東京国立近代美術館ニュース「現代の眼625」が家にとどいていたのだが、あわただしさに紛れて開封もしていなかった。表紙の作品は辻清明「信楽大合子 天心」(1970)。目をとおしたのは、
・「辻清明の宇宙について」 森孝一
・「辻清明の収集品」 藤森武
以上2編は「工芸館開館40周年記念特別展 陶匠 辻清明の世界-明る寂びの美」(2017.9.15~11.23)関連の文章。
辻清明の文章が引用されている。「(信楽の)荒ぶる山土は強靭な焼きものとなり、あたかも地球の奥深い内部に吹きあげるマグマの強烈な炎に溶融凝固する火成岩のようではないか!と思わせた。そしてまた、人類の原風景の中に想いを馳せたとき、気の遠くなるような『時』の累積に生成された土の塊が私の手から発信し、『天心』のかたまりとなった。内なるものをえぐり取っていく作業の中でも、私はひとつの自分の地底宇宙と、同化していくように思えた。それはとてつもなく激しい窯炎を喚び、火口に吸い込まれた空の嵐が厳然と、黙した土塊と戦いぬいた“かたち”となった。」
・「パウル・クレー《破壊された村》」 三輪健仁
東京国立近代美術館の新しい収蔵品の紹介から。(別掲)
・「描くべきものを恵萼-中村不折《廓然無聖》」 古舘燎
これは何とも不思議な作品である。油彩画で、ぱっと見は西洋のキリスト教絵画を思わせる。聖人が世俗的な王の前で奇跡的な何かを起こしかけている場面であってもおかしくない。頭に後光が射している。
しかし場面は「梁の武帝がね自分は寺を建て、僧を得度し修行させたが、どのような功徳があるかと達磨大師に訪ねたところ、達磨は「功徳無し」と答えた。‥武帝が問うと、達磨は「廓然無聖(かくねんむせい、からりとした虚空のように、聖なるものも何もない状態)」と答えたという。確かに緊張感のある画面ではある。しかしこの文章でも記してあるが、達磨はこちら向きに立っており、武帝を背に立っている。これなどはとても行儀の悪い立ち位置である。
不折はフランスのアカデミーの歴史画家ローランスに師事しその影響が大きいそうだ。人体表現などは評判がいいようなものの、構図に難があると当時から言われていたとのこと。しかし論者は「達磨の身体が観者側に向けられていることが意図的であるとするならば、「廓然無聖」と説く達磨の眼は、梁の武帝のみならず、当時の画壇、あるいは私たち観者にも向けられているのではないか‥」と記している。