鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

馬場孤蝶の『明治の東京』に見る明治東京の景観 その最終回

2010-07-04 08:23:39 | Weblog
 孤蝶が寄席で女義太夫を聴いたのはいつごろからのことだろう。

 「文化の変遷と寄席の今昔」の中で、孤蝶は次のように記しています。

 「明治十四年頃に、伊東燕尾(えんび)が女房の此勝(ししょう)という女義太夫と一緒に寄席へ出たことがあるのだが、その時には此勝の弟子の若い女が二人程口語りをやったように思われる。」

 この口振りからすれば、孤蝶はこの二人の若い女の義太夫節を実際に聴いたことがあるようだ。

 だから、

 「明治十四年頃から既に女義太夫の一座が出来ていたことだけは確である。」

 と、孤蝶は断言する。

 しかし女義太夫がかなり有力なものになりだしたのは、先代の東玉(とうぎょく)が東京の寄席に現れ出してからのことで、特に全盛期に入ったのは、明治22年(1889年)頃、竹本綾之助の出現とともにそうなったと、孤蝶は言う。

 孤蝶が寄席で見たのは、この竹本綾之助や小政(こせい)、豊竹三福(さんぷく)、小清(こせい)、小土佐など。

 竹本綾之助の人気はすばらしいものであったようだ。「若竹」のような大きい寄席がほとんど満員になるほどであり、午後8時頃に行こうものなら、ごく後ろの帳場との境のハメにくっついて聴くよりほかに仕方がないほどだったという。

 「どうする連」というのが出来たのは、孤蝶の記憶では明治24、5年頃。「当時の若い者が、女義太夫に寄席へ蝟集したのは、唯女を見るためばかりではなかったと思われるのである。やはり芸術に対する欲求にも基(もとづ)いていたのだろう」と孤蝶は回想する。

 この「どうする連」というのは、女義太夫(「娘義太夫」とも)ファンの学生親衛隊のこと。「ドースルドースル」と叫んだことからその名が付いたという。

 彼らは、早く始めろとばかりにワイワイとわめき、始まれば「バタバタと拍手」し、「イヨー待ってました」と声をかける。さわりになると「ヨウヨウ、ドースルドースル、トルルー」などと絶叫し、手拍子をとって褒めたり冷やかしたりするばかりか、グループ同士の衝突が絶えない粗暴な連中が多かったとのこと。

 最初の頃は「追っかけ連」ともいったらしい。

 樋口一葉も妹くにとともに、女義太夫を聴きに寄席へ出かけている。時は明治28年(1895年)5月14日の夜のこと。寄席は本郷にあった「若竹」。くにがしきりに一葉に催促する。

 「若竹にかかっている越子(こしこ)一座は、明日の夜に終わってよそに行ってしまうというわ。ぜひ聴きに行きたいものだわ」

 二人で出掛けて聴いたのは、越子の「三かつ酒や」と越六の「太かう記」など。越子は24、5歳ばかりの若い芸人でしたが、その越子が語る義太夫節に、多くの、鬚(ひげ)を生やした男性が泣いている姿を一葉は目撃しています。一葉はその翌月にも母たきとともに「小住(こすみ)」という女義太夫を聴きに行っています。一葉は、竹本綾之助や小清も聴いたことがある。

 つまり女義太夫は、若い男だけが聴きに行ったものではなくて、女性も中年や老齢の男性も聴きに行ったものであるということがわかります。

 あの夏目漱石も、女義太夫の寄席に出掛けています。

 夏目漱石が女義太夫を聴いたのは、神田の「小川亭」。女義太夫は「鶴蝶」というもので、「女子にてもかゝる掘り出し物あるやと愚兄と共に大感心」したらしい。また明治39年(1906年)には、竹本組玉(くみぎょく)、竹本団洲、都々逸坊扇歌(どといつぼうせんか)という女義太夫の家をつきとめるなどといったこともやっています。『三四郎』には、本郷の寄席に出ているという娘義太夫の昇之助が出てきます。

 竹久夢二は、日本橋にあった「伊勢本」や茅場町にあった「宮松」という寄席で、女義太夫の小土佐や土佐重を聴いています(大正3年〔1914年〕)。

 竹久夢二が初めて小土佐を見たのは、夢二が上京したばかりの明治36年(1903年)のこと。夢二は20歳で、小土佐は32歳。小土佐は髪を切り下げにして、眉をすっていました。
 
 「すがれゆく柳の葉が初秋の風に散つてゆくやうな、さびたはかない声調はどんなに私達のうら若い心を悲しませたろう。人生になんの経験もない、まだ少しも破れない若葉のやうな心をどんなにかなしくふるはせたろう。」

 と夢二は書く。

 孤蝶は言う。

 「本当をいうと、娘義太夫の全盛期というのが、寄席の堕落の第一歩であったのだ。それだのに、今日では、その娘義太夫でさえ、或人々に向っては、高尚すぎることになってしまった。従って娘義太夫にも下手が多くなっている。」

 娘義太夫が流行ったことが、寄席が堕落した第一歩であったと孤蝶は言うのですが、その当否はともかくとして、娘義太夫が若い学生ばかりか、女性や年輩の男性のファンをも幅広く持ち、語り手によっては、「涙が出るほど」に人々を(大衆ばかりか知識人をも)感動させるものでもあったことは、疑いがないようです。



○参考文献
・『馬場辰猪』萩原延壽(中央公論社)
・『明治の東京』馬場孤蝶(現代教養文庫/社会思想社)
・『知られざる芸能史 娘義太夫』水野悠子(中公新書/中央公論社)
ジャンル:
キーワード
中央公論社 社会思想社 現代教養文庫 都々逸坊扇歌
コメント (0) |  トラックバック (0) |  この記事についてブログを書く
Messenger この記事をはてなブックマークに追加 mixiチェック シェア
« 馬場孤蝶の『明治... | トップ | 井上安治の描く虎... »

コメント

コメントはありません。

コメントを投稿

 ※ 
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。
※文字化け等の原因になりますので、顔文字の利用はお控えください。
下記数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。この数字を読み取っていただくことで自動化されたプログラムによる投稿でないことを確認させていただいております。
数字4桁

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL

あわせて読む