昨年11月に「横浜発おもしろい画家 中島清之-日本画の迷宮」展について簡単に記した。その後も幾度か見に行った。
私は中島清之(1899-1989)という画家についてはまったく知らなかった。最初に見た時の印象は、
1.作風がいろいろと変遷していてどれが本当に描きたかったが、どの画風で、どの対象を描きたかったのか、
2.人の顔に大いに違和感があり、どうしてこのような顔になるのか、
3.遠近法などをわざとずらした表現が見られるが、どのような効果を狙ったのか、
等が頭の中で駈け巡りまとまった感想がうまくできていない。
しかし実は私自身も他の方からみれば趣味や興味の範囲はあちこちに飛んでいるように見えると思う。本人の頭の中ではそれなりに統一はとれているのだが、本人自身もそれを統一的に説明できる言葉にはなかなかならない。
中島清之という画家は、かなり器用でさまざまなことを吸収しようと努力したのであろうと思うが、それが何に向かっていたのか、ということは結局わからない。
デッサン力がすごく、筆も早かったということは、解説の学芸員から教わった。
初期の作品で最初に私の目に留まった作品が「保土ヶ谷風景」(1924)。この作品は9月の院展出品予定であったものの急きょ取りやめとなって他の作品で院展初入選となったとのこと。問題はどこにあるのか理解はできないが、鬱蒼としたむせかえるような緑の氾濫は、南国的な雰囲気もあり、樹木の葉の描きようがもう少し変わればルソーのような作品にも見えてしまう不思議な雰囲気である。写実と細密の先に何処からか現実から遠いところにたどり着いて幻想の世界に入り込んでしまう回路があると私は感じた。
「庫裏」(1930)松島の瑞巌寺の庫裏を描いた初期の作品である。解説では「垂直・水平の線を軸にした力強い造形感覚」と記されているが、この縦横の太い線があえて遠近法を無視して描かれていることがポイントだと思う。やまと絵の技法でもなく、西洋風の遠近方でもない不安定な構成が醸し出す印象としかいいようのない不思議な感覚に惹かれた。
空間だけでなく時間までが捻じ曲げられて、過去が現在に不意に呼び込まれることあるのだろうか。そんな幻想性を求めたのだろうか。
この手の作品として二曲一双の屏風「茶室」(1949)があるような気がする。不思議な屏風で左右で縦・横の比率が逆である。まずこれが常識をはぐらかしている。そしてここでも遠近法が無視され、畳の形や壁の形が歪になっている。ただし庭の見える右双の画面右側の床の間、右端の畳は極度に変形しているが、これはもともとこのような変形の畳や床の間だったのが、画面の構成上ここまで変形させてしまったのかは、学芸員の方に聴いたがわからなかった。しかしいづれにしろ遠近法を敢えて無視していることは間違いはない。私はゴッホの「アルルの寝室」の連作を思い出した。さまざまな技法を貪欲に取り入れているように見える。右双の庭の赤い黄葉をはじめ豊かな色彩が印象的であると同時に、障子を締め切った左双の色彩を抑えた表現が目を楽しませてくれる。
「花に寄る猫」(1934)は、大佛次郎の買っていた猫を描いた作品とのこと。このようなリズムをもった繰り返しの様式美がわたしは中島清之という画家の真骨頂だと思う。最晩年の輪春閣の襖絵に通じる、そして琳派様の作風が私には成功した作品に思える。
「和春」(1947)は戦後すぐの作品である。牧谿や長谷川等伯の猿猴図が頭にあったのは間違いなさそうであるが、中島清之という画家は、状況も場所も大きな変換をかならずしてみせる。この猿の家族も野生の生息地から動物園に場所を移し、金網と人工の遊び道具とに囲まれている。しかし「家族」に変わりはない。「猿」と「家族」に戦争を潜り抜けた中島清之のどのような姿勢・思想が反映されているのかは分からないが、やせ細った体躯と、戦後の飢えの時代の厳しさが「檻」という状況下、意味するところはなかなか辛辣かもしれない。
この猿のしなやかな動きと毛並みの生き生きとした美しさ、金属製の金網と吊り輪の硬質な表現には大いに圧倒された。
「方広会の夜」(1950)はドキッとするような小迫力を感じた。解説を読むと、僧侶になるための最後の審査をこの絵では無人の場所に座らされて問答により決められるとのこと。人の不在によって、そこに存在したはずの人の存在感を高めるという大胆な試みが大きく成功しているのであろう。背景に描かれた金剛力士像と月光菩薩像が極めて印象的である。