きのうはやあるきのじいさんにおいぬかれる

犬と酒依存症のおっさんが、車椅子を漕ぎながら、ネガティブに日々見たり聞いたり感じたりした暗めの話題を綴ります。

改めておはかまいりラン考

2017-10-26 08:00:00 | 近場の異邦人
時々ここにも記しているが、ウチは実家のお墓の傍に犬たちのおはかも作ってもらっている。3号が亡くなったときに作ってもらったから、もう8年ぐらい前か。3号がおはかに入ってから3、4年ぐらいは毎月行ってたように思う。今は基本季節毎でできれば月1回という感じになったが、何処も走る「用事」がないときはとりあえず、峠を越えるようにしている。片道のみで一番近いバス停まで走ると距離は大体23キロ。余計にバス停一つ分走ると29キロ、そして32キロという感じになる。年に一度は往復して約45キロを走っている。往復走らないときは行きに走って帰りがバス。だいたいはこの国道の路肩を走るが、コーナーでは内側に入ってくる車が多くて結構轢かれそうになったこともしばしば。また、大型トラックが横を通るときは、脇のコンクリの壁に手をついてもたれかかり車をやり過ごすこともあるので余り安全ではない。国道とは別のルートは、窓の峠越えと讃岐街道があるが、こちらは数年に一度ぐらいか。道に迷うとか、蛇とか虫とかのことを考える必要が少なくなるので、単調でもやっぱり国道を走ることが多くなる。

2014年の正月。トンネルとトンネルの間。よく雪が残っているのがこの辺り。近くには動物霊園も併設している霊園がある。年に一度ぐらいはトイレを借りている。


3月、桜の前。上段4枚と6、7枚目はすべて桜の木。山間に入ると松山市内より1週間から2週間ぐらい遅く花が咲くので、これはこれで貴重である。満開のときは本当に綺麗。国道から見える渓谷っぽい川の流れは季節を問わず美しい。また、山が終わると高速道路が見える。これでやれやれと思う。

12月。道前平野。良い意味で長閑な田舎である。

年開けて1月。何故か2015年はこれ一枚のみ。これは、トンネル手前から松山方面を見下ろしたところ。この写真があるということは往復したのだろうか、それとも以前あった松山発の特急ではなく普通便のバスに乗り、行きをバスにしていた時期があったのでそれか。行きをバスにしていたのは「環境定期」で100円で乗れたから。今は環境定期もバス便もなくなってしまって、片道分の特急のバス代は1000円近くかかる。

開けて2016年5月。これ多分50キロぐらい走ってよこみねさん行ったときのじゃなかろうか(このラン掲載済)。この時期は、緑が青くて目に刺さる。透明感が半端ではない。1枚目の道をずっと走ると滑川渓谷。以前は休日にバスが走っていたが今は平日のみ。終点のバス停で猿を見たのを覚えている。ただ、猿だけでいえば、そこまで上がらなくても国道沿いで充分なわけで、猿に威嚇されたことは数回。排水溝に猪か鹿かの身体が落ちている傍も走ったことがある。あれは、車か何かにはねられてか多分息はしてなかったと思う。野良くんも時々いる。アシナガ蜂やスズメ蜂系の襲撃はまだない(窓の峠越えや讃岐街道はそれがあるので滅多に走らない)。こうやって記すと結構危ないというか、身近に結構な道を走っていることに気付く。

8月。これは、お休み貰っていたときに走ったときのか。1枚目のたこ焼き屋があったところはもう閉店している。その前は長らくソフトクリーム(看板はソフトクムーリだった)を出しているお店が一軒あって、他の店は潰れるのにそこだけは結構繁盛していた。実家に帰ったときには家族でよく買った。「事故」があってその店が閉店してからは、一帯は自販機のみの休憩所になっている。それでも、一息つくのにいい広さだからか車は割合よく止まってはいる。この手前にこれも儂が小学生のときからやってる果物屋さんがある。こちらはまだまだやっている。さらに手前には西条に本店があるカレー屋と中学卒業時に友達と歩いて行った饂飩屋さんがあったが今はどちらも閉店している。饂飩屋さんの方は、ウチの近所に引っ越して営業しており、結構繁盛している。

12月。まだまだ緑が残っていて、しかもそう寒くはなかった気がする。この道は寒い時期の記憶の方が多いのだが。わずか23キロだが、おはかまいりを終えると、本当にやれやれという気分になり、帰りは無理、ということが多い。まあ、気持ちが落ち着いてほっとするからなのだろう。今は1号、2号、3号と仲良く入っているし。こうして、行きたいときにおはかまいりランができるというのも非常に有り難い話ではある。勿論、寒い時期でも、外で呑むのは変わりなく、呑んでバスにゆられて帰るというそれも楽しみの一つにはなっている。

ここは車椅子で走ると確実に事故に遭うな、どうしたもんかいな、とそういうことを思ったりする。
まあ車で行ってから、お墓の周りを軽く走るんで十分じゃないかとも思うが、そうすると酒が呑めんしなあ。
で、やっぱり難しい問題だったりする。

記録2~救急搬送から集中治療室(HCU)まで

2017-10-25 07:00:00 | 脊髄内血管腫との邂逅
入院期間中は、とりあえず行動記録をメモに取っていた。これは前回の交通事故(3年前)とその手術で入れたプレートを外すために入院した時(2年前)と同じ。因みにこれを打ち込んでいるのはまだ入院中の10月8日(日)。まだ今日の段階では見通しも何も立っていなくて、本当は何もかも終わってからやりたいのだが、終わったら終わったでやることはたくさんある。逆に今は「何かをしないとしんどい」ぐらい、やることはあまりない。ネットサーフィンとか読書とかだけでは限度限界はある(何処にも移動できないこともあり、逆にこの2つぐらいしか娯楽はない)。もちろん、トイレとか移動とか一つ一つのことに時間がかかるのは確かなのだが。
で、前回に引き続き、記録を起こしてみる (一部、前回の記録と重なる)。

1日目:9月21日(木)
0時過ぎ、救急車で搬送。道後の救急病院(O病院)へ。救急隊員の対応に本当に有り難さを感じる。気持ちが楽になる。この時点では左足が微かに動くのみ。右は完全にアウト。
1時過ぎ、病院に到着。CT、MRI撮影、採血。膀胱に直接管を入れて尿を出す。管を入れるときに、前回の事故の時は結構激痛だったが、今回は痛みがない。感覚の麻痺で、これは脊髄の疾患故にということだと後で理解する。1リットルぐらい出たらしい。助かった感がある。検査の結果、脊髄2カ所に影があったが、ここでは対応できないということで、前回事故でお世話になった病院とこの近くの総合病院のどちらかを打診される。前回の病院に決定。ドクターも救急車に乗り搬送。MRIを出てから、左足も完全に動かなくなる。
4時前、病院到着。CT、MRI、レントゲン。インターンと思われる先生方が丁寧に対応してくださる。体の感覚を、先生方が入れ替わり立ち替わり、次から次へと調べられる。受け答えははっきりできる。この時から主治医のO先生がいた(この後いつ休むのかと思うぐらい毎日顔を出していただいていて過労死ラインなんか「何の話?」っていうぐらい24時間働いていて何か凄いというか自分はまだまだ何て思った記憶がある)。再び採血し、造影剤入れてのMRI準備。その前に、血液の炎症を調べるため腰椎穿刺検査。これは正直かなり怖かった(今でも思い出すと怖い)。麻痺で感覚があまりなかったこともあり、痛みは思ったほどではなかったが。
8時ぐらいになり、HCU病室へ移動。ベッドが柔らかくて楽になる。ヨメさんに職場への連絡をお願いして少し寝る。O先生に「朝御飯を食べておきなさい」と言われるも、食べる気にならず、牛乳とリンゴのも頂く。ヨメさん一時帰宅。大きなことになったなと思う。
10時に、ヨメさんが来る。9時半に造影剤でのMRIを予定していたがまだ。
10時50分、MRI開始。1時間ぐらいで終了。寝ていた。病棟に補聴器と眼鏡を置いていったが、検査室では、顔を近くにしてもらい、口を見せて貰って指示を確認した。
11時50分、昼食。野菜の煮物、御飯(半分)、おひたし(?)、野菜の肉巻き(肉を残す)。
13時40分、結果がすぐに出ず、O先生会議になるため、ヨメさん一時帰宅。
13時50分、病棟師長さん来られる。ここ(HCU)はスマホとか携帯とか一切駄目ということもあり、またテレビも許可が出ていないということもあり、お持ちの本を貸してくださる。「ペコロスの母に会いに行く」岡野雄一著。頭痛がする。17時ぐらいまで断続的に続く。造影剤の副作用か。読みながらしばし寝る。10月、11月の仕事やランの予定を考える。全部チャラにせんといかんなと思う。不安とか悔しさとかそういうのはない。なるようにしかならないという気持ちが強い。
15時、理学療法士T先生が来る。若い方。1回目リハビリを20分ほど。頭痛やや治まる。終了後寝る。ペコロスあっという間に終了。
18時、ヨメさんが来る。主治医の説明が始まる。「珍しい」脊髄梗塞の疑い、血流が流れていない部分があるが原因がはっきりしない。細菌感染とかによる炎症でないことは確からしい。一方で脊髄内に出血があるのでこちらの対応を優先し、梗塞をとる薬を少なめにしてステロイドで脊髄の「腫れ」を抑えると言われる。現時点では元通りに回復するかどうかはいえない、とのこと。再度造影剤のMRIをと言われる。
18時20分、夕食。ここからメニューを記録する。御飯200(1/2に)、豆腐酢味噌餡掛け、スペイン風オムレツ(ケチャップ付)、ほうれん草のおひたし、バナナ。以上で630カロリー。
19時40分、脳外科にも意見を貰うためとのことで急遽CTへ。結果明日のMRIは延期に。
20時、ヨメさん帰宅。タブレットは駄目だったが、電子書籍リーダーは許可が出る。また、メモ帳とペンを持ってきて貰う。病棟でA4の紙を貰う。些細なことだが、有り難い。
21時、消灯時間前だが、電気を消して貰う。
21時、左足、膝を中心に左右に回転するような動きが戻る(!)。結局、ほぼ両足が動かなくなって18時間後、処置を始めて12時間後ということになる。

2日目:9月22日(金)
6時、電気が着く。起床。すぐに血圧などのチェック。背中が痛い。声がやや出しにくく、呼吸が弱い感じ。パラマウントベッドのリクライニングを使って体を起こす。ベッドは、クッションが効いていて、体の向きを変えやすい。記録を書き始める。1時間ぐらいして姿勢に慣れる。何故か背中が痛い。基本的に胴体の感覚はない。腹から下については左はびりびりとした感じが残る。右は全く感覚がない。胸(乳頭部辺り)から上はほぼ正常だが、胸と腹の間に少しだけ感覚過敏になっているところか左右共に帯状にある。
7時20分、朝食。御飯200(1/2に)、のり、コンソメスープ、肉団子(3個)プラスブロッコリーとにんじんの付け合わせ、リンゴ、牛乳。以上で598キロカロリー・糖質107グラム。20分で。胃薬と整腸薬が出る。歯磨きとイソジンのうがいをする。
8時、O先生、W先生、K先生回診。左足が動くのを見て貰う。終了後、眠くなり横になって寝る。
9時、清拭をしてもらう。左の感覚が増しているのが分かる。
9時10分、職場へとりあえず来週の仕事に関する急ぎの指示をFAXで送ることにし、書き綴る。疲れる。
10時、寝る。
10時50分、看護師さん来る。髭剃り。
11時、読書。汗をよくかく。少し頭痛。
12時、昼食。御飯200(1/2に)、胡瓜酢物、揚げハタ餡掛け、南瓜と高野豆腐の煮物、オレンジ。以上で654キロカロリー・糖質100グラム。20分で。終了後歯磨き。
13時30分、理学療法士T先生リハ。ベッドで1時間みっちりやる。
14時30分、読書。痰が絡む感じがするが、うまく排出できない。誤嚥の心配もあるな厳しいなと感じる。生活のこと(長期的な見通し)、当面の仕事のこと(短期的に対応が必要なこと)をいろいろ考える。仕事はせないかんのは確かだが、半分アーリーリタイヤみたいな感じで、ガツガツやるのを止める(というか止めざるを得ない)ということも考えていかないかんと思う。
15時、横になる。看護師さんに足を動かしてもらう。うがいをする(ステロイド投与で感染力低下しているため必要だとか)。
15時30分、寝る。
17時、起きる。ぼんやり。
17時10分、W先生、K先生回診。
17時40分、O先生回診。
18時、夕食。御飯200(1/2に)、ほうれん草炒め、親子煮、豚肉シャブサラダ、スタミン(ヤクルトのらくれん版)。以上で720キロカロリー・糖質100グラム。20分で。終了後歯磨き。
18時15分、ヨメさんが帰る(いつから来ていたのか記録漏れ)。
18時30分、テレビを入れて貰う(!)。BSを見る。歴史秘話ヒストリア北斎、小布施。テレビを見ながら上半身を動かしたり、左足を動かしたりする。昼夜の区別がないなと思う。ベッド上でしかも自由のない世界を痛感する。おなかが少し張る感じアリ。
21時30分、寝る。入院前夜の4号の動きのことを考える。あいつはわかっとったんかなと。

3日目:9月23日(土)(この項打った後で、奇麗に消えたため、再入力した。対策考えな)
6時40分、起床。お腹が張る。背中が痛い。夜中3時間ぐらい腰が気になった。それでも、左膝がかなり立つ。右は動きはないものの、お腹以外は感覚が少し戻ってきた気がする。
7時20分、朝食。前日夜に献立調整して貰い、今日から朝はパン75、昼夜の御飯は100グラムに変更して貰う。ロールパン75プラスいちごジャム、味噌汁、ハム野菜炒め、オレンジ、牛乳。以上で600キロカロリー・糖質83グラム。20分で。胃薬(パントシアン散)と整腸薬(モサプリト)、歯磨きとイソジンのうがい(これらは毎回になるので以下、記録は省略)。
7時50分、終了、お腹が張る。少し頭痛。寝る。
8時30分、突然、右が少し動く。但し左と連動しての動きのような気がするのと、体幹からの捻りの動きのようにも思える。それでも、右の太股の感覚は出てきた。足自体も手で持ち上げる必要はあるが動かしやすくなった感じがする。
9時、W先生、K先生回診。右足が動くのを見て貰おうとするが動かず。以降、手で押しながら何度か動かすも動かし方が分からなくなり、消滅。
9時40分、清拭をしてもらう。
10時40分、O先生回診。右脇腹辺り、びりびり感が発生。昨日の左に近い感じ。胸はまだ感覚がないが、ところどころ触感は感じた。
11時、テレビ見ながら寝る。
12時、昼食。御飯100、豚肉の中華春雨、フレンチサラダ、コーンスープ、バナナ。以上で487キロカロリー・糖質70グラム。20分で。食べながらTV(BSでレッサーパンダ、リトルホース)。
13時、職場と国体ボラへ連絡メモを作成する。まだスマホが使えないので、職場にはFAX、国体の方には手書きメモをヨメさんが来たときに写真にとり、メールで送ってもらうことにする。
13時40分、ヨメさんと田舎の親が来る。
14時30分、3人が帰る。テレビでBS。高速トラックの旅、華族の闘い、広島巨人戦を立て続けに。テレビ三昧の日。寝たり起きたりしながら。右足は、手で持ち上げれば曲がるようになった。軽くはなっている。左は足先が上がった(動いた)。
18時、夕食。ちらしずし100、キャベツ和え物(コールスロー風)、切り干し大根、焼き豆腐の海鮮餡。以上で492キロカロリー・糖質64グラム。30分で。食べながらBSランスマを見る。「暑熱順化」「走った後の糖質70グラムタンパク質20グラム補給」をメモ。佐倉市に金メダルジョギングロードというのがあるらしい。知らなかった。考えてみれば、この先仕事にいろいろ穴を空けただけでなく、県外出張(夜走ろうと思っていた)や高野山参道ランとか断念して、何だかなあという気になってしまった。
19時、テレビみながら、電子書籍で多少の文字を読む。
20時、下剤服用。
21時、寝る。午前3時まで熟睡できた。寝たり起きたりの1日の割にはよく寝た。まだ頭痛が時々ある。自分の中では昨日今日と「V字」ぐらいの回復。

4日目:9月24日(日)
6時、起床。頭痛あり、再度寝る。30分ぐらいで回復。頭痛は昨日からよく起きている。空調1度上げて貰う。お腹が張る。読書(昭和の犬:姫野カオルコ)
7時20分、朝食。黒糖パン75プラスマーガリン、トマトスープ、厚焼き卵と大根おろし(醤油付)、リンゴ、牛乳。以上で575キロカロリー・糖質66グラム。20分で。
7時50分、横になる。左の可動域は広がっている。右は変化なし。胴体も。
8時50分、浣腸。そのまま30分ぐらいベッドで過ごすが出ない。
9時30分、清拭。少し浣腸液が出た様子。
9時40分、W先生、K先生回診。右脇腹外側、冷たい感覚が過剰で冷気を当てられている感じ。
11時、寝る。痛い、は案外多い。頭も腕(点滴)も。
11時、点滴の箇所入れ替え。うまく行かず未完了。
12時、昼食。御飯100、鯵の塩焼きと白葱、おろし和え(醤油付)、肉団子汁、オレンジ。以上で355キロカロリー・糖質49グラム。20分で。
13時、点滴左足へ。痛いので30分後ナースコールで抜いて貰う。
13時40分、ヨメさんが来る。
13時50分、看護師さん交代して右手に点滴チャレンジ、うまくいかず。
14時20分、再交代して左手に。うまくいかず。ヨメさん帰る。
15時、再交代して左手に。やっとOK。7回目。3日過ぎると変えなければならないらしいが、どうしたもんかと暗い気持ちになる。元々血管が細く出てこないので入りやすい方ではないし。
15時20分、テレビ。BSでロッテ日ハム戦。井口引退試合。9回のホームランを目の当たりにする。その後路線バスの旅。
18時、夕食。御飯100、ビーフカレー、赤魚の餡掛け、野菜盛り合わせ。以上で585キロカロリー・糖質69グラム。20分で。食べながらテレビを見るが、飽きてきた感大。ネットの方が選択肢がありそうに思える。
18時30分、少し横になる。疲れやすい。
19時30分、テレビ(BSで巨人ヤクルト)
20時20分、寝る。
21時、起きる。
21時30分、寝る。夜中2時ぐらいから、半身(寝返り)になってそれぞれ1時間。この間は目がさえていて寝ていない。今日は収穫があまりなかった。痛いとか(お通じが)なかったとか、そういう日だった。

5日目:9月25日(月)
6時30分、起床。寝ぼけ眼で採血。痛い部分は多い。起き上がりテレビ。
7時、再び横になる。手元から届くのがテレビだけで、何をするにも全く自由はないとつくづく感じる。反面、清拭とか完全介助。頭が下がる。
7時20分、朝食。ロールパン75プラスブルーベリージャム、味噌汁、ツナ野菜炒め、オレンジ、牛乳。以上で598キロカロリー・糖質77グラム。20分で。歯磨きをするが、この3日間でかなり出血が減った気がする。2分半から3分ぐらい磨いているせいだろうか。終了後、少し横になり、寝る。まだまだ寝ることが多いのは頭痛のせい。
8時20分、O先生回診。毎日来られている。いつ休むのだろうと思う。一般病棟への移動が決まる。
8時50分、清拭、浣腸。2~3回に分けて出るが今ひとつ。片手ぐらい出てますとのこと。当然ベッドの上でおむつの上で。これも今ひとつ感覚的にはよろしくない。仕方がないが。
9時30分、最後の方に、かなり柔らかいのが出て、とりあえず終了。ずっと動いていないからか、今ひとつ残っている感じがする。力を入れて力むという感覚が分からない。
9時40分、W先生、K先生回診。右の胴真ん中側のみまだ感覚がない。右側の胴と太股の麻痺している部分の過剰な冷や冷や感は昂進している。
10時、点滴交換。10度から12度と記されたステロイド系(?)は入ってくるときに冷たく、痛い(でも、後になってこれより痛いのはいくらでも経験することになる)。テレビを見る。30分ぐらい寝る。
12時、昼食。御飯100、豆腐ハンバーグと人参のグラッセ(ウスターソース付)、野菜巻き、焼きビーフン、なし。以上で512キロカロリー・糖質75グラム。20分で。食べながらTV(BSで沖縄栄町)。食べ終わった後もそのままテレビ。
13時10分、T先生リハ。右足を動かしてもらう有り難さ。この日は終了後の血圧170より下がらず(この日以降ずっと高めが続く)。
14時、ベッド移動、4階HCUから9階西一般病棟へ。テレビが見れなくなるなと思う。有料になるだけだが。それよりスマホとかが使えるようになるのは有り難いと思う。
14時50分、引っ越しが落ち着く。まだサイドボードの位置とか机の上とか自分ではうまく片付けられないので、そのままにする。本を読む。四人部屋なので、周囲がよく動いているのを感じる。カーテンで仕切られているのだが。結構、ほったらかしだなあと感じる。必要なときはきちんと呼ばないかん。しかし、ナースコールも緊急、できればおねがい、ゆっくりでいいから、見たいに段階別のがあればもっと呼びやすいように思う(実際はよく鳴るようになると思うから今のまんまが看護師さんとしてはいいんだろうなと思う)。
17時40分、夕食。一般病棟に入ると、食事の開始時間がだいたい20分ぐらい早くなるようである。御飯100、大豆五目煮、焼き蕎麦中華風、もやし辛子胡麻酢和え。以上で458キロカロリー・糖質60グラム。20分で。
18時10分、ヨメさんと義母が来る。診断書のコピー取ったり、持参物の確認したり。
18時50分、帰る。この後記録なし。何していたんだろう。
21時、寝る。夜の点滴が痛かった。

早く落としすぎると痛い。後2つになると痛い。

最終的にどれぐらい後遺症が残るのだろうと思ったりする。

入力完了:2017年10月9日(月)。

道後温泉考

2017-10-24 08:24:22 | 近場の異邦人
撮り貯めていた画像が沢山あったので、四方田を。

9月に道後温泉別館飛鳥乃湯泉というのができたらしく。まあいずれとは思うが(行けるんかいな)、それより何より、国体終わってからの本館の工事がいよいよ、ということになったということではないかと。
何でも耐震補強工事をしなければならないらしく、約7年間で、事業費は約26億円という報道もある。観光にも打撃なので部分営業もするらしい。まだどうなるか決まったという話は聞いていない。

別に贔屓にしていつもいつも入っているわけではないが、愛媛マラソンで無料券貰ったときとかは入っていたし、道後で呑み会があるときは、行く手前に建物眺めてほっと一息つくのも良い感じのとこである。そういう意味で、観光地、というよりお手軽に異邦人気分になれる。
これまでも何度か紹介したが、以下、2014年12月と2016年2月の画像から。


「千と千尋」はここがモデルなのか、それとも湯原なのか両説あってはっきりしないが、なるほどねと思わせる重厚な造りである。歴史を感じる。表も裏も風情がある。休みの時は、ここまで走って来て近くのコンビニで麦を買い、裏の近くにある休憩所で一本空けたりしたときもあった。建物を眺めるというのは、確かに好きである。走っていても、海やら山やら川やらを楽しむ一方で、その近くにある建物には必ず目がいく。新しい建物でも充分面白いし、廃墟になってしまった建物にも興味がわく。そこに人が住んだというか、人が作ったという跡を確かめることが好きなんだろうと思う。

階下の神の湯にしかにしか入ったことはないが、お金を払えば、霊の湯(たまのゆ)とか違う湯にも入れるらしいしプラスで寛ぎのコースとかそういうのもOKらしい。だいたい30分もあれば満足して出るので、2時間ぐらい居座るスーパー銭湯とは楽しみ方が全く違う。観光客は多いが地元の方もそこそこいる。そういうところも何か落ち着くんだろうと思う。

ただまあ、「バリアフリー」で検索掛けても情報が入ってこない。どうなんやろ。どうも椿の湯にスロープがあるぐらいで、道後温泉本館も飛鳥乃温泉も、利用には程遠いのが現実ではなかろうか。
耐震工事のついでに何とかならんのか。

バイクというよりチャリンコ

2017-10-23 08:44:02 | 真面目な練習
やはりバイクというよりチャリンコである、ということをつくづく感じた時期がある。

今年の夏はあまり乗ってなかったが、ムスコからクロスバイクを譲り受けたばかりの去年は1ヶ月に1回ぐらい、高縄半島周り(つまり大回り遠回り)で松山の北にある職場に行ったり職場から帰ったりしたことがあった。距離は大体90~110キロで5時間ぐらいの練習である。ちなみに、以下の写真は去年の「夏休み」をとった初日に職場から家まで走ったときのもの。このときはこれ自体はいい練習になったが、その翌日からの3日間は疲れすぎて、折角の有休なのに遠くを走るということがほとんどできなかったのを覚えている。

この時は、午後から休みをいただき、職場を昼過ぎに出て、直後から昼飯喰う感じでドラッグストアとかスーパーで補給をしながら進む。

夏の暑い日ということもあり、走るときより補給している感じはある(実際にはそんなにちょくちょく止まっていないランと同じぐらいか)。補給感覚より、補給そのものをしないと漕げない感はある。

太陽石油。まだまだ序盤。

今治手前のドラッグストアで。

今治を越えて西条市に入る。これもドラッグストアで。41円だったか。安い。

この写真があるということは、本当に暑かったんだということ。

30分もいかないうちに実家近くのコンビニでガリガリ君。

写真からして座りこんどる。

この後、桜三里の休憩所で頭から水被って。

漸く峠越え。信号待ちで脚着かず。もう脚がコントロールできていない(因みに、チャリンコの方、今年の春にタイヤを前後輪交換(黒×赤)してもう少し落ち着いた感じになっている)。

いい練習だった。

自己最低値。凄いもんだ。チャリ。

で、この大回りルートでは1度は雨の中走り、ウエストバックに入れていた6インチスマホが水没してしまったりということもあった(その後乾燥剤に5日間ほど「漬け込み」復活)。100キロ前後になれば、ランよりいい練習になるのではと、それは間違いない。常時20キロはキープして、早いときは24キロぐらいまで上げている。ちなみにサイクルメーターは付けていないので、国道脇のキロポイント表示で計算する。
それでも、ネックなのは路側帯はあまり道路自体がいい状態ではなく、振動もあるし小石もあるし。坂道で推定で40キロぐらいになると車体ががたがた震えて怖かったりもした。
いずれにしてもランもチャリンコも、止まれないのは同じだが、止まれないというプレッシャーはかなり違う。止まったら倒れるし。また、ゆっくりでいいという気にもならん。疲れてゆっくりになるのは仕方がないとして、そうでなければ常時20キロぐらいは超えるぐらいで漕ぐ。

また、それとは別に、今治から松山へ向かう317号の水ケ峠越えをしたこともある。
登り坂はチャリンコの醍醐味というか、ギアをなるべく落とさずにどこまで行けるかみたいな我慢比べの要素もある。
儂のはクロスバイクだから前3段の後ろ8段あるやつだが、最近は余程でない限り前のギアを変えずに漕げるようになってきた。ハンドルのサイドに「角」みたいなバーを付けてから結構漕ぎやすくなった。勿論前の段を変えないと漕ぎあがれないところはいくつもあって、そのうちの一つが、山越えでの通勤ルート途中にある12%の坂。

チャリンコはシンプルに脚を前に出すとか、ランに共通するところは多い。ウェアきっちり着てスピード出してというのではなく、あくまでランの延長でとことこ走る感覚に近いが、それでも身体に堪える要素は多いので、いい練習にはなっている。それでもチャリンコはあくまでランの補完ではある。バイクに転向するとなるとお金がかかる。

それでも、さて、この先どうなるか、である。競技用の車椅子が安いので30万ぐらいであったが、それでも一般道を走るのは至難の業のような気もするし。
退院後の状況がまだまだ不透明な状態なので、今、人ごとのようにこれを打っている。

記録1~入院前のメモから

2017-10-20 08:00:00 | 脊髄内血管腫との邂逅
9月下旬から急病で入院した。全くの想定外。これは、その時夕方に職場で書いたメモ。今日は入院30日目。相変わらずまだ目処も何も立っていない。

で、2017年9月20日(水)のこと。
朝起きたら、少しだけ背中が痛い。で出勤ランはそれでも普通に終了し、御飯食べながらメールチェックし、しばらくしたらちょっと気になるぐらいの痛みになったので、湿布を貼る。湿布を貼ること自体余程のことだが、ランは本当に普通に完了した。このときは寝違えたかなと、そんな感じだった。場所は肩甲骨の間の脊椎。結構痛い。
昼になっても相変わらず痛くて、で、午後になると脚が立たなくなってきた(食堂に降りる階段で異変を感じたが、まだ歩きにくい、足下が覚束ないというそんな感じ)。内部、外部のクライアントの対応して夕方になってくると、痺れて踏ん張りがきかず、歩行に差し障るようになって、で脚だけでなく体(胴)のあちこちが腫れて痺れた感じになって。痛いところはやや下に移動した感じ。痛みよりしびれが気になった。それでも、仕事の方は、それを出さずに何とかできた(今考えるとよく体が持ったなという感じだった)。
クビから上と腕はなんともなかった。しかしその他がちょっと酷い。歩けん。酔っていないのに制御がきかん。
6時現在でこんな状況。始めは寝違えで背中が痛いのかと思っていたが、もし違っていたらちょっと面倒だなと思う。

とメモはここまで。
しんどくて、片付けとかに時間がかかり、また、念のために明日と一部は明日以降の準備までしていたので、退勤時間が遅くなった。休まないかん場合のそれなりの準備。この後、ヨメさんに車で職場まで来てもらった(これも異例)。病院が開いている時間ではなかったのだが、ヨメさんはしつこくしつこくいろんな病院を回る。無理だと思っていたし、明日は朝行かないかんかという気持ちにはなっていた。ヨメさんはヘルニアか脊髄の圧迫骨折かと思っていたらしい。早く職場を出て、病院に行っていればというのは結果論。その時は全く考えなかったのは事実。やはり仕事に穴を空けるかもしれない場合、早く帰るということは考えられない。家に帰ってからは、御飯食べてシャワーして寝た。麦は呑んでいない。まだこのときは時間はかかるけれど移動とか着替えとかできていた。
これも要らんと言ったが、夜中にトイレに行くことを考えて布団を階下に下ろすというヨメさんの意見を最終的に承諾して1階で寝ていたら、夜中の12時ぐらいに目が覚めたときにもう左足がわずかに動くだけで右は完全に麻痺していて、全然動けななかった。のたうち回っていたらヨメさんが気づき、トイレにも昼から行っていないから(尿意が全くなかった)これは拙いということで、強く言われて、仕方なく救急車を呼ぶ。1時前。
で、その後救急病院に入り、CTとMRI取る。採決、点滴も開始。おしっこは管を入れると1リットルぐらい出てきたらしい。こっちも相当やばかったようである。
で、検査の結果、脊髄に病巣があるようだがここでは治療不可ということで、以前交通事故で頭2カ所と眼窩の骨折を見て貰った総合病院に二次搬送。

で、現在に至っている。
思えば今年の2月に、神奈川の某研究所の研究員募集に応募して、二次面接まで行ってきたが(詳細は近日アップ予定。ムスコはこの時、ヨメさんから「おとーさん仕事止めるかも」と連絡を受けて進学せず就職すると決めたらしいすまんかったの)、もし間違って採用されて向こうにいたら多分、もうこの世にはいなかったかもっと重い後遺症が残っていたかのどちらかだった筈。何故かというと、これまでの経緯の通り、救急もヨメさんに説得されて渋々行ったぐらいだから、一人だったら、意識がはっきりしている間は、絶対に自分から病院には行かなかっただろうと。それは確信している。だから、まだ何か(運とか)が「残っていた」のかもしれないという不思議な力ではなく、結局のところシンプルに面倒いと感じていたヨメさんの一言のお陰。

そして、先日ムスコが来てくれていろいろしゃべっていたときに思い出したのが、夕飯時、いつもはリビングにいたり玄関にいたり適当に暇つぶす4号が、この日は夕飯が終わるぐらいに「おとーさん」と寄ってきて。で膝の上に。
膝の上で寛ぐ4号に、何となく覚悟せないかん事態になるのかなと感じていたことを思い出した。
分かっとったんだろうな4号は。と思った。

入力:2017年10月6日。
追記:10月7日、18日。

2017-10-16 18:54:31 | 脊髄内血管腫との邂逅
まさか、50になる日を病院で過ごすとは思わんかった。何が起こるか分からん。本当に。

それでも、君たちが元気で何より。
身体が動かんから、不自由なのは確かだが、胸から上は普通の状態。下も歩くまでではないが、補助してもらい、平行棒につかまりながら足を前に出す練習も行えるようになった。左足は力もついてきた。ただ、普通にものを考えることができるから、暇を持て余したり余計なことを考えたりということはある。まだまだ先は見えないし、目の前のことをどうするかで精一杯。とりあえず、今は痛いのはないにしても、我慢しかないのは分かってはいるが、病室から出られるのはリハと午後のデイルーム1~2時間ぐらいだし、それでも何より9階から一歩も外に出られんし、食べるものも病院食のみ。
来週以降に脊髄内の出血部の手術もある。入院も年末ぐらいまでかかりそう(!)で。それが治療が終わって即復帰できるかというと全然想像ができないし、十分に回復した形での復帰はもっと時間がかかるかもしれない。
何より、酒なしでそれに耐えられるかなと(今は点滴もなくて、手術まで一休みという状態だから、特に気分的にふさぎ込むことはないし、それが云えるぐらいの精神状態ということ。まあ、誕生日の一寸した御褒美なんだろう)。

で「五十而知天命」のこと。50にして天命を知る、ということは、いろいろな解釈があるらしく。ネットを見れば「自分の真の使命を悟る」という考え方が主流のようだが。一方で、孔子が生きた時代なら、もう50は老境の時代で、今までの生き方で既に己の限界を知り諦めよ、というようにも解釈できるという説もある。まあ、今の時代なら前者なんだろうが。この後者の説も、今はぐいぐい自分の中に入ってきていて。

仕事のことは、半分ぐらいはもう忘れている。当面は、自分のことで手いっぱいでそんな余裕ない。
仕事を止めることはできないまでも、これまでのようにガツガツやることはとても無理で、いわばアーリーリタイヤの感覚で、少しペースを落としてやっていかないかんのではないかということは、最近感じている。何ができるのかという点でできることは限られるだろうが、今までの感覚を捨てないとこれからの定年までの10年は少々きつい。自分にできることを何らかの形で捜し、最低限の職務を果たすというようにする必要はあるか。

で、ついさっき、明日朝の造影剤でのCT検査が決まる。朝食抜きらしい。それより何より点滴再開、やなあ。造影剤はMRIのとはちょっと違うらしいし。造影剤の副作用がなければいいが。
この3日間は、楽やったけど、また始まるなあ、って感じ。つかの間の休みだった。一つ一つこなさないかんか。

2017-10-13 19:30:54 | 脊髄内血管腫との邂逅
主治医より、経過説明を受けたのが昨日。一つのボールを投げ掛けられ、一晩考えて今日返事をすることに。

脊髄の状態はそのものかなり良くなってきた。内科的治療は徐々に終わるだろうと。但し、出血部が今後再発する可能性は捨てきれず、手術をすることも考える必要ありとのことだった。
この手術、結局のところ再発のリスクを下げる以外の何物でもなく、今より状態が良くなるという類のものではないらしい。また、手術そのものを行うことによる脊髄の損傷や機能低下のリスクもある。これまでの3週間で取り戻してきた機能を失うこともあるかもしれない。実際、スタートにまで戻る訳ではないが、スタート付近まで戻ってそこから、という感じになる。それどころか動きや感じ方が今より悪くなることもある。結局、するにしても現状維持か「マイナス」になるかというような手術。「今後」のことを考えての再発防止のみが目的。加えて「しなければならない」度が高くない(だから「どうしますか」なんだろう)。

この今後というスパンをどう考えるかが正直難しい。残り5年ぐらいなら、しないという選択肢も当然ある。しないことで必ず再発するということではないのだから、残り20年としてもしない考えもアリだと思う。別に完全に治したいとかそこまでの望みはない。さらに、さらに今の状態が続くということに対する、心理的な抑圧感。点滴の痛みとか不自由さが続くこと。これが案外しんどい。何より手術そのものが怖い。
一方で、再発リスクは少しでも低い方がいいというのは勿論ある。今度症状が出たらどうなるのか、そしていつ出るのかというのは分からない。まだ定年までは働かないといかんし。一週間後で再発では話にならんし。
もうすぐ齢50になるというこの時期に、これでもかと突きつけられている。
昔、高校生のとき自分のライフスパン考えたとき、50歳から先はなかった。あの頃は体が弱かったし、そんなに長い人生の見通しもなかったし。
案外、分かっていたのかなと思ったりする。
それでも、そんなに先のことは余り考えてはいないが、自分のことだけでもないしなと、それを考えたりする。

で先程。
返事はしました。
自分の間合いで考えることさえできれば、長々と迷ったりはしない。
ただ、不安はある凄く。
今日、点滴がようやく外れ、痛いことがなくなったが、また改めてのやり直しになるんやなと思いつつ、それでもつかの間の休憩をとるというつもりでいる。
負けじゃないです只のマイナスです。

廿

2017-10-11 18:38:44 | 脊髄内血管腫との邂逅
昨日で、です。

昨日は、3回目のMRIを取りました(救急搬送された病院でのMRIを含めると4回目)。最近、点滴の箇所の調子が良くない(夜中の点滴交換で目が覚める)ので造影剤なしというのは正直助かりましたが。
検査結果の詳細はまだ聞けていないです。ずっと神経内科で見て貰っていますが、手術の可否に関する脳外科の先生からのコメントがまだとかというのもあるし。

それでも、脊髄の状態自体は落ち着いてきているようで。
右足はまだまだ動かんし、力も入らんけど、今日はリハで平行棒に捕まって少しだけ足を前に出すことができました。

いろいろなことがまだまだ、ですが。それでも。

些細なことで、気になることは多いのですが。痛くって本当に。それでも。

六甲守山95キロ

2017-10-05 13:05:00 | 別に除けておきたいこと
まだ入院中で、今後のこと何も見通しが立っていないのですが、今日は特別な日なので(かなり前に綴ったものです)。

2号はその昔ネットオークションでキャンセルが出てウチに来ることになった。そのペットショップは六甲アイランドにあって、彼はそこから飛行機に乗って松山にやってきた。
で、生まれは奈良だと聞いていたように思っていのだが、彼が亡くなってからしばらくして血統書見たら「MORIYAMA」って書いてあった。奈良にそんなとこあったかと調べたら、やっぱり奈良ではなくて滋賀のらしい。もともと六甲から奈良まで行ってみようかと準備をしていたのだが、滋賀まで行くとなると約100キロ。どう最短をとっても100キロで奈良の倍。
ふーん100キロ、と人ごとのように思いながら頭の中で計算を始める。六甲から奈良を走ろうと決めていたのに、六甲から守山になった途端止めるというのも収まりが悪い。とんでもない距離だが行くしかない。でもどういう形で現地に行って、どれぐらいに出発して時間がどれぐらい掛かって、走った後戻るまでにどれぐらい時間が必要で、とそういう計算を何パターンかやって。

で決行。時は10月半ばの頃。儂の誕生日過ぎたぐらいだったか。

数時間後に走るのに、麦なしで長い時間待つのは苦痛でしかないので、空港での晩御飯は一口呑む。

関空からは私鉄を乗り継ぎ、六甲へ。

乗換駅で栄養補給。流石に麦は止める。これから100キロ。

日付が変わった辺りでスタート。地図はあらかじめ見たが、車だけしか通れなかったり、道がクロスしてなかったりして、島を出るのに一苦労。とりあえず、橋へ。

橋を降りて、またそこから神戸の国道に行くまでに、うろうろと走り回る。夜なので勝手が分からん。漸く向こう岸に渡る階段を見つける。これは地図では確認できん。国道に入るまでの不安と、それほど時間的な余裕はないのとでペースは早め。

地図に出ていた道に入り、阪神高速の傍をしばらく走る。人が少ない。当たり前か。

突然階段が出てきたりはするが、とりあえず、場所が分かる表示があると安心する。

戎の文字を確認し177号に入る。漸く安心する。

結構な幹線道路だが、交通量はそれほどでもない。まあ真夜中だからな。

基本的には国道を行けば大丈夫なのだが、時々、高架になって脇道を走ることもある。で、深夜にもかかわらず駅の周りでは若いのがうろうろしていたり、店にはおっさんおばさんが賑やかにやっていたりするのを見る。

ドンキが見えた辺りのコンビニで初回の補給。先が長いので少しずつ摂取できるタイプのレッドブルを。安くはない。

兵庫県から大阪府へ。



ファミマで今度は甘いモノを。その後それとは別にもう一度40キロ付近のセブンに入った記憶はある。トイレを借りた気がするが何か補給した記憶はない。

阪急京都線の文字を確認した辺りで空がだんだん白くなる。最初のヤマ場を越えた気がする。

県境を越える手前のファミマで水分補給。その直後京都府へ。

道が広くて高架の傍を走ったこの辺り、測道がないところも多かった。ずっと見守るように付いてきてくれていた月を見上げる。2号かと思う。

13年近く、君と一緒に過ごしたことになる。ビッダーズのオークションで、どうみても買い手が付かない売れ残りで、ウチに来たのは生まれて半年過ぎていた。しかも、最高落札した人がキャンセルして、ウチに来ることになった。何かの縁なのだろう。後にも先にも、ウチの犬で飛行機に乗ったのは君だけ。
3歳年上の1号とは、本当に仲が良かった。犬同士が仲がいいのは当たり前のことではなかったのだと後になって理解した。凄いことなんだと。
一度、家から居なくなって、慌てて探していたら、散歩コースの川の向こうを優雅に散歩していた君が、こちらを見て慌てたように歩みを早めて橋を回って戻ってきたこともあった。あれは未だに謎。
チワワという愛玩犬でありながら、実は山が大好きで、夏の風穴に行ったときのあの走りは逞しかったな。奥ゆかしい君だったけど、御飯のアピールは凄くはっきりしていた。いつもごろごろと、寝てばかりで、でも御飯のときは、すごく存在感があって。
2年前の生存率五分五分の大病では「川」を渡っていた君を連れ戻した。一方で、病気の重さ、後遺症の具合を考えると良かったのか悪かったのか、と逡巡した。でも歩けないもう寝たきりと覚悟していたのに、2ヶ月ぐらいたってからまた立ち上がり、歩けるようになった。
それから2年は、もっと大事に大事に時間を過ごしたように思う。散歩の回数こそ減ったけど。
そして、今年の5月、再び調子を悪くし、夏も今ひとつの体調で。でも4号の方が調子が悪かったので、気にならなかった、ということは今想えばある。
逝く前日から調子が悪くなっていたようですね。でも庭に降り、ご飯も食べて。そして、次の日。
連絡を受けて帰宅後、君の顔を見ました。朝はいつも通り見送ってくれたなと思いつつ。
これまでの生きるか死ぬかの闘いの時のしんどそうな表情ではなく、どちらかといえば穏やかな感じがした。
前日は僕が泊まり勤務だったし、大学生の二人も、どちらも帰れなかったと。次の日、なら大丈夫だというのは、どうして分かったのだろうか。
君を葬儀場に連れて行く時、台風でフェリーが出ず、最終のバスで帰るというムスコとムスメを家から車で1時間かかるしまなみ海道の玄関口の駅に迎えに行ったら、示し合わせたように、お互いに1分の待ち時間もなく、ターミナルで会うことができた。何かの力を感じた。
そういえば、しまなみ海道に行ったときに取材に逢い、君を含めた家族4人が地元紙のトップページに載ったね(この時1号は足下にいたから写ってないんですが)。
家でお別れができなかったのはちょっと残念だったけど、葬儀場までの1時間、後部座席の二人の膝に代わる代わる乗って過ごしてもらうことができた。花粉症かいな、というぐらいティッシュが何枚もなくなっているようだった。
葬儀場に着き、そして待つこと1時間。深夜1時、山奥にある火葬場で君の骨を拾いました。
星がきれいに瞬いていました。
そして、次の日は何日かぶりの抜けるような青空でした。
2年前と違って、5月に調子を崩したときから覚悟はしていた。
決して長生きではなかったのかもしれない。でも、みんなで、しっかりと君を見送ることができた。
朝起きると、いつも君が居たところに君が居ないというのは妙な感じで。君のことを、まだまだ繰り返し思い出しながら過ごす日々が続きそうです。ありがとう。

いつか綴ったキミへの手紙を反芻する。

京都市へ。ほう、京都競馬場。で、ここを過ぎて市内の南をこのままずっと走れればそれほど面倒ではなかったがこれが歩行者通行禁止で。

少し脇道に入り、エスケイプルートを探す。

でここは失敗して、来た道を戻る。何十分かのロス。


それでも、古い京都らしい街に出会うことができて、それはそれでお得感あり。この日は平日で通勤通学の人が行き交う。
一番距離が短いはずの商店街を抜ける。

で、この神社の傍を通り。

で、この神社の傍を通り。

漸くさっきの道へ。方向も現在も分からず、スマホの地図で確認して漸く無事と判断する。

エナジー系珍しいのをいくつか見たが、結局タイミングが合わず、以前呑んだヤツを。安いが何故かカフェインを気にしつつ。

でそれほど時間が経っていないのに、今度は甘いのを。安かった。

外環状を走っていたつもりだったが、微妙に一本道を間違えていたらしい。最短距離になる県道のショートカットルートをとることができなかったが、何とか国道1号線へ。

1号線に入ってから普通に測道を走りたいのだが、これが何ともわかりにくい。再度自販機で補給。こういうときも糖分を気にする。時間的な余裕は相変わらずない。

すれ違う徒歩の人に、どの辺りでこのまま県境を越えられるのかを尋ねようとするが、無視される。それでも駅の場所とかで確認し何とかなるだろうと進む。ここに来ての時間のロスは避けたい。ルートが分かれば何とか進むことはできる。上り坂をゆっくりゆっくり進む。

大津市に入る。文字通り峠を越える。

琵琶湖。結構感動。

ここからが最後の勝負。かなりペースが落ちている。コンビニで補給。いつもの。

気温は24度。でも暑い。

守山着。キミのふるさと。

JRの駅へ。六甲守山間完走。で補給。駅前の西友で珍しいのがあった。しみじみと。

この毛は5号のかもしれないが、2号のかもしれない。手に取りそっと離す。

30分ぐらいの滞在。ホームに行く。呑んだだけやな。

約13時間と30分で95キロ。

大会でもないのにこんな距離もう走らんと思う。
とりあえず、95キロ走れた寝てなかったけど。走ったではなく走れた。追悼ランか。とりあえずキミを想いながら走った。

想いは力になるのだと思う。
走れたのはキミの力だと思う。
ありがとう。

2017-10-02 09:27:45 | 脊髄内血管腫との邂逅
昨日のこと。
看護師さんにお願いしてデイルームへ。

10月に入った。

遠くを見る。今、考えも着かなかったところにいる。自分で決めて進んでいたことを止め諦め断った。大袈裟でなくこれからの生き方をどうするべきなのかと思案する。
その手前を見る。診断とか手術とかどうなるんだろうかと思う。それがまだ分からない。分からないのに遠くは見えないかと思う。
近くを見る。それより何より点滴の針がヤバイなとかカテーテルとれんなとか、右の感覚がまだまだおかしいとか、3日処置してもお通じないなとか、そういう方が気になる。病室での時間の使い方とか、そういう些細なことも含めて。パソコンとスマホだけでは限界がある。

窓から外を見る。見ながら何かをではなく見ること自体が必要な気がする。この日は2時間20分。
感謝。

今日は雨らしい。綴り始めて7年が過ぎている。