Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。体力作り、俳句、山行、美術館・博物館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。

「雪村」展(東京藝大美術館)から -3-

2017年04月23日 12時13分54秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 私はこのどこか人を食ったような作品「列子御風図」(アルカンシェール美術財団蔵)が好きである。
 解説では「列子」の中の「風がわが身に乗っているのか、わが身が風に乗っているのかも全く意識しない境地に達し得た」とある、と記されている。
 岩波文庫版の「列子」の「黄帝第二」に確かに「竟不知風乗我邪、我乗風乎」(ついに風我に乗るか、我風に乗るかを知らず)とある。ついでにその前の段落には黄帝がその理想の国のこととして「乗空如履實、寝虚若處牀」(空中に乗ずること實(大地)を履(ふ)むがごとく、虚(空)に寝ぬること床(牀)におるごとし」)とあった。
 掛け軸のように腰を落として、下部から見上げると空中の列子の上に向かうベクトルはさらに強調される。大地を象徴する岩と草木は最初に眼につくものとしては実に素っ気ない。それが空を飛ぶ列子を強調していると好意的にみるか、工夫がない、と否定的に見るかはわかれるところかもしれない。

 中国では仙人はひとつの理想像であったと思われる。私は列子の言葉は、無為自然の理想の民のことを下地にして、列子の境地を語っていると理解している。そうすると仙人が、社会と切り離されて「技術」として空中浮揚を体得したとすると、理想郷ではない仙人の自己実現のための「技能・技術」と思える。理想郷の民の自然な振舞いではなく、「作為」に基づく仙人像である。この作品もあくまでの「不自然」で、これ見よがしの振舞いに映る。「無為」の状態ではない。
 雪村自身もこのような「作為」にひょっとしたら疑問を持っていたのかもしれないと、私は理解したい。



 後期展示のため見ることは出来なかったが、解説ではこの作品は三幅対「琴高仙人・群仙図」との関連を指摘している。
 私の感覚では、「琴高仙人・群仙図」(京都国立博物館蔵)は描かれている人物たち(仙人)には動きがなく、視線もバラバラである。中央で鯉に乗っている仙人を見ている人物と思われる童子を含む人物は5人しかいない。「列子御楓図」の元となった左幅の手前の人物もどこを見ているか判然としないし、動きもない。中央の鯉に乗って表れた仙人などには興味を示していない。どこか「俺のほうがもっとすごいんだぞ」という対抗心すら見えるのではないか。
 人物が似ているので、描かれた時代は近いのかもしれないが、画家の思念・思想は大きく変化しているように思われる。あるいは、中国の「仙人」のもつイメージへの違和感を持っていたのか、という解釈で、両者を統一的に把握できるかもしれない。「琴高仙人・群仙図」のほうが重要文化財ということで、評価は高いようだ。
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