Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。体力作り、俳句、山行、美術館・博物館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。

布団の中の妄想

2016年11月20日 10時51分27秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 11月に入るとすぐに駅周辺の繁華街や店内のスピーカーからはクリスマス・ソングが流れている。住宅の玄関にもクリスマス・リースがかざられている。いくらなんでも早すぎると思うが、人はそれとなく繰り返される音楽にいつの間にか踊らされる。クリスマス用品を探したり、飾り付けを購入したりという気になる。クリスマス商戦は2か月近くの長丁場ということになる。
 「消費を煽る」という行為は小売り店には必要不可欠なのかもしれないが、どうしてもどこかで基準や規範、箍(たが)がすっかり壊れてしまっているのではないか、と思う。

 わたしも、つまらない規範や時代に合わない「倫理」は解体した方がいいと思う。しかしその解体に向かうエネルギーが新しい規範や新時代をつくる「倫理」という「土俵」を構築しないと、「競争」が無際限となる。これはもう弱肉強食と破壊の衝動だけが残る「荒野」とならざるを得ない。そんなブレーキが利かなくなり、身の回りから「戦争」が露出してくる。
 無限定に近い「競争」と「規範」破壊は、個人の「破壊」にまで進む。「競争」社会は一定のルールとその時代に即した「規範」がみえない限り、社会そのものの存立が危機に瀕するまで無際限に進展する。それが現代の日本といえるのではないか。
 人と接したり、社会性の中に揉まれ続けると、どこかで人は孤独の時間と場面に向かう。そして自己の観念の中に身を置きたくなる。それが芸術の場合もあるし、自然の場合もある。体をひたすら動かす運動になる場合もあるらしい。そしてそれらはどこかで社会や古い規範に対する破壊の衝動ともつながっている。
 国家や社会の頂点に立ち、その動きをコントロールする立場の人は、得てしてそれらの衝動が社会の規範への破壊のエネルギーに転換することに敏感かつ過剰に反応してそれらをどこかに封じ込めるか、自己のコントロール下におこうとする。近代国家もそこからは抜け出していない。
 同時に人は自己の孤独の時間まで奪われると、生きるためにはそれは無限定な盲従、ものいわぬ隷従を受け入れざるを得なくなる。また「規範」によって保護されている人を許容しなくなる。そして自由な個人や自由な意見に接するとそれらを受け入れたくなくなる。最後には排除し、抹殺すらしようとする。
 現代の日本の社会は多分、そんな水準だ。時代に抵抗することがごく少数で、地表からは見えない伏流水のように潜っていかざるを得ないのだろう。
 「時代が血を欲している」といった人がいる。これはどう立場でどのような人に向かって言ったのかは私にはわからないが、流された血が忘れ去られるのは、いつの時代でも翻弄された人々である。踊らされた人でもある。
 どんな時でも血は流されてはいけない。悲しいかな、そのように社会全体が決意しても流されてしまう血がある。
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