快楽主義者の窓

-la janela do epicurismo-

償い

2009年03月13日 21時19分21秒 | diary
旅行をしてきた。「友人と」という修飾語がつかないのは、一緒に行ったうちのほとんどは友人と言うには微妙な関係の人々だから。「友人」を経ずして奇妙なつながりを持った類のものだからだ。




家に帰って、旅行の間に録画していた番組を見た。NHKのドキュメンタリー。経済危機の中で国家との結びつきを強めるロシア正教と人々の話。

アル中になり家族を崩壊させた男が映っていた。刑務所でロシア正教に出会い、一度離れた家族とともに家族を再生させようとしていた。男はキッチンに設けられた祭壇に向かって毎日必死で祈りつづけているのだが、妻や娘とはいっこうにうまくいかない。年ごとに信仰は深まり、祭壇には数え切れないほどのイコンや燭台が並ぶようになった。その数と毎日朝晩の祈りは男にとって家族への償いの一部となっているのだが、肝心の関係はどこかおざなりにされているようだった。山本直樹の「ありがとう」も、長く家族と離れた男の似たような必死さを描いていたように思う。殊に関係を修復するという事において、どうしていつも男というのは不器用なのだ。




いったいどの時点で償いは終了するのか分からない。償いきれずに終了した場合も、また途方に暮れる。償い欲。それはもはや、助けてほしい、とか、構ってほしい、とか、そういう気持ちに似ている。




いまもこれからもきっと男は途方に暮れ続けるだろう。毎日祭壇の前に立っては、すがるように聖書を読み上げる。いっこうに「分からない」という気持ちを持ったまま、その償いが完了した日々を夢見るのだ。

しかし償いという言葉を見ると心が痛くなる。私もたまに、途方に暮れるので、こういう男は割と好きだ。


一期一会

2009年02月28日 01時52分13秒 | diary
「もしかしたら、もう二度とこの人と会うことはないのかもしれない」


そう思うと、元気が出てくる。


好きな相手でも、嫌いな相手でも。

discipline no.1

2009年02月27日 02時52分46秒 | diary
どんなに幸せそうに見える人でも、

本人は地獄の苦しみを味わっていることだってある。

「幸せ」だなんて主観的なものは捨てて、

「快楽」という客観的な喜びを追求しましょう。


焦点

2009年02月22日 23時27分32秒 | diary
あまり使わない部分の頭をしごき使う毎日。


使用中は温度が上がっている、というか、何かがそこで活動しているのが分かる。


感覚を研ぎすまし、イメージをふくらませて、文章にする。


とても疲れるが、大事なトレーニング。

凝固

2009年02月21日 00時01分28秒 | diary
とある先生とのお食事会に行った。

銀座、会員制、初めて味わう料理とお酒。



今年で定年なのだが、頭はずいぶん若かった。

こり固まっていないところがすごい。



話をすることが出来るのは勿論、

人の話をちゃんと聞くことが出来る。



ちゃんと若い人たちの話を聞けるから、いつまで経っても若いのかな。

私ら学生は、tPA(血栓溶解剤)みたいな存在だと思われているのかもしれない。