きのうはやあるきのじいさんにおいぬかれる

犬と酒依存症のおっさんが、車椅子を漕ぎながら、ネガティブに日々見たり聞いたり感じたりした暗めの話題を綴ります。

感覚的な部分は回復していないものの

2017-12-13 19:59:00 | 脊髄内血管腫との邂逅
M病院に転院して1ヶ月。一昨日の捻挫もどきとかで改めて考えてみると、運動機能はともかく、感覚的な面はあまり変わっていないかも、ということを思った。で、先日アップしたK病院での手術後の記録を改めて見てみた。

>動かすこと自体はできているが、脚がどの方向に動いているのかどれぐらい動いているのかは全く把握できない。
→これは、見て位置や動きを調整することを繰り返して改善した部分が多い。しかし、動きの方向や幅の微妙なところはまだ怪しい。
>脚がどの位置にあるのかが分からないとか曲がっているのか伸びているのか全然分からない。
→全くということはなくなったが、細かな位置関係はまだ分からない。脚の位置を見ていないと片方の脚でもう片方を踏んでたりということはよくある。
>両足はもの凄く「冷たい」
→病的な冷たさはない。動かしたときにひやっとする感覚は残っている。
>下腹部は感覚なし
→これも感覚自体は正常になった。
>足の裏は痛い、脚の指はどこを触っているのかは分からない
→これが案外改善していない。足の裏は痛いと言うより痺れで、足の指については右側はほぼ分からない。左は親指と人差し指だけ分かるという感じ。
>腰が痛い。特に寝返り時に左側。
→先日リハで畳に寝っ転がったら、まだ痛かった。病室のベッドに寝ているときやリハの普段使うベッドに寝っ転がるときは感じない。
>下腹や脚に触っても触った感じではなく冷たいとかびりびり痛いとかそういう感じ
→極端な痛みはない。ただ、違和感が全くないわけではなくて、痺れは両足全般に残っている。
>実際には脚はまっすぐなのに、左は膝を立てて右は膝が外に開いている感が解消しない。
→これは手術直後からずっと解消されていなくて、今でも夜寝ていてこういう「錯覚」を感じることはある。ただ、脚が以前より動かせるようになったので、修正することはできるようになった。

今日は、リハの先生がお休みのため代わりの先生に自分の身体の状態を説明することが多かったから、この振り返りはタイムリーだった。
これとは別に、「良くなりたいという気持ちだけでなく良くなっているという筈だという心的ファクターも介入している」「今日もいろいろあったが、痛さや動けなさ等々のストレスは昨日落ち込んだ分、今日はどうだろう」「昼間のリハはかなりテンションが低かったがその後は少し持ち直した」「「諦」めには時間がかかったが、前に進むには必要なこと」「前回はショックが大きかったが、今回は戸惑いの方が強い」「そんなことを考えていれば何ヶ月先か何年先か。若しくはずっとそういうことができない可能性だってある。気持ちは分かるのだが、早く帰って復帰の道筋を考えたいと思うのは悪いことだろうか」等々。

引用が長くなったが、やっぱりあのときは先が見えなくてしんどかったんだろうなということを改めて感じた。
今も細々したことで感情の浮き沈みはある。ただ行動範囲の制約が少なくなったことで随分気持ちは落ち着いてきている。
そして、「リハ庭」で車椅子を漕ぐことも気持ちの安定に寄与している気がする。ストレス解消、とか簡単な言葉で置き換えたくはない。とりあえず、目の前のことに集中するために漕ぐ。のそしてとりあえず、漕いで走ってみてから考える考え直すというのは自分の性分として必要なことなのだろうと改めて思う。

まだまだしばらくはこの窓からこの空を見ることになる。どれだけ変わるかは未知数である。


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