鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

東日本大震災発生から一ヶ月に寄せて その4

2011-04-14 05:55:55 | Weblog
 しかし考えてみると、人の住まい、特に日本列島に住んだ人々にとって、茅葺き屋根の住まいというものは、縄文時代や弥生時代の住居に見られるように、きわめて一般的なものでした。縄文時代以前においても、移動式の住まいの屋根の多くは、茅葺きではなかったか。

 それが綿々と続いて、戦後しばらくまでは日本列島の各地にはいたるところに茅葺き民家が存在していました。各地域の古写真を見ると、そのことがよくわかる。あのフェリーチェ・ベアトが幕末に写した写真を見ても、東海道筋も、鎌倉も、箱根も、宮ケ瀬も、原町田も、鑓水(やりみず)も、ほとんどの民家は茅葺き民家です。

 たとえばダム湖に沈んだ宮ケ瀬は、丹沢の高畑山に茅場(かやば)があり、ある家の屋根の葺き替えとなれば、村の多数の老若男女が茅を採るために高畑山の茅場へと山道を登り、いっぱいの茅を背中に担いで山道を下り、集めた茅で共同で屋根葺きをしました。その共同の屋根葺きは、戦後しばらくまで行われ続けたものですが、その民家も、宮ケ瀬ダムの建設工事によって撤去され、そしてその跡地は現在ダム湖の下に沈んでいます。

 その宮ケ瀬は、幕末の横浜居留地に住む外国人にとって、魅力的な避暑地(魚釣りや水泳など)の一つであり、「唐人河原」という地名が生まれるほど、多くの外国人が横浜からやって来ました。カメラマンであるフェリーチェ・ベアトもその一人であり、彼によって幕末の宮ケ瀬の風景が銀板写真によって撮影されています。そこに写る民家は、もちろん茅葺き民家です。

 縄文時代以来、日本列島に住む人々の住まいの屋根の圧倒的多数が茅葺きであり、それが江戸時代や明治時代、そして大正、昭和の戦前期、さらに戦後しばらくもそうであったのが、いわゆる昭和30年代からの高度経済成長期から、急速な勢いで、地域の景観からその姿を消していくことを考えると、まさに戦後の高度経済成長期は、日本の歴史の大きな変わり目であったと思わざるをえない。「景観」上から考えると、1945年8月の終戦が時代の転換点ではなく、高度経済成長期こそが、日本の歴史の大きな転換点となるものではなかったかということであり、茅葺き民家の消滅は、そのことを象徴的に表わしているように私には思われます。

 では、その高度経済成長を促し、茅葺き民家の消滅を促したものは何かと言えば、それは「電気」であり「電化」ではなかったか、と私には思われるのです。住まいの電化の進展は、茅葺き民家の構造を不便なものとし、また火災面において危険なもの(漏電などのため)としたのです。もちろん電気だけではなく、下水道設備やガス管、暖房などの面においても、不便で危険なものになったでしょう。

 私が幼少の時、といえば昭和30年代半ば前後のことですが、家の明かりは傘のある裸電球であり、電化製品と言えばタンスの上に置いてあった東芝の真空管ラジオばかりでした。しかしそれから50年経った現在の住まいを見まわす時、何と多くの電化製品に取り囲まれていることか。電気炊飯器、電気冷蔵庫、電気こたつ、電気マット、液晶テレビ、扇風機、エアコン、電気マット、電気洗濯機、ドライヤー、パソコン、蛍光灯、換気扇、エコキュート……。

 私は1981年に就職しましたが、職場で使う仕事道具をとってみても、この30年間でめまぐるしく変化していきました。ガリ切りでの印刷であったのが、ワープロが登場し、そしてパソコンとプリンターによる印刷となりました。パソコンとインターネットによるサーバーなしには、仕事は円滑には出来なくなり、職場の人間はパソコンに向かって仕事をする時間が増えました。パソコン1人1台はあたり前のことになりました。

 しかし、パソコンが導入されたことによって、仕事は迅速化され、組織化され、合理化され、余裕が生まれるだろうと思っていたところが、実はそうではなく、事務的な仕事量は増え、印刷に使用する紙はなぜか増え、そして現場はさらに忙しくなり、余裕を失っていきました。

 これは、新幹線の登場や旅客用大型飛行機の登場などにも言えることかも知れない。輸送のスピードアップによって、仕事に余裕が生まれるようになったかというと、実はそうではなく、かつては出張先で一泊をし、ゆっくりとその土地を楽しむ時間を持てていたのが、スピードアップによって日帰りが可能となり、むしろ忙しくなったのです。

 新しく登場した電化製品を大事に長く使おうと思っても、矢継ぎ早に新しい機能を持った新しい製品が現れ、今まで使っていたものに固執していると、時代の動きに取り残されていくという事態も生じてきました。パソコンや携帯がなければ、「就活」もできない、あるいは非常に不利となる状況にさえ立ち至っています。刻々と情報を手に入れて動かなければ、不利になるといった状況が「就活」においても生まれている現状。

 「電化」により、いよいよ合理化され、機能化され、便利になり、「安全」になっていく社会が、ほんとうに人々に余裕や心の豊かさを生み出しているのかと言えば、実は、どうもそうではない、ということに私たちは気づきつつあるのではないか。

 地域で出会ったお年寄りと話を交わす時、確かに生活は便利になり楽になったが、しかしむかしの方がよかったな、と昔を懐かしむ人々が多いのはどうしてだろうか。幼少時から過ごしている地域の景観からは、茅葺き民家は消滅し、田んぼや畑は消滅し、神社や寺のお祭りの賑わいは消滅し、子どもたちが通りで群れ遊ぶ歓声は消滅し、寺や墓地のお墓は詣でる人々が少なくなり朽ち果てていく。

 茅葺き民家が消滅していのくは、時代の趨勢であり、これは仕方のないことです。しかし、それら縄文時代から続いてきた住まいのあり方を不便なものとして急速に消滅に追いやった生活スタイルの変化は、必ずしも人々に生活の「豊かさ」を生み出すものではなかったということを、真剣に考えるべきではないか。

 「オール電化」が、いかに快適・安全であっても、それは今回の大津波による福島第一原発の事故による「計画停電」の際に見たように、きわめて脆いものであったのです。高層ビルや高層マンションの最新の生活空間(オール電化)がそうであり、10円玉を立てて高速に上下してもその十円玉が倒れないという高性能のそのエレベーターが、いったん停電になってしまえばうんともすんとも動かなくなってしまうのです。人々は高層ビルや高層マンションの階段を歩いて上り下りするしかありません。


 続く

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