乗合馬車はどうか。
浅草の雷門から新橋まで、二階づきの乗合馬車が通っていたという記録を、孤蝶は目にしたことがあるようですが、孤蝶が父母とともに東京に出てきた頃には、そのような馬車はもう通ってはいなかったらしい。のみならず、大通りを二階なしの乗合馬車が通っていたことさえ、孤蝶は目撃したことはありませんでした。
御成道(おなりみち)の、万世橋外から上野広小路にかけての道は、かつてはごくごく狭い道で、人力車が2台横に並ぶともう一杯になってしまうような細い路幅であり、乗合馬車が通れるような道ではとうていありえませんでした。
筋違(すじかい)から神田明神→本郷通り→追分→白山前→板橋へと通う乗合馬車については、孤蝶は目撃しています。本郷通り→追分の区間は、本郷三丁目の「兼安(かねやす)」や東大の「赤門」前を通るものであり、つまりは「中山道」の一部。中山道を、当時の万世橋から板橋までを結ぶ乗合馬車が走っていたということです。
その乗合馬車は、孤蝶によれば、次のようなものでした。
「随分車体は汚ならしく、馬は痩せていて、一寸(ちょっと)危険を感ぜられるくらいに見えて、馬が暴れ出して、加賀邸前の薪屋の外の高く積んだ薪へ突き当って、薪(たきぎ)の山が崩れたのを見たこともあるし、また病馬であったがためか、路上で倒れて起き上らずに、人々がその始末に大騒ぎしておるのを見たことがある。」
「馭者(ぎょしゃ)の外に別当(馬丁)が附いているように思う。その別当が、近頃まで豆腐屋の用いていたと同じ形の喇叭(らっぱ)を吹いて、通行の人々に注意を与えるのであった。…橘屋円太郎という落語家(はなしか)があって、高座で喇叭を吹いて、その別当の真似をしたので、そういう早い時代の乗合馬車をば円太郎馬車と呼ぶようになったのだ。」
そのような円太郎馬車は、花川戸あたりから宇都宮へ通うものがあり、また明治29年頃に、赤塗の車体で、馭者台がほとんど車の屋根ぐらいの高さのところにある乗合馬車が、九段下から両国あたりまで通っていたことがあるという。
この本郷通りを走った円太郎馬車については、「近世風俗雑談」という随筆にも記述がある。
「ガタ馬車はいわゆる円太郎馬車であった。極めて粗造な木造の車体へ真黒に汚れた母衣(ほろ)をかけたもので、馬は二頭であったかと思う。馬丁(べっとう)が短い角形の喇叭を吹いて行人を警戒するのであった。」
本郷通りで病馬が倒れて大騒ぎになったのは、夏のことであったらしい。また馬が暴走して薪屋の前に積んであった薪の山へ突っ込み、馬が崩れ落ちた薪の下に埋もれたようになったのを孤蝶が目撃したのは、本郷四丁目のあたりであったらしい。
本郷通りを行きかった円太郎馬車(ガタ馬車)は、筋違(すじかい)と板橋とを結ぶもの。それ以外に、浅草〜千住、両国〜市川、新橋〜品川という三系統があったようだと孤蝶は記しています。
円太郎馬車については、「昔の寄席」という随筆にも出てきます。
「眼鏡から板橋へ通う馬車などは実に危険だと思われる程構造の不完全な、そして幌などの殆ど襤褸(ぼろ)のように見える。今日では殆ど想像のできぬようなものであったが、そういう馬車は円太郎馬車と呼ばれていた。」
文中に見える「眼鏡」とは、眼鏡橋のことで、これはかつての石造りの万世橋。
以上のような、本郷通りを走っていた乗合馬車の目撃者である孤蝶の記述から、円太郎馬車(ガタ馬車)の大体のようすがわかってきます。
それは、危険だと思われるほどの不完全な木造の乗合馬車で、黒く汚れきった幌をかけている。馬2頭により曳かれて、馭者台に立つ馭者以外に、豆腐屋のラッパ(短い角形)のようなものを吹いて歩行者に警告を与える馬丁が一名いる。この馬車は、万世橋(眼鏡橋)から中山道第一宿であった板橋までを結んでいたもので、一般庶民が乗っていた乗り物であったようだ。
孤蝶は次のように言う。
「円太郎馬車にしろ、鉄道馬車にしろ、いずれも民衆的乗物であって、中等級の乗物は人力車であり、高級乗物としては、雇馬車があった。」
その貸馬車というものに、孤蝶は一度しか乗ったことがない。
その一度とは、兄である馬場辰猪がアメリカのフィラデルフィアで客死して、その葬式を辰猪の遺髪でやった時。遺髪を骨壷に入れ、外箱に入れたその遺髪を孤蝶が抱えて、谷中の墓地へ向かった時のこと。親戚の豊川良平が、「馬場はもう少し生きておれば、無論自家用の馬車に乗れる男だ。どうだ、せめて遺髪でも馬車に乗せて、墓地へ送ろうじゃないか」と提案し、それにしたがって、孤蝶は兄の遺髪の入っている骨壷の入った箱を抱えて、谷中の天王寺墓地まで向かったのだという。しかし貸馬車とはいっても、「大分汚れた車であった」ようだ。「その当時では、そんな古ぼけた馬車でも、少くとも十円ぐらいは取られたのではなかろうか」と孤蝶は付け加えています。
続く
○参考文献
・『明治の東京』馬場孤蝶(現代教養文庫/社会思想社)
浅草の雷門から新橋まで、二階づきの乗合馬車が通っていたという記録を、孤蝶は目にしたことがあるようですが、孤蝶が父母とともに東京に出てきた頃には、そのような馬車はもう通ってはいなかったらしい。のみならず、大通りを二階なしの乗合馬車が通っていたことさえ、孤蝶は目撃したことはありませんでした。
御成道(おなりみち)の、万世橋外から上野広小路にかけての道は、かつてはごくごく狭い道で、人力車が2台横に並ぶともう一杯になってしまうような細い路幅であり、乗合馬車が通れるような道ではとうていありえませんでした。
筋違(すじかい)から神田明神→本郷通り→追分→白山前→板橋へと通う乗合馬車については、孤蝶は目撃しています。本郷通り→追分の区間は、本郷三丁目の「兼安(かねやす)」や東大の「赤門」前を通るものであり、つまりは「中山道」の一部。中山道を、当時の万世橋から板橋までを結ぶ乗合馬車が走っていたということです。
その乗合馬車は、孤蝶によれば、次のようなものでした。
「随分車体は汚ならしく、馬は痩せていて、一寸(ちょっと)危険を感ぜられるくらいに見えて、馬が暴れ出して、加賀邸前の薪屋の外の高く積んだ薪へ突き当って、薪(たきぎ)の山が崩れたのを見たこともあるし、また病馬であったがためか、路上で倒れて起き上らずに、人々がその始末に大騒ぎしておるのを見たことがある。」
「馭者(ぎょしゃ)の外に別当(馬丁)が附いているように思う。その別当が、近頃まで豆腐屋の用いていたと同じ形の喇叭(らっぱ)を吹いて、通行の人々に注意を与えるのであった。…橘屋円太郎という落語家(はなしか)があって、高座で喇叭を吹いて、その別当の真似をしたので、そういう早い時代の乗合馬車をば円太郎馬車と呼ぶようになったのだ。」
そのような円太郎馬車は、花川戸あたりから宇都宮へ通うものがあり、また明治29年頃に、赤塗の車体で、馭者台がほとんど車の屋根ぐらいの高さのところにある乗合馬車が、九段下から両国あたりまで通っていたことがあるという。
この本郷通りを走った円太郎馬車については、「近世風俗雑談」という随筆にも記述がある。
「ガタ馬車はいわゆる円太郎馬車であった。極めて粗造な木造の車体へ真黒に汚れた母衣(ほろ)をかけたもので、馬は二頭であったかと思う。馬丁(べっとう)が短い角形の喇叭を吹いて行人を警戒するのであった。」
本郷通りで病馬が倒れて大騒ぎになったのは、夏のことであったらしい。また馬が暴走して薪屋の前に積んであった薪の山へ突っ込み、馬が崩れ落ちた薪の下に埋もれたようになったのを孤蝶が目撃したのは、本郷四丁目のあたりであったらしい。
本郷通りを行きかった円太郎馬車(ガタ馬車)は、筋違(すじかい)と板橋とを結ぶもの。それ以外に、浅草〜千住、両国〜市川、新橋〜品川という三系統があったようだと孤蝶は記しています。
円太郎馬車については、「昔の寄席」という随筆にも出てきます。
「眼鏡から板橋へ通う馬車などは実に危険だと思われる程構造の不完全な、そして幌などの殆ど襤褸(ぼろ)のように見える。今日では殆ど想像のできぬようなものであったが、そういう馬車は円太郎馬車と呼ばれていた。」
文中に見える「眼鏡」とは、眼鏡橋のことで、これはかつての石造りの万世橋。
以上のような、本郷通りを走っていた乗合馬車の目撃者である孤蝶の記述から、円太郎馬車(ガタ馬車)の大体のようすがわかってきます。
それは、危険だと思われるほどの不完全な木造の乗合馬車で、黒く汚れきった幌をかけている。馬2頭により曳かれて、馭者台に立つ馭者以外に、豆腐屋のラッパ(短い角形)のようなものを吹いて歩行者に警告を与える馬丁が一名いる。この馬車は、万世橋(眼鏡橋)から中山道第一宿であった板橋までを結んでいたもので、一般庶民が乗っていた乗り物であったようだ。
孤蝶は次のように言う。
「円太郎馬車にしろ、鉄道馬車にしろ、いずれも民衆的乗物であって、中等級の乗物は人力車であり、高級乗物としては、雇馬車があった。」
その貸馬車というものに、孤蝶は一度しか乗ったことがない。
その一度とは、兄である馬場辰猪がアメリカのフィラデルフィアで客死して、その葬式を辰猪の遺髪でやった時。遺髪を骨壷に入れ、外箱に入れたその遺髪を孤蝶が抱えて、谷中の墓地へ向かった時のこと。親戚の豊川良平が、「馬場はもう少し生きておれば、無論自家用の馬車に乗れる男だ。どうだ、せめて遺髪でも馬車に乗せて、墓地へ送ろうじゃないか」と提案し、それにしたがって、孤蝶は兄の遺髪の入っている骨壷の入った箱を抱えて、谷中の天王寺墓地まで向かったのだという。しかし貸馬車とはいっても、「大分汚れた車であった」ようだ。「その当時では、そんな古ぼけた馬車でも、少くとも十円ぐらいは取られたのではなかろうか」と孤蝶は付け加えています。
続く
○参考文献
・『明治の東京』馬場孤蝶(現代教養文庫/社会思想社)









