Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ベートーベン「ヴァイオリンソナタ第1番、第2番、第3番」

2016年01月18日 23時35分02秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
      



 ベートーベンの1795年ないし97年の作といわれ、ベートーベンの最初に出版された曲集といわれている。ウィーンで師事したアントニオ・サリエリに検定されている。3つの曲の内では第3番が演奏される機会が多いとのことである。私もこの3つの曲の中では相対的に第3番の第3楽章がいいと思って聴いている。
 ヴァイオリンとピアノのソナタから、ヴァイオリンソナタへと踏み出したようにヴァイオリンが活躍する。これは第2楽章までと雰囲気がガラッと変わったような感じがする。ヴァイオリンの早いパッセージが常にピアノをひっぱっていく。
 いつものようにギドン・クレメルのヴァイオリンに、ピアノがアルゲリッチの組合せのCDと、ヴァイオリンがヨゼフ・スーク、ピアノがヤン・パネンカのCDを聴き比べている。
 このCDでもスークの方がヴァイオリン主導である。この3つの曲に関しても、私はどうしてもスークの演奏の方に気持ちが傾いてしまう。

ヴァシリー・カリンニコフという作曲家

2016年01月18日 17時44分35秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日の朝、NHKのFM放送を聞いていたら、聞きなれないカリンニコフというロシアの作曲家の作品を紹介していた。今年生誕150周年ということらしい。
 最初から聴いたわけではないが、なかなかの作曲家のように思えた。私が聞いた曲は「交響的絵画“杉と棕櫚”」、「交響曲第1番第4楽章」(1894-95)、「弦楽のためのセレナード」(1891)、「間奏曲」(1896)である。
 「弦楽のためのセレナード」(スヴェトラーノフ指揮、ソビエト国立交響楽団)はチャイコフスキーにおおきな影響をうけている。ただし確かにチャイコフスキーべったりの曲想ではない。
 また他の曲はボロディンなどの影響など、貪欲に摂取していたらしい。不遇のうちに亡くなり再評価されてる入る作曲家らしい。
 「交響的絵画“杉と棕櫚”」(ネーメ・ヤルヴィ指揮、スコットランド国立管弦楽団)、「間奏曲」(スヴェトラーノフ指揮、ソビエト国立交響楽団)、「交響曲第1番第4楽章」(指揮山田和樹、チェコ・フィルハーモニー)の3曲とも私にはいい曲と思えた。
 こんど小遣いに余裕があるときにCDを探してみたくなった。

 なかなか心地よい時間であった。

 ネットで「カリンニコフ」を検索したところ、ウィキペディアに次のような記述があった。要約すると、
☆ヴァシリー・セルゲイェーヴィチ・カリンニコフ(1866-1901)、ロシアアの作曲家
☆イワン・ツルゲーネフと同郷。貧しい警官の家庭に生まれる。少年時代から楽才を顕し、14歳で地元の聖歌隊の指揮者を務める。その後モスクワ音楽院に進むが、学費を納入できずに退学。奨学金を得てモスクワ楽友協会付属学校でファゴットと作曲を学ぶ。劇場の楽団でファゴットやティンパニ、ヴァイオリンを演奏するかたわら、写譜家としても働いて生計を立てた。
1892年にチャイコフスキーに認められ、マールイ劇場の指揮者に推薦され、同年モスクワのイタリア歌劇団の指揮者も務める。過労で結核に罹患。劇場での活動を断念し、クリミア南部に向かう。生涯の終わりをヤルタで過ごした。2つの交響曲とアレクセイ・コンスタンチノヴィッチ・トルストイの《皇帝ボリス》のための劇付随音楽は、同地で作曲された。
 セルゲイ・ラフマニノフが楽譜出版社かけ合い、3つの歌曲と交響曲第2番も売れた。循環形式を用いた交響曲第1番は、作曲者の存命中にモスクワのほかベルリンやウィーン、パリでも演奏されたが、病が悪化し1897年の初演に立ち会うことはかなわなかった。交響曲第1番の出版と35歳の誕生日を目前にして世を去った。楽譜出版社は、後にカリンニコフが受け取るべき報酬を水増しして未亡人に支払った。
☆2の交響曲といくつかの付随音楽、そして多数の歌曲を遺した。いずれの作品もみな、ロシア民謡の特徴に染め抜かれている。2つの交響曲、なかでも《交響曲 第1番》は、20世紀初頭に頻繁に演奏された。近年カリンニコフの名声は消えかかっていたものの、交響曲は音源で接することが可能である。
☆作風は、おおむねチャイコフスキーに倣って西欧的な楽曲構成法を採るが、旋律や和声法に民謡や民族音楽の影響が自明。国民楽派(「五人組」)からの影響も無視できない。

「中島清之-日本画の迷宮」展(その2)

2016年01月18日 12時55分37秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨年11月に「横浜発おもしろい画家 中島清之-日本画の迷宮」展について簡単に記した。その後も幾度か見に行った。
 私は中島清之(1899-1989)という画家についてはまったく知らなかった。最初に見た時の印象は、
1.作風がいろいろと変遷していてどれが本当に描きたかったが、どの画風で、どの対象を描きたかったのか、
2.人の顔に大いに違和感があり、どうしてこのような顔になるのか、
3.遠近法などをわざとずらした表現が見られるが、どのような効果を狙ったのか、
等が頭の中で駈け巡りまとまった感想がうまくできていない。

 しかし実は私自身も他の方からみれば趣味や興味の範囲はあちこちに飛んでいるように見えると思う。本人の頭の中ではそれなりに統一はとれているのだが、本人自身もそれを統一的に説明できる言葉にはなかなかならない。
 中島清之という画家は、かなり器用でさまざまなことを吸収しようと努力したのであろうと思うが、それが何に向かっていたのか、ということは結局わからない。
 デッサン力がすごく、筆も早かったということは、解説の学芸員から教わった。



 初期の作品で最初に私の目に留まった作品が「保土ヶ谷風景」(1924)。この作品は9月の院展出品予定であったものの急きょ取りやめとなって他の作品で院展初入選となったとのこと。問題はどこにあるのか理解はできないが、鬱蒼としたむせかえるような緑の氾濫は、南国的な雰囲気もあり、樹木の葉の描きようがもう少し変わればルソーのような作品にも見えてしまう不思議な雰囲気である。写実と細密の先に何処からか現実から遠いところにたどり着いて幻想の世界に入り込んでしまう回路があると私は感じた。



 「庫裏」(1930)松島の瑞巌寺の庫裏を描いた初期の作品である。解説では「垂直・水平の線を軸にした力強い造形感覚」と記されているが、この縦横の太い線があえて遠近法を無視して描かれていることがポイントだと思う。やまと絵の技法でもなく、西洋風の遠近方でもない不安定な構成が醸し出す印象としかいいようのない不思議な感覚に惹かれた。
 空間だけでなく時間までが捻じ曲げられて、過去が現在に不意に呼び込まれることあるのだろうか。そんな幻想性を求めたのだろうか。

   

 この手の作品として二曲一双の屏風「茶室」(1949)があるような気がする。不思議な屏風で左右で縦・横の比率が逆である。まずこれが常識をはぐらかしている。そしてここでも遠近法が無視され、畳の形や壁の形が歪になっている。ただし庭の見える右双の画面右側の床の間、右端の畳は極度に変形しているが、これはもともとこのような変形の畳や床の間だったのが、画面の構成上ここまで変形させてしまったのかは、学芸員の方に聴いたがわからなかった。しかしいづれにしろ遠近法を敢えて無視していることは間違いはない。私はゴッホの「アルルの寝室」の連作を思い出した。さまざまな技法を貪欲に取り入れているように見える。右双の庭の赤い黄葉をはじめ豊かな色彩が印象的であると同時に、障子を締め切った左双の色彩を抑えた表現が目を楽しませてくれる。



 「花に寄る猫」(1934)は、大佛次郎の買っていた猫を描いた作品とのこと。このようなリズムをもった繰り返しの様式美がわたしは中島清之という画家の真骨頂だと思う。最晩年の輪春閣の襖絵に通じる、そして琳派様の作風が私には成功した作品に思える。



 「和春」(1947)は戦後すぐの作品である。牧谿や長谷川等伯の猿猴図が頭にあったのは間違いなさそうであるが、中島清之という画家は、状況も場所も大きな変換をかならずしてみせる。この猿の家族も野生の生息地から動物園に場所を移し、金網と人工の遊び道具とに囲まれている。しかし「家族」に変わりはない。「猿」と「家族」に戦争を潜り抜けた中島清之のどのような姿勢・思想が反映されているのかは分からないが、やせ細った体躯と、戦後の飢えの時代の厳しさが「檻」という状況下、意味するところはなかなか辛辣かもしれない。
 この猿のしなやかな動きと毛並みの生き生きとした美しさ、金属製の金網と吊り輪の硬質な表現には大いに圧倒された。



 「方広会の夜」(1950)はドキッとするような小迫力を感じた。解説を読むと、僧侶になるための最後の審査をこの絵では無人の場所に座らされて問答により決められるとのこと。人の不在によって、そこに存在したはずの人の存在感を高めるという大胆な試みが大きく成功しているのであろう。背景に描かれた金剛力士像と月光菩薩像が極めて印象的である。

   

横浜ではすでに雨

2016年01月18日 10時43分46秒 | 天気と自然災害
      

 横浜に出ていた「大雪・風説」注意報は解除され、午前9過ぎには強風注意報に代わっている。雪はかなり前から雨に変わり、少しずつ弱まっているが、冷たい風は逆に強くなっている。この雨と風では雪掻きには人は出てこれそうもない。
 私は残念ながら風邪の後遺症で本日は雪掻きは遠慮させてもらうしかない。風が無ければ多少の雨は雪掻きの効果があるのでいいころ合いなのだが、横殴りの風ではつらすぎる。
 雨で雪が流れるところも多いが、階段や水はけの悪い箇所は放置するとみぞれ状態で歩けなくなっている。雨とはいえ雪掻きが必要なところはいくらでもある。

 一昨年ほどの大雪にならずに済んでホッとしている。先ほどから遠くで救急車が絶え間なく走っている。けが人が多いのであろうか。ニュースを聞いていても革靴で出歩いている人や自転車に乗っている人が多いらしい。滑りながら歩いたり、傘を差してハンドルを取られながら漕いでいる人が映し出されるが、私にはどうしても理解できない人々である。

 本日の胃癌検診は延期を申し出た。ただし午後からはこの間の大腸内視鏡検査の結果の説明が行われる。これは行く必要があるが、午後にはバスの運行も回復していそうなので、病院に行くには問題はなさそうである。

横浜でも雪が積り始めた

2016年01月18日 02時04分55秒 | 天気と自然災害


先ほど布団に入る前にふと外を確かめたら積もり始めていた。
強めの雨の音が弱くなっていたのは、小降りになったからではなく、雪に変わっていたためであった。
気温はかなり低くなっているようだが、どのくらいかは不明。この分では朝にはだいぶ積もっていそうである。