Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

建礼門院右京大夫集から

2014年08月15日 22時06分38秒 | 読書
ツィッターを眺めていたらふとこのようなものに出会った。「建礼門院右京大夫@ukyo_dive」と「建礼門院右京大夫 千人万首www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/」より引用させてもらった。

(詞書)十二月一日ごろなりしやらむ、夜に入りて、雨とも雪ともなくうち散りて、村雲騒がしく、ひとへに曇りはてぬものから、むらむら星うち消えしたり。引き被き臥したる衣(きぬ)を、更けぬるほど、丑二つばかりにやと思ふほどに、引き退(の)けて、空を見上げたれば、ことに晴れて、浅葱色なるに、光ことごとしき星の大きなるが、むらもなく出でたる、なのめならずおもしろくて、花の紙に、箔をうち散らしたるによう似たり。今宵初めて見そめたる心地す。先々も星月夜見なれたることなれど、これは折からにや、ことなる心地するにつけても、ただ物のみ覚ゆ
(歌)月をこそながめなれしか星の夜の深きあはれを今宵知りぬる

 高倉天皇の中宮となった平徳子(清盛の娘。のちの建礼門院)に仕え、平資盛(重盛の子)と恋仲になったことは有名。一説には俊成の娘ともいわれ、定家の義理の姉ということになる。定家の新勅撰和歌集撰にあたり資料として歌集を求められ提出したのがこの建礼門院右京大夫集と言われている。

 新村出は次のように讃えている。
 「繰返へしていふ、旧日本の文学に於て建礼門院右京大夫は星夜の賛美の一節に於て無比の光彩を放ち、私たちは永久この女性歌人のスターを忘れてはならぬと云ふことを。」(新村出「星夜賛美の女性歌人」/『南蛮更紗』)

 新村出の云う通り、月と七夕の星以外で、星が登場するのに私はお目にかかったことがないし、「浅葱色なるに、光ことごとしき星の大きなるが、むらもなく出でたる、なのめならずおもしろくて、花の紙に、箔をうち散らしたるによう似たり。」(薄藍色の夜空に、異様なほどの光を放つ大きい星々が、いちめんに現れていた。非常に心惹かれるさまで、縹(はなだ)色の紙に、金などの箔を散らしたのによく似ている)というような表現は珍しいのではないか。


 本日は強風注意報が出ており、わが団地でも風が唸り声を上げて吹いている。かなり強い。夜にウォーキングと思っていたが、これでは危険なので中止せざるを得なくなった。


 さて昨日の「1972年の女子大生」の話の続きであるが、今22時からのNHKテレビをちらっとみたら「100人の若者の内52人が本日の「終戦」記念日を知らない」とのこと。しかも「どこと戦ったか?」の質問に「中国?韓国?アメリカ?」との反応。これはもう私はそれこそ「無条件降伏」するしかない状況である。そのままテレビの前を逃げてきた。


井出洋一郎『「農民画家」ミレーの真実』読了

2014年08月15日 20時29分26秒 | 読書


 フランスでは受け入れられず、アメリカで大きく取り上げられたミレー。日本では明治期より絵もさることながら「偉人」としてあがめ・崇拝すらされてきたミレー。このミレーについて解き明かそうとした本である。
 ミレーは農民出身であったが生涯農業に従事したことはなく、実家には不義理を重ねていたそうである。
 「ミレーは確かに新古典主義から出発したが、たちまちそこから外れて、ロココ・リバイバルのふんわりソフトな18世紀様式に戻り、それから写実主義の《種をまく人》でコテコテの厚塗りを極めて、パステルのサラッとしたグラデーション表現に行き、最後は印象主義に通じる風景画の光の分析の際で倒れている。つまり、常に研究熱心で、絵画の新傾向にすこぶる敏感であり、年寄り臭い頑固一徹のイメージとは全く違う。注文も以外に柔軟に受け、顧客の反応や場の空気も読み、バルビゾンにあってもバリの美術界の情報収集は友人たちに依頼して実に素早い。画料が上がって余裕ができれば、その分をさっそくほかの絵画や美術写真、そして浮世絵の収集などの自己投資にかけている。ミレーの生きた19世紀は「写真の世紀」である。‥写真好きのミレーはカメラも実際に扱ったかもしれない。今なら確実に私と同じデジタル親爺である。」としている。
 これからはけっして敬虔な信仰だけの、清貧に甘んじた求道者的なミレーの姿は想像できない。
 アメリカの敬虔な新教徒の集団にカトリックのミレーが受け入れられたのには、ミレー伝承ともいうべき誤解に基づく逸話が流布したことにあるようだ。これには生前ミレーと親しくしたていた画商で伝記作家のサンスィエの功罪であるらしい。
 また日本でもミレーが受け入れられるにあたっては白樺派の誤解に基づく崇拝ともいえるミレー信仰があったことも言及してある。
 なかなか刺激的なミレー像を教えてもらったと思う。

 ミレーのあの有名な《晩鐘》は、ミレーの祖母の教えを絵画化したものということである。私たちがあの絵に感動するのは、あの祈りの姿がキリスト教的な信仰に固有なものではなく、生産と労働に対する普遍的で敬虔な自然に対する「祈り」に通じるからであると思う。だからカトリックのミレーの絵が新教徒のアメリカの人々にも歓迎されたといえる。また世界的な普遍性を読み取って世界的に受け入れられているといえる。

 《種まく人》の山梨県立美術館収蔵のものと、ボストン美術館収蔵のものとの比較等もとても面白く読んだ。
 今後の研究の課題などもなるほどと思えた。

 今年はミレー生誕200年、東京でも展覧会が予定されている。是非見に行きたいと思っている。


フォーレ&デュリュフレ「レクイエム」

2014年08月15日 12時18分40秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 8月15日、1963年日本政府が「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と閣議決定し、全国戦没者追悼式を主催する日となった。一般に終戦記念日や終戦の日とされる。しかし法律上の記念日ではない。

 いつ戦争が終わった日なのかということになるが、
・8月14日は、日本政府がポツダム宣言の受諾を連合国各国に通告した日。
・8月15日は、ラジオ放送により天皇による終戦の詔書読上げで日本の降伏が国民に公表された日。
・9月2日は、日本政府がポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書に調印した日。アメリカのトルーマン大統領をはじめ各国首脳もポツダム宣言に調印した日となっている。

 降伏文書は正式には9月2日に関係国でそれぞれに調印されているから、この日までは国際法上は戦闘状態ということにはなる。日本が一方的に両手を上げて「無条件降伏します」と意思表明をした14日ないし15日をもって日本側は「終戦」となり、全面降伏-敗戦処理のための手続きに入ったという理解が正しいと思っている。
 連合国軍の占領下にあった1952年4月27日までの新聞紙上では、9月2日を降伏の日や降伏記念日あるいは敗戦記念日と呼んでいたという。

 政府の決定もその国際法上や文書上の取り扱いを不明確なまま、大日本帝国憲法下の元首である天皇の宣言をもって終戦とすることを前提としている。現憲法下の政府決定が前憲法の取り扱いを前提とするのは、少々理解に苦しむところではある。ただ閣議決定をした1963年当時に、8月15日という「玉音放送」が戦争が終わった日、降伏した日というのはかなり一般化していた認識であったといっていいのかどうか、今の私にはわからない。私はすでに小学校の6年生であったが、これについての議論はまったく記憶にない。

 あまり法律的に詮索するのは私の好みではないし、お盆のこの時期に戦争を考え、平和を祈念し、慰霊するきっかけにすることには今のところ特に異存はない。

 しかし政府の「追悼式典」を見る気にはならない。特に天皇を帝国憲法下のように押し戴くような振舞いを、国民に見せつけることに腐心する現総理大臣を見るのはとても嫌である。時代錯誤も甚だしい。私からは「見解の相違」といて蹴飛ばすつもりはないので、いつでも議論はしてみたいとは考えている。時間がもったいないとは思うが、さいわいにも私などのような者には興味はないようだし、はなから眼中にはないであろう。



 例年この8月6日から15日にかけては例年一度は手持ちのCDのレクイエム(死者のためのミサ曲)をかけて静かにする時間をもつことにしている。
 今年はフォーレ(1845-1924)とデュリュフレ(1902-1986)のレクイエムを聴いた。この2曲同じCDに収録されている。2曲ともとても静かなレクイエムである。ベルディなどの激しい劇的なレクイエムとはまったく異質である。私はこちらの2曲の方が気に入っている。特にデュリュフレのレクイエムはいつ始まったのか、9つの曲の切れ目が何処にあるのかわからないうちに終わってしまうこともある。
 特質すべき点は2曲ともレクイエムに特有の「怒りの日」という曲がない。キリスト教特有の終末観に基づく「神の審判」は、個人の葬儀からはずそうという両作曲家の思いが反映している。
 フォーレのレクイエムの特徴はなんといっても第3曲「サンクトゥス(神への感謝)」のバイオリン独奏である。混成合唱の背後に微かに響くバイオリンの音は、死者の追悼にふさわしいものがある。このソロバイオリンの余韻が第4曲の「(死者に)安息を与えたまえ」という美しいソプラノ独唱につづく。この処理にはうっとりする。

 フォーレは1990年の頃にピアノ曲が気に入って随分聴いたことがある。その時にたまたま購入したのがこのレクイエムであった。フォーレの曲はピアノ曲全曲とこのレクイエム、そしてバイオリンソナタ2曲を揃えた。
 フォーレという作曲家は40年も教会のオルガにスト、楽長を続けたが、信者ではなかった、ということがこの解説に記載されている。こんなことも私のお気に入りの理由でもある。(他の情報ではフォーレは女性関係にかなり大胆・奔走であったようで、カトリックの教義に収まらない人であったようだ。このことが事実なら曲のイメージとずいぶん違いがあるようだ。)

 (なお、CDの表紙の横に日本語表記で演奏時間をしるした表があり、デュリュフレのレクイエムの「4.サンクトゥス」にバイオリン・ソロの表示があるが、これは明らかに校正ミスである。この表記はフォーレのレクイエムの「3.サンクトゥス」のところに表記されるべき文言である。英文の原文は正しい位置に記載されているる。)

            

 誤解のないように付け加えさせてほしいのは、毎年レクイエムを聞くといっても私はクリスチャンでもないしキリスト者でもない。信仰ということからはまったくフリーな人間である。神仏を信ずる、礼拝するということがどうしてもできない。ただし、原始から人間が抱いてきた生産に従事するうえで、あるいは生活するうえで抱いていた自然に対する畏敬の念から発する「祈り」について否定する気はない。そのような信仰そのものに畏敬の念を常に持っている。また人の信仰する一般的な寺社・教会等についても「信仰」を集めていることに対する尊敬と礼儀は弁えているつもりではある。