Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

春の眠り

2017年02月06日 23時09分24秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★春近し時計の下に眠るかな     細見綾子

 この句を最初に読んだとき、私は「眠る」の主語は「春」だと勘違いした。「春近し時計の下に春眠る」のように読んでいた。確かにその方が口調はいい。滑らかだ。しかし省略した主語が「春」というのもよく分からない。だいたい「眠る」の主語が「春」の場合こんな省略はまずしない。そうすると主語は「私」しかない。
では次に「私」と「時計」の関係がわからなかった。「私」が「時計の下」に眠っていることが何か意味があるのか。寝室には時計は大体ある。その時計の下で眠る「私」が「春近し」と感じるとはどういうことなのか。
 本日この句をツィッターで見つけた時、この句の状況がわからずにそのまま電車の中で窓越しの陽を浴びながら、うつらうつらと寝てしまった。
ようやくこの時計が今風の音のしない電池で動く時計ではなく、柱時計・振り子時計ではないか、ということに思い至った。
 そう、昨晩の春の到来を思わせる暖かい大気を感じた時、夜中に柱時計の音を耳にしたのではないか。そしてその音と春の到来が近い大気の様子がどこかでダブって聴こえたのではないか。時計の音までもが春の湿り気や温みをもって聞こえたのではないか。それは実に心地よい眠りを用意してくれたのではないか。すっかり春というわけではないが、温みのある春は「春眠暁を覚えず」である。
 電車の中でうつらうつらしながら、心地よい眠りに陥る幸せを感じた。

坐骨神経痛の行方

2017年02月06日 21時25分40秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 坐骨神経痛の痛みは続いているものの、本日は少し痛みが和らいだように感じている。昨日と本日と杖を突いて歩いたのが良かったのだろうか。足に無理がかからないようにゆっくり歩くだけでなく、意識的に杖を有効に使って歩いた。痛い方の右足と左手に持った杖を同時に前に出すということを意識的に続けるのがいい、と思っている。
 本日は少し生暖かい南風が終日吹いていた。しかし夕方17時以降風は北寄りに変り、急激に気温が下がり始めたように感じた。お昼やちょっとした買い物以外にほとんど外に出ないでビルの中に居たので夕方外に出た時はとても寒く感じた。外に出るたびに、気温や風の状態などを感じてはいたが、ビルの中が暖かだったのでいっそう寒く感じた。
昨晩までは雨が降ったのに、本日はもう強風・乾燥注意報が発令されている。喉のいがらっぽさが、ひとまず落ち着くまでのせめてもう3日ほどは乾燥注意報に待ったをしてほしかった。インフルエンザも下火になったかもしれない。なかなか人間の思うようには自然はやさしくはない。

春を感じた雨

2017年02月06日 08時46分21秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 昨晩は日付の変わる30分ほど前から我が家の周囲で雨が降り出した。風呂に浸かりながら立春後の初めての雨の音を聞いていた。
 やはり立春という時候のことばにとらわれているのだろうか。雨の音がのびやかに聞こえる。冬のきりっとした大気の中を冷たい雨の音が鋭く伝わっていくのとは違って、柔らかく伸びる蔓の先端が地面に垂れ下がる音である。そんな風に感じるのは、たぶん久しぶりの雨でもあり、そして南からの少し気温の高目の空気をともなっているためでもある。
 感想しきった冬の大気と木々の様相が一気に水気を含んで、柔らかさを回復しているようにすら感じた。
こんな句も歳時記にあったのを見逃した。

★旧正の風のびやかや珊瑚礁    武田禅次
 この句は珊瑚礁ということで、日本での句ならば沖縄や伊豆諸島南部、あるいはもっと南の東南アジア諸国の海での句に思えるが、それだけではもったいないような気がした。
 珊瑚礁にとらわれず、春の兆しを敏感にとらえた「のびやか」という表現にこだわれば、それは立春後の雨や、湿気や、木々の芽ぐみにかかわる風情を持ってきてもいいな。と感じた。最後の句は「幹太る」などのことばがいいなぁと思った。
 横浜の雨は、2時前には上がったようだが、その時はもう私は再度の熟睡に落ちていた。