょに、そのままにしておきましょう。

  同じような見解は古代ローマにおいても見られたということです。貴族が平民に貸した貨幣は、平民がそれで生活手段を買ったのだから、それは彼らの血と肉になったのだから、もし平民が債務を返済しないなら、彼らの身体で返すべきということで、平民の「血と肉」は「彼ら(貴族)の貨幣」だと述べたということです。そこからシャイロック的な十銅貨表の法律が生まれたのだというのです。〈シャイロック的な十銅表の法律〉には全集版には次のような注釈91が付いています。

  〈(91) 十銅表の法律--ローマ奴隷制国家の立法的記念物である「十二表」の法律の元の異本。この法律は私有財産を保護し、支払不能の債務者にたいする自由剥奪や奴隷化や五体切断を規定した。それはローマ私法の出発点となった。〉(全集第23a巻17頁)

  初版とフランス語版には〈日常生活上最も重要な条文を銅板に刻んだ最古のローマ法〉という訳者注が挿入されています。新日本新書版では次のような訳者注が付いています。

  〈紀元前451-450年に作成された銅板に記されたローマの法典のもとでの異文で、訴訟手続きを定めた第三表の文言は、債務不履行の場合には債務者の身体の切断の罰とすると解釈されている〉(498頁)

  ランゲの仮説とダウマーの仮説も同じようなものを描いているようには思えますが、しかしそれらの真偽を問うことはここではやめておきましょう。

  〈貴族である債権者たちがときおりティベル河の対岸で債務者の肉を煮て祝宴を張ったというランゲの仮説〔92〕〉についていいる注釈92というのは次のようなものです。

  〈(92) フランスの歴史家ランゲは、その著『民法理論。または社会の基本原理』、ロンドン、1767年、第2巻、第5篇、第20章のなかで、この仮説を述べている。〉(全集第23a巻17頁)

  初版には何の訳者注もありませんがフランス語版にはランゲのあとに〈フランスの歴史家〉とだけ訳者注が挿入されています。 新日本新書版には次のような訳者注が付いています。

  〈フランスの歴史家ランゲは、『民法の理論、または社会の基本原理』、ロンドン、1767年、第2巻、第5篇、第20章でこの仮説を述べている。マルクスは、すでに1845年にフランスのフリエ主義者の著書によってランゲの本書の抜粋を行っている〉(498頁)

  マルクスは『剰余価値に関する緒学説』なかでランゲについて論じています(草稿集⑤528-537頁)が、今回の仮説に言及してているところはありませんでした。

  また〈キリストの聖晩餐についてのダウマーの仮説〔93〕〉の注解93は次のようなものです。

  〈(93) ダウマーは、その著『キリスト教古代の秘密』のなかで、初期のキリスト信者は聖餐に人肉を使ったという仮説を主張した。〉(全集第23a巻17頁)

  初版とフランス語版には〈キリスト教古代の信者は聖餐に人肉を使うという、ダウマーの仮説〉という訳者注が挿入されています。新日本新書版には次のような訳者注が付いています。

  〈ダウマーはその著『キリスト教の秘密』、全2巻、ハンブルク、1847年で、初期キリスト教徒は、主の最後の晩餐を祝うとき人肉を用いたとした。マルクスとエンゲルスは、すでに1850年に反動的なダウマーの立場をきびしく批判している(『新ライン新聞……』の書評」。邦訳『全集』、第7巻、204-209ページ参照〉(499頁)

  この最後に参照を指示している第7巻の『新ライン新聞、政治経済評論』1850年2月、第2号の書評(マルクス=エンゲルス)の「1、G・Fr・ダウマー『新世紀の宗教。箴言の組み合わせによる基礎づけの試み』全2巻、ハンブルク、1850年」という論文を一通り読みましたが、今回の原注に関連したものはありませんでした。ただ〈ダウマー氏は、ニュルンベルク式の「文化段階」をもたらし、ダウマー流のモロク神捕獲者(131)の出現を可能にするためだけにすら、「上流階級にたいする下層階級の」闘争が必要であったということさえ知らないのである。〉(全集第7巻200頁)という一文に付けられた注解131には、次のようなことが書かれています。

  〈注解(131)これは、ダウマーの著書『……古代ヘブライ人の拝火教およびモロク崇拝』と『キリスト教的古代の秘密』二巻とをあてこすったものである。これらの著書でダウマーは、古代のユダヤ人や、初期のキリスト教徒が人間の犠牲祭をおこなっていたということを、証明しようとしていた。〉(第7巻603頁)


◎第25パラグラフ(少年と婦人労働者に関する1844年法の規制には資本は文面に拘らず公然と反逆した)

【25】〈(イ)とはいえ、このように、1844年の法律が児童労働を規制するかぎりではその文面にシャイロック的にしがみつくということは、ただ、同じ法律が「少年と婦人」の労働を規制するかぎりではこれにたいして公然と反逆することを媒介するだけのものだった。(ロ)ここで思い出されるのは、「不正なリレー制度」の廃止があの法律の主要な目的と主要な内容とをなしているということである。(ハ)工場主たちは次のような簡単な宣言で彼らの反逆を開始した。(ニ)1844年の法律のなかの、15時間工場日を任意に短くくぎって少年や婦人を任意に使用することを禁止している条項は、
  「労働時間が12時間に制限されていたあいだはまだ比較的無害(comparatively harmless)だった。10時間法のもとではそれらは堪えられない圧制(hardship) である(153)」と。
(ホ)こういうわけで、彼らは、法律の文面にはこだわらないで元の制度を自力で復活させたいという旨を、きわめて冷静に監督官に通知した(154)。(ヘ)それは、悪い助言に惑わされている労働者たち自身の利益のために、
  「彼らにもっと高い賃金を支払えるようにするために」行なわれるのだ。(ト)「それは、10時間法のもとで大ブリテン/の産業覇権を維持するための唯一の可能な案である(155)。」(チ)「リレー制度のもとで反則を発見することは多少は困難かもしれない。だが、それがどうしたと言うのか? (what of that?)工場監督官や副監督官のほんのわずかなめんどう(some little trouble) を省くために、この国の大きな工場利益が二の次のものとして扱われてよいのだろうか?(156)」〉(全集第23a巻378-379頁)

  (イ) とはいえ、このように、1844年の法律が児童労働を規制するかぎりではその文面にシャイロック的にしがみつくということは、ただ、同じ法律が「少年と婦人」の労働を規制するかぎりではこれにたいして公然と反逆することを媒介するだけのものでした。

  1844年法が児童労働を規制するかぎりでは、その文面にシャイロック的にしがみついて、その欠陥を突く形で攻撃したのですが、しかしそれは一つの踏み台みたいなもので、彼らは同じ法律が少年と婦人労働者を規制する限りでは、もはや文面どおりにとはいかず、文面に公然と反逆する形での攻撃を行ったのです。

  (ロ) ここで思い出されるのは、「不正なリレー制度」の廃止があの法律の主要な目的と主要な内容とをなしているということです。

  1844年法の細々とした規制の主な目的は、偽リレー制度を廃止するためでした。第11パラグラフを振り返ってみましょう。

  〈不正な「リレー制度」の乱用を除くために、この法律はなかでも次のような重要な細則を設けた。「児童および少年の労働日は、だれか或る1人の児童または少年が朝工場で労働を始める時刻を起点として、計算されなければならない。」したがって、たとえばAは朝8時に、Bは10時に労働を始める場合にも、やはりBの労働日もAのそれと同じ時刻に終わらなければならない。労働日の開始は公設の時計、たとえばもよりの鉄道時計で示されなければならず、工場の鐘はこれに合わされなければならない。工場主は、労働日の開始と終了と中休みとを示す大きく印刷した告示を工場内に掲げておかなければならない。午前の労働を12時以前に始める児童は、午後1時以後再び使用されてはならない。つまり、午後の組は午前の組とは別な児童から成っていなければならない。食事のための1時間半は、すべての被保護労働者に1日のうちの同じ時に与えられ、少なくとも1時間は午後3時以前に与えられなければならない。児童または少年は、食事のための少なくとも半時間の中休みなしには、午後1時以前に5時間より長く働かされてはならない。児童、少年、または婦人は、食事時間中は、なんらかの労働過程の行なわれている作業室内にとどまっていてはならない、等々。〉

  (ハ)(ニ) しかし工場主たちは次のような簡単な宣言で彼らの反逆を開始しました。1844年の法律のなかの、15時間工場日を任意に短くくぎって少年や婦人を任意に使用することを禁止している条項は、「労働時間が12時間に制限されていたあいだはまだ比較的無害(comparatively harmless)だった。10時間法のもとではそれらは堪えられない圧制(hardship) である(153)」と。

  こうした1844年法の細則に対して、工場主たちは労働時間が12時間に制限されているあいだはまだ比較的無害だったが、10時間法が導入されてからは耐えられないものになったのだというのです。

  これは第9章に出てくるのですが、次のような工場主たちの意見が紹介されています。

  〈「そこで、労働時間を12時間から10時間に短縮することから生ずる害悪を見てみよう。……それは、工場主の期待と財産とにたいするきわめて重大な損傷と『なる』。もし彼」(すなわち彼の「使用人」)「が、これまで12時間労働していてそれが10時間に制限されるならば、彼の工場にある機械や紡錘の12個ずつがそれぞれ10個ずつに縮まるのであって、もし彼がその工場を売ろうとすればそれらは10個にしか評価されないわけで、こうして、国じゅうのどの工場の価値も6分の1ずつ減らされることになるであろう。」〉(全集第23a巻409頁)

  (ホ)(ヘ)(ト)(チ) そういうことから、彼らは、法律の文面にはこだわらないで元の制度を自力で復活させたいという旨を、きわめて冷静に監督官に通知したのでした。それは、悪い助言(資本にとってだが)に惑わされている労働者たち自身の利益のためにであるとか、「彼らにもっと高い賃金を支払えるようにするために」行なわれるのだとかという理由を挙げて。「それは、10時間法のもとで大ブリテンの産業覇権を維持するための唯一の可能な案である。」「リレー制度のもとで反則を発見することは多少は困難かもしれない。だが、それがどうしたと言うのか? (what of that?)工場監督官や副監督官のほんのわずかなめんどう(some little trouble) を省くために、この国の大きな工場利益が二の次のものとして扱われてよいのだろうか?」というわけです。

  そういうことから資本家たちは、1844年法の法律の文面にはこだわらないで、元のリレー制度を復活するということを、公然と宣言し、監督官に通知したのでした。それは監督官などの悪い知恵で惑わされている労働者のためでもあり彼らの利益のためだとか、労働者にもっと高い賃金が支払えるようにするためだとか、10時間法が導入された今日、大ブリテンの産業覇権を維持するための唯一可能な手段だとかと主張し、リレー制度のもとでは監督官が違反を発見することは多少は困難かも知れないが、それがどうしたというのだ、監督官の多少の不便と、この国の大きな工場の利益とどっちが大事かを考え見れば自ずから分かるだろうというのです。

  偽リレー制度の復活の動きについて『歴史』から紹介しておきましょう。

  〈このようにして、その当時、10時間以上操業したいと考えた雇主は、婦人と年少者の交替作業とリレー制度を利用して、かれらを助手として大人の男子労働者のもとに配置することによって、そうすることが可能であった。このようなやり方は決して新しいものではなかった。そのやり方は1833年法のもとで広範囲に行なわれていた。なぜならば、同法は児童の労働時間を1日9時間、年少者の労働時間を1日12時間に制限していたが、その就業時間を15時間の制限内であれぽどの時間にあててもよいと認めていたからである。監督官は、そのような制度のもとでは残業を摘発することが不可能である、と陳述した。そうして、1844年に、1833年法の多くの欠陥を修正するための一法案が議会に提出されたとき、残業を防止するために一層広範囲にわたる保護を講じなければならないということを、これほど政府に強く印象づけた法案はなかった。その目的は第二六項によって達成されるであろうと考えられた。すなわち、同項は、すべての保護該当者の労働時間を、「児童または年少者の1人がそのような工場において午前中最初に作業を開始したときから、計算しなければならない」と規定していた。同項は1847年までその目的を果たしていたが、「10時間労働日法」が実施されたとき、雇主たちは、1844年法が「リレー制度による作業を完全に禁止するだけの厳格な規定をもっていない」ことを知った。そうして、はやくも1847年には、不況はどん底であったけれども、若干の工場においてリレー制度がふたたび実施されたのである。〉(102頁)


◎原注153

【原注153】〈153 『工場監督官報告書。1848年10月31日』、133ページ。〉(全集第23a巻379頁)

  これは〈 「労働時間が12時間に制限されていたあいだはまだ比較的無害(comparatively harmless)だった。10時間法のもとではそれらは堪えられない圧制(hardship) である(153)」〉という引用文に付けた原注です。典拠を示すものです。


◎原注154

【原注154】〈154 なかんずく慈善家アッシュワースが、レナード・ホーナーにあてたクエーカー臭いいやらしい手紙のなかでそれをやっている。(『工場監督官報告書。1849年4月30日』、4ページ。〉(全集第23a巻379頁)

  これは〈こういうわけで、彼らは、法律の文面にはこだわらないで元の制度を自力で復活させたいという旨を、きわめて冷静に監督官に通知した(154)。〉という本文に付けられた原注です。
  アッシュワースというのはイギリスの巨大綿業者の1人のようですが、シーニアに工場の現状を教え長時間労働の必要を認識させた1人でもあるようです。『61-63草稿』には次のようなものがありました。

  〈労働時間の強力的延長の結果生じる、労働能力の早期消耗、換言すれば早老〔について〕--1833年に私は、ランカシャーの非常に有力な工場主であるアシュワース氏から一通の手紙を受け取ったが、この手紙には次のような風変わりな一節が含まれている、--『次にはもちろん、4O歳に達すると、あるいはその後まもなく、死亡するとか労働に適さなくなるとか言われている老人たちについて、お尋ねになるでしょう』。4O歳の『老人たち』という表現に注目されたい!」(『工場監督官報告書』、1843年、12ページ)〉(草稿集④365頁)


◎原注155

【原注155】〈155 『工場監督官報告書。1848年10月31日』、138ページ。〉(全集第23a巻379頁)

  これは公然とリレー制度を復活させることを公言した資本家たちの理屈として〈「彼らにもっと高い賃金を支払えるようにするために」行なわれるのだ。「それは、10時間法のもとで大ブリテンの産業覇権を維持するための唯一の可能な案である(155)。」〉という引用文に付けられた原注です。典拠を示すものです。


◎原注156

【原注156】〈156 同前、140ページ。〉(全集第23a巻379頁)

  これは〈「リレー制度のもとで反則を発見することは多少は困難かもしれない。だが、それがどうしたと言うのか? (what of that?)工場監督官や副監督官のほんのわずかなめんどう(some little trouble) を省くために、この国の大きな工場利益が二の次のものとして扱われてよいのだろうか?(156)」〉という引用文に付けられた原注でやはり典拠を示すだけのものです。


◎第26パラグラフ(工場監督官たちは告発を続けたが、内務大臣は工場主たちの圧力に負け、告発抑制を指示する回状を出す)

【26】〈(イ)もちろん、こんなごまかしはすべてなんの役にもたたなかった。(ロ)工場監督官たちは告発の手続をとった。(ハ)しかし、まもなく工場主たちの陳情の砂塵が内務大臣サー・ジョージ・グレーの頭上に降りそそぎ、その結果、彼は1848年8月5日の回状訓令のなかで、監督官たちに次のように指示した。
(ニ)「少年と婦人を10時間以上労働させるために明白にリレー制度が乱用されているのでないかぎり、一般に、この法律の文面に違反するという理由では告発しないこと。」
(ホ)そこで、工場監督官J・ステユアートは、スコットランド全域で工場日の15時間の範囲内でのいわゆる交替制度を許可し、スコットランドではやがて元どおりに交替制度が盛んになった。(ヘ)これに反して、イングランドの工場監督官たちは、大臣は法律停止の独裁権をもってはいない、と言明して、奴隷制擁護反徒にたいしては引き続き法律上の処置をとることをやめなかった。〉(全集第23a巻379頁)

  (イ)(ロ) もちろん、こんなごまかしはすべてなんの役にもたちませんでした。工場監督官たちは告発の手続をとったのです。

  上記のように1844年法に公然と反逆し、少年と婦人労働者にリレー制度を復活させようとさまざまな屁理屈を並べた資本達に対して、工場監督官たちはまったくひるむことなく告発を行ったのです。

  (ハ)(ニ) しかし、まもなく工場主たちの陳情の嵐が内務大臣サー・ジョージ・グレーの頭上に降りそそいだので、彼はとうとう1848年8月5日の回状訓令のなかで、監督官たちに次のように指示しました。「少年と婦人を10時間以上労働させるために明白にリレー制度が乱用されているのでないかぎり、一般に、この法律の文面に違反するという理由では告発しないこと。」と。

  しかし工場主たちの陳情の嵐が内務大臣に降り注いだので、大臣は1848年8月5日の回状で明白にリレー制度が乱用されているのでない限り、法律の文面に違反するという理由では告発しないように、指示したのです。

   (ホ) そこで、スコットランドの工場監督官であるJ・ステユアートは、スコットランド全域で工場日の15時間の範囲内でのいわゆる交替制度(リレー制度)を許可し、スコットランドではやがて元どおりに交替制度が盛んになったのです。

  そこでスコットランドの監督官ステュアートは内務大臣の指示にしたがって、自分の管轄内では15時間の工場労働日の範囲内であればリレー制度を容認したので、スコットランドでは元通りにリレー制度が復活し、盛んになったのでした。

  『歴史』は次のように書いています。

  〈スコットランド地区担当の監督官であるジェイムズ・スチュアート(James Stuart) は、他の監督官と協力して法律を厳格に実施するように努力をすることを拒否したただ1人の人物であった。かれはリレー制度が違法であることを否定しなかったが、同僚の監督官たちは法律の文言にこだわりすぎており、かれらの活動は「議会が予想も/意図もしなかったほど過酷である」という意見を表明した。〉(104-105頁)

  (ヘ) しかしこれに反して、イングランドの工場監督官たちは、大臣は法律停止の独裁権をもってはいない、と言明して、奴隷制擁護反徒にたいしては引き続き法律上の処置をとることをやめなかったのです。

  しかしそれに対してイングランドの監督官たちは、大臣に法律を停止させる独裁権はないと言明して、1844年法に対する違反を告発し続けたのです。

  ここらあたりの状況について『歴史』は次のように述べています。

  〈雇主から多数の請願書が内務大臣に殺到したので、1848年8月5日付の回状のなかで、内務大臣は、監督官に対し、「実際に年少者が法律によって認められているよりも長時間働かされているという確証がない場合、同法の条項違反を理由として、すなわち、年少者をリレー制度によって働かせていることを理由として、工場主を告発してはならない」と指示した。これに対して、イングランドの監督官は、一方的に法律の実施をやめさせる権限を内務大臣はもっていないと主張し、いままでと同じように、リレー制度を採用している製造業主を告発した。〉(頁104)

  このように同じ工場監督官でも対応が異なったのですが、当時の工場監督官について詳しく論じている論文(「イギリス工場法思想の源流」『三田学会雑誌』73巻4号(1980年5月))から、少し紹介しておきましょう。それによれば4人の工場監督官の管轄区域は以下の図ようだったようです。


◎第27パラグラフ(監督官がいくら告発しても、裁判官の判事を工場主が兼ねていては、当然無罪が宣告されてしまう)

【27】〈(イ)しかし、いくら法廷に呼び出しても、裁判所、すなわち州治安判事〔county magistrates〕(157)が無罪を宣告してし/まえば、なんになろうか?  (ロ)これらの法廷では、工場主諸氏が自分たち自身を裁判したのである。(ハ)一例をあげよう。(ニ)カーショー・リーズ会社の紡績業者でエスクリッジという人が、自分の工場のために定めたリレー制度の方式をその地区の工場監督官に提示した。(ホ)拒絶を回答されて、最初は彼は無抵抗にふるまった。(ヘ)数か月後に、ロビンソンという名の人物、やはり紡績業者で、フライデーではなかったが、とにかくエスクリッジの親類だったこの人物が、エスクリッジが考え出したのと同じリレー案を採用したかどで、ストックポートの市治安判事〔Borough Justices)の前に呼び出された。(ト)4人の判事が列席し、そのうち3人は紡績業者で、首席は例のエスクリッジだった。(チ)エスクリッジはロビンソンの無罪を宣告し、そこで、ロビンソンにとって正しいことはエスクリッジにとっても正しい、と宣言した。(リ)彼自身が下した法律上有効な判決にもとづいて彼はすぐにこの制度を自分の工場で採用した(158)。(ヌ)もちろん、この法廷の構成がすでに一つの公然の法律違反だった(159)。(ル)監督官ハウエルは次のように叫んでいる。
(ヲ)「この種の法廷茶番は切実に矯正手段を求めている。……およそこのような場合には……法律をこれらの判決に適合するものにするか、または、法律にかなった判決を下すようなもっと過誤の少ない裁判所の所管にするか、そのどちらかにするべきである。なんと有給判事が切望されることであろうか?(160)」〉(全集第23a巻379-380頁)

  (イ)(ロ) しかし、いくら法廷に呼び出しましても、裁判所、すなわち州治安判事〔county magistrates〕が無罪を宣告してしまいますと、なんにもなりません。というのは、これらの法廷では、工場主諸氏自身が自分たちを裁判したのですから。

  スコットランド以外の工場監督官たちは告発をし続けたのですが、しかし工場主諸氏自身が往々にして治安判事を兼ねていたので、彼らは自分たちを裁判したのですから、当然、無罪を宣告するわけで、告発はなんにもなりませんでした。

  (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト)(チ)(リ) その一例をあげますと、カーショー・リーズ会社の紡績業者でエスクリッジという人が、自分の工場のために定めたリレー制度の方式をその地区の工場監督官に提示しました。当然、拒絶を回答されて、最初は彼は無抵抗にふるまったのです。しかし数か月後に、ロビンソンという名の人物、やはり紡績業者で、忠実な僕のフライデーではありませんでしたが、とにかくエスクリッジの親類だったこの人物が、エスクリッジが考え出したのと同じリレー案を採用したかどで、ストックポートの市治安判事〔Borough Justices)の前に呼び出されたのです。4人の判事が列席しましたが、そのうち3人は紡績業者で、首席は例のエスクリッジだったのです。当然、エスクリッジはロビンソンの無罪を宣告しました。そこで、ロビンソンにとって正しいことはエスクリッジにとっても正しい、と宣言したのです。そして彼は自身が下した法律上有効な判決にもとづいて彼はすぐにこの制度を自分の工場で採用したという次第です。

  その一例を挙げますと、紡績業者のエスクリッジという人物が、自分の工場でリレー制度を導入する計画を地区の監督官に提示し、当然拒否されたのですが、その時にはそのまま引き下がったのです。しかし、その後、エスクリッジの親類であったロビンソンが同じリレー制度を採用したかどで裁判にかけられたのですが、そのときに裁判官は4人のうち3人が紡績業者で、その首席は例のエスクリッジだったのです。だから当然、彼は無罪判決を出しました。そして彼はロビンソンに取って正しいことはエスクリッジにとっても正しいとして、自分の工場でリレー制度を採用したのです。裁判官を工場主諸氏が兼ねているかぎり監督官たちの告発は無意味になったのです。

  ここで〈フライデーではなかったが〉という一文がチョロと入っていますが、これは工場主の名前が〈ロビンソン〉であったので、それにあてこすってしゃれで述べているわけです。〈フライデー〉の部分に新日本新書版では次のような訳者注が付いています。

  〈ダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』の主人公ロビンソンが孤島生活をともにした彼の従僕で、金曜日(フライデイ)にみつけたのでこう呼ばれ、一般に「忠実な召使い」をフライデイと言う。ここは名前にかけた言葉のしゃれ〉(502頁)

  (ヌ)(ル)(ヲ) もちろん、このような法廷の構成そのものがすでに一つの公然の法律違反だったのです。監督官ハウエルは次のように叫んでいます。「この種の法廷茶番は切実に矯正手段を求めている。……およそこのような場合には……法律をこれらの判決に適合するものにするか、または、法律にかなった判決を下すようなもっと過誤の少ない裁判所の所管にするか、そのどちらかにするべきである。なんと有給判事が切望されることであろうか?」と。

  このように工場主自身が判事を兼ねているために、彼らは自分たち自身を裁判するという茶番を演じているのです。だからこうした裁判官の構成そのものが違法なのです。監督官のハウエル(ウェールズを管轄)は、こうした茶番を無くすためには、法律そのものを変えるか、あるいは裁判所の構成を変えるか、どちらかにすべきだ。有給の判事が求められる! と主張したのです。当時の判事は名誉職で地区の有力者がなり無給だったからです。

  『歴史』から引用しておきます。

  〈イングランドの東部と南部において、一般に、二人の監督官は判事によって支持されていたが、マンチェスターの重点巡回地区において、レナード・ホーナーは法律を厳格に実施しようとしたために、強い反対にあった。ホーナーは困難な立場に立たされた。なぜならば、リレー制度によって作業をした使用者をかれが告訴したため、使用者がかれを激しく非難したからであった。そのうえ、治安判事がホーナーを支持しないという事実から、かれは自分の担当する全地区で法律を実施することが不可能であるということを知った。往々にして雇主自身が治安判事を兼ねていたから、かれらは自分たちの判決が正当かどうかを確める労さえとらず、簡単に監督官の訴えを却下した。ある訴訟のなかで、ホーナーはつぎのように報告している。「告訴したが、三度とも却下された結果……グリーン氏(Greene) が担当する治安判事管轄下にあるすべての工場では、わたくしがそれらを取り締まる権限をもっていないので、雇主は年少者と婦人をリレー制度によって働かせることができるであろう。」他方、ランカシァにリレー制度がひろまったとき、ホーナーは、法定労働時間を守っている使用者から、リレー制度を黙認しているといって非難された。かれらは、リレー制度によって長時間操業している他の雇主とは競争することができないと訴えた。〉(104頁)


  ((3)に続く。)

 

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